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作業場で手が止まって、ただぐるぐる歩き回る
でも初動さえあれば、全部が秒で進む
素材をバラして、切って、触っていく中で見えてきた 頭で考えると身体を動かす役割の話
制作14年目でやっと掴みかけている、 「考えること」と「動くこと」について
初試み
作業場開放あらためオープンアトリエが終了しました。 たくさんの人に来ていただいた中で、
「作品とは何か」「完成とは何か」
改めて考える時間にもなりました。
作りかけのモノや、実験途中のモノ、ずっとそこにあったモノ それらが繋がって、ひとつの空間になっていく感覚 もしかすると作業場そのものが作品だったのかもしれない
色んな要素が混ざり合い溶け込み馴染み合う
まるでカレーのような🍛
また、アーティストとして13年続けてきた中で感じたこと 人との関わり、孤独とつながり
いまだに何もうまく言い切れないままですが
確かにそこある。そんな感じ!について
最近、「言い切らない」という感覚について考えています。 信じているわけじゃないけど、なぜか手放せないもの。 好きとも少し違うけど、確かに作用している感覚。
インザメガチャーチを読んだことをきっかけに、 「人それぞれ」という言葉のやさしさと同時に、 どこかにある孤独のようなものにも触れました。
人はつい、言葉で説明しきろうとするけれど、 その瞬間にこぼれてしまうものもある気がしています。
余白やスキの中にあるもの、 そして「可変するヨリドコロ」とのつながりについて、 まだうまく言葉にできないまま、話してみました。
一つの絶対的な拠り所と、無数に存在する拠り所。
最近、長崎とか隠れキリシタンがキーワードで
それこそスペインでは教会もたくさん
サグラダファミリアも見てきたし
長崎の隠れキリシタンの教会、
世界遺産登録にもなった話を聞いて
そのキリシタンたちが守り続けた一つの信念
「ワレラノムネ アナタノムネ ト オナジ」
この言葉だけを信じ抜いた壮絶な200年
そこで思ったのがキリスト教など
一つの絶対的な存在を信じる一神教と、
日本的な仏教や文化の考え方は八百万の神。
自然そのものがもはや神でもあるし
何者でも誰かにとっての神的な存在になれる
なんなら神に囲まれまくってるじゃんっていう無限数な感じ
作ったり求めているモノ
今、いろんなキーワードを集結させて
一言で言うと「ヨリドコロ」
これって一神教と、日本的な八百万の
ハイブリットなのではと
どちらにも触れてきた中で見えてきた現時点
そのどちらでもない「可変するヨリドコロ」という考え方
扉、祠、お守り(サカナ)という自分の作品の構造を通して、 信じる対象ではなく、信じる状態について考えている
作用から在り方や生きるという事象について今、思うこと
ネイルに描いたサカナをきっかけに、 なぜか流れが良くなったと感じる最近。
取材や仕事が決まったり、思わぬラッキーが重なったりして、 「これ、もしかしてサカナのおかげ?」なんて思い始めた話
もちろん、冷静に考えれば偶然やタイミング、自分の行動の結果かもしれない。 でもその“思い込み”が、実際に行動や選択を変えているとしたら?
そこから話は「お守り」という存在へ。 タイで制作したお守りの話や、そこに宿る関係性や記憶。 さらに、勝負服や縁担ぎなど、私たちの身近にある“お守り的なもの”へと広がっていきます。
本当かどうかは分からない。 でも確実に、自分には作用している。
サカナは運をくれるものではなく、 自分に作用させる装置なのかもしれない。
思い込みかもしれないし、勘違いかもしれない。 それでも、流れが良くなるならそれでいい。
軽い話のようでいて、 「消費」と「作用」を考えるきっかけにもなる回です。
分類わけじゃなくて、「どこから立ち上がるか」の話。
作品を整理する中で、ずっと引っかかっていた違和感。 これは作品なのか、仕事なのか。 依頼か、自主制作か。
分けようとするほど、どこにも当てはまらないものが増えていく。
そんな中で見えてきたのは、 分類ではなく「起点」という考え方でした。
自分の内側から始まるのか、 場所や素材、環境から立ち上がるのか、 それとも日常に置かれる前提なのか。
同じ出来事でも、見せ方によって変わっていくもの。
そして後半では、 気づいたことをすぐにポッドキャストで話してしまうことや、 不特定多数に向けて言葉を置くことについても。
もはや我ながら滑稽だ!とさえ思えてしまう
これは誰のためなのか、 そもそも“話す”ってどういう行為なのか。
今の自分の思考の途中を、そのまま記録しています。
改めて「好奇心とハッとする瞬間」ってすごく大事だなと思う。 何かを頑張って掴みにいくというより、日々の中でふと感じる違和感や引っかかり、心が動く瞬間。 今回はそんな軽やかなテーマで、最近の出来事を交えながらお話ししています。
消費や作用について考える中で、 「観測できる場所にいる自分の役割」について考えるようになりました。
世界との距離、自分の立ち位置、 そしてこれから行くかもしれない
未踏の地か既知の地かで
何を見て、何を受け取るのか。
当事者になるわけではない立場で、 それでもどう関わり、何を表現するのかについて話しています。
オープンアトリエを始めてから感じていた違和感。 それは「誰かに消費されている」というよりも、 “消費という構造”そのものに対する違和感だったのかもしれません。
制作の中で起きた変化とあわせて、 「消費されるもの」と「作用するもの」の違い、 そしてオープンアトリエが少しずつ “消費から脱却する場”になってきている感覚について話しています。
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