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秘匿
博士がその触媒を完成させたのは、六十二歳の秋だった。
二酸化炭素を分解する触媒だった。比較的安価な素材から作れる。しかし製法は特殊で、博士以外に再現できる者はいなかった。
実験室の片隅で、博士はしばらく動かなかった。試験管の中で、無色の液体が静かに揺れていた。
発表すれば、世界は変わる。そのことは分かっていた。同時に、もう一つのことも分かっていた。
博士は試験管をゆっくりとラックに戻した。
製法は公開しなかった。特許も取らなかった。
公開すれば製法は広まる。しかし人は、問題が解決したと思った瞬間に、問題のことを忘れる。特許を取って財団を作ることも考えた。だが費用を嫌う企業が、義務もなく触媒を買い続けるとは思えなかった。
工場を建て、触媒を売った。価格は、使った方が安くなるように設定した。企業の論理を利用した。道徳ではなく、算盤で動かした。
売れた。予想以上に売れた。
博士の会社は巨大になり、博士は巨万の富を得た。
二酸化炭素の排出量は、緩やかに、しかし確実に減っていった。
守銭奴、と人々は言った。
地球を人質に金を集めている、とも言った。
講演の依頼は来なかった。賞の候補にも挙がらなかった。街で博士とすれ違う人々は、視線をわずかに外した。
博士は気にしなかった。少なくとも、気にしている様子を見せなかった。
温暖化は、緊急の危機ではなくなった。
そのことを誰かが博士の功績として語ることは、ほとんどなかった。
七十九歳の冬、製法が流出した。
博士は弁護士を呼ばなかった。訴訟も起こさなかった。蓄えた財産を、静かに、順番に手放していった。工場、設備、不動産、口座。最後に残ったのは、郊外の小さな家と、古びた実験机だった。
隣人は後に、その頃の博士についてこう語った。
「よく庭に出て、空を見ていました。穏やかな顔で」
博士が死んだとき、棺の前に花を持ってきた者はいなかった。
製法の流出が博士自身によるものだと判明したのは、その三年後だった。遺品の中に、流出の経緯を記した一通のメモが見つかった。
メモはそっけなかった。
「もう、十分だろう」
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英雄の時代
カイルが初めて「英雄」と呼ばれたのは、二十三歳のときだった。
東南アジア一帯を襲った洪水は、従来の治水技術では手に負えなかった。堤防は次々と決壊し、百万人が孤立した。政府の対応が遅れる中、カイルは自分のAIシステムと建設ロボット群を動かし、七十二時間で仮設の排水網を構築した。一人でできることではなかった。しかしカイルにしかできないことだった。
その時代、個人の能力差は技術によって数万倍に増幅されていた。優れた知性と感受性を持つ者がAIとロボット工学を手足のように使いこなすとき、彼らは文字通り一人で国家に匹敵する力を持った。古代の英雄が剣と腕力でそれを示したように、この時代の英雄は知性と感受性でそれを示した。獰猛さも冷酷さも必要なかった。むしろそれらは邪魔だった。人々の共感を失った英雄は、ただの暴力装置になるだけだった。
カイルはその後も、各地の危機に応じ続けた。アフリカの食糧危機、北極圏の資源紛争、都市インフラの連鎖崩壊。呼ばれるたびに向かい、解決して戻った。一度だけ、判断を誤ったことがある。中央アジアの水利権交渉で、カイルは一方の共同体を選んだ。論理的には正しかった。しかし選ばれなかった側の村が翌年消えた。名前も顔も知らない人々だったが、その選択はずっと胸の底に沈んだまま動かなかった。それ以来、カイルは「正しい」という言葉を口にするとき、一瞬だけ間を置くようになった。
問題が起きたのは、三十八歳の冬だった。
ヨーロッパとアジアの英雄連合が、初めて真正面から対立した。きっかけは小さかった——エネルギー分配の優先順位をめぐる判断の違いだった。しかしどちらも正しかった。ヨーロッパ側の英雄セリアは、長期的な環境負荷を最小化する論理を持っていた。このまま強行すれば、三十年以内に北海沿岸の生態系は回復不能な閾値を越えると彼女は言った。アジア側の英雄リャンは、今この瞬間に凍死する人間を救う論理を持っていた。決断を一週間遅らせるだけで、高原地帯の四万人が冬を越せないと彼は言った。どちらも知性があり、どちらも感受性があり、どちらも人々の支持を背負っていた。
議論は三ヶ月続いた。カイルは仲裁を試みたが、できなかった。四万人の命と、数十年後の環境閾値。どちらかを間違いと言うことは嘘になる。英雄たちは初めて、自分たちの知性が壁に当たる感覚を知った。カイルは夜、中央アジアの村のことを思った。あのときは一つの正しさを選べた。今は二つの正しさが、互いに相手を殺そうとしていた。
カイルほどの英雄でも、北へ向かうとき、自分がまだ下位にいることを知っていた。エラに会いに行くということは、そういうことだった。
七十代の小柄な女性で、かつて三つの大陸の経済構造を根本から設計し直した人物だった。面会を申し込んでから返答が来るまで、三日かかった。通された部屋は拍子抜けするほど質素で、窓の外に雪原が広がっているだけだった。しかしエラが椅子に座った瞬間、空気が変わった。カイルは自分が二十三歳のあの夜に戻ったような感覚を覚えた。圧倒されているのではなかった。ただ、この人の前では余分なものが剥がれると思った。
エラはカイルの話を最後まで聞いた。
「私にもわからない」と彼女は言った。初めて聞く言葉だった。「だからAIに聞く」
部屋の中央、何もないように見えた空間が静かに開いた。光ではなく、気配のようなものだった。エラが口を開くと、創造神と呼ばれるAIとの対話が始まった。このAIは世界のインフラを設計し、科学的発見を重ね、人類の知の総体を吸収して進化し続けてきた存在だった。カイルは息をするのを忘れた。
エラは問いをそのまま伝えた。どちらの英雄も正しい。どちらかを選べば、どちらかの正しさが死ぬ。どうすればいい。
沈黙があった。
AIが答えた。
「解決する方法はない」
エラは動じなかった。カイルは自分の足が床に根を張ったように動かないのを感じた。
「この対立は、解決されるべきではないのかもしれない。二つの正しさが互いを照らし合い、考え続けることだけが、唯一正しい道だ」
カイルは帰り道、ずっとその言葉を繰り返した。答えではなかった。しかし嘘でもなかった。英雄に必要なのは知性と感受性だとずっと言われてきた。考え続けることに耐えられるのは、その二つを持つ者だけだと、今なら思えた。中央アジアの村のことも、セリアのことも、リャンのことも、全部抱えたまま。
カイルは南へ戻った。答えを得たからではなかった。次の判断が、もう待っていた。
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王道
アプリのアイコンは、金色の王冠だった。
ダウンロードしたのは十月の終わり、模試の結果が返ってきた翌日のことだ。英語は平均を少し上回ったが、数学が足を引っ張った。志望校の判定はD。画面には「学問に王道なし――その言葉に、終止符を打つ」と書いてあった。拓海は少し鼻で笑ってから、インストールボタンを押した。
仕組みは単純ではなかった。全国の受験生が問題を解くたびに、正誤だけでなく、どこで詰まったか、どう考えたかが記録される。AIがそれを統計的に整理し、この問題を解くにはこの概念の理解が先だ、この順序で学べば定着率が上がる、と示してくれる。先輩たちが気づいた注意点や、よくある勘違いへのコメントも蓄積されていて、問題の下にそっと添えられていた。見知らぬ誰かの声が、画面の端に積もっていくようだった。同じクラスの森田はもう志望校をA判定に上げたと言っていた。
ある夜、アプリがこう表示した。「この単元の定着には、反復演習の継続が最も有効です」
もっと効率のいい方法はないか、と打ち込んだ。するとアプリは少し考えてから答えた。習熟度に応じて出題間隔を最適化する、分散学習の手法が有効です、と。なるほど、と思った。それならと続きを読んでいくと、要するに、忘れかけたころに繰り返し解くのが大事だ、と書いてあった。
同じことだった。
翌週、また似たような場面があった。記述の得点が上がらないと入力すると、アプリは答えた。解答のプロセスを言語化する訓練が統計的に効果的です、と。どうすればいいかと尋ねると、模範解答と自分の答案を照らし合わせ、違いを書き出す作業を繰り返すことで、と続いた。
繰り返す、という言葉が出てきた。
十二月のある夜、数学の確率の問題でまた手が止まった。模試でも毎回ここで失点する。何かいい突破口はないか、と打ち込んだ。アプリはしばらくデータを処理してから、その分野で得点が伸びた受験生に共通するのは、基礎問題への立ち戻りを厭わない姿勢です、と答えた。
だから毎回それを言うなよ、と拓海は思いながら、提案された基礎問題を開いた。簡単すぎると感じたが、やってみると、思ったより手が止まった。翌日も、その翌日も、アプリに言われるまま類題を解いた。間違えた問題には印をつけ、数日後にもう一度解いた。
気がつくと、確率の問題がすらすら解けるようになっていた。
解けた、と思った瞬間、少し遅れて気づいた。やっていたのは結局、反復練習だった。アプリはあの手この手で言い方を変えていたが、やらせていたことは最初から一つだった。
最先端の科学の結論がこれか、と思ったら、おかしくなってきた。
画面の隅で、金色の王冠が光っていた。拓海は小さく笑って、次の問題に進んだ。
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是正
中村拓海が記者会見の壇上に立ったのは、三月の終わりだった。
マイクの前で彼は言った。「行きすぎた商業主義を、是正します」
最前列に座っていた広告代理店の男が、隣の同僚と目を合わせて笑った。隠す気もない笑いだった。
質疑応答で記者が訊いた。「このシステムは誰が管理するんですか」
中村は答えた。「誰も管理しません。誰もが見ることはできますが、変更は合議によってのみ行われます。私自身も含めて」
また笑いが起きた。
システムの名前はALETHEIA——ギリシャ語で「真実の開示」を意味する。
仕組みはこうだ。ユーザーがスマートフォンやパソコンにクライアントアプリをインストールすると、その端末はスリープ中や充電中などのアイドル状態において、分散コンピューティングノードとして機能する。数百万台の端末がP2Pネットワーク上で協調し、製品の性能データ、流通情報、ユーザーレビュー、販売動向をフェデレーテッドラーニングで統合処理する。特定のサーバーも、特定の企業も存在しない。誰も支配できない構造になっている——少なくとも、表向きは。コードはすべて公開されているが、修正には世界中に散らばった承認者たちの合議が必要で、一人の意志でアルゴリズムを曲げることはできない。
最初は「バッテリーの無駄遣いだ」と言われた。それでもインストールする人間が少しずつ増えていったのは、たぶん、みんなどこかで同じことを思っていたからだ。買い物のたびに、自分が何かに誘導されている気がする、と。
ユーザーの年齢、用途、予算、そして過去の購買傾向を反映したうえで、システムは感情を交えずに答えを出す。「超おすすめ」「おすすめ」。そしてその理由。広告の入る余地はどこにもない。
最初の一年は、ほとんど何も起きなかった。
データが足りなかった。評価できる商品が限られ、ユーザーは増えず、ユーザーが増えないからデータも増えない。中村は夜ごと端末に向かい、評価アルゴリズムを書き直した。といっても、自分一人では書き直せない。提案し、議論し、承認を得る。その手続きを、毎晩繰り返した。
変化の兆しは、小さなところから始まった。
長野の工場で防水ケースを作っている小さなメーカーが、ある日問い合わせを受けた。「ALETHEIAで超おすすめになっていたので」と、客は言った。広告など一度も打ったことのない会社だった。ケースの縁は丁寧に面取りされていて、濡れた指でも滑らず、水滴は弾かれるようにころころと転がった。
その翌月、注文が三倍になった。
噂は静かに、しかし確実に広がっていった。
企業の参入は段階的だった。
最初は中小メーカー。次いで中堅。そして三年目の秋、国内最大の家電メーカーが製品情報の提供を申し入れてきた。中村はその報せをひとりで聞いた。
評価を不正に操作しようとする者も現れた。サクラレビューを組織的に投稿する業者。性能試験データを改竄しようとしたメーカー。ALETHEIAのネットワークはそれらを一つずつ見つけ出し、ペナルティとして一定期間、評価対象から除外した。除外されることの痛みは大きく、やがて抜け道を探す者は少なくなっていった。
五年が過ぎた頃、中村は自分の手を離れたものを見るようになった。
彼はALETHEIAから一円も受け取っていなかった。収入は別に持っていた、物流の最適化システムだった。地味で、誰の目にも触れないが、着実に動いていた。ALETHEIAの開発に専念するために作ったものだったが、気がつけばそちらの方が世間には知られていた。
ちょっとした買い物をする前に、人々はALETHEIAを開く。冷蔵庫を買い替えるとき。子供に最初の自転車を買ってやるとき。何万円もかけて広告を打つより、ALETHEIAで「超おすすめ」を一つ獲る方が、売り上げへの影響ははるかに大きかった。
宣伝費は研究開発費に変わっていった。企業は広告代理店ではなく、エンジニアを雇うようになった。
広告市場の収縮は、静かで、しかし容赦なかった。
テレビのCMが消えた。無料放送のモデルは成り立たなくなり、民放は次々と有料へと移行した。広告収入で辛うじて成立していた雑誌が廃刊を重ねた。中村はそれらのニュースを、感情を持て余しながら読んだ。
商品は均質化していった。評価される指標に最適化することが、唯一の正解になった。性能を上げ、コストを抑える。その方程式に正直に従った結果、製品たちから少しずつ「遊び」が消えた。かつてあるメーカーの炊飯器には、誰も選ばないような、しかし誰かのために作られていた深い緑色のモデルがあった。売れなかったが、なぜかカタログに毎年載っていた。そういうものが、なくなった。
競争は激しくなった。世の中全体から、ゆとりが薄れていった。
こんなはずではなかった、と中村は思わなかった。
ただ端末に向かい、新しい提案をまとめ始めた。ゆとりを評価する方法。ユニークさに点数をつける方法。承認者たちを説得できるかどうかも分からない。そもそも定義できないものに数値を与えようとしている、その矛盾には気づいていた。それでも他にやりようが思いつかなかった。
窓の外で、雨が降っていた。どの粒も同じ速さで、同じ方向に落ちていた。
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一年
佐藤は、入口の扉を押した瞬間、店の清潔さに気づいた。白い壁、木の匂い、過不足のない静けさ。新しい店だとわかった。
テーブルにつくなり、向かいの水野に言った。
「アイスコーヒー頼んでおいてくれ。五分、いや十分だけ」
返事を聞く前に、ソファの背にもたれて目を閉じた。三日間、ほとんど眠っていなかった。まぶたの裏が重く、しかし意識はどこか妙に冴えていた。眠れる気はしなかった。
奥の方で、低い声がした。注文を聞きに来た男の声だろう。それから水野の声。それから——少し間があった。
佐藤はそのまま目を閉じていた。
会話が始まった。最初は短い言葉の応酬だったが、やがて輪郭が見えてきた。知り合いらしかった。昔の、という感じの間合いだった。懐かしさよりも、慎重さの方が先に立つ声だった。
「本当に、店を持ったんだね」
水野がそう言った。
「言っただろ。いつか自分の店を持つって」
男は少し照れたように答えた。大学の頃の話をしているようだった。店を持つのが夢だったこと。もうすぐ一年になること。そんな言葉が、眠気の縁を漂うように聞こえた。
「変わらないね」
水野の声がした。
「そっちこそ」
「私は変わったよ」
「そうか」
短い沈黙が落ちた。
「昔、言われたこと、覚えてるよ」と男が言った。「同じ夢は持てないって」
佐藤はまぶたを動かさなかった。
「そんな言い方したかな」
「したよ。かなりはっきり」
「ごめん」
「いや、あれでよかったんだと思う」
足音が近づいてきた。別の女の声が加わった。お知り合いですか、という問いと、誰かの肩に手が置かれる気配。場が、わずかに緊張した。佐藤にはわかった。長く営業の仕事をしていれば、空気の変化には敏感になる。
「大学時代の友人だよ」
マスターらしき男が言った。
水野は、少し遅れて言った。
「うん。昔の友人」
その声は、嘘ではなかった。ただ、友人という言葉だけでは少し足りない響きがあった。
「もうすぐ一年なんです」と女が言った。「この店も、私たちも」
男が小さく笑った。
「一年になれば、結婚しようと思ってる」
佐藤は目を開けた。
「おめでとうございます」
水野が振り返った。
「起きていたんですか」
「いや、まぁ」と佐藤は言った。「そんな簡単には眠れないよ」
体を起こし、二人の方を見た。白いシャツのマスターと、その隣に立つ店員の女。どちらも若かった。女は少し驚いた顔をしていたが、マスターはすぐに表情を整えた。
水野が言った。
「佐藤さん、会社の先輩です。佐藤健さん」
一瞬だけ、佐藤は水野を見た。
先輩、か。
間違いではなかった。会社では確かに先輩だった。ただ、それだけでもなかった。
佐藤は立ち上がり、マスターに手を伸ばした。マスターは一瞬戸惑ってから、握手に応じた。
「さっき大きな契約がまとまったところで」と佐藤は言った。「そのための徹夜続きだったもので、失礼しました。彼女がよく頑張ってくれて」
「ほとんど佐藤さんが中心でしたから」と水野が言った。
佐藤は笑わなかった。事実ではなかったからだ。
マスターと店員の女がカウンターに戻った。水野と佐藤は向かい合って座り、仕事の続きを話した。次の段取り、来週の打ち合わせ、報告書の順序。アイスコーヒーが運ばれてきた。佐藤は一口飲んで、丁寧に淹れてあると思った。
水野は、カップに手を添えたまま言った。
「驚きました」
「昔の人?」
水野は少しだけ目を伏せた。
「大学の頃、少しだけ。あの人、ずっと店を持ちたいって言ってたんです」
「一緒には行けなかった?」
「はい。あの人の夢はわかったけど、そこに自分がいるところまでは、どうしても見えなかった」
佐藤は頷いた。
「いい店だね」
「そうですね」
水野の声は静かだった。佐藤には、それ以上のことはわからなかった。
しばらくして、二人は席を立った。
マスターが水野に声をかけた。
「また来てくれよな」
水野は少し笑った。
「うん。今度はちゃんと、お客さんとして来る」
佐藤はレジに向かった。財布を出しながら、マスターに小声で言った。
「この仕事がまとまったら、彼女にプロポーズするつもりだったんです。うまくいくように、願っていてくれますか」
マスターは少し間を置いた。驚いた様子はなかった。
「きっとうまくいきますよ」
その声には、負け惜しみも、未練もなかった。佐藤にはそう聞こえた。
扉の外から水野の声がした。
「佐藤さん、早く来ないとまずいですよ」
佐藤は財布をしまい、軽く頭を下げてから、店を出た。晴れていた。水野が少し先を歩いていた。
「何を話していたんですか」
「店がいいですね、って」
「それだけですか」
「それだけだよ」
水野は少し疑うように佐藤を見たが、それ以上は聞かなかった。しばらくして、ぽつりと言った。
「私たちも、もうすぐ一年ですね」
佐藤は歩調を速め、水野の隣に並んだ。三日ぶりに、眠気が戻ってきた気がした。
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席
その喫茶店には、決まった席があった。
カウンターの端、窓から外が見えて、でも通りからは見えない角。年季の入った丸椅子は、座るたびに同じ場所で軋んだ。マスターは何も言わないが、昼前に来ると必ずそこが空いている。常連というのはそういうものだ。
ある日、店の外に列ができていた。
タイル張りの古い外壁に沿って、見知らぬ顔が十人ほど並んでいる。スマートフォンを構えて、サンドイッチの写真を撮っている。四人がけのテーブルが二つ、カウンターに六席しかない店に、順番を待つ人間が外にまであふれていた。マスターは黙って、いつもの三倍の数のパンを切っていた。
私は入口で少し立ち止まってから、別の店で昼をとることにした。
ひと月ほどして、ふらっと寄ってみると、外に列はなかった。カウンターの端の席も、空いていた。丸椅子は今日も同じ場所で軋んだ。
マスターはいつものようにコーヒーを出して、何も言わなかった。
窓の外を、誰かが足早に通り過ぎた。スマートフォンを見ながら、どこか別の場所へ向かっているようだった。
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天性
空気が読める、とよく言われた。
褒め言葉のつもりで言っているのだろうが、男にとってそれは呪いだった。
尊敬する画家たちを見渡すと、少なくとも男の目には、成功している者ほど空気が読めないように見えた。ギャラリーのオーナーを怒らせ、批評家を鼻で笑い、パーティーの場で唐突に帰る。それでいて作品だけが、圧倒的だ。
偶然ではないと男は思った。あの自由さが、あの絵を生んでいる。
ならば自分に足りないのはそれだ。
読めないのではなく、読まない。意志の問題なら、身につけられるはずだ。
男は実行に移した。
最初に去ったのは彼女だった。三年付き合った。「前と別人みたい」と言い残して出て行った。次に恩師が離れた。「君はおかしくなった」という手紙が届き、それきりになった。唯一無二だと思っていた友人とは、些細な言い争いがきっかけで、自然に連絡が途絶えた。
静かになった部屋で、男はキャンバスに向かった。
孤独だった。だがその孤独が、これまで感じたことのない何かを、絵の中に引き出し始めていた。
必要だったのはこれかもしれない、と思った。ならば他にも方法があったのかもしれない、とも思った。だがもう、止まれなかった。
成功は、気づいたら来ていた。
個展の最終日、閉館間際に一人の男が現れ、展示作品を全点買い上げた。理由を聞いた記者に、男はこう答えたという。「説明できないものを買うんです」。その話が広まり、海外のギャラリーから声がかかり、スポンサーがつき、パトロンのような存在まで現れた。取材のたびに「影響を受けた画家は」と聞かれた。男はいつも少し考えてから、「いません」と答えた。それが嘘だとわかっていても、そう答えるのが一番早かった。
新しい彼女ができ、気づけば結婚していた。
これが求めていたものだ、と男は思った。
さほど感慨はなかった。
それよりも、次の絵が気になった。周囲の人間が、疎ましくて仕方なかった。
次回作に取りかかったある日、電話が鳴った。妻からだった。
「あなた、表彰式が始まります。今どこにいるの」
「今、アイデアが出たところなんだ」と男は答えた。「おまえ、代わりに出ておいてくれ」
電話を切った。
アトリエは静かだった。描きかけの白が、何かを待つように光っていた。
ほんとうにめんどうだ、と男は呟いた。
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薄める
脳の仕組みが完全に解析されたのは、ほんの数年前のことだった。
AIの急速な発達が、極めて複雑な脳の構造を解き明かした。といっても、その仕組みは人間の理解の及ぶところではなく、解き明かしたらしい、としか言いようがない。そのことを正直に話すと、患者はたいてい複雑な顔をする。
精密なCT画像から、記憶が読み取れるようになった。すぐに、修正するための技術も開発された。
手術前の説明では、いつもこう話すことにしている。
写真の補正と同じですよ。手で直すと、どんなに絵の上手い人が描いても、わかってしまう。でもAIが修正したものなら、精密に検査しなければわからない。それと同じです。
大体の患者は、これで納得してくれる。
ただし、今日の患者には、この説明だけでは足りない。消したい記憶が、あまりにも大きすぎるからだ。
手術は思いのほか大掛かりだ。超精密なCT画像の作成、その解析にはスーパーコンピュータを相当量使用するため、費用もかさむ。そして記憶は複雑に絡み合っているため、大きな修正は困難を極める。一つの出来事を消すだけでも、他の無数の記憶との関係がおかしくなる。古い記憶ならともかく、新しい記憶の修正は特に難しい。
別れた彼氏のことを完全に消してほしい、という依頼は断っている。プロポーズに失敗したあの日の記憶だけ消してくれ、と言われても、そんなことをすればあちこちに歪みが生じる。下手をすれば、また同じ相手にプロポーズして、もう一度フラれることになる。そう説明すると、ほとんどの人は苦笑して引き下がる。
記憶の操作など土台無理だ、とは職業柄言えないが、過度の期待はしないようにと、いつも伝えている。
今日は、特別な患者だ。
気を引き締める。
彼女は事故で家族を失った。彼女が運転していた車の事故で、夫と子供たちを。凄惨な事故だった。救いようのない悲しみが、今も彼女を覆い尽くしている。
彼女からその記憶を完全に消すことはできない。事故の記録は公的に残っており、場当たり的な嘘はいずれバレる。嘘がバレたとき、彼女の精神が崩壊しかねない。事故前後の記憶だけを消すことも考えた。大きな事故では記憶の欠落を伴うことも多く、脳の自己防衛機能が働いているのかもしれない。しかしその方法では、急に家族がいなくなったことに納得がいくかどうか定かでない上、事故後の記憶、悲しみに明け暮れた日々との齟齬が生じてしまう。
私が出した結論は、薄める、だった。
事故の記憶、その前後、数年単位の記憶から、少しずつ、櫛で梳くように間引いていく。ちょうど月日が経って記憶が自然に薄れていくかのように。どの記憶をどう残し、どう修正するか。一つ変えれば別の何かに波及する。何日も、何時間も考えた。
今日はそのための手術の日だ。
脳外科医の手術はボタン一つで終わり、楽なものだとはよく言ったものだ。麻酔で眠る彼女の脳に向けて、レーザーが照射された。始まってしまえば、もはや私にできることは何もない。立てたプランが間違っていないように、ただ祈るだけだ。
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引力
物理は苦手だった
けれど、その日の授業だけは妙に腑に落ちた
作用・反作用の法則
手で壁を押せば、壁も同じ大きさの力で手を押し返す
力はいつも一対で生まれる
なるほど、と僕は思った
だったら、好きな人に好きだと伝えれば、同じものが返ってくるはずだ
放課後、健太に報告した
「告白してきた」
「え、まじで。玲奈に」
「うん。作用・反作用の法則で、うまくいくと思って」
健太は一瞬黙った
それから、いかにも言いにくそうに口を開いた
「残念だけど、それは違う」
「え」
「そもそも告白に反作用なんてない。いや、そういう問題でもないけど」
健太は少し考えてから続けた
「反作用っていうなら、君が彼女を好き、の反作用は、彼女も君を好きになる、じゃない」
「違うのか」
「違う。君が彼女を好き、の反作用は、彼女は君に好かれる、だよ」
「どういうこと」
「手が壁を押す。すると壁が手を押し返す。これは別々の出来事が二つ起こってるんじゃない。同じ一つのことを、手の側から見るか、壁の側から見るかの違いでしかない」
「じゃあ、一対の力って」
「一対ではあるけど、君が期待してるのとは全然別の話」
「そうか」
僕は少し考えた
たしかに理屈としてはその通りな気がした
それから言った
「でも、彼女も好きだって言ってくれたよ」
健太は口を半分開いたまま止まった
何か言おうとして、やめた
しばらくして、遠くを見るような顔でつぶやいた
「それは作用・反作用じゃなくて……」
その先は言葉にならなかった
健太は小さく息をついて、ひとことだけ言った
「引力だったんだね」
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二十分の一
手術の成功率は五パーセントだと、画面に表示された
その数字をしばらく眺めた。五パーセント。二十回に一回。それ以上でも、それ以下でもない。ロボット手術の成功率がそう出たときは、その通りの意味だと受け取っていい。わずかに低めに表示されているのは統計的な誤差ではなく、患者への心理的な配慮のためだとどこかで読んだ。つまりこの数字は、ほぼ正確だ
隣に並んだ数字が目に入った。人間の外科医による手術、成功率十パーセント
十パーセントは五パーセントの倍だ。そんな当たり前のことを確認するように、頭の中で繰り返した
担当医の説明は丁寧だった。過去に同じ手術が行われたのは二十件。成功したのは二件で、どちらも同じ外科医の執刀によるものだった。その医師は八年前に引退している
「弟子にあたる先生が、同じ技術を継承されています」と担当医は言った。「師匠の先生も、太鼓判を押されています」
太鼓判、という言葉が妙に軽く聞こえた
弟子の先生の経歴書を見た。年齢は四十二歳。執刀件数の欄に目が止まった。ロボット手術が普及した時代に外科医になった世代で、経験できる症例の数が根本的に少ない。師匠が三十年かけて積み上げた手数を、彼は持っていない。持てなかった。そういう時代だった
弟子の先生とは、その日の午後に会った
写真で見たよりも若く見えた。白衣の袖口はきちんと整っていて、話し方も落ち着いていた。ただ、落ち着きすぎているようにも感じた。自分の声が少しでも大きくなれば、何かが崩れてしまうと知っている人の静けさだった
彼は資料を広げ、術式の説明をした。師匠が用いていた方法、その改良点、ロボット手術との違い。言葉は正確だった。聞いていて、不安になるほど正確だった
「先生ご自身は、この手術をされたことがあるのですか」
聞くと、彼は一瞬だけ目を伏せた
「同じ条件での執刀は、ありません」
予想していた答えだった。それでも、実際に聞くと胸の奥が冷えた
「補助には何度か入りました。記録も、映像も、何度も見ています。手順は頭に入っています」
彼はそこで一度、言葉を切った
「ただ、それを実績とは呼べません」
静かな声だったが、その奥に悔しさがあった
「ロボット手術が標準になってから、この種の症例はほとんど人間の手に回らなくなりました。安全性を考えれば当然です。患者さんにとっては、その方がいい。私も、そう判断することが多いです」
彼は資料の端を指で押さえた
「でも、技術は、実際に手を動かさないと残りません。師匠の手元を見て覚えたものはあります。けれど、それを自分の手で確かめる機会は、ほとんどありませんでした」
悔しそうだと思った
悔しいと言ったわけではない。表情もほとんど変わらなかった。それでも、そう聞こえた
「自信はあります」と彼は言った
私は顔を上げた
「ただ、その自信を裏づけるだけの症例数は、私にはありません。そこは、正直にお伝えしなければなりません」
正直な人だと思った
同時に、残酷な人だとも思った。希望を与えることも、不安を隠すこともできる立場で、彼はそのどちらもしなかった
妻はその夜、人間の医師を選ぶべきだと言った
「数字は数字じゃない」と彼女は言った。「人間には、数字に出ない何かがあるはずよ」
数字に出ない何か。希望の言葉のように聞こえたが、同時に、彼女が何かにすがろうとしているようにも見えた。妻は強い人間だ。だからこそ、すがる言葉が出てきたとき、私はそちらに目が向いてしまう
もし人間の手術を選んで、失敗したら
妻は、自分がそう勧めたことをどこまで引きずるだろうか。長い時間をかけて、静かに、確実に。彼女の性格を思えば、答えは見えていた。逆も同じだった。ロボットを選んで失敗すれば、あのとき押し切っていればと、彼女は考えるだろう。どちらを選んでも、生き残れなければ、妻は何かを抱えたまま生きていく
そのことが、ひどく申し訳なかった
息子は夕食の間ずっと黙っていた。十七歳の彼が何を考えているのか、表情からは読めなかった
翌朝、彼が部屋に来た
「一個だけ聞いていい」と彼は言った
頷いた
「お父さんは、どっちが勝てる気がする?」
勝てる気、という言葉が引っかかった。これは気分の問題ではない、と言いかけて、止まった
「うまくいくかどうかって、気持ちの問題もあると思う」と息子は続けた。「信じてる方を選んだ方がいいんじゃないかな」
論理ではなかった。根拠もなかった。でも彼は真剣な顔をしていた。父親が死ぬかもしれないという現実を、十七歳なりの言葉で受け取ろうとしていた
反論する気が失せた。と同時に、気がついた。息子にそんな言葉を言わせてしまった。この子はこれから、自分がそう言ったことを覚えているだろう。もし結果が悪ければ、僕がああ言ったから、と思うかもしれない。十七歳が、そんなものを背負う必要はない
AIのセカンドオピニオンに問い合わせた。返ってきた文章は長く、丁寧だった。要約すれば、人間の十パーセントという数字は信頼できるサンプルサイズではなく、後継者の経験数を考慮すればさらに不確かであり、ロボットの五パーセントの方が予測精度として誠実だ、ということだった
画面を閉じた。わかっていたことだった。でも確認したかったのは答えではなかったと思う。誰かに決めてほしかったのだ。そのことに、閉じた画面を見ながら気がついた
夜中に目が覚めた
経済学の本で読んだことがある。人間は確率を正しく扱えない。小さな確率を実際よりも大きく感じ、成功したときの喜びを、失敗したときの痛みより過大に見積もる。そして人間は、損失そのものより、誰かのせいで損をしたという感覚をより強く嫌う
私は今、その最後の部分に引きずられているのではないか
自分が決めて失敗するより、誰かが決めたことに従って失敗する方が、楽に思えている。妻に決めさせれば、息子に決めさせれば、AIに決めさせれば——その結果なら、仕方がないと思えるかもしれない
最低だ、と思った。命の選択を他人に押しつけて、後悔の重さだけを分散させようとしている
翌日、弟子の外科医と二度目の面会を求めた
前回と同じ、静かな人だった。私が話し始めると、彼は途中で口を挟まなかった
人間の手術を受けたいと言った。あなたに執刀してほしいと言った
彼はすぐには返事をしなかった
理由を話そうとして、うまく言葉が出なかった。十パーセントという数字のことではない、と最初に言った。けれど、それだけでは足りなかった
「前に先生は、機会がなかったとおっしゃいました」
彼の目が、少しだけ動いた
「ロボットを選べば、私はただの一件として処理されるのだと思います。成功率五パーセントの、失敗する可能性の高い一件として」
自分で言いながら、少し変な言い方だと思った。でも、そのまま続けた
「でも、先生がやれば、たとえ失敗しても、先生の手に何かが残るかもしれない。何か、という言い方しかできませんが」
彼は黙っていた
「私は、自分の命を教材にしたいと言っているわけではありません。そこまで立派なことを考えているわけでもありません。ただ、どうせ二十分の一なら、誰かの手に残る二十分の一でありたいと思ったのです」
口にしてから、ようやくそれが自分の本心に近い気がした
「成功してほしいのは当然です。生きたいです。家に帰りたいです。でも、もし駄目だったとしても、何も残らないよりは、先生の中に残ってほしい」
そこまで言って、少し息が乱れていることに気づいた
「すみません。うまく言えません」
「いえ」と彼は言った。「伝わっています」
それからもう一つ、頼みがあると言った
残される妻と息子のことを話した。どちらの選択をしても、結果が悪ければ誰かが後悔を引きずる。その後悔に、向かう先を作っておきたい
「あなたから、こう言ってほしいのです」と私は言った。「この手術をぜひやらせてほしい、自信がある、と。私はその言葉を聞いて、受け入れた——そういう形にしてほしい」
彼の表情が、わずかに動いた
「本当のことを、逆にするわけですね」と彼は言った
「そうです」
沈黙があった。空調の音だけが低く続いていた
「なぜ、そこまで」
「家内や息子が、いつまでも誰かを責めずに済むように」と私は言った。「あなたがやりたいと言った、私はそれを信じた——その形なら、残された人間が向かう先はあなたになる。あなたには申し訳ないが、生きている人間の方が、時間をかけて折り合いをつけられる」
彼はしばらく黙っていた
「もう一つ」と私は続けた。「念のため、あなたを守るための文書と、動画を用意しておこうと思っています。万が一、家内や息子が感情的になって——裁判、ということにでもなったとき、あなたの手元に渡るように」
彼が顔を上げた
「私を、守るために」
「あなたは次の患者のために必要な人間です。私の家族の感情に潰されてほしくない」
また間があった。今度は長かった
「それは」と彼はゆっくり言った。「私には、受け取りきれない頼みです」
「受け取ってください」と私は言った。「私にできる、最後の準備かもしれないので」
彼は目を伏せた。しばらくそのままでいた
(続きはnoteをご覧ください)
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