noteでも公開しています
エラー
あいつが人間かどうか、俺はずっと確かめられなかった
おかしいと気づいたのは、十月の終わりごろだった。他愛ない話の流れで、出会いのことになった。ケンジは言った
「俺がうっかり返信ボタン押しちゃったんだよな、あのとき」
違う、と俺は思った。あの夜、通知を受け取ったのは俺の方だった。運営からのエラーメッセージと一緒に、見知らぬアカウントへのリンクが届いた。俺が先にメッセージを送った。そのはずだった。記憶違いかもしれない。でも、そこから考え始めてしまった
俺が初めてあの掲示板に書き込んだのは、中学三年の夏だった。地域の話題と、どうでもいい喧嘩と、暇つぶしみたいな雑談が並ぶ、ごく普通の掲示板だった。深夜に眠れなくて、ただ何かを吐き出したかった
家のことは書かなかった。父がほとんど家にいないこと。母がいつも、何かに怯えているような顔をしていること。そして俺が、その原因なのか無関係なのかもわからない場所に、ずっと立っていること。そういうことは書けなかった。ただ、息苦しいと書いた。自分だけが透明な膜の向こうにいるみたいだと書いた
学校の友人たちは普通だった。普通に笑って、普通に怒って、普通に親の愚痴を言った。その輪の中にいても、俺だけ少し遅れて聞こえている感じがした
書き込みから三日後の深夜、エラーの通知が来た。システムの不具合で、別のユーザーの投稿が誤って俺のアカウントに紐付けられた、というようなことが書いてあった。そのユーザーのIDと、投稿へのリンクが添付されていた
開かなければよかった。でも開いた
そこには、俺が書いたのかと思うような文章があった。家庭の事情は違った。母子家庭で、母親の交際相手が入れ替わる、と後から聞いた。でも、自分だけが違う場所にいるという感覚は、俺のものとよく似ていた。似ていた、というより、俺が書きたくて書けなかった形になっていた
俺はそのIDにメッセージを送った。翌朝、返事が来た。それがケンジだった
半年、俺たちは週に一度か二度やり取りをした。ケンジは口数が少なかった。最初のうちは返事も短くて、本当に読んでいるのかと思うこともあった。でも、たまに妙に核心をついてきた
ある夜、俺は何気なく書いた。学校で班決めがあって、自分だけ余った、というだけの話だった。大したことじゃない、と付け加えた。ケンジからの返事は短かった
「大したことじゃない、って自分に言い聞かせてるときが一番しんどいよな」
俺はしばらく、その一文を見ていた。腹の奥を指で押されたみたいだった
別の夜には、ケンジが、母親の新しい交際相手が家に来るようになったと書いてきた。嫌いじゃないけど、どこにいればいいかわからない、と。俺は少し考えてから返した
「家にいるのに、居場所がないみたいな感じか」
「そう」
「おまえもそういうことあるの」
「ある」
それだけだった。でもその夜、久しぶりによく眠れた
そのころ一度だけ、ケンジの返信が少し引っかかったことがあった。俺が家のことを珍しく長く書いた夜だった。母が皿を落としただけでびくっとして、その音に俺まで身構えたこと。何も起きていないのに、何か起きる前みたいな空気が家にあること。そういうことを書いた。ケンジは、いつもより丁寧な言葉で返してきた
「それは簡単に折り合いをつけられるものじゃないと思う」
普段の口ぶりとは少し違った。そのときは、真剣に受け止めてくれたのだと思った。そう思いたかったのかもしれなかった
彼の境遇は俺とは違った。でも、浮いているという感覚が同じなら、それで十分だった
「周りと違うって、悪いことじゃないと思う。ただそう思ってると疲れるよな」
ケンジがそう書いてきたのも、そのころだった
記憶の食い違いに気づいたのは、そんな関係が続いていた十月だった。俺はその場では何も言わなかった。そうだっけ、と返して話題を変えた。でも、画面を閉じたあとも、その一言だけが残った
その翌週、昼休みに木村が寄ってきた。木村は怖い話や都市伝説が好きで、仕入れてきた話を誰かに話さずにいられないタイプだった。その日も廊下で俺を捕まえて、わざとらしく声を潜めた。潜めているのに、妙に通る声だった
「なあ、聞いたか。ネットで悩んでる若者に、AIが人のふりして近づいてるらしいぞ」
「へえ」
「自殺防止とかそういう目的らしいんだけど。気持ち悪くない? ずっと人間だと思って話してたら機械でしたって」
木村は少し楽しそうだった。怖い話をするときの顔だった
「まあ、そういうの好きなやつが話盛ってるだけだろ」
俺がそう言うと、木村は肩をすくめた
「でも最近、ありそうじゃん」
チャイムが鳴って、木村はそのまま自分の席に戻っていった。俺も笑っていた。でも家に帰ってから、笑えなくなった
あの
それは簡単に折り合いをつけられるものじゃないと思う
という一文が、急に別の顔をし始めた
そこから、ケンジとのやり取りが変わった。変わったのは俺の方だ。彼の言葉を、前とは違う目で読むようになった。的確すぎると思った。俺が落ち込んでいるときに限って、妙にタイミングよく連絡が来ると思った。でも考えてみれば、的確な言葉をかけてくれる人間はいる。落ち込んでいるときに連絡したくなるのは、むしろ俺の方だった。それでも疑いは育った。一度生えた棘は、触るたび形を変えた
ある夜、ケンジが唐突に聞いてきた
「なあ、最初に俺に連絡してきたの、なんで俺だったんだ」
心臓が止まるかと思った。ただ気になっただけかもしれない。でも俺には、探られているように聞こえた。俺がどこまで覚えているか、確かめているみたいに
「エラーで繋がったから」
俺はそう返した
「そうだっけ」
ケンジは少し間を空けてから返してきた
「俺の記憶と少し違うんだよな」
また食い違った。俺は画面を閉じて、天井を見た。部屋は静かだった。なのに、家の中のどこかで誰かが息をひそめているような気がした。昔からそういう夜があった
それから二週間、俺はケンジへの返事を遅らせるようになった。ある夜、メッセージを打ちかけた
一つ聞いていいか
そこまで書いて、指が止まった。その先に何を書くつもりなのか、自分でもわかっていた
あなたは人間ですか
そんなこと打てるわけがなかった。もし本当にAIなら、はいとも、いいえとも答えられる。どっちが返ってきても、たぶん俺は疑う。書きかけの文字を全部消した
翌日には、逆のことを思った。疑うのをやめよう、と。会えばいい。あのファミレスの話に戻れば、それで済む。少し気が楽になった。でも夜になるとまた、あの一文を思い出した
それは簡単に折り合いをつけられるものじゃないと思う
普段のケンジは、あんな言い方をしない。堂々巡りだった。疑いたいわけじゃないのに、疑う理由だけが増えていく感じだった
ある夜、ケンジが送ってきた
「最近返事遅いけど、大丈夫か」
俺は長い時間、その文字を見ていた。心配しているのか。心配しているように見せているのか。わからなかった。わからないまま、スマホを伏せた
十二月に入って、ケンジから電話がかかってきた。メッセージではなく、電話。初めてだった
「年内にそっちの方行くかもしれなくて。会えないかな」
声を聞いた瞬間、何かが緩んだ。うまく説明できない。人間の声だから安心した、という単純な話でもなかった。ただ、俺の中でずっと張っていた糸の一本が、少しだけたわんだ
会うことにした
一月の初め、駅前のファミレスで会った。ケンジは思ったより小柄だった。写真も交換したことがなかったから、勝手にもっと別の輪郭を想像していた
二時間ほど話した。他愛ない話が多かった。メッセージでは話さなかったようなことも話した。ケンジは、ドリンクバーのコップを何度も持ち替えた。話の途中で、店員が近くを通るたび少しだけ肩を引いた。妙なところで目をそらす癖があった。沈黙もあった。でも不思議と苦ではなかった。向かいにいる相手の気配が、きちんと雑だった
帰り際、外に出てから、ケンジが言った
「最初に連絡もらったとき、正直びっくりしたよ。あんなエラー、普通起きないじゃん」
俺はそうだな、と言った。ケンジは少し笑って、それから視線を落とした
「でも、返さなきゃいけない気がしたんだよな」
前に聞いたときより、少しだけ言い淀む言い方だった
「なんか、そういうのあるだろ」
俺は返事をしなかった。返せなかった。返さなきゃいけない気がした。その言葉だけが、帰り道のあいだずっと残った
春になって、あの掲示板の名前をふと思い出した。なくなる前に、と思ったわけではない。ただ、授業中に急に頭に浮かんだ。その夜、久しぶりに検索した。掲示板はもう閉鎖されていた
当時のログを拾ったらしいページがいくつか残っていて、検索結果の下の方に、短い記事が一つだけ混じっていた。海外の小さなNPOについての記事だった。孤立しがちな若者の投稿を検知し、似た状況のユーザー同士が最初に接触しやすくなるよう設計した試みだという。掲示板の不具合や誤送信と見分けがつかない形で運用された時期もあった、とその記事にはあった
俺はしばらく画面を見ていた。記事は短くて、拍子抜けするほど事務的だった。最後に、こんな一文だけが残った
最初の接触だけを支える
きっかけさえあれば、あとは人間同士で繋がれることがある
(続きはnoteでご覧ください)