英隆一朗神父の福音お休み処

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  • 【ミサ説教】ルカ福音書23章35-43節「王の力」
    ルカ福音書23章35-43節「王の力」2025年11月23日王であるキリスト カトリック防符教会ミサ
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    真の王、キリストの力、私たちの魂の中に王の力が働くと、自分自身に秩序が生まれ、自分自身から力が湧いて豊かになります。そして本当の王が生まれるためには一度王は死ななければならない。自分自身の人生で、イエスの死と復活に与ることが信仰生活で最も大切なことではないでしょうか。

    英神父さんの怖い夢のお話。

    福音朗読 ルカ福音書23章35-43節

     35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
     39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

    王の力

    年間の主日の最後が「王であるキリスト」というふうに定められていて、来週からは待降節に入るわけですけれども、最後がこの王であるキリストで年間の主日が締めくくられています。若いときから思っていたんですけれど、王であるキリストってどう考えたらいいのかなというかですね、現実問題も王様がいないので、今の現代社会には。たぶんこの教義ができたときは、たぶんヨーロッパの国々が絶対君主時代というか、王様に囲まれていて、それでバチカンの力が弱くなる。そんな戦いの中で、結局キリストこそ本当の王様だったということを言わなければならなかったという時代背景があるかもしれないですけれど、今はもう王様、どこにもいない。ほぼいないですから。王であるということをわざわざ言う必要性がどこにあるのかなというですね。
    そういう疑問も持っていました。

    でも、だんだん年を取るにつれて思うのは、やはりイエス様が主であるということは非常に大事なことじゃないかというふうに、だんだんと考え方が変わってきたんですね。というのは、いわゆる子どもたちが読むファンタジー物語、ナルニア国物語とか指輪物語とか、ああいうお話はおとぎ話ですけれども、だいたい王様が出てくるんですよ。
    しかも、国が混乱している時はどうかといったら、王様の力が弱かったり、王様がいなかったり、王様が年をとっちゃったとか、病気だったとかってですね、王の力が弱くなった時に、その国に大きな混乱と貧困と戦いと悪の力がはびこってくる。
    そこで、本当に力のある王様が即位して、王の力が発揮されると、その国が安定するという、王が本当の方がいるところはですね、秩序が保たれる、秩序と正義が保たれて悪の力が抑え込まれるということと、もう一つは、王の力が強いところでは国が豊かになると。王の力が弱いとみんな貧しくなってしまうんですけれども、王の力が発揮あるときにこそ、そこに本当の豊かさがもたらされる。
    だから、そういう世界を見ていて、やっぱりしっかりした王様がいるということは、社会的にも非常に大事なことではあります。

    そしてもう一つは、そういう心理学の方がよく言うことなんですが、私たちの存在という、私たちの魂そのものにも王の力が働いているかどうかということが非常に大切なことだと思うんですね。
    私たちの魂の中に王の力がはっきり働いていると、自分自身に秩序が、自分の存在がまとまって、しかも自分自身からエネルギーとか力が湧いてくるから、豊かさが出てくるということなんですね。

    私たちは、このイエスさまを本当の王として、自分の生き方の中心に据えられるかどうかということは、非常に大切なことだと思います。

    人間の一人の魂もそうですし、教会にしても社会にしても、人が集まるところに王の力がちゃんと働いている。
    誰が王様になるかということじゃなくて、王としての力がちゃんと働いているかということが大事なんですね。

    でも、私たちはしばしば混乱したり、人間関係がうまくいかなかったり、家族の中になにかがある。自分自身の存在がうまくいかないってこともあるでしょう。

    ある時ですね、僕が中年の頃ですけれど、だんだんと老年期に入りました。中年期の時に何か自分が何か、いわゆる中年の危機というか、ミッドライフクライシスというのがあって、その時に自分が何かバラバラになって、自分の存在がバラバラになっちゃったような気持ちになって、人間関係もなんかうまくいかないし、仕事もなんか行き詰まるような、そういうちょっと何かスランプに陥った時に夢を見たんですね。

    私は夢で自分の心の中の分析したりするのが好きなので、夢日記をつけていて、その時に見た夢がちょっと衝撃的な夢を見たんですけど、何人か集まっているんですよ。僕もその中にいるんですけど、なんと一人の男を連れてきて、その人を縛ってこれから殺すというんです。みんな男の人を殺すって言うんですよ。しかも英、お前、やれみたいな。僕にやれって言うんですよ。僕はえーとか、僕は神父なのに人を殺したら大変じゃないかなと思うんですけど、場の雰囲気で僕がその男の人を死刑執行せざるを得なくて、殺しちゃうんですよ。
    夢の中で殺して、すごいおどろおどろしい夢で、最後どうしたかって言ったら、その男の人を切り刻んでシチューにしちゃうっていう。ちょっと何か怖いような、ちょっとおかしいような夢を見た時に、ものすごいショックで、目が覚めてからも「人を殺しちゃったよ」というふうに思ったんですよね。

    でもそれがね、実はその時の危機を脱する一つのきっかけになって、それの運命みたいなのとほぼ同じぐらいに僕も一つの決断をして、仕事とか人間関係とか整理する決断をするのとほぼ同じ時期だったんですよ。

    後から考えて、あの夢の中で殺した男性は一体誰だったのかって言ったら、古い自分だってことに後から気がついた。
    つまり、自分の今までの生き方、私はもううまくいかない。古い自分を自分が殺して、そこで一つの区切りをつけて、その後どうなったかっていったらですね、自分の中の存在にまとまりができて、バランスがこう自分の中でもう一度取れて、そして今日のこれで言うなら、やっぱり王様の力が自分の中に働いてですね、人間関係の整理されて、仕事も道筋がつくってことだったんです。

    でも、本当の王が生まれる前には死ななきゃならないという法則がある。だから、今日の王であるキリストの祝日に何が生まれるかと言ったら、イエス様が十字架にかかって死ぬところが生まれるんですよね。これは僕は本当にその通りであって、実はその夢を見てから思うようになりました。

    イエス様はもう復活して、本当の王の王になるために一回死ななきゃならなかったんですね。だから、イエス様を王として死ぬんですけれども、本当の王として復活して、神の国を治める本当の力を彼が得て、その神の国を私たちに提供してくださっているわけですね。

    私たちがバラバラになったり、秩序が混乱したり、特にライフステージが変われば、少年少女から青年になる時、あるいは青年期から中年になる時、あるいは仲間から老年老年期になる時、あるいは結局死に向かう時、やっぱりバラバラというか、ある自分の中の人間関係とかがバラバラになった時に、古い自分に死ぬことができたら、そこから本当の王が新たに生まれて、自分の中にバランスと秩序ができて、新たな豊かさを生きることができる。

    その恵みが私たちに与えられている。だからイエス様こそ王であって、その主の力に私たちが与っていくということは、私たちの人生というか、信仰生活で最も大切なことの一つだというふうに思うようになりました。

    私たちがなんで王様に悪いイメージがあるかといったら、独裁者になって好き勝手やったりして、それは本当の王じゃないわけですよね。
    王であることの一番大事なことは、自分のエゴから外れていることなんですね。自分のエゴとか執着と王様が一つになったら独裁者になって、暴君になってバラバラになって、みんなをやっつけたり貧しくなったり、ごちゃごちゃになっちゃう。その危険を私たちの中にいつもある自分自身のエゴとか執着に囚われていくと、どこかがバラバラになってしまって、暴君というか悪い王様が出てきてしまうわけですね。私たちがどれだけ自分のエゴとか執着とか、過去の囚われに死ぬことができたら、そこからこそ本当の王の力が私たちに、私たちの社会に、自分の家族の中に働いてくるということですね。

    今日の聖書の箇所から、良き盗賊がイエス様と一緒に死ぬわけですよね。
    一人の盗賊はイエス様を拒否して死んでいくから、その死は無駄に終わるわけですけど、良き盗賊の方はイエス様と心を合わせて死ぬから、そこから彼は復活の恵みにあずかって、今日あなたも楽園にいるとイエス様は約束してくださっている。
    それは新たな十分新たな状況に合わせた、本当の自分自身の力を発揮できる。その恵みにあずかったから。良き盗賊なんですね。

    イエス様と力を合わせて、私たちはいらないものを置いて、執着置いて、新たに生まれる時に私たちは魂の成長というか、神様の国に一つ近づくことができるということですね。

    この恵みを願いましょう。だから、今バランスが取れている人はそれでいいと思います。何かいろいろな健康とかいろんなことがうまくいっている。それはそれでいいと思うんですけど、バランスが崩れたり、だから、そこはやっぱり神の力が働いてない。そこを私たちは乗り越えていくために、何か執着を捨てて、エゴを捨てて、イエス様ともう一度結ばれるならば、新たな秩序と新たな力が湧いてくる。その恵みを願いましょう。

    一人一人もそうですし、日本の教会にしてもそうですし、日本の社会にしても、今、本当に新しい王様が必要なのかもしれないですけれども、私たちが本当の神の国の秩序と神の国の豊かさを味わうことができるように、共に祈りを捧げたいと思います。

    14 min
  • 【ミサ説教】ルカ福音書18章35-43節「本当のことが見えたら」
    ルカ福音書 18章35-43節「本当のことが見えたら」2025年11月17日年いやしのミサ旅路の里
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    私たちは実は見えていないことが多いのかもしれません。本当に大事なことが見えるようにイエス様に願いましょう。目の見えない人はイエス様のいやしをいただいてそのままイエス様に従いました。私たちも、一人ひとりにイエス様が開いてくださる道を歩みましょう。

    年の黙想やら、引っ越しやらでご無沙汰していました。

    神父さんは防府教会に赴任しました。

    福音朗読  ルカ福音書 18:章35-43節

    イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

    本当のことが見えたら

    ちょうど今日の福音書は、ルカの18章イエス様のちょうど癒しのところですよね。ある盲人が、目の見えない人が物乞いをしていて、群衆が、多くの人が通っていくのを見て。目が見えないから他の人に聞くわけですよね。ナザレのイエスの通りだと言って、イエス様の評判はこの盲人も聞いていたのであろうと思われますから。それで彼は自分にも愛おしいと思ったのでしょうけど、ダビデのこういうイエスを、私を憐れんでくださいと叫んだわけですね。
    でも、周りの人がうるさいから、叱りつけて黙らせようとしたが、ますます大きな声でダビデの声、私を憐れんでくださいと叫び続けたということですね。

    実際、目の見えない人は目が見えないというのは非常に大きな、当たり前ですけど、大きなハンデなので、どこを歩いているのか分からないわけですから、やっぱり大きな声を出すしかないわけなんですよね。
    目の見えない人と付き合っていると、実はこういうことが多くて、分からないことがあったら、結局集まりとかだったら、普通、目が見えてたら受付とかに行って、これはどうですかとか、そういう人と会っているわけですけど、目が見えない人は受付がどこか分からないから、だからこれほんとこれよくあることで、大きな声でとにかく言うしかないんですよね。

    だからわりと目の見えない人は大きな声でわりとちょっとみんなに聞こえるように、とにかく誰かに分かるように、大きな声でこうわりと言う人多いんですよね。それはもう一つの障害があるから仕方がないですけど、目が見えてたら大声を出さなくて、むしろ全然構わないんですけれど、やはり仕方がないですよね。
    目が見えないんだから、もう誰がどこにいるか分からないから、困ったことがあったら言わざるを得ないんですよね。

    日本語でね。空気を読むとかっていうことがあって、空気を読むって英語で絶対表現できない。で、空気を読むっていうのは、実は見ているってことが実はポイントで。みんなの顔色とか見える。

    だから盲人の人って空気を読むのがめちゃめちゃ苦手なんですよ。だって見えないから分からないんで。だからやっぱり場違いにちょっと大きな声を言ったりとか、実はこれすごいよくあることなんで、非常にそうだなという風に思う描写なんですけど、そこでイエス様にやっと声が届いたから、盲人をそばに連れて行くように命じられて。
    イエスがわざわざ彼に何をしてほしいのかと言ったら、目が見えるようになりたいのですということを言ってそれでイエス様が見えるようになれて、あなたの信仰があなたを救ったというふうに宣言されて、そしてこの盲人は目が見えるようになったというわけですね。

    これは本当に大きな恵み、この盲人にとって大きなお恵みだったと思いますけれども、私たちにとっても実際ですね、どれくらい見えているのかということも、実は大きなポイントではあるんですよね。

    それで思い出したんですけど、国民の「民」というか、民族の「民」ですよね。
    「民」という漢字ですけれど、あの漢字の由来って実はなかなか厳しいものがあって、頭の上の口の部分は実は目なんですね。語源からいったら、右側にぴゅっと出ているとか、横の線みたいな。何かというと、実は槍なんですよ、本当は。実はあれは槍で目を突いているという。

    つまり目を見えなくさせているということなんです。

    誰が目を見えなくさせているかといったら、それはやっぱり権力者なんですよね。だから、みんなが目が見えたら困るから。だから結局、普通の人は槍で目を潰して目を見えなくしているのが民っていう本当の意味なんですね。

    だから結局私たちも見えてないといういろんなことがあるということな。その語源的に白川静がそう言ってるんですけど。だから、なかなか本当に私たちは見えているのかどうなのか。まあもちろんフェイクニュースとかいろいろあるけど、その昔からですよね、大事なことはやっぱり見せないわけで。

    だからオールドメディアだろうとニューメディアだろうと、やっぱり本当のところは実は隠されているものがいっぱいあって分からないという、だから私たちもやっぱりイエス様に本当に大事なことが見えるように願わなきゃならないということが、一番の根本的なことの一つじゃないかなと思いますね。

    だから、イエス様が何をしてほしいのかと言った時に、結局はこんなに情報がいっぱいあっても分からないことを、自分の人生のことについてとか、人が抱えてどうする、仕事をどうすればいいかとか、これからどうすればいいかとか、分からないことだらけですから、実は見えていないことがいっぱいあるわけですよね。

    特に信仰信仰の道を歩めばいいかってこともよく分からないことが多い。だから、私たちはイエス様にやっぱり本当に何を見せてほしいのかをしっかり願わなきゃならないということでありますね。

    ついでに言うとね、この最初に群衆が通っていくのを目にして、群衆って書いてあるんですけれど、ここには民ってないんですけど、「群衆」というのはある意味なんですよね。
    聖書の中では旧約新約の中で群衆というのは、実は目が見えてない人々の集まりみたいな感じで、実は聖書で書かれているルカの福音書だったら、今日の最後にこれを見た民衆がこぞってみな神を賛美した、「民衆」って、実はいい意味で使っているんですよ。小さな民、神様に従っている民。
    神様に逆らっている人たちは、実は「群衆」って言葉で、実はこのギリシャ語も違う、全然違う言葉なんですけどね。

    だから私たちはやっぱり群衆っていうか、流れに巻き込まれちゃうと見えなくなっちゃうっていう、だからもう今だからそれがSNSで操作されるから余計に明らかですけど。
    でも昔から実はそうで、結局見えてない。結局誰かの都合のいいように流されたら、そっちの方にみんな行っちゃうというのが、実は私たち民のもともとのあり方みたいなところなんですよね。だから私たちは群衆に流されているのではなくて、やっぱりイエス様に聞いて、本当に目を開いてもらわなきゃならないんですよね。

    目を開いてもらうから、この人はどうかと言ったら、盲人はたちまち見えるようになり、神を褒めたたえながら、神を賛美してイエスに従ったって書いてあるんですね。だから、見えるようになって、イエスがどこに行くか分かったから、それに従って行くことができたということなんですよね。

    目が見えるってことは、イエスがどこに行くかってことが分かって、それに従っていけるという、そういうことを私たちはやはり積み重ねていくことができたらいいんじゃないかなと思いますね。やっぱり一つは、神を賛美することと、神さまがこっちだっていうところがちゃんと分かって、そっちをちゃんと歩めるかどうかですね。
    一人一人の道は全く違いますし。

    でもね、この人はエリコでの話なんですけど、エルサレムに行く前の日にエリコに泊まってるんですよ。ちょうど1日の距離なんです。エリコからエルサレムがたから、これはもうエルサレムの前の晩に泊まっている話なんですよね。
    だからからイエスに従うと言ったら、他の福音書ではバルトロメオって書いてありますけれど、とにかく十字架に向かってイエス様に従っていくしかないです。ここで従うというのは、エルサレムに向かってくださいに従うんだから、ここでイエスに従うってことは、実はすごく厳しい話で。
    なんかね、病気が治ったから、じゃあ自分で好きなことができるとかじゃなくて、目が見えるようになったから、本当に十字架に向かうイエス様に従っていくっていう話だから、相当厳しいんですよね。そこにそれに目が開かれて、そうできるということなんですよね。

    私たち一人一人も本当に見えるものが見えるようになって見える。本当のことが見えたら、かえって厳しいかもしれない。イエス様がこっちだと群衆がこっちに行ってるんだけど、あなたはこっちですよって言う。そう言われたら、やっぱりイエス様はそうだとしたら、そうしなきゃならないわけですよね。

    でも、その道を私たちが歩めるかどうかということですね。私たち一人一人に対してイエス様が開いてくださる道というか、それは違いますし、見かけも違うし、それがはっきり分かってそれに従える。その恵みをですね、願いたいと思います。そしてやはり囚われている。いろんなことで捕らわれていて、見えてない人の目も開かれてですね、本当に主の道を歩むことができる恵みを合わせて願いたいと思います。

    12 min
  • 【ミサ説教】ルカ福音書18章9-14節「本当の祈り」
    ルカ福音書18章9-14節「本当の祈り」2025年10月26日年間第30主日ミサ防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    私たちが生きていく世界で、自分のことであれ、周囲の人のことであれ、私を憐れんでくださいという祈りを謙遜に捧げることこそ私たちクリスチャンの一番の使命ではないでしょうか。そのような祈りによって私たちの中に神様の力が働いていくと思います。

    三週間ほど説教ライブはお休みです。

    福音朗読 ルカ福音書18章9-14節

    9〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

    本当の祈り

    今日の福音書はルカの18章を二人の人の祈り方をイエス様が対照的に比較しているというか、描いているという形のたとえ話なんですけれども、ルカの福音書では、特にこのように対照的なこの二人の人を挙げて、そして私たちにタイプをかけるというのはですね、ルカの福音書の大きな特徴です。放蕩息子とそのお兄さんとか、マルタとマリアとかですね、対照的な。二人の態度を取り上げるわけですね。

    今日は祈りの態度で、一人はファリサイ派の祈りで、もう一人は徴税人の祈りということですが、
    ファリサイ派の人の祈りは。実際、神様に感謝をしているのですが、これが純粋に祈りかどうかも、なかなかちょっと難しいかなというふうに思います。結局、自分がやったことを誇っているというか、自分がやっていることを、まあ何か神様に報告してるよね。私は週に2度断食し、全収入の10分の1を捧げていますと。自分のやったことを神様に言っているだけで、他の人と比較しているわけですが、これが本当に祈りかどうか、なかなか難しい感じは、やっぱり祈りは感謝するとしても、神の恵みを感謝するものであって、自分がやったこと、これをやりますと、これをやりますと報告するところではないので、ちょっとこの人の祈りはと祈りと言えるかどうかというのは、確かに大きな疑問があります。

    逆に徴税人、徴税人というのは、罪人の代表者で、税金を集めてローマ帝国の税金が集まって売国奴でですね、それでもってピンはねとかしているから、なかなかお金持ちであって非常に嫌われた人なんですけど、罪人の代表者みたいな。
    その人は遠くに立って胸を打ちながら、神様は罪人の私を憐れんでくださいと、神様に自分の弱さ、至らなさをさらけ出して、神様に憐れみを願っている。これこそやはりこの態度を神様が義とされた義とされたということですけれども、でもそれは何か本当に私たちの宗教的な態度というのはどこにあるのかと言えば、やっぱりこのようにですね、自分の弱さや至らなさを認めて、神様に私を憐れんでくださいと素直に祈ることができるかどうかということですね。

    この憐れんでくださいという気持ちの中には、ごめんなさいという自分の失敗を悔い改める気持ちもあるでしょうし、あるいは憐れんでくださいと言葉の中には助けてくださいっていうんですかね。自分の苦境から救ってくださいという2つの意味があるわけですけれども、私たちが辛い状況とか、うまくいかない状況に置かれた時に、やっぱり私たちはこのように私を憐れんでくださいというふうに素直に私たちは神様に祈ることができる。

    それは私たちにとって一番ふさわしい祈りの態度の一つではないかというふうに思います。

    というのは、やはり自分の欠点とか弱さを認めて悔い改める人にしか進歩がない、というか、こう発展がないというんですかね、このファリサイ派の人のように、これこれだけやります、あれだけやりましたと言ってたら、結局それだけの話で、それ以上の何か展開がないんですけど、でもやっぱりちょっと自分に悪かったなと思うところがあるところがあるならば、そこから何かさらに進歩していくとか、さらに自分を高めていこうとする気持ちというか、余地があるということですね。

    時々、夫婦げんかの話を聞くこともあったりしますけれども、やはり当然夫婦だから喧嘩することは普通はよくあることであると思うんですけど、夫婦げんか、例えば夫婦喧嘩した後に、ちょっとでも何か自分も悪かったなと思えるカップルは何か言葉があるだけ見込みがあるというのが自分もちょっと悪かったなと思うところがあったら、ちょっと変えていこうとする余地がどこかにはできるかどうかはともかく、余地はあると思いますが、やっぱり一番僕はなんというのか、このファリサイ派の人みたいに、ちょっと絶望的なのはですね、相手が悪くて自分は全く正しいと思っているカップルはちょっと難しいかな。

    つまり、相手が全部悪くて、自分も正しい、つまり自分はただの被害者で、相手が全部悪いと思っているような人は一番難しいかな。

    なんでかと言ったら進歩が全くないわけで。つまり自分が何言うのかな、こう相手を変えようとしたって絶対変わらないわけですよね。この相手を変えようとする努力を50年続けたって、実際はほぼ変わらないことの方が多いわけで、結局自分が変わっていけるかどうかというところが一番大きなポイント。

    だから私は憐れみ給えと。神様に自分の弱さや至らなさを認めて、神に愛を願うところから自分が変わっていける余地があるというかですね、神様の力が、働く余地が生まれてくる。

    だから私たちは何か憐れみ給えというのは、ただ単に、何て言うんですかね、がっかりしているだけじゃなくて、やっぱり前に向いて歩んでいく、その力と恵みを得る一つのきっかけじゃないかなと思いますね。

    私たちが与えられている一つの大きな恵みは、悔い改めることができるということですね。
    悔い改めることによって、神の力が実際、私たちに強く働いてくる。それを私たちが受け取れるかどうかということだと思いますね。

    さらに言うならば、それは単に自分のごちゃごちゃしたことだけでもなくて、この神様に憐れみを願う心は、さらにもっと積極的な意味もやはりあるのではないかなと思いますね。

    最近はちょっとあんまり話題になってないかもしれない。天皇、日本の天皇陛下の問題ですけど、日本の天皇陛下は日本国民の象徴ということになっているわけですね。象徴というのは一体何なのかということが度々議論されるわけですけれども、今の上皇陛下、平成の時に天皇陛下だった、彼はですね、自分自身が象徴なわけだから、象徴とは何かって一番考えてるのはやっぱ天皇陛下だと思うんですけど、前の天皇陛下は、象徴的行為は天皇陛下の象徴的行為は一体何なのか、彼なりに考えたことはこういうことなんでしょうね。

    先の大戦で亡くなった方々のところに赴いて、その被害にあったところですよね。そういうところに赴いて、日本人の亡くなった方々を含め、現地で亡くなった方々も含め、その人々のための慰霊、鎮魂、慰霊を捧げることが象徴的行為だということをおっしゃるわけなんですね。

    つまり、やはり日本人の日本の中に、そして彼は戦争のものだけじゃなくて、やっぱり震災とか大きな災害の時には必ず出かけて、皇后陛下と一緒に出掛けて行かれて、祈りを捧げて慰問をされるわけですよね。それはやはり日本の日本国民が心を心掛けることをいわば代表して行っているというふうにも言えるかもしれない。

    結局、痛みや苦しみがあるところに、日本の日本人、あるいは日本に関わっているアジアの方々を含めてですね、その痛みのあるところにわざわざ赴いて祈りを捧げて、被害者の方に慰めの言葉をかけられるということですけど、それが象徴的行為であるというふうに彼は考えて、それを結局ずっと実践されていたわけですね。

    そのことを思う時に、例えばこの前の教皇フランシスコもそうですけれど、やっぱり日本の広島と長崎という大きな悲劇のあったところにわざわざ赴いてこられてそこで祈りを捧げられているわけですね。でも、その祈りの心は何かといったら、やっぱり徴税人の祈りだと思うんですよね。

    そこでこそ私を憐れんでくださいと神様に赦しを願い、そして苦難から立ち直ってくるように祈りを捧げるというですね、非常にそれを積極的に、何て言うんですかね、本当の祈りを捧げる本来の行為じゃないかなと思います。

    この中に日本人の方もアジアの方々も様々な方々がおられると思うんですけれども、私たちは結局、じゃあこの祈りをどこで実践するかというと、やっぱり自分の周りで痛んでたり、苦しんだり、困難を抱えているその場にですね、自分自身の身を置いて、そこでこそ神様に私を憐れんでくださいという祈りを、それは場合によっては自分のためもあるでしょうし、場合によっては自分の家族のことかもしれないし、周りの人かもしれない。

    そして私たちは広島教区ですから、やっぱり原爆の犠牲者のためにも同じように私を憐れみたまえという祈りを捧げていく。
    そのような使命を私たちは帯びていると言えるでしょうし、私たちのこの自分の中も、自分の周りにも、やっぱり苦しみや痛みや、それは社会的なこととか、いろんなことで病気になったり、困難があったりですね、まあ大なり小なり、私たちの周りのどこかにそういうところがあるわけですけど、だからこそ私たちはまさしくそこでこそ私を憐れんでくださいという祈りを謙遜に捧げることができるし、それを捧げることこそ私たちクリスチャンの一番の使命じゃないかと思いますね。

    それは本当に周りの小さなことから、社会の大きなことまで全てです。けれども、私たちが神に願えるのは、自分でできることは、私たちは自分でしなきゃならないし、それはしなきゃならないんですけど、でも本当のところ、やはり大きな災害とか困難とか、人智を超えている苦しみに私たちは遭うことは度々なわけですね。
    そこでこそ私たちは主を憐れんでくださいという謙虚な祈りを捧げることこそが、私たちのクリスチャンとしての使命、私たちの祈りの使命の根本じゃないかなと思いますね。

    まあ、うまくいっているところには、神様に感謝と賛美でいいと思うんですけども、私たちの周りにある何か、こんな何か逃げたくなる、何、嫌なことがあったらなるべく見ないようにとか、逃げたくなる気持ちもあるんですけど、そこでこそ私たちは祈りを捧げることができるし、祈りを捧げることによって、そこに神様の力が働いてくださることを謙虚に願っていくことができると思います。

    神様に本当の意味に信頼しながら、謙虚な心で、私たちの無力さや至らなさを認めながらですね、神様にしっかり頼って歩んでいけるように、共に祈りを捧げたいと思います。

    15 min
  • 【ミサ説教】ルカ福音書12章13-21節「外側の問題」
    ルカ福音書12章13-21節「外側の問題」2025年10月20日いやしのミサ旅路の里
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    私たちの悩みの原因は外側ではなく、内側に、心にあることがほとんどです。外側が整っても内側が根本解決しなければ問題は解決しないでしょう。内側を変えて新たな生き方をしてこそ本当の救いといやしがあるのです。

    旅路の里のいやしのミサでのお説教です

    福音朗読  ルカ福音書 12章13-21節

    (そのとき、群衆の一人がイエスに言った。)「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

    外側の問題

    今日はルカの12章のお話ですけれども、ここのところは、このエピソードは非常に考えさせられるところの一つなのですね。最初に先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってくださいという遺産相続の問題で、兄弟で揉めて、それで困ってイエス様のところに相談に来たわけですね。

    実際、神父さんの仕事をやっているせいもありますけど、カトリック信者の中でも遺産相続で揉める人が実はすごい多いんですよね。お金がなければ別に問題ないんですけど、なまじちょっと親が財産なんか残したらもう信者未信者は関係なしにものすごい争いになる人、実は結構いて、大変な問題ですけれどもね。

    なんかそれで兄弟だけで、兄弟姉妹で裁判やって、もうごちゃごちゃで、だからもうそうなったらもう生涯もう会わない。もう親戚の集まりもなくなっちゃって、もう一生、兄弟だけど、会わないというか、もう完全に喧嘩別れになっちゃう人は実は今でも多いんですよね。

    まあ法律でちゃんと決まっているけど、結局収まらないからということなんですけれども。だからそういう問題を、当時だって、だから、そう問題があって、結局そのイエス様の訴えに来たんですけど、イエス様はそのことに何か言うかって言ったら、そんなこと何も言わないですよね。

    誰が私はあなた方の裁判官や調停人にしたのかと言って、イエス様はそういう裁判に関心がないっていうか関わらないかという感じのことになるわけですけど、じゃあイエス様は何を見ているのかといったらですね、外面的な争いというのは外側のことに、私たちはだいたい外側のことに、問題があるからか、誰かに相談したり、例えば私のところに相談に来る人のほとんどは外側の話ですよ。もちろん財産の問題で僕のところに相談に来ない、来ないですけど。弁護士のとこに行くから、相談には来ないんですけど、人間関係とか、家族のこととか、仕事の外側の問題で、皆さん僕に相談に来るわけですよね。

    だからまあ僕なりにああした方がいいとか、いろいろもちろん考えて、今、神父さんの相談するより、AIに聞いた方がというか、適切な答えもあるかもしれないんですけど、でもイエス様のポイントは全然違うんですよ。じゃあ、遺産相続の問題に来たのにイエス様はどう言うかと言っているかというとですね、どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさいと。

    だから、この人の本当の問題は遺産相続じゃないんですよ。本当の問題は貪欲、心の中の問題がイエス様にはっきり分かったから、だから、外側のどうのこうのっていう、その解決じゃなくて、自分の心を解決するかってか。自分の心をどうするかの問題でしょうって。
    イエス様はポイントが何かこう中なんです。心、心なんですよね。心のあり方というか、それを問うているわけですけど、これだけでも本当に考えさせられますよね。だから、私たちは外側に問題があると思っているけど、本当は外側の問題なのか、心の中の問題なのかっていうことで、イエス様の視点は完全にまず心を整えるというのは、何に縛られるとか、囚われているのか、トラブルなのかを見なさいとわけなんですけど、ここだけでも本当に見事だなと本当に思いますけれどもね。

    だから、私たちが病気にしてもそうですけど、やっぱりこれも外側の問題、本当は何とかとか、家族が病気になったとか、いろいろいろいろ、まあもちろんそれは適切な治療をしなきゃならないですけれども、でも本当の問題は心の中にあって、それをどうするかということを私たちはもっと改善しなきゃならないんですよね。

    だから、この後にまた一つの例え話ですよね。ある金持ちが豊作で、とにかくもういっぱい金儲かったと思って、大きな蔵建てて、これからウハウハだと思ったら「愚かなものよ。今夜お前の命は取り上げられる」と。お前が用意したものは一体誰のものになるのかって。だいたいどら息子のものになっちゃうわけで、どら息子がまた遺産相続して遺産相続争い事になっちゃったりとかね。

    だから何かこれはお金の話ですけど、他のこともそうで、私たちの外側が解決したらすべてうまくいくと思っているけど、大間違いなんですよ。
    外側が整ったとしても、心が整わなければ、結局は病気が治ったからといって、じゃあそれでOKか。全然オッケーじゃないわけですよね。大酒飲んで胃潰瘍になっていたら、病気が治ると良かったなと思って、また大酒飲んだら同じことで、やっぱりどう心を整えられるのかというところに、本当の癒しとか本当の救いがあるということですよね。
    それを私たちはポイントをさらさないことが一番大事なことだと思います。

    彼がイエス様、ここはこう締めくくられているんですよね。

    自分のために、自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだと。だから、外側にいくらあれしても、心の中、神の前で豊かになってないと、何のための外側の富かということですよね。

    実は健康も同じですよ。いくら健康だって。でも、その健康なことでめちゃめちゃのことをやってたとしたら、それは本当に神の前で、本当の意味での健全さというか、健やかさがあるかどうかという、そちらを私たちはもっと見なきゃならないということですよね。

    だから、私たちはいろんな願いとか、大なり小なり外側の問題を、みんな誰だってありますけれど、大なり小なりありますが、もちろんそれは適切に解決しなきゃならないと思いますけれども、でも、それと同時に、自分の心がけとか、何でこのようなことに囚われているのかとか、なんでこんなことで悩んじゃうのかとか、なんでこういうところで振り回されてしまうのかというところをよく見なきゃならないということですよね。

    じゃあ、神の前に豊かになるのはどういうことなのかという話なんですけど、実はミサの聖書って切れてるから。
    部分的にしか読まないんですけど、この後、実は傑作の話が実は続いている。ルカの福音書って続きで読んだ方がずっと面白いんですけど、この後は思い悩むなという話なんですよ。この何を食べようか、何を飲もうか思い悩むなってことなんですね。

    これはマタイにも出てきますけど、ルカの方はこの話の続きでこう書いてあるんですよね。小さな群れよ恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださると。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなた方の富のあるところに、あなた方の心もあるのだという話になるんですよね。最初は。だから、遺産相続で自分の取り分が少ないとあなたが言っているんですけど、最終的には持ち物を売り払って施せというのが結論て、実はこの話の。
    私のいくら取れるかよりも、持っているものをどう分かち合うかというね。そこが一番大事だという。
    小さな群れよ恐れるなって書いてあるので、私はついつい恐れて、老後の心配もあるから、もうこれだけお金がないとか、何なんか、取ることばかり考えがちですけれど、でもイエス様は分かち合えと持っているものをですね。
    というんだから、もう前の話に結局なっちゃうんですよね。
    それが神の前で豊かになることだと。

    この世でいくら健康とかお金とか、社会的な成功とか、それは神の前で豊かなことと全く関係ないというわけですから、むしろどうやって私たちは持っているものを、お金だけじゃない、自分の健康な体だったらそれを使って何をするかとか、あるいは何か自分に時間とかエネルギーがあるなら、それをどう施すというのか、分かち合っていくかというかですね。

    その中でこそ神の前の豊かさがあるということですね。さっきのところからここまで読むと、なんかもう話が完全に入れ替わってるんですけど、それを私たちが回心というか、心のあり方を変えていく。だから最初は外側の問題があったとしても、それをしっかり受け止めて、そこからやはり本当の豊かさは何なのかというふうに自分の方向性を変えて、しかも実践していくということですよね。

    心を変えて新たな生き方をしていく中でこそ、私たちには本当の救い、本当のいやし、あるいは本当の赦しがあるでしょうということですから、私たちがこのようなイエス様の勧めに従って歩めるように祈りましょう。あなた方の富のあるところにあなた方の心もあるということですよね。

    私たちの心がどこにあるのかということをイエスさまは問うているわけですから、私たちが本当に、何て言うんですかね、自分自身が本当に心の底から喜べる、あるいは本当に神様が喜んでくださるし、周りの人も喜んでくださる。そこに自分の心を置けるかどうかですよね。
    それをですね、本当に神の前で本当の豊かさを私たちが生きていけるように恵みを願いたいと思います。

    13 min
  • 【ミサ説教】ルカ福音書18章1-8節「願い求めるプロセスこそ」
    ルカ福音書18章1-8節「願い求めるプロセスこそ」2025年10月19日年間第29主日ミサ防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    信仰とは、単に聖堂で祈ることだけではありません。自分のできることを精一杯果たすなかで、結果にかかわらず神の恵みの世界が開かれるでしょう。

    英神父さんは防府教会に異動となりました。

    今週は年の黙想に入ったりするので、少しウェブの更新はペースダウンです。ご了承ください。

    福音書朗読 ルカ福音書18章1-8節

     1〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

    願い求めるプロセスこそ

    今日の福音書はルカの18章、絶えず祈ることの大切さを教えるために、イエス様が一つの譬え話を話されるわけですね。このやもめ、やもめというのは、旦那さんを亡くした未亡人の女性ですけれど、当時は特にやはり男性中心の社会でしたから、男性を、男性のパートナーを亡くした女性は非常に不利な立場に置かれるわけですよね。
    だからこそ、何か非常に大きな何か被害を受けていたので、その裁判官に裁判をしてくれということを度々、この人はしつこく、たぶん家まで行って、朝も昼も晩も行ってお願いしていたのではなかろうかというふうに思います。

    確かに今でも裁判というのはなかなか難しいというか、やはり裁判が、ある意味勝つというか、ある程度の判決を得るのは、実はそれほど単純なことでもないということも言えると思いますね。というのは、ちょうど私の今、ここの仕事以外に、大阪の釜ヶ崎というですね、もと日雇い、今でも日雇い労働者の街で、そこに旅路の里というイエズス会の司牧センターがあるんですが、そこの責任者をやっていてね。それで実は先月だったか今月の初めか、私が深く関わっていた労働者が逮捕されてしまって、それで実は先週裁判だったんですね。その裁判に私は証人としてちょっと出ていてね。それで彼を弁護する側に時々そういうことがあって、ちょっと罪人と関わると、どっちかというと加害者の方の弁護に入ることが多いんですが、実はとにかく先週、その裁判で一生懸命彼のことを弁護するような形でやっていて、今週判決があるんですよね。だから、判決のためにまた大阪に行かなきゃならないんですけども。
    今回が初めてじゃなくて、前もそういうことがあってですね、なかなか裁判というのは大変大変というか、この弁護士、結局弁護士対検察の戦いになるんですけど、どれだけ弁護士の方と相談して、どのような形でやっていくかみたいなことを相当相談したり、それで裁判の時に何を言うかとか、いろいろ考えてですね、日本の裁判所は割と公正なので、賄賂とかそういうのを別にいらないんですけど、それでもやはりかなり神経を使うことなんですよね。

    このやもめの女の人が一人でですね、この裁判を始めることよりも、裁判の後、当時がどのような弁護士制度とか、検察がどうだったとはっきり分からないんですが、いずれにせよ、裁判が始まるだけじゃなしに、裁判の中でどうするかとか、このやもめの人は相当何というか、努力というか、大変な、やっぱり有力者が何かがいないとなかなか難しいわけですね。

    例えば弁護士、今だったら弁護士さんにお願いするにしても、普通はやっぱりいろいろな関係ある弁護士さんに頼んだりとか、何とかかんとか、やっぱり弁護士、いい弁護士につくかどうかでも大きく判決が変わってきたりするわけですけど、その中でこの寡婦の人が頑張っているということなんですよね。

    私たちは。まあそんなに裁判に関わる人はそれほど多くないかもしれないですけど、でもやはり私たちが何か困難があった時にどういう態度をとっていくかということなんですね。

    今日の最後のところでイエス様はこう言うんですよね。人の子が来るとき、世の終わりの話ですけど、「果たして地上に信仰を見出すだろうか」ということで終わってるんですね。

    この信仰というのは一体何を言っているのか。

    このやもめの例えからも明らかだと思いますけれど、一つは、願い求めて一生懸命するということですが、単に祈るだけじゃなしにですね、この人はもう絶対この裁判官の家に朝もお願いに行って、夜にもお願いに行ってですね、相当この行動というか、自分の行いもかけて、この裁判官のところにお願いに行ってるわけですよね。

    だから、単なるお祈りじゃなくて、やっぱり自分のできることをどれだけ一生懸命やるか。

    だから、この信仰っていうふうに福音書に「信仰」って出てくる言葉は、だいたい祈りとか願いに置き換えられるんですけど、でも祈りとか願いと言っても、ただ単にお聖堂で祈るだけじゃなしに、実際自分が何をできて、自分のできることを精一杯果たせるかどうか、そこに「信仰」という言葉をイエス様が使ってるんですね。

    私たち、あるいは皆さんが何を本当に願って毎日生きているのか、信仰者として何を願っているかということと、それを本当に願って、それが達成されるように、どれほど工夫というか、自分なりの努力と、それを費やしているかどうかということなんですよね。

    それが私たちの信仰として問われていることだというふうに思います。

    人の子が来る時、世の終わりというのは非常に混乱した大変な時のことを想定されてるんですけど、その時にこそ信仰を持って私たちが祈り行動していけるかどうか、自分ができることを100%果たしてやっていけるかどうか。
    そこに私たちの信仰の質があるし、そこに私たちのやっぱり信者としての生き甲斐というか、喜びもあるのではないかというふうに思いますね。

    結局、私たちが裁判、最終的にとにかく今関わっているのは、今週水曜日にとにかく判決が出て、まあこちら側の願っている通りになるかどうか、それはちょっとわからないんですけど、やっぱり結果がどうというよりは、その結果に向かったプロセスがどうかということなんですね。

    それで思い出すのが、皆さんあんまり高校野球ファンの方もおられないかもしれないですけど、夏の甲子園で多分一番最高の試合が、時々テレビでランキングが来ますけど、一番最高の試合は、私が思うには1988年の夏の甲子園の準々決勝だったと思うんですね。
    ファンじゃない方はちょっとわからないかもしれんけど、横浜高校対PL学園の試合だったんですよ。横浜高校は松坂という、今引退しましたけど、当時は抜群のピッチャーがいて、それにPL学園が戦うという試合だったんですよね。なんと普通野球って9回までなんですけど、その試合はなんと17回までやったんです。
    ほぼ2試合分をやってたんですけど、松坂が投げてこれで勝つかと思ったらが点を取って、それでどんどんどんどん延長戦になっていってですね、もうそこのその試合は本当にすごい。とうとうとうとう最後の17回、ほぼ2試合分で松坂は一人で200球ぐらい投げるんですけど、ようやく17回までやって横浜高校が勝つわけなんですけど、勝った時の風景というか、選手のこの姿が忘れられない。
    横浜高校勝ってるんですけど、勝った方がみんな泣いてるんですよ。もう手を尽くしてやったから。負けた方の学園の選手はみんな笑ってたんですね。だから普通は勝った方が笑って負けた方が泣くんですけど、17回まで本当に死闘を尽くして、お互いの持っている力を出し切った時に、負けた方が笑っている、勝った方が泣くというですね、ひっくり返っているんですよね。

    皆さんが自分の人生でこれだけやり尽くした、これだけ一生懸命ベストを尽くしたと思える体験は、いろんな人の話を聞いて思うんですけど、成功しなかったことの方が実は全力を尽くしたと思えることは多いんですよね。これだけは自分は尽くした。
    でも結果が出なかった。でも、そこに何か本当に生きがいとか喜びとか得ることが多いということなんでしょうね。
    かえって安易に成功しちゃったら、それは神様に感謝ですけど、やっぱり何か物足りないところがやっぱりある。

    私たちが様々な何か試練とかあるかもしれない。
    家族の問題とか、仕事の問題とか。でも、そういうことに直面した時に、どれだけ願って祈って、自分のできることをこうしてやるかっていうですね。そこにこそ私たちの信仰の一番大事な、もちろん私たちは人間的な努力だけじゃなしに、神の恵みの中でそれを果たしていくわけですからなんですね。

    私が関わった前の裁判前の裁判、なんと弁護士さんを頼んで殺人事件だったんですよね。前は、10年前の殺人事件で殺人犯を弁護してたんで、非常に複雑な気持ちで。でも弁護士が3人関わって、とにかく必死でやったんですけど、結果的にはやはり検察の方に近い長い懲役刑に決まったんですけど、でもやっぱり何かがあって、チームを作って、みんなでこうやり切る、やり切る。
    結果がどうであれ、望んでいる結果であろうがない結果であろうが、やっぱり尽くしてやった時の方が記憶に心に残ってて、何かこの神に感謝の気持ちがより強いっていうのかね。
    そこにこそ喜び、人生の本当の喜びっていうか、信仰の喜びがあるんじゃないかと思います。

    このやもめも裁判が始まったばっかで、実際この判決がどうとか書いてないからで、思い通りの結果になかったかもしれないけど、でもやっぱりやり尽くすっていうことに、私たちのやっぱり生きている者の証があるって言うかですね、私たちはやっぱり年をとれば、どちらかというと成功体験よりもあれができない、これができないの方が多くなりますけれども、その中で私たちが本当に何を願って、何に自分を尽くしていくのか、本当にそこにやりきった時にこそ、やはり神様の恵みの世界が本当の意味で与えられる、広がってくる。そこに私たちの信仰の本当の醍醐味があるんじゃないかなと思いますね。

    私たちは力が足らなかったり、何かあれができないとか、いろいろありますけど、だから神に祈ったり願ったり、時間がないとか、お金がないとか何とかいろいろ。
    だからこそ、私たちは神に頼り切って、自分にできる小さなことを100%行っていく。それこそ私たちの信仰生活の一番大切なことだと思いますね。私たちが神の恵みに合わせて自分の生き方と合わせていくとき、そこに信仰の喜びがあると思いますから、
    その恵みに私たちが与っていけるようにですね。今週もこの1週間、そういう気持ちで神のみ旨を果たしていけるように、主に祈りを捧げたいと思います。

    15 min
  • 【ミサ説教】ルカ福音書17章5-10節「祈りの力」
    ルカ福音書17章5-10節「祈りの力」2025年10月5日年間第27主日ミサカトリック長府教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    今日の福音の並行箇所に、マタイの「山を動かす信仰」という表現があります。桑の木や山の例えは物理的なことというより人の心や置かれた状況が信仰の力で動くということでしょう。全身全霊で、僕としての謙遜な気持ちで祈り込むとき、奇跡が起こるのです。

    今日のお説教に出てくるコプト教会の聖人「皮なめし職人の聖シモン」は、使徒言行録に出てくる「皮なめし職人のシモン」とは別人にゃ。

    福音朗読 ルカ福音書17章5-10節

    5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
     7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

    祈りの力

    イエス様の言葉は時々、ぎょっとするようなお話をされることもあると思います。今日のところもそうで、からしだね一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に抜け出して海に根を下ろせと言えば、その通りになるというんですけれども、ちょっとオーバーな気もしますが、皆さんの中で信仰の深い方もおられると思いますが、少なくともと、これだけはやめておいた方がいいんじゃないかなと思います…関門海峡に桑の木がいっぱい根を張ってプカプカ浮いてたら、もう船が通るのが邪魔になって迷惑なので、これだけはしない方がいいんじゃないかなとは思いますが。

    もちろん、マタイの福音書には並行箇所があって、あれなんですよね。同じような譬えなんですが、からしだね一粒の信仰があれば山々に動けと言えば山が動くというですね、そちらの方がちょっと有名ではあるんですが、実際そんなことがあったのかどうなのかということなんですが、実は実例が1件だけはあるんですよね。

    あんまりカトリックの人はご存じではないんですけど、エジプト中心のコプト教会の聖人で、皮なめし職人の聖シモンという人がいて、彼は実はこの奇蹟をやったというふうに言われているんですよね。ADの900年代ですけど。

    イスラム教のアラブの国の王様がカリフというんですけど、カリフはわりとそういう宗教的なことが好きだったり、ちょっと他の宗教を軽蔑してたところもあるかもしれないですけど、キリスト教の代表者とユダヤ教の代表者を呼んでですね、宗教論争させたんですよね。

    そしたらアレクサンドリアの当時のそこに住んでいた教皇というか、リーダーの方がコプト教会ですが、そっちの人の方がユダヤ教の人を論破しかかって、結局話してたら、キリスト教が優勢になったんですよね。そうしたら、ユダヤ教の指導者が、
    聖書の中にはからし一つほどの信仰があったら山が動くって書いてあるから、それを見せてみろと。そしたらそう信じてやるみたいな話に最終的になっちゃったんですよね。そしたらカリフはそれを聞いて、その時の雰囲気もあったかもしれないですけど、ーコプト教会の教会というのはキリスト教の一つの派なんですよね。ちょっとカトリックとはちょっとあれなんですけれども、エジプトあたりも一つのグループなんですがー、カリフが3日以内に奇跡を行えと、コプト教会の信者のみんなも言って、3日以内に奇跡を行うことができなければ皆殺しにするっていう、そういうことでクリスチャンたちはみんな真っ青になって、どうしたらいいか、どうしたらいいかと言ったら、そしたらその有名な皮なめし職人の聖シモンっていう人がアドバイスをして。
    それは実は簡単なアドバイスなんですけど、
    山の麓にみんな行きなさいと。
    それで私を憐れみたまえというのを3回言ってですね、十字架のしるしをしろと言いました。
    そしてもう、皆殺されるぐらいですから、とにかくみんな行って、そこでお祈りをして、そして十字架のしるしをしたら、なんとその山が動いたというんですね。というような話が残っていて。

    それを見たカリフはもちろんクリスチャンの全部殺すことをやめただけじゃなしに、それを見て彼は回心した。イスラム教の親分だったんですけれども、結局、コプト教会のクリスチャンに洗礼を受けて、そして最後は息子に彼の王様の位を譲って、エジプト、エジプトにコプト教会の修道院が多かったんですけれども、その修道院に入って、最後は祈りの生活を捧げたというんですね。

    その奇跡を行う、あれを発揮したのが、その聖シモンの信仰のおかげだというふうに言われていて、そこからコプト教会は3日間ということだったので、クリスマスの前に必ず3日間断食をするという習慣が、今でもそのことを自分たちが助けられたということですよね。それを記念して行うという習慣が残っているということなんですね。
    カトリックであまり知られていない話ではあるんですけれども。

    でもやっぱり本当にその聖人一人の世代の信仰で山が動いた。
    でも私は思うんですけれど、山が動くというのは何かと言ったら、やっぱりカリフの回心、あるいはクリスチャンが絶滅が避けられた、多分、政治的な状況でも、何かそういう厳しい中に置かれていた中で、リーダーの回心と、そしてクリスチャンたちが全員助けられると。それこそがやっぱり山を動くような、そのような奇跡の実際の中身ではないかなと思います。

    だから、このルカの方ですね、この桑の木に桑の木が海に根を下ろすということも、やはりそれは何かあまり物理的に考えるよりも、やはり私たちの生活の中で特別な力がやっぱり働き得ることがある。
    それは私たちの信仰の力じゃないかなと思うんですね。

    聖書の中で海というのは。日本人と違うんですけど、海というのは悪いイメージなんですね。
    ユダヤ人というのは陸のためですから。だから陸地は良いもので、海というのは悪い。
    海からレビヤタンとか出てきたり、豚が溺れ死んだりなんか見て来たか悪いものなんですよね。やっぱり人間を不安定にする、そういう何か力というか状況というかですね。
    物理的に考えても、昨日もちょっと危なかったんですかね。とにかく線状降水帯がかかったら、もう瞬く間に海のようになってしまって、全てのものを流されちゃうわけですよね。
    地震の時の津波なんかもそうですけれども、本当に根こそぎ、もう何もかもさらっていかれること、さらわれることはやっぱりあるわけですよね。

    それは物理的なことだけじゃなしに、やっぱり私たちが生きている中で、陸の上に立って安全だと思っているものが、個人的なことで言うならば、やっぱり誰かが突然病気になったり、仕事を失ったり、何かになった途端、自分が立っているのが陸の上ではなくて、海の上の急に何か自分の立っているところがなくなって、溺れてしまうような海の上に投げ出される状況というのは、起こり得ることも起こり得ることは度々あるでしょう。もう何か自分が拠って立つものがなくなって、ガラガラと崩れてしまうような、そういうことがある。

    その時に、やっぱり桑の木のような根を下ろした、何かしっかりしたものがあるかどうかということは、大きな問いかけじゃないかなというふうに思います。
    桑の木というのは、皆さん農業とか庭に植えている方がおられるから、ものすごい生命力が強いんですよね。
    庭に桑を植えて剪定ちゃんとしなかったらどんどん増える。
    実も食べられるし、葉っぱも使えるし。
    で、桑の木というのは野生の力もすごくあるし、人間の役にも立つ。葉っぱで、昔、蚕っていうんですか、あれの葉っぱにしていたりとか、桑の木というのはだいたい繁栄と健康と長寿のシンボル、生命のシンボルなんですけど、やはりそれがやはりどこかに根を生やして私たちの生活の中にあるということは、やっぱり非常に大事なことだと思います。

    今の政治状況とか、何か海のような関門海峡みたいなものだと思っているんですけれども、潮の流れでがーっとこっちに流れたら、もうみんなこっちの方にがががっと行って、ちょっとまた流れが変わると逆の方向にががっと、こう。関門海峡を見ていると、何か本当に考えさせられますけど、すごい潮の流れで。時々休みの日に眺めに行ったりするんですけども、すごい流れで、がーっと、こう、あんなもの寄って立つものも、全部流されちゃうぐらいの。大型のタンカーなんか全然大丈夫ですけども、小さな船なんか、やっぱり関門海峡は危ないですけど、でもやっぱり世の中の流れとそういうような海の流れが変わってきて、あっという間に何かがみんなこっちだと思ったらワーッとみんな選挙の結果なんか、もろそんな感じですけど、ある方向にいったらみんなそっちの方向に流れてしまう。

    でもその中でやはり私たちは根を生やしたいのちの生き方、振り回されないようにできるかどうかということなんですよね。
    それはどうすればいいかといったら、もうここに後半にあるように、畑で仕事して帰ってきても、今度は食事の給仕をしようというんですね。僕としての着実性みたいなことを。イエス様が言うわけですよね。

    外で仕事してきたからも、かえってのんびりしたらいいんじゃなくて、外でも家でも、むしろ家の中でこそ、やはり主に忠実に従っていけるかどうかということが、命の木を根付かせるかどうか。
    振り回されない。つまり、ちょっとだけやって、あとはもうどうでもいいとかって言うんだったら、あっという間に。

    私の知り合いでも、からしだね一粒のような信仰を持っているような信者さんがいるんですけど、やっぱりすごいというか。何か問題があったりしたら、お燈明をともして徹夜でお祈りするっていう、断食してですね。
    とにかく何か大きな問題があったら困ることがあって、どうしてもこうしてくださいとかあるじゃないですか。
    彼女はすごいですよ。もうとにかく1晩徹夜でお祈りするってね。もうなんか彼女が祈ったら、何か必ずうまくいくというか。
    でも、祈り方が、何かちょこちょこっと祈って、じゃあお祈りしますとかいって、ちょこちょこっとお祈りするぐらいじゃ、やっぱり物事動かないですよね。徹夜で1晩徹夜でろうそく灯して、ガーッとお祈りするぐらいの中でこそ、やっぱり何かある流れの中でちゃんと桑の木がしっかり根付くということは、やっぱり私たちの信仰のあり方じゃないかなと思いますね。

    私がプライベートのことで非常に迷っていて、どうしようかと思っていた時に、私の知り合いが「何とかさんがお祈り始めた」と僕に伝えて。もう、徹夜でお祈りするから、もうこれであかんと思って、その人が祈りだしたらそうなっちゃうから、もう僕は逆らえないと思って。迷っていたところをこっちにするってあっさり決めたんですけど、彼女の祈りに逆らった方向には絶対いけないので、もう決めてこっちにすると決断をすることだったんですね。

    どういうことか聞きたい人は後から聞いて来て。ちょっとプライベートなものなので、あんまりみんなの前で喋れないですけど。

    だから結局、でも、彼女だって「私どもは取るに足りない僕です」と、「しなければならないことをしただけです」という感じなんですよね。どんなにすごいとしても、ただの僕で、取るに足らない僕だけのやることをやったという、ただそれだけで、こうあることにあった時に、やっぱり祈り込むというかですね、覚悟を決めてやるみたいな感じですよね。

    やっぱりどこか、信仰というのは全身全霊、全身全霊でやっぱりやるというか、それがからしだねの信仰だと思うんですね。その中でこそ思いもよらぬ神の力が働いたり、海の中に、あんなに流れの強い、関門海峡の中でも全然揺るがない。どこかに根を生やして、しかも命を掴むということは、やっぱり私たちができることじゃないかなと思いますね。

    様々なことですぐ何か土台がグラグラなんか色々すぐ起こりますけど、こんなに異常気象で政治も安定しない、経済の安定も次に何が来るか分からないぐらい不安定な中にいますから。だからこそ私たちはからしだね一粒の信仰を持って、やっぱりぶれないで、本当の神と自分が生きていく。

    その覚悟というのかな、それを決めるならば、何か実際何の問題もなく、問題がないわけじゃないですけど、苦しみがいるわけじゃないんですけれども、でもちゃんと神のみ旨を果たしていける。それは主が整えてくださることは間違いないと思いますね。

    私たちが一人一人に神に全面的に委ねる信頼と信仰を持ちながら、そして果たすべきことを祈りであろう、行動であろうと、それをきっちり果たしていく。その何か恵みが与えられるように、私たち一人ひとりにですね、そのことを願いながら共に祈りを捧げましょう。

    お説教のテキストは録音音声をもとに管理人が適宜編集しています。誤字脱字もあることがありますが、何卒ご容赦ください。

    17 min
  • 【ミサ説教】ルカ福音書16章1-13節「正しさよりも愛を」
    ルカ福音書16章1-13節「正しさよりも愛を」2025年9月21日年間第25主日ミサカトリック長府教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    不正な管理人の譬え話は日本人にはわかりにくいかもしれません。ですが、「罪の赦し」は究極の不正義であることを思い起こしましょう。正義に囚われすぎることなく、イエスさまの愛の心を生きるならば、子と話を理解できるでしょう。

    お話に出てくる神学生はその後どうしたんだろう。早起きになったのだろうか?

    福音朗読 ルカ福音書16章1-13節

     〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
     1「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

    正しさよりも愛を

    今日の福音書はルカの16章の最初のお話なのですが、ルカ16章、全体的にお金に関することをイエス様は述べているのですが、今日の話は特に何を言っているのかよくわからない話で有名なんですけど、何を褒めているのかということなのですが、一人の管理人がいわゆる不正な管理人がいて、主人の金を無駄遣いしてクビになりそうだと。
    どうしたかと言ったら借金のある人を呼んできて、借金を勝手に減額しているわけですよね。減額すればするほど、それは主人の損になるわけだから、そういうことをしたら主人が怒って即刻クビになるのが普通だと思うのですけど。

    でもその主人はですね、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたって書いてあるんですけど、自分に損をさせる管理人をなんで褒めるのか。しかもどう考えたってこれは不正なんですよね。もちろん反対に書き換えたら大変な…100万円の借金を200万円に書き換えたりしたら。100万円の借金を50万円勝手に低くしちゃう。それで、何でそれが主人が褒めるのかっていうですね。

    この箇所はよくよくその後もそうなんですけど、よくよく読めば読むほど、何を言っているかちょっとだんだんわからなくなる話なんですが、このお話にこの不正な管理人に唯一当てはまるのは誰なのか、ここにぴったり当てはまる人は誰なのかということを考えたら、たった一人だけなんですよね。
    誰かと言ったらイエス様なのですね。
    この不正な管理人のやり方を褒める人は誰かと言ったら、天の父しか考えられない。

    イエス様は結局私たちの借金、罪ですよね。罪というのは借金という言葉に置き換わるんですけれども、私たちの借金を勝手に減額しているのは、できるのはイエス様だけで、私たちは罪の赦しを神様からもらっているんですけれど、これもね、よくよく考えたらあれなんですけど、赦しというのは不正なんですよ。
    不正義なんです。

    これだけの罪を犯したから、これだけの償いをしなさいとか、罰金を払いなさい、では赦しますというのが正義にかなっている。でも、イエス様の赦しは実は正義にかなっていない。ごめんなさいと言ったら全部チャラにしてくれるわけですから、実は神の赦しというのは、実は正義にかなってないんですよ。

    だから、例えば今でもよく問題になる交通事故で、害を与えた人に対して正義にかなっていないからもっと厳罰、もっと重い罪を、そんな軽い罪でいいのかと、お酒を飲んで事故を起こした人に対してですね。それはやはりそれは遺族の気持ちはもちろんそうで、そんなに何とか、罪が重くなかったら不正義だって怒って、もっと罪を重くしないと正義にかなわないというふうに文句を言うんですけれども、それは人間の気持ちとして当然ですけれども。

    でもイエスは逆なんですよ。

    正しくない形でどんどん罪を勝手に減らして、それで誰がそれを褒めるかといったら、おん父が褒める以外に褒める人はやっぱりいない。
    だから、この不正の管理人の話で、本当の本当の意味で唯一当てはまるのはイエス様だけなんですよね。

    だけれども、私たちは、やはりこの面は必要ですけれども、正しく生きる、真面目にきっちり生きるということが私たちに一番大事なことだと思っているから、こういう不正な形になると途端に意味が分からなくなってしまうというところは私たちの中にあるでしょう。

    別の言葉で言ったら、イエス様に大事なのは、イエス様の原則は愛は正義に優先するとありますよね。
    正しさよりも愛の方がより大事だと。それがイエス様の大切なメッセージだということですね。

    私は思いますけれど、少なくとも社会はやはりルールを守らなきゃならないからあれですけれども、まあ重いんですけど、少なくとも家庭と教会は愛を優先した方がいいと思ってるんですけど。
    家族でも正義を優先して、お互い神が間違ってる、間違っていると責めあっていたら、もうあっという間に息苦しくなってしまうけれども、やはり正しさよりも愛を優先できるかどうかという、特に真面目な日本人には難しいことだと思います。

    分からないけど、南米のブラジル人とか、もうちょっと気が楽な、この例えに当てはまることがあるかもしれない。
    日本人には割と管理人になったらもう真面目にお金の計算したいと思うから。まずこういうことはできないけれども。

    でも私たちが物事を考えたり行動していく上で、きちんとやろうとすることは大事だけれども、それ以上に私たちが愛の基準にかなって生きているかどうかということを問いかけなきゃならないということですね。

    神父さんたちを見ていても、やはり日本人の神父は真面目だから、あんまりこういう感じは難しいんですけど、外国人の神父、特に南米から来ている神父さんなんかは、ちょっとこういう感じがあって、教皇様と同じアルゼンチンから来ている人も、亡くなられたんですけれども、ある神父さんはちょっとこういうタイプだったんですね。

    イエズス会に入ったらどこでも院長というのがいて、その院長の下にいるんですよね。だから、いろいろないろいろな院長を経験したんですけど、そのアルゼンチンから来た院長が、多分僕が修道生活をやる中で一番素晴らしかった院長なんですけど、何が素晴らしいかと言ったから、正しさよりも愛を優先しているからなんですよね。
    人間を見る目とか関わり方とかが、ポイントがどこにあるか。

    院長というのは、だから修道院のあれだから、普通はこれをしたらダメとか、こうしなさいとか、いろいろ言うタイプで、例えば神学院の院長、神学生がいっぱいいて、今はちょっと少ないですけども、それでも僕らの頃、ものすごい人数がたくさん居た時代んですけど、神学生の問題は何かと言ったら、寝坊して朝のミサに出てこないやつがいるんですね。朝7時のミサですけど、寝坊して出てこないやつが必ずいるんですよ。そうすると神学院の院長はだいたい寝坊するなと。朝のミサちゃんと出て来いというふうに注意をするのが普通の院長で、当たり前な。
    時々ねぼすけなんか居て、やっぱり出てこないやつとか、それが普通なんですけど。
    僕がいた若い神父さんの時に、神父さんのコミュニティに一人だけ神学生が住んでいたんですけれども、その時にアルゼンチンの神父さんが院長だったんですが、その神学生が寝坊でしょっちゅう朝起きてこないんですよね。
    そうしたら他の神父さんたちも僕も、心の中で、なんで神学生のくせに朝ちゃんと起きてこないんかと。言わないけど、心の中でみんな思っているんだけれども。その院長がですね、その時に神学生に対してどう言うかと言ったら、やっぱり何とか考え方のスケールが全然違うんですよね。
    で、その神父さんはどういうかといったら、「いや、朝起きるのは体に良くありません」。
    それで、神学生のためにあとからミサを一人だけ捧げて、全然責めなくて、わざわざ10時とか11時とか遅い時間に神学生に合わせてその神父さんのミサ立ててるんですよね。

    もうね、その考え方の根本からも全然違うから、真面目にとか、きっちりやらなきゃならないって考えがもうないんです。だから、困っている人がいたら、それを助けるというその気持ちしかないんですよね。彼が院長だった共同体が、僕が経験した共同体で一番素晴らしい共同体、みんな、だからこう、何か規則で人を責めない。院長が責めないから結局みんなでケアをするとか、お互い温かい心で、院長がそうだから、結局みんなこう温かい心でお互い譲り合ったり助け合ったりする。和気あいあいのコミュニティーだったんですけどね。でも、あまり素晴らしくて、あまり規則を考えないから、結局3年で終わっちゃいましたけど、素晴らしすぎるとやっぱり終わった。評価が低かったりとか。何かいろいろなことがありますけれども、なかなか日本人は難しいかもしれないですけど。
    フランスシスコ教皇も同じですか。やはり規則とかで物事を考えるんじゃなくて、やっぱり愛の心で、彼も神学院の院長をやってたんですよね。
    アルゼンチンの非常に難しい時代で、アルゼンチンから僕の世代に新入生が来て、彼らからフランス語教皇の神学院時代の話を聞くんですけど、やっぱりちょっともうレベルを超えてますね。神学院でも神学生が住む所だけれども、ベルゴリオ神父さんの時代ですけれども、その中でホームレスが何人も住んでいたし、学院の中に。
    だから、神学生はホームレスの世話をしなきゃならないんですよ。一緒に住んでいるから。だから、神学生が急に呼ばれて、院長に。それで困っている人がいるから、この人のために何かしなさいと命令されて、レンゾ神父さんが言っていましたけれども、院長に呼ばれるのが怖いっていう、何を頼まれるかあまり突飛なことを頼まれるから。

    その時に日本の神学院は、だから文化が違うからですけど、日本の神学院、僕が神学生のとき、問題は何だったかと言ったら、食堂があって、神父さんと神学生だけで毎日食事しているわけですよね。僕が神学生の時に大激論になったのは、食堂にお客さんを招いていいかどうかで、反対派と賛成派で大激論というのは、お客さんって友達とか友人とか家族を食堂に呼んでいいかどうかっていうことで、大体日本人の神父さんは大反対なんですよね。
    自分たちだけで食べなきゃならないのが外人の生徒さん。だいたいOKでいいんじゃないかっていうことで、そんなんで揉めてたんですよね。

    でも、アルゼンチンの神学生はとにかくホームレスが住んでいて、神学院の中に。全然の何か文化とか背景が違うから単純比較できないですけれども、私たち日本人はどうしても真面目に考えすぎて、これはこうじゃなきゃならない、それはできませんとかできますということに、やっぱりちょっと僕も日本人ですから、やっぱり囚われている方ですけれど。

    でもやっぱりイエス様の教えはちょっとやはり常識を超えて、もっと大事なのは愛することだということをやっぱり言ってね。イエスの生き方もそうなんですよね。罪人と一緒に食事をするという。ファリサイ派の者たちは絶対しなかった。穢れるから罪人と付き合うこともしなかったんですけれども、イエス様は罪人と一緒に食事をして、和気あいあいと楽しくしていたわけなんですよね。

    今日の福音書は、一見すると分かりにくいけれど、何で分かりにくいかと言ったら、私たちがきっちりすることに囚われているから、こういう変化球を投げられたら、もう何を言っているのか分からなくなるけれども、でも、やはりイエス様の心から考えたら、今日の福音書の言っていることも理解できるんじゃないか。

    私たちはイエスの心を生きていくということはなかなか難しいですけれども、やはり自由な心で愛を生きていく、それをなるべく優先して歩んでいけるように、お互いに祈りたいと思います。

    お説教のテキストは録音音声をもとに管理人が適宜編集しています。誤字脱字もあることがありますが、何卒ご容赦ください。

    17 min
  • 【ミサ説教】ヨハネ福音書19章25-27節「十字架の下に立つ信仰」
    ヨハネ福音書19章25-27節「十字架の下に立つ信仰」2025年9月15日年悲しみの聖母 いやしのミサ旅路の里
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    今日は「悲しみの聖母」を黙想する日ですが、マリアさまは十字架の下でしっかりと「立っていた」。これは積極的な信仰の姿勢です。困難や苦しみは、嘆いていても解決しないこともあります。ですが、マリアさまとともに十字架の下に「立つ」ことができるなら、復活の希望に向かって力強く歩むことができるはずです。

    神父さんの知り合いの障がいを持った女性の生涯のお話が聞けます

    福音朗読  ヨハネ福音書 19章25-27節 

    25:イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
    26:イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
    27:それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

    十字架の下に立つ信仰

    昨日9月14日、十字架賞賛の祝日に当たっているので、それに合わせてでしょうけれど、翌日の今日、マリア様の悲しみをこの。黙想する記念日になっています。読んだのがイエス様の十字架の時のことですが、十字架のそばには女性たちと、そして母とが立っていたというふうに書いてあるわけですね。

    この、私たちが苦しみに接した時に、結局2つの態度を私たちは取るしかないわけで、一つはやはりその苦しみがなくなるように一生懸命解決するように努力する。病気をした時だったら、病気が治るように治療を受けたり、何かをし、様々なトラブルがあったらそれを解決しようと思って努力することが、やっぱり私たちには必要ですよね。

    でも、解決できないことも結局多いわけで、人間の力でどうすることもできない様々な苦しみも、やはり私たちにあると思います。そういう場合に私たちができるもう一つの方法は何かと言ったら、今日のマリア様のように十字架の側に立ち続けるしかないというかですね、急に何かが変わるわけでもなくて、そこに立ち続けることが大事だということなんですよね。

    このマリア様が立っているという、この聖書の中で立つというのは積極的な意味なんですよね。
    ここの場面で時々、今いろんな西洋の絵画でいろいろあるんですけれども、一つの絵画ではマリア様がちょっと倒れていて、それをヨハネが支えるような絵があるんですけど、間違ってるんですよね。
    立っていると書いてあるから、へなへなとなっているわけでは実際ないわけですよね。これも歌になっていて、ラテン語で「スタバトマーテル」という、この場面が歌になっている「スタバトマーテル」というのが、「母は立つ」という積極的な意味なんですよね。

    だからマリア様は結局、イエス様の十字架はわが子が死んでいく姿を見ている。それは大きな苦しみなわけですけど、でもそれに巻き込まれずに立ち続ける力強さというのか、振り回されないその信仰の強さを守っていたということなんですよね。

    結局、その十字架のそばに立ち続けることができたから、イエス様の復活の恵みにあずかって、大きな救いの力にあずかることができるようになったわけですけれど、やはりこの十字架のそばに立ち続けることができるかどうかということが、結局私たちのこの病気にしても障害にしても、苦しみにしても、その一番のポイントじゃないかと思いますね。

    男の弟子たちは、結局、立ち続けることができなかったから、逃げちゃったり、裏切ったり、離れちゃったり、立ち続けることができなかったということであるわけですよね。

    私たちはしばしば倒れてしまうので、ここで愛する弟子がいたというんですけれど、このヨハネということですが、やはりこうやって愛する弟子として名前を書いてないのは、私たちにそこに当てはめることができるからでしょう。
    自分一人じゃなかなか立つことができないので、やっぱりマリアと共に私たちは自分自身の十字架、それが何であっても、それをしっかり受け止めて立ち続けることができるならば、それがいつか分からないけど復活の愛に支えられていく。そこに私たちが与っていく、その希望があると言うことだと思いますね。

    今日は午前中に山口の教会下関の教会で葬儀ミサをやってきたんですけど、その人は60過ぎで、癌で、きっと僕より若い人で、癌で亡くなって亡くなられたんですけど、20歳の時にいわゆる障害者になったんですよね。

    二十歳の時に車椅子になって、それからずっと車椅子の生活で。それでカトリックの障碍者の集まりのちょっとその地方のリーダーみたいな感じで活躍されてた方で、会社でも活躍されてたんですけど、彼女と色々とそばにいたから、ずっと亡くなる前に彼女とずっと喋りながら、亡くなる2日前にも彼女に会ったり、ほぼずっと一緒に過ごしてたんですけど。

    でも彼女の話で一番なるほどなと思ったのは、大学生で20歳で障害が出て歩けなくなって車椅子になったんですけど、3ヶ月間は泣き悲しんでたというか。何もできない、何もできないっていうか。結局今までやりたいと思っていたことがいろいろできなくなって、留学に行く、アメリカに留学に行く計画もあったんですけど、結局障害者になって3ヶ月間はずっと泣いてたというか、学校も行かずにですね。

    でも彼女はふと立ち止まって、結局3ヶ月間ずっと泣いたり悲しんだり、恨んだり、いろいろしてたけど、3ヶ月間そういうふうにしてたから何か変わるかと言ったら何にも変わらない。彼女はクリスチャンなんですけど、何にも変わらない。つまり泣き悲しんだりしてても結局何も変わらないから、もう泣くのをやめて、自分でできることをしましょうと決意をして、そこから生き方をガラッと変えたんですよね。

    考えたら確かに泣いたり悩んだり苦しんだり。ただしてても実際は確かに何も変わらないから、実際意味がないと言ったらやっぱり意味がないということですよね。
    それからどうしたかと言ったら、やっぱりまず学校に行かなきゃならない大学生で。だからまず最初にしたのは自動車の運転を勉強して、自動車に自分で乗れるようになったら行けますからね。車椅子の人、運転できるんですよ。足で使わない形で特殊な車があるので、運転免許を取って、それで学校に自分で行くようにしてね。
    そんでもって学校側も偉かったと思いますけれど、彼女の取る授業を全部一回にしてくれたんですね。

    昔の校舎だから別にエレベーターなんかないから大学側もえらかったと思いますけれども、今で言うと合理的配慮っていうんですけど、それを学校側もして、結局、だからアメリカの留学も行ったんですよね。多くの人の協力で。だからものすごく前向きで。

    別に障害は変わらないわけですよね。
    それは障害って治らないから障害というんですよ。

    それで、でもその中で自分ができることを精一杯やっていくというか、ものすごい前向きな人で、彼女の前向きさにどれぐらいの人が助けられたかってことなんですけれどもね。

    去年、癌が見つかっても結局治らない。
    もう進行性の癌で、でも本当に時々愚痴を言うこともあったけれども、ほとんどやっぱり彼女の霊名がマグダラのマリアとマグダラのマリアも(十字架の下に)立っているんですけど、マリアマリア様と一緒にね。
    だからやっぱりなんかもう全く振り回されてないで、自分の出来ることを淡々として整理しなきゃならないこともいろいろして、周りの人が泣いているのに、本人が一番泣いてなくて、結局この前の金曜日に亡くなられて、それで今朝葬儀だったんですけど、やはり十字架のそばに立って立ち続けるということは、やっぱり前向きな気持ちというのかな、やはりイエス様の復活に向かって歩んでいるっていう。

    この、要するに悲しんだり悲しんだり泣いたりしても、苦しみそのものは変わらないんだから、じゃあそれをどう受け止めて前を向いて私たちが歩んでいくかという、ただそこだけにかかっている。
    全てがうまくいくわけじゃないわけで、結局ちょっと今からすれば短めの彼女が終わっちゃいましたけれど、とにかく聖堂がもう人でいっぱいいっぱいで、友達とか関係者がいろいろおられて、で、外で警備やって、信者さんはクリスマスよりも人来ましたと。めちゃくちゃたくさんで、ほとんど未信者の子で、会社で働いてる。

    いや、何かやはり素晴らしいなと思いましたけれど、私たちも小さな十字架や自分自身の十字架とか、あるいは誰かの十字架の傍に立たなきゃならないことも多々あると思います。
    けれど、実際、心の中で泣こうが笑おうが、実際はどちらでもいいっていうか、結局、でも、自分が立たないでヘナヘナと倒れちゃったら、それは結局自分が損するだけで。

    実際のところなかなか立ち上がらないから。苦しみだからみんな倒れちゃうわけですけど、でもやっぱりマリア様が立っていたということですよね。マグダラのマリアもそこで倒れないで立っていたということですから、その強さにあずかることができるように、そしてそこから少しでも私たちが希望を持って歩んでいけるようにですね、恵みを願いましょう。

    そして、(彼女は)いろいろ苦しんでいる人に対してものすごく優しくて、まあ結局ね、結構倒れる人が多いですから、やっぱり苦しみが来たら、そういう人に寄り添って励まして、その人が立ち上がるまで、何て言うのかな、こうケアをしたりすること、素晴らしかったし。(彼女が亡くなったことは)非常に残念な気持ちですけど。

    亡くなられたこと、残念な気持ちですが、でもやはり私たちも病気になったり、障害、あるいは私たちだっていつか死ぬわけですけれども、そんな中でもやはりこのマリア様にならって、十字架の下に立ちながら、やっぱりこのイエス様の復活に向かって歩んでいく力強さが与えられるようにですね、そういうのを願いながらミサを捧げたいと思います。

    お説教のテキストは録音音声をもとに管理人が適宜編集しています。誤字脱字もあることがありますが、何卒ご容赦ください。

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