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イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、私のもとに来なさい」と招いてくださいます。人間的な知恵や計らいだけで行き詰まる時、幼子のような素直な心で神様に向かうなら、魂の安らぎが与えられます。重荷そのものが消えなくても、イエス様と共に担うことで荷は軽くなり、歩むべき道も示されます。私たちも神様への信頼と祈りを保ち、必要な力と勇気をいただきたいと思います。
25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
今日の福音書は、聖書の中で、福音書の中でも、最も慰め深い言葉が書かれているところだと思います。疲れたもの重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい、休ませてあげようというふうに言ってくださるわけですから。
時々は私たちも疲れてしまったり、重荷を何か、何か重荷を負うのが疲れすぎるということもあるのではないかと思います。
今日の福音書の出だしのところが、このイエス様が父なる神を賛美するんですけど、この賛美の内容が面白いですよね。この、なんていうのか、何か仕事がうまくいったとか、何かで賛美するんじゃなくて、何を賛美しているかというというと、これらのことをある者や賢い者には隠して、幼子のようなものにお示しになりましたということで賛美してるってことですね。
非常に不思議な感じがしますが、山口県に来てから幼稚園の子どもたちと接する機会も増えましたが、やっぱり幼子のようなものっていうのは、本当に神様に近いっていうのはつくづく思いますね。お祈りしても聖歌にしても、大きな声で一生懸命歌うし、何かお祈りも素直にするしですね。
やっぱり幼子のようなものにこそ神様が近いというかですね、私たちも人間いろいろ考えて、ああでもないこうでもないと考えちゃうから、なかなか神様と近くなれないようなところはあると思いますけど、幼子のようなものこそ神様に近いというのはあるんじゃないかなと思いますね。
ただ、やはり先ほど言いましたけど、疲れたものや重荷を負っている時こそうまくいかないわけですから、そういう時こそ私たちは幼子のような心に戻ってですね、私たちの計らいを置いて、素直な心を神様に向けていく時に、このイエス様から休みっていうんですかね、安らぎをいただくということはあるんじゃないかなというふうに思います。
最近聞いた、分かち合ってもらった、最近信者になった人の話で、この教会の人じゃないですけど、あのご家族が信者で、本人は違ったんですけど、なんか信者見てたらもうバカバカしいと。もう何もせずにあんなバカみたいなことやってるんだみたいな感じで、全くその信者とか信仰とかどっちかと軽蔑してたんですね。
で、仕事でバリバリ頑張ってて、専門職で会社を助けるような、いろんな企業を助けるような仕事をされてて。ある企業がですね、非常に経営的に非常に大きな問題があって、下手したら倒産する可能性もある。それでその人が関わって、いろいろな方法を考えて、こうしたらいいんじゃないか、あっちの方がいいんじゃないかと、いろいろ解決策を考えて、それを実行することになったんですけど、後からその彼のやってることが、その法律にかなり違反していることだということにだんだん気づいてきてですね。ちょっと細かい話を聞いても、ちょっと専門的なことだから、ちょっと何が違反なのか、何がちょっとあんまり個人的によく分からないんですが、結局、もしこれが査察とか何か入って何かしてしまったらですね、その企業が倒産する可能性がある。倒産したら、関連企業を含めても何千人の人が路頭に迷ってしまうし、自分も罪に問われたら家族にも相談、損害賠償だったか、そういうものを請求されたら本人が死んでも家族が払わなきゃならないとか、そういう法律があって、家族にも及んでしまってですね、彼も相当追い込まれて、結局逮捕される前に自分が死ねば問題が発覚しないよう、それ、それでうまくいくんじゃないかって。だいぶ追い詰められてですね。いつ死ぬか、いつ死ぬかってことばっかり考えてたんですけど、その時に結局あまりに重荷というか、結局どうしたかって言ったら、教会に初めて行くようになって、それで神父さんのお話を聞くようになったというんですよね。
ここにある通りに、私のくびき負い、私に学びなさいと言ったと。それで初めてさんからいろんなイエス様のことを学んでいるうちに、思いもつかない、全然違う、考えたこともないような福音の話とか、神の愛の話とか、そういうことを聞いているうちに、だんだん自分の心が実際安らいできてですね、あれだけ苦しんでた自分の問題が解決するわけじゃないですけど、非常に安らぎが得られるようになって、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られると。
原文では魂の安らぎと書いてあるんですけどね。もっと深い安心が与えられて、それで彼は結局洗礼を受けることになったわけですけど、でも、その問題だと思ってたことが結局問題にならず、その会社も倒産せず、従業員たちもみんな救われて、自分も結局罪に問われることなく仕事を続けるようになって、家族をおおごとにする必要性もなくなったっていう、結局すべてが神さまのもとで順調に進んでですね、その企業も倒産せずに済んだわけですから、非常にすべてがうまくいったわけですが。
だからこそイエス様が最後に言うんですよね。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いと。イエス様と共にやっぱり重荷を担っていくならば、やっぱりイエス様と共に担うから、やっぱり重荷が半分になるっていうところはあると思いますね。
今日の福音書は、もう書いてある通りなんですよね。私たちが重荷を感じたり、疲れた時にはヤケになってしまったり、誰かに八つ当たりとか、それよりもイエスのもとに行って、そこで休みを取るっていうかですね、ちょっと気持ちを置いて、違う角度から物事を眺めてみる。そしてイエス様の教えを改めて聞いてみる、呼びかけを聞いてみるということをするならば、私たちは魂の安らぎと、これからどのように歩んでいけばいいかという道もしっかり示されるということですね。それは本当に私たちにとって大きな恵みではないかと思います。
神様は、この知恵あるものや賢い者には神様が隠されている。結局、もちろん人間的な知恵でも、どうするか、こうするか、いろいろ考えたり悩んだりしなきゃならないですけれども、それよりももっと大事なのは、人間的な計らいを置いて、幼子のようなですね、とらわれない心で神様に向かうというか、その素直な心を神様に向けた時に、やはり神様は大きな愛としるしを与えてくださるのではないかと思いますね。
時々ですね、今でもマリア様が誰かに出現されて、いろいろなメッセージを授けられることがありますがとか、ルルドとかですね。でも、全くその通りなんですよね。本当に勉強できない字も書けないような少年や少女、羊飼いとかですね。農家の娘さんとか、全く勉強もしてないような、そういう本当の子どもにマリア様が現れて、一番大事なメッセージを伝えているわけですよね。
それが実際その通りで、それを聞いた司教さんとか学者とかもみんな全然否定して、もう何言ってんだこのバカバカしいことみたいな感じで言われるわけですけど、でも後からだんだん時がたてばたつほど、その小さな少女に現れたマリア様のメッセージこそ本当のメッセージだということを、後からみんなが認めるようになるわけですよね。
この教会が、特にファチマの聖母マリアに捧げられている教会ですから、やっぱりこの幼子の小さなものに神様が本当のことを伝えるっていうのは、今でも変わらないということだと思いますね。だからこそ、私たちはやはり小さなものとして、子供のようなものとして、神様のメッセージに心を開きたいと思います。
その時に、私たち一人一人に必要な恵みと力が与えられると思いますから、いつも神様に対する素直な信頼の心と祈りの心、それを持って私たちが歩めるように、そして絶えず私たちに安らぎと勇気と力を与えてくださるようにですね、お互いのために共に祈りを捧げたいと思います。
今日の福音書では、イエス様が弱り果てた群衆を憐れみ、弟子たちを働き手として遣わされます。働き手不足は今の教会にも通じる課題ですが、私たち一人一人も小さな働き手として召されています。特別なことではなく、誰かを励ます言葉、温かい笑顔、食事を用意すること、悩みを聞くことも福音宣教です。言葉と行いを通して、神様の愛と恵みを分かち合っていけるよう願いたいと思います。
そのとき、イエスは、9・36群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
10・1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
今日の福音書は、マタイの9章の終わりから10章にかけてのところですね。このところは、イエス様が弟子たちを遣わすにあたり、福音宣教の心構えを記しているというふうに言われています。10章全体なんですけど、その冒頭の部分が語られたという形になっていますね。
なんで12人を派遣することになったのかといったら、一つは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果ててうちひしがれている、救いを必要としている。苦しんだり喘いだりしている人々がいっぱいいてそこで深くイエス様が憐れまれたというのが動機になるわけですね。
そして弟子たちにこう言うわけですね。収穫は多いが働き手が少ないというんですけど、今の日本社会も働き手不足でだいぶ苦労してますが、教会も働き手不足ですね。どこも働き手があまりないので、ちょっとどうしたらいいか。イエズス会ももう召命というか日本人で入る人はほとんどいないので、えらい働き手不足で、どこもかしこも働き手不足で実際は困っているというのがあれですけど。
2000年前から働き手不足は働き手不足だったということですが、その中でこの働き手を送ってくださるように祈れって言うんですけど、それは本当にその通りだなと気がしていますが、祈るとともに、私たちが、力が乏しい少人数であっても、私たち一人一人がいわば小さな働き手としてですね、やはり歩んでいくように、そういう呼びかけとして私たちは受け止めたらいいのではないかなと思います。
実際、私たちが、こんなの多くの人がクリスチャンとしてやはり召し出されたのは、やっぱり小さな働き手として生きるようにということじゃないかというふうに思うんですね。実際、この5節以下ですけど。失われたの羊のところに行きなさいと。結局、自分の側にいる苦しんでいる人のところに、まずは行きなさいということと、何をするかといったら2つなんですね。行って天の国は近づいたと述べ伝えなさい。言葉によって伝えるということと、もう一つは病人をいやし、なんとかかんとかって書いてんですけど、結局癒しの業を通して人々を助けなさいと。
だから言葉と行いによって私たちは働き手となるという非常に当たり前のことを言っているわけで、それを私たちが少し意識することができたらいいのではないかなと思います。
皆さんもそうでしょうけど、誰かの一言とか、何かある言葉によって何か励まされたとか、助けられたとか、そういうことは誰にだってあるのではないか。ある人の一言によって、それが本当に友人、家やか先生か、あるいは何かテレビに出てくるアーティストの一言とか歌詞とかですね、何かによってやっぱり助けられるってことは、実例あげたらいくらでもこれはあると思いますね。
ある一人の信者さんですけど、精神障害者の作業所か何かで働いてて、なかなか大変なんですよね。だからいろいろ問題も多くて、いつも鬱々と悩んだり、いろいろして暗い顔をしていて、それもその時も悩んでて、たまたま道を歩いててですね、たまたま信号待ちしていた時に、たまたま隣に並んで待ってた全然知らない青年が、その人も障害者で、知的な知的ハンディを持っているような感じの、見た感じはですね。で、信号が青になった途端、その全然知らない人ですけど、その若者とか青年が自分の方に向いてですね、突然にっこり笑って、元気を出して行こうよって、一言言って、それで歩いてたっていうんですけど、その一言でものすごい救われたというか、その障害者のことで一生懸命やってて、もうへとへとになっているのに、別の障害者の人からの一言で助けられたっていうですね。
そういうことって、その若者の障害者の人って、はっきり言って働き手として社会から何の期待もされてないでしょうけど、でもやっぱり働き手なんですよね。ちょっとした笑顔と、たまたまちょっとした言葉で。
思いますけど、このて言うのかといったら、天の国が近づいたと述べ、伝えなさいって言うんですけど。
これなかなかそうだなと思うんですけど。結局天の国そのものっていうのはやっぱり伝えられないけど、天の国救いとかか喜びとかですね、そういうものに近づいていく言葉を私たちが語ることができたら、やっぱりそれは素晴らしいんじゃないかなと思いますね。
でもなかなかこれはもちろん難しいんですけど、「元気を出していこうよって」ていうのは、ある場合は助けだけど、ある場合はまたげにもなる。よく言われるうつ病の人、励ましたらかえってプレッシャーで落ち込むって言うから、本当に何を言うか難しいですけど、ある一つの言葉がやっぱり救いとか神様から遠ざける言葉になっちゃうこともあるし、ある言葉によって神様に近づいていく言葉になることもあるわけですよね。
でもやっぱり何か私たちが真心を持って人と接する時に、何かちょっとした声がけにしても、何かそういうことは大事じゃないかなと思うんですよね。もう本当に人の悪口とか噂話ばっかりしてると、神の国から遠ざける言葉ばっかり喋ってるのも、それもちょっとどうかなと思いますよね。
やっぱり神様の国に近づくような言葉を日頃やっぱり心がけて語れるかどうかっていうことですよね。
癒しの業にしても、それはイエス様みたいに急に病人に治すとか、それはちょっとそれは普通の人にはできないですけど。でもやっぱり私たちが人を助ける小さな働き、行いをできるかどうかっていうことだと思いますね。
前もちょっと話したかどうか、ちょっとはっきり覚えてないんですけど。話したかもしれない。
東北の青森にですね、昔、森のイスキアっていう建物があって、そこに佐藤初女さんというですね、普通の信者さんで、もう高齢で亡くなられましたけど。その割と何が有名かって、森のイスキアって、
なんか山の中の方、山の中というか、ちょっと離れたところのあれなんですけれども。そこにですね、やっぱり心を病んだ人とか悩んでる人がしょっちゅう訪ねてくるんですよね。で、佐藤初女さんはどうするかといったら、おいしいご飯を出して、その人に食べさせて、その人の悩みを聞いてあげるという、ただそれだけなんですけど、それがものすごいなんかこう、有名っていうかですね、多くの人が僕も何回かそこに行ってですね、なんかもうなんか特別なところかなといったらごく普通なんだけど。普通の家で。でも作る料理はそれも普通の料理、普通の家庭料理なんですが、ものすごく心がこもってて。彼女が作るおにぎりって、その当時は日本で一番おいしいおにぎりって言われてたぐらい、本当に心を込めて丁寧に作るおにぎりなんですけど、結局悩んでいる人はなかなか、その彼女が言うには、食べれないって言うんですよね。だからやっぱりおいしいものを食べてるうちに心が溶けてきて。それでもっといろいろ自分の悩みとか初女さんはほとんど説教も何もせずにただ話聞いてるだけなんですけど、そのうちになんとなく2、3日したら元気になって帰っていくっていうですね。どこにも何か不思議なことが全くないけど、でも不思議なところっていうか、こののを見てると。
もちろん彼女は特別なやっぱり方だったと思いますけれども。でもやっぱり普通の、日本の主婦なんですよね。ご飯作るってちょっとあれするって。なんかその当時は日本のお母さんの元祖みたいな感じの人でしたけど。ちょっと亡くなられちゃって。なんか私も実は訪ねて行ったら、彼女の愚痴を聞いてたんですよね。どんな愚痴かちょっと皆さんの前では言えないけど。
ともかく誰だって苦しみとかいろいろあるわけですけど。だから何か困ってる人がいて、ちょっとご飯食べさせたり、お話を聞いてあげたりっていう、それが癒しの業だっていう、一人一人でできることは違いますけれども。でもやっぱり私たちは神様の恵みとか愛を言葉で語ったり、話し合ったり、あるいは行いで、ちょっとした人助けというか、困っている人に対するちょっとした親切ですよね。
そういうことによって、私たちはやっぱり働き手として。働き手が少ないってイエス様は嘆いている、僕もだいぶ嘆いてますけど、でもちょっとした私たちが働き手としてちょっとしたことだと思うんですけど、それを私たちが心がけられるかどうかっていうですね。
まあ教会に来たらいつもさっきのお祈りも出てましたけど、福音宣教、福音宣教ってね、口では言うけど。でも実際できることはそんなことでしょうね。困ってる人がいたら、ちょっとなんか励ましの、ちょっとニコニコして、ちょっと声かけしたり、なんかちょっと困ってる人がいたら、なんかちょっとしてあげたり、そういう小さなことを積み重ねることがやっぱり私たちにできることだし、そういうことをすることが困ってる人にも喜ばれるし、神様も喜ばれるんじゃないかなと思いますね。
そのような恵みの世界をちょっと分かち合っていけるように、私たちはある時は自分自身がダウンして、誰かの温かい言葉で助けられることもあるし、誰かのちょっとしたことで助けられることはやっぱりありますから。お互い様ですけど、私たちが言葉と行いを通して、小さな働き手として神様の愛や恵みを分かちあっていけるようにですね、改めて神様に恵みを願いたいと思います。
三位一体、父と子と聖霊は、それぞれ異なるペルソナ(位格)を持ちながら、本質において一つである神です。私たちは個性や人格があるからこそ悩みや対立を経験しますが、同時に人と愛し合い、支え合うこともできます。本質は与えられるものですが、それを日々の生活の中で生きてこそ意味があります。イエスを通して示された神の愛に倣い、一人ひとりの人格を大切にしながら交わりの中で生きることの大切さを心に刻みましょう。
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
今日は、先ほども言いましたように、三位一体の主日、三位一体をお祝いする主日に当たっています。
三位一体というのは、キリスト教で教えの中でも、最も大切なことの一つですけど。
三位、父と子と聖霊というですね。それはそれぞれペルソナというか、パーソナリティとか個性がそれぞれ別ですけれども、一体である。つまり本質が一つであるとですね、神として本質は一つですけど、3つのペルソナに3つのパーソナリティというか、個性というか、神様だから神格、人間だったら人格とかですけど、それに分かれているというですね、最も大事だけど最も分かりにくいのが三位一体の教義だと思うんですけど。
イスラム教みたいにアラーの神様一つだけと言った方が、神様は一人で一つで絶対的な方だと言う方が分かりやすいと思いますね。
あるいは仏教や神道のように神様とか仏様がいっぱいいると、それはそれでそうなんですけど。だからこの3つで一つというのが一番分かりにくい。一番分かりにくくて一番大切というのもですね、不思議な気がします。
もともとですね、もう何十年前からですけど、新エヴァンゲリオンというめちゃめちゃ流行ったアニメがあって。
もう終わったんですけどね。25年ぐらいかかって終わったんですが。一番最後の最後が宇部新川駅で終わるんですよね。アニメの一番最後が。だからもうそこがいわゆる聖地巡礼の場所になってて。私もこっちに来たから。行ったことあるんですけれども。田舎の駅ではあるんですけど、その監督の庵野秀明っていうのが。そこ出身なので。宇部のことがよく出てくる。そこで僕も感慨に浸ってたりしてたんですけど。そしたらやっぱりもうあれからもう何年経ってるのかと思うけど、僕よりちょっと若めの中年男性が何人かうろうろしてて、写真撮ったりしてたりして。いまだにその根強い人気があるんですけど。
そのエヴァンゲリオン長い長いお話なんですけど、最初の頃のお話は、お話の中にですね、人類補完計画って出てくるんですね。それが何なのかちょっと分からないうちにだんだんお話が進んでてですね。最終的にいろんないろんな話があるんですけど、とにかくその最初の頃のシリーズの完結編ではですね、とうとう人類補完計画が何なのかが明らかになるんですけど、それは何かと言ったら、人間が何で苦しむのかを互いに助け合ったり、理解できないとか、仲良くなれないとか、それは結局一人一人にペルソナがあるからだというね。一人一人に人格とかパーソナリティがあるから、結局人間は苦しむ。エゴがあるからですね。お互い同士、対立したり、孤独になったり、理解できないという。人類補完計画が最終的に明らかになるのですが、何かと言ったら、それは恐ろしい計画ですけど、ペルソナを全部なくして、人間という本質一つだけにみんな戻るっていう話なんですね。
だから個というものがなくなって、一人一人のペルソナがなくなって、人類という一つだけの本質に固まっちゃうっていう、そういう恐ろしい計画が進むんですけど。結局その1話の完結編では、とにかくシンジ君っていう青年がなんと中2の男子ですけど、彼がとうとうその計画をストップしてペルソナが残るっていうのが、その最初のシリーズの完結なんです。一つの結論なんですけどね。
それはなかなかやっぱり考えさせられるというかですね、私たちが何で苦しむかと言ったら、実際はペルソナがあるから苦しんでいる。お互いのエゴとエゴがぶつかったりとか、あるいは人がいなくて孤独になってしまったり、理解されなかったり。だから、でも、ペルソナがもしなければ、私という存在もなくなってしまう。それもちょっと。だから神様が本質が一つ、神という本質であって、それぞれのペルソナの中で関わりがあるというですね、それはいわば一つの私たちの理想的なある姿を語っている。それぞれが別だけども一つになれるっていうですね、その恵みの世界というか。
だからこのペルソナをなくしてしまって、本質だけにするっていう乱暴な方法でもないし、あるいはペルソナだけで本質的に一致していなければ、ただのバラバラで苦しむだけだから、やっぱり三位一体っていうのは、いわば私たちのこの救われた状態の、いわば一つの理想的なモデルを神様そのものが持っている。
だから私たちはそれを生きていくことができるというですね、恵みの世界を表しているというふうに考えるのが、本当にキリスト教の世界観というか、ものに合っているようなふうに思います。
実際のところ、私たちのレベルでもっと考えてみたらですね、本質とペルソナがどう違うのか。
哲学的なお話であまり考えないことかもしれないですけど、簡単に言うとですね、本質というのは与えられるものなんですよね。で、ペルソナっていうのは作っていかなきゃならないものなんです。
例えば私たちが生まれたら人間になるわけですよね。人間という本質をもらうわけですけど、人間という本質をもらっているけど、ペルソナとしての人間を生きていかない限り、本質はただ本質のままで育たないってことなんですね。
例えば、お父さん、お母さん、子供が生まれたら、子供が生まれることによって、親にはお父さんやお母さんという本質が与えられるんですよね。でも、その本質があるだけでは意味がない。子供を実際育てない限り、父親としての母親としての意味がないわけですよね。
だから、ペルソナとして生きていく中でこそ、私たちの生きる意味があるってことなんですね。
例えば、洗礼を受ければクリスチャンという本質をもらうわけです。でも、クリスチャンとして何の祈りもしなければ、何の愛の実践もしなければ、本質だけであるということは何の意味もないんですよ。
私たちがクリスチャンという本質をもらったとしたら、そこからペルソナで、私たちの生き方の中で、ペルソナの中で生きていくことによって、初めて本質の意味が生きていくっていうことなんですね。これは非常に大切なことだと思います。
だから教会では愛とか平和とか救いとかよく話しますけど、全部ただの本質なんですよ。
平和も愛も。いいものですよね。すごく本質ですけど、いいもの、本質は生きない限り意味がないっていう。
ペルソナとして生きていくからこそ、私たちの生活の中に平和が生まれたり、愛が生まれたりするということなんですね。
神さまに話を戻して言うと、だからイエス様はペルソナなんですよね。
イエス様の生き方とか、そこに触れることによって、私たちは神の本質が現れてくるから。だから意味がある。イエス様の存在の、イエス様のペルソナの意味があるということですね。
私たちにとって本質はいいものですけれども、本質だけでは意味がないということなんです。
私たちは一人一人のペルソナとして、個性として、人格としてどう生きていくか、その本質そのものにのっとって生きていくかの中で恵みが現れてくるということですよね。
それを私たちの心に刻みたいと思います。
ペルソナは人と関わることによってしか意味がないってことなんですね。
家に閉じこもってじっとしているだけならば、ペルソナとしての生き方は何にも現れてこない。本質はありますけどね。本質はもちろんあるんですけれど、本質だけを生きていくことは全く意味がないんですよ。
ペルソナとして、私たちがクリスチャンとしての本質、人間としての本質、あるいは人によっては働くという、職業を営む者としての本質、あるいは家庭人として父親であるとか母親であるとか、あるいは人によっては学生であるとか、あるいはそういう本質はペルソナで生きていくことによって初めて本質が現れて生きて、意味に意味があるものが溢れてくる。それは三位一体の愛から来ている神秘なんですよね。
私たちが与えられている本質をペルソナとして十分日々の生活の中で生きていく。それは三位一体の神さまの愛を私たちの生活の中で表して生きていくということと不可分なんですよ。つながっているということですね。
私たちはイエス様を通して、神さまの本質を触れるチャンスが与えられているわけですから、イエス様のペルソナと私たちのペルソナと触れ合うことによって、その本質が生きてきて、私たちの生活を変える、社会を変える力として現れてくるということですね。
だからこそ、私たちは、一人一人のペルソナを、一人一人の人格を大事にしながら、自分自身の人格をいつも関わりの中に生きていけるように。三位一体が一つの交わりですから、私たちがそのペルソナの交わりの中でこそ、本当に大事な本質を生きたものとして、恵みとして生きていけるようにですね、神さまに恵みと力を願いたいと思います。
聖霊は、ただ待っていれば働くものではなく、人が「赦そう」「愛そう」「前へ進もう」と決断する中で力を現します。祈りと行動が結びつく時、私たちは自分の力以上の恵みに支えられていきます。自力だけで飛ぶ雀ではなく、風に乗る鷹のように、聖霊の導きに心を開くことが大切です。赦しや和解、勇気ある一歩の中でこそ、神の力は豊かに働いてくださるのです。
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
今日は聖霊降臨の祝日をお祝いしています。イエス様が復活した後、50日後、50日後に、ルカの福音書とか、使徒言行録によると聖霊が下るということですが、でもやはり私たちに聖霊が与えられているというのは、イエス様の復活と深いつながりがあるということですね。今日はヨハネの福音書が朗読されましたけれど、ヨハネの福音書では、復活したイエス様がですね、すぐに聖霊の恵みを与えているというふうに記述されています。
彼らに息を吹きかけて言われた息というのが、聖霊の愛そのものですよね。息を吹きかけて聖霊を受けなさいと復活した。主に聖霊の恵みを受けるという、それを私たちがお祝いしていて、そして私たちが聖霊の恵みによって生きていくようにということなんですね。
そしてその後がですね、今日のイエス様の言葉はなかなか考えさせられることですけれど、誰の罪でもあなた方が赦され、許せば、その罪は赦されるということですね。聖霊の愛があるので、そこで罪が赦されるということですけれども、あとなんですよね、あなた方が、さなければ許されないまま残るというふうに書いてあって、これなかなか考えさせられる。
当たり前といえば当たり前のことなんですけど、許せば、確かに許しがあると、許さなければ赦しがないっていうですね、まあある意味その通りなわけですよね。私たちが誰かを愛せば、そこに愛が生まれますけど、そこで愛さなければ愛は生まれないっていうですね、ある意味ごく当たり前のことを書いているというふうにも言えるわけですけど。でもこれは本当に私たちのどういう態度をとるかということと深くつながっているということなんですよね。聖霊の恵みは、私たちがこの聖霊の恵みが働く方向性に、態度というか生き方というか、それをすればそこに聖霊が働く。でも、私たちが諦めちゃって何もしなければ、聖霊が働きませんよと言っているわけですよね。
人を許せば聖霊が働いて赦されるけど、私たちがこの人許したくないとか、もう何かと思って許さないままほっといたら、聖霊も働かないし、赦しも起きない。だから、聖霊の働きというのは、実は私たちの主体的な決断と深くつながっているというですね、これが非常に大事なことだと思います。
つまり、私たちの協力というか、人間の側が愛するとか、あるいは許すとか、和解するとか、あるいは平和をもたらすとか、あるいは勇気を持って困難を乗り越えていくという決断がある時にこそ、そこにこそ聖霊が働いてくださるということですよね。人間の協力の中で、人間の決断の中でこそ聖霊の恵みが働く。
だから聖霊の恵みが大事ですけど、私たちの人間的な決断とか、人間的な私たちの心の方向性、これが決定的だということですね。
例えて言うならば、簡単な例えですけど、若い頃は私、体育会系男子だった時期もあって、中学高校の頃はサッカーやってたんですよね。わりと熱心にサッカーやってて、運動をやる人は大体そういうことを経験すると思うんですけど、もうね、もうこんな暑くなってきたらまず練習が嫌なんですよ。この暑い中でまたって気持ちも入らないし、なんかもう心も体もだいたい、いやいやだいたいだいたい入るわけですよね。でもでも、練習してて体を動かしてると。しかもだんだんですね、中学生の時は高校生ぐらい。だんだん上手くなってきたら余計そうなんですけどね。
最初は。いやでもなんかこう一生懸命やってるうちに。なんか体がほぐれてきてですね。なんかこう自分の中からエネルギーがだんだん湧いてきて、こう、なんていうのかな、こう努力しながら、なんかこうある力と一緒にやるような感じですね。しかもなんかこう、サッカーみんな団体競技だからね、そういう気持ちになったけど、みんなだんだんそんな気持ちでこうコンビネーションがうまくいったり、パスがうまく通ったりとか、みんなでだいたいいい感じになってきて。なんかこう終わる時にはもうすっきりした充実感みたいな感じで終わるような感じなんですよね。運動してる人はよくわかると思いますけど。
だからこの最初が、例えばもうかったるいな、今日は暑いしもうやめとこかみたいな感じで、練習をさぼったらさぼったままで何もエネルギーも力も湧いてこないまま、結局終わっちゃうわけですよね。そこであえてやっぱり今日も頑張って、友達とか先輩後輩と一緒に練習しようと思ってやってると、なんか力が湧いてきて、いい感じの体に体も動いてくるし、気持ちもみんなとフィットしてくるみたいな感じに。もちろん必ずそうなるわけではなくて、気持ちがバラバラのままで試合に負けちゃうとか、もちろんうまくいかないこともありますけど、でも基本はなんかね、こうやってる中でこう力が働いてきて、それに生かされて、心と体が一致して、なんかうまくいくっていう感じに。
スポーツやってる方はよくわかりだと思うんですけど。そういうふうになるので、それはマラソンであろうがなんであろうがそんな感じなんですが。やっぱりこう何て言うんですかね、それはもちろんスポーツの体の方のことだけですけど、やっぱり聖霊が働くということは、私たちの人間的なエネルギーとかやる気とか前向きな気持ち、それはなんかもう嫌だなとか、もうなんかもう何回もこんな面倒くさいないとか、いろいろあったとしても、そこで私たちが前向きな気持ちで、勇気を持って、あるいは愛の心を持って進もうとしている中で、こう神様の力が働いてきてですね、そこから何かが展開していくっていうですね。
普通の私たちの言葉で言ったら、やっぱり祈りを伴った行動の中で聖霊が働く。ただ座って祈っているだけでも、何かあんまり祈りなしに、ただ行動しているだけでも何か空回りしちゃうこともあるけど、でもなんか祈りとか心を込めてあることに打ち込んでかかっていこうとする中で、聖霊の働きがあってですね、そこで何か実りが現れてくる。それが私たちの信仰生活の醍醐味じゃないかなというふうに思います。
コツはどういうふうにやるかといったらですね、スズメのようにではなく、鷹のようにっていうんですけど、何かといったら、スズメはですね、ちっちゃいから、羽もちっちゃいですからね、パタパタパタパタ一生懸命飛んで、あっちの屋根からこっちの屋根まで自分の力でパタパタやって飛んでるわけですよね。日頃は地面つついたりしながら、あっち飛んだり。
でも鷹になると鷹とか鷲とかになると羽ばたかないんですよ。それはもう大きさもあれも違いますけど、鷹とかぴゅっと飛んだら、あとは風に乗るんですよね。風に乗るから、実は羽を広げているだけなんですよね。あの広げているだけでピュッと集めたから、こっちまでビューとこう飛んでいくっていうですね。
だからこの聖霊の働きというのは鷹の飛び方なんですよ。だから鷹がピュッと羽広げて、そこにもちろん風を見ているわけですよね。風に乗るとピュッと、ズメが一生懸命やってる、もう何10倍も飛んでいくような。だからやっぱりスズメのように自分の力だけでやろうと思うと、大したことができないってことですよね。自分で一生懸命やっている間は、ほんの屋根、瓦屋根までちょっとしか飛べないですけど、そこに聖霊の力が働いて、鷹のように風を受けるならばですね、隣の山までビューと飛んでいけるぐらいな恵みと力が与えられる。
私たちはやはり、ああいう鷹のような、鷹のような気持ちになったことがないからあれですけど、やっぱりなんか前向きで、シャキッと遠くを見ながら勢いよくバーっと出た時に、それがうまく聖霊の働きにつながると、大きな実りが、それが許すだったり、愛だったり、和解だったり、大きな平和であったり、喜びであったり、お互い同士の深いつながりであったり、そういうことが出てくるのではないかと思います。
私たちにはこの聖霊の恵みが与えられているということです。すでに。
だからこそ私たちはこの聖霊の恵みを生かしていけるように、その聖霊の恵みに私たちも心を向ける努力だったり、この気持ちの集中、それを合わせてこの大きく羽ばたいて、聖霊の恵みのうちに歩んでいけるように、ともに祈りを捧げたいと思います。
真理とは、単に正しい情報を知ることではなく、人を自由にし、愛へ導くものです。現代は情報が溢れる一方で、不安や憎しみを煽るフェイクニュースも広がっています。しかしイエス様が与える「真理の霊」は、人を恐れから解放し、他者を大切に生きる力を与えます。水俣病や戦争のような苦しみの現実にも目を背けず、その痛みを受け止めながら、祈りと愛をもって歩むことが大切です。また、安易な答えに飛びつくのではなく、誠実に問い続ける姿勢こそが真理への道だと故フランシスコ教皇入っておられました。
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
今日の福音書は、ヨハネの14章イエス様の告別説教の中の一部分が朗読されました。イエス様の復活の恵みの中でということでしょうが、真理の霊を私たちに送ってくださる。具体的には聖霊降臨の一つの恵みですが、復活の恵みの一つは、私たちに真理の霊を与えてくださって、永遠にこの真理の霊が私たちと一緒にいるという、あるいは私たちの中にそれが入るということを、主が保証してくださっているということですね。
私たちは真理というか、日本語的に言うと真実ぐらいの方がいいと思うのですが、本当に大事なこと、真実の霊が私たちの中にあると。それを私たちが生かしていくということの大切さということですね。
実際のところ、インターネットが発達して、SNSがいろんな情報がいっぱい増えるようになってですね、多くの人はこのインターネットができたことですけど、多くの人が情報がいっぱい、もっとたくさんの情報が私たちはアクセスすることができるから、もっと私たちは真実に触れることができるであろうとみんな思ってたんですよ。でも実際のところは、SNSとか何かオールドメディアとかニューメディアとか、とにかく情報がいっぱい入れば入るほど、実は逆なんですよ。真実がわからなくなっちゃうっていう、何が本当か嘘かあまりに情報がいっぱい入るからわからないわけですよね。
実際現地に行って、私たちは確かめられないから、本当か嘘かって実は分からない。実際のところはわざわざですね、どこかで戦争があっても、その規模とか行くことができないから、私たちはそういうネットとかいろんなことで情報が入るわけですけど、それがなんかもうメタメタになってるので、実はなんか現代はもっと真実に触れることができなくなってきたっていうですね、まあ矛盾し皮肉な中に私たちがおられるといるというわけですね。
それはなぜかといったらフェイクニュースっていうか、真実に基づかないものが、今だったら生成AIで勝手にどんどん作られて、全然いない人物が喋ったりとか、嘘のものはいっぱい作れることになったからこういうふうになってるわけなんですけど。
でも嘘のニュースっていうんですかね、つまり真実でないものの特徴は実ははっきりしていて、私たちの中にこの恐れや不安とか、そういう感情を駆り立てていく時に、これは大変だとか思って、そのニュースをまた流したりするから、嘘とかデマがどんどん広まって。
あるいはもう一つは、偽りの慰めっていうんですかね、何か彼らよりも私たちの上だから安心だとか、何か他の人を蔑視するっていうのは、軽蔑することによって安心感を得るような、なんかそういうやっぱり真実でないものの特徴といろいろあるわけですよね。
イエス様がくださっている真実というのは、どういう特徴があるかといったら、一番はっきりしているのは、それは私たちに本当の自由と愛の心を広げていくいうか、広めていくものこそ、やっぱり真実のものがあるということなんですよね。
より自由になる、振り回されなくなって、恐れや不安に振り回されなくなって、より自由になっていく。あるいは、人を憎んだり軽蔑したりするんじゃなくて、やっぱり愛の心っていうんですかね、一人一人を大切にしようとする。そういうところがある時に、やっぱり真実の霊が働いている。
私たちはその真実の霊にいかに合わせて生きていくかということが一番の大きな大切なポイントになると思いますね。
だから、復活したイエス様に出会った弟子たちは、そこでは本当の真実、復活というイエス様の真実に本当に触れたので、周りから迫害されていても、それに何とか防御的になって戦ったり、そんなこと全くない。恐れとか不安に囚われてない。攻撃されたユダヤ人からも、どんどんその家はローマ人からも攻撃されるわけですけど、場合によっては殉教したりするわけですけど。でも全く恐れとか不安にとらわれることなく、ユダヤ人を憎んだり軽蔑したり、あるいはそこで戦ったりすることもなく、愛の心を持って、やはり本当の正しいこと、真実を生きていくことができる。
本当にこれは復活の愛だと思うんですけど、そのような私たちはやっぱり真実を生きていく必要性があると思いますね。ただ、真実はいつもいつも心地よいものとして来るわけでもないのも事実だと思います。
この最近、最近でちょっと前にですけど。
イエズス会の神学生たちがちょっと一昔まだ終わってない水俣に体験学習に行ったんですよね。水俣病で公害病ですよね。チッソという会社が。その頃まだよくわかってなかった水銀をどんどんどんどん廃棄流してしまって、それで魚が汚染されて、魚をその水銀の汚染された魚をたくさん食べた人々が、この特に漁師町のところですけれども、多くの人が水俣病になってですね、しかもその生まれつき水俣病の人もいて、大変な公害の一番公害病の一番最初ぐらいですけど、いまだに患者もおられるし、そういうものがあるわけですよね。そこに神学生がいて、その実際そういう人々と触れて、どういう問題があるのかっていうことを見たんですよね。で、体験してきたんですけど、一人の神学生が、そのガイドしてくれた水俣の人にですね、こう言われたって言うんですよ。
私たちはその人によって違うけど、大半の人はチッソという会社を恨んだり憎んだりしてるわけではないと。私たちが一番望んでいるのは何かと言ったらですね、やっぱり当時の流れですよね。やっぱり利益を優先したり、人間の命を軽視したりする。そういうことがあったという真実をみんなに知ってほしいんだと。
つまり、真実を一番知ってほしいということを願っているというその言葉を聞いて、神学生は東京に戻ったんですけど、やっぱりそこにも真実があるっていうことなんですよね。
真実は喜びというか、そういうもので表れていることと、苦しみや痛みでも真実はやっぱり現れる。
だから、この痛みや苦しみで現れている真実に目を背けたり、あるいはそれに振り回されないで受け止めるってことも。それも私たちにとって真実の霊を生きていく大切なことだと思います。
真実には2つの面があって、痛みと苦しみとしてはっきり示される。
それはイエス様の十字架そのものですけど、その痛みが私たちの周りにもあるし、社会にもいっぱいある。それもしっかり受け止めなきゃならないし、それともう一つは、イエス様の復活の愛ですよね。それを乗り越えていく。さっき言った自由とか愛とか、本当の喜びにつながることも真実として示されている方は、私たちはしっかり受け止めて生きていくときに、私たちは本当に真実の道を歩めるんじゃないかと思いますね。
この教会の保護の聖人は、先ほど言いましたけど、ファチマのマリア様ですよね。ファチマの聖マリア様ですけれども、まあの立場のマリア様の大事なメッセージは何かって言ったら、それは喜びのメッセージじゃないんですよね。どっちかというと、やっぱり痛みや苦しみの真実をまずは語っている。
3つの預言という有名な、でもそれもどれも世界的な大きな災害とか戦争とかですね、そういう困難なことがあるってことをマリア様ははっきり言っているわけですよね。それは私たちを脅したり、不安にさせたりすることではなくて、そういうことをはっきり言って、だから私たちはどう生きなきゃならないのかを、その真実の道をマリア様は語っているわけですよね。
やっぱり私たちが本当の自由と本当の愛を生きていく、そのような困難とか、まあ、その預言の中に入ってない苦しみ、もちろんいっぱいありますけど、でもそれを私たちが受け止めながら、その中でしっかり心を入れ替えて回心して、先ほど唱えたロザリオの祈りとかですね、祈りをしっかりして、私たちが愛を生きていくことを望んでおられる。
それは、そのマリア様の気持ちは今も変わらないと思うんですね。だから、マリア様が私たちに示している真実を、それは苦しみと痛みを含んだ真実を受け止めて、そこでそういうものにいたずらに振り回されたり、とにかく今ちょっと収まって、ファチマの第3の預言というのでですね、それもちょっとこう、ある界隈ではなんだか不安と恐れを駆り立てるような、何かちょっといろんな憶測とか何とかとか、振り回されるような話にちょっとつながっていくから、なかなかしゃべりにくいテーマではあるんですが、でもしかし、はっきりしてますよ。苦しみとか困難があるということをはっきり言っておられるのは間違いない。
細かいことはともかく、でも、それをしっかり受け止めて、私たちが本当にイエス様の望むプラスの意味で真実の生き方をするようにというですね、マリア様のメッセージもすごくはっきりしていると思いますね。
一人一人の立場によって示される真実のあり方とか生き方は違いますけれども、でも私たちがそれをしっかり受け止めていけるかどうかということだと思います。あのフランシスコ教皇が日本に来た時に、若者の集いでいろんな集まりや他の人の若者の集いで話されたことが非常に印象的で、若い人は特に何が正しいかとか、どういうべきとか、自分に合ってる仕事が何なのかとか、やっぱり真実を求めざるを得ないわけですよね。まあ、もうちょっと普通のことだったら、回答っていうか、正しい答えを求めて。
でもフランシスコ教皇はこう言うんですよ。一番大事なことは正しい答えを得ることじゃないって言うんですよね。一番大事なのは、正しく問いかけることだってあるんですよね。正しく問いかけていく時に答えが見つかるから、安易に答えをこうこれだとか、安易に出てくる真実っていうのは、どうもフェイクっぽいことが多いんですよね。
なんかネットでこれらこれこれが絶対正しいとかって来てることが案外ちょっと間違ってる。だからやっぱり問いかけて、実際に日常の中で迷うことも様々私たちもありますよね。だからなんでこうなってるのかとか問いかけることから、神さまにしっかりと問いかけていく中でこそ、真実の霊が心の中にある。それをがだんだんと分かってくるような地道なことだと思いますね。
だからこそ、私たちは謙遜に、誠実に、やっぱり真実を求めながら安易な答えを得るのではなくて、こうかな、ああかなとか迷いながら、迷いながら、探しながら、やっぱりでもこっちだと思えるところをしっかりと歩んでいけるようにですね、神さまに恵みと力、そして本当の知恵と照らしを願いたいと思います。
ヨハネによる福音書14章の「私は道・真理・命」という言葉から、信仰とは“歩む道”そのものだとわかります。殉教者、とくに乙女峠の証し人たちは苦しみの中でも道を見失わず、そこに慰めと力を得ていました。人は道が見えない時に最も苦しむものです。しかし、キリストの十字架と復活は確かな道を示しています。日常の中で自分の道をその道に重ねられる時、信仰者は本当の命と安定を得るでしょう。
津和野の乙女峠の殉教者のお話です
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
今日の福音書はヨハネの14章で非常に慰め深い、あるいは意義深いことをイエス様がたくさん話されているところですね。最後の晩餐の席でイエス様が話された言葉の部分ですけれども、一番有名なのがやはり6節でしょう。私は道であり、真理である、あり命であるとおっしゃるところですけれども、私たち、私たちというか、この中の多くの方々がですね、やはり日本人の方々が多いと思うのですが、やはりこう道を歩むっていうんですかね、何かそれは何か私たちにとって非常に大切なものじゃないかなと思いますね。自分に与えられた職業だったり、使命だったり、その道をどう誠実に、あるいは徹底的に歩めるかというのは、案外一番大切なことじゃないかなと思います。
どんなことにもその道があったら必ず達人というか、名人みたいな人が実際おられるんですよね。将棋にしても何にしても、蕎麦職人にしてもですね、やっぱり名人と呼ばれる人がいて、羽田空港には掃除の達人みたいなおばさんがいるとか、どんなことでも道を極める人がいて、それが私たちの生き方の一つの基盤になってるって言うんですかね。
それはどんな仕事でも、どんな役割でも、どんなことでも、そういうなんか道を極めた人というのは必ずいてですね、皆さんの模範になるような生き方をされている人がいるわけですよね。
私たちはイエスの道を歩む以上、私たちもこのイエスの道をなるべく極めて歩んでいきたいという望みを持っている方も多いと思うんですが、やはりそのイエス様の道の達人は誰かと言ったら、もちろんいろんな意見もあるでしょうけど、一つは殉教者だと思いますね。やはり、自分の命をかけてまでイエス様を証しした人々、それが今日は5月3日、乙女峠のですね、あの。
証人、その中で殉教された方々がおられるということですが、乙女峠のことは皆さんよく御存じだと思いますけれども、明治になってプチジャン神父は外国、フランスからですね、宣教師が日本に来て、長崎でまさか日本に信者はいないと思って、外国人のためのなんていうんですかね、教会を建てたところを、あの見知らぬ日本人が入ってきて、マリア様のご像はどこですかということから始まって、実は250年間ですね、その潜伏していた人、クリスチャンがいるということで、プチジャン神父さんがたまげて、それを結局バチカンに報告することになって、公になってですね、それを基に隠れていた人々がクリスチャンであるということを名乗るようになったんですよね。でも残念ながらまだ日本は禁教令の中だったので、その名乗った人々が結局浦上四番崩れっていうのは、崩れって言うのは、この、隠れてたことががばれることなんですけど。浦上四番崩れということで、多くのクリスチャンたちがあちこちの場所に送られることになって。乙女峠、当時の津和野藩ですかね、153人が津和野に送られて、そのうちの37人が殉教したということなんですよね。乙女峠のこの証し人たちは列福運動もすでに始まっているということで、広島教区の一つの宝としてですね、だいたい毎年そこに集まる人は集まって、共にこのロザリオを唱えながら行列をしてミサをささげるということをやっているわけですね。
まあ、そういう英雄的な方々の話を聞くと、普通はもう自分にはできないというか、とてもじゃないけどっていう気持ちになると思うんですが、でも何て言うんですかね、やはりこう、彼らにとってその250年間隠れてて、隠れているのと、やっぱり自分たちがクリスチャンだっていうのと、どっちが彼らにとってやっぱり良かったかって言ったら、やっぱり明らかにみんなの前でですね、自分たちはクリスチャンだって言うことの方が、やっぱりこう喜びと言ったらあれかもしれないけれども、何か心の晴れる気持ちがあったんじゃないかなと思いますね。それで迫害されても、もうまた隠れるってこともないですから、もうOKという形で、やはりイエス様の敷いた、クリスチャンの道がやっぱり私たちにはあって、その道に私たちの生き方がかぶる時に、それが大体、多くの場合は困難がある時が多いですけど、その時にやっぱり私たちの心の中にあるのは、もちろん苦しみもあるけれども、そこにイエス様の真理と命を感じ取れる何か、それを喜びというか、慰めというか、励ましというものがあるんじゃないかなと思いますね。
その津和野の殉教者の中で有名な方の一人は、森安太郎というですね、ご存知だと思いますけど、三尺牢というね、90CMの立方体の檻に入れられて、立つことも寝ることもできないそこで1ヶ月間入れられて、真冬なので裸で野ざらしにされてですね。
それで結局彼は殉教するわけですけど、でも守山仁三郎だったか。高木仙右衛門だったか、とにかく彼に会いに行って励まし励ますんですけど、安太郎の方はですね、毎晩毎晩、青い着物を着たサンタマリア様のような方が現れて、その人が自分を励ましてくれると。毎晩ですね、だから苦しいことは何もないっていうことを答えるんですよね。
まあ、有名な話ですけれども、マリア様の御出現を受けてたっていうことですけど。安太郎がですね。それで亡くなるんですが、もちろんそんなにね、そういうことは特別なことかもしれないけど。でもやっぱりその時に行った150人ぐらい、7人か8人は転んでいるんですけれど。転んだけど結局また元に戻るんですが。
ともかくやっぱりね、こうイエス様と共に歩む道を歩んでるっていうことに大きな励ましと力を得ていたのは間違いないと思うんですね。だから私たちはついつい外から見てあんな苦しいこととか、自分たちはできないとか無理とか、いろいろすぐ思っちゃうんですけど。でもね、案外その中にいて、しかも家族と仲間と一緒ですから、そこでイエス様の道をなんかもう命かけて歩んでるっていうことがはっきり自覚できる時には、やっぱりそこに大きな真実と本当の命の恵みを得る、そういうものがあったのはまず間違いないと思うんですよね。
だから、喜んで、喜んでか、渋々か、人によってもちろん違うとは思いますけれども。だから私たちも日頃はね、平安な世の中にだんだんちょっとおかしくなってきましたが、クリスチャンであってもなくても、そんなに日常生活はそんなに変わらないことがあるけれども、でも何かある時に、私たちはクリスチャンであるということを自覚する。そういう時にこそイエスの道を歩んでるっていう、なんか励ましと力づけがやっぱりあることが、やっぱり私たちの一番の根本にあるから、私たちは信仰者として歩めるんじゃないかなと思いますね。
全然関係ない話かもしれないけど、最近ちょっとアメリカ人の神学生と話をしてて、彼の召し出しの話を聞いたんですけど、割と才能のある人で、医学の勉強したりとか、いろいろ日本語も喋れてとか、いろんなことで彼が言ってたけど、イエズス会に入る前にはある意味成功した人生だけど、でも心の中にぽっかり穴が開いたのは気持ちがどうしても拭えないって言うんですよね。本当の意味で喜べない気持ちがどこか自分の中にあった。で、でもイエズス会に入ることによって、何かこの心の中の穴がなんか閉じられて、なんか本当に自分の歩む道を見つけたみたいなんだから。彼の場合は・・・、一人一人違いますけど、彼の場合はイエズス会に入るということで、自分の道がきっとイエス様の道と一つになったっていうんですかね。だから喜びっていうか、安定感というかですね、なんか生きてる安心感みたいなのがあって。だからやっぱり私たちはイエス様の真実とイエスの命を生きていける、そういうものが与えられることですよね。
ただ、私たちも弱いから、ついその道から外れてしまうことが。でもずれればずれるほど、なんかやっぱりなんか本当の生き方じゃないっていうことを感じたり、罪ってことですけどね、ズレてるってことも感じられるし、ずれてたら戻ることもできるわけですよね。
やっぱり私たちの人生の一番の苦しみは、道がない中を歩くことが最大の苦しみじゃないかなと思いますね。
実際のところですけどね。
突然苦しみにあって、なんでこんな苦しみがないか、ならないのかと。なんでこんなことが起こるのかとか、道がないから私たちは結局苦しんでしまうわけですよね。ああでもない、こうでもないとか、たとえ成功しててもそこに道が見出せないと生き甲斐がないがないっていう感じがしてしまう。
イエス様の最大の功績は、十字架と復活によって道を与えてくださったっていう、つまり十字架と復活の道こそが私たちの本当の道だということを示してくださった。だから、そのイエス様に合わせた時に、道に私たちが合わさった時に、殉教者であろうが、普通の生活で生きている人であろうが、イエス様の十字架とイエス様の生き方が合わさった時に、その道が見えて、道を歩める喜びと力づけが私たちに与えられている。
だから、イエス様は道であり、真理であり、命であるという。生き生きした命を生きられる。
この数時間後に彼は逮捕されて、翌日十字架にかかって、この世の命は無くなるんですけど、でもイエスの道を歩む限り、本当の命の恵みと力が私たちに与えられて、それを生きていける。
もちろん小さな苦しみ、大きな苦しみ、色々ありますけど、イエス様の十字架と心を合わせて生きていく中で、復活の恵みに繋がるというですね、喜びが私たちには与えられているということですね。それをやはり改めて思い出しながら、乙女峠の先輩たちの信仰の証しをもう一度ですね、心に刻みながら歩みましょう。
私たちに与えられている道が明らかにある。私たちも自分に与えられた信仰の道を喜びのうちに、あるいは。人によっては覚悟を持って、あるいは本当に平安な心でですね、前向きにその道を歩めるように、共に祈りをささげたいと思います。
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今日の福音書のエマオへの道は、復活したイエス様が弟子たちと共に歩んでいても、すぐには気づかれなかった物語です。私たちの人生でも、主は見えなくても共にいて、支え導いてくださっています。信仰の初めは主が私たちに歩調を合わせてくださいますが、やがて私たちが主の望みに歩みを合わせることが求められます。苦手な人との関わりや病気、思い通りにならない現実の中にも、復活の主の恵みは隠れています。この世の幸不幸だけでなく、魂の成長と永遠の命に目を向け、主と共に歩む一週間としたいものです。
来週のミサ説教はお休みの予定です。
13この日、〔すなわち週の初めの日、〕二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
今日の福音書は、ルカの24章の旅人エマオに向かって行く。二人の弟子と一緒に復活した。イエス様が共に歩いて共に過ごしてくださるという非常に印象深いお話です。特にこの二人の弟子はイエスだと復活したイエスだと気づかずに、何かただのおじさんだと思って一緒に歩いていて、最後の最後でイエスだと分かる。
不思議な話でもあります。
いろいろな信者さんとお話をして、復活というのは、わかるような、実はちょっと分からない、ピンと来るような、来ないようなところもある。出来事というか、救いの神秘ですけれども、やはり全員というわけじゃないですけれど、多くの信者さんにとってはやはり、エマオの弟子の話が一番復活を、復活、理解というか、ピンと来ることではないかと思うのです。
何でかと言ったら、復活した主は共にいてくださっている私たちと。
でも私たちは気づかない。私たちは気づかないけれども、復活した主が今も共にいてくださっているというですね、共に歩んでくださっているという、それがやはり復活の恵みの一番分かりやすい捉え方かなというふうに思います。
実際のところ、イエス様は私たちと共に歩んでくださっていて、しばしば助けたり支えてくださったりしているわけですけれども、私たちの方がなかなか気づいていない。けれども、私たちが振り返ったり見たり、自分の信仰生活を見直したりする時に、やはりあの時に主が助けてくださった、支えてくださったということに気づくことは、皆さんの中でもあるんじゃないかというふうに思います。
復活した主は、私たちが共に歩んでいるというですね、これが私たちの信仰の一番基本にあることではないかというふうにも思います。
実際のところですね、復活した主は、何というんですかね、特に信仰の道を歩み始めたばかりというか、そういう時にはどっちかというとイエス様が私たちに合わせて歩いてくださっているという感じは、エマオの弟子たちみたいに、全然関係ないエルサレムから離れて、全然関係ないところに歩いていながら、でも復活した主がわざわざ一緒に歩いてくださっている。だからイエス様が私たちに合わせてくださっているという感じが強くするんですよね。そこで彼らは励まされて助かるわけですけど。
でも信仰が進んで行けば行くほど、逆のことを求められている気がして。
どういうことかと言ったら、イエス様が歩みたい歩みに私たちが歩調を合わせられるかどうか。共に歩むということは、実はそういうことで、自分が行きたいところを勝手に行って、そこにイエス様はこっちに来てくださいというよりは、イエス様がこっちの方に行きたいと思っておられるのに、私たちの歩調とか方向性とかを合わせて行けるかどうかが、だんだん問われてくるんじゃないかなと思いますね。
でも、それがなかなか苦手で、うまくできないということもあると思います。復活したイエス様が何を望んでおられるのか、何を喜んでおられるのか、あるいはどういうことをしてもらいたいと私たちの方に願っているのかということを聞きながら、あるいは相談しながら、私たちが歩んでいく。それがですね、もっともっと必要とされることだと思いますね。
実際のところ、私たちの、時によっては孤独とか、あまり人と関わらないってこともありますけど、でもだいたいは誰かと共に仕事にしても家族にしても、教会にしても、誰か共に歩んでいることの方が実際は多いわけですよね。それが非常にうまの合う人と共に歩めることも、歩むことができることもあれば、どっちかというと何か合わない人と一緒に歩まなきゃならないことも多々あると思います。
それは職場でも教会でも家庭でも、どこでもあることですけれども、でも案外共に歩んでいくというのは、結局、人間の自我と自我のぶつかり合いだからそこで必ず難しさが生じるわけですけれど、その時にやはり神の恵みを見出しながら、つまり神の導きを見出しながら、復活した主とさらに共に歩んでいけるかという、それはライフステージというんですかね、何かが変わったとしても、結局私たちはその場その場で問われていることになるというふうに思いますね。
イソップ童話だったか、グリム童話だったか、ちょっと忘れましたけれども、蛙の王子様の話があって、ご存じの方もおられると思いますけれども、ある王様にお姫様がいて、庭で遊んでたんですよね。昔ですから金のボールというか、鞠で遊んでいたんですけれども、それがですね、ちょっと手元が狂って池にはまっちゃって、今のビニール製だったら沈まないんですけども、昔だからそれが沈んじゃって。それでそのお姫様が泣いていたら、池からカエルが現れてきて、で、蛙がお姫様に自分と友達になってくれて、一緒に過ごしてくれるんだったら鞠をとってきましょうといういうわけですよね。カエルとの約束だし、お姫様は適当に答えたらいいだろうと思っていいです。友達となって一緒に過ごしてもいいですからと言う。そしたらカエルが約束ですよと言って一気にドボンと入ってですね、金の鞠を持ってきて返すわけですよね。
お姫様にしたらそれはそれでもいいですから、その鞠を持って、カエルがぴょんぴょん来るけれども無視して宮殿の中に入って、それで晩御飯を食べていたら、王様と一緒に晩御飯食べてたらですね、そしたらノックする音があって、食堂に何が入ってくるかと思ったらカエルが入ってきて、で、カエルが友達と約束をしたから、だから一緒に食事をしたいとカエルが言うわけですよね。お姫様は気持ち悪いから、それでも嫌な顔をしていたんですけど、王様が約束を守らなきゃならないと王様が言って、カエルと一緒に食事も一緒にするし、遊びも勉強も一緒にして寝る。寝るときも隣で寝るとか、気持ち悪いカエルとずっと過ごさなきゃならなくなって、それでもお姫様の方が悲鳴を上げて、最後どうするかと言ったら、とうとう堪忍袋の緒が切れて、カエルを壁に投げつけるんですよね。まあ、ちょっと野蛮ですけどね。投げつけたら呪いが解けてですね。それが隣の国の王子様だったということで。それでお姫様と王子様がめでたく結婚しましたって。そういう、まあ単なるおとぎ話ですけども。
でも時々、ずっとじゃないですけど、時々私たちもカエルと一緒に歩まなきゃならないことも時々あるわけですよね。それがわからない。王子様と思って結婚した相手が実はカエルだったという逆のケースがあるかもしれないけれど、もちろんわからないですよね。
あるいは、もちろん、病気になって、病気になった、病気と一生一緒とか、場合によってはずっと共に歩むならない。それもカエルかもしれない。つまり、一緒にたくないけれども、結局一緒にいざるを得ないものというのが私たちにあるわけですよね。でも、その時に、物語は子供の物語だから、カエルを壁に投げつけるんですけど、でも本当はやはりカエルが死ぬんじゃなくて、やっぱりお姫様自身が古い自分に死ぬというんですかね。
自分の囚われとか、何かに死んだ時に、その本当のカエルの中にある本当の恵みに気づく復活の主の働きなんかそんな感じがして。エマオへの弟子たちもすっかりもうだめになっちゃったけど、でもそこに、その先に大きな復活の恵みがある。私たちが誰と何と共に会えるので、いい時も悪い時もいろいろありますけれども、その中にこそ場合によってですけれども、やはり復活した主の働きが実は隠れている。でもそれが何かの拍子で私たちはわかることがある。
だから私たちは復活した主とそれが見えないというのは、きっと最初から見えていたらわかるわけですけど、それは隠されているということですから。隠されている。復活したイエスさまとそれに私たちは期待しながら、希望しながらですね、歩んでいけるかどうかということが、私たちに最も大切なことじゃないかなと思いますね。
僕もだんだん長らく生きるようになってきましたけど。なんかね、人生の目的というのはこの世の幸せを得ることじゃないというふうにやっぱり強く思いますね。むしろ私たちはこの世の幸せとか不幸せをいろいろ経験しながら、やっぱり何か人間的に言ったら魂が成長するというか、私たちがより神様に近い心組みとか、考え方とか物の見方とか、復活した主から学びながら、私たちは成長していく。
そっちの方がずっと大事だというふうにつくづく思いますね。私はついついこの世の不幸と幸せのことで振り回されてあれですけれど、でもそれを超える、やっぱり復活した主の恵みに、復活した主の恵みって、別にこの世の幸せと直接つながってないですからね。でも、私たちの本当の喜びだし、永遠の命につながっていく価値のあるものですよね。
それに、私たちがいつもそこにフォーカスを当てて歩むことができるように、見えないけれども共にいてくださる復活の主の恵み、あるいは復活の主から教えていただきながら、私たちが本当に大事なものを学んでですね、本当に大切なことを大切にしていく人生を歩めるように、改めて神さまに恵みを願いましょう。
今週一週間は本当に復活した人とともに歩めるように意識しながら歩んでいきたいと思います。
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復活したイエスに出会えなかったトマスは疑いますが、傷を示されたことで信じ、「見ないで信じる者は幸い」と教えられます。信じるとは、見えないからこそ成り立つものです。そして人を信じる力は、深く関わり、相手を受け止める中で生まれる信頼に支えられています。神との関係も同じで、愛と喜びの体験があるからこそ、見えなくても信じることができるのです。信じることは困難を越える力となり、私たちを前へと導きます。
英神父さんは、長府教会主任司祭に異動となりました。
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
今日の福音書は、イエス様が復活された時のお話です。ヨハネの20章の後半のですが、イエス様が復活された日曜日の夕方、イエス様が現れて弟子たちにお会いになったわけですが、その時にトマスだけは不在だったので、彼は信じないとかたくなにそれを主張したわけですが、1週間後、それが今日の第2主日にあたるわけですが、その時にもう一度イエス様が復活された。イエス様が現れて、トマスの自分自身の傷を見せて、手と脇腹の傷を見せて、信じない者ではなく信じる者になれとイエス様がおっしゃるわけですね。
トマスはそれを見て、私の主よ私の神よと言って、主イエスを礼拝するということになるわけですね。それに対してイエスはトマスに見ないのに、信じる人は幸いであるということをおっしゃるわけですが、私たちがどういう時に本当に信じるのかということなんですね。
実際、信じることの一番大切なポイントは何かと言えば、やはり見えていないからこそ、私たちは信じなきゃならない。もしそれがはっきりと見えていれば、実は信じる必要性がなくなっちゃうということなんですよね。
カトリック教会では対信徳といって、神様に対する徳は信仰希望愛と言われているんですけど、天国に行ったら神様をありのままに見るので、信じる必要性がないんですよ。神様が目の前におられるか、希望する必要性もない。神様が目の前におられるから、だから、天国に行ったら愛することしか実は残らないというふうに実は言われてるんですけれども、私たちは復活したイエス様を肉眼に見ているわけではないですし、たとえ弟子たちだって、復活したイエス様と出会っていたとしても、それは1回か2回ということでしょう。実際、私たちが信じるということを考えたときに、目に見えないことだから、私たちは信じるということが大切になってくる。
私たちは何を本当に信じていくのか。実際に聖書の中で信じるべきことの最大のものは何かといったら、イエスが復活したということなんですよね。それを信じるかどうか。
もちろん、この中にいる人は誰もそれを見ていないわけですけれども、でも私たちはそれを信じて歩んでいくことができる。それが幸いだ。みんな祈り、信じる人は幸いだというこの幸いを私たちが生きていくことができるかどうかということだと思います。
大阪の釜ヶ崎というところに関わりがあって、そこにいろいろな人がいるんですが、一人有名な人で入佐さんという女性の方で、若い頃から今はもうボランティアは山のようにいるんですが、昔はボランティアなんかほぼゼロというんですかね、まったく労働組合の人とクリスチャンや牧師さんやシスターとかがちょろっといたぐらいだったんですけど、そのときに入佐さんがプロテスタントの女性なんですけど、単身女性で一人で男の町に入っていって、それでいわゆる傾聴ボランティアの元祖のような形で労働者の人たちの話を聞いて。
彼女が言うんですけれど。ちょっと正確な言葉じゃなくて、私なりの解釈なんですけれども。やっぱり労働者一人ひとりを信じているというのでしょうね。その人たちも入佐さんを信じているというのか。私はあんまり人間に信じるという言葉は実は使いたくない。信頼するという意味でということですけど、今は生活保護とかとれるんですけど、昔はまったくどうなのか非常に困難な、野宿している人とかでも何になるのかのいろいろあって、生活保護はとれても当座のお金とかないとかなんとか、それで入佐さんが自分のお金を貸すわけですよね。お金を貸すということは、結局その人を信じているからお金を貸すということになるわけなんですよね。信じてお金を貸して踏み倒されたこと一度もないですしね。
それは何でかといったら、野宿者の側からすれば、入佐さんが自分を信じてくれてるから裏切れないでね。だからやっぱりちゃんとお金返さんとあかんと思って、今まで一人も踏み倒した人が0だというんですよね。ではなんで・・・
いや、実はちょっと私もいろいろちょっとだけ誤解があって、私も一人の人を信じていたんですけど、ちょっと詳しい話になる。裏切られたってちょっとオーバーだけど。僕が計画した通りにうまくいかないことがあって。トンズラ、トンズラあってもないんですけど、ともかくうまくいかなかったんですよね。それも僕もある意味彼を信じていたけれども、結局うまくいかなかったんですよね。彼も僕を信じてなかったか。いろいろな細かいことはいろいろあるんですが、うまくいかなかったことが実は最近あったんですが。
でも考えてみたら、なんで入佐さんには信じるってことが成り立つのか、それははっきりしていて、徹底的に話を聞いて徹底的に関わっているからなんですよね。どこまでもその人と悩みも苦しみも全部聞いて、それでも本当に関わっているから、つまりそこに信頼関係があるから信じるってことが成り立っているというか。まあ、当たり前といえば当たり前ですけれども、でも私たちはどういうときに人を信頼するとか、信じるとか、あるいは子どもを子育てしていて子どもをどう信じるのか。
だけど、その信じるって言ったときに、だから、それは将来のことですから、その子どもがどうなのかとかわからないし、問題を抱えていたらどうなるかわからないけれど、でも、そこでやっぱり信じるってことがあるから、その子どもにしろ、問題にある人にしろ、それを受け止めて頑張ろうとする気持ちが湧いてくるんですかね。
やっぱり人と人との深いつながりがあるところに、信じるということの意味が出てくる。あるいは信じることの力が出てくるってことなんですね。
だからやはりこの弟子たちだって、やはりイエス様とのいろいろな交流とか何かがあるから、だから最後の復活で、その後信じることができるという、そういう恵みが与えられているということですね。
今日の第2朗読の最後、ペトロが書いている手紙の最後もなかなかいいですよね。ペトロの次の世代に向かって書いてあるんですけど、あなた方がキリストを見たことがないのに愛し、今見てなくても信じているというふうに書いてあるんですよね。
それはもうイエス様との出会いがないわけですけれども、やっぱり使徒たちとか、その人たちの、またその次のですとかですね、その人たちと本当の心のつながりやふれあいや助け合い、そこに神の愛をお互い実感しているところがあるから、この今見てなくても信じている、しかも言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れているというんですよね。
やはり私たちが本当に信じられるとしたら、そこに愛と喜びがあるからだと思います。神様と自分との関係もそうだし、人間同士の関係でもね。
そして信じるというのは必ずないものに向かっているんですよね。だから、例えば今大きな困難があって。抜け出せないとか、うまくいかないとか、もちろんそのこともいろいろありますが、でも信じているからこそ、それを乗り越えて私たちは前に向かっていく力が与えられるということですね。私たちは神と神との関わりの中で、信じる恵みをいただいているということですよね。
強い弱いはもちろん、疑うこともたびたびありますけれども、でも信じる喜び、あるいは信じるからこそ、私たちは勇気をもって前に向かっていくことができる。人間同士もそうですし、神と私たちの間もそうだと思います。見ないで信じる者は、幸い私たちは喜びと愛があるから、イエス様が見えなくても、あるいは何か確かなしるしがなくても、でもやはり信じる気持ちを持って、前に向かって希望を持って、私たちが歩んでいける、その恵みをしっかり受け止めましょう。
改めて私たちは復活した主を信じて、それは前に向かって今の困難を乗り越えていく勇気と力が与えられるということですから。私たちが心から神を信じて、前に向かって毎日毎日、一歩一歩、愛の心で喜びの内が歩んでいけるようにですね、お互いに祈りたいと思います。
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ヨハネの福音書の空の墓の出来事は、復活をまだ理解できない人間の姿を示しています。英師は幼少期に「世界に一人だけ」という絶対的孤独を体験し、長く虚しさを抱えて生きてきましたが、洗礼を受けてから、その空虚は少しずつ満たされ、生き方そのものが変わったと気づいたそうです。復活の恵みとは、自分は一人ではなく、いつも神様が共に歩んでくださることを知ること。神に支えられているという確かな感覚こそが、絶望を消し、生きる力になるのです。
英神父さんの子供の頃のお話にゃ。
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
今読んだヨハネの福音書の心は、日曜日の朝早くイエス様のご遺体を納めていた墓が空っぽであったということを記しています。まずは、マグダラのマリアは、他の女性もいたかもしれない。そこで墓は空っぽであって、驚いてマグダラのマリアが男の弟子たちに告げて、そしてシモン、ペトロと愛しておられたもう一人の使徒ヨハネですけど、彼らが大急ぎで走って行って、空の墓を見て、イエス様の遺体がなくなったということで、ちょっと唖然としているところで、今日の福音が語られているわけですね。
そして、この復活ということを二人はまだ理解していなかったのであるということで、今日の福音書が締めくくられているわけですけれども、私たちにとって復活というのは一体どういうことなのかということ、それは一人一人復活の恵みをどこで感じているのかということを確認したいと思いますし、あるいはこれからですね、復活の恵みをどう得ていくのかということも問われているのではないかというふうに思います。
今日は、先ほども言いましたけれど、とにかく8人の方の洗礼式があるということで、大人の人が二人と小学生が5人と、幼稚園生一人ということで、非常に大きな恵みじゃないかなというふうに思います。
復活の恵みと、やっぱり洗礼の恵みはやっぱり深くつながっているのではないかというふうに思います。
自分自身が小学生のことをちょっと思い出して、キリスト教と何の関係もない仏教関係の家で育ったんですけれど、それが小学生で、もちろん楽しい思い出もいっぱいありますが、小学生の時に一番怖かった思い出というのは、それが小学校3年生の時だったか、5年生の時だったか、何年生の時だったか、ちょっとはっきり覚えていないですけれど、たまたま昼寝していたんですね。
昼寝していて、ふと目が覚めたんですよ。目が覚めたら家には誰もいなかった。どういう状況かは覚えていない。とにかく父親、母親もいなくて、妹が一人いるんですが、妹もいなくて、昼寝から覚めたら自分が家の中で全く一人の中で目が覚めたんですよね。
その時に思ったことはね、ちょっと言葉で言うとあれですけど、自分がこう孤独な存在というか、たった一人ぼっちだということを実は強く感じて、その一人ぼっちが、ということが、家の中でひとりぼっちだけじゃなしに、地球全体、ちょっと話が大げさだけど、地球全体の中で自分がたった一人だけだということを、小学生の時に実は深く感じたんですよね。
何か人間の絶対的な孤独というか、あるいはお墓が空っぽって言ったら、何かお墓だけじゃなしに全部が全部、世界中とか宇宙全体で空っぽで空っぽの中に自分がたった一人だけいるっていうですね、そういう強い悲しみというよりは、何か一種の恐ろしさみたいな感じで、小学生の時にその体験を非常に強く覚えているんですよね。
でも、だからと言って別に落ち込んで生きていたわけでもないですけれど、でも、ことあるごとに、もちろん勉強したり、友達とスポーツをやったり。小学生の頃、ほぼ毎日野球をやっていたから、ほぼ毎日野球を友達と近くのグラウンドでやったり。当時はみんな野球の時代だったんですよね。だからほぼ全員子供野球をやっていたんですけど、僕も野球ばかりやってやっていた。中学からサッカーに変わりましたけど。ともかく。いろいろ楽しいこともありましたが、どこかで自分が孤独っていうのかな、何か全く何もない中で自分がぽつんと生きているという、そういう深い深いところに虚しさというか、結局何のために自分がこの世に生きているのか。
もちろん家族もいますし、もちろんあれなんですけど、でもものすごい孤独というか、何かそういうものを心に抱えながら、小学生と中学校と高校で、キリスト教とはずっと関係があって、小学校の時には日曜学校はちょっと行ってたりとか、中学はミッションスクールに行ったりとか、いろいろキリスト教と関係あるんだけど、でもやっぱり時が、時が来ないとぴったり合わないっていうか、結局10年以上経って、大学生の時の20歳になって、あるきっかけがあって洗礼を受けたんですね。
その洗礼を受ける時に思ったのは、聖週間の受難物語を読みましたけど、やっぱりイエス様が死んでいく姿ってものすごく迫力があるというか、心に突き刺さるものがあるんですけど、今日のお話でもそうですけれども、復活に入った途端、何か話が急にぼんやりになっちゃって、イエス様が復活したって言われても、あんまりピンとこないっていうのかな。
急に死んだ人が蘇ってくるとか、それが自分にとってどういう意味があるのかなというか、ぴんと来てなかったんですけど。
でも洗礼受けて、今日は初聖体で、ちょっと幼稚園生の彼はちょっと初聖体はもうちょっと後ですけど、他の人たちは、でもご聖体をいただいたり、あるいは神の恵み、お聖堂の中で御言葉を読んだりする中で、小学5年生の時の絶対孤独みたいなものがだんだん消えていって、自分の全宇宙ではないけど、少なくとも自分の心が満たされていて、生きる喜びというか、力というか、そういうものが自分の中から湧いてくるのをだんだんだんだんと感じるようになってですね。洗礼を受けて、僕はなんかやっと本当に救われたという気持ちがあって、それから生きるのが嬉しくなったというか。
それまではどうかなんかこう、何かある虚しさというか、もちろん楽しく生きているんだけど、何とも言えない虚しさをずっと感じていたんですけど、洗礼を受けてからその虚しさが埋まってくるというんですかね。何かこう、深いところで力とか恵みを感じるように、だんだんとこうなってきたんですね。
1年ぐらいしたら、まあね、洗礼を受けるからといって、別に表向きは変わらないんですよ。洗礼受けるから急に美人になるとか、急に頭が良くなるとか、洗礼を受けるから仕事がうまくいくとか、勉強よくなると、そういうことはまだないんですね。ないんだけど、でもやっぱり洗礼を受けて1年ぐらいしたら、もう全然自分が自分の生き方というか、何か根本的な姿勢が変わるような気がして、その時に分かったんですよ。
何が分かったかって言ったら、聖書では復活を二人はまだ理解していなかったって書いてあるんですけれど、私も理解していなかったんですけれど、1年ぐらいしたら、自分の生き方が変わることによって復活の恵みをいただいてるってことに気づいたんですね。イエス様の苦しみだけじゃなしに、やっぱり復活の恵みを自分の生き方の中で知らない間に感じるようになった。
だから、洗礼を受けるということははっきりしていると思います。復活の恵みを受けて生きていくということなんですね。
それ以降安心して生きることができるようになった。何が安心して生きるかといったら、神様という拠りどころができたって言うんですかね。自分が帰っていけるポイントができた。つまり、小学5年生の時は何にも全てが、世界中が虚しくて、ただぼんやり暗闇のような形が広がっていたものが、イエス様の復活があるから、自分が確かなものに繋がっているという感覚が持てるようになったってことなんですね。
特にそれが思うのは、例えば試合前とか試験前とか、めちゃめちゃ不安になって緊張してうまくいくかどうか。でも神様がいてくれるから何とかなるんじゃないかっていう気持ちがだんだん湧くようになったし、あるいは何か辛いことが結局洗礼を受けて辛いことが減るかと言ったら、実は減らないんですよ。苦しみもあんまり減らないんですけど、でも、苦しい時でも自分を支えてくださっているイエス様がいるということは、何かを落ち込まなくなったっていうのが、本当の意味で絶望しなくなったというか、支えられているというんですかね。その支えのもとにずっと今は生きているわけですけれど。
だから、洗礼前のことを考えたら、どうやって苦しみに耐えていってるのか分からないっていう気持ち。つまり、神様がいない時は、苦しみは自分一人で抱えなきゃならないでしょう。辛いことがあったら自分で受け止めて、自分で解決して、自分で何とかしなきゃならないんですよね。友達に相談とかももちろんできますけど、それでも自分で自分の苦しみを背負うしか自分でやるしかないわけですよね。でも、洗礼を受けてから苦しいことがあったら神様助けてくださいって言えるようになったんですよね。神様がどこかで支えてくださっているから、自分は大丈夫というふうに思えるようになった。
これも本当に大きな恵みだと思います。だから、本当の意味で絶望しないというんですかね。もちろん、時々嫌になっても神父なんかやっておられるかと時々思いますけど、思っていても、別に神様が支えてるから大丈夫だって、やっぱりこう思える。
神様の支えがあるっていうことは、どんなに大きな恵みかなという、支えられているからといって、別に苦しみは減らないから、やるべきやるべき事とか直面することとか変わらないですよ。それはもちろんね、なんかこう、困難を乗り越えなきゃならないとか、問題解決しなきゃならないとか、全部同じなんですけど、でも支えられているから、自分だけじゃなくていいというですね、これは本当に大きな恵みだと思います。
皆さん洗礼を受ける8人の方、神様が自分を支えてくださっているということがどんなに助けなのかってことなんですよ。
神様と共に歩める恵みが与えられている。自分の力だけでも生きなくていいんですよね。自分だけで頑張らなくても、神様と一緒にやれば頑張っていける恵みが与えられる。
これからも、特に小学生の皆さん、これから中学高校とか、これから楽しいことと苦しいことが色々、でも神様と共に一緒に歩むならば絶対大丈夫だということなんですね。その神様が支えてくださっている安心感と喜び、平和な気持ち、それを大事にしながら生きましょう。
復活した主は私たちと共にいてくださっていますから、私たちを見捨てることは決してない。
復活したイエスはもちろん姿では見えないですけれど、でも私たちをいつも支えてくださっている、その恵みを受け止めて、感謝の内にですね、前向きに、勇気を持って、希望を持って、私たちが歩んでいけるように。共に洗礼を受ける人たちもそうだし、すでに洗礼を受けている人たちも、みんな共に支え合いながら、神様に支えながら歩んでいきたいと思います。
The post 【ミサ説教】ヨハネ福音書20章1-9節「神様が共にいてくださる」 first appeared on 英隆一朗神父の福音お休み処.
聖木曜日の晩餐は、イエスが死を前に弟子たちと食事を共にし、その心と恵みを分かち合った出来事です。食事は親しさのしるしであり、本当に分かち合ったイエス様そのものは「ご聖体」として今も私たちも恵みをいただいています。ともに食事をする、足を洗い合うという深い親しみの関係性を生きる、そんな生き方ができるように恵みを願いましょう。
https://hofucatholic.org/misa-info 防府カトリック教会の最後の晩餐のモザイク画ですはこちらから!
過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
今日の聖木曜日主の晩餐の夕べのミサを、今、私たちは捧げています。けれども、特にこの教会は、この晩餐のミサが意義深いのではないかなと思います。というのは、この祭壇の向こう側に、最後の晩餐のモザイクは大きなモザイクがかけられてあって、私はほぼ毎日これを眺めているので、この教会は最後の晩餐教会という名前にしたらいいのではないかと思うぐらいはともかく、あれが一番のイメージというか、何かに残るように思っています。
イエス様が最後に亡くなられる、亡くなられる前の最後の晩餐ということで、やはりイエス様が最後の最後に亡くなる前に弟子たちと一緒にこの食事をするというのは、イエス様にとってもそうですし、弟子たちにとっても非常に心に残る何か出来事だったのであろうと思いますね。
私はちょっといつ死ぬかはちょっとまだ分からないんですけれども、やはり人間が亡くなる前に、やはり親しい人と、それは主に家族でしょうけれども、最後の最後にやはり家族と食事の時を持ちたいと思うのは、人間として非常に自然な気持ちではないかなと思いますね。
ちょっと前ですけれども、伊丹十三の「たんぽぽ」という映画があって、その中でちょっとしたエピソードなんですけれど、お母さんがもうちょっと亡くなりそうで、寝ている時にね、子どもがいて、お父さんがいるんですけど、お父さんがチャーハンを作ってくれとお母さんにですよ。そのお母さんは寝ているんだけれど、起き上がってチャーハンを作って、そして最後家族でチャーハンを食べて、それでお母さんが亡くなるというシーンが出てくるんですけど、たぶんお母さんはチャーハンを作るのがたぶん上手で、最後にみんなでご飯を食べて亡くなるというちょっとしたエピソードだけ出てくるんですけど、何かやっぱりそういう気持ちになるかもしれない。共に食事をするということは、やはり何か親しさの心の触れ合いの具体的なしるしですから、それを私たちと一緒に食事をして、そして死に赴いていくということなんですよね。
この絵では、本当は食事ですから子羊を食べたんですけれど、こいつで1匹丸焼き食べるんですけれど、やっぱり一応ここは日本ですからお魚になっているんですけど、まあ3匹ぐらいの魚にちょっと入れ替わっていたりするんですけれども、でも、これもまた意味があって、お魚と言うのはギリシャ語でイクトゥスって言うんですけれど、イクトゥスというのはイエスキリストの意味なんですよね。だから古代からお魚というのはイエス様のシンボルで度々出てくるんですけど、結局、だから彼らが分かち合ったのは、イエスキリストを分かち合ったという最後の晩餐で、それはもうご聖体ということと深くやはりつながっていくんじゃないかなと思いますね。
そしてイエス様はそれを記念として行いなさいとことを私たちに命じられたわけですけども。
何かそういうことがあるかどうかあれですけど、やっぱり亡くなる前に何か記念を残したいっていう、あるいは記念になるものが何かというのは気持ちとしてあるかもしれないですけどね。
葬儀の時に、人によりますけれども、葬儀カードを作ったり、あるいはちょっとね、大切なものを棺に入れたりとか、何か記念になるものを、何かを最後に亡くなる前に分かち合いたいという気持ちになるのも、まあ人間的には記念だけじゃなくてね、イエス様はご聖体というもっと大きな記念を私たちに残されているわけですけれども、それも何か気持ちが分かるような気がしています。
そして、ヨハネの福音書は今読んだですけれども、さらに一つのしるしとして弟子たちが足を洗うという、それもやっぱり亡くなる前にイエス様が自分の生き方がどうなのかをもう一度行為として表す表したかったんだろうなという。
最後の晩餐の時の弟子たちは、ぴんと来ている人と来てない人もいるかもしれない。ちょっと分からないですけど、イエス様はそういう自分が死に行く最後の弟子たちとの関わりを何か表したかったんだろうなと思いますね。
このモザイクにも表れている通り、一人はユダですよね。もう誰が嫌なのかもはっきり分かるように描かれてますし、みんながみんなイエス様と心が合わさっていたわけではないように描かれているわけですけれど、この周りの12人を見てもいろんなことを感じられますけれども、だけど私たちはやはりこうやってミサを日曜日集まっていますけれど、やはりイエス様の本当の心というか、亡くなる前の心を何かこう思い起こしたいと思います。
私たちがミサにあずかるということは、結局、イエス様の最後の心を分かち合うために、私たちもこの最後の晩餐の席に招かれているという、それが私たちにとって本当に大きな恵みだと思うんですね。しかも、一人じゃなくてグループで共同体として招かれている。だから、これは典礼を表しているとも言えるし、私たちの教会のあり方を表しているような気もやっぱりします。
私たちが親しい人と家族はもちろんそうなんですけれども、やっぱり親しい人とどうするかと言ったら、やっぱり一緒にお茶を飲んだり食事をしたりする形で共に愛や親しみを分かち合うのは人間としてもごく当然のことですし、私たちは、教会はイエス様の恵みを分かち合っているということですよね。それが場合によっては食事のような親しみを分かち合う場でもありますし、場合によっては足を洗うという奉仕の姿でお互いのつながりを確かめ合うことでもありますよね。
足を洗うというごくごく当時は召使いのする謙遜な仕事だったわけですけれど、やはり私たちが交わりの中で誰かの足を洗うようなことがあるでしょうし、あるいは逆に誰かの誰かに足を洗われることがあるかもしれない。それを具体的に助けられたり、助けたりする。そういう関係の中で、私たちはイエス様の恵みを互いに分かち合いながら助け合っているということですよね。本当にこの共同体の恵みの姿を、最後の晩餐で全てが表されているような気がします。
私たちが、自分が亡くなる時に、だいたいは家族の誰かと一緒にってことになると思いますけれども、でもやはりそういうこの社会の中で、やっぱり苦しんだり孤独だったり、そういう方々もいっぱいおられて、そういう方々がやっぱり教会に招かれて、その人の足を洗ったり、あるいはその人と恵みを分かち合ったりする、そういう教会共同体のお恵みが周りの人にも広がっていく。その恵みが与えられている以上、その恵みを分かち合っていく使命が、私たちにもやっぱり与えられていると思いますね。
ミサに招かれるだけじゃなくて、人間的な何かつながりや助け合いや、そういうものの中で、イエスキリストのお魚であるイエス様が分かち合われて、お互いが豊かになっていくということですね。
この最後の晩餐の記念を、弟子たちは深く深く心に刻んで、この恵みを使徒として世界中に分かち合っていたわけですけど、私たちもその恵みを分かち合えるようにお願いしましょう。その恵みをしっかりつながりの中で、私たちもその恵みを受けながら、でも、その恵みを周りにいる人々にも分かち合っていけるようにですね。
本当に何か言葉が変ですけれど、やっぱり自分が亡くなる前に誰と一緒に食事をしたいのか。家族はもちろんそうですけれど、家族以外で何か本当の意味で。この人と親しみを深く感じた、分かち合えた、助け合えたという、そういう何か記念ができる、そんな生き方ができるように、教会そのものがそういう記念を広げていけるようにですね、心を合わせて恵みを祈りたいと思います。
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