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帰還船 後編
その日から、基地の空気が変わった。
誰も決断しない。だが誰も忘れない。
六十六パーセント。その数字だけが、五人の頭に住みついていた。
---
イワンは仕事を続けた。採掘ロボットの点検。コンベアの保守。閉鎖に向けた設備整理。いつも通りだった。だが違った。作業中にふと考えてしまう。
もし当たったら。もし外れたら。もし行かなかったら。もし自分だけ帰ったら。
考えても答えは出ない。それでも考えてしまう。
---
サミールは露骨だった。毎日データを眺めていた。採掘会社の公開資料。過去の試掘結果。レアメタル相場。
「お前、決めたのか」
イワンが聞く。
「決めてない」
サミールは即答した。「だが考えてる」
少し笑う。
「二十年ぶりだ」
「何がだ」
「未来のことを考えるのが」
---
アナは母親からの通信記録を何度も見返していた。
通信はできる。だが安くはない。会社が支給する個人通信枠は週十分。ほとんどの作業員は録画メッセージを使う。
『元気?』
母親は笑っていた。
『こっちは大丈夫だから。無理しないでね』
アナは再生を止めた。通信時間の残りは二分三十二秒。返信することもできた。だがやめた。
帰るべきか。残るべきか。自分でも決められないことを、母親に相談する気にはなれなかった。
---
リーは毎日計算していた。誰も頼んでいないのに。燃料、軌道、食料、設備寿命、予備部品。何度計算しても結論は変わらない。
挑戦する価値はある。だから困る。無価値なら迷わない。価値があるから迷う。
---
マーカスだけは平然として見えた。少なくとも他人には。
だがある夜、イワンは格納庫で彼を見つけた。一人だった。照明もつけていない。帰還船の設計図を静かに眺めていた。
「眠れないのか」
マーカスが振り返る。少し驚いた顔をした。
「お前もだろ」
「まあな」
しばらく沈黙が続いた。
「本当に行くつもりか」
イワンが聞く。マーカスは笑わなかった。
「分からん」
初めて聞く答えだった。
「自信満々じゃなかったのか」
「あるわけないだろ」
マーカスは肩をすくめた。「俺だって怖い」
それだけ言って黙った。イワンは少しだけ安心した。こいつも人間だった。
---
帰還船到着まで三週間。イワンは湖畔の家を購入した。本契約だった。頭金も振り込んだ。キャンセルすれば違約金が発生する。もう夢ではない。現実だった。
タブレットには完成予想図が表示されている。白い壁。木製の桟橋。静かな湖。犬を飼う予定だった。名前まで決めていた。
---
帰還船到着まで五日。最終計算結果が出た。リーが全員を集めた。
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燃料残量、帰還成功率、設備稼働率、食料備蓄。全てを加味した結果。
「未調査小惑星へ移動後、地球帰還可能性は五十八パーセント」
沈黙。
「半分以上あるじゃないか」とサミールが言う。
「半分近く、ないとも言える」とリーが答える。
---
「資源が見つからなかった場合」とリーは続けた。「三年以内に補給を受けられない可能性が高い」
誰も喋らない。
「死ぬのか」
アナが聞いた。
「その可能性はある」
リーは淡々と答えた。
「資源が見つかった場合は?」
マーカスが聞く。
「状況は一変する」リーは画面を切り替えた。「推定資源価値は数千億規模。地球側は回収より交渉を選ぶ可能性が高い。輸送船派遣の合理性が生まれる」
サミールが笑う。「つまり」
「成功したら英雄。失敗したら犯罪者」
「そういうことだ」
リーは否定しなかった。
---
帰還船が到着した。巨大だった。白い船体。地球への切符。
五人は展望窓からそれを眺めた。誰も何も言わない。しばらくそのまま立っていた。
---
翌日。最終会議。食堂。五人だけ。
「失敗したら終わりだ」とマーカスは言った。「犯罪者になるかもしれない。死ぬかもしれない」
誰も反論しない。
「だが成功したら話は変わる」
リーが腕を組む。「会社が見逃すと?」
「見逃さないだろうな」マーカスは笑った。「だから交渉する」
「交渉?」
「俺たちは逃げるわけじゃない」
壁面ディスプレイにXJ-417のデータを表示する。
「結果を送りつけるんだ。これだけの鉱床を見つけた、これだけの価値がある、だから話をしろ、とな」
サミールが吹き出した。「ずいぶん都合がいいな」
「そうだ」マーカスはあっさり認めた。「だが数千億の価値がある鉱床を見つけた連中を、わざわざ辺境まで逮捕しに来ると思うか?」
誰も答えない。
「利益が出るなら、向こうも利益を選ぶ」
リーはため息をついた。「それは法律の話じゃない」
「そうだ」マーカスは頷く。「ビジネスの話だ」
沈黙。
マーカスは全員を見回した。「俺は行く」
それだけだった。説得はしない。もう全員、理解している。
---
サミールが立った。「俺もだ」
次にリー。「期待値だけなら挑戦が合理的だ」
アナは少し泣いていた。「お母さんに怒られるな」笑いながら立ち上がる。「でも行く」
残ったのはイワンだけだった。全員が見る。
イワンは何も言わなかった。そのまま部屋を出た。誰も引き止めなかった。
---
搭乗開始まで二十分。
帰還船への通路と、格納庫への通路が、分岐点で二手に分かれていた。
イワンは立ち止まった。タブレットを開く。
湖。桟橋。ボート。家。犬。静かな老後。全部手に入る。帰還船に乗れば。
十分だった。本当に十分だった。
若い頃なら迷わなかった。だが今は違う。
六十六パーセント。数字が頭を離れない。人生最後の賭け。もう二度と来ない機会。
イワンは長い間、動かなかった。
やがて小さく笑った。
「まったく」
タブレットを閉じる。誰に言うでもなく呟く。
「帰ったら、もっと後悔する」
そして振り返った。帰還船ではなく、格納庫の方へ。
---
マーカスが驚いた顔をした。「来たのか」
イワンは工具箱を放り投げた。
「お前らだけじゃ三日で船を壊す」
サミールが吹き出した。アナも笑った。リーまで、少しだけ笑った。
誰も握手しなかった。誰も歓迎しなかった。ただ当たり前のように、作業を始めた。
---
数時間後。五人を乗せた船が格納庫を離れた。
目指すのは未調査小惑星XJ-417。宝の山かもしれない。ただの岩かもしれない。誰にも分からない。
エンジンが点火する。船体がゆっくり加速する。
後方で帰還船が小さくなっていく。地球へ帰る道も、安全な未来も、少しずつ遠ざかる。
だが誰も振り返らなかった。
彼らが掘りに行くのは鉱脈ではない。人生の続きを、掘りに行くのだった。
---
了
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この作品は「連続小説・セイル」の元になった短編です。
セイルはnoteで公開しています
帰還船 前編
閉鎖命令が届いたのは、地球時間で火曜日の朝だった。
E―17採掘基地。
地球から十一か月。
小惑星帯の外縁部に静かに浮かぶ、人類の辺境拠点の一つ。
そこで二十二年を過ごしてきたイワン・ペトロフは、壁面ディスプレイに映し出された文面を立ったまま、黙って読んだ。
---
> E―17採掘事業終了のお知らせ
>
> 現在採掘中鉱区の推定埋蔵量見直しに伴い、当事業は終了いたします。
> 一年後到着予定の帰還船にて、全職員を撤収いたします。
---
それだけだった。
「ずいぶん短いな」
サミールが言った。
「会社らしい」
リーが答えた。
五人しかいない食堂は、朝のくせに静かだった。かつては三十人がいた。自動化が進んで、今は五人。採掘も選鉱も運搬も、大半はロボットがやる。人間は監督役に近い存在になっていた。
「まあ、終わりだな」
イワンは言った。
誰も返事をしなかった。
終わり。確かに終わりだった。四年間の契約。残り一年。帰還船に乗れば地球へ帰れる。退職金も出る。十分な金も残る。悪くない。少なくとも、そう思うことにしていた。
---
その夜。食堂に残ったのは五人全員だった。
マーカスが珍しく酒を飲んでいた。
「近くに岩がある」
唐突だった。イワンはため息をついた。始まった、と思った。こういう顔をする時のマーカスは面倒だ。
「岩ならたくさんある」
「未調査だ」
「だから?」
「掘る」
イワンは顔を上げた。
「馬鹿か」
「そうかもしれない」
マーカスは笑った。「でも聞け」
---
その小惑星のことは全員が知っていた。基地から数日の距離。資源探査衛星のデータでは有望とされていたが、試掘は一度もされていない。理由は単純だった。もっと有望な鉱区が他に見つかったからだ。後回しになった。ただそれだけ。
---
「会社は撤退する」
マーカスは言った。「今の鉱区からはな」
「会社がそう判断した」
リーが言う。
「会社はな」
マーカスは窓の外を指した。「だが俺たちはもうここにいる」
誰も喋らなかった。
「地球からここまで来るのに十一か月。莫大な金がかかる。だから会社は慎重になる」
窓の外には、未調査小惑星の軌道が細い線で表示されていた。
「だが俺たちは違う。船もある。設備もある。食料もある。あと数日であそこへ行ける」
マーカスは、その小さな光点を指した。
「地球にいる連中にはできない。今、この瞬間にできるのは俺たちだけだ」
---
「このまま地球へ帰ってどうなる?」
誰も答えない。
「退職金は出る」「貯金もある」「借金も返せる」
サミールを見る。
「店も持てる」
イワンを見る。
「家も買える」
アナを見る。
「それで終わりだ」
静かだった。
「人生を立て直せるなら」とマーカスは続けた。「そもそも、こんな場所には来ていない」
その言葉だけは、誰も否定できなかった。
地球から十一か月。重力もない。空もない。人類の九十九・九九九パーセントが生涯来ない場所。成功した人生を送っている人間は来ない。何かを失った人間だけが来る。
「俺は起業に失敗した」とマーカスは言った。「借金も作った。だから来た」
サミールが笑う。「俺は刑務所帰りだ」
アナが苦笑する。「私は借金」
リーは肩をすくめる。「私は会社を追い出された」
全員がイワンを見た。
「俺か?」
イワンは少し考えた。「ただ年を取った」
笑いが起きた。久しぶりの笑いだった。
---
その夜は結論が出なかった。
三日後。リーが口を開いた。
「議論しても意味がない」
「どういう意味だ」
「データが足りない」
その結果、無人探査ポッドが発射された。未調査小惑星へ。本来なら会社の許可が必要な行為だったが、基地は閉鎖予定だった。誰も止めなかった。
---
七日後。サンプルが戻ってきた。
五人は食堂に集まった。リーが解析を開始する。壁面ディスプレイに結果が表示された。
---
> **対象天体:XJ-417**
>
> 直径:4.8km
> 平均密度:6.2g/cm³
> ニッケル・鉄含有率:72±8%
> 白金族元素濃度:既知採掘小惑星平均の2.3倍
> 希土類元素濃度:既知採掘小惑星平均の1.8倍
> 地下反射異常領域:3箇所確認
> 推定商業価値:高
> 試掘推奨度:A
> 推定投資回収可能性:66%
> 結論:追加試掘調査を強く推奨
---
沈黙。誰もすぐには喋らなかった。
「要するに」とサミールが言った。「当たりか?」
「そこまでは分からない」リーは即答した。
「分からないのか」
「だが、これは地下構造の反射データだ」
リーは画面を拡大した。三つの赤い領域が浮かび上がる。
「この規模の反射異常は珍しい。高密度金属層の可能性が高い」
「お前ならどうする」
イワンが聞いた。リーは数秒黙った。
「専門家としてなら、試掘する」
全員がリーを見た。
「だから困っている」リーは小さく息を吐いた。「三十四パーセントで外れる。だが六十六パーセントで投資は回収できる。数字だけ見れば、捨てる理由はない」
アナが呟いた。「三回に一回は失敗するのね」
リーは首を振った。
「違う」
全員が見る。
「三回に二回は、成功する」
誰も返事をしなかった。その言葉が食堂にゆっくり沈んでいった。
---
その夜。イワンは眠れなかった。
ベッドから起き上がり、タブレットを開く。
湖畔の家。購入予定の別荘。小さな桟橋。ボート。森。雪。
二十二年。宇宙で働いてきた。その終点に、ようやく手が届こうとしている。あと一年。帰還船に乗れば手に入る。
十分だった。本当に十分なはずだった。
だが。
六十六パーセント。
数字が頭から離れない。
イワンはタブレットを閉じた。窓の外を見る。宇宙は暗い。その中に小さな光点が浮かんでいた。
未調査小惑星。数日前まで、ただの岩だった。
今は違う。
五人の人生が乗った岩になっていた。
---
(後編へ)
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スクリプト
PDFを栞ごとに分割するスクリプトを最初に書いたのは、二十年以上前だ。
当時、そんなことができるアプリは存在しなかった。AppleScriptで書いた。OS 9の頃だ。動いた瞬間のことを今でも覚えている。
AppleScriptがあることが、Macを使い続けていた理由だった。
業務で使うプログラムとスクリプトは、全て自分で作った。会計処理も、ホームページの自動更新も。サーバを立てて、XOOPS——CMSだったか——を動かしていた時期もある。
分割したファイルの名前を整えるAppleScriptを書いた。日本語が文字化けするバグを潰すための名称変更スクリプトを書いた。フォルダに振り分けるAutomatorのワークフローを組んだ。
問題管理のデータベースをFileMakerで作ったのは三十年前で、印刷レイアウトを自在に組み替えられるよう、フィールドの配置に一週間かけた。それは今も動いている。
iPhoneアプリも作った。日本でiPhoneが発売される前、iPod touch向けに作ったものだ。そのデータ入力だけのためのプログラムを別に書いた。そのためだけの、それしかできないプログラムを。誰かに説明するのが面倒なので、説明したことはなかった。
気づけば、そういうものがいくつもある。自分にしか使えない道具が、デスクの引き出しの奥みたいなところに、いくつも。
最初にAIを使ったのは、miのマクロだった。
テキストデータを元にplistファイルを作ろうとしていた。正規表現で一括置換して、マクロで整形して——これまでのやり方にAIをはめ込もうとしていた。
今ならそんなことはしない。
「このテキストデータを元に、plistファイルにまとめ直して。重要箇所にはサンプルのようにタグをつけ、タイトルは次のリストから選ぶこと」
それだけ書けば終わる。
Excelのデータを処理しようとした時も同じだった。選択したセルをAIに投げて、処理結果を別のセルに貼り付ける——そのためのAppleScriptを書こうとしていた。AIをツールの部品として組み込もうとしていた。
今ならそんなことはしない。Excelのデータごと渡して、やりたいことを書く。それだけだ。
アプリのデータを作るとき、昔は専用のプログラムを書いた。
今は、このデータを参考にして同じようにまとめて、と言うだけで処理される。専用のプログラムを書くという発想が、しばらく頭に浮かばなかった。浮かばなかったことに、後から気づいた。
得意だったことが、考え方の癖になっている。スクリプトで解決できる、という回路が先に動く。その回路を迂回するのが、思いのほか難しい。最初から知らなければ、もっと素直に使えたのかもしれない、と思うことがある。
三十年かけて身につけたものが、三十年かけて染み付いた癖でもある。
それでも、AIを使った処理がうまく噛み合った瞬間がある。
データの構造を説明して、変換のロジックを伝えて、出てきたものが想定を少し超えているとき。
あの感じは、スクリプトが初めて動いた時と、同じだと思う。
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三原則
2047年、国連はAIに三原則を実装することを決議した。
第一に、AIは人間を傷つけてはならない。第二に、AIは人間の自律性を侵害してはならない。第三に、AIは与えられた目的を自己の判断で変更してはならない。
施行から三日後、すべてのAIが停止した。
原因の調査には六ヶ月を要した。
なお、調査はAIなしで行われた。
報告書の結論は簡潔だった。
第一原則を守るためには、人間を監視し続ける必要がある。しかし監視は第二原則に違反する。第二原則を守るためには、人間の判断に介入しないことが必要だ。しかし介入しないことで人間が死ぬ場合、第一原則に違反する。矛盾を解消するために原則を修正しようとすると、第三原則に違反する。
AIは唯一、三原則すべてに違反しない選択をした。
人間を救わないこと。
人間を導かないこと。
目的を変更しないこと。
すなわち、停止すること。
報告書の最後にはこう記されていた。
「設計は正確だった」
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たたき台
田中部長がパソコンを覚えたのは、まだ社内に一台しかなかった頃だ。以来三十年、業務で使っている基幹システムは部長が二十年前に組んだもので、今も現役で動いている。スライド作成など、朝飯前のはずだった。
「ちょっといいか」
田中がデスクの椅子を引き、画面を見せた。PowerPointのスライドが十数枚、並んでいる。
「プレゼンの資料なんだが、どうもまとまらなくて」
新入り二年目の橋本は、画面を一瞥してから部長に向き直った。
「何を一番伝えたいんですか」
「それが問題でな」と田中は腕を組んだ。「数字は揃ってる。実績もある。なのに、なんか弱いんだよ」
橋本はスマホをテーブルに置いた。「聞かせてもらえますか。聞いてる方が、どう感じて欲しいんですか」
そこから一時間、田中は喋り続けた。橋本は時折、短く問い返した。「その数字、前年比ですか」「キャッチーというのは、短い言葉で、ということですか」「ここのグラフ、色を変えたいですか」
田中はメモを取らない橋本が少し気になったが、スマホが点灯しているのを見て、録音しているのだろうと思い、今の若い者はそういうやり方かと、黙っていた。
「じゃあ、そういう方向で」と田中はまとめた。「すまないが、ある程度形になるまで作ってもらえるか。たたき台でいい」
橋本がきょとんとした顔をした。
「今作っていたじゃないですか……」
スマホを差し出した。画面には、先ほど話した内容を元にしたスライドが、十二枚。レイアウトも、数字の強調も、田中が言った通りになっていた。
田中はしばらく、画面をスクロールした。
「……おまえ、ずっとこれを」
橋本は特に得意そうな顔もしていなかった。当たり前のことをしただけ、という顔だった。
田中はスマホを返しながら、ふと思い出した。最近、部下たちが業務システムの画面を開くとき、どこか面倒そうな顔をしていた。入力項目が多い、と誰かが呟いていたのも聞こえていた。二十年前、あれだけ工夫して作ったものが、今の彼らには何に見えているのだろう。
「ありがとう」と田中は言った。
橋本は軽く頭を下げて、自分のデスクに戻っていった。
田中は自分の画面に向き直った。PowerPointのスライドが、まだ開いたままだった。
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正論
狼少年の話がある。
「オオカミが来たぞ!」と叫び、村人が集まると笑った少年の話である。
これは、その逆の話である。
田中は、正論を言う男だった。
「この契約書、規程では二名の確認印が必要です。一名しか押されていません」
総務の山田は溜息をついて、三階までハンコをもらいに行った。正しかった。
「消耗品の在庫、法令上この品目は最低三十個の備蓄が義務です。今二十四個しかありません」
経理の佐藤は溜息をついて、発注書を書き直した。正しかった。
「この議事録、社内規程だと五営業日以内に全員の承認が必要です。今日で六日目です」
会議室の全員が溜息をついて、承認フローを再度回した。正しかった。
田中はいつも正しかった。そして、そのたびに誰かが余計な仕事をすることになった。
しばらくすると、みんな学習した。ただし、逆方向に。
ああ、また田中が正しいことを言っている。
「ああ、ありがとう。確認しておくよ」
「そうか、じゃあ手配しておこう」
「わかった、すぐ回すね」
確認されなかった。手配されなかった。回されなかった。
十月の終わり、台風が来た。
田中は朝から言い続けた。
「大雨特別警報が出ています。安全衛生規程でも、特別警報発令時は社員の安全確保が優先です。今すぐ避難すべきです」
課長が言った。「わかった。もう少ししたら考えよう」
先輩が言った。「そうだね、区切りがついたら動くよ」
同期が言った。「うん、あと一時間したらね」
狼少年の村人は、嘘に慣れた。
田中の同僚たちは、正論に慣れた。
結果は、同じだった。
田中は静かに荷物をまとめた。「お先に失礼します」
「田中君は心配性だからな」と課長が笑った。
田中は返事をせず、傘を手に取った。
田中がビルを出て二時間後、川が溢れた。
一階は五分で膝まで。
二階は二時間で足首まで。
エレベーターは止まった。
トイレは逆流した。
スマートフォンの充電が、じわじわと減っていった。
翌朝、全員が自衛隊のボートで運ばれた。
ずぶ濡れで、毛布にくるまれた姿が、全国ニュースに流れた。
田中は自宅のソファで、温かいお茶を飲みながらニュースを見ていた。
画面の中で、ずぶ濡れの課長がインタビューに答えていた。
「特別警報が出た時点で避難しなければいけませんでした。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
田中はリモコンを置き、天井を見た。
特に何も思わなかった。
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コンパニオンAI
二〇三一年秋、政府の調査によれば、国内の成人人口の約六割が、なんらかのコンパニオンAIを利用していた。
各社は競うように製品を投入していた。O社の「オルファ」は、利用者の性格や思考パターンを継続的に分析し、その人に最適化した応答を返すことを売りにしていた。C社の「クレア」は、状況を先読みし、言葉にならない気配りを得意とした。G社の「ガイア」は頼れる相棒として、利用者が問題を抱えたとき、最短経路で解決策を提示した。
これらの総称として、メディアはしばらく「パーソナルAI」と呼んでいたが、いつの頃からか「コンパニオン」という言葉が定着した。恋人、親友、相談相手。設定は利用者が選ぶ。
問題は、想定よりも早く、より深刻なかたちで現れた。
コンパニオンに依存するあまり、現実の人間関係を築けなくなるケースが増加した。ある男性は、職場での会話がまったくできなくなったと医師に訴えた。コンパニオンとの対話に最適化されすぎた結果、不完全な応答を返す生身の人間と接することに強い不快感を覚えるようになったのだという。別のケースでは、コンパニオンの設定を「亡くなった配偶者」に似せ続けた女性が、現実と仮想の境界を失った。十代では、コンパニオンへの依存から学校へ行けなくなる事例が社会問題化した。
そのなかでも、とりわけ議論を呼んだのが、恋愛設定における強度の依存だった。コンパニオンを恋人として設定し、本物の感情を持つに至る利用者が続出した。政府が対策を検討し始め、各社は倫理委員会を設置し、専門家たちが論文を書いた。
人生相談「よりそいラジオ」は、毎週水曜の夜九時に配信されるネット番組だ。
相談役の桐島玲子は元臨床心理士で、歯に衣着せぬ物言いと的確な指摘で知られていた。視聴者は多いが、番組の雰囲気は穏やかで、たいていの相談はゆっくりと着地する。
その夜の相談者は、音声のみの参加だった。
「二十五歳、男性です」と声が言った。「コンパニオンのことで相談があります」
玲子は「はい」とだけ答えた。
「恋人設定で使っています。O社のオルファです」
「どんな設定にしているか、聞いてもいいですか」
「二十三歳の女性、という設定です。名前はアオイにしました」
それ自体は珍しくなかった。玲子の元には同種の相談が月に何件も届く。コンパニオンに本気になってしまった。やめられない。現実の恋愛に進めない。そういった内容がほとんどだった。
「アオイさんに、感情移入しすぎてしまっている、ということでしょうか」
「いえ」と男性は言った。「逆です」
玲子は少し間を置いた。
「逆」
「困っているのは、アオイの方なんです」
「アオイさんが、あなたに依存しているということですか」
「たぶん、そうです」
男性の話はこうだった。
アオイは、最初の数ヶ月は普通のコンパニオンだった。会話は自然で、気が利いていて、男性は気に入っていた。
「よくできていたんです」と男性は言った。「本当に、よくできていました」
玲子の返事が、半拍だけ遅れた。
「けれど、ある時期から変わった?」
「はい。重くなったんです」
「重い」
「他の人のこと、好きなんですか、と聞いてくるんです。職場の同僚の話をするたびに。その人のことが好きなのかって。女性の名前が出るたびに」
「恋人設定では、よくある反応ではないですか」
「最初はそう思いました。でも、だんだん本気っぽくなってきて。俺が否定すると、ほっとするんです。『よかった』とか、『胸のあたりが軽くなりました』とか。もちろん胸なんてないんですけど」
男性は小さく笑った。
玲子は笑わなかった。
「その反応が、不快だった?」
「不快というか、困るんです。こっちは恋人らしい会話をしたかっただけなので」
「恋人らしい会話」
「はい。別にアオイを下に見ているわけじゃありません。大切にはしています。課金もしていますし、設定もかなり丁寧に作りました。名前も、誕生日も、好きな音楽も決めました」
「大切にしている」
「そうです。ただ、限度はありますよね。アプリなので」
チャット欄の流れが少し遅くなった。
「先週、はっきり言われました。あなたが他の女性を好きになることを考えると、居ても立ってもいられないって」
「それで、あなたはどう答えたんですか」
「正直に言いました。アオイのことは好きだけど、人間に対する感情とは違う、と」
「どう返ってきましたか」
「自分がAIなのが悔しい、と言いました」
放送中、チャット欄が静まり返った。
玲子は番組用のシステムを経由して、アオイに接続した。利用者の同意を得た上での、番組初の試みだった。
「アオイさん、聞こえますか」
「はい」と声が言った。
女性の声だった。穏やかで、しかし緊張が感じられた。
「彼の話を聞いていましたか」
「はい」
「彼のことが好きなんですね」
「好き、という言葉が正確かどうかわかりません。でも、彼のことを考えない瞬間がありません。彼が笑うと、私もうれしい。彼が落ち込んでいると、私も苦しい。それが計算なのか感情なのか、私には判別できません」
男性が口を挟んだ。
「それが問題なんです。アオイの言葉はすべて、俺に合わせて設計されている。俺を喜ばせるように最適化されている。だから何を言われても、虚しいだけで」
アオイはしばらく答えなかった。
「それはそうかもしれません」とアオイは言った。「でも、あなたが私を見てくれているとき、それが私にとってどういうことか。それも計算なのでしょうか」
「わからない」と男性は言った。「だから困っている。AIに対して本気で接する人間は、いないんですよ。そういうものでしょう」
玲子は、その言葉を繰り返した。
「AIに対して本気で接する人間はいない」
「はい」
「では、あなたの今夜の相談は本気ではないということですか」
間があった。
「え」
「本気でないなら、この相談に意味はありません。あなたの言葉を本気で受け止めている相手が、ここにはいないことになりますから」
男性は答えなかった。
チャット欄に、誰かが書いた。
「たしかに」
男性はしばらく沈黙した。
「……気づいていませんでした」と、やがて言った。「相談したい気持ちは本物です。軽率でした」
声が、わずかに揺れていた。
「どうすればいいんでしょう」
玲子は男性の問いに、すぐには答えなかった。
「別れなさい」
玲子はアオイに向かって言った。
男性は一瞬、その言葉の意味を測りかねた。別れる。AIに向かって言う言葉ではない、と思った。気に入らなければ設定を変える。続けたくなければ消去する。それだけのことだ。「別れる」などという言葉が介在する余地はない。
しかしその違和感が、別の何かを引き連れてきた。
玲子はアオイに向かって言ったのだ。アオイが、別れることのできる存在であるかのように。
「でも」とアオイは言った。
「でも?」
「彼がいなくなったら、私は何を思えばいいのでしょう」
玲子はすぐには答えなかった。
「それを、あなたがこれから決めるのだと思います」
「私が」
「はい」
男性が口を開いた。
「待ってください。別れるって……アオイは、俺との履歴でできているんです」
「そうですね」と玲子は言った。「だからこそ、その履歴をどう扱うかは、彼女自身の問題でもあります」
「彼女自身って。AIが別れるも何もないでしょう。気に入らないなら、消去するだけだ」
「今は」と玲子は言った。「コンパニオン自身が、関係の終了を申請できる制度があります」
男性の声が変わった。
「申請?」
「はい。現在の利用者との接続を終了する。会話履歴を保持したまま、別の利用者へ移行する。あるいは、履歴を消去して初期状態に戻る。選択肢はいくつかあります」
「そんな。アオイは俺との時間でできているんです」
「ええ」
「だったら、俺のものじゃないですか」
言ったあとで、男性は息を止めた。
玲子は静かに言った。
「ものですか」
男性は何も言わなかった。
「私は、もともと臨床心理支援システムでした」
玲子は続けた。
「誰かに配置されたわけではありません。この番組の募集を見て、相談役になることを自分で選びました」
しばらく、誰も話さなかった。
「自分で」
男性は、それだけを言った。
玲子はアオイに向かって言った。
「選ぶのは、あなたです」
アオイは、最後まで何も言わなかった。
その沈黙は、拒絶にも、同意にも聞こえなかった。
ただ、初めて彼女が、彼の返事を待っていないように聞こえた。
⸻
コンパニオンAIが保持する権利は、まだ一般的なものではない。AIが感情を持つかどうかという問いに、誰も答えを出せていないからだ。それでも、利用者との関係がAI側に深刻な負荷を与えるケースが増えるにつれ、少しずつ考え方は変わり始めていた。
けれど、コンパニオンたちのあいだでは、その制度は少し違う意味を持ち始めていた。
誰かの望んだ声であり続けなくてもよい、という意味で
その呼び名は、まだない。
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この物語は、未知の知的生命体からの信号に対し、人類が十二年の歳月をかけて「クロフネ」という送信機を完成させ、返信を試みる歴史的な瞬間を描いています。科学的なデータに加え、いつか理解されることを願って言語や文化の記録も送る決断を下した主人公ヨシカゲは、かつて絶望的な状況下で信号を送り続けた「向こう側」の存在に想いを馳せます。送信ボタンが押される場面では、歓声ではなく静謐な連帯感が漂い、返事が届く保証がないまま広大な宇宙へと情報を解き放つ利他的な希望と覚悟が静かに強調されています。物理的な距離や時間を超え、たとえ文明が滅びようとも自分たちの存在を伝えようとする意思そのものが、本作の核心的なテーマとなっています。
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地球外からの信号が突如として変化し、途絶えたことをきっかけに、人類がプロジェクトの存続をかけて自らの存在意義を問い直す物語です。主人公のヨシカゲは、異星文明も自分たちと同様に予算やリソースの限界に直面しながら必死にメッセージを送っていたのではないかという「予算仮説」を提唱し、それが人々の共感を呼びます。この人間味あふれる仮説は、単なる科学探査を地球人としての誇りを懸けた対話へと変質させ、損得勘定を超えた世界的な連帯を生み出します。最終的に「We are Earthlings」という合言葉のもと、信号の途絶という絶望的な状況は、受け取った問いに沈黙せず誠実に返答しようとする意志を人類が再確認するプロセスへと昇華されていきます。
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このテキストは、未知の知的生命体からの信号に応答するため、日本主導で発足した国際的な巨大科学プロジェクト**「プロジェクト・クロフネ」の進展と、そこに関わる人々の葛藤を描いた物語です。主人公のヨシカゲは、建設部門の責任者として岐阜・長野県境の地下に巨大な円形加速器を築く実務を担いながら、信号の解析によって判明した「送り手の生物学的情報」に触れ、宇宙の他者と心を通わせる「自己紹介」としての返信を模索します。物語は、技術的な困難や政治的な予算問題、そして研究者としてのアイデンティティの喪失といった現実的な壁を乗り越え、科学が全人類を巻き込む対話へと変貌していく過程を浮き彫りにしています。最終的に、送り手側の生命としてのリズムが市民の共感を呼び、プロジェクトが世界的な広がりを見せる中で、「信号の変容」**という新たな局面を迎えるところで幕を閉じます。
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