昔、トヨタのカローラが国民車だった頃、カローラの派生車で、スプリンター・マリノっていう名前のクルマがありました。なんじゃそりゃって、いまでは思いますよね。藤井フミヤがCMに出てて、海へ、マリノ。というキャッチコピーで、これは、海へ出かけるクルマという、記号でした。
これが1992年の春ですから、バブルのかげりがまだはっきりとはしない、まさかこれからの日本が、30年間ひたすら衰退していくだなんて、予想もできない頃のクルマです。
私の人生は、物心がついた頃からずっと、新自由主義の空気に、首までどっぷりと浸かってきました。ありとあらゆる活動が、ネオリベラリズムというイデオロギーの影響を受けていました。1981年の『なんとなく、クリスタル』にもうすでに、ネオリベによって全てが記号へと還元されていく社会が、予告されていました。江藤淳は、
田中君は、東京の都市空間が崩壊し、単なる記号の集積と化したということを見て取り、その記号の一つ一つに丹念に注をつけるというかたちで、辛くもあの小説を社会化することに成功しているのではないか。(江藤淳、以上引用終わり)
ネオリベというイデオロギーによって、この社会はとことん記号化され、1980年代には東京の港区周辺の現象に過ぎなかった記号の集積はもはや、日本のど田舎の、イオンモールまで完全に、到達しました。京都へ行こうとも、函館へ行こうとも、どこへ行こうとも、都市空間はなべてイオンモールと区別がつかなくなり、記号しかない虚無と化してしまいました。
1984年のロサンゼルス・オリンピックは、いまでこそレジェンドのように捉えられていますが、1970年代の冷戦激化によって、すっかり政治化したオリンピックに、世界がドン引きして、立候補する都市が丸でなくなるなかで、サマランチとピーター・ユベロスが、いわば近代オリンピックを、ネオリベというイデオロギーから、発明し直したものです。そしてあそこを起点にして、都市が記号化され崩壊したように、オリンピックもまた、今回の東京オリパラで、記号化が完了され、崩壊しました。
都市もオリパラも、生身の人がすっかり消えて、そこには記号しか残っていません。無観客開催によって、オリパラとeスポーツがほとんど同じ地平のものになりました。記号化とはつまり、デジタル化です。海へ、マリノ。という記号化が1992年頃はまだ、人の心を動かす力を持っていましたが、いまではもうすっかり、人は記号をスルーするようになってしまいました。
YouTubeに強制的に挿入される、オリパラスポンサーによる5秒のメッセージに、もはや記号以外にはなにもなく、観客もいない、選手もいない、スタジアムにはただ記号だけが放置されている、ネオリベとしてのオリンピック・パラリンピックの最終到達地点が、いよいよ見えてきました。悲しいほど虚無です。良かったですね。