努力は報われるって、つまりはこの世界の必然を強く信じているのだろうなと思うのです。スポーツ選手って、私は気の毒だなと思うのは、公正世界仮説の権化だからです。ごくごく一部の勝者の裏に、負けた人々がしんどい日々を送っているんではないか。燃え尽きて、その先の人生が真っ白になってしまう人も少なくありません。
朱子学カルトもまた、必然という世界観の外へ、一歩も出ることのできない、必然の奴隷です。新入社員とは、そのカルト組織への参加が運命づけられていなければならない。だからこそ、新卒採用でないとだめなのです。中途採用や第2新卒は、その存在そのものが、朱子学カルト組織の必然性を否定するものです。
今日は丸っと一日風が強くて、ずっとおうちにいましたけど、家で松任谷由実のお歌をアマゾン・エコーで聴いていると、バブル時代の個人が、痛いほど強く確信していた、必然がいまとなってはすっからかんの、がらんどうというコペルニクス的転回です。全共闘世代とバブル世代は、己の運命の必然を盲信していたという意味では、完全に連続しており、人の人生は偶然でしかない、という彼らとは非連続の世界観は、この10年くらいで出てきたものではないかと思います。
荒川洋治は、小説は社会の言葉、それに対して詩歌は個人の言葉と言っていて、本当にそうだなと思います。この社会は必然であると信じることのできる時代は、小説が強い訳で、小説というジャンルがかなり弱っているいまは、社会の言葉が丸で機能していない時代です。東京オリンピックの聖火リレーで、コカ・コーラのコンボイに乗っているDJの放つ言葉は、おそらくは電通のコピーライターが書いている、まさに社会の言葉だろうと思うのですが、全然社会に届いていません。
しまむらがテレビ広告をゼロにしたみたいですけど、社会の言葉がマイナスの価値しか持たないテレビに広告を出すのは、マイナスにプラスをかけるだけのことで、やればやるほど必死感と、世ズレ感が悪目立ちします。社会の言葉が瀕死であるからと言って、ボリュームを上げても逆効果なのです。
個人の言葉は、ではどこにあるかと言えば、SNSなんぞではなく、完全に断線した人々の本心に追いやられています。SNSに湧き出しているのは、劣化した社会の言葉であって、小説家の本質的な競争相手は、SNSだろうと思います。自分のことを文字で書いて、表現することを最初に始めたのは、ジャン・ジャック・ルソーらしいですが、SNSは現代のルソーだろうなと思います。
特に、みんなに注目されてなんぼ、いいねやリツイート狙いのSNSは、文学の最新系であって、もはや伝統的な小説は、必然でもなんでもありません。己の生は必然でもなんでもない、偶然与えられた命は、偶然に奪われる、そういう寂しい世界観がこれから益々広がっていくのだろうなと、私は思っています。