リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 取り除かれた究極的な苦しみ(マタイによる福音書 27章45-49節)
    3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
    (マタイによる福音書27章46節)
    主イエスの十字架上での七つの言葉、四つ目に覚えたいのは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。
    主イエスは、十字架に至る苦しみの中で、それ程多くのことを語られません。むしろ、沈黙し、ご自身を殺そうとする人びとに抵抗せず、神の御心の実現のために歩んで来られました。そのような中にあって、この叫びには、十字架の苦しみが明確に表されています。主イエスの苦しみとは、父なる神に見捨てられることであり、それまで結ばれていた神との完全な交わりから切り離されることでした。
    私たちもまた、神に見捨てられたと叫びたくなることもあるでしょう。どうしてこのような苦しみに遭わなければならないのか、と。しかし、そこで示されるのは、究極的な苦しみをすでに引き受けてくださった主イエスの十字架です。神に見捨てられるという苦しみは、十字架によって取り除かれているのです。それゆえ、どのような困難も、私たちを神から引き離すことはありません。苦しみの中にあって、それでもなお、神を見つめることができるのです。
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  • 十字架が結び合わせる神の家族(ヨハネによる福音書 19章26-27節)
    イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」
    (ヨハネによる福音書19章26節~27節)
    主イエスの十字架上での七つの言葉、三つ目に覚えたいのは、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、そして、「見なさい。あなたの母です」との言葉です。
    十字架のそばには、主イエスの母マリアと弟子が立っていました。十字架上から語られた言葉によって、この弟子はマリアを自分の家に引き取りました。ここに新しい家族関係を結ばれたのです。主イエスはかつて、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と教えておられました(ルカ8章21節)。
    十字架の主イエスを「わたしの救い主」と信じて仰ぎ見るとき、そこから私たちは新しい交わりに結びつけられ、新しい家族とされます。そのように結び合わされる交わりが教会です。主イエスの十字架がなければ決して出会うことはなかったかもしれません。けれども主イエスの十字架のゆえに、今では神の家族、兄弟姉妹です。
    主イエスの十字架によって結び合わされる新しい神の家族の交わりは、これまでもそうであったように、これからも豊かに広げられていくのです。
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  • 確かな救いの宣言(ルカによる福音書 23章39-43節)
    するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
    (ルカによる福音書23章43節)
    主イエスの十字架上での七つの言葉、二つ目に覚えたいのは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた言葉です。これは、一緒に十字架にかけられながら、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と言った、犯罪人の一人に対しての言葉です。
    この犯罪人は、隣で十字架につけられながら、「父よ、彼らをお赦しください」という主イエスの祈りを聞いていたのでしょう。彼は罪の赦しを与えられる主イエスの十字架の真の姿を見たのです。けれども、自分のやったことの当然の報いとして十字架刑を受けているのであって、「赦してください」などとは言えない。彼にとっては「思い出してください」と言うのが精一杯の信仰告白だったのではないでしょうか。この人は、人生の最後に、しかも着実に死が迫りくるという極限状態の中で、自らの一切を主イエスに委ねたのでした。
    私たちもまた、主イエスにすべてを委ねる精一杯の信仰告白をするとき、直ちに確かな救いの宣言を受け取ることができるのです。
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  • 思い至らない罪さえも赦す(ルカによる福音書 23章32-38節)
    そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
    (ルカによる福音書23章34節)
    主イエス・キリストは、十字架の上で七つの言葉を語られました。受難週を過ごす中で、その一つ一つを厳粛に受け止め、その意味を思い巡らせてまいりましょう。
    最初に覚えたいのは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、十字架につけられた、まさに「そのとき」発せられた言葉です。それは、父なる神に向けられた祈りでした。
    主イエスを十字架につけた者、それは手や足を釘で打ちつけたローマ兵をはじめ、裁判で死刑判決を下したユダヤ人議員とピラト、そして、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆たちでした。彼らは、命令に従順に従い、自らの立場を守ろうとし、周囲に同調しただけにすぎないと主張するかもしれません。まさか、神の御子を苦しめる罪を犯しているとは思い至らなかったでしょう。本当の意味で、「自分が何をしているのか」分かっていなかったのです。
    自らの罪の深刻さに思い至らない私たち人間のために、主イエスは十字架にかかられました。主イエスの十字架の姿に、罪を赦す神の大いなる愛があります。
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  • 苦しみを共にする交わり(フィリピの信徒への手紙 4章10-23節)
    それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
    フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
    (フィリピの信徒への手紙4章14節~15節)
    パウロの伝道者としての生涯は、苦しみの連続でした。むち打たれ、投獄され、難船し、飢え渇きを覚え、経験してきた苦労は数えきれないほどでした(2コリ11章)。パウロはフィリピにおける伝道の時にも投獄され、この手紙を記しているときも牢獄の中にいました。数々の苦難を通ってきたパウロにとって、フィリピの教会が、自分と苦しみを共にしてくれたことが大きな慰めとなっていたのです。
    具体的には、献げものを通して、共に伝道の働きに携わってくれたことを「苦しみを共にしてくれた」と言っています。
    パウロは、どの教会にも経済的負担をかけないように働いた人でした。自ら献金を募るようなことはなかったでしょう。それでも、フィリピの教会だけが自発的に献げものをして、支えてくれたのです。パウロにとって、その贈り物は単なる経済的な支援ではありませんでした。それ以上に大きな助け、慰めとなったのです。
    苦しみを共にする交わりは、喜びや慰めをも共有します。兄弟姉妹たちが共に苦しみ、共に喜ぶところに、真の教会が建つのです。
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  • いつも喜びなさい(フィリピの信徒への手紙 4章1-9節)
    主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。…どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
    (フィリピの信徒への手紙4章4節、6節)
    フィリピの教会にはさまざまな問題がありました。パウロが伝えたのとは異なる信仰を教える人びとがいたり、兄弟姉妹の不一致があったり。パウロはできるなら、もう一度フィリピの教会に足を運び、群れに仕えたいと願っていたことでしょう。しかし、パウロ自身が、明日にでも死刑判決が下るかもしれないという状況にいたのです。
    だからこそ、パウロはフィリピの教会に「喜んでいなさい」と繰り返し教えました。問題を解決するための具体策ではなく、「あなたがたは主にあって喜びなさい」と教えたのです。
    私たちも、教会や家庭や個人で、深刻に悩んでしまうさまざまな問題を抱えているのではないでしょうか。希望を抱くのが難しい現実があるのではないでしょうか。「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(詩30編6節)。明けない夜はないというのが神の約束です。
    パウロは、主にあって希望をなくさないようにと、牢獄の中から励ましているのです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。
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  • キリストに捕らえられて(フィリピの信徒への手紙 3章12-21節)
    わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
    (フィリピの信徒への手紙3章12節)
    パウロは信仰生活を「目標を目指してひたすら走る」レースに喩えています。オリンピック競技の中で最も過酷なものの一つがマラソンです。長距離走を走ったことのある方はわかると思います。わたしも学生時代の持久走大会を思い出すと、脇腹が痛くなったり、足が痛くなったり、途中でレースをやめたいと思うことは何度もありました。
    なぜレースに喩えて教えるのか。それは、信仰生活には戦いが伴うということではないでしょうか。苦しい時があり、立ち止まりたくなる時もあるものです。
    マラソンは孤独なレースかもしれませんが、信仰のレースはそうではありません。私たちは「キリスト・イエスに捕らえられているからです」。パウロは、自分が迫害していたキリストが、実は逆に自分を捕らえていてくださったことに気づいたのです。牢獄の中にいる今も、キリストがしっかりと自分を捕らえ、引っ張ってくださる。その確かな守りの中で、パウロは最後まで走り抜こうとしています。
    きょうの道のりを進みましょう。わたしが捕らえようとするより先にキリストが私を捕らえていてくださいます。
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  • 父に愛されたくて(フィリピの信徒への手紙 3章1-11節)
    わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
    (フィリピの信徒への手紙3章9節)
    ヘミングウェイの短編に、スペインに暮らす父と子の物語があります。父との関係が悪くなり、息子パコ(スペインではありふれた名前)は家を出て行ってしまいます。息子を探し続ける父親は、新聞の尋ね人の欄に広告を掲載しました。「パコへ。明日の正午、ホテル・モンタナで会おう。過去のことは全て赦した。父より」。すると、翌日の正午、何と国中から8百人の「パコ」が父の赦しを求めてホテルにやって来たのです。
    これは物語ですが、多くの子どもたちが、父から「愛される子」として受け入れられたいと願っているのではないでしょうか。
    パウロは、割礼や学歴・熱心な信仰のゆえに、神に「愛される子」として認められたいと努力を続けました。しかし、今では、キリストのゆえにそれらを塵あくたと見なすようになったと証します。
    私たちの出来不出来によって、神の愛が変わることなどありません。神は御子キリストをお与えになったほどに私を愛しておられ、「あなたを赦した。待っているよ」と、その御手を差し伸べておられます。その恵みを、信仰によって受け取りましょう。
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  • 神に近づくことのできる幸い(エゼキエル書 41-42章)
    更に、拝殿の奥の面まで奥行きを測ると20アンマ、その横幅も20アンマであった。そして彼はわたしに、「ここが至聖所である」と言った。
    (エゼキエル書41章4節)
    新しい神殿の幻の続きです。案内の天使は、エゼキエルを拝殿に連れて行き、正面の奧のある部分を測り、「ここが至聖所である」と言いました。その至聖所は、以前の神殿の至聖所とはかなり様子が違っています。以前の神殿では、至聖所と聖所が垂れ幕によってはっきりと分けられ、一年に一度、贖罪の日に、いけにえの血を携えた大祭司しかそこに入ることができませんでした。しかし、この新しい神殿の至聖所には、その垂れ幕の描写が一切ありません。エゼキエルが、この垂れ幕なしの至聖所を見たときの感動は、どれほどのものだったでしょう。
    キリストが十字架で苦しまれ、息を引き取られた時に、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました(マタイ27章51節)。これは、キリストの十字架の贖いによって、神と人の隔ての壁が完全に取り除かれ、恐れることなく神に近づく道が切り開かれたことを示しています。
    私たちは、既にこの恵みに与っています。これは決して当たり前のことではありません。この素晴らしい恵みを覚えつつ、喜びと感謝をもって、大胆に神に近づきましょう。
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  • 新しい神殿の幻(エゼキエル書 40章)
    その人はわたしに向かって言った。「人の子よ、自分の目で見、自分の耳で聞き、わたしがこれから示す、すべてのことを心に留めなさい。あなたがここに連れて来られたのは、それを示すためです。あなたが見ることを、すべてイスラエルの家に告げなさい。」
    (エゼキエル書40章4節)
    エゼキエルは補囚となって25年目に、ある幻を見ました。それは、将来再建されるであろう新しい神殿の幻でした。ここに描写される神殿の構造や祭司の仕え方があまりにも詳し過ぎるために、現代人の私たちにとっては少々退屈に感じられるかもしれません。しかし、もともと祭司であったエゼキエルにとっては、どんなに詳しく述べても詳し過ぎることがないほどに関心ある事柄だったのでしょう。
    ただし、この神殿は、後に再建された神殿に比べると、それをはるかに超えた造りになっています。おそらくこの神殿は、やがてキリストによって建てられるキリストの体なる教会を預言的かつ象徴的に指し示した幻だったのでしょう。
    私たちは、今その群れに属し、その恵みを味わっています。主なる神が、「自分の目で見、自分の耳で聞き、わたしがこれから示す、すべてのことを心に留めなさい」とエゼキエルに語りかけ、それをエゼキエルが感動をもって受けとめ、詳しく述べたように、私たちもその恵みを一つも漏らすことなく、しっかりと心に留めたいと思います。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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