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狭い戸口とは勝手口のように地味だけれど大切な戸口であり、また、そこを通ることは厳しい戸口であるとも言えるでしょう。
私たちの人生には何度か狭い戸口をくぐるときがありますが、イエス様と共に歩むならば、それはキリスト信者として大きな恵みといえるのではないでしょうか。
英神父様がお米の配達、というのは大変だったでしょうね。。。
22〔そのとき、〕イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
今日の福音書はルカの13章のところを狭い戸口から入るように努めなさいというふうにイエス様がおっしゃっていますね。
狭い戸口というのが大事なので、それにどのように私たちが入ったらいいかということですね。
狭い戸口の反対の概念が、考えが広い戸口というのがあるから、狭い戸口と広い戸口、2つあってですね、それがどう違うかということだと思うんですけど、最近の家はだいぶ減ったような気がしますが、昔のちょっと大きめの家だったらですね、だいたい戸口が2つだったですよね。広い戸口は何かと言ったら玄関できれいなんですけど、狭い戸口は何かと言ったら勝手口って言って、台所にとか、何かに直結しているもう1個戸があったんですよね。だいたいだから2つ。
今はあれだけど、昔の特にちょっと大きめ家に住んでいる人が、だいたいそれがあるのが普通だったわけですけど、私の親戚の中でも、一番成功した人は神戸市ですけれど、一番成功して芦屋に住んでて、やっぱりちょっと大きい家に住んでいて、この広い戸口と狭い戸口がやっぱり両方あった家というか、広い家だったら、昔はそれが標準だったんですが。
だからイエス様がおっしゃるのは、広い戸口の方から入るんじゃなくて、狭い戸口から入りなさいということをおっしゃるわけですね。
確かに広い戸口では玄関ですから、大体ね、家のご主人様が出入りしたり、あるいはお客様が来たら開いたり、そういうところなわけで、親戚一同集まってたら、その人の家にみんなお正月とか集まって、そういう時はお客さんと呼ばれる家の玄関口からも入っていって。
それでここでいう通りですね、飲んだり食べたりしてするわけですよね。お互い話し合ったりとかするわけですけど。
でも大人になってからあれですけど、でもかなり大きな畳のところにみんな集まって、宴会みたいな感じが僕は小さい頃でしたけど、でもそれはやっぱり台所が大変なわけですよね。実際はそれだけ大きな宴会やるのにも、台所で仕度してた人たちの大変さっていうのは、子供の時は分からなかったけど、考えたらやっぱりそれがなかったらやっぱり宴会とか成り立たないわけだし。
実際、狭い戸口は日常生活でやっぱり必要なものですよね。そこからだいたい食料とかなんかも持っていったり、ごみ捨てもだいたいそっちからで、日常のことはほとんど勝手口から。勝手口がないと混乱するから分けてたわけですよね。
ついでに言うと、家が実家がお米屋さんだったんですよね。
で、父親が大学生の頃に病気して働けないって言って、僕が代わりに働いてたんですけど、その時にやっぱり慣れてないから、大きな家に行った時、玄関からお米とか配達したら後から怒られて、こっちから入らないと、勝手口から入れてくださいと言われて失敗したと思いましたけど、やっぱりそういう食料が届く今はあんまりもお米の配達とかする時ではなくなりたけど、昔はお米屋さん配達なんですよね。それもだいたい勝手口からこっそり持っていって、台所に直で届けるみたいな感じだったわけですけど。
でもやはり表立ってはもちろん玄関は大事ですけど、でも実際の生活ってもっと必要で、もっと大事なのはやっぱり狭い戸口、いわゆる勝手口そこで生活の全てが成り立ってるわけですから、私たちがイエス様に従っていくとしたら、私たちは単に表玄関から入ってですね、お客様の中に入って飲んだり食べたり、あるいはお話を聞いたりですね、これも全くミサの話ですよね。一緒に食べたり飲んだり、教えを受けたって、ミサのことですけど、ミサで教えを聞いて、実際にご参加いただくわけですけど、でもそれは表玄関から入ることだけやってたらダメだってイエス様もおっしゃって、やはり裏口から入って行く。そのイエス様に従っていく中でも、裏口から入っていくようなことをイエスと共にしてるかどうか。
実際、先ほど言ったように、本当に大事なことは、ほぼ裏方が大事。どんなことでもですね、表立っているよりも陰でいろいろしなきゃならないことがあって、イエス様と狭い戸口を通り抜けてそこでイエス様と生活をシェアするというんですかね。
日頃の何か仕事だったり、家族との関わりだったり、そういうことをイエス様と共に果たしているかどうかということが一番大事だと。今日の福音書ではイエス様が言ってるわけですね。
だから、もちろんミサに出て、こうやって礼拝することも非常に大事だし、それはもうイエス様の教えを聞いて、やっぱりその体をいただくことは大変大事なことですが、でも日常生活の中でのイエス様と共に働いたり、心を配ったりできるかどうかがもっと大事だ。それがないと神の国に入っていく資格がないとイエス様はおっしゃってるわけですね。
日々の生活の中で、私たちはイエス様と共に歩んでいけるかどうか、あるいは歩んでいるかどうかということを改めて問い直してみたらいいんじゃないかなと思います。
最近観た映画で、最近といってももうちょっと何ヶ月も前ですけど流行ってて、皆さんもうすでに観た人もいるかも。「国宝」という映画があってですね、とにかく100億売上か100億突破の110億突破だったかな。なんかものすごく流行ってて、かなり私も早い時期に観たんですけど、やっぱりザ映画っていう感じで。
この歌舞伎役者の話。このヤクザの子どもに生まれた人が歌舞伎役者になって、それでもって最後国宝になるという、人間国宝になるっていう、その生涯を描いて、また長い長い映画なんですけど、その映画の何が面白いのかといったら、もちろん華やかな世界だから、この歌舞伎をこの吉沢亮っていう主人公がほぼ完璧に歌舞伎役者のように踊ったりですね、横浜流星っていうまたイケメンを二人の若者がほぼ完璧な歌舞伎を踊ったりする。それもすごいんですけれども、実際の面白さはやはりやっぱり芸の道っていうのがどれほど大変で、どれほどそれが狭い戸口なのかっていうことが、ものすごい苦労と困難とごちゃごちゃの人間関係と様々の中で、結局二人が狭い戸口をくぐっていくっていう、それがあるから、表の歌舞伎の技がどれほど素晴らしいかっていう、この裏表みたいな感じなんですよね。
二人が少年時代の頃、お父さんからめちゃめちゃ厳しく、もう猛特訓ですごいなと思ってたら、映画見た後、本物の市川團十郎だったかな、何かが映画を観ましたけど、自分が子供の時もっとすごかったっていう。映画でしごかれてる場面も相当心が痛んで。でも本当はもっと厳しくて、骨格が変わるぐらい殴られたり蹴られたり。昭和の時代ですからね。今はちょっとないと思いますけど、でもものすごい苦労して、その映画以上に実際はもっと苦労して、もちろん人間関係でごちゃごちゃがあったかどうかあれですけど。
結局私たちはイエス様の道を歩んでいるわけですけど、多分生涯に何回かは狭い戸口を越えなきゃならないと思いますね。
それは人によって違う。一回か2回か度々かわからないですけど、でもイエス様と共に歩んでいくならば、やっぱりこう、玄関からスーッと入るだけの関係では済まないって言うか、どこか自分の人生の中でやってくる狭い戸口をくぐってこそ、本当にイエス様の弟子になれるというんですかね。
イエス様も共に歩んでいる、そのような。だからやっぱり神の国がやっぱりその人にもあるっていうのかな、それはそうじゃないかなと思いますね。私たちの人生は歌舞伎役者みたいに華やかなものではなくて、もっと地味なものでもありますけど、でも地味な私たちの生活の中であって、やはり狭い戸口をくぐる時もあるし、広い戸口の方で何かですね、喜びを感じることも当然いろいろあると思います。
でも一番大事なところは、やはり辛い時とか苦しい時こそ、イエス様と共にですね、その困難を乗り越えていけるかどうか。そこにこそ一番の大きな私たちの信仰の醍醐味っていうのかな、一番の信者として良かったと思えるのは、やっぱりそういう戸口を越える恵みを与えられて、越えてイエス様との本当の喜びを分かち合える、そういうことを人生の中で時々は味わうことができることじゃないかなと思います。
実際、最後の戸口はやっぱり死ぬ時だと思いますけれどもね。私たちは神様から恵みを与えられている。でも、チャレンジも与えられて、両方与えられていますから。だからこそ、私たちがイエス様と共に歩むようにですね、今日の第2朗読に出てる通りなんですけど。
主の鍛錬があるってちゃんと書いてあるんですね。鍛錬として忍耐しろと。父から鍛えられない子があるでしょうかって書いてんですけど、見込みがある人ほど鍛えられる。歌舞伎役者もそうなんですよね。見込みのある人だけが鍛えられて猛特訓しなきゃならないわけですけれども、私たち一人一人神様から愛されているものですから、鍛錬の時もあるし、乗り越えなきゃならないものを受け止めなきゃならないところもある。
それをしっかり受け止めながらですね、私たちが信仰の道を一歩一歩歩んでいけるように、神様に恵みと力を願いたいと思います。
ヘブライ語の「シャレム」はギリシア語では「完全」と訳されてしまいますが、日本語の「完全」の意味とは違って、「ありのまま」「神に作られたまま」という意味です。持っているもの、とらわれているものを手放してありのままの姿になること、貧しい人に愛の心を持って接する時、神の元で永遠の命、永遠の喜びの世界に入ることができるでしょう。
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(そのとき、)、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
今日の福音書は、ある意味、ちょっと悲劇的なお話でもあるけれども、まじめな一人の青年がイエスのところに来て、真面目に頑張っていたと思うのですが、永遠の命を得るためにどんな善いことをすれば良いでしょうかと聞いてですね、掟はモーセの中からですね、それはちゃんと守っているわけで、そこでそのことは守っていると。
まだ何か欠けているところがあるでしょうかというとですね。
イエス様の言葉がなかなか厳しく響くわけですが、もし「完全」になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさいということを言われるわけなんですね。
「完全」になりたいならということを言うわけですけれど、なかなかこの「完全」という言葉は実はなかなか翻訳は難しいと言われている言葉なのですが、日本語でも完全、新約聖書はギリシャ語で書かれているので、この「完全」という言葉は間違っていない訳なんですけど、イエス様がしゃべっていたのはヘブライ語か、アラマイ語で、ギリシャ語しゃべってないです。実際はですね。これはギリシア語に翻訳されているあれなのですが、ヘブライ語で「完全」というのは「シャレム」というのですね。という言葉なんですけど、でもそれは日本人、いやヨーロッパ人の考える「完全」とちょっと違って違っている「完全」なんですよね。
旧約聖書の中で出てくる何がシャレムなのかと言ったらですね、この例えば祭壇にするための道を山から持ってきて、その石を使いやすいように削ったり、そうしたら不完全なんですよね。やっぱり持ってきたそのままが「完全」になる。
つまり自然のありのまま、神様が作ったままが「完全」で、人間を手が加えたら不完全になっちゃうという言葉なんですね。そのシャレムというのは。
だから「完全」と訳さない方が。だからむしろありのままのそのままって訳す方が実は非常に近いことで、旧約聖書も、まあ旧約聖書はもちろんヘブライ語だからシャレムも出てくるんですけれど、例えばノアの方舟のノアはシャレムだったって書いてあるんですけどね。
そのノアのシャレムだったったってところも日本語の訳には全然違うんですけど、意味からとっているのか、「純粋無垢な」人だって書いてあるし、フランシスコ会訳は普通の訳で、「完全な人」だって書いてあるんですけど、でも内容的には完全というのではなくて、人間のはからいがない、ありのままの純粋な素直なそのものが、「完全」な神様が作ったものが「完全」だから、人間が手を加えた不完全になっちゃうというという言葉なんですけど、実際この話をすると長くなっちゃうんですけど、シャレムからシャロームが、だからシャロームっていうのは平和と訳されているけれど、ありのままなんですよね。実ははありのままのそのままがシャロームなんていうことなんですけどね。それもなかなか。だから、もしシャロームになりたいんだったら、シャレム、純粋無垢なものになりたいんだったら、行って持っているものを売り払い、貧しい人に施しなさいと。イエス様は言ってるんですよね。
でも「完全」といったら努力して一生懸命完璧にならなきゃならない努力目標みたいな感じだと受け取れると思うんだけど、違うんですよね。
持ち物を売り払って貧しい人にと言ったら、「完全」じゃ日本語の言う完全と離れている。
だから、ありのままの素直に生きるんだったらそうせよと言ったら、もっとぴったりくる話なんですけど。
ただ、私たちが本当にこのイエス様の望むシャロームをどう生きていくのかということが、実際非常に大事なことであるということなんですよね。それをね、そのためにまず売り払うというですね、自分の所有欲とか執着を手放すということと、貧しいというのを施すという愛の行いをしろということが、私たちがシャロームになっていくための一番大事なポイントだと。
だから、掟を守るとか守らないとかっていうより、もっと根本的なことをイエス様はここでおっしゃって、それを私たちがどう生きていくのかということなんですよね。
それで、ちょっと話がちょっと飛びますけれども、最初の問いは、永遠の命を得るためにはということなんですよね。
じゃあ、永遠の命ってだいたいどんなものなのかということなんですけど、
聖心会でシスター鈴木という方がおられて、実は私知り合いなんですけど、その人とわりと親しくさせてもらっているんですが、彼女が本にも書いてあることだから、ちょっとその本に書いてあることで言うんですけど、彼女は臨死体験というのをするんですよね。この死にかけてこっちの世界に戻ってきたという話で、今もかなりおばあちゃんで90超えてるぐらいなんですけど、若い頃、大学の先生であちこちで講演会とかをされていて、東京で暮らしてるんですけど、わざわざ奈良かどこかの大学か何かに講演会か何かで来て、聖心会の修道院がないから地元のシスターの家に泊めてもらったんですよね。
自分が住んでいるところじゃないから不慣れなわけで。真夜中起きてトイレに行こうと思った時に電気をつけたら他のシスターがおきちゃうと思って。暗い廊下を歩いて行って、廊下だと思ったところが階段だったんです。で、そこから転げ落ちて、彼女は気を失って。臨死状態に陥っちゃうんですよね。
その時に彼女が見たものは何かと言ったら、最初は自分が倒れたところ。幽体離脱って自分の体を自分が見てるんですよね。幽体離脱というんですけど、それはよくあって、その後連れて行かれたところはどこかっていったら、何かね、蓮の台というか、蓮の花の上に自分が乗ってるんですよね。
それで、その世界は、すごい喜びなんですよ。その世界がものすごい愛と喜びに溢れてて、この蓮の花びらが1枚落ちるたびに、さらに大きな喜びが溢れてくる。この花びらがぽろぽろっと落ちていくわけですよね。この花びら、花びらが何かと言ったら、実は自分が生きてる時に経験した苦しみとか執着とかとらわれ。
それが1枚離れるたびに大きな喜びが溢れてきて、とにかくもうあっと全部落ちる、落ちるかなって時に、彼女はだからもうこの向こうの世界にいて、それがもう永遠の命だということを強く思うんですけど、それはラッキーだったかラッキーだったかわからないけれど、彼女はその時にシスターの声が聞こえるんですよね。
つまり、倒れたのが修道院だったから、そこのシスターたちがみんなも必死でお祈りして、今度は助かるようにお祈り、癒しのお祈りを一生懸命してて、その祈りの声を聞いて、彼女ははっと気がついたら病院で寝ている自分に戻ったって言ったら、シスターのお祈りで戻ってるんですけど、向こうのギリギリ向こうに行きかけたんだけど、あまりにシスターが強力になったから一気に引き戻されて。
それでその蓮の花に自分の立って全ての花びらが落ちた。それが自分にとって永遠の命だったことを強く彼女は感じて。それでその後、やっぱり臨死体験する人全員じゃないけれど、やっぱり特殊な賜物をもらう人多いんですよね。それから彼女は癒しの賜物と人を癒す力と、あとは未来の予知ですよね。
だからそういう賜物をもらって、その後それでいろいろエニアグラム等々もされたんですけど、とにかくそのことで非常に活躍されていた方なのですが。
だから、永遠の命に至る持ち物の売り払いっていうのはその通りなんですよ。つまり、執着を全部捨てたら、もう永遠の喜びなんですよね。それが、というか、本当のありのままの神様の作ったありのままに戻れるいうか。
貧しいの施しなさいって話なんですけど、また別の話で。
もう覚えてないから。昔の長崎の市長で本島市長という方おられたんですよね。もう大分昭和天皇時代の前の時で、いわゆる戦争責任のアジア太平洋戦争の戦争責任に彼は実際そう思ってたと思うんですけど、いわゆる昭和天皇にも戦争責任があるという発言を長崎の市長としてしたんですよ。
ものすごい右翼からのバッシングがあって、でも結局彼は自民党員だったけれども、自民党からもされた。結局その発言を撤回しなかったんですけど、それで右最終的にどうなったかって言ったら、右翼団体に撃たれんですよね。至近距離で左胸を打たれたんですけど、たまたま骨にかすって貫通したんで、肺も心臓もやられなかった。
でもその打たれた直後に彼が何を思ったかと言ったら、カトリックなんですよね。カトリック信者なんですけど、もう自分が死ぬと思った時に思ったことは何かと言ったら、自分が生きてる間にどれだけ人を愛したか、人を大切にしたかということが最後に記憶にでてきて、そのことを思いながらも自分は死ぬと思ったけど、もちろん意識がなくなったんですが、でもそれで生還して、1ヶ月ぐらいの入院で生還するんですけれども、でもその次の長崎市長は殺された。伊藤市長は殺されている。2発を撃たれた。
で、次の人は殺される、殺されるんですけど、とにかくその本島市長の話はやっぱりこう死に直面した時に、自分がどれだけ人をちゃんと愛して、貧しい人や困っている人を助けたかという問いだけが、最後に彼は残ったということを。本島さんはもう既に亡くなっているんですけどね。
だから、この後半が、だからこの通りなんですよね。もし本当に私たちがありのままの自分の良さを生きるならば、一つは執着を全部捨てる、囚われをこの世のトラブル全部捨てるということと、もう一つは貧しい人に施す弱い人や苦しんでいる人に愛の心を持って生きる。
この2つだけなんですよね。
だから、このイエス様が言っていることは、何か急にムチャブリされてるように見えるけど、でも本当のところの何かを求めるんだったら、この2つを生きていく自分のありのままの良さに立ち戻るというか、その良さを生きていくことだけなんですよね。
だから、あの掟を守る、この掟を守るということじゃない。それだけだということなんですよ。だから、ここでイエス様の言っていることはもう絶対の真実で、私たちもこれだけある意味でのところは、生きていく上で良いとか悪いとかって言うんだったら、この2つなんですよ。
この2つを私たちがどれだけ実践できるか。その他のことは、実は、まあ日々の生活ではあそこが痛いとか痛いとか、あっちの病院行ってとか、薬飲んでとか何とか、この仕事いろいろいろいろ。もちろんやらなきゃならないことはお金の整理しなきゃならないとか、いろいろいろいろ。でもまあどっちでもいいんですよね。それは本質じゃないんです。
だから本当に本当のシャレム、本当のシャローンの生きていくためのコツは、ただこれだけだということですから。自分の囚われをどれだけ置いて、困っている人に愛の心を持って生きていくかという、まあ、これさえできたら何の問題もないから、イエス様は真実のことを彼に伝える。でも彼はできなかったですね。
なんでかと言ったら、財産が多かったという他のところに出てきますよね。お金持ちが天の国に入るにどれほど難しいことかって、イエス様がため息のように。だから、この蓮の花が全部落ちないとダメなんでしょう、花びらが。
でも、みんなこの花びらに執着して、これだけ、これだけ持っててって言うからダメなんですよね、全部手放せば。だから、かえってこの釜の労働者の方が天国に近いんですよ。持っているものを少ないから面白い、いろんな物を囚われもあるけどね。アルコールとかギャンブルとかいろいろ多いけど、でもどっちかというと貧しい人の方が天国に近いんですよ。
執着する方が少ないからなんですよね。
逆にお金持ちはたくさんあるから、執着がなくっても、花びらがいっぱいいっぱいあっても、捨てるのにすんごい時間かかっちゃうという、そういう単純な話なんですよね。
私たちがそのような本当の「完全」というか、本当に神さまの本当のありのままのそのままを生きていけるというですね、どうせ死ぬ時にそうなっちゃうんだから、今からやったらどうですかというさまがわざわざアドバイスしてくれてるわけですよね。
それを私たちが大事にして歩めるように。もちろんこの青年のようにこれはダメだ、これはいろいろあることもあるけれどもね、なるべく手放して、神さまの心を素直に生きていけるようにですね、一人一人、あるいは病気の方もそういう心で歩めるように祈りを捧げたいと思います。
「目覚めている」とはどういうことなのでしょうか?戦後80年に当たる今年、広島教区の8月5日のミサで菊地枢機卿様が仰ったのは「記憶すること」の大切さです。過去の教訓をしっかり記憶して未来に伝えていくことです。私たちはイエス様が十字架にかかって復活した記憶を毎週ミサで記念しています。イエス様から未来へ歩む力をいただいて、個人の記憶にとどまらず人類全体の過失を記憶して未来に繋いでいけるよう、祈りを捧げましょう。
菊地枢機卿様のお説教は以下から視聴できます。
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
32「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
35腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
41そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。45しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
今日の福音は、主人がいつ帰ってきてもいいように灯火をともし、腰に帯を締め、そして目覚めていなさいということですね。主人が帰ってくる。これは直接的には、やはりイエス様が再臨される世の終わりに、再臨、栄光のうちに再臨されるということを語っているのであろうと思われますけれども、私たちが目を覚ましていて、それがいいものであれ、悪いものであれ、私たちに何か来ることに対してしっかり用意をしていなさいということですね。
それはやはり現代的に言うならば、いつ災害が来るかわからないという、昨日の夜からですかね、大雨警報ですから、何か寝ているときに突然スマホが鳴って、何か緊急避難情報とかが流れてきたり、いつ確かに来るかもしれないですし。そして私たちはやはりこの平和旬間、過去の戦争や原爆の悲劇を思い起こして、平和を改めて決意する、そういう時でもあると思います。
目覚めていないで突然やってくる悲劇に巻き込まれるというのはどういうことなのか。それはやはりこの用意をしていないとか、あるいは主人が遅れると思って勝手に何かやっているとか、そのように私たちがならないようにということですね。目覚めていること、それは本当にどういうことなのか。
改めて、今、私がこの広島教区に来てから、やはりこの原爆と原爆の被害ということを広島教区全体としてしっかり受け止めて、それを心に刻んで生きようとしている。特に今年は戦後80年なので、そのような思いを強くする。そこに私もいられるということは非常に大きな恵みだというふうに思います。
結局どういうことなのか。
それは8月5日でしたか、最後の最後に菊地枢機卿が締めのミサをされて、その中で強調されていたことは、記憶ということなんですね。過去の記憶を私たちは心に刻まなきゃならないということなんですね。それは当然、一人一人、自分の記憶、過去の記憶ということもありますが、私たちの記憶をやはり心に刻んで忘れないようにしなきゃならないということですね。
それがもう戦後80年ですから、もう新聞でもテレビでもネットでもそのような記事がいっぱい出てきますが、過去の記憶を、既存の記憶を心に刻むということがどれほど大事なことなのかということですね。自分自身の記憶としたら、既にこの中で被爆体験とか戦争体験、第2次世界大戦の実際の記憶のある方はおられないと思いますけれども、それにしても私たちはやはり私たちの記憶をいかに保持していくか、それが大事だと思います。
その記憶は何のために必要なのかというと、未来に向かうためにですね、過去のことであれが良かったかなとか、悪かったなとかという、ただ思い起こすための記憶ではなくて、記憶を持って生きるということは、未来に対する責任を持って私たちが生きていくというですね、そこにつながる。
結局、目を覚ましていくとか、用意していくというのはどういうことか。過去を教訓をしっかり記憶して、それを未来に向かって次の世代、次の世代に向かって責任ある未来を築いていくというですね。
私たちはやはり時間的な存在ですから、過去とつながって未来に生きていけるか、それが一番の基本じゃないかというふうに思います。
で、過去を忘れたら未来も忘れる。結局、今のことに精一杯になってしまって、何が来ても突然のパニックになってしまう危険があるということですね。
漢字というのは面白いですけれども、あの「貪欲」という漢字があって。むさぼるという事なんですけれども、「今」と書いて「貝」と書くんですよね。
むさぼるという字は、貝というのは食べ物でもあり、貨幣でもある。お金の象徴なんですよね。結局、今お金を稼ぐとか、今これを食べるとか、そういうことにとらわれていると貪欲になってしまって、結局突然の破壊に巻き込まれてしまう可能性があるということですね。
いろいろ漢字は面白いんですよ。いろいろな光いっぱいあるんですけれども、でもやはり今のことしか考えなければ、私たちは破壊が待っているということですね。一時期、金融資本主義のハゲタカファンドとか、何かいろいろ金儲け主義の人たちがモットーがはっきりしていて、彼らの考えは「今だけ、自分だけ、お金だけ」。今だけ、自分だけ、お金だけが儲かればいいと。貪欲の一番の典型的なものですが、結局、今と自分とお金だけのことを考えたら貪欲になって、結局私たちが滅びの世界に向かってしまう。
私たちは何を大事にするかといったら、これまた面白いんですけど、貧困、「貧しい」という字が、これも面白い漢字なんですけど、「分ける」って書いて「貝」と書くんですよね。
だから、貧しさの本質は何かといったら、お金や食べ物を分かち合うわけですね。でも、分かち合いの中でこそ、私たちに大きな恵みと力が与えられる。分かち合うということは、過去の記憶を分かち合うということと、未来に向かって私たちはこの平和の恵み、進歩の恵みを分かち合っていけるかどうかということ、それが私たちにとって最も大切なことだと言えるでしょう。
実際のところ、私たちは日曜日のミサで何をしているかとか記憶を記念しているんですが、何の記憶かと言ったらイエス様が十字架にかかって復活した記憶を毎週毎週記念している。それは当然、単に過去の記憶を思い起こして懐かしがっているわけではなくて、今生きる力をいただいて、未来に向かって生きていく、まさしく未来の、もちろんそこまであんまり日頃考えないですけど、終末に向かったイエス様の再臨上の完成に向かって、私たちが歩む未来への力をいただくために、こうやって毎週毎週わざわざ集まっているわけですよね。私たちがどれだけ過去の、一つは、やっぱり喜びや恵みやということも記憶の中に残さなければならないし、もう一つは、やはり過去の個人的なことも含んで、失敗とか罪とか、あるいは人類全体の過失とかですね、それも原爆のことも含まれているし、今の核兵器の開発も含まれていると思いますけれども、それらすべてをやはり教訓として未来につないでいけるかどうかということだと思いますね。
8月の5日の集まりにカテドラルで出て、実はもういろいろなことがいっぱいあって、ちょっともう、話せないんですけど、やっぱり一つ、被団協の方々、ノーベル平和賞を取った被団協の方々も参加されていて、カトリック教会として被団協の方々にお祝いの言葉とそれを述べて、それで一緒に祈りに被団協の方々も参加していただいたんですけど、やはり彼らは本当に素晴らしいと思います。
やっぱり過去の被爆するという悲惨な経験を単に過去にあった嫌なことということで記憶を封印するのではなくて、その記憶があるからこそ、未来に向かって平和を築いていこうとする、前向きに生きているということなんですよね。それがまさしく私たちが目覚めて用意して、灯火を灯していくということの一つの実例で、彼らがノーベル平和賞をとったことは、本当に私たち日本人にとっては非常に大きな励みになりますし、一つの希望のしるしだと思いますね。
私たち一人一人ができることを、それは本当に小さなことしかもちろんないわけですけれども、私たち一人一人が過去の経験、良いこと、悪いこと、個人的なことも含めて、その記憶を未来に生かしていくために与えられているというふうに考えた時に、それは本当に意味がある記憶だと思いますね。
それを祈念しながら、私たちが未来に向かって小さな小さな祈りや小さな行いや小さな捧げでしょうけれども、次の世代に向かっての私たちは責任がある若い世代に向かってということですね。向かって私たちが何を残していけるのか、何を残していこうとするのかということですよね。
それを改めて思い起こしながら、私たちは、希望ある未来にこの平和を築いていくという使命と希望を持って歩んでいけるように、改めて共に祈りを捧げたいと思います。
モーセによってエジプトから出たイスラエルの民はしばしば不平を言います。昔の奴隷状態の方が良かったとまで言うのです。
実は囚われの中で生きる方が楽です。ですが、自由も喜びもありません。困難は続くでしょうが、それでも神様の方に向かってイエス様について行きましょう。
今日のお説教は第一朗読のお話がメインです。
(その日、)民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったがエジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
(そのとき、)何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
第1朗読が今読んでもらった出エジプト記というところからの朗読で、非常に印象的なところですけれども、今から3500年前のことですが、イスラエルの民がエジプトで奴隷状態で非常に苦しんでいたのですね。そこでモーセという預言者であって、リーダーが現れて、神から遣わされて、そしてモーセをリーダーにして、このエジプトの奴隷状態からこのファラオと戦って、そこから抜け出してエジプトを出発したのですが、このファラオがその後また気持ちを変えて、たくさんの奴隷がいなくなったら困るから、
彼らを取り戻すために軍隊を送ってトライに行ったわけなんですよね。それで追い詰められて、紅海という川を渡らなきゃならなかった。川があって、上の海があるわけですよね。それで追い詰められたんですけれど、結局モーセが杖を取ってですね、その杖で海を撃てば、この海の水がパッと開けて、陸地が現れて、それでイスラエルの民がその渇いたところに逃げて逃げて、シナイ半島という、今のイスラエルなのですが、パレスチナの側にとにかく渡って、渡りきった後にモーセが杖をもう一回持ってですね、ここの海を叩いたら、この分かれていた海が戻っちゃってですね。で、エジプトの大群が全滅してですね、助けられたというイスラエルの民がみんな助かって、エジプト軍が全滅したという、そういうところがこのところなんですが、まあなかなかこれはすごいところで、昔「十戒」だったかな、映画にもなって、こういうところがものすごく描かれてる映画があるんですよね。見たことがあるかと思いますが、旧約時代の一番すごい奇跡っていうか、一人が助けられるというよりも、イスラエルの民全員が助けられて、それで今のイスラエルの国のあるところに、次のリーダーのヨシュアに連れられて戻るという話なんですけど。なかなかあれなんですが。
このお話で実は一番思い出すのが何かと言ったら、20年前、ここにずっと住んでいた時に、聖書の勉強会やってやっていた時に、一人の労働者がいて、なかなかちょっと変わっていて、勉強会でも割といろんな意見をいろいろ反論したり面白かったので、いろいろ話す人が居てですね、彼が彼はだからこの福音書の中でイエス様が奇跡を行ったことを全部否定して、イエスが奇跡とか行ったはずがないということをいつもいつも言っていたんですよね。フランシスコ会の本田神父さんも奇跡否定派だから、本田神父さんがわりと同意見で、奇跡なんか何もないと言っていて、それだけではなくて、まあここはモーセで、イエスの話じゃないんですけど、モーセとイエスがいつもごちゃごちゃになって、それで海が分かれて、道ができて、通って逃げたとか、そんなことはあり得ないとか、彼はしきりに言っていたんですけど、でもなんか1年ぐらいやっていたら傑作で、彼らが最後どうやったかで言ったら、こんな奇跡は絶対あり得ないけれど、僕の人生で経験したことあるって言ったんですけど。助け出された、窮地に追い込まれて、もう自分がもうだめだと思った時に、やっぱり神の力が働いて、ぱっと開けて助けられたことはあるって言って、ほんま神の言葉は生きているなと思いましたけど、別に3500年前あったかなかったか、別にあったかなかったか喋っても仕方がないけれど、人生で彼はこれを経験している。だからもう聖書の言葉は生きていて、やっぱり私たちが囚われたり、もうだめだと思った時に、やっぱりぱっと開けて助けられることは人生に何回かあるでしょうが、しばしばはないけれど、でもあると思います。
一応キリスト教では水が分かれて向こう岸に渡れで助かったというのは、洗礼の恵みの前表と言って、それを表している。だからもうみんな私たちを助けられてるっていうか、奇跡がみんなの中に働くことがあるわけで。だから私たちが今日は癒しということですけど、癒しも救いも全部同じですよね。
私たちはやっぱり神さまから助けられてる存在で、しばしば、しょっちゅうじゃないかもしれないけど、でも人生で時々はある。神さまは特別に恵みを与えてくださるということですよね。だから彼は何かいつも否定してるようで、めちゃめちゃ信者だった、大事なところは全部分かってたから。
彼のエピソードもいっぱいあるんだけど、ともかくやっぱり私たちは救われているというかですね、神の恵みによって。
そのなんていうのかな、凄さをやっぱり生きなきゃならない。
で、このイスラエルの民が情けない。すぐ文句を言う。モーセにエジプトの軍隊、軍隊が迫ってきても、殺されそうになったら、モーセに文句を言うんですよね。
「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか」って言ってですね、我々をほっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬより、エジプト人に仕える方がましですって言ってて。
ほんとそうですけれど、結局ね、囚われている方が楽なんですよ。
奴隷状態の方が楽。何というか、罪とか囚われとか、何かに縛られて生きている方が楽なんですよね。それを乗り越えようとするのは力がいる。それを奴隷状態はやめて神さまの方に行こうとするのは簡単ではないのは確かですよ。
昔のように生きる方が絶対楽だから。それがお酒ばかり飲むとか、あるいは怠けてしまうとか、薬物ばっかりやっちゃうとか、何かそっちに留まる方が楽。楽だけど、自由もないし、喜びもない。でも、そこに留まりたいという人間の気持ちもしばしば起きてきますよね。
だからやっぱり私たちは勇気を持って神さまの方に行かなきゃならないというのかな。その囚われた世界を置いて、やっぱりそれを越えて行かなきゃならないんですよね。でも、越えて行こうとする時に、神の力が、手助けが私たちにあるから、私たちはそれを信じて、希望を持って未来に歩んで行くということですよね。それが本当に大事だと思います。
イエス様はやっぱりモーセ以上ですよ、イエス様は。今日の福音書ですけれども、結局、十字架にかかって、わざわざ私たちを奴隷状態から救ってくださったわけですから、自ら苦しまれて私たちを救われた。それは本当にモーセの比較じゃないぐらいすごい、まさしく、だからメシアであって神様なわけですけれど、そのイエス様が私たちに働くんだからこそ、私たちは少々の困難があっても、もうだめや、ダメやと思っていても、元に戻ろうと思った時に、やっぱり開いてくださって、乗り越えていける力を与えてくださる。それを私たちは信頼していきましょう。
困難がなくなるわけじゃない。この後もなかなか苦しいんですよ。荒れ野40年間。荒れ野40年だからね。私、もうずーっとテント生活で40年間野宿の生活民全体がしていて、40年後にやっと今の普通の家に住める生活。40年後ですよ、40年間。とにかくもう人生の大半はもう全部ずっと砂漠で野宿しながら、ずっとずっとずっと生きなきゃならないけれども、でもそれでも彼らはブーブー文句を言うんですけれど、モーセに励まされて、とにかく乗り切っていったわけですよね。
私たちにもしばしば困難なことが当然次から次へとやってくるかもしれないんですけど、でも、くじけないで、やっぱり神と共に一つ一つを乗り越えていってですね、やはり救いの世界に、神の国に、私たちは一歩一歩近づいていくことができるし、いったん失敗して離れたように見えても、また悔い改めて、もう一回でももう一回でも再チャレンジできますから。
私たちは神さまを信頼して、神の恵みのうちにですね、解放の道に、捕らわれの道から解放されて、本当に自由と愛という喜びを味わって歩めるように、今日のミサで祈りましょう。
自分自身のために、あるいは捕らわれている何か友人や仲間のためにも祈りを捧げたいと思いです。
イエス様の見ている視点と、私たちの考えている視点はかなり違うことが多いのです。ガンジーも言っていますが、自分の心を見つめて自分を変えていくとはとても難しい。ましてや神様の目線に自分の心を合わせることは大変難しいことです。それでも神様の恵みは、私たち一人一人に必要な分だけ与えられていますから、神の恵みをしっかり受けて、それに応えていけるように願いましょう。
ガンジーの話はしばしば出てきますが、何度聞いても凄い人だと思います
13〔そのとき、〕群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
今日の福音書はルカの12章のお話で、イエス様と人々のやり取りというか、イエス様の説教なのですが、今日のところ考えさせられるところの一つなのですが、群衆の一人がイエス様に相談に来て、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言って下さいという、そういう相談をするんですよね。
遺産相続の問題なんですけれども。古今東西、この遺産相続の問題って実はかなり問題があって、今みたいに法律がちゃんとしていても、ちょっとこれだけ見たら、皆さんの中で一人か二人が多分その遺産相続の問題に悩まされた人がいるんじゃないかと思われますけれども、信者さんでも多いんですよね。この遺産相続をどうするか。その家がだいたい裕福だった方の場合ですけれども、それで揉める人というのは案外少なくないという感じがして、直接相談、例えば直接相談されても、別に弁護士じゃないから僕なんか答えようがないですけど、でも、遺産相続の問題で、この人は相当悩んでたんですよね。多分兄弟がたくさん取っちゃって、それで自分の分が少ないから、それで頭に来て、イエス様の相談に来たなというふうに思われますね。
でも、イエス様のところには様々な相談が来たんだと思いますが、私のところにもいろんな相談が来て、いろいろなレベルの相談が、一つはこういう、何て言うんですかね、人生のトラブルの相談を受ける事は時々はやっぱりあって、人間関係の問題とか何とかかんとかいろいろあるわけですけど、イエス様の答えはやっぱりすごいなと思いますけれども、これ縮めて書いてあるからあれなんですけど、この人の本当の問題は遺産相続の問題じゃないんですよ。この人の本当の問題は貪欲の問題。心の中のどんな貪欲にも注意を払い、用心しなさいと。本当の問題は心の中の問題なんですよね。
これはこのイエス様の見ている視点と、私たちの考えている視点の違いということが、ものすごくはっきり表れている箇所の一つなんですよね。
私のところにも、先ほど言ったように、いろんな相談があって、夫夫婦の仲の悪いこととか、いろいろお金のことも相談。もちろんお金を出せるわけじゃないけど、いろいろな相談を受けて、やっぱり相談を受けたら、自分としては合わせたらこうしたらとか、遺産相続の問題だったら裁判しますか、しませんかとか決めてやったらどうですかと、いろいろ相談に合わせて、僕も一生懸命、自分なりにアドバイスはもちろんするわけですけれども、なかなかイエス様のようなアドバイスができないというか、あなたの貪欲が問題ですよっていうのがあってもなかなか言えない。
でも、多くの人は、多くの人の相談を聞いて思うことの一つは、みんな、だから他の問題で悩んでいるんですよね。仕事がどうのこうのとか、家族の関係がどうのこうのとか、いろいろですけど、でも本当の問題は自分の心の中の問題だといつもそこを見ているということなんですね。
本当に拠りますけれども、あ、この教会がここが悪いとか何とか、あの教会はだめだとか、そんなことばっかり言っていて、そんなのを聞いていると、心の中ではね。それもあなたの問題だろうと思うんだけど、それを言ったらもうその人を逆切れして、もうそれで二度と来ないとか、あるいは仕事の問題でも職場のことがどうのこうのとか延々に言っていると、職場の問題ももちろんあるかもしれないけれども、それで仕事をしょっちゅうしょっちゅう変えている人がいたら、職場の問題じゃなくて、やっぱりあなたの問題だろうと思うんですけれども、でもなかなかそこが実際気付けない。
結局誰かが悪いからこうなっちゃったって思っていて、結局自分の問題だったことになかなかわからない。
それに、どうやったら気づけるのかということもなかなか難しいポイントですけれども、でも、人のせいにする、あるいは周りの問題、それを解決しなきゃならないことがありますが、その中でそういうことを通して、やっぱり自分自身に何が問われているのかということを、やはり自分の心を振り返るきっかけとして、そこからイエス様が何を望んでいるのかを見なきゃならないと思うんですね。
僕は好きなカトリックじゃないですけれども、マハトマガンジーって皆さんもご存じだと思うんですけれども、インドの独立の事実なんですけども、ガンジーのすごいところは何かと言ったら、個人的に立派な人だっただけじゃなしに、聖人のような形で、しかも政治の分野での目覚ましい功績があった。
この両方をできる人というのはなかなかすごいなと思うんですけど、彼の一番すごかったことは何かといったら、ご存知だと思いますけれども、イギリス大英帝国の植民地だったインドを独立させたんですよね。でも1発の鉄砲の弾も打たなかったんですよ。軍事衝突ゼロ、いわゆる非暴力というですね、いわば仏教やヒンズー教の暴力を使わないっていう、その教えに徹底して1発の銃も撃たず、イギリス兵と一回の戦争もせずですね、イギリス大英帝国からインドの独立を勝ち取ったというんですね。それ自身がもう歴史上あり得ない政治的な奇跡を行った人ということで、極めてすごい人だというふうに思うんですけれども。
でも彼が彼の自伝とか読んで、彼の晩年にですね、自分の生涯には3人の敵がいたって言うんですね。非常に自分を悩ませた敵が3人いたって言うんですよ。
1番目の敵は何かと言ったら、一番人生の仲間3人の中で一番簡単で、一番戦うのが楽だったのは何か1番目、それが何かといったら、イギリス大英帝国だってっていう、その敵と戦うのが一番人生で優しかったという、非暴力で戦うことというのは、普通だったら絶対できないことをやったってそれだけで奇跡的なんですけど、彼によればそれは一番簡単だったというんですよね。
では2番目にもっと難しかった敵は何かといったら、インド国にだって言うんですよね。自分の国の国民がもっと難しかった。結局、イスラム教対ヒンズー教の争いがイギリス大英帝国が独立しても結局解消することができなかったんですよね。彼は一つの大きなインドを作りたかったのに、結局ヒンズー教とイスラム教との喧嘩が収まらなかったから、結局パキスタンとインドに分離して独立してしまった。それはガンジーとしては非常に心の痛い一つの国にしたかったんですけど。それで当時は東パキスタンと西パキスタンで、東パキスタンがバングラディッシュになって3つの国に分かれたんですけど、でもそれを感じる笑顔じゃなかったんですが、でも結局みんな人々の心の中にあるこう、やっぱり敵味方意識ですよね。そういうものから結局大きな統一ができなかったわけですけど。でもガンジーがいいんですけど、それも2番目に難しかった時だったんですよ。
で、彼が最後に一番最も自分が生涯で難しい敵はなかなか勝つことができない。敵は誰だったかといったら、私自身だと言って、マハトマガンジーその人自身が自分にとって一番難しい敵だったと。生涯をかけても、この自分を変えることは最も難しい作業ということだったということを晩年の自伝で書いてあってですね。
そんなすごいガンジーですら、やっぱり自分の心を見つめて自分を変えていくということは、それほど簡単なことではない、というか、それが一番難しかったと彼は率直に謙遜に語っているわけなんですよね。
だからこそ、私たちはもちろん周りに問題があったらそれを片付けなきゃならないことをしなきゃならない。当たり前ですけど。でも、自分の心をよく見つめて、それを清めて、貪欲とか執着とか嫉妬心とか、怒りとか、そういうものを置いて、神さまの方に自分の心を合わせていくということ。それが本当に生涯かけて、私たちは少しずつしていかなきゃならない。一人一人が自分でやらなきゃならないことだと思いますね。
天の国に宝を積むとかね。実際、本当に心がどういうことなのかということも難しいですけれども、でも私たちがやはり神の前に自分を置いて、本当に大事だと思えることは一体何なのか。神さまと自分の心を合わせた上で、自分がどういうところを開始して、どういうところを置いて、何を大事にしていくのか、それは本当に度々問いかけなきゃならないことじゃないかというふうに思います。
ちょっとルカの12章ですが、途中で切れているから一部の文章で切れるからあれなんですけど、この後の続きも実はすごく面白い話で、結局イエスはこうんですよ、小さな群れよ恐れるなと言ってですね、自分の持っているものを人々に分かち合いなさいということで、このお話が実は終わるんですけどね。
だから、最初は遺産相続でいくら取れるか、取れるかって話で、でも貪欲に注意しなさい。自分の心を見つめ直して、神さまとしっかり交わりを持ったら、自分の持っているものの方をむしろ分かち合う。それによってあなたは天の国に入れるというわけですよね。
遺産たくさんもらったからって天国に入れなかったにしかならないという私たちは、本当に天国に入っていくために自分に何が必要なのかということを改めて問いかけて、心の整理ですよね。身辺整理というか、やっぱり死が近づいてきたら、ものの整理する人も時々おられて素晴らしいと思いますけれども、物の整理ももちろんしたらいいと思うのですが、もっとしなきゃならないの心の整理と、本当に自分に足らないものは一体何なのか、それを残された人生でどう果たしていくことができるのか。そのような小さな積み重ねを、私たちはやはり心がけていかなきゃならないんじゃないかなと思います。
イエスが私たちの心を見ていますから、心と行い、財産がいくらあるとか、何かが仕事で成功したとか、しなかったとか、何か健康であるか、病気であるかとか、見ているポイントは実は全然違うと思います。
神様が見ている根拠に自分の心を合わせて、そして神のみ旨を少しでも小さくても、もちろん小さなことしかできないですが、果たしていけるように恵みを願いましょう。神様の恵みは、私たち一人一人に必要な分だけ与えられていますから、神の恵みをしっかり受けて、それに応えていけるようにですね、神様に改めて力をお願いしたいと思っています。
お説教のテキストは録音音声をもとに管理人が適宜編集しています。誤字脱字もあることがありますが、何卒ご容赦ください。
この話はマリアとマルタのどちらが優れているという話ではありません。神様との繋がりを第一に、あらゆる働きの中に神様を見出していけば、それが祈りとな理ます。マリアの心を持ってマルタのように自分にできることを十分に果たしていくことが大切でしょう。
今日は彦島教会でのお説教です。
38〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
今日の福音書は、このマルタとマリアの姉妹とイエス様のお話で、ルカにしか記されていないものですが、マルタとマリアは多分兄弟がラザロだったと思いますけれども、昔からの知り合いだっただろうと思われます。そしてイエスは。ベタニヤだったと思われますけれども、そこにイエス様がお泊りになった時に、マルタという人はどっちかというと主婦の鏡みたいな人で、わりといろんなことがパッパとできて、段取りとか料理とか得意だったんだと思います。でも多分、妹のマリアはあまり得意じゃなかったんじゃないかなと思いますが、イエス様の話を聞いていて、そして段々とマルタが頭にきてね、イエス様に手伝ってくれるようにマリアに言ってくださいということを言うわけですが、イエス様の答えがちょっとびっくりですけれども、普通だったら、このマリアにですね、マルタと一緒に何か一緒に働きなさいというふうに言うであろうと思われるところが、逆にマルタの方が叱られているですね。
一生懸命働いているマリアマルタのを叱って、あなた多くのことに思い悩み、心を乱している。だからマリアは良い方を選んだということを言うわけですが、多分。日本だけじゃないと思いますけど、クリスチャンの女性の信者さんに最も不人気な箇所だと思われます。
ほとんどの日本人の女性シスター合わせて働き者で真面目な人が多いから、ここでイエス様に褒められなかったら一体どうなのかというもやもやと、一生懸命頑張っているのは一体何なのかという気持ちになっちゃうところもあって、とにかく多分ここが一番女性に不人気な箇所であろうというふうに思われますけれども、ただ、私もよくよく考えて、もしこれでイエス様がマリアを叱ってマルタを褒めていたら、もっと大変なことになったんじゃないかと。
それは、ただでさえ忙しくてあれこれしなきゃならないのに、あれこれ忙しくする方がいいというふうにイエス様のお墨付きがついたら、なんて言うんですかね、休憩する意味がなくなっちゃうって言うか。教会にしても家庭にしても、どこにしてもですね。
だから逆にイエス様がマリアを褒めたことは、やっぱりよくよく考えたらやっぱりいいんじゃないかなという気がしますね。私たちがとにかく教会の信者さんも、あるいは日本人も、大体一般的にそうですけれども、真面目で働き者の人が多いですから、それはそれでいいことだと思うのですが、それ以上のことを私たちは大切にしなさいとイエス様が言っておられる。
私たちがマリアの心をどのように生きていくのかというですね、そこをやはり私たちはよく考えたらいいんじゃないかなと思います。
実際、マルタが働いていることが問題というより、結局マルタが心を乱してしまっていることが実際問題なわけですよね。
実際、これほどやっているのに評価されていない。これほどやっているのに、あの人は何で働かないの?みたいな。結局、自分自身のフラストレーションとか何かから、結局他の人を攻撃したり、そのようなことにつながってしまう。
でも、でも実際上はこれは深刻な問題ですけどね。
今日は選挙の日に当たっているわけですが、実際やはり今の日本の若い人たちが、結局自分たちは報われていないっていうか、一生懸命やっているのが評価されてない。真面目にやっているのに、何か他の世代からみたら自分たちが損しているみたいな。
やっぱりこのマルタの苛立ちというのは案外誰でも私たちが抱くことだし、でもやっぱりそこから何かいい答えが出てくるわけでもないわけですよね。逆に私たちはそのようなマルタの罠というか、頑張っているものが損しちゃうというような発想を超えて、このマリアのイエス様の前に座ってお話をちゃんと聞くという良い方を選んだ、あるいは必要なことはたった一つだというところを、私たちがいかに見失わないようにするかということ。
それは他の言葉で言ったらはっきりしていると思いますが、やっぱり神様とのつながりを私たちが一番大切に、大切にして生きていくのか、私たちがやっぱり仕事とか人の方を向くんじゃなくて、神の方を向いて、イエス様の方を向いて生きていくという、その根本的な姿勢があるかどうかということが最も大切なことじゃないかなと思います。
実際のところをマルタのようにバリバリ働ける人もいますけど、そうでないことも結局多いわけですよね。例えば障害者の人とか、それから精神障害者の人であったって、身体障害者の人であって、結局マルタのようにバリバリ働くことができない人は実はいっぱいおられますし、あるいは一人の人でも、若い頃はバリバリできたけど、結局年をとってきたら体力もなくなってくるし、気力もなくなってくるし、結局マルタを中心にすると結局できないこともいっぱいあって、つまりできるできないの世界になっちゃうんですよね。
それを超えて私たちが生きていくとしたら、やっぱりマリアのこの観想的っていうんですかね、祈りの心を大事にできるかどうかっていうことが一番一番の肝というか、一番必要なことだということは間違いないと思います。
私たちが寝たきりになろうが何になろうがですね。でもそこで一番大事なものを大切にできるかどうか、それは問われていることじゃないかなと思いますね。イエズス会の中に、この教会もいくつかの神父さんがミサに来られてとか、いろいろな方ご存知でしょうけど、イエズス会の中には神父さんだけじゃなしに、ブラザーという修道者という人が実は何人もおられるんですね。
それほど人数は多くないですけど、この辺ではあんまり働いてなかったかもしれない。山口教会なんかには昔二人ぐらいブラザーがおられたり、あちこちでブラザーという方がおられて、日本人のブラザーで私もいろいろ尊敬している方がおられて、彼の話を1度聞くことがあってですね、ある時、若い時ですけど、ものすごくアイデンティティクライシスというか、自分ブラザーとしての立場が何かグラグラしたことがあったって言うんですね。
なぜかと言ったら、やはり昔は神と手と職と言いましたけど、なるべく信徒が教会の中で活躍すべきという意見がだんだん出てきて、実際今そうなんですよね。聖体奉仕者とか集会際に、しかも信徒がやるような時代にどんどんなってきて、非常にいいことだと思うんですが、でもそうすると、ブラザーは何か自分の仕事場がなくなっちゃうというか、神父さんでもないから神父の仕事はできないけど、信徒がどんどんやっちゃったら、ブラザーとしての働く場というか、それが何かなくなっちゃったような気がして。それで非常にちょっとこの何とかクライシスというか、自分がどう生きるかよくわかなくなったということがあったというんですよね。
結局、彼はある時にふと気づいて、自分の召し出しで、ブラザーの召し出しで、いったい何が一番大事なのかということをよく考えたら、やっぱり仕事をすることじゃなくて、それはやっぱり祈りの心で生きていく祈りが一番大事だということに気づいたって言うんですよね。
それは彼の中の一つの大きな気づきだったわけですけど、実際、彼の仕事をしている彼の仕事はブラザーによって様々なんですよね。東京だったらブラザーだけど、大学で働いている人とかいろいろあるんですけど、彼の仕事はどっちかというと家の中の仕事で庭の仕事をしたり、コーヒーの世話をしたり、あるいは食事とか施設の管理とか、そういう仕事。地味な仕事をするタイプだったんですけど、でも彼はやっぱり自分の召命が祈りだったことに気づいた時に、庭の草取りする時に草を取る、その草の向こう側というか裏側に何か神様がいるっていう気持ちで草を取るような。
だから祈りっていったって、別に特別に長い間祈るだけではなくて、結局、日々の生活の一つ一つの中に神を見出して生きていく、それが自分の召し出したっていうことに気づかれたんですよね。
実際にアビラーのテレジアというカルメル会の改革カルメル会のシスターって言うんですけど、彼女も実は同じことを言っていて、「お鍋の蓋の裏に神がいる」って。
それはアビラのテレジアの言葉なんですが、でもそれはやはり今日の聖書の言葉で言ったら、マリアの心を生きていくということは、結局そういうことだと思いますね。もちろん、ちゃんとした祈りの時間をとって祈ることももちろん大事ですけど、でも、日々の生活の何気ない人との関わりや、自分の小さな仕事や、あるいは場合によっては病気とか、いろんなことがあるかもしれない。でも、その中に神を見出し、流れていく。神とのつながりを持って日々の生活を生きていく。
だから草むしり一つが尊い神の業になるわけだし、料理を作るっていうことが神様と共に働く、その恵みになるというわけですよね。
だから、イエス様が私たちに何を望んでいるのか、それがはっきりすると思いますが、もちろん、そういう能力のある人が偉大な業で大きな仕事をすることを主が喜ぶってことも確かですが、やっぱりもっとイエス様が喜ぶのは、一人一人がですね、日常の何気ない中で、イエス様と神様のつながりを持って生きていくということ、それをイエス様が一番喜ばれるということだと思いますね。
だからマルタじゃなくてマリアをイエス様は褒めておられるわけですね。私たちが日々の生活の中でごくごく一人一人は単純な生活というか、食事を作ったり、仕事をしたり、いろんな片付け物をしたり、人と接したりとかですね、小さなことですよね。
私たち一人一人が何か非常に大きなことをする方が時々はもちろんおられるけど、でもそれはそんなにも多くもないと思います。私たちが与えられている場で与えられている関わり、あるいは与えられている困難であったり、課題であったり、その一つ一つを神様と共に祈りの心で果たしていくことができること、それはやはり私達にとってできる唯一のことであるし、それが神様に対する最大のプレゼントっていうんですかね、神と共に喜べることじゃないかなあと思いますね。
私たちがマリアの心を持って、もちろんマルタも大事ですから、私たちがこのマリアの心を持って、マルタのように自分にできることを十分に果たしていけるようにですね。このマリアとマルタの両方の心を大事にして、私たちが歩んでいけるように、神様に恵みと力を願いたいと思います。
「善きサマリア人」はイエス様であるという解釈は初代教会からの有名な解釈ではありますが、同時に「善きサマリア人」になるようイエス様は私たちに命じられます。私たちは、自分が倒れる時もあります。隣人同士、善きサマリア人同士で助け合うことが大切でしょう。一見して目に見えない倒れている人に気づき、助け合っていきましょう。
初めのお話はイエズス会の堀江節郎神父さんのエピソードだね!
25〔そのとき、〕ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
今日の福音書は、有名な善きサマリアの譬え話のところです。律法の専門家がイエス様に永遠の命をするにはどうしたらいいかということを聞いて、福音書によっては、イエスが答えたりとか、いろいろするのですが、ここは律法の専門家が答える形になるのですが、神を愛する、力の限り、精神の限り、思いを尽くして主なる神を愛するということと、そして隣人を自分のように愛すると、この2つであるというわけですね。
律法の専門家は、どっちかというとイエスの教えを聞くのではなくて、論争とか神学論争をしたかったんですね。だから、隣人とは誰か、それは家族、家族だけなのか、イスラエル民族だけなのか、どこまでの範囲なのかとか、そういう神学的な議論をしたかったんでしょうけど、イエス様は全然違う観点からお話をされていて、この有名な例え話をされるわけですね。
これはユダヤ人でしょうけれども、おいはぎに襲われて道端で倒れている人を誰が助けるのか、誰が隣人になるのかということをですね、問いかけて、そしてあなたも同じようにしろということを律法の専門家に、そして私たちにもそれを命じているということだと思います。
善きサマリア人のことを思うと、実は僕が一番思い出すのは、僕が尊敬している日本人の神父さんが一人いて、長らくブラジルとか東ティモールで宣教活動をされていたんですね。皆さんもご存知の方もおられるかもしれないです。今は釜石で働いている神父さんなんですけど、その人は何か本当に何か正確というかなんというのの生き方そのものが善きサマリア人みたいな人で、一回ブラジルから日本に帰った時に、渋谷のそばの修道院に一緒に住んでいることがあって、親しくさせてもらったんですけど、ある時彼が帰ってきて、何かえらく怒っていて、何で怒っているのかと思ったら、渋谷駅に宿が行っても人がどんどん通る人がいっぱい通る道路ですけど、渋谷駅でホームレスがいたって言うんですよね。そのホームレスの人がズボンを履いてなかったと言ってですね。こんなに豊かな日本でも考えられませんとか言って、その神父さんが怒っていて、私のズボンも上げましたという。自分が履いてるズボンではなくて、旅行中だったから、持っていた彼のズボンをわざわざホームレスにあげて、それでズボンを履かせたって言うんですよね。
その話を聞いて、本当にもう善きサマリア人のな、本当にもうそこで困っている人がいたら、自分の持っているものをすぐあげて。
でも渋谷駅にはそれは1日何万人だけじゃないですよ。何10万の人が通り過ぎていて、誰も誰も何もしないでほったらかしなわけですけれど、その神父さんだけが、本当にこのこんな豊かな日本で考えられない、と言って、その人を助けているんですけど、そのような気持ちが私たちに確かにあればいいかもしれない。
結局、ついつい私たちは忙しくて困っている人がいても、見て見ぬふりをして通り過ぎることが実際多いわけです。けれども、私たちがイエス様のこの心を、心をしっかり刻んでですね、本当に周りに困っている人に少しでも手助けできる気持ちがあるならば、そういうことをされている方は本当に多いと思いますが、それが大事だと思いますね。
しかもこのお話は、実は私の洗礼式の時に、その時の神父さんが読んでくださった箇所なんですが、その時の説教が、またもちろんサマリヤ人として生きていくということではあるんですが、神父さんの説教がまたちょっとびっくりで、どう説教されたかといったらですね。
多分、追いはぎに襲われて倒れている旅人は、結局私たちだったんですよね。私たちが実際旅人で、襲われて倒れている。善きサマリア人はイエス様で、イエス様が私たちを助け起こして、この力づけてくださっているんだというんですね。それは実際、後から知ったのは、初代教会の解釈で、実は有名な解釈の一つなんですけれども、やはり私たちは、自分自身がどのようにイエス様から助けられたか、困ったり辛かった時に、イエス様自身がいつも自身というより、誰かを通してイエス様がということになるかもしれないですけれども、やっぱり励まされたり、助けられたりしたという記憶が私たちにやっぱりあるんじゃないか。それをまず大事にすることが大事で、そこから私たちは困っている人を助けることができるかもしれないというのは。
本当のところ、ホームレスは見てみれば分かるから、逆に助けやすいんですけれども、でもやはり、何て言うんですかね、心の中とか見えない中で苦しんでいる人は、おいはぎに襲われて倒れているような人は現代社会でもいっぱいおられる。で、しかもそういう人は教会に来ないですから、実際のところ、その人々にやはり神様の愛が伝わっていくようなことを私たちが心がけられるかどうか。実は大きな問いだと思いますね。
というのは、この前の都議会選があって、皆さん結果をご存じの方だと思いますけれども、いわゆる保守的な新興政党にものすごい票が集まったんですよね。とうとう日本にもトランプが現れる地盤が出てきたというか。
で、特に若者がそうですけれども、多くの若者が結局は追いはぎに襲われた、襲われて倒れている人だというふうに思っている若者が非常に多いわけですよね。つまり、自分たちこそ損をしているというんですかね、上の世代をある程度豊かなことをできたけれども、若い世代が、自分たちが損をしていて、おいはぎに襲われて倒れていると思っている人が実はいっぱいいて、そしてその保守的なグループの、それは別に日本だけが、アメリカもヨーロッパもその傾向ですけれども、結局、その追いはぎに倒されているわけですけど、追いはぎが誰かといったら、追いはぎが、外国人だって、外国人に自分たちがやられちゃっているから、だから追い出さなきゃならないというような流れが、とうとう日本の選挙の中でもはっきり表れてきて、次の参議院選挙でもその流れになるであろうという。
まあそれに対して危機感を持っている人たちが、今朝の朝日新聞の社説も分断主義はいけませんみたいな社説書いてあるんですけれども、いけませんって説教したって何にも変わらないですよ。
今の苦しんでいる若者たちが本当に大切にされて、自分たちが生きていく価値があると、この追いはぎに襲われたと思っている人々、一人一人が思わない限り、説教したって何も変わらない。そういうことをもちろん言うことは大事かもしれないですけれども、苦しんでいる人の心に全く響かないですよ。
分断主義でいけませんということを聞いて、自分たちが苦しんで追い詰められている中で、結局どうしようもない状況がどんどんどんどん今進行していて、その中で苦しんでいる人たちがいっぱいいるということの結果が選挙の結果に表れているわけだから、私たちはこれを本当にこの状況の中で私たちが本当に善きサマリア人になるというのはどういうことなのかということを問いかけないと、もう厳しい時代が待っていると思いますよね。
実際、この善きサマリア人の一言のポイントは何かと言ったら、サマリア人が助けたことなんですね。サマリア人はユダヤ人から差別されている民族なんですよ。ユダヤ人はエリート意識が強いから、隣のサマリア人は劣っている民族だと言って馬鹿にしていて、差別していた人から助けられたという話なんですね。
この話のポイントは、本当を言えば、このサマリア人を排除して、自分たち自身だけでやろうという動きが神の国をもたらすことにはならないとイエス様は実際言っているわけですね。なかなか厳しい。実際。でも、ちょっと今日はあまり来られていないですけれども、外国から来られているベトナム人が今たくさん来られて、日本の労働力不足を実は補っているわけですよね。
だから、今のところ、日本の教会もそれはそうですけれども、ベトナム人たちが善きサマリア人なんですよ、今の日本の社会に対して。でも、それを追いはぎだと言って払う動きに論理がすり替わっていくわけですよね。すり替わっているということ自身がもう実に危機的な状況だと思いますが、だからこそ私たちはやはりこの安易な差別とか、そういうものを乗り越えて、本当のところ、善きサマリア人同士でですね、連帯していける道を私たちは見つけていかなきゃならない。
だから、この教会で、多文化共生部がいろんな形で交流を持とうとしていることも大きなお恵みというか、大切なのだと思いますけれども、私たちのできることはごく小さなことですし、投票するということも、どこに投票するということも、私たちよく考えなきゃならないことでありますが、やはり倒れている人がいて、それを私たちが善きサマリア人として、自分が倒れていることもあるし、でもそれを本当に助け合っていける、そのようなこのイエス様の望み、このようにしなさいとイエス様がおっしゃっているその言葉は、やはり本当に深刻に受け止めるべき時も来ているんじゃないかと思いますね。
世の中の大きな流れはそんなに変えられないですけれども、私たち一人一人がイエス様の心をしっかり受け止めて、その善きサマリア人のような隣人愛をお互い分かち合っていけるようにですね、小さな心がけを積み重ねていきたいと思います。
イエス様は弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃいました。イエス様の力は人間の働きを通して現れます。大分教区のある教会や、昔のアメリカの婦人の善意の「恩送り」も「パンの増加の奇跡」と言えるのではないでしょうか。
お返しをするんじゃなくて、受けた恩を他の人に送ることを「恩送り」って言うよね。
11b〔そのとき、イエスは群衆に〕神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」14というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
今日の福音書はルカ59章いわゆるパンの増加の奇跡ですね。イエス様のもとには5つのパンと2匹の魚しかなかったわけですけれども、それを増やすことによって、男だけで5000人の人々が満腹するほどのパンに増えて、しかもその余りが10、パンくずが12かごぐらいのたくさんのパンが増えたという特別なイエス様の奇跡の力が発揮されたということだと思います。
私はイスラエルに行くのが好きで、イスラエル巡礼によく行くんですが、イエス様がこのパンの増加をしたところはタブハというところなんですが、そこはもう本当に素晴らしいところで。イエス様がパンを増やしたというところが御聖堂になっているんですけれども、何かそのイエス様のパワーっていうんですかね、それは今でも感じられて、そのイエス様が本当に神様の力を十分に発揮して、このようにたくさんのパンを増やしたというのは確かなことじゃないかなということを強く思いました。
今では現代的な解釈でイエス様のそういう超人的な力が働いたのではなくて、みんな本当はパンを持っていたから、実際は5000人の人が持っているものを分かち合ったから、そのようにみんなが満腹したんだというふうに解釈することもあるんですが、それはそれでちょっと無理がある解釈ではないかなあと思いますが、いずれにせよ、イエス様の特別な力が働いただけじゃなくて、弟子たちも協力をしたのも確かなわけですね。
イエスが言われた、あなた方が彼らに食べ物を与えなさいというふうに言ったわけなんですけど、でも実際パンは5つなわけですね。すべての人々のためにパンを買いに行くとしたら大変なことになるということを言ったんですけど、でも、イエス様の力と弟子たちの協力があったからこそ、多くの人は満たされたわけですね。
このイエス様の特別な力は、今も私たちの内に働いているというか、働く可能性があってですね、私たちの協力のもとに今でもそれは可能であるというふうに思います。
今の日本の教会は、全体的にはちょっと勢いがなくて、パンがあまり増加しないというか、増えない感じもあってですね、何とかどこの教会も高齢化とか、若い人が来ないとか、いろいろあるんですが、この前、この前、先週ですけど、大分教区の司教さんともともと知り合いで、ちょっと会うチャンスがあって、彼が大分教区の話をちょっと聞いていたんですけれども、やはり地方の地方の田舎の教会ほど人が集まらないということですね。日曜日のミサが10人以下、信者が集まるのは10人以下の教会が投げ込まれてるんですよね。10人も集まらない教会は何個もあるというので、ちょっとそれはそれでなかなか深刻だなという気がしましたが、でもそこのもともと一人の神父さんがいて、その神父さんが派遣された大分教区の神父さんですけれども、派遣されたところで同じように10人も集まらない教会だったんですが、その神父さんはやはり特別なカリスマ的な人だったと思うんですが、子ども食堂とかですね、実際困っている人たちは実際どこでもいるわけで、教会でも子ども食堂を始めて、子どもだけじゃなしに、今度は大人の人もやっぱり必要だということで、本当に、だから誰でも食堂だったかな、そしたら結局皆さんもそうかな、高齢者の方も家で一人で食べていることが多いから、そこで結局教会で食べましょうということで、どんどん人が教会に来るようになって、プラスひきこもりの少年を引き取ったり、何とかかんとかするようになってですね、日曜日のミサがいっぱいになったって言いますよね。
その話を聞いてえらい感激して、イエスのパンの増加と言うかですね、何にもないように見えて、でも困っている人も多いわけだから、それを私たちが恵みを分かち合おうとしたら、別ご聖体の恵みだけじゃなしに、様々な実際の食べ物や、あるいは様々な親切というか、それをするならばやはり増えていくというか。今でもですね。
もちろん神父さんはもちろん特別な人だと思いますけれども、その教会だけだと思っていました。他の教会がそうなっているわけじゃなくて、神父さんはやっぱりすごくて、結局、引きこもりの少年とか引き取っているか、何か学校関係の人とも知り合いがあるし、結局、子ども食堂があるから、社協と言って市の職員とかなのかとつながりがあって、だから電話がかかってきて、しばらく引きこもりの少年を扱ってくれないか、教会で預かってくれと電話がかかってきたりとか、何かすごい繁栄している教会があると言っておられたんですね。
もちろんいろんな教会で子ども食堂とかやっていて、ここは教会でやっていないけれども、下関のセンターの方でね、子ども食堂をやったりとか、いろいろな活動をやっていて、普通はあまりなかなか。それとミサのミサに参加するとだいたいつながらないので、ちょっと別個でだいたいやっているところが多いんですけど、でもその支援者は珍しくその両方がつながって、そのような活動とお店の礼拝等がうまい具合に融合するような、そういうものをちょっと僕も参考に聞きに行って見学に行くかなと思っているぐらいではあるんですけれども。
でも、もちろんそれはあるきっかけがあればあるわけですが、でも、イエス様が今も私たちに、ご聖体の恵みだけじゃなしに、神の愛や、あるいは具体的な助けを神様自身が今も分かち合って助けていこうとされるされようとしているのは確かだと思うんですよね。やはり人間の協力を神様はいつも必要とされていて、あなた方が彼らに食べ物を与えなさいというふうにはっきりおっしゃる。
でもそれは弟子たちだけでやるのではなくて、そこで当然イエス様の力が働くからですけれども、やっぱりそのイエス様の心と力を私たちがいただきながら、小さな形でもちろんいいと思うのですが、ちょっとでも周りの人々と分かち合っていくことができるならば、別に教会に直接その人が来ないと来ないとしてもですね、私たちの小さな関わりとつながりの中で、イエス様のパンとイエス様の愛が広がっていくように、その恵みをやっぱり自分たちだけのためにいただくのは、やっぱりちょっともったいない気が。やっぱりそれを多くの人と分かち合いながらですね、その恵みが広がっていくように、その恵みを。心から願いたいと思います。
もう一つ、ちょっと思い出したりしたんですが。昔、昔の戦後すぐのアメリカの話なんですけれども、その日本の、貧しかったけれども、戦後すぐぐらいアメリカも貧しくて、私の知り合いの信者さんが向こうに行って、アメリカ人と結婚して暮らしてたんですよね。で、やはり非常になんというか、日本もその時すごく貧しかったですけれども、何かのきっかけで隣でいる日本人と結婚したアメリカ人の男性が工場で働いて、何かプレスか何かでプレス工場で働いていて、自分の指をプレスちゃって、全部指をなくしちゃって、仕事を失った人がいて、すごく困っていたので、彼女は自分の持っていたお肉か何か、向こうは肉食だから、お肉を全部プレゼントして、彼女を隣の家に助けたんですよね。日本人だからお礼する気持ちがある。だけれども、お礼はいらないから立ち直ったら今度は別の人に助けてあげてくださいと言って、何かあった時にそれを忘れて、何年も何年も経った後に、一人の日本人の女性が訪ねてきて、何かと言ったらですね、実はあなたに助けられたんだというんですよね。
で、何のことかと思ったら、私の知り合いの女性が助けた。隣の人が立ち直って、また別の人を助けて、先生がまた別の人を助けて、また次の人を助けてということで、結局一番最後に助けられた人が、一体これはもともと誰が助けてくれたのかなと思って、どんどんどんどんどんどん話を手繰っていったら、私の知り合いの人がもともとその人を助けたところから始まって、これがぐるぐるぐるぐる回って、ああ、やっぱりパンの増加だなと。
この愛が広がっていく。それも人知れずどんどんどんどん広がっていくようなですね。やっぱりパンの増加の奇跡というのはどこでも起こりうるなということをその時も思ったんですね。
だから、いろいろな形で、やはりパンを増やして多くの人が助けられていくということはどこでも起こり得ることですけれども、やっぱり私たちが信仰と愛の心を持って具体的に分かち合いをしようとする時に、何らかの形でそれがやはり成就していくんじゃないかなと思いますね。
イエス様がいつもパンを裂いて、愛を私たちに与えてくださるように、その愛は広がっていく。いろいろな形でその広がりに私たちは恵みをいただいて、その恵みを私たちも分かち合っていけるようにですね、神様に恵みと力を願いましょう。
本当に大事にしていきたいことがあるなら、人は自分の困難も厭わずに強くなれます。本当の癒しは、最終的には困難を突き抜けて神についていく強い信仰を持つことでしょう。
私たちもパウロのように覚悟を持って歩んでいきましょう。
旅路の里の癒しのミサでした
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
今日の福音書は割と有名な箇所ですね。マタイによる福音書の右の頬を打つなら、左の頬を向けなさいという有名な、たぶん聖書の言葉で最も有名な言葉じゃないかなと思うのですが、最も有名だけれど、最も実践するのが難しいと言いますかね、右の頬を打たれてなかなか左の頬を出すというのは、そんなに簡単にできることではない。
殴られたらそうだね、この野郎と言って殴り返すというのが殴り返せなくても怒ったりするのが、あるいは少なくとも1発撃たれたら2発目は受けないように防御するというのが普通なわけですけど。でもイエス様の教えはちょっとレベルを超えてますよね。
右の頬を打たれたら左の頬も出せという。
なんでこれができるのか、どうなのかということですけれど、やはり神様を信じるというか、何かこう何かもっと大切なものがあると、こういうことができなくもないですね。
ここを読んで一番思い出すのは、フランシスコザビエルが500年ぐらい前から日本に来て、それでもって人々にキリスト教を初めて伝えたんですよね。
で、その時にそ山口だったと、僕のいる山口県のところだったと思うんですが、彼じゃなくて一緒に来たブラザーだったと思うんですよね。ブラザーフェルナンデスだったかな、何かが辻説法と言って、路上で道路に別に教会もないからそこで説教してたんですよね。
みんなが野次馬が集まってきて話を聞いてて、一人の人が馬鹿にして唾を吐いて唾を吐いたのが右の頬についてですね、彼は何事もなかったようにそれをハンカチで拭いて、そのまま説教を続けてやったんですよね。
それを見たお侍さんがこの人は本物だと。唾まで吐かれても全然怒らず、全然気にせずにですね。それで説教を続けたので、それで感動して、その一人のお侍さんが彼のところに行って洗礼を受けた。それが多分第1号だったと思うけれども。
だからこの右の頬を打たれても気にしないで生きていくっていうのは、何かこう、もっと何か自分が大事にしたいものがあって、それをこうやっていこうとする時に、実際そういうことができるっていうか。
だから何か生きていく次元がちょっと違うようなことになったら、それができるわけですよね。
他の例で言ったら、クリスチャンじゃないんですけど、インドの独立の父のガンジー。ホンマにレベル超えてて。
ガンジーが何がすごかったかと言ったら、インド全体がパキスタンを含んで、全部イギリス大英帝国の植民地だったんですよね。それで彼はそれを覆すためにどうしたかと言ったら、鉄砲、つまり武器を取って戦わないで、いわゆる非暴力を貫いて非抵抗運動をして、それで、だから本当に右の頬を打たれても左の頬を出していく。
そういう気持ちで彼の信奉者たちがみんなでデモをしたり、いろいろ抗議をしたりして、それで結局。歴史上の本当の奇跡の一つだと思いますけれど、それで独立したんですよね、植民地支配から。
だからやっぱり何かこう、本当に大事なものがあって、それをやっていこうとする時に、これができるというか、こうせざるを得なくなっちゃうところがある。
だから、私たちがどれだけ本当に何を大事にして、どのように私たちは生きようとしているのかという、この前向きの姿勢と、やっぱりそれを成し遂げたいと思う強い気持ちみたいな、それが信仰ということでもあるし、自分に与えられた使命を果たしていこうとする、そういう気持ちがある中でこそ、これが実現して実現していくんじゃないかなと思うんですよね。
だから、この第1朗読は、本当にこのコリント人への第2の手紙、パウロは結局こうだったんですよ。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓、そんなことがあっても、別にそれに仕返しをするんじゃなくて、それに対して純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって、そういうものに対して神に仕えている姿を示しているというわけですから、まあ、どれだけ神を、何か、私たちの心のおきどころと、この物事の見方、それを私たちに結局問いかけられているということですよね。
だから、小さいところでできるとかできないとかって言うんじゃなくて、自分にどこにポイントを置いて、何を大切にして生きているかということを、やっぱり結局問いかけなきゃならないんだと思うんですよね。
でも実際ね、右の頬を打たれるっていう、大体困難なことっていうのは、単発で来ることもあるけれども、ダブルで来ることも実際多いですよ。本当のところは。
何か病気になったら次々病気になったり、あるいは家族の問題を見たら、また次に何か別の問題を見て、だから右の方が打たれて、左の方まで来ることなんてしょっちゅうあるんですよね。
だから、右の方を打たれて、そんでもって、もうそれで嫌になって、それから逃げようとかって思ってると、また結局次のものにやられちゃう。
だから右を打たれた時に左の頬も打たれていいって思うぐらいの強さというのかな、何かそういうものを持って私たちが生きていくときに、むしろ道が開かれるといいますかね。
だから僕はこうやって癒しのミサでね、大体ここでやる説教は癒しのお話を意識して話していますけれど、本当の癒しは他から殴られなくなることじゃないんですよ。殴られてそれで傷でもそれでそれが癒されるようにとか何とかとかじゃなくて、殴られたっていいっていう強さを持てるかどうかなんですよね。
強い心を持っているのが一番の癒しだと思うんです。本当のところは。
2発目3発目であってもOKというか、一回ぐらい病気になったから、それでどうのこうのと。次の病気が来ようが、次が来ようが構わない、自分はイエス様に従って生きていくんだという、そういう強い気持ちでもって生きていけるか、そっちの方がよっぽど大事って常々思いますよね。
苦しいことなんか次々来るんだから、どうせ。それをいちいちそれに振り回してもそれがなくなるようにとかっていうよりは、そんな突き抜けて自分はこうだ、神様は信じて、こう行きますという、そういう何とか強さっていうのかな、人間の神から与えられる強さを持って切り開い、切り開いていこうってする、そういう前向きの気持ち。
それがあるから、右の方を打たれようが、左の頬を打たれようがなんだって、自分はイエス様の道を歩んでいくんだという、あるいは道であろうと、とにかく行くんだということなんですよね。
だからもうパウロはすごいですよね。栄誉を受けようが、辱めを受けようが、どっちでもいいと。
神に仕えていく道は変わらない。だから、人が悪評を浴びて人から非難されようが、人から褒められようが、どっちでもいいって思うわけですよね。
そう、人に、人に欺かれているようで不誠実だ。で、人に知られていないようで知られて、死にかかっているようで生きているという、この見ている世界というか、立っているところが違うわけですよね。
それを私たちが生きられるかどうか、ぐじゃぐじゃいうよりは、覚悟を決めて、イエス様に従って生きましょうっていう、それでOKでしょう、という気持ちなんですよね。そうしたら、少々小さなことは吹っ飛んでいくし、振り回されない。もういちいちああだこうだと、こっちの人からこうだったから、こうだったらこっちから働こうとフラフラぐらぐらやっていたら、いつまでたってもどこにも行かないみたいな感じだから、スパッとこう道を決めて、こんなんなんか、どうせ困難が来るのは当たり前なんだから、受け止めて歩んでいきましょうと。
イエス様はその道を歩まれたから、私たちもそれに従って歩んでいける。そういう気持ちで行きましょう。
ついつい私は弱気になったり、あるいはカーッときて、もうなんや、こんちくしょうとか、いろんな気持ちが湧いてくるけれど、まあ、そんな横において神様に従っていく。
そこを大切にしていきましょう。もちろん、くじけたり、振り回されたり、それだってもちろんしゃあないけれども、でもやっぱり心を戻して、イエス様に従ってついていきますと、どんな困難があったって行きますという、その気持ちを大事にしていきましょう。それこそが本当の癒しというか、私たちに与えられている救いだと思いますから。
神の恵みに支えられ、支えられながらですね、私たちがすっきりと前に向かって歩んでいける、その恵みを願いたいと思います。
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