皆さんは、台湾の高校でどこか知っている学校はありますか?
大学だったらいくつか知っているけど、高校となると、知り合いが通っていたとか、交流があったとかがなければなかなか知りませんよね。
そんな中、台湾好きの日本人の間でも結構有名な学校が、台湾北部・新北市淡水にある「淡江中學(淡江高校)」。
ここは、“アジアのカリスマ”と呼ばれる台湾のミュージシャン、周杰倫(ジェイ・チョウ)の母校として有名で、しかも彼自身が監督を務めた映画「不能說的秘密(邦題:言えない秘密)」のロケが行われたことから、広く知られていますが、その「淡江中學」の校長を長く務めた陳泗治さんは、台湾の音楽界の偉大なパイオニアでした。
今年(2022年)は、その陳泗治さんの没後30周年。
そこで今年、台湾音楽界の大先輩をより多くの人に改めて知ってもらおうと、國立傳統藝術中心(国立伝統芸術センター)と、衛武營國家藝術文化中心(衛武營国家芸術文化センター)が、台北と高雄で記念イベントを企画。
台北でのイベントは8月17日に台北國家音樂廳(ナショナルコンサートホール)で行われ、今度10月1日に台湾南部・高雄の衛武營國家藝術文化中心でも行われます。
そこで今週は、その台湾音楽界の偉大なパイオニア、陳泗治さんをご紹介しましょう。
1911年4月14日、日本統治時代の臺北廳士林區(現在の台北市士林区)に生まれた陳泗治さん。
父親は、清朝時代の官僚だったことから、小さい頃から教育熱心な家庭で育ちました。
1923年、縁あって、台灣基督長老教会(台湾キリスト長老教会)が設立した淡水中學校(淡水高校/現在の淡江中學)で学ぶこととなり、在学期間、カナダ人宣教師・吳威廉・牧師の娘であるウィリアム・ゴールドさんからピアノの指導を受けることとなりました。
学校には限られた台数のピアノしかなかったため、陳泗治さんはより多くの練習時間を確保するため、毎日深夜の人が寝静まった時間にこっそりとピアノ室に行き、他の人の迷惑にならないよう、光が漏れないように窓を塞いで練習していたそうです。
陳泗治さんがそれほどにまで西洋音楽にのめりこんでいったのには、ウィリアム・ゴールドさんの厳しくもとても熱心で、音楽に対する情熱にあふれた指導にありました。
こうして音楽の世界に足を踏み入れた陳泗治さんは、淡水中學校を卒業後、臺北神學校(現在の臺灣神學院)で学ぶとともに、そこで幸運にもウィリアム・ゴールドさんと同じく、カナダ出身のピアニスト、イザベル・テイラーさんと出会い、音楽の旅をつづけることになります。
イザベル・テイラーさんとは2つしか年が違わないものの、彼女は優れたピアニストで、陳泗治さんは、音楽理論やピアノの基礎を学びました。
この少年時代、10年に渡り教会でピアノを習ったことでキリスト教と西洋音楽に親しむようになった陳泗治さんは、宣教と音楽をライフワークとすることを決意し、日本の東京神学大学へ。そこで引き続き神学と音楽の専門的な教育を受けました。
そして日本に留学中、陳泗治さんは音楽家仲間と出会い、1934年に「鄉土訪問音樂團(郷土訪問音楽団)」を結成。夏休みの時間を利用して、故郷巡回コンサートを行い、このコンサートによって、台湾の音楽家の水準の高さを示すのと同時に、音楽を通じて民族意識を定着させ、台湾における西洋音楽の普及を促していきました。
そして1936年、卒業作品として、自身初の作品となるカンタータ、「上帝的羔羊(神の子羊)」を完成させました。
この曲は、聖書の洗礼者ヨハネの物語からインスピレーションを得た、台湾初の独唱兼合唱曲の聖楽でした。
1937年に台湾に戻った後は、台北の士林教会で伝道や歌唱指導、ピアノの指導などを行っていた陳泗治さん。
1947年、「二二八事件」の影響で淡水に移り住み、台湾初となる女子高校の音楽科、「純德女中音樂科(純德女子高校音楽科)」を設立。
1952年にこの学校の校長となり、1955年にこの「純德女中音樂科」と、自身の母校である淡水中學校が合併して「淡江中學」となった後もこの学校の校長を務め、1981年にリタイヤするまで、25年以上に渡って校長を務めました。
「淡江中學」の校長を務めていた期間、陳泗治さんはマッケイ牧師の教育理念と宗教精神を受け継ぎ、多くの時間と精神、資金を必要としている学生に与えました。例えば、陳泗治さんは、才能を愛し、評価することで知られていて、学生の家庭環境を密かに調査し、原住民族出身や、片親家庭の生徒には補助金を出し、ピアノのレッスンや授業料を無償にしたりもしていたそうです。
また陳泗治さんは、常に学生たちに「どう行動すべきかを知ることによって、良い行動をすることができる」と説いていて、学生たちに大きな影響を与えました。このようにして音楽をもって、多くの優れた才能、音楽家、芸術家を教育し、人間教育の文化を育てていきました。
そして陳泗治さんの生み出す音楽は、台湾という土地への愛着とキリスト教への強い信仰の2つのテーマで作られていて、当時、台湾の西洋音楽はすでに再生期に入っていて、日本統治時代末期には第二次世界大戦の影響から、宣教師が台湾から追放され、教会音楽の発展は足踏み状態となっていました。そんな困難な時代に、陳泗治さんは西洋音楽の発展を継続する責任を負っていて、その20あまりの作品たちは、台湾における西洋音楽史のパイオニアとなりました。
1981年にリタイヤ後はアメリカに移住した陳泗治さん。
1992年9月23日にカリフォルニア州オレンジ郡で亡くなりました。
彼の指導を受けたり、彼から影響を受けた数多くの音楽家たちが、今、台湾の音楽界で活躍しています。