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神様の「憐れみ」は、「子宮が痛む」ような気持ちなんだね
1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。
11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
今日のお話は有名な放蕩息子の譬え話なのです。今読んだ通りですが、弟の方は放蕩というか、ダメダメ息子だったわけですけれども、でも結局遠くに旅立っていったけれども、お父さんの元に戻ってきたという話ですね。逆にお兄さんの方は真面目に暮らしていたということですが、結局、息子は下の息子が帰ってきて祝宴を始めたけれど、そこには怒って参加しなかったということが描かれています。
私たちクリスチャンとして生きていくということの一番大切なところはどこにあるのかということですが、一番大切なことは、このお兄さんのように真面目に生きるというところに、私たちの生き方の一番大切なところがあるわけではないということですね。もちろん、いいかげんに生きるよりは真面目に生きた方がもちろんいいですけど、でも、私たちクリスチャンの生き方の一番根本の一番大事なところはそこにあるわけではない。
むしろ、どこにあるかといったら、この弟の立場というかですね、簡単に言えば、私たちには帰っていくところがあるということだと思います。
私たちの人生の中で、様々な失敗や苦しみや難しいことに度々遭遇することがあります。けれども、そんな時でも私たちには帰るところがあって、そこで祝宴が開かれて、私たちの帰るところというのは、やはり神様の温かさ、神の憐れみに私たちが戻っていくことができる。
私たちはその安心感の中で生きていくことができる。それが一番私たちの生き方の根本的な、根本的に大事なことではないかというふうに思います。
実際、私は神戸生まれ育ちで、今ここで働いているわけですけれども、でも、ほとんどの時はもう神戸にいなくて、神戸が故郷で、実際自分が帰れるところに年に一回か2回はだいたい両親が元気な時は帰っていたわけですけど、やはり故郷というか、帰るところがあるということは、やっぱり何か大きなお恵みというか、安心感というものがあるように思います。実際、自分の実家に帰って何をするかといったら、何にもしないですることは実は2つぐらいなんですよね。母の作った料理を食べるということと、父親と一緒に酒を飲むという、その2つの祝宴なんですよね。家に帰ってすることは、結局祝宴というか、一緒にご飯を食べてくつろぐというですね。今、だから故郷にいて、父も母親も天国なので、別にもう母親の手料理も食べないし、父親とお酒も飲まないですけど、でもやはり私たちの本当の故郷はやはり神様のもとにあるということですね。そのありがたさというか、恵みをしっかり受け止めたいというふうに思います。
実際、この放蕩息子のたとえ話、このお父さんなんですけれど、人によってはちょっと甘すぎるというか、どろどろになって帰ってきて、こんな甘やかしていいのかみたいなところもなきにしもあらずの話なのですが。いつも前から思ったことなのですが、放蕩息子のお父さんというから、何かちょっと何かぴんとこないところがあるんですが、この話は放蕩息子のお母さんにしたら、実は何の問題もない話で、もう本当に。出来の悪い息子が遠くに行って失敗して、痩せ細って、どろどろになって帰ってきたら、お母さんだったらきれいな服を着せてご馳走を食べさせるのは当たり前のことっていうかですね、そのような気持ちで神様は私たちを迎えてくださる。だから、神様の憐れみというのはお父さんの愛と考えるより、お母さんの愛と考えた方が非常にしっくりくるんじゃないかと思いますね。
実際、この言葉でも父親は息子を見つけて憐れに思い、走り寄って首を抱いた、「憐れに思う」というこの言葉が聖書のキーワードとか神様のキーワードなんですよね。
この聖書そのものはギリシャ語で書かれているから「スプランクニゾマイ」という言葉なんですけど、でも実際イエス様はギリシア語はしゃべっていないので、翻訳でヘブライ語で「ラハイーム」というんですけど、当てはまる言葉が。「ラハイーム」の語根が何かって言ったらら「レヘム」ですね。何かと言ったら子宮という意味なんですよね。だから子宮から痛むみたいな。
だから、お母さんのことが、つまり自分のお腹を痛めた息子が帰って行った、帰ってきたんだから、当然その息子に対してお腹が痛むような気持ちになって、一生懸命私の息子のために、この子のためにするような気持ちになるということなんですね。
だから、神様の心って、どう考えたって、この憐れみの心はお母さんの心ですね。それをそのまま表しているんだと思います。神様の憐れみの心がお父さんの心でもあるけれども、お母さんの心そのものだ。それがあるから私たちは安心することができる。だから、最後の最後というか、何をするかといったら、祝宴をする、ごちそうを食べると言うことですよね。だから、ごちそうを食べるというのが、さっき言った通り、お母さんの手作りのご飯て、お父さんと酒飲むって、それは神様と共にということになるわけですよね。
私たちにとって最高の手作りの食事は何かって言ったら明らかですけど、ご聖体ですよね。私たちは神様の憐れみの心に変えて、そしてやっぱりいただくご聖体をいただくわけですよね。
コロナの後は神父さんだけがお酒、お酒飲んでますが、イエス様のおん血ですけど、結局食べたり飲んだり神様と共にして、そして私たちは恵みを得て、また1週間の力を得てですね、厳しい人も、また厳しい、しんどい仕事をしたり、家族の世話をしたり、あるいは何かいろいろな日頃の困難に耐えていかなきゃならない方もおられると思いますが、私たちには本当に帰るところがあってですね、実際帰ってくることができるわけですから、そこで神様からそのお母さんとお父さんの両方の愛をしっかり受け止め、私たちが日々の生活をともに歩んでいけるように、心を合わせて祈りを捧げたいと思います。
3月25日の神のお告げの祝日の朗読箇所です
(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。
そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
そこで、天使は去って行った。
ルカの1章イエス様はマリア様がイエス様を身ごもった時のエピソードが語られているのですよね。イエス様の誕生日が12月25日ですから、9ヶ月間マリア様の中にいたということで、この3月25日がイエス様がマリア様の体に宿ったということを記念している祝日になるわけなんですけど、ナザレという小さな町でヨセフといういいなずけがいて、で、彼女はマリアという名前で14歳ぐらいだったのか、10代の前半だったと思われますけれども、昔は結婚が早かったので。
でも、天使ガブリエルが来て、急にあなたは救い主を産むことになると言ったら、マリアは非常に驚いて、どうしてそのようなことがありましょうか。私は男の人を知りませんのにと言ったわけなんですね。実際、聖霊によってマリア様はイエスを身ごもったんですよね。
だから、ヨセフ様と肉体関係はなしにということで、時々信じられないことが世の中に起こりますが、もちろん信じられないようなことではあるのですが、だいたいマリア様も信じられなかった。どうしてそのようなことがありましょうかと言うわけですよね。それを天使がマリア様といろいろ話して、それで最後にマリア様は納得して、「私は主のはしためです、御言葉通りこの身になりますように」、と、それを受け入れることによってですね、マリア様の胎にイエス様が宿って、そこから救いの歴史が始まるということになったわけですが、もちろんマリア様は人間であって神様ではないわけですから、そこに大きな戸惑いや苦しみがあったということなんですよね。
どうしてそのようなことがありましょうかということを、多分マリア様も何回もその人生の中で言わざるを得なかった。いろんなトラブルとか、赤ちゃんを産むのにわざわざベツレヘムまで行かなくちゃならなかったとか、馬小屋でですね、産まなくちゃならなかったとか、その後すぐエジプトに逃げなきゃならなかったとか、様々なトラブルがあって、どうしてそのようなことがあり得ましょうか、というふうに思うことは多分度々だったと思われますが、でもそれを言いながら、やはり祈りの中でそのことをよく思い巡らすことによって、御言葉通りこの身になるように、ということを受け入れながら歩む人生だったと思います。
結局、私たちは主に癒しを願いながらこのミサに集まっていますけれども、やはり病気をするってこともそうですよね。どうしてそんなことが自分に突然降りかかってきたのかとかですね。
そのようにやはり私たちも度々思いますけれども、でもやはりそれを祈ったり、考えたり、人と話したりしながら、でも言葉通りこの身になるようにというふうに受け止められるかどうかということが、私たちにとって一番大切なことでしょう。それは癒しにしても、苦しみから逃れていくにしてもですね、様々な困難にしろ。
今年は特に阪神淡路大震災の30周年の年なので、ちょっと神戸に住んでいますから、そのことについてみんなと話すチャンスもいろいろあって、30年前ですけど、その時の混乱の話とか、なんかいろいろいろいろ。東北の東日本大震災の14年目になるんですけれども、ずっと私、釜石で支援活動に関わっていたのですが、とうとうそのNPOも閉じることになって、この前の3.11は釜石に行って最後のお祈りを捧げてたんですけど、でもやっぱり同じように14年間の様々な苦しみというんですかね、どうしてそんなことがあって、なんで私たちは津波にあうのかとか、この家が壊されちゃったのかですね、福島でお祈りを捧げた時に、3.11の後にお祈りやってたんですけど、一人の教会の教会委員長の人がですね、僕に聞いたのか、神に聞いたのか、
「福島の人がなんでこんな苦しみを受けなきゃなんないのか」ということを、彼はもう怒りながら言っていてですね。その通りだけど、誰も答えよう答えはない。
なんで私たちがこんな苦しみを背負わなきゃならぬのか分かったら、それは受け入れることができるけど、こんな理不尽なことをなんで自分たちは受け止めなきゃなんないの?みたいな感じなわけですよね。だから、どうしてそのようなことがありましょうかって、マリアの言った言葉は、私たちみんなに共通することですよね。
病気であれ、苦しみであれ、災害であれですね、どうして、なんでこんなことになっちゃうのかということは度々私たちがつぶやくことですけれども、でもその中でマリア様と一緒にそれをどう受け入れていくかということが、やっぱり大事なことじゃないかなと思います。
そのためには何が大切かといったら、一つは聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む、やっぱり私たちに与えられている。聖霊の恵みは神の愛、聖霊の恵みが私たちにこたえる形、解決方法を示してくださる。この時のマリア様のは5分くらいの簡単なお話だったでしょうけど、5分で済むことはほとんどないというか、ほとんど神戸の震災の後30年間苦しんでますから、まだ癒えてない人いっぱいですから。でもやっぱりいくら時間がかかろうとも、でもやっぱり聖霊の恵みを受け止めながら、やっぱりそれをどのように自分の中で消化して、それを糧にしていけるかどうか。時間がかかるけれども、でもいいような何か、それが癒しのプロセスと言えるかどうかもわからないけれども、でもそれを問いかけながら、神様に。あるいは歩みながら、少しずつ答えが見つかってくることを私たちは願っているということですね。
「お言葉通りこの身になりますように」、ですけど、これはもうはっきり、マリア様の場合は神様の言葉が分かってたわけですけど、お言葉通りが分からない。何かメッセージとか何か分からないわけですよね。だからこそ、私たちは問いかけながら、その意味とか、何というか、どのようにそれを受け止めたらいいのか、自分なりに考えたり、友達と話し合ったり、あるいはやっぱり神さまからの何かメッセージは一体何なのか、みことばが私たちの助けになることもあるんじゃないかなと思いますね。
マリア様が「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」ということを一番強く思ったのは、いつかと言ったら非常にはっきりしてますけれど、途中でヨセフが旦那さんも死んじゃって、その時もショックだったでしょうけど、マリア様にとってどうしてそんなようなことが一番思ったのは、明らかに自分の息子のイエス様が十字架にかかった時だと思いますね。
人間に様々な苦しみがやっぱりありますけど、皆さんの中でもちょっと一人ぐらい経験があるかもしれないですけど、やっぱり一番やっぱり女性の苦しみの中の最大の苦しみは、我が子を失うことですね。度々起こるからあれですけど、しかも死んでいくのを目の前で見ているわけだから、この我が子がですね、その時こそマリア様はどうしてそんなことがありましょうかというふうに思ったのは間違いないと思いますけれども。
その大きな痛手を、でも彼女は逃げる事なくそばに立ち続けることによって、そしてその、それは本当に信仰の愛だと思いますけれども、イエスの十字架がかかって、みんながっかりして、これで全て終わった。なんですかね。イエス様もメシアとしてやるプロジェクトは、失敗に終わってもみんながっかり。でも、それが終わりでなくて、3日目にイエス様は復活して恵みの世界を示してくださったわけですよね。
だから、私たちが「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と思った時の最終的な答えは、最終的かどうか分からないですけど、やっぱり十字架のイエス様と共に歩んでいくというか、そのそばに身を置いて、いつかはその十字架がやはり復活の恵みに変えられていくように、マリア様と共に歩んでいくというかですね、そこに本当のいやし、本当の救いがあると思います。
十字架の苦しみを越えてこそ、復活の恵みがある。それを私たちが信じながら。だから最終的に御言葉通り好みになりますようにと言ってですね、私たちは受け入れ、乗り越えて、さらに前に向かって歩んでいくことができるんじゃないかなと思います。
マリア様のこの祈りの深さとか、信仰の強さというか、そういうものを模範にしながらですね、私たちも十字架から復活に向かっての歩みを進めていくことができるように。なかなか簡単なことでは、特に災害が大きければ大きいほど、簡単なことではないわけですけれど、それでも私たちが少しずつ十字架を受け止めて、復活の恵みに向かって歩んでいけるように恵みと力を願いましょう。
岩村昇先生の本「みんなで生きるために(復刻版)ネパールの人々に寄せるある医師の人間愛」>>
1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
今日の福音書は悔い改めの大事さと、なかなか人々が悔い改められないことをイエス様が嘆いているというところです。
一つは、ピラトの何か大変なこと。これはやはり政治的な力によって何か悪いことが起こる。それは今も起こることでしょうし、シロアムの塔が倒れたとかですね、これも何か自然現象というか、一つの事故でもそのようなことがあるのに、やはりこの悔い改める必要性が私たちにあるということをイエス様がおっしゃっています。
世の中にはいろいろですね、面白い学問があって、畑村洋太郎という人なんですけど、この人が唱えているのは失敗学というんですね。失敗学ということを唱えていて、でも彼の言うこともなかなかそうかもしれない。失敗から学ぶ人だけが成長できると。私たちは災難とか困難とか失敗とか、そういうことがあった時に、それを私たちがどう受け止めていくのかということなんですね。で、この失敗から学べる人だけが成長していく。それは会社でも。政府でもどこでも。そこから彼は失敗学を大事だということで、工場で、この人は科学者だから工場で事故があったり、一番大きな原発の事故とか、いろんなことがあった中で、それをしっかり原因究明をして、そこから改善していく。それが実際一番大事なことだということですけども、それは私たちの信仰生活や生き方についても、失敗をどう受け止めていくのかということは非常に大きな問いじゃないかなというふうに思います。
大学生の頃、もうだいぶ前ですけど、大学生の頃、まだNGOという言葉がないぐらいの頃で、海外に援助したりするのがはしりのところだって、その時にいろんな講演会とかいろんな人の話を聞いたり、よくしてたんですけど、その中で一番印象的だったのは、もう亡くなられましたけど、プロテスタントの先生で岩村昇先生という方がおられたんですね。その方はJOC(日本キリスト教海外医療協力会)といって今も活動していますけど、プロテスタント系のキリスト教の海外医療援助会という形で、一番最近で有名なのが中村哲先生ですね。彼もそのグループから派遣されていたんですが、岩村昇先生はかなり前ですけど、お医者さんで牧師先生なんですが、ネパールに、特に結核患者の治療のために日本から派遣されて20年近く向こうで活動されていたんですけど、その時のことの話でですね、その派遣されて、日本から結核ですからね、やはりレントゲンの器械とか持ってたり、いろんなそういう治療器具とか検査器具をいっぱい持ってですね、向こうで活動、活動していたというんですけど、彼の話の結論がとても衝撃、衝撃的で、そういう海外援助している人たちのは、これだけ援助したからこううまくいきました、これだけ成果があったからまた募金くださいみたいな。そういう流れで、だいたい成功談が普通なんですけど、岩村先生の話はちょっと飛び抜けててですね、ネパールで自分がそれだけかつ頑張ってやったけれども、結局日本から最新式の機器を持っていっても、結局しばらくしたら故障しても直せないとか、結局しばらくしたら日本から持っていた機器は結局全部何の役にも立たなかったっていうんですよね。
彼が最後に言ったのは、私がネパールでやった活動は全く失敗しましたっていうでして、私の失敗を糧にして、次の世代の方々はそのような失敗はしないで、本当に意味のある海外援助をしてくださいという、そういう講演だったんですけど、もうね、もう本当にその講演が大学生の時に聞いた講演の中では一番ショックを受けて、いまだにはっきり覚えてる。この先生はほんまに本物だと心から尊敬しましたけど、自分の失敗をはっきり言って、だからこういう間違いをしないで、このように次はいいことをということで、このJOCというグループは、その後も様々な海外に貢献する活動を続けておられるわけですね。
いや、あれだけ失敗をはっきり認めて、そしてそれを次に生かしてくれということなんですよね。
彼はもちろんその時はキリスト教的な話という意味じゃなくて、一般的な話をしたんですけど、それを私たちクリスチャンの言葉で言ったら、悔い改めってことなんですよ。つまり、私たちがこれができた、あれができたとかってことじゃなくて、できなかったこと、失敗したことを神様にごめんなさいとはっきり謝ってですね、神様の許しを得て、そこから私たちはその経験から何を学んで、何に気づいたのか、そこから私たちは次のステップに何をしていけばいいかということを丁寧に見ていく。だから、イエス様が悔い改めなければ滅びるって彼は断言してるんですけど、それはその通りだと思います。何にもしないままだったら、結局、私たちの霊的生活にしても、信仰生活にしても、もちろん失敗もあるし、うまくいかないこともいっぱいあると思うんですが、それをそのままほったらかしにしてたら、何の進歩もない信仰生活を結局送るだけでしょう。
悔い改めてこそ、そこから私たちが新たにスタートするからこそ、私たちの信仰はより生き生きするでしょうし、信仰が深まるとか、神様ともっと親しくなるとかということが生まれる。何もしなければ何もないままということですね。
今の日本の企業はみんなそうですよ。何もしない企業も滅びていきますから。どんどんどんどん状況が変わってですね、企業ともちろん信仰生活って別ですけど、でもどんどんどんどん変化する中で、どんどんどんどん変えていける企業だけ、しかも生き残らないのもはっきりしてるんですよね。
私たちの信仰生活も実際そうだと思います。
昔と同じようなことばかり、ただずっとやっているだけでは、やっぱり私たちが本当の生きた信仰を持っているというふうには、やっぱり言えないんじゃないかなと思いますね。
だから、私たちは失敗とか罪とか、うまくいかなかったことは私たちが成長していくための大きな恵みで、きっかけであるということですね。
そこから私たちは何を学んで、次のステップに歩んでいくかということだと思います。
私たちのメシアっていうか、あれはイエス様ですけど、イエス様は完璧で、全く何にも失敗しなかったように見えます。けれども、でもイエス様の失敗ははっきりしてるでしょう。十字架にかかって死んじゃったってことですから。人間の目で見たら大失敗の宣教活動で、メシアとして大失敗だったと思いますけど、でも、その大失敗である十字架を通してですね、復活の恵みから、信じられない、彼が生きているだけでは果たせなかった、もっと大きな恵みを私たちに与えてくださる特別なきっかけにそれがなって。
だから私たちは今でもイエス様の十字架を礼拝してるわけですね。
大失敗したものを私たちは礼拝しているわけですから、そこに私たちの信仰の基盤があるということですね。それも思い起こしましょう。
今年は聖年ということなんですけど、聖年で実は一番大事ななにかと言ったら、一番ではないですけど、あまり今は流行らないですけど、いわゆる免償ですね。
この償いが免除されるっていう話で。それでここも巡礼教会になってて、巡礼手帳を持ってくるの忘れて、ちょっとハンコ押せない。2回目チャンスはあるかどうかわからないですけど。でもそれはもともとの考えは何かと言ったら私たちは、罪を犯したら神様から赦しをいただく。赦しをいただいたら償いを果たさなきゃならない。
実際、赦しの秘蹟の償いはもう今はだいたい簡単ですぐできるような償いですけど、でも本当の償いは何かといったらですね、それはもう今言ったことです。新しい生き方を選ぶとですね、自分の罪と失敗とダメなところから新しい自分になっていく一歩を踏み出すってことが償いの一番大事なポイントですね。
だから、神父さんが許された償いをもちろん果たすことは秘跡的に大事ですけど、もっと大事なのは、そこから新しい何かを生きていこうとする気持ちがあって、自分の生活を変えていったり、そのことをすることが本当の本当の償いだと思いますね。
だから、この聖年を、だいたい25年に一回ぐらいは来るものですけれども、やっぱり一つの回心の機会、私達の生き方を見直して、新たに信仰をより深めて、より前に向かって、より愛の内に生きられる、そういうチャンスにできるようにですね、心を合わせて祈りを捧げましょう。
そして、自分自身を静かに振り返って、私たちが少しでもまた前を向いているような恵みの年になるように、共に祈りを捧げたいと思います。
三番目の誘惑が一番キツかったという説。
1〔そのとき、〕さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』
と書いてある。」
9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
10というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』
11また、
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える。』」
12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
今日の福音書はイエス様が荒野でですね、誘惑を受けられた。40日間断食をしながらというですね。この40日間にやはりちなんで私達はですね、この四旬節の間40日間祈りと節制に励み、そしてこの悪の働きを退けていく、そのようなことを心がけていこうということになっているわけです。
2番目の誘惑のときに悪魔が言うんですよね。「この国の国々の一切の権力と繁栄を与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができる」って書いてあるんですけど、結局この世の中のですね、いろんなことは全て悪霊の支配下にあるということで、お金が儲かったり、地位がですね、高まったりとか、権力を持ったり、それは全て悪霊が与えたい人に与えてるというふうに書いてあるんですけど、ある意味ちょっと恐ろしいことではあるけれども、実際そうかもしれないという気はしますが、でも私達は悪霊の支配下の中の社会の中に生きているので、私達はその中に巻き込まれてしまうことも多々あるので、間違いないですね。
でも私達はそういう中にあるからこそ、やはりときには自分の心を荒野に戻すっていうんですかね。何か囚われからちょっと離れたところに自分を置いて自分を見つめ直す。そして自分がどう振りまわされてるかをしっかりですね、見極めるときが必要だと思う。
だからこのような40日間ずっとというわけではいかないかもしれないですけど、祈りを深めたり、節制をしたり、自分の生活を整えることによって、何に自分が振り回されてるかということそれに気づいていく恵みのときが与えられてるというふうに言えるのではないかというふうに思います。
この今はちょうどちょっと前から始まってますが受験シーズンなので、受験のことをいろいろ考えたりするんですが、そのときにいつも思い出す1人のお母さん、信者のお母さんですが、息子がいて中学生ぐらいかなんかのときに何かお医者さんになりたいって言い出したんですよね。別に医者の家系でも何でもないですし、やっぱり医者になろうと思ったら、よっぽど頭がいいか、よっぽど家がお金持ちでないとなれない。有名な国立大学に行くには、相当頭が良くないと駄目だしそれが駄目だったら、やっぱり私立大学でも相当入学金等が高いんですよ。
その家は全くそんなのは関係ない庶民のうちで、慎ましく生活してて、公立行ってて、別に勉強も優秀なわけでもなかったんで驚いたけど、結局ご両親も、少なくとも塾に行くぐらいのお金ぐらい稼がなきゃならん、一生懸命場合、バイトしてですね、子供の夢がかなうように祈りの中でもですね、この息子の夢が叶うように一生懸命お祈りしていて、高3になって現役で受けたときはもう駄目だって一浪して、やはりその受けられる学校も決まってるんですよね、割となんていうお金がかからなくてそれほど偏差値の高くない学校は大体決まってですね、何校かそれを受けて、浪人でも受けても結局通らない。ここを受けても通らない、ここを受けても通らない、で結局最後の最後の一つを受けて、合格発表の前の日それはもうお母さんも必死でその息子のためにお祈りしていて、もう何年も何年もですね、ちょっと息子のためにひたすらお祈りしたけれども、結局考えたら、それは何か神様の御望みなのかどうなのか聞いたことが一度もない。息子の望みでもあるし、親の望みなんだから、ずっとお祈りしてきたけど、ふと立ち止まってやっぱなんかそれをもしかしたら間違ってるかもしれないっていうふうに思ってですね、そこで祈り方を変えて、初めて神のみ旨にかないますよというお祈りを初めてしたと言ってました。それまでずっと合格するように合格するようにと、結局その最後の最後に神の旨になりますようにとお祈りした翌日の合格発表で合格通知が出た。「ものすごく霊的な体験でした、というですね。それで終わりかと言ったらそのあとまたいろいろあって結局息子は医者にならない方がいいんじゃないかとかでも、いろいろ言ったり、いろいろなことがあってですね。だから本当に何がみ旨かわからないですけど、でも私達が最終的にできる祈りはそうかもしれない。
結局自分の望みにしても、それは家族の望みにしてももしかしたらそれは神の望みじゃなくて、この悪霊のですね、悪霊の方向性の望みである可能性がないとも限らない。つまり私達は自分の望みを叶えようとすることももちろん悪いわけじゃないですけど、でもそれ以上に、神のみ旨は何なのかをよく聞いて、それを果たしていこうとする謙虚さというかですね。この信仰の心がやっぱり必要でしょう。その方は息子さんが合格したけど、たとえそこで合格しなかったとしても、他の道に行ったとしても、やっぱりそれはお母さんとしては神のみ旨がやっぱり実践される、行われていくわけだから、それどっちになったとしても、やっぱり彼女はそれを受け入れて、その先に進んでいく。息子さんも、違う道を選んだら違う道で道を進んでいけたんじゃないかなとですね。私達がいかに神のみ旨を果たしていこうとするか。
いろいろな社会の中にいたらいろんな情報に流されたり、こっちがいいんじゃないかとみんながやってるからこっちがいいんじゃないかとか、ついつい考えたり、自分の安全とか保身とか世間体とかいろんなことを考えてしまいますけどやっぱり本当に何が神のみ旨なのかを私達は問いかけながら歩んでいくことができたらいいんじゃないかなと思いますね。
三つの誘惑がありますが、イエス様にとっての最大の誘惑は何なのかって言ったら実は3番目だと思うんですね。神殿の屋根から飛び降りてパフォーマンスする。飛び降りて、ちょっとどういうことを考えたのか、空中浮揚が何かわからんけど、飛び降りても死なないってこと、空中でなんていうのかな、きっと止まるとかなんか、そういうパフォーマンスを三つ目の誘惑で描かれてますけどこれは僕はイエス様にとって誘惑だったらだろうなって実はすごく思うんですね。
そういう形でメシア宣言したら、ユダヤ教の神殿ですしね。一番そこでパフォーマンスするのに一番素晴らしいところで自分がメシアであるってことと、自分が神であるってことを何とか自己アピールするには最高のステージになりうるんじゃないかっていう。そういうふうにしてからイエス様が宣教活動する方がよっぽど盛り上がったんじゃないかなっていう。多分ね今の新宗教の教祖だったらそうすると思いますね。そういう、ちょっと何か、漁師捕まえてきてチョロチョロ走るよりは、何かバーンと洗礼の時代ですからね。SNSで今だったらばあっとみんなに撮ってもらって拡散したっていう感じです。
実際イエス様はこのパフォーマンスできたかできなかったかといったら、できたんですよ。
ご存知の通り、イエス様は海の上歩いたので、できるんです。空中浮揚もことは。ちょっと常人離れしたことですけど、でもそれをしたのは12人の弟子だけ、誰にも自己アピールするとかパフォーマンスじゃなくて、しかもこの夜のガリラヤ湖が嵐で、船が上手く進まない。そんな状況の中でたった12の弟子たちだけにひっそりと自分の本当の力を示されてるわけですね。
だから誘惑なんですよ。これやろうと思ったらできたんです。でも、それをそういうことは神のみ旨でないと。多分サタンの力が働いたらそっちを選んだと思います。イエス様でもそれを選ばないでどうしたかって言ったら、十字架の道に向かう。本当の謙遜の道をメシアとして彼は選んだんですから、やっぱりね、特別な選択っていうか、やっぱ特別な誘惑をイエス様は受けたと思います。
私達は凡人ですから、そんなね、なんかもうちょっとレベルの低い誘惑しかないですけど、でもやはり一人ひとりに神のみ旨が示される。多くのことは謙遜な仕方で、しかも神とともに歩む喜びもある。心の平安もある。そのようなことを、苦しみもありますけれども、大体は。そのみ旨を私達は果たしていくように呼ばれていますね。それをやはりこの四旬節に心がけていきたいと思います。
今日は洗礼志願式がありますから、この40日間というのは洗礼志願者の特別な準備の時期でもありますね。どういう準備かというと、悪霊と手を切る準備。悪霊と手を切ってイエス様に従っていくっていう準備ですから。神のみ旨に沿った生き方を私達ができるようにね、洗礼志願者とともにできるように、恵みと力を願いましょう。
美点に気づくというのは嬉しいな
39〔そのとき、イエスは弟子たちに〕たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
43「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。44木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。45善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
今日も福音書ルカの6章ですか、イエス様の平地のですね、説教の一部分が朗読されました。盲人が盲人の道案内をすることができるだろうかと。目がですね、よく見えない者同士が2人で歩いていってもそれが上手くいかないでしょうというわけですね。
ここではその比喩で言ってるんだと思いますが、兄弟の目にあるおがくずが見えるのになぜ自分の目の中の丸太に気付かないのかという。
おがくずってね木を使って何かしたら出る粉クズようなもんですからそういう小さなものはもちろん相手の目を見てるからよく見えるわけですが、でもですね、自分の目の中に丸太があるっていうんですかね。1mか2mか、そんなでかい目に入ってたらば、大変ではありますけれど、でも逆に大きすぎてわかんないなっていうか、そういうものなんですね。
目っていってるけど自分の心というふうにもいいと思うんですがなかなか人間は難しい人のおがくずが見えるのに自分の丸太が全く見えないという。なかなかでも結局私達は、やはり相手のおがくずを見るならばそこから逆に自分の丸太を見つめるチャンスが与えられてるというふうにも言えるんじゃないかというふうに思いました。結局自分の中にあるから相手もそれが気になるっていうんすかね、全く自分の中になければ、相手のそういうおがくずに気にならないかもしれない。結局自分の中の何かと反応してるから、やはり気になったり、それを取りたいとかですね、いう気持ちになるんじゃないかなと思いますね。
だからおがくずを通して自分自身を見つめるチャンスにすることができたらいいのかもしれない。
昔イエズス会の先輩で神学生が住んでいる神学院っていうですね。建物の院長をやってたチームさんおられて、いわゆる養成の責任者みたいな大事なポストの仕事ですけど叙階前に司祭叙階の前ですね、司祭叙階をしていいかどうかって言ってですね、ラテン語でインフォルマチオンっていうんすけど、なんていうか、4人の神父さんとか他の仲間の神学生にこの人を司祭にしていいかどうかっていう、その手紙っていうか、文書を求めるんですよね。その4人のその文書を見て、最終的に管区長とか責任者が決めるというですね、そういう習慣があって。入会のときもそうだし、誓願だとか、何回もそうなんですけど。私の知り合いの神父さんが院長のときにですね、このインフォルマチオンを取って、この神学生を神父にしていいかどうかっていう。4人の神父さんか神学生まで混ざっていたかもしれないけど、4人の人からの、その情報を、評価をですね、集めて、仮にですねこのAという神学生についてBCDFのこの4の人から評価を集めて。神父さん言ってましたけどBCDFのこの評価を読んで、彼がびっくりしたのは何かっていうと、みんな他人について書いてるわけですよね、この人の欠点とかいいところとか何とかいろいろあって、そこの人は司祭にふさわしくないとか、ふさわしいとかが書いてあるんですけど、院長先生が読んでびっくりしたのは何かって言ったら、みんな自分のことを書いている。やはり他の人について書いてるはずなんだけどBも自分のこと、Cの人も他の人のことを書いてるんだけど、やっぱりCの自分自身のことを書いてる。だからその4つとも自分のことを書いてるっていうんで、その院長の神父さんが驚いてましたけど。
だからいかに私達は自分の目で見て自分のことを喋ってるか、相手のことを言いながらね、だからこそ私達は相手の目の中にあるおがくずは自分の中の丸太の一つのしるしだったんですよね。
だから私達は、他の人がいわば自分の鏡のようなものであって、そこから自分自身の生き方を振り返ったり、自分の問題点というかですね、どういうところが本当にあれなのかっていうことをしっかり見つめるやっぱりそれはすごく大事なことじゃないかなというふうに思います。それで丸太が取れて、やっと盲人が盲人の道案内にならないで、少しは物が見えるから、誰かとともに歩んでこういうことができるということですね。
でもそれは悪いことばっかりじゃなくていいことも同じなんですよ。ある人を見て、この人は何か素晴らしいところがあるなと思ったら、それは自分の中にもあるからですね。だから自分中にあるからこそ、ある人の良さもわかる。だから私達は、人を通してその人の良さを見ることも大事だし、その人を通して自分の良さにもやっぱり気づいて、それを伸ばしていくっていうですね。特に若い人は。
若い人だけじゃない、何歳になっても自分の良さが隠れてることもよくある。実際のところは、本当は持っているんだけど、その良さが出てない。けれども誰かを見てこの人が素晴らしいな、とか尊敬できるなと思ったときにそれを通して、自分の中にある良いところを育てられる、伸ばすことができるかどうか、結局私達は自分を見つめて、自分を育てていくっていうか、成長させていく気持ちは非常に大事なんじゃないかなというふうに思います。
昔の映画「ラマンチャの男」ってのがあったんですよね。かなり前ですけど。ドン・キホーテモデルで、ドン・キホーテはご存知の通り、も世の中が近代化されてんのに自分だけ中世の世の中に生きていると思ってですね、かなり大きい勘違いで、ある意味コメディでもあるし、皮肉でもある。それをちょっと土台とするもので。ある一つのシーンが一番ちょっとなんか心に残っていて。夜ですけど1人で酒場に行って、非常にですね、何か品の悪い女性がいて、来てる男たちも品が良くないからもうものすごい最低最悪みたいな悪口言ったり大酒飲んだり、下品で、言葉遣いも下品だし、そういうどうしようもない酒場で働いてる女性がいてですね。その酒場にドン・キホーテが入ってきて、ドン・キホーテがですね、その酒場が宮廷だと勘違いして高貴な人の集まりの宮廷だと勘違いして、そのものすごい下品な女性をあのお后様か何かと間違って、レディとしてですね、うやうやしくその女性に仕えて、礼儀正しくするんですよね。そんなこと彼女経験したことは一度もないから、あまり誤解されてるんだけど、そのように扱ってくるとだんだん彼女も嬉しくなっていって、言葉遣いとかなんかだんだん綺麗になってきてですね、なんかそれなりの女性にこうなっていくって一つのシーンなんですけどね。そのような場面もちょっとあってですね。
やっぱり人間の良さって眠ってること多いっていうか、実際のところは何かのきっかけで、やっぱり自分の良さがぱっと出てくることはやっぱりあるわけですよねそ。れが出てくる機会がなかってそうなだけで、実際はいろんなもの、いいものを持っている。悪いものも持ってますけど、両方ともありますから、悪いものをしっかり意識して、少なくともそれに振り回されないようにしながら、それにとらわれないようにしながら、回心しながら、そして自分の中にあるいいものを育てていこうとするならば、それは盲人が盲人の道案内にならずに、少しは目が開かれて、他の人とともに歩んでいける一つのきっかけが私達も与えられると思うんですね。
弟子は師に勝るものではないが、誰でも十分に修行を積めば、その師のようになれる。修行を積むって書いてありますから、どういう修行かって言ったら今のことですよね。自分の悪いところをしっかり受け止めて、それを乗り越えたり振り回されないようにあるいはそれを変えていこうとする、そして自分の中にあるいいものを育てようとしているならば、私達も師のようになる。師ってイエス様だと思いますけど、もしかしたらちょっと凄すぎてもちろんあれですが。
でも私達が少しでもこの1週間ですね。何か一つでも成長することができるならば、イエス様も喜んでくださるでしょう。そのイエス様を師として仲間とともに歩んでいけるように、恵みを願いたいと思います。
1:ヨハネによる福音書/ 09章 01節
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
2:ヨハネによる福音書/ 09章 02節
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3:ヨハネによる福音書/ 09章 03節
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
4:ヨハネによる福音書/ 09章 04節
わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
5:ヨハネによる福音書/ 09章 05節
わたしは、世にいる間、世の光である。」
6:ヨハネによる福音書/ 09章 06節
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7:ヨハネによる福音書/ 09章 07節
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8:ヨハネによる福音書/ 09章 08節
近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:ヨハネによる福音書/ 09章 09節
「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
10:ヨハネによる福音書/ 09章 10節
そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
11:ヨハネによる福音書/ 09章 11節
彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12:ヨハネによる福音書/ 09章 12節
人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
13:ヨハネによる福音書/ 09章 13節
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
14:ヨハネによる福音書/ 09章 14節
イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
15:ヨハネによる福音書/ 09章 15節
そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
今朗読したのはヨハネの9章のですね、生まれつき目の見えないこの盲人をイエス様が癒される、目が見えるようになったというお話なんですが、非常に印象的なお話だというふうに思います。盲人がいてですね、弟子たちが何気なくか、深く考えてか尋ねたんですね。「ラビ」って先生という意味ですけどね、「先生、この人が生まれつき目が見えないのが見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」っていうふうに尋ねるわけですね。私達が病気だけじゃないですけど、いろんなですね欠点とか問題があったときに、やっぱりいろいろ考えるわけで、やっぱり原因は何なのかっていうふうに考えるのが、実際は普通のことではあると思いますよね。
特にこの両親が罪を犯したからって言うんですけど、でもやっぱりよくよく考えたら、やはり親の影響とか家庭の影響が大きいですからね。だから目が見えるか見えないかはあれだけど、性格的なこととか、いろんな問題はやはりどういう親に育ったかっていうのは、案外決定的かなっていうのは強く思ったりすることでありますよね。
今日の第1朗読がこれまた気分の重い話なんですけどアダムとエヴァが人類の最初だったんですよね。アダムとエヴァが結局、神様がするなっていう、食べたら駄目っていう善悪を知る木の実から食べちゃって、それで罪を犯したから神様に怒られて、エデンの園から追い出されたわけですよね。最初の人類がそうやって罪を犯して二人から生まれた2番目の人間が、カインとアベルだったんですけど、そのカインとアベルが兄弟喧嘩っていうか、兄弟ってなかなかまだ難しいところがあるから、結局これはめちゃめちゃですけど、何とカインがアベルを殺しちゃうっていう。兄弟殺しをするってですね、2番目の人類が兄弟殺してるんだから、どんだけかって、何か実際はやっぱ思いますよね。
結局カトリックはカトリックは、一応プロテスタントもそうだと思うんすけど原罪っていう、人間生まれてるときから罪があると言ってるわけですからね。なんで罪があるかって言ったら祖先が罪を犯したから、私達はもう罪の傾向があるっていうふうに、それは別の教えではそう言ってるわけですから、だからもうあんまりねやっぱなんか楽観的に物事をやっぱ考えられない。
だから私達が親の影響を受けるのは、マイナスのプラスのこともありあるけど、マイナスの影響を受けるのもしゃあないかなっていうかですね。どういうどういう親に育てられたとか、どういう家庭で育ったとか、それはやっぱ大きな影響がやっぱないとはちょっとやっぱり言い切れない、とはやっぱ思いますし、場合によってはなんで自分がこんなに苦しいのかっていうように言うときは、カウンセリングとかね受けてねそれで自分の子供時代をちゃんと振り返ってどうだったかっていうことも、やっぱりプラスにはやっぱなると思いますね。
しかも、弟子たちはですね、両親が罪を犯したからですか。本人が罪を犯したからですか。本人の可能性もあるでしょう。やっぱりそれは病気になるのはそれは酒飲みすぎてアル中になるわけで、酒飲みすぎたら本人のせいですから。でもなんで酒飲みするかって言ったらそれはまた別の原因があるから飲まざるを得なかったとかですね。やっぱり罪の繋がりっていうか連鎖っていうか、なかなかアダムといえばカインとアベルからも延々と人間が罪を犯してきて、悪い影響を何らか受けてるっていうのは、何か論理的にどうかもちょっとわかんないっすよ、論理的に考えたらアダムとエヴァの次はなんで私達がなきゃならないのかって言ったら、論理的には難しいですけど、でもなんか実感というんですかね、やっぱ何かあるんじゃないかって、やっぱり思うところもあるし、そういうことをちゃんと何か原因をしっかり見つめ直した方がいいようなところもなきにしもあらずですけど、でもイエス様はその問いに答えないですよね。
答えないでこういうわけですよね。本人が罪を犯したからでも両親が罪を犯したからでもないと。神の業がこの人に現れるためだというですね、全然違う角度で病気とか、人間の性格的な欠点とか問題とかを、違う角度からやっぱり見られるということですよね。
これも僕は非常に大事なことで、結局、だから親がこうだったから自分がこうだって言ったら、なんか抜け道がないっていうか、誰が悪いんだったらもう、こんな自分に育てた親が悪いっていうことで、先がやっぱりなくなっちゃうけど、でもイエス様が神の業がその人に現れるためだ、というふうに未来に向けてそこからですね、神様の業の力が働いてくる、そういう視点でイエス様やっぱり見ててあんまりイエス様は過去のことがどうのこうのとか、あんまりおっしゃらないですよね。しかもあんまり運命論じゃない、こうだからこうなっちゃったってこともあんまりおっしゃらないし、結局やっぱり今の自分、そして今何かね多かれ少なかれ、何の問題もないってことはないでしょうから、でもそれを受け止めながら、この未来に向かってイエス様とともに神の業、そこから良いものがですね、どう出てくるのかっていうそういうやっぱ前向きな気持ちっていうかなそれで行くのがやっぱりイエス様のものの見方っていうか、私達はやっぱそのようにしていくっていうことの大事さはやはりあるというふうに思いますね。
今日は日中は教会で葬儀やってたんですけど、割と有名な眼科医のお医者さんでそれでちょっとそれでちょっと今日ここの箇所読んだんですけど、やっぱねもうかなりおじいちゃん亡くなったけど若い頃の話を聞いたら、やっぱり前向きなんですよね。
目の治療だって、今の治療が急にできたわけじゃなくて、やっぱり当時はいろいろあって、網膜剥離とか白内障とか、まだまだ治療方法がなかったんですよね。若い頃に外国でとか日本でとか、最新の治療、技術を取り入れて、少しずつそういう何て言うんすかね技術もちょっとずつ発展していって、昔治らなかった病気が治るようになった。だから逆に日本の他の病院で治らない目の病気がその病院だけで治ったんですよ。その当時はですね。だから非常に著名な有名なお医者さんになったんですけど、でもそれはやっぱり何でそこで治ったかと言ったら、最新の技術を取り入れたからですよね。他の病院は取り入れてなかったから、他の病院で治せない病気が神戸の病院だけでは治せたっていうですね。だけどそのためにはある治療の機会を買わなきゃならない。最新式のでも病院が買ってくれないからなんと本人が買ったって言うんですよね。どれぐらい値段かといったらフェラーリ1台分の値段。外国のあのスポーツカーか何か買うぐらいの値段だったっていうんですから。でも結局それを自分で買ったって。大したもんだけど結局ローンを払い続けたって言ってましたけど。でもやっぱりね、結局前向きに行くかどうかですよね。もちろんね全部が成功するわけじゃなくて、試行錯誤でしょうけど、でもやっぱり私達が何か問題を解決しようとか、癒しの恵みとかですね、あるいは赦しにしても、今の困難を乗り越えていこうとするなら、やっぱりいろいろ工夫していくっていうことがやっぱりどれだけ大事かっていうことですよね。
イエス様はですね、ちょっと現代から言ったら考えられないけど、どういうふうにして癒したかって言ったらイエスは地面に唾をして、唾で泥をこねてその人の目に塗ったっていうんですけど、今のお医者さんがそんな治療したら大変でしょう、泥を塗ったりしたら、もうそれだけで訴えられるみたいな。でもそのときのわかんない聖書学者がいろいろ言ってて、唾には何か何か殺菌作用があるとか、泥の中にはどうのこうのとか本当かどうかわかんないけど、でも結局やっぱりなんか、いろんな工夫してですね今は今まで泥なんか塗らないですね。塗った泥を木津川で洗ってこいとか何とかそんなことありえないけどでも今は今でまた違う形で癒しの方法とか道とかそれはやっぱりあるでしょう。それはね、その人を急に泥塗られてちょっとびっくりしたでしょうけど、でも今は今なりの方法があって、その人なりの癒しの道を主が示してくださるわけですから、私達はやっぱり前向きに前を向いて、やはりこのイエス様の業に協力していく。
病気だったら、やっぱり何か栄養にいいもの食べようとか、薬をちゃんと飲もうとか、あるいはやっぱなんかちょっとね、できる範囲でリハビリでやっぱ足腰を鍛えようとか病気によって違いますけど、そういう工夫の積み重ねの中で、やっぱり癒しの業っていうのはやっぱ起きてくると思いますね。あとはなんかやっぱ前向きに、やっぱり困難を越えていこうってする、自分はやらないといけないことがあるからっていうなんか前向きな気持ちもすごく大事だと思いますけどそのような中で、私達に癒しの力が働くし、勇気っていうんですかね。何か前に向いていく希望の力もやっぱり主が与えてくださると思うんですよね。そういう中で私達がこの神の業に向かって歩んでいける、そういうことをちょっと大事にしていくことができたらいいんではないかなと思います。
実際、ちょっともう読まないですけどこの話が長くて、その後えらいずっと話があって、目が見えるようななったことに対してもファリサイ派とかユダヤ人が怒ってて、そのどうのこうのって、この人実は迫害されてる。この後、結果会堂から追い出されちゃうっていうなんか、実はそれほど楽なあれじゃないんですよね。ここが実は始まりで結局街道で追い出されてそれで初めてイエス様に、この人は本当の意味でメシアのイエス様に出会うんですよね。
だから、癒しのプロセスがあって、後ろでこう書いてあるんですね。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、あなたは人の子信じるかと言われた。彼は答えていったしその方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが、イエスは言われた。あなたはもうその人を見ているあなたを話してるのはその人だ自分自身がそうだ。彼は、彼が主を信じますと言ってひざまずくとイエスは言われた。私がこの世に来たのは裁くためである。こうして見えないものが見えるようになり、見えるものは見えないようになる、っていうふうに言うんですけどね。信仰の目が開かれるって話に結局繋がっていくんですけれどもね。
私達も様々な癒しのあるいは救いのレベルというのかがありますから、しっかりそれを受け止めながら、やはり何て言うんすかね、一つの試練が来ても、それを一つ乗り越えながら、神さまが示そうとされている、そこに私達がまた歩んでいけるようにですね、その恵みと力を願いたいと思います。
確かに言われてみると、そうだにゃあ
27〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
イエス様今日の福音書はルカの6章イエス様の平地での説教ですね、の中の一部分が朗読されました。やはりイエス様の考えは、やっぱりここが一番大事だと思うんですけども、あなたがたの父が憐れみ深いようにあなた方も憐れみ深くなりなさい、と。あなたがたの父、神様が憐れみ深い、その憐れみの深さを私達はそれをどれほど自分自身がしっかり受け止め、そしてだからこそ、私達も人々に憐れみ深い者になれるか、ということですね。
神の憐れみ深さを私の場合は結局よくよく考えたら、自分の父親と母親2人とも長峰の墓地に眠ってますけど、やはり自分の故郷にいるせいか、子供のときのことをよく思い出しますけれども、子供のときにもいろいろ問題というかですね、家族の中でいろいろもちろんあったんですが、それでも父親も母親も私のことを愛してくれていたとかですね大切にしてくれていたっていうやっぱりそれがなんか一番の自分にとっての宝じゃないかなというふうに思ったりします。父親と母親を通して神様の憐れみ深さ、神の愛の心を、やっぱり私の場合はですね、強く感じるのは確かです。人によってそれは感じ方が違うでしょうけど、神の愛をやはり私達がしっかり受け止めていくというか、それをいつもしっかりいただいてるというかですねそういう気持ちが大事なんじゃないかというふうに思います。
やはり昔からですけども、ちょっと心に悩みを抱えてる方からの相談を受けることが多くて、実際今は夜は留守電になってて、あんまり夜のではないんですけど、神学生の頃は受付があったから、夜も電話があってですね、そういう何か悩んでる方が男性にしろ女性ににしろよく私のところに電話して、特に神学生で暇だったから余計にそういう電話よく聞いてたんですけど1人の人が週に二、三回は夜電話してきた。ひどい人はもう朝昼晩3回電話してくる人いろいろいましたけど。その人は1週に一、二回ぐらい、多くて3回ぐらい電話でしたけど一番最後に必ず私に聞くことがあったんですよね。その20代の若い人ですけど一番最後に聞くのは、私のことが大切かと。私のことが大切ですかと私に聞くわけですよね。僕は、神さまの気持ちになって大切です、と答えてたんですけどね。でも必ず最後にそれを聞かないとだから、その人の問題は自分が大切だ、大切な存在だったことが認められないんでね。そこがグラグラしてるから悩みがいっぱいなんですけど、だから大切かっていつも聞くんで、僕はいつも大切な存在だって、大切だよっていうふうに2、3年ぐらいからちょっと言い続けてたんですけど、まあ、だんだんと減っていったから、あれなんですけど。
でも大切っていう、その人はいつも大切かって聞いてたんですけど大切であるってなかなか漢字が大体変わってて、大きく切るって書くんですよね。何で切るのかっていう語源はいろいろ調べてもあれなんですけど、やっぱ大切はやっぱりね、神様の大きな愛は、多分切ることだと。
で、切って、それを分かち合うっていうんですかね。だからやっぱり大切っていうのは、切るが入ってんのかなっていう。キリシタン時代はですね、カリタス、愛という言葉を、どのような訳にするか、実はもめたんですが、愛という言葉に置き換えられなかった。愛と言ったら欲望みたいな、仏教用語ではそういう言葉だったんで置き換えられなかった。なんて訳したかって言ったら、よくよく当時の人は考えて「ご大切」と訳してですね。「大切」と訳したんです。
神の愛のことだからそれは今でもやっぱり自分が神様から大切にされてるってどこでこう思えるか。自分自身がですね、でもそれは神様だけじゃなしに、場合によっては父親母親、場合によっては家族から場合によっては友人から、場合によっては神父さんとかシスターから自分が大切にされてるっていう、それをどこかで思えることがやっぱり大事なんじゃないか。
そして、やっぱり自分が大切だと思えるからこそ、大きく切った神の恵みをまた別の人にわかちあうことができる。これがね、不思議で日本語ってそういうことが多くて、心を砕くとか、時間を割くとか、切るとか、砕くとか、割くとか、みんなどっちかというと悪い言葉ですけど、でも時間を割いて、その人のために使うわけですよ。だから割かないと誰かのために時間使えない。自分のために使うんじゃなくて。心を砕く、
やっぱり誰か傷んでる人や悲しんでる人がいたら自分の心を砕かないと、その人と痛みが共有できないわけですよね。だから砕いたり割いたり、切ったりする中に、やっぱり愛の本質があるし、やっぱり、どこかですね、今日の敵を愛しなさいとかですね、何もあてにしないで貸しなさいとか、いろいろ悪い悪口を言う者に祝福を祈りなさいとか、いろいろやっぱりね、これは本当に切ったり割いたりしないとできないんですよ。ただ好いてくれる人を、ただね、仲良しこよしの話じゃないことをイエス様言ってるとしたら、どっかで私達は心を砕いたり、大きなものを切って、それを分かち合うような気持ちがないと、やっぱりマザーテレサの言う、「愛は痛みを伴う」ということですよね。
だからやっぱり大切って言葉の中に切るって言葉が入ってるってことはどっかやっぱり切らなきゃならないですよね。なんか、なんか安全地帯に自分を置いて自分を守ってそれでjやなくて、その自分をどっかで切ったり、砕いたりして、分かち合ったときに、神さまの憐れみ深さ、神様の本当の大切な心が他の人に分かち合える。神様は憐れみ深いっていうけど、結局、具体的には誰かを通さない限り、神の憐れみ深さはわかんない。
神様は抽象的で、だから家族だったり友人だったりシスター、神父さん、誰かそういう人を通してこそ、やっぱり神様の大切っていうことがわかるわけですから、私達が神様の大切さを、自分がよくわかりながらそれを何らかの形で周りの人に分かち合っていけるようにですね、そこにこそ神様の本当のみ旨というか、願えればと思います。
私達が自分自身が大切な存在だったことをしっかり受け止めながら、周りの人を大切にしていけるようにですね、神様に恵みと力を願いましょう。
韓国でも召し出しが減っているとは知らなかったにゃ
17〔そのとき、イエスは十二人〕と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から〔来ていた。〕
20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
21今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
今日の福音書はルカの福音書6章ですね。平地の説教と呼ばれるところです。マタイでは山上の説教とみんなで山に登って説教したんですけど、ルカの方はイエス様が山から下りてきて、それでもって平らなところでですね、人々に説教をしたというところですが、やはり非常にちょっとびっくりするような言葉から始まってますね。
貧しい人々は幸いである。ということと、富んでいるあなた方を不幸だということからですね。どう見てもちょっとひっくり返ってるようには見えますけれども私達はやっぱり貧しい人々よりも富んでいるいる人が幸せだと考えてるわけですけどでもイエス様の考えでは、それがひっくり返ってるというですね、これは本当に考えさせられるようなことだというふうに思います。確かに泣いている人々は幸いだと、あなた方は笑うようになる。
確かに一時的に泣いても笑うようにですねなることもあるでしょうし、今笑ってる人々は不幸であるあなた方は哀しみ泣くようになってだから笑ったり泣いたり場合によって変わるというようなこともだからあまりどちらかにとらわれる必要性がないということは一つは言えるでしょう。
中国の古事ですよね。「人間万事塞翁が馬」ってご存知の方も多いと思いますが、中国の割と国境のところに住んでた1人の人が名馬、ものすごくいい馬を持ってたんですよね。隣の人が、いい馬を持っていていいですねって言ったら、「これがいいことか悪いかどうか」と、ご主人が言った。そしたら、その馬が逃げちゃったんですね。逃げちゃったら、隣の人が、「馬がいなくなってなって、がっかりですね」って言ったら、「いやこれがいいことか悪いか」と。そのうちにその馬が帰ってきたんですけど、友達ができたんで、いっぱいの馬を連れて帰ってきたから、一挙に何かお金持ちになった。その地方はいい馬が出るので有名なところなんですが、隣の人がですね、「馬がたくさん増えていいですね」って言ったら主人が「いやこれもいいことが悪いことか」って。それで息子さんがその馬に乗ってたら落っこちて怪我しちゃってですね。骨折して寝たきりになっちゃって。そしたら近所の人が「骨折して大変でしたね」って言ったら、「これもいいことが悪いとか」と。それで隣の国と戦争になっちゃったんで村の若い者がみんな駆り出されて、なんと10人中9人が死んじゃう。でもほとんど戦死してしまうあの戦争に巻き込まれて、でも息子さんは結局骨折して寝てたから戦争に行かなくて命が助かったと。だから結局いい事があったと思ったら悪いことがある、ということなので、私達はあんまりいいことだからと言って有頂天になる必要性もないし、悪いことがあったからといってですね、あんまりがっかりしないで、それも変わってきますから、私達がもっと違うものを見つけて、見つめて歩んでいくということが大切でしょう。
でもイエス様の教えはもっと極端なんですよ。コロコロ変わるだけの話じゃなくて、貧しい人々は幸いだ。つまり貧しい方がいいっていうことをイエス様がおっしゃってるわけですから、強調点はどっちかというとまず下にあることなんですよね。
私達はクリスチャンですから、貧しさの中でこそ、この神の国があなたがたのものだ、ということを受け止めることができたらいいと思うんです。実際これ本当そうだと思うんですけど、結局病気したり問題があったりしたときこそ、私達はやっぱり神様に必死になってお祈りするし。もちろんね、問題を解決しようと努力しますが、でも、やっぱりそういうときこそ、私達は神様が必要だから、そういう時にこそ私達は神様との深い交わりを求める。それがですね、私達にとって大切なことではないかというふうに思います。
多くの方がご存知だと思いますけど、日本と韓国の教会は全然違うんですよね。今までは全然違って、とにかく日本の教会は右肩下がりで、もうどんどんこの若い人もあんまりないとか、勢いがないとかいう。韓国がもうどんどんどんどん信者が増えて、若い人いっぱいだし神父さんもいっぱいだしっていうのも、上り調子で、人口の1割から3割ぐらいはもう、あの、プロテスタント合わせた、信者なんですよね。だからもう今や韓国ドラマとか韓国映画で絶対クリスチャンが出てくるでしょう。ちょっとそうねプロテスタントの方もあるけど、礼拝を導入してたりとか、神父さんが出てきたりとか、大体ちょっと出てくる。それはもう皆さんがそうだからですね。
日本の教会の人はちょっと韓国の教会とか、逆に僕はイエズス会だから、日本管区の方はもうなんかもうしょぼんとしてでも韓国管区はどんどんどんどん、韓国の会員もどんどんどんどん増えてですね、もうあれだったんですが、でもね,またこれがまたちょっとまた変わってきて、もう経済的にもそうですよね韓国の方がもう日本抜いちゃってちゃってるみたいな。また台湾もそうですけど、結局ねもう、なんか今サラリーマンの初任給は韓国なども全然上なんですよね。だからもう経済的にも実はもう韓国とか台湾にも日本負けちゃってる。ものすごく豊かですし、もう持ってるものを着てる服もほぼ変わらないし、もう日本にどんどんどんどん台湾の人も韓国人も観光に来るぐらいで、日本から行くよりもむしろ逆転しちゃったんですよね。
ものすごくだから今、韓国も台湾も豊かな国になって、経済的にはもう完全にもう追い抜いてるわけですけどでもその影響か知らないけど教会の成長がぱったり止まっちゃったんですね。びっくりですけれども。昔はこの韓国のイエズス会の神学生と日本のイエズス会の神学生とよく交流したんですよ。
僕は志願者の頃は韓国人の志願者と一緒にお互い10人とか15人に移りましたから、それでフィリピンに行って英語の勉強しにしたりとかいろんな共通プログラムあったんですけど今ね全くできなくなったんです。なんでかって言ったら韓国のイエズス会に神学生ゼロなんですよ。だから日本にはまだもちろんインド人のとかベトナム人って多いんですけど、日本には神学生いるんですよね。でも韓国2対5になっちゃったから、共通プログラムができないぐらい、突然駄目だったんですよね。
だからニュースで出てくる高齢化社会とか少子化の問題、突然韓国が日本と同じ問題を抱えるようになっちゃったんですけど、もうねキリスト教がもう韓国全然駄目だったんだ。びっくりするぐらい駄目に突然なっちゃってですね、僕も話を聞いて驚きましたけれども、神学生が0だってことは、10年間進歩が生まれないと思うんですよね。今入ってきた神学生が10年経って神父なんだから今0だったら10年間神父になる人いない。韓国はですよ、日本はね、渡辺神父さんが叙階してここに来られたやっぱり神学生もね何人かここで、だから着々と日本は逆に神父さんは少ないけれども生まれてるわけなんですけど、なんでかもちろんいろんな分析あるでしょうけど、やっぱり富んでいるあなた方が不幸であるっていうふうに韓国人になっちゃったっていうか、神様求める気持ちがなくなっちゃったっていう。
日本はまだわかんないけど。これがねもっと駄目になって、経済危機とか、大災害ともうそれがもしかしたら自分にとってチャンスになるかもしれない。また、神様を求める気持ちが若い人の中に出てくる可能性もなきにしもあらずなんですよね。
だから私達はついついお金持ちっていうか、安定した生活がいいと思ってますけど、でももちろんそれは努力すべきですけど、もう貧しさの中にこそ神様と本当に交わるチャンスがあるとイエス様が断言してるわけですから。私達1人1人が、出会う、何て言うんすかね、貧しさであったり、困難であったり、病気であったり、老齢化で歳を取ったりとか、あるいは死の問題とか、やっぱりマイナスのことは人生でいろいろやってくるわけですよね。どんな個別差があるけれども、でもねそれはやっぱり私達にとって神との交わりを深めるチャンスとして与えられている。
だからわざわざイエス様が貧しい人は幸いであるとわざわざ言ってるのはリップサービスでも何でもない。本当だからですよ。本当だからこう書いてあるんですよね。この貧しい人に与えられる幸を私達は受けていく、積極的に。何て言うんすかね、信仰心というんですか。それは本当に大事にしていきましょう。
だから世の中が良くても悪くてもあまりどっちでもいいわけなんですよね。あるいは自分自身が健康であるときは病気とかもありますけど、でも私達が神様を本当に見据えて歩んでいくならば、どんなことも恵みに、やっぱり神様が変えてくださる。それを信じてですね、歩んでいきたいと思います。
日本に日本のことわざで、なんだっけな「苦しいときの神頼み」ってあるじゃないですか。それは悪い意味ですよね、苦しいときだけお祈りするっていう。神苦しいときの神頼みって言いますけど、僕の友達がね、いや、「苦しいときこそ神頼み」でいいんじゃないかって。というのは、チャンスなわけだからね、それこそ神様に必死になってお祈りして、神との交わり深めたら、それは本当はどんな大きなお恵みかなってやっぱ思いますね。
だからイエス様が貧しい人は幸いであるという、この言葉を心にしっかりと受けとめて、私達が信仰の道を歩んでいけるようにですね、神様に力と恵みを願いましょう。
ルルドの聖母の日のいやしのミサです
そのとき、7・1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
7人間の戒めを教えとしておしえ、
むなしくわたしをあがめている。』
8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」9更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。10モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。11それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、12その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。13こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
今日の朗読した福音書はマルコの7章ですけどもイエス様がですね、このファリサイ派の人々や、律法学者たちに対して、割と批判するようなことを述べているところです。
一つのポイントは、この手を洗って食事をするというのが律法で定められているわけですが、イエスの弟子たちは、手を洗わないで食事をする者が混じっていたということですね。ファリサイ派や律法学者からイエス様がかなり激しく、攻撃されていたであろうということです。
実際、なんで律法にですね、その食事の前に手を洗うのかっていうことが規定されてるかというと、基本的には衛生上の問題から、このような規定が入ったんだろうと思われますね。今よりももっとやはりドロドロしていたところあるいはほこりりっぽいところでしたでしょうから、やはり衛生上の問題から、その日本人もね、そういう方多いと思いますけど、ちゃんと手を洗ってから食事をするというですね、いうことだったと思います。それが結局律法になると、なんかちょっとおかしくなるというです。
今でもイスラエルのですね、いわゆる正統派の行くレストランは必ず入口に手を洗うところがついてるんですよね。ちゃんとその律法にかなった手の洗い方ができるようにということで、レストランの入る前のところに。それがあるのが正統派のレストランだなってわかるぐらいはっきりしているんですけども。もちろんそれは手を洗ったらもちろんいいとは思いますけれども、でもそれを絶対化するところに、何か一つの問題、しかもその何か宗教的なものにすり替えていくところで、何か本来の考えからずれていくようなところがあるということですね。
手を洗うか洗わないか。もちろんね現代でも手を洗った方がいいわけですけど、でもやっぱりちょっと間違うと、こういうのっていうのは、何て言うんすかね。ちょっと狂ってくるところがあって、もうそれは、わずか二、三年前のことですけど、やっぱりコロナが流行ったときとかですね、それは感染症対策をするっていうのはもちろん基本だったわけですが、結局どんどんですね、あの人マスクしてないから、手を消毒してないとか、何とかかんとか、もうこの話は実はそんなになんか過去の話ではなくて、でもやったらもうあの神父さんもどうのこうのとか、いろいろいろいろ。感染症対策しない方がいいってことはないですよ。それはちゃんとやっぱした方がいいですし、特にやはり、病気とかそういう感染症とか、そういうことがあったら、昔と今も違いますから、やっぱり適切な対応しなきゃならないし、病気になったときは、それは適切な病気の対応を取るべきですよね。
だから、例えばがんになってもちゃんと手術してやればいいんですけど人によって代替治療に走っちゃって、何かとんでもない療法、とんでもないかどうかもわからないけど、それでかえって悪化させるとかですね、やはり適切な答えを出すべきなのはべきですけど、でもイエス様はそういう手を洗うか洗わないかという次元で物事を見てないんですよね。
もっと根本的な癒し、根本的な救いを、イエス様は私達に約束してくださっている。その観点を失ったら、私達は何かずれてしまうと。イエス様の考えたことは何かって言えば今日の第1朗読ですけど、やっぱり創世記の一番最初に神様は私達と大自然をよきものとしてお作りになったっていうですね。
私達1人1人が、そして大自然も全て良きものとして作られてるとイエス様がやはり私達に強調したのは、この良きものに戻るっていうんですかね。なんでよきものが良くなくなっちゃったのか、結局人間の罪というか、人間の計らいがごちゃごちゃしてですね、環境も破壊して、自然との関係もぐちゃぐちゃになったり、人間関係がぐちゃぐちゃになったり人によってはその心労を心とか体に抱えたりしてしまうけど神様は元々作ってないわけですけどあれですけど、人間は勝手にぐちゃぐちゃにしちゃったわけですからそれをですね、やはりイエス様が私達を癒してくださるのは、人間のあるこの自然の元々ある良きものにいわば戻してくださる。
そのような働きが、やはりイエス様の根本的な癒しの業だったと思います。だから私達はどうしても現象に捉えるかって洗ううとか洗わないとか、薬とか飲まないとかですね、この病気がなくなるかななくならないかとか、その目に見えるところにとらわれて、そこで振り回されますけど、でもイエス様の癒しはもっと根本的な私自身の存在の根本的な要素に戻る作られた神様の恵み、あるいはそれは人間関係にしても何にしてもですね、その良きものとして自分が作られて、周りの人も良きものとして、そして周りの大自然も良きものとして作られてる、その現象の良さっていうんですかね。その後、何かこの創造のエネルギーそのものがイエス様の中にあるから、イエス様が病人を癒やすとか、罪を許すとか、全部やはりこの神の創造のエネルギーで人間のよさに戻してくださるようなそういうものだったと思いますね。
だから手を洗う、洗わないとか、おかしいんですよ。だから次元が全然違ってるっていうか、でもファリサイ派や律法学者とかはわからないから、結局手を洗う洗わないお供物をどうするかそうするかみたいなことで、気持ちが凍ちゃってるわけですよね。
だから大きくずれてるわけですけど、私達の本当の癒しは、自分自身の本来の良さに一人ひとりがいかに戻っていけるかどうかっていうですね、よきものとして作られてるわけですからね。ただ年を取ってきて自然に老化するのも仕方がない。それはね。それまではちょっとあれですけど。自然法則の流れがありますから、それを避けられないところも多々ありますけれども、私達がこのよきものとして作られて、良き関係を結んでいくように、元々作られた元々の良さを思い出し、そこに戻っていくことが本来癒しの根本的なことじゃないかというふうに思います。
癒しというのは私達1人1人だけじゃなしに、やっぱ大自然そのものにもやっぱり癒しが与えられなきゃならないでしょう。実際この、最初に作られたですね、人間に対して、産めよ増えよ、地に満ちて地を従わせよ、海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物全て支配せよ、って言ってんすけど、支配っていうのは誤解がありますけど、自分の勝手に扱っていいってことでは全くないですよね。やっぱり管理するっていうか、自然と調和して生きていくように。ただ支配するって漢字が面白いんですけど、漢字で書くと、支え配るっていう「支配」。だから別にこの横暴に何でもしろと実は何にも言ってなくて、支え配るようなことを人間に託されている。しかも食べ物はこう書いてあるんですよ。全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を全てあなたたちに与えよう、それがあなたたちの食べ物となる、って書いてあるんですけど与えられてんのは実はね、植物だけなんですね。だから最初の人類菜食主義者だったんです。お肉を食べてないんですよ、本当のところ。だから多分もっと自然と人間が調和してる人のしるしでしょ。動物にこう言うんですよね。地の獣、空の鳥、地を這うものなど全て命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう、って感じで動物もみんなね菜食の動物しかいなかった。最初はね。だから結局いつから人間や動物が肉を食べるようになるかって言ったら、洪水の後なんですよ。そこで初めて神様がお肉食べていいって人間に言うんですけど、元々はね、お肉も食べない。つまりだから動物を殺さなくていい世界だったんですね。動物同士も殺さない。肉食動物がいないわけだからだから、自然との関係ももっとお互いの良さを、自然と人間との間も、ある種の平和な世界っていうのかな、それが結ばれてるんですよ。
一つの理想像として描かれてるわけですけどね。もちろんイエス様も肉食べてましたから、別に今は肉食べたら駄目というわけじゃないですけど。でもこれだってね、あんまりお肉を食べすぎるのは良くないっていうのはいろんな意味で、言われてる。健康だけじゃなしに、動物の命の問題とかいろいろいろんなこと言われてる。水不足の問題から全ていろいろ言われてますから。でも、私達が癒されるってことは、自分が癒されたらいいってだけでも全然ないわけですから、自然との繋がりもやっぱり神様のつくったた創造の大きな調和の世界ですよね全てが今よしとされてバランスが取れてる世界に私達がどう戻っていけるかっていうことをやっぱりよく祈って求めなきゃならないと思いますね。
今日はルルドのマリア様の、祝日だと最初に言いましたけど、ルルドに現れたマリア様が無原罪の聖母として現れて、それでベルナデッタに何を言ったのかって言ったらですね、メッセージとして言ったのは、癒しを与えるとか実はあんまり言ってないんです。もう言ったメッセージははっきりしてて、「悔い改めよ」と。人類があまりに罪深いから、みんな悔い改めなきゃならないっていうことを、そのルルドのマリア様はベルナデッタに言ってるんですよね。その後、ファチマのマリア様も全く同じです。罪の、何て言うんすかね、悔い改めて罪の償いが必要。人類そのものがですね、そうしないと、人類に大きな危機的な状況が来る。ファチマの預言の後が秋田のマリア様もそうですけど一応公式には認められてないけどマリア様もあちこちに出現してメッセージをされたんですけど、もうほぼ同じなんですね。悔い改めなさいと。生き方を根本的に変えなさいということを度々言っておられる。それこそがやっぱり本当の癒しに繋がるものだと思いますね。その、もちろん恵みとしてこのルルドの泉から湧く水でどれぐらいの人が癒されたかわかんないぐらい多くの人の病気が癒やされてるわけですよね。でも、マリア様自身は癒しを目的として現れてないんですよ。
悔い改めをすることを一番の目的として、私達に告げて、恵みとして癒される人が多々いるということなんですよね。神様は私達が病気でいたり、苦しんでるってこと自身を良しとはしてない。やっぱそれは本来的じゃないんですよね。
だから私達が本当にこの手を洗うか、洗わないかという次元のクリアためじゃなくて、根本的に人間の良さに戻る。与えられてる神様から与えられているこの世界のよさに戻っていくように私達が根本的に生き方を変えていける。
物事の見方を変えていけると、そこに本当の癒しがやっぱり与えられる。それが大切なことではないかなと思いますね。私達に与えられている、与えられてるとか、来てる、病気とか苦しみとか困難とか様々ありますが、それらをしっかり受け止めながら、でも本当に神が作られた良さに戻っていけるように私達の生き方を改めて行ってですね、軌道修正しながら、神様の癒しの世界に預かっていけるようにですね、心を合わせて今日は祈りを捧げたいと思います。
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