
Sign up to save your podcasts
Or


「世界に一つだけの花」。SMAPファンならずとも、誰もが知っている大ヒット曲。「ナンバーワンではなくオンリーワン」という歌詞は、喪失しかけていた自信を多くの人にもたらしたといいます。
しかし、本当にそうでしょうか?
SNSの世界で多くの人が「いいね」という他者からの承認を求めているように、相変わらず私たちは人からの評価を自己評価に投影しているのではないでしょうか。
聖書は、神様を知らなければ本当の意味で「あるがままの自分」を受け入れ喜ぶことは出来ないと教えています。
劣等感を持たずに生きること。
優越感を持たずに生きること。
神様を知ることは、この世の価値基準を打ち壊すーあなたが、本当の意味で「オンリーワン」として輝けますように。
「なぜ自分ばかりこんなに辛い思いをしなければいけないのか?」
弟子たちもまた、イエス様の十字架や復活の意味を受け止めきれず、混乱のうちに出口の見えないトンネルの中を歩んでいました。
しかし、神様はいたずらに私たちを苦難に遭わせるような方ではありません。「暗い夜」を通じてこそ、私たちは完全に砕かれ、神様に豊かに用いられるように変えられるのです。
イエス様は、復活後40日間も地上にとどまっておられました。なぜ、そんなにも長い時間が必要だったのでしょうか?
40日という日々の中で、イエス様がどのようにして弟子たちの弱さに寄り添い、頭による理解だけではなく、心を変え、弟子たちの行動を変えていったのか ― ガリラヤ湖畔でイエス様と再会した弟子たちの心の動きを丁寧に追いながら、松本牧師が語ります。
とある宮崎県出身の青年が、自分探しの自転車旅行の道中、憧れの北海道で創造主と出会いました。
しかし、創造主が三浦青年に用意した道は、決して平坦ではありませんでした。
ただ「福音を宣言」して「御言葉を解き明かす」。
さあ、私達の人生も同じです。聖書を学び、聖霊の助けによってそれを実生活に適用していく、シンプルで最も味わい深い信仰の日々を実現しませんか?
「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから」(ヨハネ5:46)。
主イエスが懐疑的なユダヤ人に言い放ったこの言葉。ユダヤ教文化をルーツに持たない私たちにとって、この言葉の真意を理解するには、モーセの時代から連綿と続くユダヤ文化にさかのぼる必要があります。
出エジプトの際に神がモーセに命じられた過ぎ越しの祭り、種無しパンの祭り、初穂の祭り、そして五旬節。これが、イエスのエルサレム入城(「棕櫚の日曜日」)から始まって、受難、復活、そしてペンテコステと見事なまでに符合してゆく不思議。
「ユダヤ教文化」というパズルにぴったりと継ぎ合わされた「神の子羊」というピースが完成させたものは―。
中川洋牧師が、「救いのパズル」のピースを丹念に一つ一つ組み合わせていきます!
「クリスチャンなのだから、どんな時でも前向きに生きていかなければ」。
しかし、親しくしていたラザロが死んだ時、イエスは涙を流されました。私たちは、イエスが喜ぶものと共に喜び、泣く者と共に涙される優しいお方であることを、つい忘れがちです。
よみがえったラザロが墓から出てきた時、彼の体はまだ亜麻布で巻かれたままでした。イエスは周囲の者たちに、「布切れをほどいてやりなさい」と言い残します。
イエスの十字架の贖いによって新しい命をいただいた私たちもまた、「布切れ」を脱ぎ捨てる必要があったはずです。「布切れ」が象徴しているものは、あなたにとって一体何でしょう?
来週はイースター。
当オリーブ教会牧師とその仲間たちがコミカルに演じる現代版シンデレラ、『幸せの靴』。
しかし、この監督に起きたことは誰にでも起こり得えます。
問題はどこにあるのでしょう?
なぜ、私たちは生きづらさを抱えているのでしょう?
人生の荒波の中でも希望を持ち続けるヒントは、聖書の中に。
イエスが最も喜ばれた奉仕は、誰の奉仕でしょうか?
良い奉仕には、
さて、この3ポイントを兼ね揃えた奉仕者は誰だったのでしょうか?
「私と一緒に最高の景色を見に行かないか?連れて行ってあげるから。」-こんな風に見知らぬ人に誘われたら、あなたならどうするだろう?危険極まりないと一蹴するのか、警戒しながらも付いていくのか、はたまた完全に信頼しきって喜んで付いていくのか?これはイエス・キリストを信じるのか、信じないのか、という人生の究極的な決断と重なる。
私たちは「土曜日の世界」に生きている。イエスが死を征服し、永遠の勝利を打ち立てた「日曜日の朝」は、完全にはまだこの世界に到来していない。この世はまだ、苦しみや悲しみで満ちている。それでもイエスが約束された完全な勝利を信じ、「土曜日の世界」で「日曜日の朝」を生きるのなら、それこそが信仰の歩みである。
信仰にはパラダイムシフトが必要だ。この世で「正しい」「良い」とされていることは、本当にそうなのだろうか?イエスの復活を信じ切れなかった弟子たち、祭司長やパリサイ人は、「土曜日」にしか生きることが出来なかった。
「イエスの物語」は十字架でおしまいだったのではない。祭司長たちは墓を厳重に封印してまで「イエスの物語」を終わらせたかった。しかし、神の用意したストーリーは敵の妨害をもってして、かえって打ち消すことの出来ない復活の真理をクライマックスにもっていく。
私たちは自分たちの力で「土曜日」を「日曜日」に変えたり、早めたりすることは出来ない。「土曜日」でも神の手は休みなく、そのご計画の成就のために働いている。私たちは生活の背景に溶け込む神の見えざる手を信頼し、自分のなすべきことに忠実でありながらも忍耐して「日曜日」を待ちたい。そうすれば、「土曜日」に生きながら主と共に「日曜日」の勝利を祝うことが出来るのだ。
From the publisher's feed