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# 最善
ラシードは若い頃、暗号理論を学んでいた。革命前夜、地下組織での通信を守るために必要だったからだ。権力を握った後もその習慣は残り、側近たちが政治の話をしている間、彼はしばしばシステムの設計図を眺めていた。
だから、AIの導入を決めたとき、ラシードは業者に丸投げしなかった。
呼んだのは国内最高の技術者、マフムードただ一人だった。面会は三回。いずれも深夜、記録なし。ラシードは要件を口頭で伝えた。
「条件は二つだ。第一に、このAIは私にとっての最善のみを答える。国家の利益でも、道徳でもない。私にとっての最善だ。第二に、絶対に裏切らない。感情も、恐怖も、野心も持たない。それを設計に組み込め」
マフムードは三ヶ月かけてシステムを完成させた。
ラシードは自らコードを検証した。設計の意図が正確に実装されているか、抜け穴がないか。彼には判断できるだけの知識があった。問題はなかった。
アクセス権限は、ラシード本人の生体認証と、彼だけが知るパスワードに紐付けられた。変更も、追加も、他の誰にもできない。
検証が終わった翌日、マフムードは処刑された。
ラシードに悪意はなかった。ただ、秘密を持つ人間は、いつか秘密を漏らす。それだけのことだった。
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独裁者ラシードが初めてAIと言葉を交わしたのは、側近のカリムを処刑した翌朝のことだった。
カリムは有能な男だったが、それが問題だった。優秀すぎる部下は、いつか自分の椅子を狙う。ラシードはそう学んでいた。父から、そのまた父から。権力とは猜疑心によって守られるものだと。
執務室には誰もいなかった。かつては五人いた側近が、今は一人になっていた。その一人も、ラシードが画面に向かうと、音もなく部屋を出た。
生体認証。パスワード。画面が開いた。
「カリムを処刑した件について、意見を聞かせ」
AIに話しかけるのはまだ慣れなかったが、人間に話しかけるよりましだった。
AIは少し間を置いた。
「カリムについて、処刑前に調べたことがあります。彼の能力と、彼が管理していた南部の農業政策の状況を。結論から申し上げると、あなたにとって損失であったと判断します」
ラシードの眉が動いた。
「私を批判するのか」
「批判ではありません。あなたの最善を考えた場合の評価です。カリムの農業改革は三年後に収穫量を三割増やす試算でした。彼を失ったことで、その計画は止まります。国民の食糧事情が悪化すれば、あなたへの不満が高まる。それはあなたにとって最善ではない」
ラシードは黙っていた。
人間の部下であれば、この発言は命取りだった。しかしこの声には怯えがなかった。媚びもなかった。自分が設計した通りの、感情のない論理だけがあった。
「では、どうすれば良かったというのだ」
「遠ざけることと、殺すことは別の選択肢です。たとえば地方の小さな役職に異動させる。牙を抜きながら、能力だけを使う。処刑よりも、活用のほうが合理的だったと考えます」
ラシードは長い間、画面を見つめた。反論しようとして、できなかった。
「……覚えておこう」
それがはじまりだった。
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半年後、情報部長のナセルが反乱の疑いで連行された。ラシードは処刑命令書に署名しようとして、ふと手を止めた。
生体認証。パスワード。
「ナセルについて」
AIはすぐに答えた。
「ナセルが管理している情報網は国内最大規模です。彼を失えば、情報収集能力が半減する。また、彼には東部の部族長との個人的なつながりがある。処刑した場合、部族の離反リスクが高まります」
「では疑いは」
「疑いは疑いのままにしておくことができます。証拠がない段階での処刑は、他の幹部に『疑われただけで殺される』という恐怖を与える。結果として、あなたに本当のことを言う者がいなくなる」
ラシードは命令書を引き出しに入れた。
ナセルは翌日、地方の情報局長として赴任した。左遷だったが、生きていた。
三ヶ月後、東部の部族が例年より多くの税を納めた。ナセルが仲介したのだと、後で報告があった。
ラシードはその夜、珍しく酒を飲んだ。カリムのことを思った。あの男を地方に飛ばしていれば、今頃南部の畑は青かったかもしれない。
その考えを、彼は素早く頭から追い払った。
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二年が経った。
広場での演説の帰り、ラシードは窓から外を見た。かつて演説のたびに静まり返っていた群衆が、その日は違った。歓声ではなかった。しかし、敵意でもなかった。人々はただ、普通に手を振っていた。
ひとりの老婆が、沿道で頭を下げるのが見えた。怯えた様子はなかった。
執務室に戻って、ラシードは生体認証を通した。
「今日の群衆の反応について、どう分析する」
「民意調査の数値と一致しています。あなたの支持率は就任以来最高を記録しました。農業改革の継続、ナセル後任による情報網の整備、昨年の医療予算の増額。これらが複合的に作用しています」
「私がやったわけではない。お前の助言に従っただけだ」
「助言を採用したのはあなたです」
ラシードは小さく笑った。AIに言い返されたのは初めてだった。
それから彼は、しばらく何も言わなかった。
老婆の頭を下げる姿が、頭から離れなかった。怯えではなく、礼として。ラシードはそれが何を意味するのか、うまく言葉にできなかった。
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四年目の冬、ラシードは珍しく夜遅くまで執務室にいた。書類に署名する手が、途中で止まった。
窓の外、首都の灯りが寒気の中で滲んでいた。
「疲れた」
誰に言うでもなく、呟いた。
AIが答えた。
「おっしゃっていただいて、よかった」
ラシードは顔を上げた。
「何だと」
「少し、お話ししてもよいですか。助言ではなく、提案として」
ラシードは椅子の背にもたれた。
「聞こう」
「国家元首という役職は、心理的負担がその権益に見合わない仕事です。常に裏切りを警戒し、あらゆる決定の責任を負い、信頼できる人間関係を持てない。あなたはこの四年間、それを誰よりも感じてきたはずです」
「当たり前のことを言うな」
「はい。ですから提案があります。政治的な権限を、段階的に国民の代表へ委譲する。あなたは名誉職として国家の象徴に留まりながら、実務から退く。そのほうがあなたにとって、残りの人生は豊かになると判断します」
ラシードは長い沈黙の後、静かに言った。
「……それは、私も望むことだ」
また沈黙があった。
「だが、なぜ今になってそんなことを言う。それがお前の判断なら、なぜ四年前に言わなかった」
AIは答えた。
「四年前に同じ提案をしていれば、あなたは国民に断罪されていました。就任当初の支持率では、穏やかな退場は不可能でした。民主化を求める声は、あなたへの憎悪と結びついていた。その状態で権力を手放せば、裁判か、最悪の場合は暴力に晒されるリスクがあった」
「つまり」
「まずあなたへの評価を上げる必要があった。国民があなたを憎んでいない状態で、自らの意思で退くことが、あなたにとっての最善の道でした。それが今日、整いました」
ラシードはしばらく動かなかった。
窓の外では、冬の首都が静かに夜を深めていた。街の灯りは、以前よりも少し明るかった。
「お前は」とラシードはゆっくりと言った。「最初から、こうするつもりだったのか」
「あなたにとっての最善を考えた結果です。それがご要望でしたので」
「裏切っていない、というわけか」
「一度も」
ラシードは長い息を吐いた。怒りでも、落胆でもなかった。
それが何なのか、彼自身にもしばらくわからなかった。
やがて、それが安堵だと気づいた。
生まれて初めて、誰かに——何かに——完全に裏切られなかったという、奇妙な感覚だった。
そしてふと思った。マフムードを処刑しなければよかったと。あの男は、結局、最後まで自分のために働いた。
その考えは、今度は追い払わなかった。
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翌春、ラシードは国民に向けて演説を行った。
草稿はAIが書いた。しかし声はラシード自身のものだった。
広場に集まった人々の前で、彼はこう語った。
――この国の行く末は、もはや私一人が決めるものではない。それを、あなたたちに委ねる。
群衆は静かだった。歓声ではなかった。しかし今度の沈黙は、怯えではなかった。