よく見ると、もうだいぶ梅の花が芽吹いており、早いものは花が咲き始めています。時間は確実に、前に進んでいるのですね。一方で進んでいないのは政財官学マスメディア、停滞ではなく後ろへと流されているような、とんまな世相が続きます。
東京五輪がどうなるかについては、権力構造や商流の上のほうにいる国内の関係者が、ぽろぽろ外国メディアにだけ、言い始めていることが、まずは英語オンリーで出始めています。この国の本質的な課題やスクープは、日本語ではなく、英語からにじみ出てくるものです。
Androidだと、簡単にGoogle翻訳でだいたいの内容が読めちゃうので、もはや日本語という言語バリアはありませんね。スマホさえあれば、日本のウンコみたいなマスメディアのニュースなんて、まったく必要ないどころか、ミスリードされるだけ有害です。
日本の劣化著しいマスメディアに申し上げたいのは、母集団と標本の確かさに、目を向けて伝えてほしいことで、標本がおかしいと、いくら熱心に、数字を伝えても、丸で意味がありません。統計についての基礎的な知識もないまんま、行政の情報をそのまま垂れ流すことにもはやなんの価値もないこと、流石にお気づきとは思いますが、改めて申し上げざるを得ません。まあ産経新聞のように、世論調査データそのものを故意に捏造する会社もありますから、貧すればドン小西、何を言っても無駄ですが。
人間にとってのこの世界の見方、認識とは実は、リテラシーの問題ではないのだなあと、最近は改めて思います。メディアリテラシーが結構あっても、世界観の歪曲から逃れられません。1月6日に米国ワシントンDCの連邦議会に侵入して、撃ち殺されたあるトランプ支持者の女性について、彼女が撃たれるまでの歩みを、ソーシャルメディアなどオープンソースから追跡している記事を読むと、Qアノンなんかもまたリテラシーの問題ではないのだと、考えるようになりました。
連邦議会で撃ち殺された35歳の彼女は、アメリカ空軍に勤めており、夫からは愛国者、義理の兄弟からは、忠実で非常に情熱的であると言われていたとのこと、トランプの呼びかけた1月6日の集会には、住んでいる西海岸のサンディエゴから、わざわざワシントンDCへと向かいました。
彼女はかつてはオバマ支持者でしたが、たかだか2年前頃からQアノン支持に傾いていったことが、彼女のいまとなっては更新されることのないSNSからわかるようです。欧米では、オープンソースジャーナリズムという、ネットで誰でもアクセスできる情報を丹念に調べるアプローチが近年注目されており、私が読んだ記事も、そのオープンソースジャーナリズムの先駆けと言われる、べリングキャットの記事です。
オープンソースジャーナリズムは、彼女のソーシャルメディア履歴だけではなく、1月6日当日の襲撃に参加したトランプ支持者が、You TubeやTwitterに自ら上げた、射殺の場面も細かく検証していて、残された複数の映像をみると、暴徒によって議会のドアのガラスが割られて、まさにそこから彼女が中に入ろうとしているところを、撃たれてしまいました。
いま私たちが直面しているポストトゥルースとは、なんなのでしょうか。おそらくは、メディアやインターネット・リテラシーといった表面的な問題なのではない、もっと根深い、その人の価値観や、世代としてのこれまでの来し方、生き方、不満や恨み、あるいは哲学の問題だろうと思います。このコロナ禍をおしてまで、西海岸からワシントンDCに、わざわざ出かけようとする背景には、その人の魂そのものが影響しているはずです。
どんなにテクノロジーが進んでも、人間は数十万年前からほとんどなにも変わっていない、根っこのところは恐ろしい存在なのです。コロナ禍は、そのことを否応なしに浮き彫りにしているのです。百年前のスペイン風邪を越えるコロナ禍は、果たしてどれくらい世界を根底から変えてしまうのか、もはやオリンピックどころではありません。そんなことはみんなもう、わかっています。