最近、ものの片付けや人生の片付けについてたくさんの書籍が出版されている。
タンスの中の衣類の整理や台所の収納からはじまって、財産の整理の仕方、自分の葬儀の段取りまで、片付けなければならないことは多岐にわたるようだ。
私も還暦を過ぎたころから少しずつ身のまわりを片付けはじめている。
私の父は大好きなお風呂のなかで心不全で急死した。(このことについては「田舎坊主の愛別離苦」にも詳しく書いた)
私も同じ心疾患を持っている。しかも35年間薬漬けのからだでもある。病気に限らずいつなんどき無常の風に連れて行かれるとも限らない。
そう考え、そろそろ片付けはじめなければと思ったのだ。
いまのところ私が片付けているのはまさに身のまわりのものだ。
2.やがて必要になるかも知れないと思われるものも捨てる。
私は役員として長く難病患者団体に関わっているが、なかでも全国レベルの役付の際は、毎月のように上京していた。しかし今はそれも退役しほとんどスーツを着る機会もなくなっている。さらにそのときから10㎏ほどダイエットしたこともあってほとんど身に合わなくなっているのだ。
もともと2着なんぼのスーツだ。そんなもの古着として着てもらえそうもないので思いきって捨てることにした。
捨ててみて考えてみると、坊主の衣装というのは便利なもので、葬式にはもちろん出席できるが、結婚式にもその衣装で出席することができる。
スーツを捨ててもそれほど困らないことに気がついた。
私はどちらかというと靴を大事に履く方だが、さらにその際に履いた靴もすべて捨てた。
もっと早く捨てておけばよかった、ということもあった。
その靴は私のお気に入りで、よく履いた。何度も東京へお伴してもらった。
すでに東京へはあまり行かなくなっていたが、地元で設立した難病患者会役員として県庁へ要望書を提出するため、他の役員を乗せ車で出張したときのことだ。
途中役員の一人を拾うためある駅前に車を止め降りようとしたとき、ブレーキペダルの下をふと見ると黒いボロボロとしたゴミがかなりの量落ちているのだ。手で拾ってみるとゴムのようなプラスチックのようなもので、はじめは何かまったく分からなかった。
確かめようと車を降りたそのとき、私のお気に入りの靴の底が完全に脱落し、一歩踏み出したときには靴底は移動せず地面についたままで、靴をかぶった私の足は裸足で直接アスファルトを踏みしめていた。
そのときの情けなかったこと、恥ずかしかったこと。目から火とはこのことか。
結局、私は県庁に行って役を果たすことができず、その日は他の役員に頼まざるを得なかったうえに、みんなでお茶することもできなかった。
帰宅してからその靴を捨てるとき、私は靴にあやまった。
「そこまでくたびれていたのか、申し訳なかった」と。
私は5歳の次女を胆道閉鎖症という難病で亡くしたあと、ある種の虚無感にとらわれた。
そんな折り、ある養護施設の先生から、ショートホームステイ事業のステイホームとして子どもを預かってほしいという話があったのだ。
わが家に来たA子ちゃんは中学校卒業後、その施設を出るという。その巣立ちの前に私の家にやってきた。
先生と2人でやってきて、玄関でピョコンと頭を下げて、
A子ちゃんは黒色の靴を玄関出口の方向に向きを変え、二つそろえて部屋に上がっていった。
「よくしつけられた子だな」と思ったが、そのそろえられた靴を見て、私はその靴のかかとの部分が踏まれていたのが気になった。
というのも私は靴を大事にする方だし、履き方にしても靴のかかとを踏むのは大変嫌いなのだ。靴はちゃんとかかとを立てて履くものなのだと思っているし、かかとを踏むならサンダルでいいではないかと思っている。
大げさに聞こえるかもしれないが、靴を作った人のことを考えたとき、それは大変失礼なことだと思うのだ。
しかも、かかとの部分は製造過程でも一番心を込めて丹念に作らなければならないとも聞いたことがあるからだ。
靴のかかとの部分を踏んで粗末に扱っては申し訳ないような気がするのだ。
しばらく私の子どもとして家にいるあいだに「これだけは言っておかなければ」と、私は彼女の踏まれた靴のかかとを静かにめくりあげて・・・・。
なんと、めくりあげた靴底はすり減り、ヒール部分を強化するための格子状のものだけをわずかに残して、見慣れた玄関のタイルが見えているのだ。
私は間を置かず、めくりあげたかかとを押し倒し、元の踏まれた状態に戻した。
「この子にはこの靴しかないのだ。はじめて行く家で、しかも他人の家に二週間ほど泊まるのに、履いてくる靴がこれしかないのだ。この子には身寄りがないかもしれないし、もちろん小遣いをくれる家族もいないのだ。」
「これだけは言っておかなければ」という思いはすでに消えていた。
この子はもう15歳、花も恥じらう立派な乙女なのだ。
「底に穴のあいた靴を見られたくない」という恥じらいもあったのだろう。
「こうすれば、もう少し長く履ける」という思いもあったかも知れない。
あとで彼女からいただいた手紙ではじめて知ったのだが、その靴は離ればなれになったお姉ちゃんからもらった「宝もの」だったそうだ。
それを大切に大切にしているすがたでもあったのに、坊主という立場で、老婆心ながら偉そうに説教しようとした己を心から恥じた。
しかも「宝もののだったのに、かかとを踏んでいてごめんね」
人生において、捨てるには「捨てどき」があり、大切にするにはそのものの向こうにいる人の心を大切にする深い愛情が必要なのだ。