神様もウイルスも目に見えないので、神をどう捉えるかも、コロナをどう捉えるかも、ある意味では宗教的なことであり、哲学的なこととなります。地球平面説も、丸い地球なんて目に見えないから生まれてくる説なわけで、実際にコロナで死んだ人を見たことのない人にしてみたら、コロナもまたフェイク、という立場にも、立つことができます。
広島に原爆が落ちたあと、次は帝都東京に落ちるのではと心配していた人たちは、白い服だと反射して安全らしいと聞いて、みんな白い服を着て街をウロウロしていたようです。あれ? マスクをしてないと気まずいいまと、ピカドンに怯えて白装束を着ていた敗戦間際の東京は、そんなに大きな差はないのかもしれません。
ただし、ピカドンに怯えていたのは1945年8月6日から15日まで、10日もありませんでしたけど、コロナ禍はかれこれ1年なので、そろそろ社会的にもへこたれつつあるような気もします。ドイツのメルケル首相は、変異型ウイルスを抑え込めるかどうか、少なくとも4月前半まで警戒は続くと言ってましたので、東京五輪はほぼ開催できませんね。
飲み屋で軽々に話してはいけないと言われるのが、政治の話、野球の話、宗教の話と言われてましたけど、コロナの話も実はできなくないですか? 昭和時代においては、野球の話も太平洋ベルト地帯の朱子学カルトという、一種の宗教ですので、コロナもプロ野球談義も、ご法度です。
私に言わせれば、日本人にとっては、アメリカそのものが宗教なので、居酒屋でアメリカの話もやばいです。敗戦後の文学とは、なべて米軍についての信仰告白に過ぎません。もしかすると、居酒屋で隣り合わせただけのごく普通の地方公務員のおじさんが、熱心なトランプ大統領崇拝者、いわゆるJトランプの可能性も排除できません。アメリカをディスることも、トランプを支持することも、相手がどう反応するかわかりませんので、話題にしないのが大人というものでしょう。
もちろん、朱子学カルトも宗教です。私は宗教そのものが嫌いなのです。日本人は世界でも指折りの、宗教的な民族です。飛行機や摩天楼の時代になっても、鎌倉時代末期の人々と、苦悩という意味では大差ありません。ペンス副大統領がダーウィンの進化論をまったく信じていないのと、同じことです。
20世紀とは、総力戦というヒエラルキーが可視化された時代でしたけど、21世紀は、ソーシャルネットワークとウイルス禍が可視化された時代となることでしょう。SNSもウイルスも、どちらもバイラルです。総力戦よりも、ソーシャルネットワークやコロナ禍は、ガラポンの手段として洗練されています。
トランプ大統領を神にするのも、悪魔のようなデマゴーグとしてたたき落とすことも、すべての人にパンツを履かせるように、お顔にマスクをつけさせることも、よく考えれば、武力にも、言論にもできないことでした。核兵器でさえ達成できないバイラルネットワークのパワーを、私はいままざまざと見せつけられています。
私としては、コロナについて真剣に誰かと話すのが超絶かったるいので、家にいます。支持政党や宗教観を誰かと語り合うのがかったるいのと同じことです。目の前にフラットアーサーがいたら、見てみぬふりをするでしょう。それと同じです。共和党支持者と民主党支持者のアメリカ人が、ストリートファイトしている映像を見せられて、ああはなりたくないな、Jプラウドボーイズのネトウヨ中高年の顔なんて見たくもないし、話しもしたくないです。
目に見えないものの価値について、一切話さなくても良い銭湯サウナに、ふらっと立ち寄れたあの頃は、もう戻ってこないのでしょうか。総力戦が不可逆的であったように、ソーシャルネットワークやウイルスネットワークも、不可逆的なのではないかと、半ばあきらめています。