人と向き合うことは、一見よいことのように見える。「自分と同じひとりの人間として認め、きちんと相手と向き合う」やっぱり、よいことのように見える。誰だって、ひとりの人間と認めず相手と向き合わない態度について「それいいね!」とはならないと思う。だからといって、自分と同じひとりの人間として認め、きちんと相手と向き合うことが「よいこと」と思うにはまだ早い。多くの人は「ひとりの人間として認める」とか「きちんと相手と向き合う」と言ったときに、自分の都合のよいイメージを頭に思い浮かべているのではないだろうか。イメージの中には、すごく美しい人間模様が描かれていて、それを踏まえて「よいこと」だと思っているのだ。しかし、実際はどうか。相手に向き合いまくった先が、ただの「過干渉」「過保護」というのもザラにある。ひとりの人間として必要以上に認め過ぎたり、相手と向き合い過ぎたりするとマイナスにも働く。子育てなんかで時々見かける過干渉や過保護な保護者を想像してもらえると分かりやすいだろうか。私はそれを、「よいこと」とはとても言えそうにない。認めるのも、向き合うのも「過」ではなく「ほどよく」という大前提が必要なのだ。では、ひとりの人間として何を認めるのがほどよいのか?
最低ラインとして「人権」は死守したい。でも、人権以上は?そこから先は自分で考えるしかない。人間関係にマニュアルはないのだ。
というか、日常的に無自覚に人権侵害を行なっている人もそこら中に溢れている。最低ラインさえクリアできていなかったりもする。
まず、人権とは何か?を四六時中考えるところから始めなければならない。
きちんと相手と向き合うというのは、何をもって「きちんと」、何をもって「相手と向き合うこと」なのか。
いろんな人がいろんなことを書きまくっているため、混乱が生じている。脳内のお花畑をそのままこの世の真理のごとく文字にしたためている人や、具体的な行動に落とし込んで「この状態が向き合っている状態ですよ」と示す人もいる。
前者がお花畑であることぐらいは誰にでも察しがつくが、後者の具体的な状態の提示は課題的であるがゆえにタチが悪い。
その「状態」にあてはまらないと、向き合っていないことになってしまうという強迫観念にも思いから、「状況」を無視して「状態」にばかりこだわると圧倒的なミスマッチが起こる。
あなたも一度は経験がないだろうか?好きな人から「重たい」と言ってフラれたこと、フったこと。
めちゃめちゃ真剣に、おそらくこの世界で一番あなたを認め、あなたと向き合おうとしているのに!
それぐらいの気持ちを持っていたのかもしれないが、このような「熱量」と相手と向き合っている「状態」がかけ合わされば「過剰」になるのは当然のことである。
私のまわりには、人と向き合い続けようとする心優しい人が多い。結果、よくお困りである。
蓋を開けてみると大した成果は得られていないように思う。
じっくり相手と向き合って、相手の何が変わったかというと、症状の進行がゆるやかになったことぐらい。言い方は悪いが、「延命」しているに過ぎない。奇跡的に症状が改善されたとして、それが「向き合った成果」なのかは不明である。
私は「人と向き合い過ぎるのもよくない」と言う。ここでいうそれは「状態にとらわれるな」という意味である。
たとえば、「私が彼の近くで毎日話を聞いてあげないといけない」というとき、相手と向き合う「状態」にとらわれている。
まず、あなたである必要があるのか?近くである必要があるのか?毎日である必要があるのか?会話である必要があるのか?そもそも、それは問題なのか?
彼は今どういう状況なのか。あなたは今どういう状況なのか。彼の身近な人たちはどういう状況なのか。社会は今、世界は今、どういう状況なのか。
それらを踏まえて、初めて「適切な状態」について仮説を立てることができる。
「私が彼の近くで毎日話を聞いてあげる」というアプローチで合っているのかは、状況をよく考えなければ見えない。言っちゃ悪いが、ほとんど間違っていると思う。
はじめから「状態」ありき、というのは本当に相手と向き合っていると言えるのか。「状況」を真剣に考えること、それこそが人と向き合う最初のステップなのではないか。/サイコパスのラジオは、サイコパスがサイコパスの視点から語るラジオです。斜め上の視点に触れたり、サイコパスについての理解を深めるきっかけとなることを目的としています。/番組の感想や質問は、ハッシュタグ「#サイコパスのラジオ」をつけて、ぜひTwitterでつぶやいていただけると嬉しいです!今後の番組の参考にさせていただきます。/パーソナリティ:うえみずゆうき https://note.com/y_uemizu/