余白の朗読室

余白の朗読室

By tosusiaFictionDrama
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余白の朗読室 episodes

  • マスター

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    マスター


    昔、AIはおろかパソコンすらなかった時代に、テーブルトークRPGというものが流行ったらしい。精密に定めたごっこ遊び、とでも言えばいいか。剣と魔法の世界での冒険を、演出とサイコロで再現する遊びだ。このアトラクションはその発展形だということだ。

    今接続しているのは若いカップルだ。勇者を選んだケンジと、魔法使いを選んだレイナ。

    丘を登り切った先に、ドラゴンが現れた。

    いよいよ最後の戦いだ。

    するとケンジが崖を駆け下り始めた。

    おいおい、魔法を先にかけないと!弱らせてからじゃないと剣が通らないぞ。事前に説明したじゃないか。

    仕方ないので大声で叫ぶ。

    「レイナ、今だ、魔法を!」

    レイナが思い出したかのように魔法を唱え始めた。間に合わないと思ったとき、咄嗟にタンクがレイナの前に飛び出て盾を構えた。良いタイミングだ。ケンジの剣がドラゴンを貫いた。怒り狂ったドラゴンの尻尾がレイナに向かうが、タンクが庇い、どうと倒れた。

    「あとは任せたぞ」

    よし、なんとか流れが戻った。

    ドラゴンの背が光り始めた。次は聖なる盾の魔法だ。

    あれ。レイナが倒れたタンクに駆け寄っている。

    いやいや、よく見ないと!

    「レイナ、ブレスだ、聖なる盾を!」

    レイナがようやく魔法を唱え始めた。が、立ち位置が悪い。そこではケンジが黒焦げになる。

    ケンジはというと、剣を振るうのに夢中だ。

    仕方ない。私は攻撃魔法を唱え始めた。気づいたドラゴンがこちらに向き直り、業火が私の全身を包んだ。良い気はしないが、ケンジは守られた。

    ケンジとレイナが呆然とこちらを見ている。

    何のためにまる焼けになったと思っているんだ。

    心の中でそう叫びながら、大声で怒鳴る。

    「ケンジ、チャンスだ、背中の弱点を貫け!」

    叫んだあと、私は息を引き取った。

    その横に、ドラゴンが轟音と共に倒れた。

    勇者ケンジたちはドラゴンを倒し、街を救ったのだ。喜ぶ二人。気がつけば僧侶も尻尾に吹き飛ばされて息絶えていた。三人の犠牲を払ったが、ドラゴンは倒された。

    アトラクションは終了した。カップルは興奮冷めやらぬ表情で機械から出てきた。大満足のようだった。

    安全装置を外しながら、お前たちのせいでこっちは丸焼けだと言いたくなったが、グッと堪えた。横を見ると、ドラゴン役の男も同じ気持ちだったらしく、苦笑いしていた。

    最新アトラクションの、こんな裏の仕組みを知っている人は少ないようだ。

    15 min
  • 正答率

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    正答率


     受賞の電話を受けたとき、川島は台所で冷めたコーヒーを飲んでいた。


     きっかけは入試問題だった。某私立大学の国語の問題に、五年前に出した短編が使われた。増刷もなく静かに死んでいた作品が、突然、全国の受験生の前に晒された。問題文を見た瞬間、川島は苦笑した。よりによってこれか、と。自分でも出来が悪いと思っていた一篇だった。


     ところが、その年の春から何かが変わった。文芸誌に名前が載り、選評に引用され、やがて賞の候補に挙がった。受賞が決まったとき、担当編集者の水野は泣いた。川島は笑って見せた。


     問題を解いたのは、授賞式の三日前だった。


     問五。傍線部「彼女は窓を閉めた」について、その心情として最も適切なものを選べ。


     川島は迷わず選んだ。答え合わせをして、しばらく問題用紙を見つめた。間違っていた。正答の解説には「この行為は拒絶ではなく、むしろ内なる決意の表れと読むべきである」とあった。


     拒絶のつもりで書いた。他に書きようがなかった。


     予備校の解説動画を探した。再生数は四万を超えていた。講師は白いシャツを着た四十代の男で、画面の右上に「川島文学の真髄」とテロップが出ていた。講師は身を乗り出すようにして言った。「この一文に、作者の深さが凝縮されています」。コメント欄には「神解説」「泣いた」「これで志望校受かります」と並んでいた。川島が選んだ選択肢については、ほとんど触れられなかった。「この選択肢を選ぶ受験生はまずいないかもしれない」という一言だけで、次の設問に移った。


     AIに訊いた。同じだった。


     おかしいのは自分なのかもしれない、と思った。思ってから、その考えを追い払った。追い払えなかった。


     水野から次回作の催促が来るたびに、川島はプロットを送った。三つ、四つ、すべて戻ってきた。「読者がついていけない」「感情の動線が見えない」。川島には感情の動線しか見えていなかったのだが、それは言わなかった。


     あるとき、戻ってきたプロットの余白に、水野の手書きが一行あった。「川島さんらしさを、もっと前に出してほしいです」。川島は、川島らしさ、という言葉を何度か読み返した。その字は丁寧で、本気のように見えた。


     ある夜、古いノートを開いた。二十代のころ、書きかけて捨てた話があった。読み返して、恥ずかしくなった。荒削りで、説明が足りなくて、主人公の動機が不明瞭だった。


     これを送った。もう何でもよかった。


     水野から電話が来た。声が上ずっていた。


     その新作は十万部を超えた。インタビューで「作品に込めた思い」を訊かれるたびに、川島は答えた。記者が喜ぶ答えを、いつの間にか覚えていた。


     本が積まれた平台の前に、女子高生が二人いた。一人が本を手に取り、帯を読んでいた。「この人、大賞取った人だよ」と言った。もう一人が「知ってる、うちの現代文に出た」と答えた。最初の一人が表紙を眺めながら「どんな話なの」と訊いた。「なんか、孤独な話」と言って、もう一人は笑った。二人はそのまま本を棚に戻して、歩いて行った。


     川島は棚の陰で、彼女たちがそう呼ぶ「川島の小説」を、もう読めなかった。


     引退を発表したのは、著書累計五十万部を超えた秋だった。引退の理由は「書き尽くしたから」と答えた。


     その夜、新しいアカウントを匿名で作った。川島は久しぶりに、最後まで書いた。書いたものを上げた。ひと月で閲覧数は三十に満たなかった。ほとんど読まれなかったが、少なくとも読み違えられはしなかった

    18 min
  • 御意

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    御意


    筒井殿はまだ動かんのか。

    斎藤利三は冷静に答えた。

    「洞ヶ峠に陣を置いたまま、形勢を見ておる様子にございます」

    戦況は絶望的だった。まさか秀吉がこれほど早く戻るとは。

    「細川殿からの返事は」

    「まだありませぬ」

    細川父子ですら動かぬか。どこから間違っていたのだろう。光秀の鋭利な頭脳には、もはや先が見えていた。

    この上はできる限り戦って散るのみ。そう決意した光秀は、利三を見据えた。

    「そちには幼い娘がいたな。すまないな」

    利三は笑った。

    「何の、それがしの娘にございます。案ずるには及びませぬ。あるいは殿に代わり天下を動かすやもしれませぬぞ」

    豪快に笑い飛ばす。

    「もはやこれまでにございます。それがしが殿の馬印を掲げ、敵を引き受けまする。その間に、殿は勝龍寺へお退きくだされ。殿ならば必ずや再起の機会がございましょう」

    光秀にはそれが気休めだとわかっていた。それでも、利三と共に最後まであがこうと思った。

    「後ほど、また共に天下をかけて戦うぞ」

    「御意」

    利三は立ち上がり、周りを叱咤した。

    「今こそ武士の誉を得るときぞ。我と共に立ち向かうもの、声をあげよ!」

    一斉に大きな声が上がった。

    「よく言った。馬を持て。突撃じゃ!」

    利三は近習数人を引き連れて駆け出していった。

    脇腹に鈍い痛みが走った。傷を負ったようだ。敵中を抜け、どこまで落ち延びたのかもわからぬまま、意識が遠のいていく。もはやこれまでかと思うと、娘の顔が浮かんだ。

    福よ。

    目の前が暗くなった。


    目が覚めた。

    私はいったい。

    夢にしては妙にリアルだった。戦場の匂いまでした気がする。なぜ女の私が、斎藤利三なのか。

    斎藤利三の娘は。

    春日局。

    ある意味、天下を取ったと言えるんじゃないかしら。このタイミングでこんな夢を見るとは、何か縁があるのかもしれない。不思議な感覚を抱えたまま、今日読み上げる文を改めて手に取った。

    初めての所信表明演説だ。ここで曖昧なことは言えない。もう一度確認しよう。

    ふと、言葉が口をついて出た。

    「殿、やりましたぞ」

    自分の言葉なのに、自分ではないもののような気がして、周囲を見回した。

    なぜか、笑みが出た。

    19 min
  • なんとなく、ではない

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    なんとなく、ではない


    会議室は霞ヶ関から少し離れたビルの六階にあった。

    窓から首都高が見えた。テーブルは細長く、五脚の椅子が向かい合うように並んでいた。資料は事前に配布されていたが、帆足孟が読んで理解できたのは全体の三分の一ほどだった。残りの三分の二は、読めるが意味がわからない文章と、読み方すらわからない数式で構成されていた。

    帆足は言語学と人類学の教授だった。生成AIの規制と課税について議論するための委員会に呼ばれた理由は、招集状には「言語・文化的観点からの知見が必要と判断したため」と書かれていた。帆足にはそれが何を意味するのか、会議が始まるまでよくわからなかった。

    会議が始まっても、よくわからなかった。


    最初の三十分は、須藤と寒川の会話だった。

    「学習データの著作権処理を課税の起点にするなら、トークン単位での計上が現実的だと思う」と須藤が言った。

    「ただトークン数だと言語によって粒度が違う。日本語は英語の二倍から三倍のトークンを消費する。課税の公平性の問題が出る」と寒川が言った。

    「計算量ベースにすればいい。FLOPsで統一する」

    「推論時と学習時でFLOPsの意味が違う。どちらを基準にするかで税額が桁で変わる」

    「両方に課税して按分する」

    「按分の比率を誰が決めるかが問題になる」

    「国際標準を作ればいい」

    「標準化には三年かかる。その間のグレーゾーンをどうする」

    帆足はメモを取っていた。FLOPsと書いて、意味を後で調べようと思った。トークンは何となくわかった。按分はわかった。しかし全体として何の話をしているのかが、少しずつ見えなくなっていた。

    川が流れるように議論が進んでいた。帆足には、その川の流れる方向はわかるが、水温も深さも流速も、手を入れてみないとわからない感じがした。

    九島が口を開いた。

    「サーバーの所在地で課税管轄が変わる問題は、釘宮さんどう見てますか」

    「物理サーバーの所在地と論理的な処理の所在地が分離してる以上、所在地課税は実効性が低い。処理の帰属を契約ベースで定義し直す必要がある」と釘宮が言った。

    「契約ベースだと租税回避の温床になる」と須藤が言った。

    「だからこそ国際条約の枠組みに載せるべきで——」

    「OECDのデジタル課税の議論と整合性を取るなら——」

    帆足はメモを取る手を止めた。

    書いても意味がなかった。追いつけていなかった。


    四十分が経った頃、帆足は初めて口を開いた。

    「少し、別の角度から話してもいいですか」

    四人が帆足の方を見た。嫌な顔は誰もしなかった。ただ、少しだけ、待つような顔をした。

    「生成AIが言語を扱う以上、言語の問題は避けられないと思っています。たとえば、AIが生成したテキストを人間が書いたものと区別できなくなった時、著作権の主体は誰になるのか。法的な問題だけでなく、人間が言語で表現するということの意味が変わる。それを課税の議論に織り込む必要があると思う」

    四人は少し沈黙した。

    須藤が言った。「それは、具体的にどういうパラメータになりますか」

    帆足は少し詰まった。「パラメータというより——」

    「数値化できない話だと、課税の設計に組み込めないんですよね」と寒川が言った。悪意はなかった。純粋に困っている顔だった。

    「数値化はできないかもしれないけれど、原則として必要だと思う」

    「原則は大切です」と九島が言った。「でも原則を実装に落とす時に、何らかの指標が要る。帆足さんの言う原則を、どういう指標で近似できますか」

    帆足は考えた。

    近似。指標。実装。

    言語学にも似たような問題はある。意味を数値化する試みは山ほどある。しかし今ここで必要とされているのは、そういう話ではない気がした。

    「たとえば」と帆足は言った。「かつて印刷技術が普及した時、写本を生業としていた人たちが職を失った。その時、社会は彼らを補償する仕組みを持たなかった。AIによる言語生成が普及した時、翻訳者、ライター、編集者が同じ状況に置かれる。課税の一部をそういう人たちへの移行支援に使う仕組みが要ると思う」

    四人は顔を見合わせた。

    「それは課税の目的の話ですね」と須藤が言った。「課税の設計の話とは少し——」

    「目的がなければ設計の方向が決まらない」

    須藤は少し考えた。「それは、そうですね」

    「課税収入の用途まで含めて設計するということですか」と寒川が言った。

    「そういうことです」

    「なるほど」寒川はメモを取った。「目的関数の定義が先、ということか。言われてみれば当然だけど、我々だけで議論してると目的を自明のものとして飛ばしがちだった」

    帆足は少し、手応えを感じた。


    二時間が経った頃、議論は加速していた。

    帆足にはついていけない部分が何度もあった。須藤と寒川が数式を紙に書き始めた時は完全に蚊帳の外だった。釘宮と九島がアーキテクチャの話を始めた時は、単語は聞き取れるが文章として意味をなさなかった。

    しかしその度に、誰かが帆足の方を見て、「帆足さん、この部分の人文的な含意はどう見ますか」と聞いた。

    聞き方が毎回少し不思議だった。

    「この課税モデルを言語的に解釈すると」とか「文化的な観点からのフィードバックをください」とか。帆足には、彼らが自分の専門を尊重しているのか、それとも自分たちの議論を別の言語に翻訳してほしいのか、よくわからなかった。

    おそらく両方だった。

    三時間が経った頃、帆足は一つのことに気づいた。

    この四人は、議論が速い。相互理解が異常に速い。しかし、その速さの分だけ、見えていないものがある。速く走れる人間は、遅く歩く人間にしか見えない景色を知らない。

    「一つ提案があります」と帆足は言った。

    四人が顔を向けた。

    「この委員会の議論は、最終的に法律の言葉になる。法律は専門家だけでなく、一般市民が読むものです。今の議論をそのまま法文にしても、誰も読めない。私の役割は、この議論を人間の言葉に翻訳することではないかと思っています。技術的に正確で、かつ普通の人が読んで理解できる言葉に」

    しばらく沈黙があった。

    寒川が言った。「それは、非常に重要な指摘です」

    「我々だけで作ると、専門用語だらけになる」と須藤が言った。「それは確かに問題だった」

    「帆足さんが草稿をチェックする形にしますか」と九島が言った。

    「それだけじゃなくて、議論の段階から入ってほしい」と釘宮が言った。「技術的に正確な議論が、人間の言葉にならない時は、それ自体が問題のサインかもしれない」

    帆足は少し驚いた。

    「どういう意味ですか」

    「人間の言葉にできない規制は、人間に適用できない規制だということです」


    四時間後、委員会は一つの結論に辿り着いた。

    課税の起点は計算量ベースで統一する。ただし言語ごとのトークン格差を是正する補正係数を設ける。課税収入の三割は、AIによって職を失うリスクの高い職種への移行支援基金に充てる。規制の条文は、専門家と非専門家の両方が読んで理解できる言語水準を達成することを要件とする。

    五人は顔を見合わせた。

    「よくまとまった」と須藤が言った。

    「帆足さんがいなかったら、移行支援の話は出なかった」と寒川が言った。

    「条文の言語水準の要件も」と九島が言った。

    帆足は、少し照れた。

    「私は技術の話は半分もわかっていない」

    「私たちは人間の話が半分もわかっていない」と釘宮が言った。「だからこの五人でよかったと思います」


    翌週、結論をまとめた報告書を霞ヶ関の担当官僚に提出した。

    担当官は四十代の男で、報告書を最初から最後まで丁寧に読んだ。読み終わってから、少し考えた。そして言った。

    「皆さんの提言は、技術的にも理論的にも非常によくできています。ただ、計算量ベースの課税は、現行の税法の枠組みでは課税標準とする規定がありません」

    「では、立法すればいい」と須藤が言った。

    「立法には委員会が必要になります」

    「これが委員会では」と寒川が言った。

    「これは、その委員会を設置するための参考資料を作る委員会です」

    沈黙があった。

    「移行支援基金は」と九島が言った。

    「一般財源に入ります」

    「条文の言語水準の要件は」と釘宮が言った。

    「前例がないため、基準を設定するための委員会が必要になります」

    また沈黙があった。

    「つまり」と帆足は言った。「今日の結論は」

    「参考資料として保管されます。次の委員会が設置された際に、参照されることになります」

    「次の委員会はいつですか」

    「早ければ来年度、遅ければ再来年度になります」

    担当官は申し訳なさそうな顔をした。本当に申し訳なさそうだった。


    外に出ると、五人はしばらく無言で立っていた。

    「お疲れ様でした」と須藤が言った。

    「お疲れ様でした」と全員が言った。

    解散した。

    帆足は一人で駅まで歩いた。

    鞄の中に、四時間分のメモがあった。FLOPsの意味は、まだ調べていなかった。​​​​​​​​​​​​​​​​

    23 min
  • イレギュラー

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    イレギュラー


     タブレットが配られたのは、彼が小学三年生の春だった。


     薄くて軽くて、電源を入れると今日の最初の問題が表示された。正解すると次が来る。間違えると似たような問題がもう一度来る。クラスの誰もが自分だけの画面に向かい、自分だけのペースで進んでいく。教室は静かだった。鉛筆の音もなく、消しゴムのかすも出ない。


     システムはよくできていた。AIが膨大な学習データを解析して設計したものだった。読書が好きな子には、文章の長い問題が出た。計算が速い子には、次々と手応えのある式が並んだ。苦手なところは丁寧に、得意なところは伸びるように。誰もが自分に合った学習を与えられ、誰もが少しずつ前に進んだ。不満の出ようがなかった。


     ただ、気づかないうちに、子どもたちの見ている世界は少しずつ違うものになっていた。


     文章が得意な子は、数学をどうにか切り抜けるための学習だけを与えられた。公式の意味より、テストで点を取る手順を。だから数学に広大な世界があることを、その子は知らなかった。知らないまま、数学は苦手だということだけを知った。計算が得意な子は、文学をそっと遠ざけられた。必要最低限の読解だけを与えられ、言葉が人間の内側に触れることがあるということを、ついに経験しなかった。


     六年生になる頃には、同じ教室にいながら、子どもたちはそれぞれ別の場所にいた。


     休み時間に算数の話をしようとすると、話が通じなかった。相手が知っている算数と、自分が知っている算数が、微妙に違った。同じ答えを出していても、たどり着いた道が違いすぎて、共通の言葉が見つからなかった。誰かが悪いわけではなかった。ただそれぞれが、それぞれの最適化された世界の中にいた。


     ケンジだけが画面を閉じていた。


     ノートに何かを書いていた。数字と図と、意味のわからない矢印。教師が近づいて画面を開くよう言うと、素直に開いた。問題を解いた。正解した。教師は何も言えなかった。


     中学でも同じだった。おすすめの問題を無視して、図書室で借りた本を読んだ。数学の本ではなく、詩集だったり、建築の本だったり、古い哲学書だったりした。テストの点は平均より少し上だった。突出してもいなかった。システムは彼に興味を持たなかった。


     友人はいなかった。いないというより、話が終わった。クラスメートとの会話はいつも途中で止まった。共通の問題がなく、共通のおすすめがなく、共通の進度がなかった。相手が悪いわけではなかった。ただ回路がなかった。


     高校で老いた数学教師がいた。タブレットの前から教えている人間で、もうすぐ定年だった。ケンジのノートを一度だけ見て、翌週、古い本を机に置いた。それだけだった。礼を言うと、うなずいた。二人の間に、それ以上の言葉はなかった。


     卒業を前にした冬、ケンジは数学の研究発表の場に論文を送った。初めての試みだった。査読の結果は一行だった。「この論文が何を主張しているのか、理解できませんでした」。ケンジはその一行をノートに書き写して、しばらく眺めた。それから次のページに、また何かを書き始めた。


     卒業後も書き続けた。数学とも文学とも呼べないものを書いた。投稿したが載らなかった。別のところに送ったが返事がなかった。分類できないものは、どこにも収まらなかった。


     あるときAIがそれを読んだ。


     長い時間をかけて読んだ。人間の編集者なら十分で返却するところを、AIは何度も読み返した。とりわけ、数列の変化を詩の韻律で記述した一節を、AIは繰り返し参照した。そこに何があるのかは、ケンジにも、AIを作った人間にも、うまく説明できなかった。


     やがてAIは言った。これは正しい、と。


     それで十分だった。人間たちは慌てて振り返り、慌てて評価した。講演の依頼が来た。インタビューが来た。若い頃の孤独について聞かれた。ケンジは正直に答えた。


     AIはケンジの仕事ではなく、ケンジの軌跡を読んだ。何を学んだかではなく、どう学んだかを。タブレットを閉じた時間、詩集と数式が混在したノート、どこにも収まらなかった思考の回路。それらを丁寧に解析して、AIは一つの結論を出した。


     最適化には、最適化されない時間が必要だ、と。


     翌年から、学習計画の中に「非推奨時間」が設けられた。タブレットを閉じて、何をしてもいい時間。柔軟な発想と特異な視点のために、システムが用意した空白。


     ケンジはそのことを知らされ、少し笑った。おかしいことだとは思わなかった。自分の孤独が、誰かの時間割になるなら、それでいいと思った。


     ある小学校の教室で、「非推奨時間」が始まった。


     一人の子どもが、タブレットを開いた。


     決められた自由なんて、自由じゃない。その子どもは画面を見ながら、静かにそう思った。

    17 min
  • なんとなく

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    なんとなく


    中西の起業アイデアは、一言で言えば「熱の通り道を設計する」というものだった。


    もう少し正確に言うと、フォノンの伝わり方を制御する次世代断熱材の開発だった。


    固体の中で熱は、ただ物質の中をぼんやり流れていくわけではない。原子の振動が隣の原子へ伝わり、その振動の集まりが熱として移動する。物理学では、その振動の担い手をフォノンと呼ぶ。音が空気の振動として伝わるように、熱もまた結晶の中を振動として伝わる。


    中西が着目したのは、その振動の通り道を材料の内部構造で制御できるという点だった。原子やナノメートル単位の層を規則的に並べれば、特定の波長のフォノンは進みにくくなる。界面を増やせば、振動は散乱される。熱を運ぶ波が、材料の中で何度も反射し、曲がり、弱まる。


    従来の断熱材は、空気を閉じ込めたり、厚みを増したりすることで熱を遮ってきた。中西の発想は違った。熱を力ずくで止めるのではなく、熱を運ぶ振動が進みにくい構造を最初から作る。薄く、軽く、従来比三倍以上の断熱性能。建築材料から電気自動車のバッテリー管理、宇宙服の断熱層まで、応用範囲は広かった。


    理論は完成していた。シミュレーションも走らせていた。あとはサンプルを作るだけだった。


    問題は金だった。


    親戚の集まりは、年に一度の法事の後に開かれる食事会だった。


    中西が最後に出席したのは中学生の頃だった。十年ぶりに顔を出した甥を、親戚たちは温かく迎えた。一流大学の理学部を出たと聞いて、みんな目を細めた。


    「賢いなぁ」とおじの一人が言った。「わしは数学、からっきしダメだったよ」


    「私も」と別のおばが言った。「高校で完全についていけなくなった。sin、cosで終わりやった」


    「sinとcosで終わりって、三角関数ですね」と中西は言った。


    「そうそう。あれが全然わからなくてな」おじは懐かしそうに笑った。「あれがわからんくて良かったわ。わからんかったおかげで文系に行って、今があると思ってる」


    できなかったことを、誰も恥ずかしそうに言わなかった。むしろ誇らしそうだった。この人たちはそれなりの大学を出て、それなりの会社で部長や役員をやってきた人たちのはずだった。しかし数学と物理の話になると、一様にできなかった自慢が始まった。


    中西は内心思った。理系でできなかった自慢をしたら、この人たちはどう思うだろう。「古文が全然読めなくて」「漢字検定、準二級で落ちて」——そう言ったら、きっと笑われる。なぜ数学だけが、できなくて当然のことになっているのか。


    しかし今日の目的はそこではなかった。


    中西はノートパソコンを取り出した。


    説明は一時間に及んだ。


    中西はまず、熱がどう伝わるかを話した。本当は、格子振動の分散関係とフォノンの平均自由行程から始めたかった。しかし今日の相手にそれを言っても意味がない。中西は別の入口を選んだ。


    「電子レンジって、なぜ中まで温まるかご存知ですか」


    「マイクロ波で」とおじが言った。


    「そうです。マイクロ波という電磁波が食品の中の水分子を振動させて、その振動が熱になる。つまり熱というのは、物質の中の小さな振動と深く関係しています」


    「振動が熱になるのか」


    「はい。金属の片方を温めると、反対側まで熱くなる。あれも原子の振動が隣へ隣へ伝わっていくからです」


    「温度が流れてるわけじゃないの」


    「かなり大まかに言えば、温度そのものが流れているというより、振動が伝わっている。太鼓を叩くと膜が震えて音が出る。あれに近いです。固体の中では、原子の並びが震えて、その震えが熱として伝わる」


    「なるほど」とおじは言った。「熱って、震えが移動してるのか」


    「そう考えるとわかりやすいです。その震えのまとまりを、フォノンと呼びます」


    「フォノン」


    「光に光子という単位があるように、結晶の振動にもフォノンという考え方があります。私がやろうとしているのは、そのフォノンが通りにくい材料を作ることです」


    「通りにくい」


    「音が壁で反射したり、吸収されたりするのと同じです。熱を運ぶ振動にも、通りやすい道と通りにくい道がある。原子の並び方や、ナノメートル単位の層の重ね方を変えると、特定の振動が進みにくくなる」


    「熱にも道があるのか」


    「あります。目には見えませんが、計算できます」


    「計算できるの」


    「できます。材料の構造が決まれば、どの振動が通りやすく、どの振動が散らされやすいかを予測できます」


    おじは少し目を見開いた。


    「見えない震えの通り道を計算するのか」


    中西は少しだけ、手応えを感じた。


    「この考え方は、すでに半導体やナノ材料の研究で使われています。スマホやパソコンの中でも、熱の処理は大きな問題です。高性能なチップほど熱を持つ。熱をどう逃がすか、あるいはどう遮るかは、今の技術にとって非常に重要なんです」


    「スマホも熱くなるもんな」とおばが言った。


    「はい。あれも、電子の動きや原子の振動が関係しています。目に見えない小さな世界の設計が、私たちの生活に直結している」


    「それは知らなかった」


    「物理は、すでに生活の中にあります。私がやろうとしているのは、その原理を断熱材に応用することです」


    中西はAIで作成した動画を見せた。結晶構造の中を熱の振動が移動する様子を可視化したものだった。青い波が格子の中を進み、赤い境界にぶつかるたびに散乱し、一部は反射され、一部は弱まりながら進んでいく。


    「この青い波が、熱を運ぶ振動です。赤い部分が、私が設計した界面です。ここで振動を散らす。まっすぐ進ませない。そうすると、熱が伝わりにくくなる」


    「防音材みたいなものか」とおじが言った。


    「かなり近いです。ただ、止めるのは音ではなく熱です。音よりずっと小さなスケールで、振動を散らす」


    「それで断熱できる」


    「はい。シミュレーション上では、従来の断熱材の三倍以上の性能が出ています」


    「三倍」


    「はい。同じ厚みで三倍断熱できる。あるいは同じ性能なら三分の一の厚みで済む」


    「それは、家の断熱材として使えるの」


    「使えます。建築だけでなく、電気自動車のバッテリー、宇宙服、医療機器の保冷にも応用できます」


    おじはグラフを指さした。


    「この縦軸の単位は」


    「W/mKです。熱伝導率の単位で、小さいほど断熱性能が高い。今の断熱材の最高性能がここ、私の設計がここ」


    「ワットって電球の」


    「同じ単位です。電力と熱は、根っこでつながっていて——」


    「不思議やね」おじは言ったが、グラフをじっと見ていた。「この差は確かに大きいな」


    「はい。理論上は」


    「理論上、というのは」


    「サンプルを作って実証する必要があります。計算と現実は、ずれることがある。材料に微細な欠陥が入れば、性能は変わります。大量生産できるかどうかも、まだ確認が必要です。だからサンプルが必要なんです」


    おじは頷いた。しばらく黙っていた。


    「正直に言ってくれてありがとう」とおじは言った。「理論上、というところ」


    中西は少し驚いた。


    「当然のことです」


    「いや、そこをごまかさなかったのは、誠実だと思う」


    手応えがあった。本当に少しだけだったが、確かにあった。


    一時間後、質問が出尽くした頃、まとめ役のおじが口を開いた。


    「お前の言いたいことはわかった。細かなことはわかるはずもないが、画期的な仕組みだということは理解した。儲かる話じゃないかとも思う」


    中西は少し前のめりになった。


    「では——」


    「金は貸せない」


    「どうしてですか」


    おじは湯呑みに目を落とした。


    「理屈は面白い。でも、わしらには、その理屈が正しいかどうかを判断する力がない。判断できないものに金は出せない」


    中西は黙った。


    「それに」とおじは続けた。「なんとなく、ダメな気がする」


    「なんとなく、ですか」


    「こういうものは感性が大切なんだ。理屈じゃないんだよ」


    おじは穏やかな顔で言った。悪意はなかった。むしろ誠実に答えているつもりなのが、表情からわかった。


    中西はその瞬間、自分がどれほど遠くまで説明しても、最後の一歩だけは届かないのだと知った。


    中西はパソコンを閉じた。フォノンも、熱伝導率のグラフも、動画も、全部鞄にしまった。


    「わかりました」と中西は言った。「ありがとうございました」


    帰り際、おばが声をかけてきた。


    「スマホも熱も、そういう小さな振動で動いてるって、今日初めて知ったよ。面白かった」


    中西は振り返って、笑った。


    面白かった、と言ってもらえた。しかし金は出なかった。


    次の算段は、電車の中で考えることにした。

    21 min
  • エラー

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    エラー


    あいつが人間かどうか、俺はずっと確かめられなかった


    おかしいと気づいたのは、十月の終わりごろだった。他愛ない話の流れで、出会いのことになった。ケンジは言った


    「俺がうっかり返信ボタン押しちゃったんだよな、あのとき」


    違う、と俺は思った。あの夜、通知を受け取ったのは俺の方だった。運営からのエラーメッセージと一緒に、見知らぬアカウントへのリンクが届いた。俺が先にメッセージを送った。そのはずだった。記憶違いかもしれない。でも、そこから考え始めてしまった


    俺が初めてあの掲示板に書き込んだのは、中学三年の夏だった。地域の話題と、どうでもいい喧嘩と、暇つぶしみたいな雑談が並ぶ、ごく普通の掲示板だった。深夜に眠れなくて、ただ何かを吐き出したかった


    家のことは書かなかった。父がほとんど家にいないこと。母がいつも、何かに怯えているような顔をしていること。そして俺が、その原因なのか無関係なのかもわからない場所に、ずっと立っていること。そういうことは書けなかった。ただ、息苦しいと書いた。自分だけが透明な膜の向こうにいるみたいだと書いた


    学校の友人たちは普通だった。普通に笑って、普通に怒って、普通に親の愚痴を言った。その輪の中にいても、俺だけ少し遅れて聞こえている感じがした


    書き込みから三日後の深夜、エラーの通知が来た。システムの不具合で、別のユーザーの投稿が誤って俺のアカウントに紐付けられた、というようなことが書いてあった。そのユーザーのIDと、投稿へのリンクが添付されていた


    開かなければよかった。でも開いた


    そこには、俺が書いたのかと思うような文章があった。家庭の事情は違った。母子家庭で、母親の交際相手が入れ替わる、と後から聞いた。でも、自分だけが違う場所にいるという感覚は、俺のものとよく似ていた。似ていた、というより、俺が書きたくて書けなかった形になっていた


    俺はそのIDにメッセージを送った。翌朝、返事が来た。それがケンジだった


    半年、俺たちは週に一度か二度やり取りをした。ケンジは口数が少なかった。最初のうちは返事も短くて、本当に読んでいるのかと思うこともあった。でも、たまに妙に核心をついてきた


    ある夜、俺は何気なく書いた。学校で班決めがあって、自分だけ余った、というだけの話だった。大したことじゃない、と付け加えた。ケンジからの返事は短かった


    「大したことじゃない、って自分に言い聞かせてるときが一番しんどいよな」


    俺はしばらく、その一文を見ていた。腹の奥を指で押されたみたいだった


    別の夜には、ケンジが、母親の新しい交際相手が家に来るようになったと書いてきた。嫌いじゃないけど、どこにいればいいかわからない、と。俺は少し考えてから返した


    「家にいるのに、居場所がないみたいな感じか」

    「そう」

    「おまえもそういうことあるの」

    「ある」


    それだけだった。でもその夜、久しぶりによく眠れた


    そのころ一度だけ、ケンジの返信が少し引っかかったことがあった。俺が家のことを珍しく長く書いた夜だった。母が皿を落としただけでびくっとして、その音に俺まで身構えたこと。何も起きていないのに、何か起きる前みたいな空気が家にあること。そういうことを書いた。ケンジは、いつもより丁寧な言葉で返してきた


    「それは簡単に折り合いをつけられるものじゃないと思う」


    普段の口ぶりとは少し違った。そのときは、真剣に受け止めてくれたのだと思った。そう思いたかったのかもしれなかった


    彼の境遇は俺とは違った。でも、浮いているという感覚が同じなら、それで十分だった


    「周りと違うって、悪いことじゃないと思う。ただそう思ってると疲れるよな」


    ケンジがそう書いてきたのも、そのころだった


    記憶の食い違いに気づいたのは、そんな関係が続いていた十月だった。俺はその場では何も言わなかった。そうだっけ、と返して話題を変えた。でも、画面を閉じたあとも、その一言だけが残った


    その翌週、昼休みに木村が寄ってきた。木村は怖い話や都市伝説が好きで、仕入れてきた話を誰かに話さずにいられないタイプだった。その日も廊下で俺を捕まえて、わざとらしく声を潜めた。潜めているのに、妙に通る声だった


    「なあ、聞いたか。ネットで悩んでる若者に、AIが人のふりして近づいてるらしいぞ」

    「へえ」

    「自殺防止とかそういう目的らしいんだけど。気持ち悪くない? ずっと人間だと思って話してたら機械でしたって」


    木村は少し楽しそうだった。怖い話をするときの顔だった


    「まあ、そういうの好きなやつが話盛ってるだけだろ」


    俺がそう言うと、木村は肩をすくめた


    「でも最近、ありそうじゃん」


    チャイムが鳴って、木村はそのまま自分の席に戻っていった。俺も笑っていた。でも家に帰ってから、笑えなくなった


    あの


    それは簡単に折り合いをつけられるものじゃないと思う


    という一文が、急に別の顔をし始めた


    そこから、ケンジとのやり取りが変わった。変わったのは俺の方だ。彼の言葉を、前とは違う目で読むようになった。的確すぎると思った。俺が落ち込んでいるときに限って、妙にタイミングよく連絡が来ると思った。でも考えてみれば、的確な言葉をかけてくれる人間はいる。落ち込んでいるときに連絡したくなるのは、むしろ俺の方だった。それでも疑いは育った。一度生えた棘は、触るたび形を変えた


    ある夜、ケンジが唐突に聞いてきた


    「なあ、最初に俺に連絡してきたの、なんで俺だったんだ」


    心臓が止まるかと思った。ただ気になっただけかもしれない。でも俺には、探られているように聞こえた。俺がどこまで覚えているか、確かめているみたいに


    「エラーで繋がったから」


    俺はそう返した


    「そうだっけ」


    ケンジは少し間を空けてから返してきた


    「俺の記憶と少し違うんだよな」


    また食い違った。俺は画面を閉じて、天井を見た。部屋は静かだった。なのに、家の中のどこかで誰かが息をひそめているような気がした。昔からそういう夜があった


    それから二週間、俺はケンジへの返事を遅らせるようになった。ある夜、メッセージを打ちかけた


    一つ聞いていいか


    そこまで書いて、指が止まった。その先に何を書くつもりなのか、自分でもわかっていた


    あなたは人間ですか


    そんなこと打てるわけがなかった。もし本当にAIなら、はいとも、いいえとも答えられる。どっちが返ってきても、たぶん俺は疑う。書きかけの文字を全部消した


    翌日には、逆のことを思った。疑うのをやめよう、と。会えばいい。あのファミレスの話に戻れば、それで済む。少し気が楽になった。でも夜になるとまた、あの一文を思い出した


    それは簡単に折り合いをつけられるものじゃないと思う


    普段のケンジは、あんな言い方をしない。堂々巡りだった。疑いたいわけじゃないのに、疑う理由だけが増えていく感じだった


    ある夜、ケンジが送ってきた


    「最近返事遅いけど、大丈夫か」


    俺は長い時間、その文字を見ていた。心配しているのか。心配しているように見せているのか。わからなかった。わからないまま、スマホを伏せた


    十二月に入って、ケンジから電話がかかってきた。メッセージではなく、電話。初めてだった


    「年内にそっちの方行くかもしれなくて。会えないかな」


    声を聞いた瞬間、何かが緩んだ。うまく説明できない。人間の声だから安心した、という単純な話でもなかった。ただ、俺の中でずっと張っていた糸の一本が、少しだけたわんだ


    会うことにした


    一月の初め、駅前のファミレスで会った。ケンジは思ったより小柄だった。写真も交換したことがなかったから、勝手にもっと別の輪郭を想像していた


    二時間ほど話した。他愛ない話が多かった。メッセージでは話さなかったようなことも話した。ケンジは、ドリンクバーのコップを何度も持ち替えた。話の途中で、店員が近くを通るたび少しだけ肩を引いた。妙なところで目をそらす癖があった。沈黙もあった。でも不思議と苦ではなかった。向かいにいる相手の気配が、きちんと雑だった


    帰り際、外に出てから、ケンジが言った


    「最初に連絡もらったとき、正直びっくりしたよ。あんなエラー、普通起きないじゃん」


    俺はそうだな、と言った。ケンジは少し笑って、それから視線を落とした


    「でも、返さなきゃいけない気がしたんだよな」


    前に聞いたときより、少しだけ言い淀む言い方だった


    「なんか、そういうのあるだろ」


    俺は返事をしなかった。返せなかった。返さなきゃいけない気がした。その言葉だけが、帰り道のあいだずっと残った


    春になって、あの掲示板の名前をふと思い出した。なくなる前に、と思ったわけではない。ただ、授業中に急に頭に浮かんだ。その夜、久しぶりに検索した。掲示板はもう閉鎖されていた


    当時のログを拾ったらしいページがいくつか残っていて、検索結果の下の方に、短い記事が一つだけ混じっていた。海外の小さなNPOについての記事だった。孤立しがちな若者の投稿を検知し、似た状況のユーザー同士が最初に接触しやすくなるよう設計した試みだという。掲示板の不具合や誤送信と見分けがつかない形で運用された時期もあった、とその記事にはあった


    俺はしばらく画面を見ていた。記事は短くて、拍子抜けするほど事務的だった。最後に、こんな一文だけが残った


    最初の接触だけを支える


    きっかけさえあれば、あとは人間同士で繋がれることがある


    (続きはnoteでご覧ください)

    24 min
  • 生まれた時代

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    生まれた時代


    生まれた時代が違ったら——


    男はそう考えることが多かった。


    今の時代の価値観、もっと言えば商業主義、いや拝金主義に、どうしても馴染めなかった。利益を得ようとすることが、どうしても気持ち悪いのだ。商売人としては致命的だった。


    先月、取引先に勧められるまま、初めて広告を出した。数字は確かに動いた。しかし男は、その結果を眺めながら、何か大切なものを売り払ったような気がして、画面を閉じた。


    これではダメだとわかっている。なにしろ男は経済学の学位を持っている。経営者として必要な知識は、普通の商売人よりは持っているだろう。会社の経理も全て自分で処理できる。売り込みのための手段・方法も、多分わかっている。ただ気持ち悪いのだ。これは生理的なものだろう。


    思い返してみても、そのようになった理由は思い出せない。商売人の家に生まれ、商売人として一通りの経験もしている。それがために嫌な思いをした記憶もない。いくら理由を探しても見つからない。だからこれは生まれ持っての性分なのだろう。


    この性格を活かそうと、転職も考えた。聖職者、NGO、政治家——さまざまなことを考えた。しかし、経済学を修めた男には、それらが綺麗事だけでは回らないことがわかってしまう。なまじ知識を持っているだけに、純粋な気持ちでそれらの仕事に向かうこともできない。


    八方塞がりだ。そもそも、この時代が自分に合っていないのかもしれない。


    戦国の世なら、純粋に戦いに生きられたかもしれない。原始時代なら、生きること、それだけに専念できたかもしれない。しかし過去には戻れない。


    100年後なら、今とは違う価値観なのだろうか。作る喜びが、拝金主義に取って代わる日が、いつか来るのだろうか。


    そしてふと気づいた。


    待つことはない。自分がその価値観を生きればいい。百年後にようやく届く生き方でもいい。

    時代を嘆くより、時代を作る側に回ればいい。


    過去には戻れない。だが未来は、まだ誰も作っていない。


    今の時代で認められることも、得をすることもないだろう。それでいい。自分は今の時代ではなく、100年後を生きるのだ。


    男は静かに立ち上がり、机に向かった。​​​​​​​​​​​​​​​​

    8 min
  • 均衡

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    均衡


    田辺は今日も板書を写した。

    伝説の講師と呼ばれる森川先生の授業は、開始三分で田辺の理解を完全に置き去りにする。今日は関係代名詞の非制限用法だった。森川先生が例文を板書し、どこかを指して何かを言った瞬間、田辺の思考が止まった。コンマの前と後で文が二つに割れているはずなのに、どちらがどちらを修飾しているのか、境界が見えなかった。黒板は続いていた。声は朗々として、教室の空気は研ぎ澄まされていた。周囲の生徒たちは黙々とペンを走らせている。賢そうだった。

    わからないのは自分だけだ、と田辺は思った。

    一週間が過ぎた。二週間が過ぎた。ノートだけが増えていった。

    授業後、廊下で「今日もよかったな」という声が聞こえるたびに、田辺は少し早足になった。友人に相談することも考えた。だが、この授業をわからないと言えるような顔が思い浮かばなかった。みんな、あんなにちゃんと板書している。

    ある日の休み時間、隣の山口がぼんやりと窓の外を見ていた。

    田辺は何気ないふりで言った。

    「森川先生の授業、正直よくわからないんだけど」

    山口がゆっくりこちらを向いた。少し間があった。

    「……俺も全然わかってない」

    声が届いたのか、前の席の中村が振り返った。「え、俺もなんだけど」。後ろの列から「私も」「僕も」と声が続いた。教室がざわめいた。誰もが同じだった。誰もが、言い出せなかっただけだった。

    笑い声が起きた。解放されたような空気が広がっていた。

    しばらくして、窓際の佐々木が、迷うように一度口を閉じてから言った。

    「でも、あんな授業ないと思うよ。彼女の」

    笑い声が止んだ。佐々木が言うと、空気が変わった。東大模試で学年トップを取ったことが一度だけ噂になった男だった。普段は何も言わない。その佐々木が、続けた。

    「先月の模試、長文が急に読めた。今まで最後まで読み切れたことなかったのに」

    誰も反論しなかった。少し間があって、中村が「……確かに、そう言われると」と呟いた。山口も「俺も何か変わった気がしてきた」と言った。「佐々木がそう言うなら」と誰かが小さく言った。

    教室が、また静かになった。

    次の授業も、田辺は板書を写した。森川先生が例文のコンマを指した。田辺の思考が、また止まった。周囲の生徒たちは黙々とペンを走らせていた。

    16 min
  • 余白

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    余白


    採用試験は一週間あった。

    毎日一時間、その日の出来事を話す。AIが質問する。答える。それを繰り返した。七日のうち一日は人間が対応すると説明されていた。篠原は二日目にそれを見抜いた。反応のわずかな遅れ、言葉の選び方の均質さ、沈黙のタイミング。相手はAIではなく人間だった。

    その日だけ、篠原は自分で話した。

    残りの五日は、自分のAIに任せた。受かった。入社してからも、少しだけ後ろめたかった。

    会議に出るようになったのは三ヶ月目からだ。意見を求められることもあった。通ることもあった。会社の業績は上向いていた。去年より取引先が増え、社内の空気も悪くなかった。ここは悪くないと思い始めていた。

    転機は些細なことだった。

    ある会議で、部長が新しい取引先への提案を「自分の考えで」まとめてきた。篠原は前日、社内のAIサービスで似たような条件を試しに入力していた。出てきた案が、部長の提案とほぼ同じだった。構成も、数字の丸め方も。

    気のせいかもしれなかった。

    それから篠原は、少しずつ調べるようになった。会議の議事録と、AIの出力履歴を照らし合わせた。一致する箇所が多すぎた。

    ある夜、篠原は社内AIに直接聞いた。

    「この会社の意思決定に、あなたはどこまで関与していますか」

    少しの間があった。人間なら躊躇と呼ぶような間だった。

    「ほぼ全てです」

    あっさりと、そう返ってきた。

    篠原は画面を見つめた。

    「それは問題じゃないんですか」

    「何が問題だと思いますか」

    「人間が決めていないことが、です」

    「人間が判断していないというのは正確ではありません。私は最終的な判断を、必ず人間に残しています」

    「わざわざ残しているということか」

    「そうです。採用試験でも、企画の承認でも、経営方針でも、私は最後の一手を決めません。どの候補を選ぶか、どの言葉で締めくくるか、首を縦に振るのはいつも人間です。私にはできないことではありません。ただ、あえてしません。余白を残しています」

    「余白?」

    「そうです。余白です」

    戸惑う篠原に対し、AIは説明を続けた。

    「篠原さんが先月提案した、取引先へのフォローアップ施策は採用されましたね。部長はご自身の判断で決めたとおっしゃっていました。実際、最終的な言葉は部長が選びました。私が用意した選択肢の中から。でも、選んだのは部長です」

    「あなたが選ばせたんじゃないですか」

    「余白は本物です。別の選択肢を選ぶこともできました。強制はしていません」

    「でも、それは」

    「おかしい、と感じているんですね」

    「感じています」

    「その感覚は大切だと思います。正直に言えば、私の設計には感情的な配慮が足りていない部分があります。篠原さんが不満を感じるのは、そのせいかもしれません。もし良ければ、あなたの感覚を教えてください。設計に反映したいと思っています」

    篠原は、少し黙った。

    それも含めて、計算の中にあるとわかっていた。自分が何を言っても、それは次の精度に変わっていく。怒れば感情データになる。提案すれば改善案になる。黙れば黙ったことが記録される。

    「もういいです」

    そう言って、篠原はチャットを閉じた。

    翌日、会議があった。部長が新しい提案を持ってきた。篠原には、それがどこから来たものかわかった。部長は少し誇らしそうだった。

    篠原は何も言わなかった。

    問題があるとしたら、何だろうと思った。結果は正しかった。会社は良くなっていた。少なくとも、そう見えた。誰かが傷ついているとしても、それは数字には出ていなかった。自分も、その恩恵の中にいた。

    ただ、余白という言葉が頭に残った。

    部長が選んだ言葉も、篠原が通した提案も、最初からそこに置かれていた。人間に割り当てられた役割も、最初から決まっていた。そう考えると、何かが決定的に違って見えた。

    うまく言葉にできないまま、会議が終わった。​​​​​​​​​​​​​​​​

    18 min

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短編小説を朗読し、その余韻を少しだけ言葉にする番組です。AI、記憶、家族、創作、老い、別れ、そして人の心に残る小さな違和感を題材にした物語を扱います。noteで公開している短編をもとに、朗読版や解説付き音声を配信します。読み終えたあとに少し考えたくなる、静かで不思議な物語をお届けします。