英隆一朗神父の福音お休み処

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  • 【ミサ説教】マルコ福音書 2章18-22節「新しいぶどう酒を受け止める」
    マルコ福音書 2章18-22節「新しいぶどう酒を受け止める」2026年1月19日カマのミサ 旅路の里
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    イエスの「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は、古い慣習や安心にしがみつく人間の姿を突きます。人は慣性で生き、変化を嫌うが、福音は常に人を揺さぶり、変わるよう迫ります。新しさは異質な出会いや出来事から来るのではないでしょうか。障害者への合理的配慮や釜ヶ崎での体験は、視点を変え、人を新たにする恵みの場です。古い袋に固執せず、新しい革袋として生き直せるかが問われています。

    「いやしのミサ」は「カマのために祈るミサ」になりました

    福音書朗読 マルコ福音書 2章18-22節

    (そのとき、)ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
    だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

    新しいぶどう酒を受け止める

    今日はマルコの福音書のイエス様の説教のところですけれども、この新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる、入れなさいという有名な言葉なのですが、この頃はまだガラス瓶がなかったので、プラスチックももちろんないですし、ガラスもない時代ですから。だから、ぶどう酒は樽に入れるか、樽に入れて運ぶのものですから、運ぶ際には革袋に入れて運んでいたわけですね。なかなか日本じゃほとんど見ないですけれど、スペインなんかに行ったら、ちょっと前までぐらいは使っていたんじゃないかと思うのですが、しかし、革袋もだんだん古くなってきてね。そうすると、新しいぶどう酒を入れたら革袋が破れてしまうようなことがどうもあったみたいですね。
    だから、古いぶどう酒ならば、古い革袋に入れることができたわけですけれど、新しいぶどう酒を作ったら、やっぱり新しい革袋に入れなきゃならないという、そういう習慣があったみたいですよね。

    新しいぶどう酒と新しい革袋、古いぶどう酒と古い革袋ということですけれども、結局どういうことか。
    この新しい革袋と新しいぶどう酒というのは、イエス様が述べた新しい教え、福音的なものであって、この古いぶどう酒と古い袋というのは、旧約時代の、ここで言ったらファリサイ派の人々とか律法学者の人たちの世界を表しているように思いますね。

    でも、なかなかこの、何というんですか、つくづく思いますけれど、人間には、人間には慣性の法則があるんですよね。何か繰り返して知ったことが身についているというか。だから、今までどおりにやるのがみんな一番楽いうか、一番心地がいいというのかな。
    だから古いものを、だからだいたいあんまり変わるのが良くないというか、変わることがあんまりみんな好みではないというか。だいたい変えたりしようとしたら反対勢力がごちゃごちゃするんですけれども。なんでかといったら、慣性の法則があるからだと思いますね。だいたいそれに囚われていて、生活習慣でも決まっているから、それがずれるとすぐにいやいやになったりする人がいたり。
    やっぱり人間はやっぱり基本がやっぱり古いぶどう酒が好きで、古い皮袋のままにいる方がやっぱり本当はいい、本当は心地いいんだと思いますね。
    だから、律法学者とかファリサイ派の気持ちもわからないでもない、何か決まったとおりにやった方が結局楽だということですけれども。

    でも、やっぱりイエス様の教えって、どこかそういう過去の繰り返しではなくて、いつも2000年前のお話ですけど、それでもある新しさがあってですね、私たちの生き方に問いかけたり、私たちが変わっていくようにいつも呼びかけられているところがある。

    この福音の新しさを私たちが受け止めていけるかというかですね。
    それによって、逆に、古い革袋を破ってもらって、何か新しく新しい革袋で生きていける、そういう何か促しを受け止めていけるかどうかってことじゃないかなというふうに思うんですね。

    今ちょうど政治、これから選挙になりますから、もう古い革袋とか言っていられない感じで、世の中本当にぐるぐるぐるぐる動いているわけですけれども、経済とか国際政治もちょっとどうなのか。そこから新しいものが何でもいいわけじゃないけど、やっぱり何かこう、イエス様の教えは新しいものとしていつも私たちのところに来る、それを受け止められるかどうかということなんですよね。

    だけど、新しいものが具体的にどういうところから来るかといったら、それは何かやっぱりこう、異質なものから来るっていうか、違ったものから来るというか。同じだったら同じだけど、違うものから来るから変わっていけるというところがあるんじゃないかなと思うのですが、たとえば他の例で言ったら、ご存知かどうか、障害者に対して差別ができないんですね。障害者差別ができない法律もできているし、例えばレストランに車椅子の人が来たら、いや、うちはだめですと断ったらだめなんですね。それは法律違反なんです。今の日本の法律で、来たら、合理的配慮と言って、今まではなかったかもしれないけれど、そういう人が来たら工夫をして受け入れなきゃならない。合理的配慮というんですけれどもね、例えばここだったら車椅子の方が来られても、エレベーターがあるから来られるわけですけど、もしエレベーターがなくて車椅子の方が来られたら、エレベーターがないからだめですと断ったらだめなんですよね。今はね、来られたらやっぱりそこでどうするかを考えなきゃならない。
    幸い、エレベーターありますからいいんですけれども、エレベーターがなければ、多分障害者の車いすの方が来られたら、1階でやらなきゃならない。つまり、そうやってちょっと何とかを変えるという、その合理的配慮ができる限りの、急にエレベーターをつけられないからできる範囲でということが合理的という意味なんですけど、それを変えていく、そういうことっていうのが、ある種の新しさと何か物の見方を変えたりするところがやっぱりあるといういうことなんですよね。

    例えば教会に例えば目の不自由な方が来られたら、掲示板全く読めないんですよ。そうすると、全部言葉で伝えなきゃならないとか、あるいは逆に聞こえない人がいたら、目に見える情報全然伝わらないから全部言葉にして伝えなきゃならないとか、これを変えなきゃならないんですけど、そういうのを合理的配慮というんですけれども、それを障害者の方が、いや、やっぱり同じ人格を持っているものとしてどこでも平等に利用できるようにってことではあるんですが、でも何かね、そういうことを工夫していく中で、新しい視点とか、新しい気づきとか、何かこう違っていくことができる、そういう恵みが与えられるという感じがしますよね。

    だから、この釜ケ崎という街も、なんかこう、新しさがあるというのかな、この年末年始も、この家にもたくさんの中高生とかが来て、いろいろ勉強というか体験学習したんですけど、やっぱりね、そこである新しさがここにあるから、学ぶことがいっぱいあるんですよね。特に若い人にとっては。
    何か新しさというのは、だから何でもかんでも新しければいいということじゃなくて、新しいものの中にある福音的な何かが潜んでいる。そういうものを私たちが発見できるかどうかというかですね。だから、単にここにはボランティアに来るということじゃなくて、学びに来るというんですかね。今まで学校に行って全く学べなかったことが、ここに来て新しいものを学べるって、変わっていける何かがあるというかですね、それはだからすごく大事なことですよね。

    だから、ここに来るということは、あるいはここで働いているということは、ここで暮らしているということは、新しさを学んで新たにされていく。それは別に私たちだけじゃなしに、結局何かそういうところって所々あって、障害者の方もそういう使命があるわけですけれど、釜ヶ崎もその使命があるんですよね。それは何か新しい革袋になっていくヒントとメッセージが与えられるところだということなんですよね。

    それは何かこう、聖書の言葉だけで中が来るわけじゃなくて、人とか生き方とか、それは何か古いものとはちょっと違う何かを通して私たちに与えられてくる。それを私たちが受け止めていけるかどうかというですね。だから私も何かここに来るたびに何か新たにされる気持ちというのは、別に何か特別なことがあるわけじゃないけれども、特別なことも時々ね、いろいろハプニングは当然あるんですが、でも、新たにされる恵みというのがあるということですよね。

    それを私たちが一人一人新たにされるものは別だと思いますけれどもね。例えば病気になるとか、全然違う世界が広がるじゃないよ。動けなくなるとか、あるいは誰か友達が寝込んじゃうだけでも、何かそういうことで広がるというかですね。だから、私たちが絶えず新しいぶどう酒をしっかり受け止めながらですね、何か新しくなっていけるように、いつも。だから、今までがこうだからこうだと言ったら、もうそれで何にも何にもならないというか、何も起きないんですよね。今まで通りにやりましょうと、こうだからこうだという、それだけではやっぱり魂の成長がないっていうのかな。

    何かこう想起をちょっとすごくするんですけれどもね。だから、それはまあ釜ヶ崎とか、こういう場もそうですし、一人一人の出来事とか、出会いもそうですが、そこからやはり私たちが新たなものになっていけるようにですね、恵みと力を願いたいと思います。

    12 min
  • 【ミサ説教】マタイ福音書3章13-17節「天が開くとき」
    マタイ福音書3章13-17節「天が開くとき」2026年1月11日主の洗礼のミサ 防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼を受けた時、天が開き、神の愛と聖霊が注がれた。これは神と人間を隔てる壁が開かれ、私たちも神の子として愛されていることを悟る恵みが始まった出来事と言えるでしょう。悩みや執着に囚われると心は閉じてしまいますが、神の温かさに心を向ければ自然と殻は開くでしょう。

    北風と太陽のお話は神父様の定番。とてもわかりやすい例だよね。

    福音朗読 マタイ福音書3章13-17節

     そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

    天が開くとき

    今日の福音書は、イエス様が洗礼を受けられた。今の私たちの洗礼ではなくて、洗礼者ヨハネの洗礼を受けられて、ヨルダン川の川に、あまり大きな川ではないですが、そこに浸礼と言って頭からザブンとなるような、そういう洗礼を、体全体を水に浸すような感じで、それは当時の人がそのようにされていたわけですけれども、その後にイエス様だけ特別に、ここから不思議なんですが、天が開いた。
    天がイエスに向かって開いたと書いてあるわけで、天が開くというのがちょうど私たち空を見ていても、別に空の向こうに何にもないというか、別に空は宇宙につながっているだけで、別に何か閉じているということは実際にないわけなんですけど、でも古代の人は天は閉じていて、天のこっち側が人間と自然の世界で、天の閉じている向こう側が神様の世界と分かれていると考えていたから、その影響でこのような表現になったのでしょうと思われます。

    けれども、イエス様が洗礼を受けた時に、この天というか、神様と人間を隔てているからというか、壁というか、それが神ひらいて、そしてイエス様の上に、この聖霊の恵みと愛する神であるという御父の声がしたということですね。

    これは非常に意義深いことだと思いますけれども、イエス様はこの洗礼を通して、神と人間とを隔てている壁が開いたというかですね、私たちも天が開いている、つまり神様と私たちが交わりの中で生きていくことができる。その恵みをイエス様が開いてくださった。開いたらどうなるかといったら、神の愛がイエス様に注がれていて、愛する子である神様の愛し方であるということをイエスが悟った。
    結局、私たちもイエス様の洗礼の以降、私たちも開いて、神様に開いて、そして神様から愛されている神の子であるということを、私たち一人一人が悟ることができる。
    その恵みが与えられていると言えると思いますね。

    ただ、私たちは神様のことをつい忘れがちですから。
    天が閉じちゃうというですか。実は天が開く、天が開いたり閉じたりするんじゃなくて、今の人間的な言葉で言ったら、自分の体が開いているか開いていないか、自分自身が神様に閉じているか開いているかという、実際はそうだと思うんですけど、私たちが日常の何かごちゃごちゃにとらわれると、この閉じちゃってですね、神様が向こう側にいて、何か人間のことだけで悩んだり、ああでもないこうでもないといろいろ考えたり、そういう中に囚われてしまうわけですけど。
    でもイエス様が開いてくださったんだから、それを思い起こせば、私たちの心を開いたら、神様の愛が私たちに注がれてくる。それをやはり意識することができたらいいんじゃないかなと思います。

    私たちにとってイエス様は教祖様みたいなもので、大体の宗教の全ての修行じゃないですけれども、教祖様のいる宗教というのは、だいたいその一番最初の人が特別な何かこう悟りを開いたり体験したりするところから始まるんですよね。
    お釈迦さんだったら、菩提樹の下で悟りを開いたところが始まりなわけですよね。その悟りをみんなに伝えたいから仏教が始まって。
    簡単に言えば、仏教というのはイエス様の悟りにあずかるためにお経を唱えたりしている。簡単に言えばですね。
    それがなんと言いますか、天理教だったら、すぐそばに天理教のあれがありますけど、天理教だったら中山みきという人が突然神がかりになって特別な状態になってですね、それがあったから天理教が始まって、いわば神がかりみたいなものにみんな信者さんが預かるのが一つのか、目的というか、そういうものになっているわけなんですよね。

    だから、私たちはもうはっきりしていて、クリスチャンだからですね。イエス様のどの体験にあずかるかといったら、この体験にあずかるのですかね。
    私たち一人一人がやっぱり開かれて、神の恵みが自分の上に注がれていて、やっぱり私たち一人一人が神様から愛されている子であるということを、どこかで実感したり確かめたりしながら生きていくことができる恵みが、私たち一人一人には与えられているということですよね。

    それをしっかり時々は思い出して、特にこの悩み出したら空が閉じちゃうから、空が閉じた中で、ああでもないこうでもないって私たちは悩みがちだと思うんですが、でもその開いている外なんですよね。開いて、神の恵みが私たちに注がれているということをやはりしっかり思い出しながら、それこそ私たちのアイデンティティーというか、私たちの存在の根本にあることだということなんですよね。

    昔話のイソップ物語の中でも、一番大好きなお話が、北風と太陽のお話って、子供たちも知ってるかな?私達がこの北風と太陽が。争うというか、競争するんですよね。今日みたいな寒い日に旅人が外を歩いてるんですよ。この寒い中を旅人が外を歩いていて、旅人を見て、北風と太陽がじゃあ競争して、寒いからマントを着ているわけですよね。皆さんだって今日はコート着てきたでしょう。同じようにマントを着て旅をして、寒い中で北風と太陽が競争して、どっちが、旅人が着ているマントを脱がすことができるかということで競争するんですよね。最初に北風がどうしたかと言ったら、まあちょっとだいぶ、今日はおさまってきたけど、さっきまですごい風が吹いて、北風を吹かせて、この旅人のマントを取ろうとするんですよね。
    でも、風を冷たい風を吹かせば吹かすほど冷たいから、コートをギッチリ握りしめて。だってこれが取れたら寒くなるから、コートをギッチリ握りしめて、絶対マントが飛ばないように頑張るわけですよね。北風は。結局北風さんはコートを取ることに失敗するんですよね。次に出てくるのが太陽で、太陽がどうするかって言ったら、ちょっとこの冬場はちょっと今日みたいな日足らないですけど、太陽の暖かい光を旅人にあてるんですよね。そしたらだんだんだんだん旅人は体がポカポカ暖かくなってきて、マント着てたら暑いから自然とこのマントを脱いで、それで脱いちゃうわけですよね。そしたら太陽が結局勝ったって言うわけですよね。北風は冷たい風を吹かせるけど、コートが取れない。でも太陽が暖かい光を与えたら、自然と旅人はマントを脱いで、太陽が争いに勝ったっていうお話なんですけど。

    このマントっていうのは何なのかはっきりしてますけれど、私たちの執着ですね。
    ぐっと逃げて、この話だったら殻の中に閉じこもって、寒いからぎゅっと自分の何がですね、何かそれは何か変な癖とか、執着とか、囚われとか問題とか、そういうものにぎゅっと握りしめて、でも風が吹いて、北風が吹いて、ピューピュー吹いて、他の人がお前ダメだろうとか、そんなそんなことをしてダメだとかって責めたり攻撃したりすればするほど、ぎゅっと握りしめる攻撃に人間を守らなきゃならないから、人からどんなに注意されたって叱られたりしても、結局自分で頑張ってどうしようと思っ
    ても、結局寒いからぎゅっと握りしめて結局取れない。いつまでたっても。じゃあどうやって取れるかと言ったら、太陽の暖かい光があった時に初めて人間は囚われたり執着しているものを脱ぐことができる。

    今日の話で言うたら、その時にぱかっと開くんですよね。殻が。
    自分の殻が閉じこもっている時は攻撃されているから、危ないから殻に閉じこもってぎゅっと防御態勢に入っている。その時は神の愛が入らないですよね。そこから抜けることもできない。

    だから、私たちが心を開いて、神さまの方に太陽である神さまに心を向けたら、勝手に暑いから勝手にコート脱ぐし、勝手に殻も開かざるを得ないとか、雨も降ってないので、ぱっと空を開けて、そうしたら、神さまの暖かさが心の中に入ってくるから、それで囚われから解放されて、人間を自由に生きていくことができるということなんですよね。

    先程も広島教区のお祈りで温かさのある教会を目指すなんて、目指しましょうとか先をお祈りしてましたけど、本当の温かさは神さまからですよ。やっぱり神さまが温かい方だから、その温かさを私たちがいただけば、自然と私たちは暖かくなって、コートも要らないし、閉じる必要性もなくて、自分の心ですよね。
    心をぱかってあげれば、神さまの温かさが自分の心の中に入ってくる。
    体の方はヒーターとか、ちょっとエアコンであっためるけど、心の方は神さまの温かさを心の中に入れれば、自然と暖かくなってくるわけですよね。だから、私たちがいかに神さまに心を開いて、神の温かさを受け入れていくかどうか。

    でも、それが何でできるかといったら、イエス様が洗礼受けられて、天が開いたから、私たちにはそれが可能だということですね。この神さまの温かさに心を開いて、その神さまの温かさの内に温かい心で。今寒いですから、特にそうですけど、温かい心で歩んでいけるようにですね、神さまに恵みと力を願いたいと思います。

    14 min
  • 【ミサ説教】マタイ福音書2章1-12節「夜に星を見、昼に歩く」
    マタイ福音書2章1-12節「夜に星を見、昼に歩く」2026年1月4日主の公現のミサ 防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    東方の三博士は星に導かれながら、世間の常識に引きずられて一度は間違ってしまいました。星は夜にしか見えず、行動できるのは昼という時間差が迷いを生むのです。信仰で最も大事なのは、夜に星(神の導き)を見出すこと、次にそれを昼の現実で実行すること。多くの人が星を見ても歩かない中、博士たちは歩き、幼子イエスに出会い、生き方を変え、世俗ではない「別の道」を選びました。信仰とは、見て、歩くことの両立でしょう。

    東方の博士には、どんな背景があったのでしょうか

    福音朗読 マタイ福音書2章1-12節

     1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
     6『ユダの地、ベツレヘムよ、
      お前はユダの指導者たちの中で
      決していちばん小さいものではない。
      お前から指導者が現れ、
      わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
     7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

    夜に星を見、昼に歩く

    この公現の祝日には、東方の三博士のところが必ず朗読されます。東方の三博士、彼らが異邦人の代表としてイエス様のところに拝みに行って、そして救い主イエスと出会うことができた。それを今日のこの祝日はお祝いしているわけですけれども、イエス様の誕生の場面でいろいろな人が登場しますが、私が一番不思議というか、なんというか、考えさせられるのが、この東方の三博士ですね。
    この東方と言うから、ペルシャかバビロニアか、いわゆるアラブ人の地方で、まだイスラム教が流行る前ですから、ゾロアスター教かはちょっとわからない宗教の人たちだったと思うのですが、何で星でわかったのかということがちょっとびっくりですけれどもですね。

    今はちょっと明かりを灯すようになっちゃったから、あんまり星が見えないんですけど、昔は夜になったら真っ暗でしたから、満天の星をみんな眺めていたわけですが、その満天の星の中でメシアが生まれたしるしの星というのを見分けられたということが、まずちょっと不思議というか。当時の人々はやっぱり今のような自然科学が発達していなかった。ですから、多分この占星術というのが当時の多分学問の最高レベルだったのかもしれないですけれども、それにしてもそれに気づいたということがちょっとびっくりですし、2番目にびっくりするのは、わざわざ会いに行ったっていうんですね。

    えらい遠いところで、少なくとも何週間ぐらいかけて旅をしなきゃならない。そこまでして会いに生まれたての赤ちゃんに会いに来るわけですから、そこまでして会いに来るっていうのをちょっとびっくりで、何のためにわざわざそこまで会いに来たのか、全然キリスト教徒もユダヤ教徒も関係ない人々がそこまでしなきゃならないというのもちょっとびっくりですけれども、まあとにかく彼らはそれなりの意図があって、星を見ながらですね、メシアが生まれたところの星に導かれてきたわけですけど、彼らの最大の失敗は何かといったら、ヘロデ王のところに行っちゃったということでしょうね。王が生まれたんだから宮殿で生まれたんだろうという、ちょっと思い込みもあったのかもしれないですけれども、彼らが間違った最大の理由は何かといったらですね、最後の最後で星をちゃんと見なかったからなんでしょうね。

    せっかく星で導かれてきたけど、多分近づいてからはもう星を見ないで、それで宮殿に行っちゃったから、それが大きな失敗で、その後、結局命を狙われることになるわけですけれど、その最大の失敗をした理由は、星をちゃんと見なかったから、ということですよ。
    星を見ずに世間の常識にとらわれたから間違ったんですよね。王様だから宮殿で生まれるだろうという、ごくごく常識的なことの考えが最後は出ちゃったから。
    せっかく星で導かれた最後が、詰めが、東方の三博士は甘かったということなんですよね。

    でも、間違いがわからないでもない。何でかと言ったら、星が見えるのは夜だけなんですよね。
    昼間は見えないで、夜は歩くことができない。歩けるのは昼だけなんですよね。だから、ここだと思うことがわかることと、実際歩くのは時間差があるからそれで間違っちゃうということなんですよね。

    それはやっぱり私たち信仰者として何が大事かといったら、もうはっきりしていると思いますけど、夜の星を見出すことができるかどうかってことだと思います。

    昼間歩くことは誰だってやっているわけですけど、でもこの夜に星を見るというのは、私たちにとって祈りを深めたり、黙想したり、信仰の目で神を見出す、その星を見るということがなければ、私たちは昼間だけの生活をしていたら、全然違うところに行ってしまう可能性が私たちの生活にはあるということだと思うんですね。

    だから、私たちで一番大事なのは、夜に星をちゃんと見て、神様がこっちに導いておられる、神の子はこっちだということをよくよくちゃんとわかることと、まあすぐ分からないこと多いですけど、それをしっかり探して、それを見つけること。
    これを私たちがたぶん一番大事にしなきゃならないことではないんじゃないかなと思いますね。

    でも2番目に大事なのは、やっぱりこれだと分かったら、昼間ちゃんとそこに向かって歩くかどうか。
    多分この当時、東方のいろんな王国がいっぱいあって、占星術の学者たちも実は何10人も、下手したら何100人あちこちにいたかもしれないですけれど、そのメシアの星を見つけた人はたくさんいたんじゃないか。100人ぐらいはメシアの星を多分見つけたと思うんですけど、実際歩いたのは三人だけですから。

    これだって分かって、それで昼間ちゃんとそれを実行できるかっていうことも、やっぱり私たちに問われていることですよね。あれがいいことだと思って、これが大事だと思っても、結局昼間やらないことも私たちの生活ではやっぱり多いんじゃないかなと思いますね。

    星をちゃんと見つけることと、星に向かって歩むこの2つを私たちの信仰生活でできるかどうか。
    昼間はごちゃごちゃで、昼間は間違えちゃうわけですよね。それは仕方がない。私たち人間ですから、やっぱり昼間のごちゃごちゃしたものの中で、神のみ旨じゃない方向に、世間の常識にとらわれて間違ったことをやることは度々ありますけれども。

    でもこの三博士は分かったんですよね。
    ヘロデの宮殿に来て、何かが違うっていうか、何かちょっと変だなと思ったと思うんですよね。黄金、乳香、没薬を捧げようと思ったけどね。王様に王様への贈り物だから、それだけ高価なものを用意したんでしょうけど、ちょっとここじゃないなと思って。それで夜になって星を見たら、ちゃんとベツレヘムの方向を指していたわけですね。

    この三博士、何か特別な変わっているに変わっていますけど、でも私たち信仰者の生き方って、基本的に変わった生き方ですから、それで幼子に会った時に、多分こういう形で生まれているとはまず想像していたと思うんですけど、でもやはりその幼子を見て、博士はこれこそ救い主だという、ある種確信を得ることができて、そして本当に大事なものが何なのかを彼らは気づいて気づいたんじゃないかなと思います。

    だから彼らは別の道を通って自分の国に帰った。別の道というのは、神様が示された本当の道ですね。それを彼らは見出して、ヘロデのところに戻る。常識的な、この世的な道ではなくて、本当の道をちゃんと示してもらった道を歩むことができて帰ったと思います。

    ただ贈り物を捧げるだけに来て、この三人に何のメリットがあるのかって、何の利益があるのか、ちょっと考えちゃいますけど、でもその幼子イエス様に出会うプロセスと、そして出会ったその姿を見て、彼らの生き方が大きく変えられたと思いますね。

    イエス様自身のメッセージを聞くことはなかったでしょうけど、でも、神様の導きとやり方はどういうものなのか、彼は実際行動に移したからこそ体験したというか、実際分かったわけですよね。だから、別の道を通って神の道を通って歩むことができたんだと思います。

    私たちもやはりこの夜の星、心の中でしか見えない、信仰の中でしか見えない星をしっかりと見出して、その道を昼間もしっかり歩んでいけるように、この1年、何かまた大変な1年になるんじゃないかと思いますが、大変であろうとなかろうと、私たちはしっかり星を見出して歩んでいけるように、神様に恵みと力を願いたいと思います。

    12 min
  • 【ミサ説教】ルカ福音書2章16-21節「おそれを超えて信じる心」
    ルカ福音書2章16-21節「おそれを超えて信じる心」2026年1月1日神の母聖マリアのミサ 防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    マリア様は出来事をすぐ理解せずとも、すべてを心に納め思い巡らした。その姿勢こそ平和の出発点である。現代の分断や戦争の根には恐れと不安があり、右派と左派でも恐れの対象が異なる。自分と他者の心の奥にある恐れを見つめ、その恐れを超えていくには、神様に対するもっと深い信頼が必要なのです。

    あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

    福音朗読  ルカ福音書 2章16-21節

    (そのとき、羊飼いたちは)急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、(彼らは、)この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
    八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

    おそれを超えて信じる心

    今日は神の母聖マリアの大祝日に当たっています。このイエス様が誕生した直後に、天使たちは天使に導かれた羊飼いたちが礼拝に来て、そしてそこにいた人々は羊飼いたちの話を聞いてね。それは天使が現れて導かれた、そういう話だったと思いますけれども、それを非常に不思議に思ったというふうに記しています。

    みんなはただ不思議に思っただけで、それ以上深く考えなかったかもしれないですけれども、小さな幼子ですし、その子がどうなるとか、あまり深く考えなかったと思うのですが、しかし、しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心におさめて思いめぐらしていたというふうに書かれていますね。
    マリア様だけがたぶんこの出来事、あるいは羊飼いたちの話を心におさめて、それを思い巡らしていたということですよね。
    やはり大事なのは、私たちは心が大事というかですね、私たちの様々な出来事や何かがあった時に、どのように自分の心にそれを納めて、その心の中に実際どういうものがあるのかということをよく見つめるというのがですね、すぐ思い巡らすというふうにありますから、マリア様ももうすぐ何か分かったとか、答えが出せたとか、そういうわけではなかったでしょうけれども、自分の心にあるものをしっかり受け止めておられたということですね。

    今日は世界平和を祈る日ですけれども、私たちがやはり本当の意味でこの平和を築いていこうとする時にですね、やはりこのマリア様のように、心の中に何があるのかということ、それをしっかり私たちは見つめていく必要性がやはり一番あるんじゃないかなと思います。

    というのは。戦後今年81年になるんですけれども、やはり平和がどんどんなくなっているということは間違いないでしょう。世界レベルでの戦争も終結していないわけですし、ウクライナのこととまあ、ガザのこともちょっと落ち着いていますけれども、実際ちょっとどうなるか分からない感じですが、あるいはやはり私たち人々の間の中でも、やはり分裂というか、政治的なことを考えても対立がいろいろ進んだりしているわけですよね。

    どこの国でもそうですけど、右派と左派に分かれて。両陣営が対話もできないぐらい分裂しているようなことがあるわけですけれども、それは平和でなくなってきているということの一つの表れでしょう。意見が違っていることは健全だと思うのですけれども、それが大きな分裂に繋がるとしたら、やはりそれは平和を損なっているというふうに言えるんじゃないかなと思いますね。

    その時に、先程言ったように、単なる議論とか、あるいは倫理的にどっちが正しいかということだけで相手を攻撃するのではなくてですね、私たちの、実際私たちもそうですけれども、周りの人と分裂したり仲違いしたりした時もそうだと思うんですが、実際、心の中に何があるのかということをマリア様のように見つめない限り、本当の平和への道が開かれないんじゃないかというふうに強く思います。

    最近いろいろな学者がいるんですけど、一人の学者で伊藤昌亮という人がいるんですけど、彼がちょっと分析していることなんですが、なんでこの右派と左派がこれだけ対立しているのか。それは、一つには、心の奥にある心の動きというんですかね、それがある意味反対だからだというわけなんですよね。
    平和の反対、平和をもたらさないもの、それは人間のどういう感情かというと、一番根本は恐れとか不安がやっぱり一番だと思うんですけど、そこから怒りが出てきて、それで分裂につながっていくわけですが、自分自身が本当のところ、何に恐れて何を心配しているのかという、そのところをしっかり見なきゃならないんじゃないかなと思います。

    実際、マリア様がこの羊飼いが来て、いろいろな出来事があって、マリア様の心にどういう感情があったのかといったら、必ずしも幸せな気持ちだけじゃなくて、不安や恐れがあったでしょう。その天使の言っていることも意味が不明ですし。でもこの子は一体どうなるのかとか、嬉しさよりもむしろ何て言うんですかね、混乱というか困惑というか、恐れの感情が一番強かったんじゃないかなと思います。正直な話、マリアさまの心の中にそれを受け止めていたということが、やはり大事なことじゃないかなというふうに思うんですけど、
    先ほどもちょっとお話に戻って言うならば、右派と左派の心の中に一体何があるのかということですよね。

    皆さんも割と右派の人もいれば、左派の人もいるかもしれない、あるいは関心ない人もいるかもしれないですけど、左派の人、従来の人たちはどういうことに恐れているかといったら、やっぱり私たちの日本が強くなり過ぎることを恐れているというか。つまり、日本がもう一回再軍備して、戦争の準備をして、またアジアの国に、もしかしたら中国に分んじゃないかということを恐れている。つまり強さを恐れているというか、そういう強さを持ってきたら、それも原爆、核兵器を使うとか使わないとかということにも結局つながる。そういう一種の恐れを持っている。

    でも、この左派の右派の人々も、最近どこの国でも保守的な力は強くなっていった。右派の人たちは何を恐れているかといったら、むしろ外国から攻められることを恐れているというか、つまり弱さを恐れている。自分たちの仕事が奪われたり、外国人がどんどん入ってきて、自分たちの権益を侵されていって、どんどんどんどん生活が苦しくなって、この下手したらそれはちょっと現実的じゃないかもしれない。もしかしたら中国が日本に侵略するんじゃないかということを根本的に恐れている。

    だから右派の方は攻められることを、自分たちの生活が壊されることを恐れていて、左派の人は力が爆発して周りの国々をやっつけちゃうんじゃないかということを恐れている。だから、恐れているポイントが全くずれているから、結局、言動とか考え方とか、全く違うふうになってしまっていると思うんですよね。

    それは一つの例でですけれど、皆さん自身が実際のところ、何に心配して、何に恐れているのかという、それを受け止めて、そこからその恐れを本当に乗り越えていける平和の道は何なのかということを、やはりよくよく私たちは黙想して、神様にその道を求めなきゃならないだろうと思いますね。

    実際のところ、左派と右派ってどっちがお金持ちかって言ったら、明らかに左派の方がお金持ちなんですよね。生活が安定しているからこの強さを恐れるわけですけど、右派の方々は生活そのものがもう目一杯で、自分の生活がそのうち成り立たなくなるんじゃないか。実際成り立たない人もいるわけで、それを現実的なことを実は恐れている。その恐れを、その不安をどうしていくのかというですね、大きな切実な問題が、今の日本だけじゃない、先進諸国どこにでも溢れているということだというふうに思います。それを実際私たちはどう受け止め、受け止めていくのか。

    時々、信者さんにもよく言われることなんですけど、本当に困っている人は教会に来れないって言うんですよね。つまり、明日のお金を稼ぐのに必死な人は、わざわざ日曜日教会へ来る暇も余裕もないって言うんですよね。だから、私たちがただ単に口で平和が大事とか平和のために祈りましょうと言うだけで、平和が来るかどうかということですよね。

    本当に苦しんだり、恐れたり、不安になっている人々に、具体的な心づかいとか温かさがいかない限り、その不安とか恐れを乗り越えることは不可能でしょうし、それを私たちができるかどうかというですね。

    実は今、平和がなくなりつつあるということは、実際、教会の無力さとも深くつながっていると思いますね。実際、本当に一人一人の心の中に具体的な平和っていうんですかね、それがやはり与えられない限り、心の平和がない限り、やはりこの世界の平和ということは非常に難しいと思います。

    実際、そのような社会の流れの中で、私たちはマリア様と共に平和を願うわけですけども、まずは自分の心の中にある恐れや不安をどう受け止めていくのかということと、少なくとも周りの人にいる人々の不安や恐れ、心の中にあるそれをどう受け止めて、どのようにその恐れから脱するられる具体的な平和の道を共に探していけるかどうかですね。

    非常に大きな課題で、すぐに私たちが何ができるというわけではないですけど、でも少なくとも私たちはマリア様と共に、心の奥にあるものをしっかり見つめながら、自分の中でも周りの人もですね、そこから本当に平和の道を少しでも見出していけるように、愛を改めて願いたいと思います。

    実際、私の一番恐れてるのは誰かと言ったら、また大災害とか社会的な大きな危機が来るんじゃないかということを、私は実は一番恐れていて、今年もまた厳しい、何か大きな危機が来るんじゃないかということを私は恐れていますけれど、でもそれにどう備えていったらいいのかということも、なかなか難しいことですけれども、水とか非常用の食料を取るとか、そんなことは当たり前のことですけど、でもそれを本当に恐れを超えていくとしたら、やっぱり神様に対するもっと深い信頼がなければならないかなと思いますけれども、
    そのような神様の恵みに本当に私たちがより頼みながら平和を築いていけるように、共に歩みを下げたいと思います。

    15 min
  • 【ミサ説教】マタイ福音書2章13-15節、19-23節「辛い時にこそ共に歩む」
    マタイ福音書2章13-15節、19-23節「辛い時にこそ共に歩む」2025年12月28日聖家族のミサ 防府カトリック教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    聖家族が幼子イエスを連れてエジプトへ逃れた出来事は、政治的迫害下の難民として生きる過酷な出発点でした。言葉も縁もない地で、マリアとヨセフは必死に協力し、信仰と愛によって家族の絆を深めた。危機は家族を分断も結束もさせるが、聖家族は共に歩む模範を示しました。現代の災害や不安定な社会においても、家族や共同体と支え合い、信仰をもって歩んでいきましょう。

    皆様今年もありがとうございました。次は新年のミサです。

    福音朗読 マタイ福音書2章13-15節、19-23節

    占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
    ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
    ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
    ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

    辛い時にこそ共に歩む

    聖家族の祝日に読まれるのがこのマリアとヨセフ、幼子イエス様がエジプトに逃げたというか、避難したというか、そういうエピソードです。この3人がエジプトに逃げたという、何というんですかね、どんな生活をしていたかってことを考えると、ちょっと胸が締め付けられるような気持ちにもなりますけれども、マリアにしたら、生まれたての赤ん坊を連れて外国に逃亡しなきゃならないという。ヨセフにしてみても、全く知らないところで、外国で言葉も通じないところを突然家族で行かなきゃならなかったというのは、その苦労たるやどんなものだったのか。現代でいうところの難民みたいな、実際の難民ですけれど、政治難民ですから。
    一時シリアからたくさんの人が逃げたりですね。残念ながら今のガザは封鎖されているから、難民にもなれないという大きな苦しみがありますけれども、でも、この若い夫婦が小さな子どもを連れて海外に行かなきゃならない。どれほどの苦労の中でイエスさまを育てなきゃならなかったのかという、ちょっと想像を絶しているところがあるんじゃないかというふうに思います。

    幸いなのは、ヨセフは大工でしたから、文系の仕事だったら言葉が通じないからできないんですけれど、職人だったので、ある程度落ち着いてからはある程度の収入を得る仕事に就けたであろうと思いますが、ただ、エジプトに多分ユダヤ人のコミュニティーは確かにあったと思うんですが、そこに入れたかどうかがわからない。
    つまり、ヘロデから暗殺というか、死の危険がエジプトまでどれほど及んでいたかどうかということもありますけれども、もし二人がベツレヘムから逃げてきたことがバレたら、やっぱり暗殺の対象になったと思われますから、ユダヤ人のコミュニティーに入るのも避けたんじゃないかなという気がします。

    で、同胞同士だったらまだ助かりますけど、外国人のコミュニティというのは、入れなかったら全く孤立した外国人がですね、当時のエジプトは大都会ですから、本当に今だったら第3世界の貧しいカップルが突然、大都会のニューヨークとか東京とかロンドンに来て、何のツテもないですね。どうやって、特に最初の1年ぐらいどうやって生きていたのかというのは、なかなか大きな苦労があったんじゃないかなと思いますね。その時にマリア様とヨセフ様も必死で必死で生きる以外にないような状況の中で、イエス様を育てたということですね。それを考えると、聖家族というのが、その出発点がどれほどの大変さの中から始まったかということだろうと思います。

    私の話をして恐縮ですが、私の父と母は、父親があまり仕事に恵まれなかったので、僕は小さな頃は、父は相当苦労してその仕事をやらなきゃならない状況にあってですね、ちょっと私は子供だったからそれほどよく覚えてないの覚えてないのですが、父親と母親は元来仲が悪いいうか夫婦げんかしょっちゅうするタイプで、割とよくしょっちゅうしょっちゅう喧嘩してたんですけど、でもやっぱり父親の仕事が安定しない時はさすがに二人は全く喧嘩しなかった。とにかく生きるのに必死だから、私と妹を育てるのが必死だったから、その時だけは全く喧嘩せずに協力してやらないと生きていけないわけですよね。

    そういうのを見ると、今度マリアとヨセフは人間的な意味で仲がいいか悪いかを超えて、本当に協力しながら生きざるを得ない。そういう状況の中で、二人の絆を深めながら、やっぱりイエス様を育てていったということですよね。

    やはりこの聖家族の出発点が、この危機の中の暮らしということを考えた時に、それは私たちにとって、この励ましというか、何か勇気をもらうことかもしれないというふうに思います。

    実際、この危機的になればなるほど、社会的ないろいろな状況で自然災害とか危機的になればなるほど、日本の社会って今バラバラになっているようで、結局、家族のつながりが一番大事なのは間違いないんですね。昔ほど家族のつながりが強くない時代に入ってきましたけど、私、東日本大震災の後のボランティア活動とか、もう10年以上前ですけどやっていて、彼らの話、避難している人たちの話もいっぱいいましたけど、100%ああいう大きな災害が起きた後何をするかといったら、ほぼ全員同じなんですけど、家族の安否確認なんですよね。

    家族が生きてるかいないかのチェックと、それを探すという人間って、私たちは危機になればなるほど、家族のつながりが一番大事なのは、今の社会でも実は全く同じだということなんですよね。

    それで2つのケースがありました。一つは、やっぱり危機的な状況に陥るからこそ、家族のつながりが深まる人たち。
    まあ、子供とか親が喧嘩してて、もうなんか全然話し合えないような状況になっていた時に、あの危機の中にあって、結局もう喧嘩している暇がないから、親子でもなんでもかんでもその時こそ絆を深めるチャンスになった人と、逆のケースもあるんですよね。

    そういう危機的な状況に陥って、家族の亀裂がはっきりわかって親子が断絶しちゃったとか、夫婦がそれで離婚しちゃったというケースも、実は何件も何回も聞いたんですよね。危機に陥った時にこそ家族のつながりを持てるか、危機に陥った時に家族が分裂してしまうか。実は非常に大きな選択が実は迫られていることではやっぱりあって、それはもう本当に考えさせられますね。

    でも、イエス様とマリア様は、危機の中でこそ、やっぱり一緒につながって生きていこうとする力があったから。それは自分の息子がそのメシアかどうかはともかく、とにかく必死で育てる以外にないわけですよね。

    その中で、やはりこの夫婦、夫婦、そして親子の絆を深めながら聖家族が歩んだということ、それがやはり私たちにとって大きな励ましであり、力であるんじゃないかなと思いますね。その時のコツは何かと言ったら、マリアとヨセフ、もうはっきりしてますけど、深い信仰と互いに対する思いやりの気持ちがやっぱりあったかどうか。
    もう危機的になればなるほど、本当に神様信じる以外にないですから。

    そして、ヨセフに天使からの指示があって、それに彼も必死で応えなきゃならなかったわけですし、マリアはマリアで、小さな子どもを病気しないようにとか、毎日のお乳をあげたり、ご飯をあげたりする、そういう心遣いとか気遣いというか、やはり家族であっても、それは危機であってもなくても、やっぱり信仰と愛を持っていて、毎日を必死で生きていくしか、日々の仕事と家族の世話ですね。もう待ったなしの毎日毎日必死でやっていけるかどうか。
    それがやはり私たち一人一人によって問われることでしょう。

    もちろん家族の中でもうまくいってる時もあれば、うまくいってない時もあるし、私の父親と母親うまくいってる時が喧嘩しててうまくいかなくなった時はもう一致団結みたいな、そういう感じでしたから。

    私たちもやはりこの家族と共にどのように歩んでいくのか、しかも危機的な中でどのように歩んでいくのかということを、やはりマリアとヨセフから、そしてイエス様から、この力というか、それを願いながら歩むことができたらいいんじゃないかなと思います。

    シノドスの実践ステージ、シノドスというのは、ちょっと教会報に書いておきましたけれども、とにかく共に歩むということですよね。共に歩む教会ということですが、やはり私たちの教会が共に歩むという事の点もやっぱり聖家族のマリアとヨセフとイエス様がやはり危機の中で歩んでいった。それが私たちにとってのシノドスの一番の模範になるんじゃないかなというふうに思います。

    来年のことをね、テレビなんかちょっと今年の振り返りみたいな感じで、今年のビックニュースとかいろいろあってますけど、でも来年はちょっとかなり厳しい年になるんじゃないかというふうに、経済的にも自然災害的にもですね、非常に危機的なことに私たちがやっぱり見舞われるんじゃないかという気持ちが非常に強くしますけども、そういう中でこそ私たちはこの聖家族の模範に倣って、家族でどのように助け合って生きていくのか、あるいは教会のメンバーが、あるいは家族だけじゃない、共に歩んでいる人々と、やっぱり危機的なところをどのように私たちが歩んでいくのか。教会としてもそれをよく見つめながらですね、このシノドス実施ステージということなので、それを生きていくことができるように、神様に恵みを願いたいと思います。

    聖家族がたぶんナザレにいってからは、わりとのんびりできたと思います。ナザレの親戚とか、いろいろなつながりがありますから、そこにいたらなじみの場所に帰るので、人間関係がつながって、その中でマリアもやっと落ち着いてほっとできる。だから、ずっとずっと苦労していたわけではないですけど、私たちにもいい時と悪い時と、やはり2つの時がやっぱり巡ってきますから、いずれにせよ、私たちが聖家族のように互いに助け合いながら、そして信仰を持って歩んでいけるように、この聖家族の祝日にですね、その恵みを願いたいと思います。

    14 min
  • 【ミサ説教】ルカ福音書2章1-14節「小さなわたしの捧げもの」
    ルカ福音書2章1-14節「小さなわたしの捧げもの」2025年12月24日主の降誕夜半のミサ カトリック防府教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    イエスは馬小屋で、飼い葉桶に寝かされて生まれました。宿に泊まれず、寒さや食べ物に困る状況だったため、野宿の備えを持つ羊飼いたちが天使に招かれたのでしょう。彼らは毛布や食べ物を分け与え、聖家族を助けました。クリスマスとは、困っている人のしるしに気づき、自分の小さな持ち物や親切を差し出す心を大切にすることではないでしょうか。

    子どもたちがたくさん参加しているミサです

    福音朗読  ルカ福音書2章1-14節

    そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
    その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

    小さなわたしの捧げもの

    せっかくですから、今日は子供たちがいっぱい来ているので、子供たち向けにお話をしましょ。イエス様がどこで誕生したのか、どこで誕生しましたか。馬小屋、馬小屋、ここに馬小屋があるでしょう。イエス様が寝ていたのはどこでどういうところに?
    飼い葉桶で寝てたんだよね。これはちょっと飼い葉桶じゃないけど、あれがキラキラしてきれいに飾っているけど、これ飼い葉桶じゃないんですよね。ちょっとイエス様に尊敬の気持ちを持ってこうしているんですけど、解剖家って何なんですか。
    飼い葉桶って。

    そうそうそう。飼い葉桶っていうのはバケツなんですよね。バケツで餌を入れて、動物が食べる。家畜が食べる餌、干し草だと思いますけど、入れているバケツなんですよ。これ、どう見てもバケツじゃないけど、本当はバケツなんです。バケツの中にイエス様が寝ていたって言うんですよね。

    それで誰がそこに招かれたか、誰がこのイエス様を拝みに招かれた?
    朗読であったでしょう。今、誰が、誰たちが招かれたの?この時。

    そうそうそう。羊飼いだよね。聖劇をやったでしょう。幼稚園でね。羊飼いたちが招かれたんです。
    ちょっとよく見えないかな。後ろの方に羊飼いたちがいるんですけど。

    じゃあ質問なんですが、何で羊飼いが招かれたか。

    天使が、天使が出てきて来なさいって言ったんですけれど、でもイエス様っていう世界の救い主を生まれたから、ベツレヘムの町でもっと多くの人を呼んでも良かったわけでしょう。近所の人とか、宿屋にいる人とか、町の中にいる人を呼んだらいいと思うんですけど、羊飼いっていうのは町の中にいなかったんです。
    羊を連れて野原で野宿をしていたんですよね。夜、もしかしたらちょっとこうやって雨が降ってたかもしれないけど、もう分からないで、そこで野宿しながら羊をわざわざ遠くの方にいる羊飼いたちをなんで神様はって、天使はイエスのところに招いたか。

    これ分かる人いますか。大人の人も考えてみて、なんで羊飼いたちだけをわざわざイエス様の誕生にわざわざ天使が呼んで連れて来たのか。もちろん、それは天使に聞かないと分からないけれども。え?何?
    わかる人いる?

    ヒントを言うとヒントは皆さんが幼稚園の時にやった聖劇の中に実はヒントがある。覚えてないかもしれないけど、羊飼いの役やった人いるでしょう?この中で。
    何?羊飼いやった。

    これはちょっとクイズだからあれですけど、なんで羊飼いが呼ばれたのか、もう僕も大分考えたんです。なんで羊飼いたちだけが呼ばれたか。それは答えは、羊飼いたちは野宿をしてたからだと思います。で、野宿をするっていうのは、みんなもしかしたらキャンプに行ったことある?
    この中でキャンプ行ったことはないか?キャンプとかね。テントを張って、ある意味外で外だけど、テント張って寝たでしょう。キャンプに何持ってた?

    キャンプした人何人かいると思うけど。キャンプする時には季節によるけどシュラフって言ってね。寝袋とか持っていかないと寒いこともあるし、当然晩御飯とか何か持ってたでしょ。で、テントのそばでキャンプファイヤーするか、バーベキューをするか、夕食を持っていって、そこで食べて、そこで寝るから寝る道具を持ってたわけですよ。
    で、羊飼いたちもキャンプファイヤーをキャンプ、キャンプファイヤーでキャンプをしてる。野宿をしてるってことは、そういうものを持ってたんですよね。

    で、イエス様は宿屋に泊まれなかったんです。宿屋に。宿屋だったらね、ベッドもあるし、寝るところもあるし、多分晩御飯も出たでしょう。でも、宿屋がいっぱいで、誰もその世話をすることができなかったんですね。だから、羊飼いが呼ばれた理由は、イエス様とマリア様とヨセフは、いわば半分野宿状態だったんですよ。馬小屋で1晩泊まらなきゃならなかったんですね。でも、彼らは宿屋に泊まるつもりだったから、キャンプする準備が全くなかったんです。
    だから彼らは何に困ったかって言ったら、夜寝る時の毛布とか、寒い夜に外でほぼ半分外みたいなところで泊まるんだから、何か毛布とか着るものが必要だった。そしてもう一つ必要なものは、多分食べ物も必要だったんですよ。宿屋に泊まってたら夕食でたかもしれないけれど、多分満員で泊まれなかって、食べるものもなかったんですね。

    で、何で羊飼いが呼ばれたかって言うたら、羊飼い野宿してたから、夜泊まるためのあったかいものとか着るものとか、寝間着まで着替えないけど、何か寒さを防ぐための毛布みたいなものと、夜食べる食べ物とかお水とか、もしかしたらヨセフ様が飲んだワインとか、何か持ってたと思うんですよね。

    だから彼らは羊飼いたちだけがここに呼ばれたんだと思います。必要だったからですね。

    このイエス様とマリア様とヨセフが1晩泊まるために必要だったから、必要なものを羊飼いたちだけが持ってた。家の中にいる人だったら、もちろん、もしかしたら持ち出したかもしれないけど、でも羊飼いたちはイエス様を助けるために必要なものが全部あったんですね。

    だからね、この前の幼稚園のクリスマスの劇を見ましたけど、羊飼いが羊飼いの一人がちゃんと小さなブランケットにかけるんですよ。ここにかけたんですね。それを見てね、本当にその通りだと思いました。こんな小さな子どもにかける布もなかったかもしれない。
    だから羊飼いの一人がこのイエス様、裸で寒い寒いから布をこうやってかけるんですよ。これちょっと今、ガーゼの服を着てきてますけど、多分これ着てなかった。本当の時着てなかったと思いますけれども。だからね、神様のすることには無駄が全くないんですね。

    羊飼いたちがどう思ったか。野宿してたら急に天使が現れたでしょ。それで、そのここの馬小屋に来てね、羊飼いたちが一番最初に考えたことは何かって言ったら、もうこんな馬小屋でお父さんとお母さんも貧しい子で、こんな赤ちゃんが生まれて、羊飼いたちはね。思わずこの赤ちゃんを助けなきゃならないって気持ちになったのは、絶対それが一番だったの。天使が現れたのは何か不思議かなって感じでぽかんとした感じだったでしょうけど、でもね、生まれたての赤ちゃん見て、飼い葉桶の中に寝ている赤ちゃん見てね。羊飼いたちはもう絶対一番考えたことは助けなきゃならないこの赤ちゃんを。だから自分たちの持ってるものをマリア様とかヨセフ様に多分あげたと思いますね。それでヨセフとマリア様は無事にこの馬小屋でも1晩を乗り切ることができたんだと思いますね。

    それが最初のクリスマスというか、一番最初のイエス様の誕生の時の起こったことだと思います。

    イエス様の誕生をお祝いして、皆さんをここに集まってきました。ほんとだったらね、キャンドルサービスをする予定だったんですよ。外から入場してきて、ちょっと雨降ってるからこの中でやりやりましたけど、でもね、皆さんも羊飼いたちみたいに、このイエス様の誕生日に呼ばれて来たんですよね。
    みんな小さな火を灯してこの中に入ってきた。それは何のためかって言ったら、皆さんがともした火は、神様を助けるための、つまりイエス様を助けるための、自分たちの持っている小さなものを照らして、それを神様に捧げるとか、助けるっていうか、そういうためだと思います。
    だから私たちは一人一人が小さな火を灯してここに集まってきたんですよね。

    イエス様の誕生のしるしは、飼い葉桶で生まれた赤ちゃんということでしょう。たぶん僕は思うんですけど、そういう小さなしるしは、私たちの周りの中にも実はあると思います。

    そこに集まって、自分の持ってるものを何か捧げてプレゼントして、それでその人が、人が元気に暮らすことができる、そういう手助けをするように私たちは呼ばれてるんじゃないか。自分の持っている小さなものを。
    何かしるしのあるところに、私たちはそれをプレゼントする。それがクリスマスの意味じゃないかなと思います。

    今はこういうふうにちょっと綺麗な感じになっちゃいますけれども、だから、礼拝するよりも助けなきゃならないっていう気持ちが一番最初だったと思いますね。

    その心を私たちも大切にしましょう。周りで困ってる人や苦しんでいる人に対して、ちょっとした親切な行い、持ってるものをちょっとプレゼントするような気持ち。それがクリスマスの一番大切なことだと思います。

    私たちも羊飼いに倣って、イエス様をちょっと手助けする生まれたての赤ちゃんを手助けする。そんな気持ちでこのクリスマスのクリスマスを過ごすことができたらいいんじゃないかなと思いますね。では、羊飼いたちと心を合わせてこのミサを続けたいと思います。

    15 min
  • 【ミサ説教】マタイ福音書21章23-27節「イエスの権威とは」
    マタイ福音書21章23-27節「イエスの権威とは」2025年12月15日ミサ旅路の里
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    イエスの権威は学歴・資格・地位といった人間の肩書ではなく、神から直接来るものだった。だから弱い者を癒し、助け、赦す力として働いた。一方、人間の権威は金と力で社会を動かし、常に弱者を犠牲にする。釜ヶ崎では行政主導の再開発や資金流用が進み、貧しい人が切り捨てられつつある。今こそ人の権威ではなく神の権威に立ち、神の国が現実に働くよう祈り行動できるよう恵を願いましょう。

    これからは「いやしのミサ」ではなく、「カマのミサ」として、釜ヶ崎のために祈るミサとなります。

    福音朗読  マタイ福音書 21章23-27節

    (そのとき、)イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

    イエスの権威とは

    イエス様の活動、言葉、それに対して宰相や民の長老、いわばイエス様に敵対している勢力というか何かが、何の権威でこうやっているのか、誰がその権威を与えたのかということを問うわけですけれど、結局、イエス様というのはこの世の権威がなかったんですね。これの権威でないかと言ったら、学歴ですよね。いい大学を出たとか、あるいは何かいい仕事をしているとか、良い資格を持っているかですね、何とかかんとか、いろいろそういう、でもイエスさんは全く資格がないんですよね。

    神父じゃないとか、祭司じゃない、職業的な、いわゆる宗教家じゃないんですよ。神父さんだったら。一応それは資格というかもう神学校で勉強して、司教さんにされてなっている資格があるわけですけど、イエス様は普通のカトリック用語で言ったら平信徒なんですよね。

    有名なラビについて何か勉強しましたってこともないんですよ。お金もないし、地位もないし、実は何にもないんだけれども、人々がそこに集まっていて、イエスの話を聞いた。それは、イエス様の権威というのは、神から来ているからしかあり得ないですよね。

    人からの権威というのは、そうやって資格とか何か肩書とか何とか、この人は弁護士だなとかと言ったらそれでいいのか、あるいはあれがあるし、大学の先生だってそれなりのあれですけど、イエス様は全く何にも何もない。それはもう神の権威でしかないわけですけど、でもやはり多くの場合、この私たちは神の権威をなかなか認めないで、結局人の権威ばかり認めているという、人の権威あるところに、権力ももちろんありますから、お金があって経済とか政治を動かすのは、だいたい権威がある人しか動かせないわけですけどね。

    だけど、主イエス様は全く違う神の権威で生きていたし、神様の力で、要は洗礼者ヨハネもそうです。洗礼者ヨハネも肩書は預言者ですけれど、預言者というのはカリスマ的な人を預言者というわけで、資格試験を通ったから預言者にならないとか、全く関係ない。

    だから、もう神の権威の下にあるものでしかないわけですよね。だけれども、そこにある力が、イエス様にしても洗礼者ヨハネにしても、働いていた。でも、何がやっぱり私たちにとって怖いのかと言ったら、人の権威のあるところにこの世を動かす力がある。この世の何かこの世のものを動かす力があるから、実は恐ろしい。

    神様の権威がどのように働くかといったら、それは単純に人をいやしたり、助けたり、時に困っている人を癒したり、助けたり、あるいは罪人を許したりするようなところに、神の権威の力が実は働いているわけですよね。

    私たちが人の権威に立つか、神の権威に立つかというのは、実は簡単なようでなかなか難しいし、社会の中もそうだということなんでしょうね。

    ちょっとこの釜ヶ崎のことで言うと、この10年ぐらいは割と行政といろんな団体とが、割と話し合いの中で割とうまい具合に進んでいた面もあったんですけれど、この4月ぐらいからどうも流れが変わっちゃって、どうもいろんな町の中のいい動きをつぶすような流れになってきて、ちょっと今からこれから越冬なんですよね。一番厳しい時期に入っていく中でも、お風呂券を出さないとか、いろいろね。最近もみんながカンカンに怒っているのは、あいりん銀行というのがあったんですけれども、そこに労働者が貯金をしていたところがあるんですが、いろいろな意味でそれはもうなくなった。
    なくなって、しかも解散しようと思うんですけど、預貯金がいっぱい貯まっていて、3億円も貯まっていて、労働者が貯めたお金なんですよね。で、それで結局受け取り手が現れないから、宙に浮いていてもずっとずっと宙に浮いていてですね、労働者の側の人たちはそれを、だから自立支援に役立つように使ったらいいということをやたらとずっと言っていたけど、ずっとそのお金の使い道が決まらないと言っていたんですけど、とうとう突然ですね、医療センターってあるんですけど、医療センターって今のどこの病院赤字じゃないですか。大きな病院、いろいろ赤字で、医療センターもだいぶ行き詰まって、経営が行き詰まっているんですけれど、その穴埋めにそのお金を使うって勝手に決めて、それでもみんなカンカンに怒っているんですけれど、2億円分の穴埋めに使うということがつい最近わかったんですね。

    でも、もう市議会はもう通っているので、もうちょっとどうしようもない感じなんですけど、もうちょっともう何というか、これからやっぱり対立の時代というか、つまりやはり人間の権威に立ったら結局いいようにしちゃうわけよね、権力者が。人間の権威って結局強いものが勝つから、そういうものにして誰が苦しむかって、いつも弱い人なんですよ。
    人間の権威が立つところには、弱い人が苦しむわけですよね。
    神の権威は逆だから、弱い人、貧しい人を助けるような形で権威が働く。
    水と油みたいなんですけど、ちょっとだんだんとこの釜ヶ崎もちょっと厳しい状況になってきて、それでちょっともうミサの意向ももう変えないとちょっとダメかなということによって、つまり、本当に貧しい者、苦しんでいる人が大事にされるというベーシックな、そこがちょっと侵されてきて、今の行政の流れはもう万博も本当はあるでしょう、IR、IRだったっけ、賭博場を作るための前哨戦で万博やってるわけよ。だから万博が成功しても今が成功と言えるか、失敗と言えるか。どこかのメーカーの評価ですけど、でもこれは万博は別に何かの前触れでやっているだけで、本当は賭博場を作りたいわけですよね。
    釜ヶ崎もその流れの中にあって、ここは観光都市にするつもりですよ。賭博場に泊まる人たちを泊めるための宿屋に全部しちゃうというね。そういう強い意志がもうそれは維新の考えていることですけれどもね。多分、行政のトップはそう決めていると思います。

    それが今少しずつ少しずつ進んでいて、だからこの街が崩壊する危機的な状況がもうすでに始まっていると思いますね。
    それはやっぱりね、人間の欲望とか何かから考えたらいいように変えたいわけですよ、いろいろなことをね。大阪の街もお金儲けの街に結局変えたいわけですよね。

    外人にいっぱい来てもらってどうのこうのということで、この周りも全部ホテルじゃないですか。全然変わって、労働者の泊まるところがどんどん減っているわけですけどね。だから、もうちょっとこの流れは止められないぐらいはっきりと現れてきたので、やっぱりちょっと。ね、ちょっと覚悟を決めないとちょっとまずいかなという感じがちょっとしてきましたね。

    だから、やはり私たちはやっぱり神の権威にちゃんと立って、やっぱり神のみ旨を行っていく。そこをちゃんとずらさないようにしないと、ちょっと非常にちょっともうこの街もやばい感じが漂ってきて、それが各所に現れてきたんですよね。だから、もうちょっとこれは意識して、私たちもやっぱり神の民として、神のみ心がちゃんとここでも働くように、ここだけじゃない、日本社会全体、もちろんそうですけど、やっぱり日本全体で言ったら外国人を排除じゃないですか。ものすごい変なところにもものすごくなっていて、こういうのは全部人間の思いが、人間の愚かな思いが出てきたらおかしくなるわけですよね。

    神の権威が現れない限り、やっぱり神様の力は働かないですから。本当にこの神の国がやはりこの釜ヶ崎に、日本で、私たちの周りにですね、はっきりと働いてくるようにですね、私たちもちょっと心を合わせて祈りながら、できることを果たしていけるようにですね、神様の恵みを願いたいと思います。

    11 min
  • 【ミサ説教】マタイ福音書11章2-11節「神の恵みを思い起こそう」
    マタイ福音書11章2-11節「神の恵みを思い起こそう」2025年12月14日待降節第3主日ミサ カトリック防符教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    洗礼者ヨハネはメシア到来の準備のため遣わされたが、投獄され不安の中でイエスに問いを送った。信仰者も疑いや戸惑いを抱くことは自然であり、大切なのは神の恵みを「見聞きし、思い起こす」こと。人間的立派さより、恵みの世界に生きる幼子のような素直な信仰が神の国にふさわしいのです。

    洗礼者ヨハネにも「疑い」があったんだろうか?

    福音朗読 マタイ福音書11章2-11節

    2[そのとき、]ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
    6わたしにつまずかない人は幸いである。」
     7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
     10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
       あなたの前に道を準備させよう』
    と書いてあるのは、この人のことだ。11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

    神の恵みを思い起こそう

    待降節の第3主日でも、大体この洗礼者ヨハネのお話が続けて読まれることが定番になっています。ヨハネが今度は牢の中に入るお話ですね。洗礼者ヨハネは、今日の福音書にあるとおり、準備するですね。メシアが来る前の準備として遣わされていた預言者以上の者であったわけですけれども、預言者はですね、結局、神様から聞いた言葉を人々に伝えなきゃならない。一般庶民の人にもそうですけれども、やはり権力者に対して間違っているのは間違っていると言いに行かなきゃならないんですね。だから、ヘロデ王に対して結婚が間違っているとわざわざ言いに行ったので、それで結局、怒りを買って牢獄に入れられてしまったわけですね。
    イエス様に洗礼を授けたけれども、結局、イエス様の活動を彼は見ることができなかったわけですね。マタイの福音書では、ヨハネが逮捕された後、イエス様が活動を始めるということになっているので、入れ替わりになるわけですね。牢獄の中で、弟子たちを送って、イエス様のところに質問に来るわけですが。イエス様に洗礼された時に、イエス様のことをメシアだとある程度思ったと思われますけれども、ヨハネの福音書によると、見よ神の子羊だ、とか言ってですね、ちゃんと信仰告白をしているように見えますが、でも、イエス様の活動を、公の活動を何一つ見ていないので、やはり不安というか、何か心配なことが彼の中にある戸惑いが湧いてきて、そしてイエス様のところに弟子を送って確かめさせるということをしたと思うんですね。

    思いますけれども、やはり私たちも信仰者として歩みながら、やはりね、イエス様のことを疑ったり、あるいは自分の信じているものが本当にそうなのかということを、やはり心配したり疑ったりすることはあるんじゃないかなと思います。

    洗礼者ヨハネのように牢獄に入れられているわけではないですけれども、私たちも何らかの形で縛られたり囚われたりしていますから、やはり心配になってしまうこともある。時々おられるんですよね。熱心に信仰生活を送っておられると思ったら、やはりこう、人によりますけれど、度重なる不幸というか、苦しみが襲ってきて、結局神様を信じられなくなって他の宗教に入ってしまったり、あるいはキリスト教をやめるって宣言される方が実は時々おられて、非常にちょっとちょっとびっくりするというか、悲劇的な気もするんですが、でもやっぱり私たちの中にも、時には戸惑ったり疑ったり、本当に神さんもいるのか目に見えないですからね。だから、ついつい疑ったり、やはりこれでいいのかと思ってしまうことが。それは何回か信仰生活の中であっても不思議ではないと思います。

    洗礼者ヨハネも多分そういう気持ちだったから、結局、弟子を遣わして確かめなきゃならないような気持ちになったんじゃないかと思いますね。イエス様が何とおっしゃるかと言ったら、見聞きしていることを伝えろと。だから、やはり私たちの信仰で大事なのは、見聞きすることがやっぱり一番大事なことじゃないかなというふうに思うんですね。

    昔、黙想指導をしていた時に、シスターたちの黙想指導をしている時にですね、一人のベテランのシスターが神の愛が信じられないですって言うんですよね。えーとか、ベテランのシスターで神の愛が信じられないとかって言うからねえとかと思って。

    でも私が勧めたのは、やっぱり見聞きするというのが、過去の出来事を思い起こす、つまり神様からいただいた恵みを思い起こしてみたらいいですよって言ったんですよね。ベテランだし、経験もシスター経験も長いわけですから。それでちょっと8日間の長い黙想の後半に、そのシスターがもう一回言って、私に言ったのは、
    「馬鹿な質問をしました。いや、馬鹿なことを言いましたっていう、つまり、自分の過去の歴史を見たら、神様が働いていた、こういう時に恵みを与えてくださっていたということが度々あったので、神の愛を疑ったことが馬鹿馬鹿しかったです」
    と言って、僕もほっとしましたけれども、でも実際、神様は見えないけど愛が働いているわけですよね。

    その恵みを私たちがいかに日々の生活の中で、もちろんある時期、愛が見えない時も度々ありますけれど、でも逆に言えば、度々私たちは助けられたり、恵みをいただいていることがある。それをやっぱりちゃんと確かめることによって、私たちは神様がおられるということと、神様がやっぱり私たちを大切にしておられて、それをやっぱり信じることができるのではないかなと思いますね。そして、そのような信仰がやっぱり大事なんだと思います。

    今日の福音書の最後のところで、イエス様は洗礼者ヨハネを褒めているのか、褒めてないのか分からないんですよね。およそ女から生まれたもののうち、つまり人間の中でですね、洗礼者ヨハネより偉大な者はいない。つまり、人間的に考えて、洗礼者ヨハネはすごく立派な人だったということをイエス様が断言しているんですよね。それは荒れ野で暮らして、ご馳走も食べずに、なんからくだの皮の毛を着てどうのこうのとか、めちゃめちゃ厳しい生活をしていて、それは大したもんだというふうに立派な人だったのは間違いないと思うんですが、でも、だけど、しかしながらですね、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大だ、つまり天の国で彼が一番小さいって言っているわけなんですよね。

    だから何か持ち上げているのか持ち上げているのか、ちょっとわからない発言ですけど。でも、天の国で最も小さい者は何で彼より偉大なのかと言ったら、人間的な話じゃなくて、恵みの世界だからですね。神の国は恵みの話ですから、恵みが与えられているかどうかが一番大事ですから。
    人間的に立派かどうかということはあまり必要性がないわけですよね。

    だから、洗礼者ヨハネの世界は非常に厳しくて、結局、悔い改めて日本を守って真面目に生きよということですけど、やっぱりそれは何か人間の話というか、自力の世界というんですかね、自分で何かやらなきゃならない世界の話を言っているわけで、でもイエスも全く観点が違って、人間的に立派になれというよりは、神の恵みの中でどう感謝と賛美の内に喜びの内に生きていくかということの大切さをイエス様が示しているわけですよね。
    私たちはその恵みの世界を生きていけるかどうかだと思います。

    この前までは長府で、今は防府教会にいますけれど、長府も防府も横に幼稚園があって、実は幼稚園の園児と付き合うのが初めてなんですよね。今までの教会の幼稚園もなかったし、自分に子供もいないですから。ほぼ小さな子どもと接する機会がなかったんですけど、でも、幼稚園生と関わっていると、やっぱりね、この神の国で小さなものが一番偉大であるというのがすごく分かるような気がしますね。

    子供だからもちろん未熟ですけど、でもものすごい素直で、一直線に神様信じていてですね、お祈りも大きな声でみんなで唱えるし、聖歌だと大きな声で歌いますしね。僕の話なんかもうえらい真剣に聞いてて、大人が聞くよりも真剣に、しかも大人だったら疑いながら、言っていることが本当かな、嘘がなあとか、いろいろ思うことがあると思うんですけど、でも全く疑いゼロにもう100%心に受け止めて、もう何か受け止めているし、その素直さと単純さというのは、やっぱり神の国で一番ふさわしいなというのは、実は本当にね、ここに来てから、特にこの教会でわりと幼稚園の園児と一緒にご飯を食べたりとか、お話したりと、割と接する機会が多いので、ホントに思いますね。

    だからやっぱりね、私たちは恵みの世界を生きることが一番大事ですから、やっぱり幼子のような心で、やっぱり素直に神様信じてですね、嬉しいことがあったら喜んで、でもちょっと嫌なことがあったらすぐ泣いたりとか、喜怒哀楽も激しいですけれども、社会生活はそれちょっと無理ではありますけど、でも神様に対して私たちは本当に素直な幼子のような心で、やはり神を信じる信仰生活を送ることがやっぱり一番の恵みだと思います。

    だから、洗礼者ヨハネのように立派になることを目標にする必要性がないんですよ。ある程度社会生活がある程度、もちろん常識的にとか、やっぱり大人の大人の判断とか必要ですけれど、でも一番大事なのはやっぱりそこにないなというのは、子どもと接して思います。

    だからイエス様は幼子として生まれてきたんだと思いますよね。幼子の姿をわざわざ私たちに、クリスマスの時に誕生の神秘と幼子イエス様を私たちに示したのは、神の恵みの世界がそういうものとつながっているからじゃないかなと思いますね。

    私たちが小さな子どもたちの、特に純粋な心に習いながらですね、幼子のような気持ちで、そして幼子イエス様を私たちが迎えられるようにですね、この残された待降節をそのような心で過ごしながら、イエスの誕生を心から喜んで迎えられるようにですね、共に祈りを捧げたいと思います。

    14 min
  • 【ミサ説教】マタイ福音書3章1-12節「荒れ野で生き方を立て直す」
    マタイ福音書3章1-12節「荒れ野で生き方を立て直す」2025年12月7日待降節第2主日ミサ カトリック防符教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    私たちは忙しさに追われて心が乱れると、「荒れ野」に放り出される。でもそこで生き方を見直すと、まっすぐな生き方が見出せるでしょう。「荒れ野」は自分を整えるチャンスです。

    お話の中の神父さんは故三浦功神父さんにゃ。

    福音朗読 マタイ福音書3章1-12節

     1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
     4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
     7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

    荒れ野で生き方を立て直す

    待降節の今日は第2主日になりますけれども、第2主日は伝統的に洗礼者ヨハネの活躍というか、言動のところが読まれるということに毎年なっています。今年はマタイの洗礼者ヨハネの箇所ですけれども、彼の役割は、イエス様の救いの前にそれを準備する役割があったのですけれども、彼は典型的な旧約からの預言者で、大体住んでいるところが荒れ野というですね、普通はみんな町の中に住んでいるわけですけれども、預言者は特別な使命があるから荒れ野といって、およそ人が住めないような荒廃したところでワイルドなんですよね。この、ラクダの毛衣をきて、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にしていたというから、相当ワイルドな感じですけれども、彼がそこにいて、そしてやはり悔い改めですよね。罪を悔い改めて、清めのための洗礼を授けていた。だから町にいる人々も多く、わざわざ歩いて荒れ野まで行って、荒れ野と言ってもヨルダン川の流れているところだから、お水があるのでそこで洗礼を授けていたというわけですね。

    多くの人がそこに来たということは非常に不思議な気がします。やっぱり当時の人は何らか自分の中でもやもやしているものがあって、それでやはり洗礼者ヨハネのところにわざわざ荒れ野まで歩いて行って、そこで何か清めのものを清めてもらうような気持ちが、何か心を引き締めるためにそういうことが必要だったのかもしれないですね。

    私たちはクリスマスの前に、この洗礼者ヨハネの箇所を読むのは、やっぱり私たちも何らかの形で、この荒れ野というか、日常生活から少し離れて、自分自身を見直して心を整える、そういう機会を持つようにされたらいいのではないかというふうに思います。

    結局、私たちは日常生活でいろいろ忙しいですけれど、荒れ野というのは日常生活をちょっと外れた世界ですよね。時々そういうことに私たちは遭遇せざるを得ないわけですけど、もうみんな忘れてしまったかもしれない。13年前のコロナが流行って、みんな自粛生活をしなきゃならない。あれも一つの人類全体の一つの荒れ野に入る時期だったんじゃないかなと思いますが、残念ながらあの時は人類が全体的に生き方をちょっと悔い改めるというか、他の生き方をするチャンスだったと思うんですけど、結局終わってしまったらもう全く忘れてしまって、何かいつもと同じような感じにちょっと戻っちゃいましたけど、やっぱり荒れ野というのは悔い改めたり、生き方を見直す一つのいい機会になるんじゃないかなと思います。

    もちろん大きなもので今の大きな山火事とか震災とか津波とかなかったら、あっという間に荒れ野になってしまうわけですから、私たちがそういう時に何か自分の生き方を見直す機会にされたらいいんじゃないか。個人的には、やはり小さな中で私たちは日常生活がちょっとうまくいかなくなって、荒れ野のような中に入ることもある。
    それを私たちがどう生かしていくかということじゃないかなと思うんですよね。

    ちょっと前というか、昔に一人の先輩の神父さんと二人で住んでいる時期があったんですけれど、その神父さんがものすごい甘党だったんですね。実は僕は辛党で甘いものはすごく苦手で、彼は甘党で、いわゆる辛い系とかアルコール系苦手だったから分担していたんですよね。
    辛いもの系とかアルコールを僕がいただいて、甘いものは全部彼がいただいて、喧嘩にならず分担してたんですけど、ちょっとやばいかなという。朝ごはんの時からケーキを食べていてですね、ケーキにまた砂糖までかけて食べてたから、ちょっとやばいんじゃないかと心の中で思ってたんですけど、白内障でおじいちゃんで白内障の手術をするっていうので、白内障の前に検査するんですよね。糖尿病のチェックをして、糖尿病だったら目の手術ができないんですけど、案の定、血糖値がめちゃめちゃ高くて、糖尿病だということが発覚して、手術はできなくなったんですよ。それで、もうこの手術をどうするかなと思ったら、そしたらそれで彼は目覚めたというか、自分の生き方をころっと変えようと思って、それからちょっとまた極端ですけれど、普通だったら血糖値を抑える薬とか飲むんですけど、薬とか全くのまずお医者さんには、もうこの血糖値だったら入院レベルですよって言われたんですけど、結局気持ちを変えて、薬を飲まないでいろいろ生活を変えることによって、その血糖値を下げようと決意してですね、いろいろいろいろ試して、いろんな本もありますし、ネットでも記事がありますから、いろいろあって、食事療法と運動療法ですよね。だから朝昼晩、食事の後は必ずね、15分から30分ぐらい、散歩してですね、しかも雨降ってる日もありますから、雨降ってる時は大きな修道院の中をぐるぐる歩いたりぐるぐるしたりして。それで、食べるものも非常に注意して、いろいろ工夫してね。やっぱり半年以上かかったかな。これ食べたり、これ食べなかったり、一時、タンパク質あんまり食べなくなったら、かえって体が弱ったりして、最終的に玄米ご飯を食べるようになったら非常に安定してきて、運動と玄米ご飯とそういうことを工夫して、それで結局半年から1年後ぐらいかな、血糖値が正常に戻って、白内障の手術もちゃんと受けることができたんですけれども、やはりそういう病気と一つそうですよね。今までの日常、今までの日常生活ができなくなっちゃうから、ある意味、荒れ野というか、一つの危機に陥るわけですけれど、その時に彼はこの聖書の箇所ですよね、主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ、やっぱり自分の生き方を見直してまっすぐにしようと思って、様々な工夫と来たものをしっかり受け止めて、あれやったりこれやったり、全部がうまくいくわけじゃないですけれど、工夫をして、やっぱり自分の道をまっすぐにするですね。そういう心構えがあるのを見て、見事だなと思いましたね。

    人によりますけど、糖尿病になったらもう甘いもん食べれないとか、お酒が飲めないとか、薬を飲んで血糖値を抑えるんですけど、奥さんに怒られるから陰で甘いもの食べたりなんかして、結局何かグダグダになっちゃうような人が多いですけど、でもそういう時にこそ、やっぱりね、悔い改めるチャンス、生き方を変えるチャンスだということを思って、そこから自分なりに工夫をすることによって、困難を乗り越えていけることが私たちはできると思いますね。

    洗礼者ヨハネは、終わりとか差し迫った神の怒りとか、わりとちょっと厳しいことをいろいろ出てきますけれども、でもやっぱりそれはチャンスなんですよね。そこのその中で私たちは自分が何を大事にしているかとか、どう生きているかとか、それをしっかり見直して、だから悔い改めるって別に何かただただ、単に自分を責めたり、神様にもちろんごめんなさいって言わなきゃならないですけれど、やっぱり生き方を変えるということですから、そのチャンスとして受け止めていく。

    一人一人にチャレンジというか、困難が違いますから。健康の問題でもそうですけど、人間関係とか様々なことがありますけれども、そこをチャンスとして、この洗礼者ヨハネのこの骨太っていうか。わりと男らしい感じですけど、そのような気持ちを持って、勇気を持って自分の歩む道をまっすぐにしていく一つの機会にすることができるならば、やっぱり私たちは心を整えて、イエス様の本当の救いにあずかれるこのチャンスというか、私たちができるのではないかなと思いますね。

    なかなかね。この12月はなかなか忙しくて、あれこれ仕事や家庭とかいろいろあって落ち着かない時期ですけども、でもだからこそ、こういう時に少し自分のことを振り返って自分を整えていく一つのかきっかけにされて、イエス様を迎え入れたいと思います。やはり私たちがすっきりした気持ちで、すっきりした生き方でイエス様を迎えられたら、これは本当にいいと思いますね。

    私たちはやはり主を信頼しながら、いい時期もあるし、悪い時期もありますけれども、でも悪い時期というか、うまくいかない時こそ僕は本当に思いますけど、チャンスというか、何かを変えるきっかけが与えられてるわけですから、それを生かして私たちが主の道を歩んでいけるよう、そして良きクリスマスが迎えられるように共に祈りましょう。

    13 min
  • 【ミサ説教】マタイ福音書24章37-44節「最悪を想定し、最善を尽くせ」
    マタイ福音書24章37-44節「最悪を想定し、最善を尽くせ」2025年11月30日待降節第1主日ミサ カトリック防符教会
    今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

    目を覚ましているとは「最悪を想定し、最善を尽くせ」ということでしょう。私たちの人生にとって本当の最悪は多くは「死」であるかもしれません。いつ死が訪れてもいいように備えながら、一番最高のもの、神の恵みを受け止めていけるように待降節を過ごしていきたいものです。

    もとの言葉は”I am prepared for the worst, but hope for the best.”

    福音朗読 マタイ福音書24章37-44節

     〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕37「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

    最悪を想定し、最善を尽くせ

    今日が待降節の第1主日で、イエス様の誕生の準備が始まる主日です。この待降節の第1主日というのは、イエス様の誕生よりもむしろイエス様の再臨ですね。世の終わりにイエス様がもう一度この世界に来られるというですね、11月の死者の月の流れで、世の終わりとイエス様の再臨のところがだいたい朗読されるように決まっています。

    そして今日はマタイの24章ですが、まさしくそのような箇所だったわけですね。あなたがたも用意してみなさいと。人の子は思いがけない時に来るからであるというふうにイエス様が言っておられます。やはり突然イエス様が来られるので、ちゃんと準備をしているように特に目を覚ましていなさいとか、用意していなさいということをイエス様は言われるわけですね。

    世の終わりには様々な混乱や、今もその予兆かどうか分からないですけれども、地震とか戦争とか疫病とか、あるいはキリスト教に対する迫害とか、そのようなことが非常に厳しいことが起きると、その果てにイエス様が天から来られるという、そのことを語っていて、だからこそ目を覚ましていなさい、準備していなさいということを言うわけですね。

    でも、具体的には、私たちは目を覚ましているとか、準備するとかですね、それは具体的にどういうことを意味しているのかということですよね。目を覚ましていなさいと言っても、やっぱり夜はちゃんと寝なきゃならないし、なんて言うんですか、このいつも気を張っているわけにもいかないわけですけれども、この準備をしておくということのもっと具体的なことは何かと言えばですね、これが分かりやすいんじゃないかと思うのですが、日本語のことわざにも、ことわざまでなっていないですけど、こういう言葉があるんですよね。「最悪を想定し、最善を尽くせ」という言葉があって、この一番悪いところをちゃんと見てですね、そして最善に向かいなさいと。英語ではですね、”Prepare for the worst”は最も悪いものに備える準備をしなさいということと、”hope for the best”と言ってですね、一番良いものに希望を置きなさいという言葉なんですね。
    もともとイギリスの政治家のベンジャミン・ディズレーリという人が言い出したところから、このことが言われるようになったというんですけど、実は名探偵コナンの中に出た怪盗キッドという人がですね、「本当の一流は常に最悪を想定している」って言うんですけれども。
    だから私たちは目覚めているのは2つなんですよね。最悪に備えるということと、そして最高のものに希望を置いて生きるというですね、そのことでノアの例が、人の子が来るのは、ノアの時と同じであるって言うんですけど、じゃあノアがどうしたかと言えば、まさしく最悪の準備をした。つまり洪水で滅ぼされるというですね、その最悪の事態に備えて彼はどういうベストをしたかと言ったら、まさしくノアの方舟を作って家族と動物や兄たちを少しでも救うということをしたわけですよね。
    だからノアの時と同じだから、私たちもちゃんと備えておけよということですよね。

    でもそれは何か最近はひしひしと感じられることで、いつ突然火事が起こってですね、突然ですから燃えてしまうかもしれないし。

    あまりちょっとマスコミ言わないんですけど、今、太陽フレアというこの太陽の光線が今実は地上に強く降り注いで、実は非常に危険な状態だって言われていて、とうとう日本もちょっと影響はありますけれども、エアバスの飛行機の運航が一時停止していますけれども、あれは太陽光フレアの放射があまりに強すぎて、結局、飛行機の計器に狂いが出ているってことなんですけれども、でも、それも前から学者達が言っていたんですよ。こういうことが起こるって。

    だから私たちは今の時代だから余計にですね、最悪に備えなきゃならないっていう、最悪って何が最悪?もちろん何が起こるか。自然災害かもしれないし、突然のアクシデントかもしれないけれども、でもやっぱり最悪に備えておくということは一つであって、だから、でも最悪に備えるだけじゃなしに、方はベストといって最善のものを、その中でこそ私たちは希望を持って歩まなきゃならないということですよね。

    それを改めて心がけたいと思います。特にこの11月ぎりぎり、今日は11月ですけど、死者の月ということでですね、中世から言われているのはメメントモリって言うんですけど、死を覚えよという格言があってですね、昔のヨーロッパの聖人たちの絵なんかの下に必ず髑髏が描いてある絵があるんですよね。そういう絵を見たことがあるかもしれないけど、マグダラのマリアとかなんとか、いろんな聖人の下のところには、アッシジのフランシスコなんかもそうだけど、髑髏が描いてあるんですけど、それは死を覚えようというメメントモリという、そういう伝統というか、一つの訓話があるんですけど、それは何かと言ったら、最悪に備えよということです。やっぱり私たちの最悪は何なのか。

    やっぱりそれは自分が死ぬということだし、自分の家族が死ぬということだし、まあもうちょっとマシになれば、病気で倒れるとか、自分の病気とか周りとか、もうちょっとあれば家が倒れるとか壊れるとか潰れちゃうとかありますけど、でも一番の最悪は死の問題ですよね。死に備える。

    でもそれは”hope for the best”だから、それを通して私たちが本当に良いものは一体何なのかということにどれだけ希望を置けるかどうか。ノアの洪水の話をそのままイエス様言っているわけじゃなくて、別に方舟のようなものを作れということを言っている私たちに言っているわけではないわけですけれど、やっぱりそれは心の準備なわけですね。

    実際、ノアの方舟のことを考えたら、実は多くの人たちというのは核戦争がまた起こるかもしれないので、実はノアの方舟のことを考えるなら、地下シェルターを作れっていう。避難できるよう日本にはほとんどないですけれど、イスラエルの家には全員ありますからね。イランの攻撃とか、戦争した時には全員地下のシェルターに潜ってるわけですけれど、国によってもちろん違うけれども、そんなことを日本ではもちろんできないですけれど、でもですね、私たちがじゃあ何に希望を、何に希望を置いて最高のものを向かうのか。

    それは私たちにとってはっきりすると思います。神の恵みと永遠の命ですよね。この世の滅びていくものを超える本当に大事なものに私たちがフォーカスを当てて、そこに私たちの祈りや私たちの心を向けられるのか。

    このいろいろな災害とか、いろいろ来るのは、どうせ巻き込まれる可能性がある。だから最悪のことはちゃんと準備しなきゃならないですけど、でもそれを超えている神の恵み、それがここではイエス様の再臨。イエスはもうその時に来られると言っているわけだから、イエス様の恵みや神の憐れみ、そして私たちの永遠の命のそこに私たちの気持ちをどれだけフォーカスして、それを待ち望むことができるか。

    最悪のことを想定しながら、最高の下に私たちが向かう。私たちの人生にとって本当の最悪は何なのか。自分の人生にとって一番最高のものは何なのか。両方をしっかり明確にしていくことによって、私たちの人生の方向性がはっきり決まると。

    だから時々言いますよ。急に大病になって入院した人に会うと、こんなことになるとは夢にも思ってませんでしたって多くの人が言うわけですよね。でもそれは最悪を想定していないってことですから、用意が足らない、足らないってことだと思います。

    でも、最悪だけを用意するんじゃなくて、その中でこそ本当に私たちの信仰者として大事にすべきものにフォーカスを当てて歩むかどうか。それが私たちにとっての一番大事な待降節の準備だと思いますね。

    イエス様の誕生を。それは別に私たちの健康が回復するとか関係ない。お金が儲かるとか、何の関係もないですけれど、でもイエス様の誕生によって、私たちの生き方に大きな恵みと力と指針が与えられて、本当の幸せをイエス様が私たちに伝えたわけですから、イエス様が私たちに伝えた最も大事なこと、自分の人生で最高に一番大切にしたいものは何なのか。

    それを改めて問い直しながらですね、まあ、最悪のことに、まあ、そんなに最悪がすぐ来るわけじゃないですけど、最悪のことが来てもいいような心の状態の中で最高のものを迎えられるようにですね、そのような準備をこの待降節にしていくことができるように、そして本当の意味で25日が来たからということじゃなくて、この最高の神様の恵みをしっかり受け止めていける、それに向かって歩めるその恵みを願いながら、このミサを、そしてこの待降節を過ごせるように、共に祈りを捧げたいと思います。

    13 min

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