リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 主の恵みの御業にある幸い(ヨハネによる福音書 9章1-41節)
    イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
    (ヨハネによる福音書9章39節)
    主イエスの御目はいつも、試練にある人、苦しみ・悲しみにある人、この世の弱者に注がれています。本日は、主イエスが生まれつきの盲人に出会われ、癒されたお話です。
    ここには盲人が癒されるという主の御業が記される一方で、ファリサイ派と呼ばれる人びとが、癒された盲人に近づき、遂には追及の果てに外に追い出す(34節)という、人間の罪の深さと愚かさとが記されています。私たちは、この個所から人間の罪深さ、すなわち自分の罪深さと、主の御業の偉大さを見つめます。だからこそ感謝し覚えたいのです。私たちも、最初、信仰的盲目の状態にありました。しかし、主イエスに出会って、目が開かれました。そして主イエスに出会うことで、きょうの主人公のように御前にひざまずき「信じます」との告白に導かれたのです(38節)。
    これまで盲目で見えていなかった罪と闇の世界から解放されて、今、私たちは主の恵みの御業がはっきりと見える幸いへと招かれています。「神の業がこの人に現れるためである」(3節)と言われた主イエスの御言葉の意味を、深く心に留めたいと思います。
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  • 神に力不足はない(エゼキエル書 39章)
    国々は、イスラエルの家がわたしに不信の行為を行ったために捕囚となったこと、また、わたしが顔を隠し、彼らを敵の手に渡したため、彼らは皆、剣に倒れたことを知るようになる。
    (エゼキエル書39章23節)
    世の終わりのゴグについての預言の続きです。38章後半にゴグの敗北は既に語られていますが、この39章ではゴグの完全なる敗北が語られています。そして、その後にこの戦いの後始末の様子が描かれています。
    ゴグの軍勢の武器を集めて燃やすのに7年もかかり、死んだ兵士たちを埋めるのに7ヶ月もかかる、と言われています。これは、ゴグの軍勢がどれほど強力であったかを示しています。しかし、そのような強力な軍勢であっても、全能の神の前では、なす術もなく、あえなく敗北せざるを得ないのです。バビロンの補囚の民は、この神の偉大な力を知る必要がありました。それは、彼らが滅ぼされ、補囚の身になったのが、神の力不足によるのではなく、彼らの不信仰の罪であったことを自覚させられ、真の悔い改めへと導かれるためでした。
    私たちも祈りがかなえられないときに、その実現が神にも困難であるかのような錯覚に陥ることがあります。しかし、祈りがかなえられないのは、決して神の力不足によるのではなく、私たちの側によくない動機や高ぶりがあるのかもしれません。
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  • 神がすべてを支配しておられる(エゼキエル書 38章)
    お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。わたしはお前を、わたしの地に連れて来る。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためである。
    (エゼキエル書38章16節)
    38章と39章は世の終わりについての預言です。ここに登場するゴグは、世の終わりに諸国民の連合軍を率いてイスラエルを侵略し、大きな苦難を与える指導者的存在として描かれています。
    やがてイスラエルの人びとは補囚から解放され、祖国で平和に暮らすようになります。しかし、イスラエルを侵略しようとする諸国の脅威にさらされている限り、本当の意味で平和を回復したとは言えません。そこで主なる神は、世の終わりに、イスラエルに敵対するあらゆる諸国民をゴグのもとに召集し、戦いを挑ませます。その上で、その連合軍を一挙に粉砕し、イスラエルに真の平和を与えようとしておられるのです。
    主なる神は、この預言を通して、ご自分には誰も対抗し得ないことを示されます。そして今、補囚の中で苦しんでいる人びとを励まそうとしておられます。
    私たちも、しばしば危機的な状況に陥り、どこにも希望が見出せないことがあります。しかし、そういう中にあっても、究極的には神がすべてのことを支配しておられることを信じ、平安に過ごしたいと思います。
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  • 枯れた骨の復活(エゼキエル書 37章)
    「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
    わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。
    (エゼキエル書37章9節~10節)
    エゼキエルはとても不思議な幻を見ました。谷間に干からびた無数の骨が散乱していたのです。しかし、エゼキエルが預言すると、カタカタと音を立てて骨と骨がくっつき、骨の上に筋と肉が付き、皮膚がその上を覆って人の体になりました。更に預言すると、霊がその体の中に入り、生き返って、彼らは非常に大きな集団になったのです。
    この幻は、バビロン捕囚の苦しみの中で、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と嘆いているイスラエルの民に対して、主なる神から与えられる救いの恵みを描いています。主なる神が彼らを捕囚の苦しみから解放し、イスラエルの地に連れ帰ってくださる救いの約束が示されているのです。
    しかし、この幻は、同時に主なる神が私たちに与えてくださる救いの恵みをも描いています。骨を枯らすような魂の憂いと絶望の中にある私たちの現実の中に、神の恵みの御言葉が響く時に、聖霊が風のように吹き来たり、私たちを生かしてくださいます。私たちは教会の礼拝の中で、この枯れた骨の復活という神の恵みを何度も経験しているのではないでしょうか。
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  • 新しい心が与えられる(エゼキエル書 36章)
    わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
    (エゼキエル書36章26節)
    この章には、やがてイスラエルの地に補囚の民が帰還し、廃墟は立て直され、以前よりも更に栄えるという嬉しい約束の言葉が記されています。そして、以前のようにその行いによって地を汚すことのないように、「お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」という預言の言葉が語られています。
    「石の心」とは、頑なな心の象徴です。また、石には血が通っていませんから、周りの環境にも影響されやすいのです。しかし、肉には血が通っていますから、周りが熱くても冷たくても、体温は変わることなく安定しています。主なる神は、やがてイスラエルの民に聖霊を送り、その石の心を造り替えて、血の通った肉の心を与えると約束してくださったのでした。
    今の私たちは、イエス・キリストの十字架の血潮によって、まさに肉の心と言うべき信仰を与えられています。聖霊が私たちの心に宿ることで、私たちの内側に流れているキリストの十字架の血潮が絶えず私たちの心を熱く燃やし、どういう状況の中にあっても信仰を堅く保ってくださるのです。私たちは、その恵みに支えられて歩みます。
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  • 神は聞いておられる(エゼキエル書 35章)
    お前たちはわたしに向かって大口をたたき、わたしに向かって多くの言葉を重ねた。わたしはそれを聞いた。
    (エゼキエル書35章13節)
    34章で主は、真の牧者として、ご自分の羊の群れであるイスラエルを探し出し、世話をすると約束されました。その流れの中で、きょうの35章では、セイル山に住んでいたエドム人に対する威嚇の言葉が語られています。「この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する」(10節)。彼らはイスラエルの南北二つの王国が滅んだことに乗じて、その土地をまんまと自分たちのものにしようと画策したのでした。イスラエルの人びとは、それを知っても、補囚の身であるため、手も足も出ません。
    しかし、主なる神はこう言われます。「お前たちはわたしに向かって大口をたたき、わたしに向かって多くの言葉を重ねた。わたしはそれを聞いた」と。たとえイスラエルの人びとがエドム人の横暴に手も足も出なくても、主なる神はエドム人の言葉を全て聞いておられました。そして、彼らの横暴を決して許されませんでした。
    この主なる神が私たちの羊飼いであるなら、たとえ私たちには手も足も出なくても、地団駄踏む必要はありません。
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  • 神ご自身が世話をする(エゼキエル書 34章)
    まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。…わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。
    (エゼキエル書34章11節、16節)
    「イスラエルの牧者」として立てられた国の指導者たちが、羊である民を顧みず、私利私欲に走ってしまったために、国は滅ぼされ、人びとは補囚となり、散り散りバラバラになってしまいました。
    そこで大牧者である主なる神は言われます。「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と。人びとが散り散りバラバラになっているのに誰も探し出そうとしないために、主なる神ご自身が人びとを探し出し、世話をする、と言われるのです。
    また、主なる神はこうも言われます。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」。
    これは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」主イエスのお姿そのものです(マタイ9章36節)。主イエスが私たちの牧者であるなら、たとえどのような困難が待ち受けていようとも大丈夫です。主が必ず私たちを探し出し、世話をしてくださいます。
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  • 主イエスへの真実の告白(祈り)(ヨハネによる福音書 4章5-26節)
    イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。…あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
    (ヨハネによる福音書4章16節~18節)
    主イエスとサマリアの女の話を、このレントの時期に読んでみますと、また違った味わいが与えられます。イエス・キリスト(=御言葉)以外に魂の潤い、癒しがないことを教えられると共に、この方に出会うことによって、初めは殻に閉じこもっていた者が、次第に心開かれ、遂には礼拝者へと変えられていく姿、そのプロセスを強く見させられるからです。そして、イエス・キリストによらなければ、毎週の私たちの礼拝は成立しないことについてもこの箇所から教えられます。
    サマリアの女の告白を主イエスは導かれました。女性の「ありのまま」の告白を聞かれ、そのうえで、主イエスの御前に、神の御前に礼拝する者へと導かれたのです。
    この季節に、私たちは改めて、私たち自身の主イエスに対する告白へと思いを向けたく願います。日々の歩みのなかで、真実な主との関係が得られているでしょうか。御言葉に対して真実からの告白(祈り)をすること、それは魂にとって不可欠な日々の礼拝行為です。そのような告白(祈り)へと、聖霊が導いてくださいます。私たちの心を開いていただきましょう。
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  • 信仰こそ要(ルツ記 4章)
    近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。…オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。
    (ルツ記4章17節、22節)
    信仰によってユダヤの地へ来たルツは、神から祝福を受けました。未亡人であったルツは、ボアズと結婚し、子を与えられます。その子の名はオベド(従う人)。神に従う信仰を持って、祝福の中を歩んでほしいという祈りがこの名に込められています。
    ルツ記は、このオベドからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれたことを記して、閉じられます。これは、イスラエル王国最大の王とされるダビデ王の系図に、モアブ出身のルツが入っていることを明記するものです。
    この系図には、大切なメッセージがあります。ユダヤにはダビデ王朝やダビデ王個人を神聖化する風潮がありました。確かに旧約聖書は、ダビデとその王朝が神に選ばれ、用いられたことを伝えています。しかし、あくまでそれはダビデの信仰のゆえであって、その家柄や血筋によるものではありません。
    ルツ記は、ダビデ家の血筋にイスラエルが忌み嫌っていたモアブ人の血が入っている事実を隠すことなく伝えます。血筋や家柄ではなく、ただ神への真の信仰を与えられたものに、神は祝福を与えてくださることを教えるのです。
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  • 冷静と情熱の間で(ルツ記 3章)
    主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。
    (ルツ記3章13節)
    ルツは落ち穂拾いに出かけたところ、ボアズと出会いました。ボアズはナオミの親戚であり、ナオミの土地を買うことができる人でした。また、ルツと再婚することのできる人でした。そこで、ナオミはルツにプロポーズをするよう大胆な助言をします。ルツは戸惑いつつも、言われた通りに実行しました。
    そのプロポーズをボアズは保留しました。なぜなら、当時の法からすれば、自分よりも近い親戚に土地を購入する優先権があったからです。しかし、もしその人たちが権利を放棄するなら、自分が責任を果たすと約束しました。
    ボアズは、冷静に現実を見据えます。また、御心を尋ね求めつつ、「主は生きておられる」と語ります。主はあなたを、あなたに最善の道を御心にかなって開いてくださる、というメッセージです。
    ルツはナオミのもとへ帰り、そこでこういう言葉を聞きます。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。」
    御心に生きるとは、我を忘れて突き進むことからではなく、主を信頼し冷静に待つことから始まります。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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