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帰還船 後編
その日から、基地の空気が変わった。
誰も決断しない。だが誰も忘れない。
六十六パーセント。その数字だけが、五人の頭に住みついていた。
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イワンは仕事を続けた。採掘ロボットの点検。コンベアの保守。閉鎖に向けた設備整理。いつも通りだった。だが違った。作業中にふと考えてしまう。
もし当たったら。もし外れたら。もし行かなかったら。もし自分だけ帰ったら。
考えても答えは出ない。それでも考えてしまう。
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サミールは露骨だった。毎日データを眺めていた。採掘会社の公開資料。過去の試掘結果。レアメタル相場。
「お前、決めたのか」
イワンが聞く。
「決めてない」
サミールは即答した。「だが考えてる」
少し笑う。
「二十年ぶりだ」
「何がだ」
「未来のことを考えるのが」
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アナは母親からの通信記録を何度も見返していた。
通信はできる。だが安くはない。会社が支給する個人通信枠は週十分。ほとんどの作業員は録画メッセージを使う。
『元気?』
母親は笑っていた。
『こっちは大丈夫だから。無理しないでね』
アナは再生を止めた。通信時間の残りは二分三十二秒。返信することもできた。だがやめた。
帰るべきか。残るべきか。自分でも決められないことを、母親に相談する気にはなれなかった。
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リーは毎日計算していた。誰も頼んでいないのに。燃料、軌道、食料、設備寿命、予備部品。何度計算しても結論は変わらない。
挑戦する価値はある。だから困る。無価値なら迷わない。価値があるから迷う。
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マーカスだけは平然として見えた。少なくとも他人には。
だがある夜、イワンは格納庫で彼を見つけた。一人だった。照明もつけていない。帰還船の設計図を静かに眺めていた。
「眠れないのか」
マーカスが振り返る。少し驚いた顔をした。
「お前もだろ」
「まあな」
しばらく沈黙が続いた。
「本当に行くつもりか」
イワンが聞く。マーカスは笑わなかった。
「分からん」
初めて聞く答えだった。
「自信満々じゃなかったのか」
「あるわけないだろ」
マーカスは肩をすくめた。「俺だって怖い」
それだけ言って黙った。イワンは少しだけ安心した。こいつも人間だった。
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帰還船到着まで三週間。イワンは湖畔の家を購入した。本契約だった。頭金も振り込んだ。キャンセルすれば違約金が発生する。もう夢ではない。現実だった。
タブレットには完成予想図が表示されている。白い壁。木製の桟橋。静かな湖。犬を飼う予定だった。名前まで決めていた。
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帰還船到着まで五日。最終計算結果が出た。リーが全員を集めた。
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燃料残量、帰還成功率、設備稼働率、食料備蓄。全てを加味した結果。
「未調査小惑星へ移動後、地球帰還可能性は五十八パーセント」
沈黙。
「半分以上あるじゃないか」とサミールが言う。
「半分近く、ないとも言える」とリーが答える。
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「資源が見つからなかった場合」とリーは続けた。「三年以内に補給を受けられない可能性が高い」
誰も喋らない。
「死ぬのか」
アナが聞いた。
「その可能性はある」
リーは淡々と答えた。
「資源が見つかった場合は?」
マーカスが聞く。
「状況は一変する」リーは画面を切り替えた。「推定資源価値は数千億規模。地球側は回収より交渉を選ぶ可能性が高い。輸送船派遣の合理性が生まれる」
サミールが笑う。「つまり」
「成功したら英雄。失敗したら犯罪者」
「そういうことだ」
リーは否定しなかった。
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帰還船が到着した。巨大だった。白い船体。地球への切符。
五人は展望窓からそれを眺めた。誰も何も言わない。しばらくそのまま立っていた。
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翌日。最終会議。食堂。五人だけ。
「失敗したら終わりだ」とマーカスは言った。「犯罪者になるかもしれない。死ぬかもしれない」
誰も反論しない。
「だが成功したら話は変わる」
リーが腕を組む。「会社が見逃すと?」
「見逃さないだろうな」マーカスは笑った。「だから交渉する」
「交渉?」
「俺たちは逃げるわけじゃない」
壁面ディスプレイにXJ-417のデータを表示する。
「結果を送りつけるんだ。これだけの鉱床を見つけた、これだけの価値がある、だから話をしろ、とな」
サミールが吹き出した。「ずいぶん都合がいいな」
「そうだ」マーカスはあっさり認めた。「だが数千億の価値がある鉱床を見つけた連中を、わざわざ辺境まで逮捕しに来ると思うか?」
誰も答えない。
「利益が出るなら、向こうも利益を選ぶ」
リーはため息をついた。「それは法律の話じゃない」
「そうだ」マーカスは頷く。「ビジネスの話だ」
沈黙。
マーカスは全員を見回した。「俺は行く」
それだけだった。説得はしない。もう全員、理解している。
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サミールが立った。「俺もだ」
次にリー。「期待値だけなら挑戦が合理的だ」
アナは少し泣いていた。「お母さんに怒られるな」笑いながら立ち上がる。「でも行く」
残ったのはイワンだけだった。全員が見る。
イワンは何も言わなかった。そのまま部屋を出た。誰も引き止めなかった。
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搭乗開始まで二十分。
帰還船への通路と、格納庫への通路が、分岐点で二手に分かれていた。
イワンは立ち止まった。タブレットを開く。
湖。桟橋。ボート。家。犬。静かな老後。全部手に入る。帰還船に乗れば。
十分だった。本当に十分だった。
若い頃なら迷わなかった。だが今は違う。
六十六パーセント。数字が頭を離れない。人生最後の賭け。もう二度と来ない機会。
イワンは長い間、動かなかった。
やがて小さく笑った。
「まったく」
タブレットを閉じる。誰に言うでもなく呟く。
「帰ったら、もっと後悔する」
そして振り返った。帰還船ではなく、格納庫の方へ。
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マーカスが驚いた顔をした。「来たのか」
イワンは工具箱を放り投げた。
「お前らだけじゃ三日で船を壊す」
サミールが吹き出した。アナも笑った。リーまで、少しだけ笑った。
誰も握手しなかった。誰も歓迎しなかった。ただ当たり前のように、作業を始めた。
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数時間後。五人を乗せた船が格納庫を離れた。
目指すのは未調査小惑星XJ-417。宝の山かもしれない。ただの岩かもしれない。誰にも分からない。
エンジンが点火する。船体がゆっくり加速する。
後方で帰還船が小さくなっていく。地球へ帰る道も、安全な未来も、少しずつ遠ざかる。
だが誰も振り返らなかった。
彼らが掘りに行くのは鉱脈ではない。人生の続きを、掘りに行くのだった。
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了