英隆一朗神父の福音お休み処

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  • 【ミサ説教】マタイ福音書27章11-54節「おそれに振り回されないで」
    マタイ福音書27章11-54節「おそれに振り回されないで」2026年3月29日受難の主日防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    イエスが十字架にかけられた背景には、人々の強い恐れと不安がありました。既得権益の喪失や社会の崩壊への不安が、弟子の逃亡、ユダの絶望、ピラトの責任回避、群衆の暴走を生んだと言えます。一方で、キレネのシモンや百人隊長のように恐れに巻き込まれなかった者は、十字架の意味を見つめることができました。恐れに支配されれば人はイエスを加害した側に回ります。だからこそ、困難の中でも振り回されず、神と共に歩む姿勢が問われているといえるでしょう。

    祝700話!今回の音声は、お説教からです。

    福音朗読 マタイ福音書27章11-54節

    11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
     15ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。19一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。21そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。22ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。23ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
     27それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
     32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36そこに座って見張りをしていた。37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
     45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

    おそれに振り回されないで

    今、マタイによる福音の中に現れているイエス様の受難物語が語られました。
    イエス様が何で十字架にかけられて殺されざるを得なかったのか。

    それは直接的というか、実際にはユダヤ人のユダヤ教のですね、祭司長や立法学者たちが、イエス様の影響があまりに強くてですね、彼の言葉にしろ行いにしろ、彼が活動を続けるならば、このユダヤ教の根幹が揺り動かされるというかですね、そういう強い恐れと不安を彼らがやはり持ったというかですね、

    イエスが殺される本質的なところは、やっぱり人々がイエスを恐れた、自分たちの今までの生き方がなんか崩れてしまう、イエス様によってですね、既得権益が失われるだけではなしに、ひょっとしたらイスラエルの国のあり方そのものも根幹から揺り動かされてしまうというですね、強い恐れと不安から、イエス様を殺そうというふうに考えたんじゃないかと思います。

    イエス様のこの受難の苦しみの中に、人間の恐れと不安がやはり非常にはっきりと出てきているんじゃないかなと思いますね。

    弟子たちはどうだったか。やっぱりその恐れから逃げてしまったということでですね、恐れと不安から、もうイエス様についていけないと思ってですね。

    ついでに今日朗読したマタイの直前は、ユダの自殺まで書いてあるんですね。
    ユダはやはり後で後悔するわけですけど、やはりその恐れと不安から、結局自分の命を絶たざるを得ないというですね。
    それも恐れと不安に振り回されている。

    そしてピラトはですね、イエス様を別に殺したくはなかったんですけど、結局彼は治安維持が一番大事なことですから、群衆が騒ぐともう恐ろしいので、で結局手を洗って、責任逃れしたんですね。

    そして最後、群衆はなんで十字架につけろと叫んだかといったら、煽動されたんですよね。
    こう、いまでいうフェイクニュースというか、陰謀論かなんかで、実はイエス様は、まあちょっとわかんないですけどね、実はイエス様は何かローマ帝国と結託していて、ユダヤ教を滅ぼそうとしているとか、ま全く根も葉もない噂を流してですね、

    フェイクニュースとか大体ああいう噂話っていうのは、今が始まったわけじゃなくて、昔からあったわけですから、やはり噂話とか陰謀論とか、それは私たちの不安とか恐れをかき立てるので、あっという間に広まって、みんな流されてしまう。

    だからイエス様の十字架の苦しみを見ていると、周りの人々がみんな恐れとか不安に振り回されて、やっつけようと思ったり、叫んだり、バカにしたり、逃げたり、責任逃れしたり、こう振り回されていると思うんですよね。

    実際私たちは、だんだんと不安の時代に、何かですね、戦争の影響も日本にこれから来るかもしれない。

    その中で、私たちが不安とか恐れにとらわれていると、とんでもない方向に行ってしまうということを如実に語っていると思いますね。

    今日の登場人物の中で、実はあんまり恐れに振り回されていない人が2人出てくるんですよね。
    1人は誰かと言ったら、実はキレネのシモンなんですけど、この人、部外者で、田舎から出てきたおのぼりさんだったので、このエルサレムの人々の恐れとか不安の中に実は関係ないんですよ。

    ただ単に見物に十字架を見に行っただけなので、ある意味、恐れから外れてたから、突然担がされたのも、もちろんがっかりしたでしょうけど、でも逆にその人々の恐れから離れてたから、ある意味十字架を担ってですね、イエス様と共に歩むことができた。

    そして最後の百人隊長ですよね。
    百人隊長もこれはやはり死刑執行の責任者ですから、恐れとか不安じゃなくて、客観的にこの処刑がどう行われるかということを見ていただけだから、百人隊長も恐れに巻き込まれてない。

    それでどうしたかって言えば、最後の最後、イエス様の死んでいく姿を客観的に見て、この人は神の子であったという信仰告白をするという形で物語が終わるわけなんですよね。

    やはりね、私たちが生きていく中で、振り回されないで、不安とか恐れとか、あるいはいらいらとか、生活の様々なそういうものに巻き込まれるほど、十字架でイエスを殺す側に私たちは回ってしまう傾向性がいつもあると。

    それをしっかり心に刻んで、私たちがどう振り回されないような生き方をしながら、イエス様に従って生きるのか、それを見なきゃならない。

    イエス様も恐れとか不安はもちろん感じておられました。ゲッセマネの祈りのところがですね、それは感じておられたんですけど、もしイエス様が恐れに振り回されていたら、エルサレムに絶対行かなかったです。殺されるの分かってるから。

    で、ガリラヤにいて、それで弟子たちを武装させてですね、反乱勢力みたいなものを作って、自分が死なないように、抵抗勢力を組織してですね、もしかしたら今のハマスとかアルカイダみたいになっちゃったかもしれないですけど、

    恐れにイエスが振り回されていたら、イエスが十字架に向かうことすらなかったんですよね。

    だから全然違う展開になって、私たちの救いが成就されない方向に行ったと思います。

    イエス様が自分の使命をしっかり受け止めて、イエスの使命は何なのか、マタイの福音書にはっきりありますけど、マタイに最初と終わりに出てくる。

    神は私たちと共にいるというのが、マタイの福音書の根本メッセージなんですね。

    十字架から復活までですね、神は私たちと共にいる神だということですから、十字架の苦しみを通して、その困難とかマイナスなものを受け取る側に神がおられて、そこでイエスが共にいてくださっているということを、イエス様は示してくださった。

    だから私たちは、困難や苦しみの中にあっても振り回されず、イエスと共に、場合によってはキレネのシモンのように、自分に与えられた十字架を淡々と担っていく。

    そういう生き方を通して、復活に向かっていくことができるでしょうし、あるいは百人隊長のように、イエスの十字架を見つめて、そこにこそ神の子としての姿があるという信仰と礼拝の気持ちを深める機会が与えられているということですね。

    それを私たちは心に刻みましょう。

    イエス様が十字架上で、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と言われますけど、それは私の解釈ですが、イエス様が苦しんでいる人と共におられている印ですね。

    私たちが絶望的な状況にあったとしても、そこでこそイエスは共にいてくださっているということの大きな印ではないかなと思います。

    だから私たちは、自分自身の小さな困難や苦しみに振り回されず、あるいはこの2026年もどうなるか、戦争の影響などで大きな困難が来る可能性もありますけど、

    そういう社会的な困難の中にあっても、イエスと共に歩むというところに自分の生き方の基盤を置いて、振り回されず、誰かを攻撃したり、自分を責めたり、逃げたりするのではなく、

    神と共にそれを受け止めて、復活の恵みに向かって歩んでいけるということを主が示してくださっていると思います。

    やはり今年こそ、イエス様の受難をしっかり受け止めて黙想して、それを私たちの生きる糧にしていきたいと思います。

    少々の困難があっても、それを受け止めていくならば、私たちは主と共に歩んでいくことができると思います。

    イエス様の受難の苦しみを通して、私たちが勇気と平安の心で歩めるように、このミサで、私たちと、そして戦争や様々な苦しみの中にある人々に、イエス様の恵みと力が与えられるように祈りたいと思います。

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  • 【ミサ説教】ヨハネ福音書 4章43-54節「離れていても届くもの」
    ヨハネ福音書 4章43-54節「離れていても届くもの」2026年3月16日カマのミサ旅路の里
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    ヨハネ4章の癒しは、離れた場所にいる人にもイエスの言葉が届くことを示しています。ここで問われているのは奇跡そのものではなく、その言葉を信じる信仰です。現実が厳しいと人は信じることが難しくなりますが、信じることは未来への希望を持つことでもあります。イザヤ書が語る新しい世界の約束のように、現実を認めつつもそれを超える神の愛を信じて歩むことが、私たちに生きる力を与えるのです。

    本物の気功師さんに治療したもらいたいA次郎です

    福音朗読  ヨハネ福音書 4章43-54節

    (そのとき、イエスはサマリア)を出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
    イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

    離れていても届くもの

    今日の文章はヨハネの4章イエス様の癒しのお話ですが、このカファルナウムの王の役人というんですが、これと同じかどうか分からないですけれど、マタイのファッションに出てくる百人隊長のしもべの癒しとの話ではないかという説もありますけれども、ちょっと微妙に違っていて。そうである人とそうでないという人はいるのですが、まあ共通点は何かと言ったら、離れている人を癒しているってというんですかね、その場にいない人をイエス様は癒しているということなんですけど、イエス様の癒しのやり方はそれぞれで、いろんなやり方があるんですけれど。離れている人に対しても、イエス様は癒やすことができるというのもなかなかすごいなと思いますが。

    日本の気功、気功師、本物の気功師というのは、実は離れていても癒せるんですよね。この気功で癒す人です。私の知り合いにもいるんですけど、一人ですね。びっくりしますけど、気功して地球の裏側に行っても癒されるんですよね。この気を飛ばして。気功師の本物か偽物かの区別は、やっぱり遠治療法の離れている人を癒せる人が大体、気功師としては本物って感じですかね。
    ちょっとこのイエス様が遠くの人を癒されるのを見ると、私の知り合いの気功師のことを思い出しますけれども。

    マタイの8章とヨハネの4章で、他のところもそうですが、つながっているのは何かといったらですね、やっぱり信仰が問われているとですね、人間の側から信じるということなんですよね。イエス様が言うわけですよね。しるしや不思議なはを見なければ決して信じないというふうに人々について言うわけなんですけど、でもこの人はイエスの言われた言葉を信じて帰っていったと言います。

    何を信じるかって、イエスの言葉を信じるということで、それで癒しが行われるわけですけど、マタイの8章もそうで、今、聖体拝領で言うようになりましたけれども、イエス様が自分の家に来なくていいとお言葉さえ言ってくださったら、それでしもべは癒されますと言って、それで癒されるわけなんですけど、癒しは神様からの純粋なお恵みですけども、でもそこで人間の側から、必ずしもじゃないけれど、やっぱり問われるのはこの信仰ということなんですね。
    信じるかどうかということが私たちの人間の側に問われる、ある意味唯一のことだというふうに言えるかもしれないと思います。でも、この信じるというのがなかなか難しいということもあると思いますね。何で難しいかと言ったら、現実が厳し過ぎる時に、私たちは信じることができないということだと思います。

    まあ、この釜ヶ崎でもそうですけども、なかなか厳しい現実があって、一人一人の問題、抱えている問題から脱せられないということもありますし、社会構造的にですね、やっぱり弱い人がどうしても虐げられたりとか、結局やはりあるでしょう。世界中そうですけど、結局強い者が勝っちゃうということで、弱い者が負けちゃうという、今の戦争もそうですけれど、結局強い者が弱い人をやっつけちゃうような、そういう現実がある中で、その中で私たちはどう信じて生きていくかというかですね、それが実際一番大事なことじゃないかなというふうに思います。厳しい現実があったとしても、その中で私たちは神様の言葉、神の救いを信じながら歩んでいくことができるかどうか。だから、実際、信じるってことと希望することとほとんど変わらないんですよね。信じるってことは、やっぱり未来を、未来に対して希望を持って生きていけるかどうか。

    まあ、今はちょっと厳しいかもしれないんですけど、この厳しさを乗り越えていく神様の力を信じる、あるいはそれを希望していくという中に、私たちのこの生きる力が、何かが開かれてくるということなんですよね。

    第1朗読がイザヤの65章でなかなかいいんですけど。
    見よ、私は新しい天と新しい新しい地を創造するというですね、救いの世界をこの一生の間語っていてですね、若死する者がいなくなるってんですね。年老いて長寿を満たさない者もいなくなる。だからみんな長生きになるってことを言ってるわけですけど、まあ釜ヶ崎は平均年齢10歳以上若いですよね。
    だいたい88年80ぐらい。女性もうちょっと長いけど、80ちょっとぐらいが平均年齢だけど、でも70ぐらいでしょうね。10歳ぐらい若い時に死んでいる。それはもう生活のいろんな問題とか、若い時から不摂生しているとか、ちゃんと栄養を摂ってないとか、野宿をしたことがあるとかなんとか、10歳は。だから西成区の平均年齢、非常に低いです。全国で一番低いぐらいの、特に男性ですけど、若死に率すごい高いですよね。でもそうじゃないとここでは言ってるわけですけど、今度朗読の方で切れて、この後もっと面白い話があって、この狼と小羊が一緒に座ったからとか、そういうところが実はつないであるんですけれど、でもなかなかね、実際はさっき言ったように、大きいものが強いものは弱いものをいじめるとか食べちゃうとか、そういう世界なのに、このつなぎのあとはひっくり返って、弱いものと強いものは仲良くするみたいな話がこの後出てくるんですよね。それはやっぱり神の国の到来の話でしょうけど、でも、そういうこういうみ言葉を私たちは信じて生きていくかってことなんだと思うんですよね。現実はいろいろ難しいことがいろいろあるある。それも確かですけど、それを超えるやはり神の愛を私たちが信じて、それを単に信じるだけじゃなくて、やっぱりそれに向かって歩んでいくという、そのそういう力が私たちには与えられるということですよね。

    まあ、病気が癒されることもあるし、癒されないことも実際はあります。癒されたとしても、また病気になっちゃったりとか、依存症の人が癒されたと言えるかどうか分からない。またスリップしたりとか、たびたびやっぱりありますけれど、それでもやはり救いを信じながら私たちが歩んでいけるかどうか、ちょっと目にはちょっと何か駄目になったような感じに見えたとしても、でもそれが最終的にダメではなくて、やっぱり私たちは救いに向かっている。

    神の国の完成、やっぱり喜び、正義が本当に守られる、平等な平和な社会、争いのない社会に、それはやっぱりイエス様がもたらしてくださるということですから、それを私たちが信じて、それは希望して今ないわけですから。もちろん全然ないわけじゃないけれど、完全ではない。

    だからこそ、私たちは信じることと希望することが、私たちはやっぱり前に向かって歩んでいく。私たちの世代でできないかもしれないけど、それはまた次の世代に持ち越されるかもしれないですけど、イザヤ書ではっきりそのような世界が来るって書いてあるわけですから、その言葉を私たちが信じて歩んでいけるかどうかですよね。

    私たちがやはり良いものを信じていけるようにですね。現実を認めることは信じることと関係ないですからね。現実は現実で認めなきゃならないですけど、信じるのは現実を超えるところを信じる。現実を超えていくことに希望を置くということですから。神さまの愛に信頼して私たちが歩んでいけるように、神さまに恵みと力を願いたいと思います。

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  • 【ミサ説教】ヨハネ福音書9章1-41節「神の業を見出す」
    ヨハネ福音書9章1-41節「神の業を見出す」2026年3月15日四旬節第4主日ミサ防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    ヨハネ福音書9章の生まれつき目の見えない人の癒しは、単なる奇跡の物語ではありません。人々は不幸の原因を過去の罪に求めようとしますが、イエスはそこから神の業が現れる未来へ目を向けさせます。盲人は癒された後、共同体から追い出されるという困難を経験します。その後の過程の中で再びイエスと出会い、信仰の目が開かれたのです。癒しと救いは一度きりの出来事ではなく、長いプロセスの中で深まります。神の業は目立つ奇跡だけでなく、人と人とのつながりの中に静かに現れていくのです。

    東日本大震災から15年。釜石教会でのお茶っこサロンも15年も続いているんですね。

    福音朗読 ヨハネ福音書9章1-41節

     1〔そのとき、〕イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5わたしは、世にいる間、世の光である。」6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7そして、「シロアム——『遣わされた者』という意味——の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
    12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
     13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
     35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

    神の業を見出す

    今日の福音書は、ヨハネの9章の実は長い長い盲人の癒しのお話ですね。全部をちょっと読み切れずに、ちょっと部分的に少し省きましたけれども、この人は生まれつきの生まれつき目が見えなくて、それで。その人を見て、弟子たちが尋ねるんですよね。この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからか。本人ですか、それとも両親ですかと尋ねるわけなんですね。やはり当時の考えでもそうだし、実は私たちもそう考えているところがありますが、何か悪いことや問題があったら、それは本人が間違いを犯したからこうなっちゃったのか、あるいは逆に両親が悪かったから両親の影響でこうなっちゃったんじゃないかとか、いろいろ原因を考えたりすることはよくあることだと思いますね。

    もちろん、やはりどういう原因があったのかということを見ることも全く意味がないことではないですけれど、でも、イエス様の発想は、過去にとらわれているのではなくて、やっぱり未来志向っていうか、ある何か大きな出来事があった時に、じゃあそこから出発してどういう神の業が現れるか、どういう神の業を求めていくかという未来志向で考えていくということで、これはなかなか大切なことじゃないかなと思いますね。

    この箇所については、特に障害者の方々が散々議論したり、話し合ったり、黙想したりするところで、このことについても様々なことがあるんですが、でも、いずれにせよ、このことを言った後に、イエス様がこの盲人を癒されるんですよね。それがちょっとなんかどうなのかなと思いますけど、地面に唾をし、唾で土をこねて、その人の目におぬりになったんですけど、こんなことを現代のお医者さんがやったら大変なことなります。泥を混ぜてですよ。目に何か塗り付けるとか、何かもうちょっと現代の医学から考えたら、ちょっととんでもないやり方でしょうけれども、ともかく、それで池に入ったら見えるようになったということですけど、やはり一人一人の癒しの与えられ方は、それぞれが特別な方法でイエス様が癒しの恵みを与えてくださるという、一人一人やり方が全然違いますから、やっぱり私たちが癒しの恵みを受けるのも一人一人個別の形だということですけど、でもこの話のポイントは、ここで目が実際に物理的にですね、肉体的に目が見えるようになったということは、話の出発点にしか過ぎないんですよ。目が見えるようになってめでたしめでたしじゃなくて、目が見えるになってからの話が実は長く長くあって、それで何かトラブルに巻き込まれてしまって、周りの人も振り回されて、しかもこの朗読省きましたけど、親まで呼び出されているんですよね。

    親も呼び出されて、親もなんかもういい加減なことを言って責任逃れする話がいろいろあって、結局どうなったかと言ったら、彼は外に追い出された、外というのは何かというと、ユダヤ人コミュニティーから追い出されたところなんですよね。目が見えるようになって、結局彼は何か何か非常に大きな困難を逆に背負わざるを得ないようなことに実はつながっていく。
    微に入り細に入りプロセスがあるんですが、はっきり言えるのは、癒すというのはプロセスだということなんですね。それは単なる癒しという私たちの救いは、様々なプロセスを経て、これがあったら終わりというよりも、何か持続的なことの中である時はいいことが、ある時は困難があったり、その中でそれは信仰と言ってもいいかもしれないですけど、それはプロセスの中で深まったり、広まったり、強まったり、そして結論は何かと言ったら、最終的にこの人は外に追い出されて、そこでもう一回イエスに出会って、そこでイエスを主として礼拝する、イエスを救い主として受け入れるというところで、この話のいわば結論のような形になるわけですよね。

    だから、彼の目が開かれるということの一番大事なポイントは、肉体的癒しよりも信仰の目が開かれるというところまで導かれているということが一番大事なポイントなんですよね。

    だから、どこに神の業が現れるというか、どこに神の業があるのか。普通は、だから、病気が癒されたから、もう神の業だという、それそれも含まれていますけれども、でも、信仰の目が開かれる、この人がそこにこそ本当に神の業があるということなんですね。

    私たちが私たちの信仰生活の中で、どこでどのような神の業を見つけられるかということなんですよね。見えているという人が見えなくなったり、見えない人が見えるようになったり、私たちが私たちに与えられる神の業をしっかり。様々な人生の出来事の中にいろんなことがありながら、その中で神の業を私たちが見出していけるかどうかということなんですね。

    特にこの頃になると、3.11もちょっと過ぎましたけど、東日本大震災の報道がテレビでも出たり、YOUTUBEで昔のことを見たり、震災の直後から私、釜石に知り合いがいたせいで釜石の支援活動をずっとやっていたり、最初はボランティアで関わって、途中からはNPOになったから理事になって、それで10年以上も年に何回もそちらに行って、支援活動と町の復興の姿をずっと見てきてですね、それもやっぱり大きな、15年ですからね。やっぱり大きなプロセスというか、やっぱり流れがあるというのか。だからもう今すごいんですよ。堤防なんかものすごい高いのがあったし、道路とかあれば全部整備されてますけど、でも過疎の問題ですよね。人口が減ってしまって、この防府よりももっと危機的な状況というか、町全体の問題というんですかね、様々なことが出てきて、それも報道でご存知の方も多いと思いますが、その中でずっと教会、NPO、そして教会として支援活動をやってきて、とにかく主任神父さんが4回替わって、そのうちの二人はもう天国に行かれたんですよね。教会委員長とか信徒代表も4人替わって3人がもうみんな以前の教会委員長全員天国なんですよ。今は若い人がちょっとなっているんですけど、もう教会そのものもそうやってどんどんどんどん変わって、人も変わって、ボランティアもいっぱい来て、それでまた引いたり、今どうしているかといったら、教会の中でフィリアという名前なんですけど、向こうでは「お茶っ子サロン」といって、お茶飲み会みたいな感じですよね。
    それをもう10年以上ずっと続けてきて、未だに続いているんですよね。それで3.11に合わせて向こうの人が写真とか送ってくれてね、今の様子こんなんですって言うんですけど。でも建物を建てたりどうのこうの、町がどうのこうのあるけれども、結局ずっと人と人との繋がりを大事にしながらあちこちでやってた。お茶っこも、教会の一部を未だに毎日やってるんですよね。その主任神父さんご自身と代表と教会の信者さんと周りの方々と、ほぼ毎日ずっと。いまだにボランティアがたくさん来た時もあったけど、今ボランティアも全部なくなって、地元の人たちばかりでやってますけど、でもやっぱりか、そういうのを見ていると、15年経って神の業は何なのかといったら、やっぱり人と人との繋がりで、いまだに人と人との繋がりを大事にしながら、お茶飲んだり、ごぼう体操と体操をやったり・・・色々プログラムがあるんですけど、それをずっとやり続けている中の人と人との繋がりの中に、神の業というか、神の国の現れを15年たった今もやっぱりひしひしと痛感できるという、やはりやっぱり神の業が現れてくるというのは確かじゃないかなと思いますね。

    だからまあ堤防を建てるとか、何か大きな、それは目に見えることで、それももちろんやらなきゃならないことですけど、でも本当に大事なことは、やっぱり人と人との繋がり、あるいは神と私たちとの繋がり。それはやっぱり地道でそんなに目立つものではないけれど、でもそういうところにこそ本当の神の業があるのではないかと思います。

    私たち自分自身の信仰、あるいは私たちの教会、あるいは人との繋がりの中で、大きな問題とかいろいろなんかいろいろありますけれども、個人にもグループにも。でも、そういうことを経ながら、私たちは信仰のプロセス、それを歩んでいきながらですね、やはり神との繋がり、人との繋がりの中で、神の業、神の国、あるいは神様の温かさを分かち合っていけるかどうか、それがいつもいつも問われているし、いつもいつもその恵みがやっぱり私たちに与えられていると思います。

    私たちがいろいろなことで、いいこと、悪いこと、いろんなことを繋がりながら、私たち経験しながら歩んでいますけど、そのその時その時で神の業をしっかり見出していけるように、神様がその時に働いてくださっている、その恵みをしっかり見出しながらですね、神の業を互いに見出しながら、それを分かち合っていけるように、神様に恵みと力を願いたいと思います。

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  • 【ミサ説教】ヨハネ福音書4章5-42節「心の穴」
    ヨハネ福音書4章5-42節「心の穴」2026年3月8日四旬節第3主日ミサ防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    ヨハネ福音書のサマリアの女の物語は、人の心の渇きを示しています。彼女は多くの男性との関係の中で満たされない心の穴を抱えていたが、イエスとの出会いによって「生きた水」を知りました。人は誰でも心に穴を持ち、それを愛や仕事、酒など様々なもので埋めようとするが本当には満たされません。山頭火の生き方もその一例といえます。イエスが与える生きた水、すなわち聖霊の恵みと真実に生きる道によってこそ、心の穴は塞がれ、渇きは満たされるのではないでしょうか。

    今回も山頭火のお話の続きがあるにゃ

    福音朗読 ヨハネ福音書4章5-42節

    5〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

     7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
     28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
     29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
     31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
     34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
     37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
     38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
     39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
     40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

    心の穴

    今日の福音書は、ヨハネの4章サマリアの女とイエス様との関わりの話ですけれども、非常に印象深い話ではあると思います。サマリア地方というのは、いわゆるユダヤ人じゃなくて、ちょっと異邦人の土地なんですよね。だから、ユダヤ人は嫌われているところなんですが。エルサレムとガリラヤ地方を通る道というのは何本かあるんですが、山の道を通ると、このサマリヤ地方を通ることになるんですけれども、そこでヤコブの井戸という旧約聖書から昔からあった井戸での、そこにイエス様が疲れて旅で疲れて座っている時に水を汲みに来た女の人の話なんですね。

    ヨハネの福音書は実は非常に面白くて、ここはサマリアの女とイエスの話なんですが、福音書では愚か者の対話と言ってですね、イエス様と登場人物の会話は必ず食い違う。ですから、全く理解し得ないというふうにできていて、ここも水の話をして、イエス様が水を飲ませてくださいと言っているのに、最終的に女の人がですね、その水をください。渇くことがないように、ここに来なくてもいいようにその水をくださいと言ってですね、水違いの話になっていて、話がいつも通じていないというのがヨハネの福音書の特徴なんですが、ここも全然食い違っているわけなんですよね、話が。

    その水をくださいと女の人が言ったら、またイエス様がまたちょっと唐突にですね、「あなたの夫をここに呼んできなさい」って。全然関係ない話を急にするわけですけれど、でもそこにやっぱりこの女の人の一番の問題点というか、最大の苦しみというのがはっきりするわけですよね。
    で、「夫はいない」と答えると、イエスが「夫はいませんとはその通りだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」ということで、この人の問題点が明らかになるんですけど、5人の男性と結婚していたってことですよね。6人目の男性と同棲してるんだから、この女の人のことを考えると、いったいどんな人生だとちょっと想像を絶してて想像つかないような。この5人の夫が全部死んでたとしたら、死んだら次の人と結婚できるわけですよ。この5人の旦那さんが次々死んでいったとしたら、現代的に言ったらもう保険金殺人じゃないかっていうか、どう考えても不気味な話というか。
    もし死んでなかったら女性の方から別れられない。昔は男性の方から別られたから、よっぽど性悪の女で、こんな結婚生活に向いてない。多分めちゃめちゃ美人で何てか男の人が寄ってくるんですけど、主婦業が全くできないから次から次へと離婚をさせられたかどっちかですけど、どう考えたってちょっとレベルを超えて、ひどい。ひどいとも言えるし、不幸だとも言える女の人で、その問題がここでイエス様の一言でも全く明らかになってるわけなんですよね。

    結局、この女の人の問題は何なのかと言ったら、僕の言葉で言ったら心に穴が開いてるんですよね。心といってもいいでしょうか、穴が開いてて。乾いていて、それを男の愛で埋めようとするんですけど、埋まらないんですよ。全く。
    ぽっかり穴が空いていて苦しいんですけれど、その穴を何かで埋めたい。この女の人はやっぱり男の愛で埋めたいんだけれど、あまりにその穴が深すぎて、男の人が疲れちゃうというか、関われないぐらい。その穴を私たちはいろんなもので、人によって穴が大きい人と小さいと言いますけど、この人の穴はかなり大きかったんですよね。

    だからどうやったって埋まらないから、喉が渇いて渇いて。
    だからイエス様に喉が渇く、乾かないように水をくださいと言わざるを実際得なかったといういうかですね、何か悲劇的な女性ではあるわけですよね。

    でも結局、意識してるかしてないか、穴が大きいか小さいか、人によって違いますけど、やっぱり例えばアルコール依存の人とか依存症の人はやっぱりその穴を必死で何かで埋めないともう生きていけない。
    それがショッピングだったり、あるいは何かのある依存だったりですね。男の人だったら仕事依存の人も多いですからね。この穴が埋まらないから仕事をして何とか穴を埋めようとか、あるいはお金儲けを一生懸命する人も、お金が欲しいんじゃなくて、結局お金で穴を埋めたいんだけれども、埋まらないからもっともっとお金を稼がなきゃならないとか。
    だからなんというか、ある意味悲劇だけれども、誰にでもある話なんですよね。

    でも、イエス様と出会ったことによって、彼女はやっとこの穴が埋まるようになってきた。このイエス様が言う水は、その人の内から泉となって永遠の命が湧き出わき起こる。水がこの穴の中から満たされる。それはイエス様と出会うことによって初めて、この人はその自分の心の穴が本当に埋まるものに出会うことができたということですよね。

    でも、その穴を埋めていくということは、別の言葉で言ったら、霊と真実による礼拝と、イエス様言っているんですよね。穴を埋めるのは何かと言ったら、本当に心の中を埋める、「生きた水」というのは聖霊の恵みと、そしてイエス様がくださる真実を生きていくことの中で初めてその穴が埋まっていくということですよね。
    この穴を私たちは神様の恵みによって霊と真実の道を歩むことによって埋めることができたら。埋めることが私たちにはできる道が示されているということですね。

    ちょっと先週ちょっとだけ話した話しをしますけど、山頭火という俳句の名人がいて、生家がすぐそばで、それこそ私、お墓もすぐそばに歩いて行ける距離にあってですね、山頭火のことをいろいろ読んだりしているんですけど、はっきり言って彼の心にも大きな穴があったんですよ。山頭火は明らかに。結局結婚して子供もいるんだけれど、結局家庭生活全くできない。仕事もできないですね。何ヶ月しか働けない、定職に就けないんですよ。お金も稼げない。だから結局奥さんも素晴らしいんですよね。もうめちゃめちゃ美人だ。「サキノ」っていう奥さんなんですけど、周りの人がびっくりするぐらい美人だった。子供もめちゃめちゃ優秀なんですけど、でもやっぱり家庭生活で穴が埋まらないからもう出られない。完全アルコール中毒でアルコールで穴を埋めるか、結局放浪生活をしてあちこちを物乞いのようにしてやるしか生きることが彼はできなかったんですよね。
    だから、ある意味、本当に深い深い心に穴があって、その代わり彼はやっぱりちょっと救いを求めて、曹洞宗の本当のお坊さんにはなれないんですけど、永平寺で曹洞宗って永平寺で修行しなきゃならないけど、修行なんかできないから、3日ぐらいしか行ってない。だからまあ正式なお坊さんじゃないんですけど、一応まあお坊さんみたいな感じで。でも結局曹洞宗の禅宗も彼の穴を埋めきれなかったわけですけど、それでもやはり何とか自分の生き方を求めて俳句だけは書けたんですよね。俳句を書くことで、彼はなんとか自分の生き方を貫くことができたんですけど、家族は大きな犠牲を払いましたけれど、彼の作った俳句で、たぶん多くの人が救われている。彼の俳句によって救われた人はいっぱいまたいると思いますけれども、彼はそうするしか他に道がなかったわけですけれども。

    いずれにせよ、山頭火の生き方を見ていて思うのは、何か自分が神父になった意味がよくわかったというか。
    僕の中にも穴があるんですよ。心の中に大きな穴があって、この穴がなかなか埋まらないんですけど、山頭火が、奥さんと息子を置いて家を出たっていうのは気持ち的にわかって。だから僕は結婚しなかったなら、僕はたぶん結婚していても結婚して家庭を持っても自分の穴が埋まらなかった気がして、神父になって神様とガチで付き合っているから、どこか埋まっているところがあって、それなりに自分は生きられているんじゃないかって、山頭火の生き方と比較してちょっと思ったりするんですけども。

    とにかく山頭火は本当に破綻者でしたから別れているんだけど、奥さんの仕送りをもらったりとか、奥さんの支援でまだ生きてたり、着替えなく送ってもらって旅している時にね、結局奥さんが年老いた後は、息子が出来のいい息子なんですよね。息子の仕送りで生きてた。晩年は何の世話もしなかった息子に助けられてたりして。ある時、息子からわりと大きなお金が送られてきたから喜んでそれで酒飲んで遊んで使い果たしだったら、そのお金は自分の結婚式。息子が結婚式だから親父に来てくれという日用品を送ってきて、その旅費があっても結局結婚式も出てないんですよね、息子の。

    本当に破綻しているどうしようもない奴なんですけど、でも私たちはまあそこまでひどくない人が多いですけど、でも大なり小なり何かでこの心に穴がどこかに開いてるんですよね。人によって開き方も違うし、大きさも種類も違いますけど、でも私たちはイエス様と出会って、イエス様の愛の内に霊と真実の道を歩むことによって、私たちは救いの道を歩むことができるということを、イエス様がはっきり示しておられる。
    聖霊の働きですよね。祈りをしたり、あるいは神様に委ねたり、やっぱり神の心の中から穴を埋めてくださる聖霊の働きを私たちはいただくことができて、そして真実に従っていける。イエス様が示してくださった真実を生きるから、私たちは救いの道を歩むことができる。これは本当に大きな恵みだと思いますね。

    私たちに示されている霊の導きと真実は一体何なのか。それを私たちが踏み外さないように歩んでいけるように、神様に恵みを願いましょう。私たちは皆、大なり小なり罪人で、大なり小なり穴があるわけですけれど、それをしっかり受け止めながら、イエス様が示してくださっている真実の道、聖霊の力に頼りながら、その道を歩んでいけるように、神様の恵みと力を願いたいと思います。

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  • 【ミサ説教】マタイ福音書17章1-9節「神の声に耳を澄まそう」
    マタイ福音書17章1-9節「神の声に耳を澄まそう」2026年3月1日四旬節第2主日ミサ防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    四旬節第2主日に朗読される主の変容は、十字架前に弟子たちへ復活の希望を示す出来事です。ペトロは仮小屋を建てようとしますが、父なる神は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と告げます。大切なのは記念や形ではなく、キリストの生きた言葉に耳を傾けること。騒がしい現代社会の中でこそ、教会と祈りを通して神の声を聞き、洗礼を受ける人も周囲も信仰を深めていくよう招かれています。

    神父さんが山頭火が好きだなんて初耳だっったにゃ。(ラーメン屋さんに「山頭火」という店が多いのはなぜだろう)

    福音朗読 マタイ福音書17章1-9節

     1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
     9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

    神の声に耳を澄まそう

    四旬節の第2主日は毎年必ずそうなんですが、主の変容のところを必ず朗読することになっています。イエスは3人の弟子だけを連れて、高い山、タボル山かヘルム山かどっちかと言われていますけど、そこに登った時に、イエス様が生きている間にちょっとだけ神様の姿を現すというんですかね、特別にいつも普通の人間に、人間として生きている時は過ごしておられましたが、この時だけは特別に神様の次元を特別に示されるんですよね。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。そして、旧約の預言者とお話をするとですね、ちょっと神秘的な姿を垣間見せた。これは多分、やはりイエス様が十字架にかかって苦しまれる時に、弟子たちが希望を失わないように、あらかじめ復活したイエス様の姿をあらかじめ見せられたのではないかというふうに思えます。

    でも、それに対してペトロは、だいたいそれを見た3人とも、あまりの光景でちょっと驚いてしまって、どうすればいいか分からなくて、ペトロは仮小屋を3つたてましょうと。あなたのためモーセのため、エリアのため、何かちょっと祈る場所というか、記念すべき所を作ったらどうですか?みたいな感じで言うわけですよね。何かやっぱりちょっと特別なことがあったら、何か形にして残しておかないともったいないとペトロが思ったのかもしれない。でも、その後、雲が現れて見えなくなって、父なる神様の声がして、イエス様はですね、イエス様のことを神様の愛する子であって、心にかなうものだから、イエス様にちゃんと聞きなさいということを父なる神がこの3人に言うわけですね。

    私たちにとって一番大事なのは、このイエス様に聞けというですね、それを大事にすることができたらいいんじゃないかなと思います。

    私が防府に来て良かったことはいろいろあるのですが、プライベートな話をすると、非常に良かったなと思うことは何かと言ったら、種田山頭火の生まれ故郷だったという。俳句で有名な人なんですけど、近くの自分でクリーニングを持って行ったら、クリーニング店の中にですね、山頭火のカレンダーがかっているから、あれっと思って、あれ山頭火ですよね?とかと言ったら、ああ、そう、そうですよと言って。それで生まれ生まれたところすぐそばですと言うから、えっと思ってクリーニング店を出たら、斜め向かいがこの生家跡で生まれた家の跡だったりして。そしたらよくよく見たらあっちこっちにこの防府で一番の誇りを山頭火かなと感じるぐらい。駅前に大きな銅像も立っていたり、あっちこっちに持ち石の公園もそうなんですが、あっちこっちに山頭火の俳句句碑というのが7つぐらいあるのかな。あちこちにあって、何となくちょっと嬉しくなってきたりしていたんですけど、でもまあ、例えば銅像を見たって、山頭火の銅像を見たって、あるいは何かそういう場所を訪ねたり、あるいはちょっと記念館までありますけど、だけどか、そういう場所を見てどうのこうのというよりは、やっぱり何が面白いかって言ったら、やっぱり山頭火の作った俳句そのものですよね。

    文学者だから、やっぱり彼の作った俳句を通して何か感動したり嬉しくなったり、あるいはプラス大分彼のメチャメチャな生き方もちょっとオープンになっていて、ちょっと駄目駄目人間なんですけど、本当のところは。まあでもそういうのと合わせて、その素晴らしい、何とも言えないすっきりした感じの句が多いんですけれど、そういうのがあるから、何かこう、何か生きた言葉があるから、何かそこに喜びというか何かがあって、それがあったら像を見たってそれなりですけれど、でもそういう彼の文学と関係がなければ、ただの何にも銅像にしても何にしても、ほとんど何も意味がない。で、特に皆さんここで暮らしておられるから、別にあまり気にしても、僕みたいに外部で来た者にとっては、何かえらい不思議な山頭火の小道というのがあって、散歩道まであるんです。週一回は必ず歩いて、あちこちにこの俳句が掲げてあるんですよね。何となくそういう気持ちになって歩いたりしているんですけど、普通はあまり日常生活のこと、散歩道を歩くのは私一人ぐらいで、他の人と全く会わない。会わないんですけど。

    種田 山頭火

    (たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)1882年〈明治15年〉12月3日 – 1940年〈昭和15年〉10月11日)。日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。出家得度して耕畝(こうほ)と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。

    代表句「まっすぐな道でさみしい」など。

    だけどやっぱり何か場所とか像とか記念碑が意味があるのではなくて、やっぱり彼の文学というか、その生き方プラス。だから俳句が響いてきたり、何かを身近に感じたりするわけですよね。だから、イエス様も同じで、別にこの聖堂があるからとか、あるいは聖像があるからいいんじゃなくて、やっぱりそこにイエス様の生きた言葉とか眼差しとか配慮とか、それを私たちが感じていけるから、だから、これに聞けというのはその通りなんですよね。

    何か形あるものがあればそれでいいんじゃなくて、何か特別なことがあったら、どこの国民もそうですけど、記念碑を作ったり。この周りも日本中、日本で歴史があるから、あちこちに記念碑とかいっぱい建っているんですけど、でも何かそれがあるからどうということは全くないわけで、中身というか、そのイエス様の心をどう私たちが受け止めて、それに聞いてそれに従っていけるかということなんですよね。

    今日は洗礼志願式で、本当に多くの方が洗礼を受けられるということで、非常に私も嬉しく思っていますが、特に洗礼を受ける方々は、洗礼を受けるというのは形を、形は形なんですけど、形も大事で、それでご聖体をいただけるようになって、そこが大事なのですが、それ以上に生きたイエス様とか神様との交流とか、つながりというかですね、それを深めてくださればありがたいと思います。

    目に見えないし。だから、こんなにはっきり私の変容みたいに現れてくださるわけじゃないですけれど、日頃は。でも、その神様の言葉を聞いていくような気持ちで、この洗礼を準備してくださっるといいんじゃないかなと思います。もちろん、洗礼を受けてからこそ、もっと大事になることですけれどもというのは思いますけれども。

    本当にこの神様の声が響いてないんです。この社会はテレビを見ていても、今ネットでですけれども、ネットでユーチューブを見たり、TIKTOK見たり、いろいろする時代になりましたけれど、神様の声はほとんど響いてないんですよ。
    テレビを見ても、新聞でもそうですけれども、ほとんど響いてないから、私たちは意識して神の声を聞こうとしないと、なかなか接することができない時代なんですね。YOUTUBEとかTIKTOKが流行っているのはばかばかしい。そこが馬鹿馬鹿しかったり、ちょっとフェイクニュースが流行って。

    だから、ちょっと言葉が通じるかもしれないけれど、この世で聞こえてくる声のほとんどは悪魔の声なんです。
    神の声じゃなくて、この世の声というか、悪魔の声がいっぱいいっぱい聞こえてきて。
    それに、私たちはもうついつい振り回される。そういう時代なんですよね。

    神の声はなかなか響いてこないし、それが耳に届かない。そういう中に生きていますから。だから私たちはこうやって教会に通ったり、ミサに預かったり、聖書を読んだり、勉強したりする機会があって、そこで初めて神様の声というか、神の導きが何なのかが少しは分かる、そういう機会を必要だということだと思いますね。

    特に今、洗礼の準備をされている方々は大人の大人、子供は子供でね、それぞれが洗礼の勉強をしていますけども、そういう勉強を通して、あるいは祈りを通して、私たちはしっかり神さまとのつながりを養っていく。それは洗礼までというより、洗礼を受けてからもそれを心がけるように、うっかりしているとすぐ世間の一般的な社会の流れの声しか聞こえなくなっちゃって、何か何かが分からなくなっちゃうってことは、今の一番の難しさがある時代なんですよね。

    私たちがしっかり神の声を聞いていけるように、そして代父母の方々とかご両親の方々も、やはり神の声をしっかり聞いていける機会というか、チャンスを大事にしていって、この洗礼を受ける方々が信仰において成長していけるように、周りの方々も協力してくださったらいいと思います。

    そのような形で私たちはこの復活祭に向けて準備できるように、互いに祈り合い、助け合っていきたいと思います。

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  • 【ミサ説教】マルコ福音書 8章11-13節「しるしをどう受け止めるか」
    マルコ福音書 8章11-13節「しるしをどう受け止めるか」2026年2月16日カマのミサ旅路の里
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    人は神のしるしを求めますが、大切なのはそれをどう受け止めるかです。奇跡だけでなく、喜びも試練もまた神からのしるしです。ヤコブの手紙は、試練を喜びとし、貧しさも富も信仰を深める機会だと語ります。恵みは与えられていても、受け取る心がなければ実りません。日々の出来事を神のしるしとして受け止め、成長の糧にする姿勢が求められています。

    宝くじ、買おうと思っていたけど・・・

    福音朗読  マルコ福音書 8章11-13節

    (そのとき、)ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

    しるしをどう受け止めるか

    今日のイエス様のお話は、しるしというユダヤ人は特に神様からのしるしをしるしというのは、何か奇跡的な何か出来事みたいなことですけど、そういうものを求める、そのような体質というものがあったような感じですね。一番大きなしるしは、このユダヤ人のもっとまた前の話ですけど、エジプトで奴隷状態になっているところからモーセという預言者の導きによって約10ぐらいには渡る様々なしるしというんですかね、いろいろあって、それでエジプトから解放されたということがあって、そこから非常にしるしを大事にしていたということはあるんですけれども、ただ、ここでですね、このファリサイ派の人々って、イエス様と対立する人々ですけど、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めたっていうから、何かちょっとしるしの求め方がおかしいっていうか、それでイエス様がしるしを与えられないと、今の時代の人々にはあったことをはっきり言うわけですね。

    だから、イエス様、実はこの読んだのがマルコの11章なんですけど、この前の話かなにかと言ったら、4000人の人にイエス様が7つのパンを裂いて渡して、みんなが満腹したって、まさしくそれは大きなしるしなわけで、イエス様は大きなしるしを実際行っているわけですけれど、でも結局、しるしをどう受け止めるのかという、この人間の心っていうか、それが結局、信仰ということになるんですけれど、神様のしるしがあって、それを私たちがそこを通して神を信じて、そこから何かこう何かこう恵みを得て成長していこうとするかっていうしるし、プラスそれを受け取る側の人間の態度と両方がやはり合わないと、実際ダメなんですよね。

    ここで村の人々がしるしを求めていたら、何かイエスにケチつけるために、イエス様のやっていること、今でも本当かどうかわからないですけど、いろんな奇跡的なことをやる人がいたら、だいたいみんなインチキだとか手品だとかいう、まあそれはそれを信じるか信じないかで全然話が違いますけれども、いろんな時々は新興宗教の教祖みたいな人ってのはびっくりするぐらいなことする人、時々いないでもないんですよね。特にインド系のね。なんかの人は。だいたいそれはなんか結局ネットがネットか何かで流れたらインチキだとか嘘だとか、それをどう受け取るかあったことの問題になるわけですよね。

    私たちに与えられているしるしを、私たちはどう受け止めていくのか。どこにしるしを見出して、どこでそれを私たちの成長の糧にできるかどうかということなんですよね。

    だいたいしるしには2つあって、当たり前ですけど、いいことを通してしるしが与えられた神の恵みだな、こんなことがあったなとか、助けられたら、それも一つのしるしですけど、もう一つのしるしがあって、やっぱり苦しいこととか困難なことが私たちのしるしになることもある。

    だから私たちは2つのしるしを受け取らなきゃならないんですよ。
    人生の中で難しい問題とか、何か起こったところからしるしとして受け取っていく。もう一つは、本当にお恵みっていうのはいいことを通して、それも何か単なるラッキーということで済ますのではなくて、それを通して神に感謝していけるかどうかってことなんですよね。

    今日の第1章がヤコブの手紙なんですけど、すごいですよね。最初、私の兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさいって書いてある。試練がいろいろあって、人生には困難なことがあるけれど、この上ない喜びと思いなさいって言ってるんですよね。

    これ、しるしだからなんです。神からのしるしとして与えられているから喜びなさいと。
    なんだか信仰が試されるから、そこから忍耐が生じるって言うんですよね。忍耐が生じて、そこから完全で申し分なく、何ひとつ欠けたところのない人になりますからっていうふうに言うわけですよね。

    だから悪いことがあるから、だからそれは神さまから呪われてるとかじゃなくて、悪いことを通して私たちはその成長していける、信仰的に考えてね。だからそれはしるしだということなんですよね。面白いですけど。その後、こういうところもあって、貧しい兄弟は自分が高められることを誇りに思いなさいって書いてあるんですね。
    だから貧しさがしるしだと言ってるわけですよ。
    だから普通、貧しいとお金もなくても困ってどうしようかなって。どっちかというと悪いものだと思うけれど、でも貧しさのしるしだって言うんですよ。貧しさを通して、神の恵みの中で高められることがある。

    本当の意味でそれを誇りと思えっていうんだから。こう思えたら本当に素晴らしいなと思います。

    次がまた傑作で。富んでいる人。
    ヤコブの手紙ってね、実はお金持ちに厳しいんですけど、富んでいる人についてはですね、自分が低くされることを誇りにせよと言っているんですよ。だから、この富とかお金持ちっていうことは、実はヤコブからしたらマイナスのしるしなんですよね。

    普通だからお金がガッポガッポ入って、それこそ神様から祝福されると思うんですけど、そうじゃないんですよね。お金持ちとか、金がいっぱい入るのは、実はマイナスのしるしなんだ。あとがすごいんですよね。富んでいるものは草花のように滅び去るからですって書いてあるんだけど、そのあとなんですけれどもね。日が昇り、熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさを失せてしまいました。今の日本の夏も暑いですけど、イスラエルの中には夏というものが乾燥していますから、熱風がバーッと夏なんて熱風が吹いたらもう全部彼じゃ草とかなんか全部枯れちゃうんですよね。
    金持ちはそれと同じなんだっていう風に変えれていて、同じように富んでいるものも人生の半ばで消え失せてしまうのです。って書いてあって、お金持ちがいかにむなしくてはかないものなのか、みたいなね。

    実はヤコブの手紙、すんごいお金持ちに厳しいんですけど、だからお金があるってことは全然プラスのしるしじゃなくて、マイナスのしるしだから気をつけろと言っている。

    だから私たちは本当にこの人生でさまざまな嫌なこともあれば、いいこともある。両方もちろんあるわけですけれど、両方をちゃんとしるしとして信仰の上で受け止めた時に、そこから私たちがどう霊的に成長していけるかどうかということを一番考えなさいと。そういうしるしが私たちに与えられている。

    だから、何か特別な目立つことがあるとかないとか、というより、私たちが日々の生活の中で出会う喜びだったり、辛さだったり、それをどう主として私たちが受け止めていけるかということが実際に大事なことなんですよね。

    富の話でしたら、よく言われることですけれど、宝くじで当たる当たって、今だったら1億円とか、下手したら2、3億円が3億円ぐらいもらえることがあるんですけど、だいたいね、不幸のしるしなんですよね。
    宝くじ当たって1億円、3億円もらって幸福になる人がほとんどいないって言われていて、もう舞い上がっちゃって、それでもバカスカお金使ったり、あとから周りから変な人集まってきて、何とかして結局真面目に働くのがバカバカしくなって、仕事もやめて何もしないという人がほとんどで、とにかく宝くじをみんな買ったら、それはなんかいいと思ってみんな一生懸命買うけれど、宝くじに当たる人は、実は不幸の印をもらっているしか実はないんですよね。

    地道にお金を貯めて、お金持ちはともかくもっとお金が入っていって、それはもう全然その人の人生が滅びてしまうということがよくあることなんですよね。なかなかね、難しいですよね。時々、時々その宝くじで当たった人がそのお金を資本にして、次の人生のステップに歩める人はごく少数はいるんですけどね。だから、そういう人は本当にそのしるしをちゃんと受け止めて、自分の糧になることを、そのお金を使って投資をして、それから次のステップを歩むという人も実はいるんですよね。

    だからね、こういういるしを私たちはどう受け止めていくのかっていう、それはなかなか難しいですけど、この後のお話がまた傑作で、この後に実はイエス様がいろいろ弟子たちを注意する話で、結局そのパンの増加の時に残ったパンくずがいくつなのかって、4000人のところが7つのパンくずが残るんですけど、
    それでお前たちはまだ悟らないのか。実は弟子たちが怒られている。だから弟子たちもその印をもらっているんだけど、しるしの意味がわかってないんですよ。だからもうイエス様、すごい怒って、お前らわかってないのかっていうか、このちょっとめちゃめちゃ怒っている話がこの後に続くんですけど。

    だから結局私たちは本当に神様からのメッセージとか、神様がどう思ってるのかしっかり受け止めない、受け止めない限り、いいことも悪いことも、何かもうごちゃごちゃのまま流してしまう。そういう無駄なことをしているということに、弟子たちもなかなか分かってないのね。このファリサイ派も分かってないけど、実は分かっていない。

    本当のしるしの意味をですね、それはイエス様が十字架にかかって復活して、やっと弟子たちの方は、聖霊の恵みの中で、そのしるしの意味がだんだん分かってきて、イエス様のなさったことが、意味がだんだん分かってくるんですよね。

    だから、なかなか時間のかかることですけれども、私たちは大きな恵みを与えられている。
    様々な形で恵みを与えられていますから、その恵みをしっかり受け止めて、やっぱりそのしるしを本当に神様のしるしとして受け止めて、それを生きていく中で、それが本当に生きたしるしになっていくということですね。それを本当にしっかり受け止めていきたいと思います。

    ミサでパンとぶどう酒をね。聖変化して、それもイエス様のお体としてみんないただくんですけれど、それだってね、ただの何かの後で食べるだけだったら、やっぱりそれもしるしとして意味がなくて、本当にイエス様の体としていただくから、本当のしるしになって生きていく力になるんですけれどもね。

    だから、本当に大事なのは、信仰のあり方というか、私たちの心のあり方が、神の与えている恵みを受け止められるだけの器が私たちにない限り、恵みが無駄づかいというか、生かされないということなんですね。それを心がけましょう。

    ちょっと釜ヶ崎の話をすると、ここにはしるしがいっぱい与えられているんですよ。なかなか他で味わえないしるしが、実はいっぱい与えられている恵みの恵みの場所だと思います。けれども、非常にあり得ない不正とか不正義とかあります。でもやっぱり人の善意とか素晴らしさとか人情とかいっぱいあるんですよね。
    それは私の日常生活でもそうですけど、そういうしるしをしっかり受け止めて、それを私たちの生かして前に行く力にできるようにですね、恵みを願いたいと思います。

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  • 【ミサ説教】マタイ福音書5章17-37節「律法の完成とは」
    マタイ福音書5章17-37節「律法の完成とは」2026年2月15日年間第6主日防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    イエスは律法を廃止するのではなく「完成する」と語りました。それは細則を守ること以上に、律法の根本にある愛を満たして生きることを意味すします。法律や習慣を盾に人を裁くのではなく、神と人を愛する心で日々の小さな行いを丁寧に行うこと。森のイスキアの、故佐藤初女さんの実践のように、食事を作り、話を聴くという平凡な営みを心を込めて行う時、律法は本当に完成するのだと思います。

    初めさんのおにぎりは美味しそうだったなあ。

    福音朗読 マタイ福音書5章17-37節

     〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
     《17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」》
     20 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
     21 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」
     《「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」》
     27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
     《29 「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」》
     33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」
     《「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」》
     37 「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

    律法の完成とは

    今日の福音書は、イエス様の山上の説教の中の一部分が朗読されました。今日の聖書の箇所の中で、イエス様の、特に律法に対する考え方がはっきりと述べられているんですね。このイエス様のお考えでは、イエス様は律法を廃止するために来たのではなくて、律法を完成するためであるということをはっきり言っておられるんですよね。その意味を私たちはしっかり受け止めなければならないと思います。

    実はですね、イエス様とパウロでかなり考えが違うところがいろいろあるんですけど、実は一つはこの点で、パウロはもう律法なんかいらないと、律法によって救われないから、もう律法は要りませんと言って、イエス様の信仰のみだというふうに言ったわけですよね。

    まあ、それはそれで重要なことなんですけど、まあ、イエス様の言動を見る限り、イエス様は律法を廃止するとはどこでも書いてなくて、むしろそれを完成させると言っておられるんですよね。イエス様はもちろんファリサイ派と問題になったのは、その細い律法をイエス様が守っていないことを律法学者やファリサイ派が責めるわけですけれど、イエス様の大半の生活は律法を守っていましたから、別に律法そのものを否定するというのはイエスの考えではない。パウロは違いましたけど、イエスそのものはそうじゃないんですよね。むしろ律法を完成させる、本当の意味でそれを生きなきゃならないということを実はおっしゃっているんですよね。
    完成というのはちょっとなかなか難しい言い方ではありますけど、ここのギリシャ語的に言うと、僕は完成というよりは満たすって言うんですかね、充満させるみたいな単語を使っている言葉なんですけど、律法の本当に求めていることを十全に満たす生き方をしなさいというふうにイエス様は言っているわけなんですよね。

    でも、よくよく考えてみるとね、私たちにはもちろんパウロが否定してくださったから、私たちはユダヤ人の律法を守らなくていいわけですけれども、でも実際、私たちはどこに生きるにしたって、何らかの法律とか掟を守らなきゃならないのはやっぱり確かだと思いますね。

    日本で生きる以上は、やっぱり憲法とか法律を守らなきゃならないわけですよね。全部が全部正しいかどうか。でも、大方はやっぱりいいものですから、あるいは日本人の習慣にしても、様々なものを全部否定することは実はできない。実際、一番大事なのは、いろいろな法律とかに従って、あるいはいろいろな習慣とか文化に従ってきている中で、本当の意味でイエス様のいう完成というんですかね、本当にそれを充満させる生き方を私たちができるようにとイエス様が言っておられる。その点が非常に私は大事なことだと思います。

    東京にいる時に、いろんな専門家がいるんですけど、礼法って日本には礼儀作法が実は細かくいっぱい決まってて、障子の開け方から閉め方からお茶の出し方とか、実は細かく細かくいろんなことが、今はちょっとあんまり厳しくないですけど、礼法というのがあって、その礼法の免許皆伝を持っている人がおられたんですね。
    だから、礼儀作法の専門家の人がおられて、その人に聞けば何でも教えてくれるという感じの人なんですけど。でも、その人が言ってましたけど、結局、日本の礼儀作法の根本は何かと言ったら、相手に対する思いやりだというんですよね。

    それはその通りですよね。別にその礼儀作法の一つ一つを守っているか守ってないか。でも、礼儀作法の根本はやっぱり相手を尊重して、おもてなしの誠実な心でその人と接してるってことを表すためだって言うんですよね。なるほど、と思いましたけど、結局、イエス様が律法を完成させることも結局同じだと思います。

    つまり、私たちがこうすべきであるとかないとかいったことよりも、やっぱりその私たちが生きている中で、やはりその人を大切にする、もうこの別の言葉で言ったら、神を愛して人を愛するということをどう生きていくのか。だから結局、私たちは法律そのものが、律法そのものがいいとか悪いよりも、やっぱりそれを通して私たちはどれだけ誠実に愛を生きていくのか、イエス様が言っているのはその点だけなんですよね、実際のところ。
    だから、この細かいところはもちろんあるんですが、あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義に優っていなければ、まさる私たちの義があってもです。それは明らかに愛をもって生きるからこそ、私たちの習慣とか文化とか法律とか、私たちの人間関係が生きていく日々の生活も、私たちは職場だったら職場のルールがあるし、家庭だったら家庭なりのやり方があって、それを本当に愛の心をもって私たちが生きていく時に、本当の意味でそれが充足するというか、完成していくというですね。
    よくよく考えたらイエスも当たり前のことを私たちに言っていて、その当たり前のことが私たちができるかどうか。
    だから結局この法律を盾にとって、人を陥れたり、弱い人をいじめたりするように使ったらだめだということなんですよね。

    この途中で女の人に対して姦淫するなとかありますけど、これもね、はっきりしているんですよ。女性差別の強い時代でしたから。言っていることははっきりしていて、女性を物扱いするのではなくて、人間として愛をもって接しましょうって実は言っているだけなんですよね。

    細かいところを言ったら全部実はそうなんです。愛をもって接するか、愛をもって法律とか律法を行ってみますかということを私たちに問うているだけ。それが私たち一番大事なことだということですよね。どこに行ったって、どの社会だって様々な法律や習慣がある。

    それを全部イエスが廃止したのではなくて、そこの中でこそ私たちは本当にイエス様の心を生きていけるかどうか、それを問うているわけですね。だから、一番大事なのは、私たちの毎日の付き合いとか、毎日の小さな仕事を心を込めて愛を込めて行っていくかどうかということ。たったそれだけだと思いますね。

    もう亡くなられましたけど、日本のカトリック信者で佐藤初女さんという方がおられて、東北の方で、弘前の方で森のイスキアという宿屋さんみたいな、やっておられる方で、ご存知の方もいるでしょうが、もう亡くなられたんですけど、日本人のお母さんの原型みたいな人だったんですよね。

    僕も何回か行かせていただいて、ちょっと付き合いがいろいろあったんですけど、何が有名かといったらおにぎりが有名だったんですよね。彼女が作るおにぎりが日本で一番おいしいと言われたんですけど、コツは何かって言ったら、たった一つだけで、どれだけ心を込めて作るかどうかっていうことなんですよね。
    とにかく悩んでいる人が、苦しんでいる人がいっぱい森のイスキアに行くんですよ。ものすごいカリスマ的な人なんだけど、でも会ってみたら普通のおばさんというか、普通のお母さんなんですよね。何をするかって言ったら、悩んでいる人が山登りに行くんですけど、何をしてるかはごくシンプルでおいしいご飯を作って、食事を作る。それも別に凝ったものとかなんかじゃなくて、ごく普通の日本人が食べるような、近くでもらってきたりもらったり、買ってきたりしたものを、おいしいご飯を出して、それを食べてもらって、その人の悩みを聞くというですね。ただそれだけしてるんですけど、それだけで多くの人が癒されて、元気をいただいて、おいしいご飯を食べるのと、話を聞いてあげるという、その2つだけしかしてないんですけど、それが心を込めてやって、心を込めて食事を作って、心を込めて人の話を聞くから、それでみんな元気になって。
    もうすごかったですけどね。地球交響曲ガイアシンフォニーだったかな、ドキュメンタリーで取り上げられて、出てから非常に有名になって、もう既に亡くなられたんですけれども、彼女なんか見ていると。だから何にも特別なことをするとか何もないんですよね。

    結局、私たちのやっている仕事とか食事とか、人と人とちょっとしゃべったり、それをただ丁寧に心を込めて愛の心で行うだけという、今日のイエス様の教えは、ただそれだけのことを言ってるんですよね。ものすごい簡単なことを言っているけれども、それがなかなかできないから、イエス様はこれを言ってるわけですよね。

    ついつい私たちは。だから、言い訳したり、そういう法律とか、あるべき論で人を裁いたり、ずれちゃうから、一番の愛を持って、心を込めて生きていきましょうという一番大事なところをやりましょうという、それだけの話なんですね。この心を私たちがやっぱり日々の生活のごく小さなところでできるようにという、その小さなことが、ちょっと彼女は特別なあれがありましたから、何がすごかったかと言って、今みたいにまだメールのない時代でしたけど、枕元に電話を置いて電話を置いて寝るんですよね。悩んでいる人と夜電話かけてくる人多いから、悩む人って夜苦しいんですよね。だから枕元に電話を置いて、何時でも電話の電話が鳴ったらすぐ取って、その人の悩みを聞くとかね。ちょっと普通の人じゃできないことなんですけど、そのおにぎりの作り方も、もうちょっと話が逸れますけど、このものすごい一つ一つが手の中にいる梅干し一つから作るもの作ったり、かんとかいろいろあるんですけどね。

    もちろん私たちは自分のできる範囲でということになると思いますけど、やはり毎日の生活のごく些細な、一つ一つの職場での仕事、あるいは家庭での人との関わり、食事を作ったり食べたり、そこにどれだけ私たちは一つ一つに愛を込めて、心を込めて行っていけるか、イエス様のこのイエス様に力をいただきながら、日々の生活を本当の意味で愛の道が歩めるようですね。
    神様の恵みと、そして力を願いたいと思います。

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  • 【ミサ説教】マタイ福音書5章13-16節「暗闇をあまねく照らす光」
    マタイ福音書5章13-16節「暗闇をあまねく照らす光」2026年2月8日年間第5主日防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    イエスは、弟子であるあなた方“そのもの”が光だと告げています。物や制度(麦わら)をいくら積んでも心は満たされません。必要なのは暗闇を消す光。政治や経済には限界がありますが、私たちには神の光で心を満たし、小さな灯でも周囲を照らし分かち合っていきましょう。

    今日の王様のお話は初めて聞いたにゃー

    福音朗読 マタイ福音書5章13-16節

    〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
    14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16
    そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

    暗闇をあまねく照らす光

    今日は山上の説教の8つの幸いの続きです。最初の最初の頃ですけれども、あなた方というのは弟子たちですけれども、世の光である地の塩であるというふうに言うわけですけれども、それを私たちも何か心がけたいと思います。
    当時はですね、やはり塩というのは非常に貴重なものでした。
    日本みたいに海から取るのではなくて、岩塩というか、土の中からいうかですね、非常に貴重なものでしたし、光もやはり今みたいにどこでも電気が通っているわけではなかったので、塩にしろ光にしろ、非常に貴重な、しかも大切な、そのようなものであるということを私たちに呼びかけているわけですね。

    ちょっとお話をすると、昔、昔のある国に非常に立派な王様がいて、そしてその国を治めていたんですね。だんだん年をとってきて。息子が二人いて、長男と次男と二人いてね、そのどちらかに自分の後を継がせたいというふうに思ったんですけど、そのお兄さんも弟も両方とも立派で甲乙つけがたいような息子だったんですよね。
    ある朝、大広間にその二人とそれで他の家臣たちですよね、家来たちをみんな集めて。それでこの二人の王子にですね、こう言ったんですね。
    日が暮れるまでに一人一人にどうか10枚ずつを与えるから、それを使って、もし使わなくても。それでこの広間をですね、何でもいいから、王様の宮殿だから、大きい広間があって、広間をいっぱいにしなさいと。
    その何かを手に入れてきて、それでそれを見て、そのいっぱいにできるかどうかというところを見てですね、どちらに継がせるか、王位を継がせるか決めると言って、それで二人の王子が外に出て行ったんですけど、お兄さんの方はまあ町や村をちょっと歩きながらちょうどですね、麦を収穫する時だったんですね。小麦とか大麦を収穫する時。で。それでまあ農業をやっている人たちが働いているのを見てですね、それで麦は取れば茎のところはいらないわけですよね。で、脱穀をしていて、それでこの茎がいっぱい麦わらと茎がいっぱいあって、それでそれを見て王子が農業をやっている人に麦を取ったその茎の方ですよね。麦わらの方をくれないかと。当時はまだそんなにそういうものはゴミと同じだったので、そこに捨てられているような感じだったので。そしたら農家の人がいいですよ、銅貨を1枚でですね、じゃあ銅貨1枚でその麦わらを譲ってくれと言ってですね、とにかく広場が大きいから、次から次へと農家を巡って1枚の銅貨で一人の人の麦わらを、10軒の麦わらを手に入れて、それで夕方ごろそれを脱穀が終えたのを持ってきて、広間を麦わらとか麦を取った後の茎で広間をいっぱいにして、王様に、この通りですね、ちょうど収穫の時期だったから、麦わらで肥料もいっぱいにしましたと。これで十分に覆いを引き継ぐことができるんじゃないですかと言ったんですね。
    弟はまだ帰って来てなかったんですけれども。そしたら王様が、いや、そしたらちょっと弟が来るのを待ちましょうと言ってですね、この後の、しかも彼が何を持ってくるかわからないから、麦わらを全部片付けて、大広間をまた空っぽにしてですね。
    そしたら弟の方はぎりぎり日が沈むギリギリぐらいに帰ってきて、それで日暮れになってだんだん暗くなってきたわけなんですね。そしたら弟は何かちょっと持っているようだけでも、何か大きな荷物も何も持ってないんですよね。で、広間をいっぱいにするのに、何か持っているようだけど、大して何を持ってないで弟が入ってきて、王様にじゃあ、これから私は広間をいっぱいにしましょうと言って、1本のどこかで買った大きなろうそくを出してきたんですね。ろうそくに火を灯したとたん、広間が光でもう夜になって暗くなっていたんですけど、そこで1本の大きなろうそくに火を灯したら、ろうそくの光で広間がいっぱいになったというかですね。暗闇がなくなって、全部光の中に包まれたわけですよね。弟がこの通り、私は陽の光で光の色もいっぱいにしましたと。
    それで王様がこの二人のいっぱいにしたものを見て、弟の方にですね、この光でいっぱいにした、これこそが国民に最も必要なものだと。だから、お前に王位を譲ると言って、弟の方が、お兄さんの方はですね、麦わらでいっぱいにしたけど、役に立たないものをいっぱいにしても何の役にも立たないだろうということで、弟の弟の方にこの王位を継いだってね。そういうお話ですけども。

    やっぱり私たちは本当に、私たち自身もそうですけれども、この社会にしても、実際何によって本当に満たされるのかっていうことですよね。それが今日はちょうど選挙の日に当たっていて、僕も夕方ぐらいにと。仕事が終わったら選挙に行こうと思ってますけれど、投票にどこに投票するか、それは様々でいいと思うんですけど、でも本当に政治とか、あるいはその候補者の話を聞いていて思うんですけれども、結局はどのような麦わらでいっぱいにするかという話じゃないかなと思うんですけれども。

    本当に必要なのは光なんですよ。私たちに。でも光を約束することはできない。政治家が目に見える世界の話ですから、この思いわずらいとか、これは銅貨で大した価値がなくて、これだけ買えるからどうのこうのとかですね、それをお互い競い合っているだけで。

    でも、私たちが本当に必要としているものは、多分やっぱりちょっと政治の世界では満たされない、何かそういうものじゃないかな。時は選挙期間中とか考えたり、それは政治の限界ですよね。政治が光の話だとできないかもしれないけれど、でも本当に必要なのはやっぱり単なる麦わらが多いとか少ないじゃなくて、本当に必要なのは私たちにとってやっぱり光、それは神様の光ということですけれども、光があってこそ、私たちは本当に照らされて、温められて導かれる。そういうものこそが本当に必要なんだなということをつくづく思いますけれども、それを政治に求めること自身が無理かもしれない。

    そうすると、やっぱり私たちクリスチャンの役割は、やっぱりこの世界に光を灯す。
    それはだから、全然次元の違う何かを私たちはこの世界に分かち合っていく。

    しかもあれなんですよね、今日の例え話は私のようになれとか世の光になれって書いてないんですよね。あなた方は世の光であるとか、あなたがたは地の塩であると言っているんですよね。

    この内なるものではなくて、そのもの、私たちのそのものがそうだと言っているわけですから、実際、私たち自身がまず神さまの光に。だから、この大広間の空っぽの大広間って、結局私たちの心かもしれない。私たちの心を麦藁で一生懸命ですね。何か物で一生懸命埋めようと思っても、それはやはりあまり意味がないような。

    もちろんご飯を食べなきゃならないし、お金はもちろん必要ですけれども、私たちの心を本当に満たすものは、実際神さまの光なんですよね。それを私たちの心の中というか、生活の中にこそ輝かせて、私たちは何か生きがいとか喜びとか、そういうものを生きていけるんじゃないか。そしてそれを自分自身がまたその光となって、周りの人に少しでも照らせるようなですね、確かにこの部屋に1本ろうそくあるだけで、実は真夜中だったらものすごくよく、ほんのちょっとのものがすごく照らすわけですよね。
    今の私たちは電気に慣れちゃっているから、ちょっと光の感覚が違いますけれども、でも1本のろうそくが、実際、もちろん世界全体で照らさないですけれども、でも小さなところだったらろうそくで照らせるのは間違いないんですよね。ものが見えたり、お互いが認識できたり、話し合ったりできる。1本のろうそくじゃ、ちょっとあの暖かさは無理ですけどね。今みたいな寒い時期は、もうちょっと焚火とかもうちょっとしないと。もちろんもうちょっと強い火が必要ではありますけれども、私たちは神さまから本当の火をいただいて、それを輝き、その暖かさで自分自身が照らされるように、そしてそれをできれば周りの人に分かち合っていけるものですね。

    だから、イエス様は、約束されたのは、どう考えたって衣食住のことを一言も言っていないわけですよね。お金がどうのこうのとか、生活を安定させましょうとか、今の政治家が言っていることはほとんど何も言っていない。実際、それはもう次元とか角度が全く違うからですよね。

    でも、イエス様が言っているのは、本当の光を私たちに与えて、それに照らされて私たちが生きていく、その恵みがあるということですから、本当に神様からいただくその恵みをしっかりいただいて、それを周りの人に分かち合っていけるように、神様に恵みと力を願いたいと思います。

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  • マタイ福音書5章1-12a節「前を向いて歩く幸い」
    マタイ福音書5章1-12a節「前を向いて歩く幸い」2026年2月1日年間第4主日防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    イエスの「心の貧しい人は幸いである」とは、満たされた者ではなく、不安や病、行き詰まりを抱え、必死に救いを求める人々への慰めの言葉です。心の貧しさとは心細さそのもので、そこにこそ神の力と愛が働く余地があるのです。弱さや欠けの中で神は人を支え、「前に進む」力を与えるのではないでしょうか。

    「心が貧しい」は「心細い」こと。「幸い」は「前を向いて歩く」こと。

    福音朗読 マタイ福音書5章1-12a節

     1〔そのとき、〕イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
     3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
     4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
     5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
     6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
     7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
     8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
     9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
     10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
     11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12a喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

    前を向いて歩く幸い

    今日の福音は、マタイの保障、この山上の説教、山上の説教の一番最初のところにあたりますけれども、8つの幸いと言って、ある意味かなり有名なところであろうと思います。特に最初の冒頭のところですね、心の貧しい人々は幸いであるというよく分からないところから。この8つの幸いが始まるんですが、およそ私たちの考える幸いとか、幸福と、やっぱりイエスさまの考えている幸いと幸せと、やっぱり大きく違うなというかですね、それはびっくりするぐらい何か違うような気がします。

    心の貧しい人々は幸いであるというんですけれど、普通そう考えないですよね。
    心の豊かな人が幸いと言うのが、私たちの考える当たり前のことで、まあ、ぼろは来てても心は錦とか、持っているものは貧しかったとしても、心が豊かであれば人間は幸せであるという考えるわけですよね。それが普通なんですけど、心の貧しい人は幸いって言うんだから「ええっ?」て言うか、何でかと疑う気持ちが湧いてきても当然だと思いますけれども。

    実際のところ、ここに集まってきた人々はどういう人々かといったらですね、その時イエスは群衆を見て、山に登られた、群衆というのは何かと言ったら、この今日の朗読の4章の終わりにあるんですけれど、イエス様の癒しの業とか、イエス様のこの華々しい活動を見聞きてっていうか、話を聞いた人々が、この、イスラエル中からって書いてあるんですけど、デカポリスとかエルサレムとか、全然遠いところから多くの人々がイエス様に集まってきたんですよ。だから群衆になってて。
    カファルナウムのシナゴーグ会堂というのは、これとほぼ同じかな。大きさとして、これよりちょっと広いぐらいものなんですけど、それは多くの人が来たのは、ここは入れきれないんで、仕方がないから、山の上に上って、広い野原のところでイエス様がお話をしたということなんですが、集まってきた人々はどういうとこかといったら、イエス様に救いを求めて必死な人々、特に病気の人々ですよね。イエス様に癒してもらいたいという病気や様々な悩みで苦しんでいる人々がいっぱいいっぱい集まっていたんですよね。その人に向かって、イエス様がこんな話をしているんだから、そこに集まってきた人々は実際、心の貧しい人々ばかりだったってことですね。

    つまり、普通の日本語で言うたら心細いとか、心が不安で不安でいっぱいで、心だけじゃない体も病気になって、結局生きづらさを抱えていて、生きるのに大変だった人々が、イエス様に救いを求めて集まってきて、生きるのに大変な人々にあなたがたは幸いだとイエス様が慰めの言葉をかけている言葉なんですね、ここはね。

    だから、本当に苦しんでいる人がいっぱいいて、だから心細いっていうのも、いろんな薬があるんですけれど、心の貧しいというのは「心細い」が一番日本語として近い気がしますが、あるいは心底貧しい人とか、とにかく箸にも棒にもかからんぐらい行き詰まっている人々が。だから、そういう人々に向かって、イエス様が幸いと言ったら言葉が強いけど大丈夫だと言っていることなんですね。

    ヘブライ語で幸いって、実はここで使った言葉は何かと言ったら、「前を向いて歩いていく力」ってことなんですけど、だからもう行き詰まって、もうどうしようもないけれど、でもイエス様が私がいるから大丈夫だと前に向かって歩んでいるから大丈夫だという慰めの言葉なんですよね。

    だから、心の貧しいとは何なのかとか、ここを論文みたいにして解釈する必要性は全くなくて、苦しんでる人もそのまま大丈夫だって助けている言葉なんですよね。

    私たちが心に不安とか貧しさとか力のなさとか、行き詰まりを抱えているとしたら、イエス様が助けてくださるから、前に向いて私たちは歩いていける。

    そういう人々にも、ここにこそ天の国、神の国の力が与えられると励ましてくださっている言葉だということですよね。
    その励ましを私たちは受け取りたいと思います。

    もし心が豊かだったら、わざわざ長い旅してイエスのところへ行かないですよ。
    だって満足しているんだから、もうそれで十分じゃないですか。もう神様はいらないって言うか、私たちがもし満たされていて、すべてがオッケーだったら、わざわざ教会に来てお祈りする必要性もないっていうは満足。すべて満足してたら、神様に感謝の祈りを捧げるかもしれないけど、それぐらいになっちゃうわけで。

    足らないところがあるから、困ったところがあるから、私たちはなんやかんやって言って、神様のところに助けを求めるから、主が助けてくださる余地が現れてくるっていうんですかね。
    それがね、本当に神様の愛そのものだなというふうに思います。

    だから、私たちは何とか足らないものを埋めようとするわけですよね。
    物的にも心的にも身体的にも埋めようとするわけですけど、埋まらないこともいっぱいあるわけで、だから、その埋まらないところは神様の愛の働く余地があるという、そういうことだと思いますね。

    病気よりももちろん健康の方がいいって私たちは思いますけど、やっぱり病気で治らない病気で苦しんでたりしたら、もう空も心どころか体も全部貧しくなっちゃって、どうしようもなくなっちゃうわけですよね。

    神戸の教会に行った時に、一人の人が難病で、もう結局寝たきりになってならざるを得ない病気の方が病気が悪くなる中で、もともとミッションスクール出身で、キリスト教のことに触れてたので、それでその人は洗礼を受けられたんでしょうね。
    でも洗礼受けて、もちろんこの病気が治るとかそういうことはないわけで、かなり重くなってから洗礼を受けられたから、教会に来たのが、洗礼を受けてから、教会に来たのが3回ぐらいしかない。完全寝たきりだから、もう誰かが介護で連れてこなきゃならない。かなり遠いところの病院におられるから、洗礼を受けたけど、教会に来たのが3回ぐらいなんですよ。まあだんだんもう喋れなくなって、文字盤とか使って。だからコミュニケーションもだんだん取れなくなるぐらいだんだん弱くなって、ちょっと教会から離れてる病院だから、僕もお見舞いに行ったのが2、3回ぐらいしか結局僕も行けてなかったんですけど。

    だからある意味その人は心の貧しい人の典型みたいな感じでしたけど。大学時代からの友達がいて。女性なんですけど、彼女を一生懸命支えていた人たちがいて。でもその彼女の。どんどんどんどん体が弱くなって、動けなくなって。でも神様を信じているその姿に周りの友達が励まされて。彼女を通して少なくとも5、6人は洗礼を受けたんですよね。
    病気になっている姿を見て、それで周りの友達が励まされて、つまり彼女に会いに行くと逆に力をもらうので、それで周りの人も結局神様信じるようになって。それで5、6人ぐらいを洗礼を受けたと思います。

    つまり、彼女は何にもできなくなって、力がないのに神様の力が働いてたから、ものすごく周りの人に感化というか影響を与えて、一人で5、6人で成功したわけですよね。ご本人は寝たきりで何もできなくてもしゃべることもできなくなっていたのにですけども、やっぱりね、足らないところとか無力なところにいつもいつもとか言えないかもしれないですけど、弱いところとか、貧しくてどうにもならないところに神さまの力が強く働くことってやっぱりあって、明らかに神の愛が広がってたんですよね。
    もう今は亡くなられて、僕がもうお葬式もしましたけれども、葬儀も聖堂がいっぱいになるぐらいたくさんの方が来られてですね、彼女の死を悼んで、神様に心をみんな向けられたんですけれども。

    心の貧しい人は幸いってイエス様は言ってるのは聖書の言葉ですから、嘘ではないってことですね。本当なんですよ。本当のことだから。イエス様がこれが幸いだというふうに断言してるんですね。
    もちろんそこに神様の力が働くからですけど、でも神様がその力を働かせるってイエス様が約束してくださっている言葉ですから。この言葉に私たちは信頼して歩むことができる。
    どんなに希望と慰めの言葉なのかってことなんです。

    このあと4つあるので、もうちょっと説明しきれないですけど、ちょっと1時間ぐらい話さないと話せないんですけど、次だって変でしょ。悲しむ人々は幸いですよ。2番目ものイエス様が慰めてくださるからですよ。だから幸いなんですけど、この神の恵みを生きていきましょう。

    私たちは単に人間的にどうこうして生きてるだけじゃなしに、神の恵みと力によって支えられて、助けられて歩んでいるっていう、だから私たちは感謝して祈って、神の恵みを生きていけるわけですよね。この神様が私たちに与えてくださる8つの異なった様々な幸せ、それは8つの苦しみかもしれないですけど、私たちはイエス様が与えてくださる本当の幸せをかみしめることができるように、その幸いを生きて前に向かって進む力ですから。

    ここの言葉は、ヘブライ語の言葉のように前に向かって歩んでいけるように、共に助け合って歩んでいきたいと思います。

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  • 【ミサ説教】マタイ福音書4章12-23節「従った理由」
    マタイ福音書4章12-23節「従った理由」2026年1月25日年間第3主日防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    無名のイエスに最初の弟子たちが網や舟を捨てて従ったのはなぜでしょう。彼らは闇の只中で「大きな光」を感じたからです。現代も人は不安や空虚の中で擬似的な光(推し活や流行)に引き寄せられますが、真の救いにはならないでしょう。聖イグナチオが世俗的栄光から回心したように、イエスこそ消えない喜びを与える光です。その光を見分け、日常で生きる力とし、分かち合うことが求められているのではないでしょうか。

    『The Chosen – 選ばれし者』の動画は、今でも動画配信しているサブスクリクションで見られるようですね。

    福音朗読 マタイ福音書4章12-23節

    12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
     15「ゼブルンの地とナフタリの地、
       湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
     16暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
     17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
    18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20二人はすぐに網を捨てて従った。21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
     23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

    従った理由

    今日の福音書は、ヨハネの4章の真ん中あたりですけれども、とうとうイエス様がこの福音宣教というか、メシアとして活動を始めるところのところが朗読されました。

    イエス様が悔い改めよ、天の国は近づいたと、カファルナウムの町で宣言して、そして最初にした彼の活動は何かといったら、弟子を選ぶというですね、今日は4人の弟子を選ばれるわけですけれども、ちょっとここを読んで、何て言うんですかね、このイエス様も、まあ、何でこの4人を選んだのかということを疑問がありますが、でもこの4人の、若かったか中年だったか、ペトロはもう中年だっただろうと思われますけれども、兄弟ヨハネの方は、まあちょっと若かったかもしれないですけど、イエス様に呼ばれて網を捨てたりとか、舟と父親を残してイエスに従ったという、どうもちょっとびっくり、びっくりなんですよね。

    イエス様が有名だったら、それは従って行こうと思うかもしれないですけれど、まあ、活動を始めたばかりの全く無名の人だったわけで、イエス様は。突然私に従えと言って、普通はちょっと従えないんじゃないかと思いますけれども、この弟子たちは何を思って従ったのかというのは、実はちょっと謎ではありますけれども、時々、ユダヤ教の歴史の中では、自分がメシアだと言って人を扇動してするような人たちは、実はしょっちゅう現れてきていて、イエス様が本物か偽物かも分からないし。何でこの人たちはそんなに舟とか網捨ててぱっと従えたのか。もし間違った人に付いていたら大変なことだったんじゃないかなというふうには思いますよね。
    もちろん現代でも、オウム真理教の麻原彰晃とか統一教会の文鮮明とか、そういう人に声をかけられて従ってきた人はいっぱいいて、それで破滅の道を歩む人もいるわけだから、誰に従うのか案外難しいですけど。こんな時に一番最初の最初によく従ってたなというのは不思議に思いますね。

    多分私はルカの5章にあるように、ペトロが網を打っていてですね、魚が取れなかったから、イエス様の命令で魚をあれしたらたくさん取れた。不思議な大漁ですけど、ああいうことがあってイエス様に従ったという方が現実的かなという気はしますけれども。

    数年前ですけれど、「The Chosen」というアメリカでイエス様の弟子たちのドラマがあってですね、「Chosen」というのは選ばれた者というんですけど、その中でルカの5章のシーンが出てきて、魚がいっぱい取れて、実はあの時、ペトロが借金ですごく悩んでいて困っていた時に、大漁があって、たくさんの魚で借金、税金をためていたやつを払って弟子になるというストーリーになっているんですけど、それは何か分かる気がしますね。

    つまり、イエス様と出会った人が今日のイザヤ書にあるんですけど、暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の家に住む者に光が差し込んだ。暗闇の人に大きな光を感じたから、イエス様に従っって言うんですかね。だから詳しい説明はそれほどないんですが、この4人の弟子もやっぱり大きな光を感じて、彼らがどういう影というか、暗闇を感じていたかはちょっとわからないですけど、何らかの暗闇というか、救いのない状態だったところに、イエス様という存在が大きな光、光として感じたので、それで従うことができたということですよね。

    私たちはやはりこの中に来ている人は信者さんが多いと思うんですけれども、どういう日頃の生活の中で暗闇を感じていて、でもイエス様を通してどういう光を見出して、私たちは生きているのかということですよね。
    それを改めて問いかけて、私たちが光であるイエス様、何で光であって、それがどのように私たちを照らして導いてくださっているのかということをしっかり意識して歩むことができたらいいんじゃないかなと思います。

    最近読んだ小説で。あまり皆さん読まないかもしれない角田光代という流行作家で、わりと流行っている女性の作家ですが、最近の本で「神様ショッピング」と言ってですね。神様、ショッピングって言うから、ちょっとタイトル的にはどうかなということでありますけれども、短編集なんですけどね。
    中年の女性で、大体主人公が中年の女性で、それでいろいろ迷っている。苦しみとか悩みとか、大きな悩みとか、小さな事を抱えている人がいて、その人が世界の有名な巡礼地に行くんですよね。宗教の巡礼地に行って、そこで体験したことをオムニバスのようにいろいろ書いてあってですね、日本の神道の神社に行くこともあれば、チベットとかですね、インドのガンジス川とかいろいろカトリックも2つぐらい出てきて、サンチャゴデコンポステーラとパリの不思議なメダイの教会とかなんかに行って、このカタリナ・ラブレーのところに行ったりとか、いろいろあるんですけど、でも大体のストーリーはそういうところに行くんだけど、結局自分の暗闇が晴れたか晴れないかよくわからないまま帰ってくるみたいな感じで、救われてるのか救われてないのか、本当の光を見出すこともできずに日本に帰っちゃうみたいな話で、日本人の今の気持ちを表している気もしますよね。

    何かもやもやしたものが中にあって、神様に救いをもたらす救いを求めてどこかに行くけど、あんまり引っかからなくて、結局もやもやのままっていうのかな。そういうことは私たち日本人の中に多いかもしれないと思いますね。

    さらにもう一つ、今ベストセラーになっている小説で、朝井リョウという人の「IN THE メガチャーチ」っていう本が今もまだベストベストセラーのランキングに入ってるんですけど、朝井リョウの「IN THE メガチャーチ」IN THE メガチャーチって英語ですけど、日本語で言ったら巨大な教会の中で、メガチャーチっていうのはこのものすごいでっかい教会という意味なんですけど、巨大な教会の中でというタイトルなんですね。
    中身を知らずに私は宗教の話だろうと思って、キリスト教の話かなと読んだら、全く関係ないお話で、アイドルグループを売り出す話なんですよね。このアイドルグループを売り出すっていうことが実は宗教なんだということで。プロデューサーが、これは宗教なんですと、このグループをいわば神様のようにして売り出して、信者を獲得しなきゃならないという中で、実は恐ろしいお話なんですよね。それでお金を稼ぎましょうと。つまり、このアイドルグループを売り出すことによって、多くの信者を集めて多くの献金を集める、そういうことなんだということで、それで主人公の中年の男性広告代理店に勤める、男性が騙す側というか、引っかける側に回っていて、その人に娘さんがいて、大学の娘さんがいて、娘さんが実は引っかけられる側になっていて、この親子がそれを知らずに話が進んでいくという、ちょっと怖いお話で。

    こっちの小説すごく流行ってるんですが、結局多くの人が暗闇というか、何かもやもやの中で生きていて、光を見出したいと思っていて、その光をいわば今の社会はお金儲けとしてアイドルグループを、これを押したら今推し活と言われるんですけれど、推し活をさせて、それでお金を稼ぐと。

    でもそれが本当の光かと言ったら、当然本当の光ではなくて、一時的に何か熱狂的に気持ちがスッキリして、この辛い現実を忘れていけるように見えるけれども、でもそれが本当の救いかどうかっていうのは非常に難しいわけですよね。

    実際、角田光代のように鬱々して神様を求めているけれども見つからないというタイプなのか、あるいは神様以外のだから、この本の中に書いてあるんですけれど、別にアイドルでなくても何でもいいというのは、趣味の世界でも音楽でも、何でもかんでもいいから、とにかくエセ宗教的に何かを流行らせばそこでお金が儲かる。

    だから私たちも何か神様以外のものに推し活してストレス発散になるけれども、でも本当の救いにならない。そういうのが私たちの日本人の今の状況かもしれないですね。

    そして私たちは本当のところ、イエス様に本当の光を見出して、自分の生活の中で。
    私たちも鬱々したり、モヤモヤしたり、何かスッキリしないことは日常生活がありますけど、その中でイエス様を通して、その光を私たちが本当に見出していくことができるか。それが私たちにとって一番大事なことですし、その光を本当に解放する光を多くの人と分かち合っていけるかどうかというですね。
    それは大きなことじゃないかなというふうに改めて思います。

    イエズス会の創立者が聖イグナチオロヨラという人が、かなり前ですよね。
    もう500年ぐらい前の話ですけども、やっぱりこの世的な人で、闇とは言えないかもしれないですけど、いわゆる軍人だったんですよね。軍人で戦争して、それで勝利を得て、名誉を得てみたいな生活をして。騎士物語が好きでそれを読んでたんですけど、戦いで負傷して寝込んでしまってね。それで休養せざるを得なくて。でももう一回復帰して頑張ろうと思ってて。騎士物語を読みたかったんですけど、その家は信心深くて、そういう世俗的な本が全くなくて、聖人伝とイエス様の伝記みたいな文しかなかったんですよ。それを彼は読んでいるうちに、この世の王様に仕えるよりも、本当の王であるイエス様に仕える方が、もっと大きな光と恵みと力を得る。この世的なことを考えたら喜びがあるけど、しばらくしたら消えちゃう。でも、イエス様に従っていくことを考えたら、喜びが消えないというんですかね。大きな光が彼の中でもっともっと強くなっていって、それこそ本当の光に彼が出会って、彼はだから本を読んで回心したんですよね。誰かに人に出会ったわけじゃなくて。

    いろいろな道があると思いますけれども、私たちもイエス様の本当の救いの光を見出しながら、ついつい他のものに私たちも囚われたり、闇の中で鬱々とすることもあるかもしれないですけど、私たちには本当の救い主が本当にこの闇から救い出してくださる、言わば唯一の方を私たちが知っているわけですから、そのイエス様の力を信じて、あるいはイエス様の力を本当の意味で私たちの生きていく力にして歩めるように祈りましょう。

    日本全体がモヤモヤしているような感じもしますけれども、私たちが本物をしっかり求めて、本物の中で歩んでいけるように、神様の恵みを願いたいと思います。

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