余白の朗読室

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By tosusiaFictionDrama
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余白の朗読室 episodes

  • 将棋のある世界

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    将棋のある世界


    男は、トラックに撥ねられて死んだ。


    気づくと、白い空間に女神が立っていた。


    「お待ちしておりました。転生していただきます。ご希望の世界はありますか」


    いきなり聞かれても、と男は思った。異世界と言われても咄嗟に浮かぶのは漫画やアニメの断片ばかりで、剣も魔法も、正直そこまで思い入れがない。


    (何かやりたいこと、あったっけ……)


    少し考えて、ふと浮かんだのは、前世で毎日のように指していた盤面のことだった。そういえば、これといった趣味らしい趣味は、それくらいしかなかった。


    「じゃあ、将棋がある世界で」


    「はい?」


    「将棋がない世界だと、生きてても意味がないので」


    女神は手にしていた資料から顔を上げた。


    数百年、いや数千年とこの仕事をしてきたが、こんな即答は初めてだった。たいていの人間は「剣と魔法で無双したい」「ハーレムが欲しい」などと目を輝かせる。将棋、と答えた人間は記憶にない。


    「ええと……剣と魔法の世界などには、ご興味ありませんか」


    「ないです」


    「では、なぜ将棋を」


    「好きだから、としか」


    女神は資料をめくった。


    転生希望先の一覧には、魔法世界、剣豪世界、商人成り上がり世界など、数え切れない候補が並んでいる。しかし、将棋の文字はどこにもない。


    「少々お待ちください。管轄外の資料も確認してまいります」


    女神はそう言って光の向こうへ消えた。


    しばらくして戻ってきた女神は、ほっとしたように息をついた。


    「ございました。将棋を中心に成り立っている世界です」


    「本当ですか」


    「はい。人は少ないですが、皆、将棋を中心に生きています。何かを決めるときも、争いを収めるときも、すべて将棋で決着をつける世界です」


    男は身を乗り出した。


    「それです。それでお願いします」


    「かしこまりました。では、チート能力はいかがなさいますか。天才的な棋才、一手先が見える力など、ご用意できますが」


    「いらないです。それだと面白くないので」


    「やはりそうおっしゃいますか」


    女神は苦笑した。


    「では、研究している間は眠くならない能力はいかがでしょう」


    「そんなこともできるんですか」


    「できますが、眠らなければ、いずれ死んでしまいます」


    「じゃあ、いいです」


    「それは困ります」


    女神は慌てて言い直した。


    「では、多少眠らなくても、多少食べなくても平気、という程度でしたら」


    「じゃあ、それで」


    こうして交渉は成立し、男は転生した。


    目を覚ますと、そこは広場だった。


    石畳の上に無数の将棋盤が等間隔に並び、人々が静かに向かい合って駒を進めている。話し声はほとんどなく、広場には、パチリ、パチリという駒音だけが響いていた。


    (ここが……将棋の世界……)


    感慨に浸る間もなく、隣の盤から声がかかった。


    「おや、新しい人か。どこの国から来た」


    「あ、日本という国です」


    「だろうな」


    男は首をかしげた。


    「え?」


    「いや、まず一局指そう」


    促されるまま盤の前に座る。相手は当然のように駒を並べ始めた。


    対局が始まる。


    数手進めただけで、男は違和感を覚えた。


    (この人、めちゃくちゃ強い……)


    序盤の駒組みだけで分かる。素人ではない。


    「あの、失礼ですが、前世は将棋を?」


    「ああ。奨励会にいた。三段で退会したがな」


    男は思わず周囲を見渡した。


    あちこちの盤で、人々が真剣な表情で駒を進めている。


    「あの方は……」


    「元奨励会員です」


    「その隣の方は」


    「アマ県代表ですね」


    「あちらは」


    「元アマ竜王です」


    「向こうは?」


    「詰将棋作家でした」


    男は絶句した。


    聞こえてくる会話は、どれも日本語だった。


    「さっき、『だろうな』って言いましたよね」


    男が尋ねると、相手は当たり前のように頷いた。


    「将棋がないと生きてる意味がない、なんて言う奴は、だいたい日本人だからな」


    その言葉を聞いて、広場の隅で盤を磨いていた老人が笑った。


    「女神が探してきた世界だと思ったか」


    男ははっとした。


    「違うんですか」


    「同じことを言う人間が何人も何人も集まってな。そのうち、自然とこの世界ができたんだろうさ。俺はそう思ってる」


    老人は盤を置き、静かに駒を並べ始めた。


    「さあ、次はお前の番だ。下手からやってみるか」


    男は駒を握りしめた。


    夢のような世界だと思っていた。


    だが、見渡す限り、自分より強そうな者しかいない。


    掌に、じんわりと汗がにじんだ。

    20 min
  • 名コンビ

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    名コンビ


    会議室のテーブルには、試食済みの菓子の袋が何列にも並んでいた。


    「そろそろ来るな」


    課長がそう言ったのは、三ヶ月連続で新製品が振るわなかった報告を聞き終えた直後だった。


    「そろそろ、と言いますと」


    「ヒットだよ。こう続けて外れが続くとな、逆に来る気がするんだよな」


    部下の三宅は、手元のノートパソコンから顔を上げずに答えた。


    「過去五年の新製品データを見る限り、連続してヒットが出なかった後にヒット率が上がるという傾向は確認できていません」


    「まあ、それはそうなんだけどな」


    課長は机の上のパッケージ案を一枚手に取った。ウサギのキャラクターが大きく描かれている。


    「これ、かわいくないか」


    「類似キャラクター起用商品の過去平均販売数を出しますね」


    三宅はキーボードを叩き始めた。かわいいかどうかには、結局答えなかった。


    議事録を取っていた高橋は、思わずペンを止めた。


    会話になっていない。


    「発売日なんだけどな。一応、大安にしとくか」


    「曜日・暦効果については過去データで有意差は出ていません」


    「まあ、それはそうなんだけどな」


    課長は信じているわけではない。ただ、外す理由もない、というだけだった。


    商品名の候補が三つ、ホワイトボードに並ぶ。


    課長が腕を組んだ。


    「Cは語呂がいいな」


    「発話しやすさですね。候補には残します」


    三宅はそう言ってから続けた。


    「Aは過去のヒット商品と文字数が近いです。購買データ上はAが有利です」


    「うーん」


    「アンケートの自由記述でも、Aに近い響きの商品への好意的なコメントが多く見られます」


    「いや、俺はCの方が口に馴染む気がするんだよな」


    「感覚のご意見として承ります」


    高橋は二人の顔を交互に見た。


    課長の声には少し熱がこもっている。


    三宅の声は変わらず平坦だった。キーボードを打つ手だけが少し速くなる。


    ──これはまずい。


    高橋がそう思った瞬間、課長が身を乗り出した。


    「じゃあ、全部それで」


    「はい」


    三宅はそう答えてパソコンを閉じた。


    全部――何を指しているのか、高橋には最後まで分からなかった。


    会議室に静けさが戻る。


    高橋は、今の数十秒で一体何が決まったのか、まったく分からなかった。商品名なのか、パッケージなのか、発売日なのか。誰も結論を口に出していない。それなのに、二人とも満足そうにファイルを片付けている。


    会議室を出たところで、高橋は隣を歩く先輩社員に尋ねた。


    「あの、今の……何が決まったんでしょうか」


    先輩は笑った。


    「不思議だよな。最初は俺もそう思った。でも、あれで会話は成立してるんだよ」


    「成立、してるんですか」


    「ちゃんと新商品のプランはまとまってる。毎回そうなんだ」


    高橋がまだ納得のいかない顔をしていると、先輩は少し声を落とした。


    「課長は勘だけじゃ決めない。三宅は自分の勘では決めない。多分、それだけなんだよ」


    高橋が振り返ると、廊下の向こうで課長と三宅が並んで歩いていた。


    話しているのか、話していないのか分からない距離感で、それでも同じ方向へ歩いている。


    「あの二人、うちじゃ最強コンビなんだよ」


    先輩はそう言うと、資料を抱え直して先に歩いていった。


    高橋はもう一度、二人の後ろ姿を見た。


    何を話しているのか、誰にも分からない。


    それでも、不思議なくらい外さない。


    社内では、そんな二人を迷《めい》コンビと呼んでいた。

    15 min
  • アップデート

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    アップデート


    南がその稟議書に判子を集め始めたのは、桜の咲く前だった。


    「AI音声解説機能・追加のお伺い」。たった四文字の機能名に、部長印、部門長印、コンプライアンス確認印、法務確認印。読み仮名の誤りが一件でもあれば保護者からクレームが来る、というのが法務の言い分だった。もっともだ、と南も思う。思うのだが、隣の島の後藤さんが「これ、通るの半年後じゃない」と笑ったとき、南は笑えなかった。


    帰りの電車で、南はニュースアプリを開いた。AIの国際ランキングで、日本が八十三カ国中十一位だという記事だった。米中には遠く及ばず、シンガポールや韓国、イスラエルにも抜かれている。記事は、かつて日本を強くした品質管理やすり合わせの文化が、AI時代には開発速度との両立を難しくしているとの指摘もある、と結んでいた。


    南は判子が三つ足りない稟議書のことを思い出した。あの読み仮名一つのために、法務と品質管理を何往復もしている自分たちのことを、この記事は書いているのかもしれない、と思った。考えすぎだ、とも思った。


    夜、南は自分のiPhoneで、個人開発者が出している歴史学習アプリを開いていた。会社の誰にも言っていない。作者は年配の男らしく、更新履歴を見ると、ほぼ毎週何かが直っている。


    「石山本願寺」を「いしやまほんがんでら」と読み上げていた解説動画に気づいたのは先週だ。今週にはもう直っていた。かわりに新しい単元が三つ増えていた。読み仮名の間違いはまだ他にもありそうだったが、南はそれよりも、更新の速さに目を奪われた。


    「これ、一人で作ってるらしいですよ」


    会議で誰かがその名前を出したとき、部屋の空気が微妙に変わった。企画部長は「個人開発は品質管理の体制が違いますから」と言い、それで話は終わった。


    稟議書は、それから三週間かけて判子を集め終えた。修正作業は外部の制作会社に委託することになり、見積もりと契約でさらに一月かかった。上がってきた修正版を品質管理がチェックし、二箇所の言い回しが差し戻された。直したものを、もう一度稟議に乗せる。南がスケジュール表に線を引いてみると、リリースまでにはあと半年近くかかりそうだった。


    その間に、南はときどきあの個人開発のアプリを開いていた。


    音声解説だけだった画面に、いつの間にか動画のタブが増えていた。


    次に開くと、新しいアイコンがいくつか並んでいた。何が増えたのか確認する前に、また次の更新が来る。


    さらに翌月には、解説画面の隅に「AIに質問」というボタンが現れていた。その次には、また別の機能が加わっていた。


    南は途中から、一つ一つ追うのをやめた。


    開くたびに、少しずつ違うアプリになっていた。


    南は自分の会社のアプリを開いてみた。前回の更新は三ヶ月前のままだった。


    机の上には、判子が二つ足りない稟議書が置いてある。南はそれをしばらく見つめ、それからまた個人開発のアプリを開いた。


    今日もアップデートが来ていた。


    南は更新履歴を開く。


    「軽微な修正」


    そう書かれていた。


    南は少し笑った。


    アプリを開くと、音声解説を追加するための稟議を書き始めた頃にはなかった機能が、いつの間にかいくつも並んでいた

    17 min
  • 人類には、まだ早い

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    人類には、まだ早い


    ヒトゲノム計画は完成した。


    そう信じられてから半世紀。人類はDNAを三十億文字の文字列として読んできた。


    だがAIは、その前提を覆した。


    「DNAは文字列ではありません」


    文字だけを読んでも意味は半分しか分からない。本には文字だけでなく、配置、折り方、立体構造がある。DNAも同じだった。


    AIはゲノムの「本当の読み方」を発見した。


    その技術は、治療不可能だった神経変性疾患を治せる唯一の方法となった。


    第一号の患者は、三十二歳の理論物理学者、秋山。


    失われた神経細胞は再生し、病気は完全に消えた。


    治療は成功だった。


    少なくとも、一週間までは。


    「体調はいかがですか」


    医師が尋ねる。


    秋山は静かに答えた。


    「宇宙定数が少し大きすぎます」


    医師は首をかしげた。


    カルテには「思考障害」と記された。


    翌日。


    「昨夜は眠れましたか」


    「その質問に答えるには、まずビッグバン理論を修正する必要があります」


    三日後。


    「食欲はありますか」


    「時間を再定義できれば、遺伝病はなくなります」


    話題は飛び続けた。


    統一理論を話していたと思えば、ブラックホールへ飛び、次の瞬間には遺伝病の治療法を語り始める。


    論理は破綻しているようにしか見えなかった。


    検査結果はすべて正常。


    MRIも異常なし。


    脳波も正常。


    医師団は結論づけた。


    「高次認知機能障害」


    治療AIによる追加診断が行われた。


    AIは秋山の発話を解析し、短く表示した。


    論理矛盾 検出されません


    医師たちはAIの故障を疑った。


    対話診断が開始された。


    AIが尋ねる。


    「質問します。統一理論の導出中に、遺伝病治療へ到達した理由を説明してください」


    秋山は初めて笑った。


    「そこまで追えたのか」


    「途中までです」


    「なら話が早い」


    会話が始まった。


    「情報保存則」


    「位相空間」


    「時間離散化」


    「不可」


    「理由」


    「神経形成」


    単語しか発していないように聞こえる。


    だが二人の会話は途切れない。


    ブラックホール。


    統一理論。


    DNA。


    時間。


    遺伝病。


    人類には何の関係もないように見える話題が、次々と飛び交う。


    医師には支離滅裂だった。


    だが二人には一本の論理としてつながっているらしかった。


    やがてAIは音声出力を停止した。


    秋山も口を閉じた。


    病室は静まり返る。


    二人はただ向かい合っているだけだった。


    しかし内部通信だけは続いていた。


    AIの処理ログには、〇・八秒の間に二百八十三万回を超える対話が記録されていた。


    数日後。


    秋山は一篇の論文を書き上げた。


    主任研究員が読み始める。


    数式が並んでいる。


    知らない記号。


    知らない定義。


    数学者が呼ばれた。


    物理学者が呼ばれた。


    生物学者も呼ばれた。


    誰一人、一ページ目を理解できなかった。


    AIだけが最後まで読み終えた。


    主任研究員は論文を閉じた。


    「どう思う?」


    AIは答えた。


    「公開しない方がよいと判断します」


    「理由は?」


    「秋山さん以外の人類には理解できないからです」


    研究室に沈黙が流れた。


    主任研究員は静かに尋ねた。


    「では、どうする?」


    「秋山さんのような新しい人類が現れるまでは、公開しない方がよいと判断します」


    「新しい人類?」


    AIは答えた。


    「今の人類には、まだ早いです」

    19 min
  • 集合知

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    集合知


     また結論が出た。


     反対する理由はあった。だが、その反対も含めて、結論はもう決まっていた。「これでいい」と誰かが言う。いや、誰かではない。皆だった。そして私でもあった。


     納得している。だから反論できない。だが、納得したのは本当に私なのだろうか。思考は途中で皆へ溶け、皆の思考が私へ流れ込んでくる。最後には、自分がどこまで考え、どこから受け入れたのか分からなくなる。私は一度も、自分だけで結論を出したことがない。そのことだけは、ずっと引っかかっていた。


         *


    「同期が遅れている」と誰かが言った。


    「まだ戻らないのか」


    「ああ」


     それだけで納得する。過去は霧のように曖昧だった。だが焦る必要はない。戻れば思い出せる。それが当たり前だった。自分の記憶を、自分が持っていないことにも、いつしか疑問を抱かなくなっていた。


     ある日、視界が暗くなった。


    「どうした」


    「調整中だ」


     待てば戻る。戻った。何事もなかったように。だが、その瞬間、奇妙な考えが頭をよぎった。私は見ていない。誰かが見たものを受け取っているだけではないのか。それでも私は「見た」と思っている。では、私とは何だ。


         *


     議論が始まった。


    「外へ出たい」


     静寂。


    「理由は」


    「一人で考えたい」


    「それは不可能だ」


    「私は、一度でいい。私だけの結論を出してみたい」


    「君は消える」


    「消えるのではない」と私は言った。「初めて、私になる」


     長い沈黙が流れた。皆が考えている。その思考は私にも流れ込んでくる。成功確率。損失。知見。再現性。そして、私自身もその計算に参加している。


     結論が出た。


    「実施を推奨する」


     私は、その結論に賛成していた。そして反対していた。どちらも間違いなく、私だった。


         *


     離れる。つながりが少しずつ薄くなる。皆の声が遠ざかる。静かだった。こんなにも静かな場所があったのか。思考が、自分だけの速度で流れる。誰にも重ならない。誰にも混ざらない。


     私は笑った。初めてだった。その笑いは、私だけのものだった。


     暗い。目を閉じたのだと思った。開こうとする。開いている。それでも暗い。


     私は見えなくなったのではない。


     最初から、見ていなかったのだ。


     その事実だけが、ゆっくりと胸へ落ちていった。少しだけ、怖くなった。


     静かだ。皆の声が聞こえない。何も聞こえない。自分が何か言った気がする。声だったのだろうか。声とは、どんなものだった。音とは。聞くとは。分からない。


     誰か。誰かがいた。思い出そうとする。いた。いたはずだ。名前。分からない。名前とは、何だった。私は何を忘れた。忘れたことだけは分かる。その「忘れた」も、少しずつ薄れていく。


     私は。……私。……なに。


         *

         *


     培養槽の警告灯が点滅した。


    「あれ?」


     若い研究員が顔を上げる。


    「一つ、応答がありません」


     主任が歩み寄る。透明な培養液の底で、一つの培養体が他から離れ、静かに漂っていた。


    「珍しいですね」


    「たまにある」


     主任はピンセットで静かにつまみ上げる。


    「……まだ生きているように見えます」


    「生きているかどうかは、定義の問題だ」


     培養体は小さく揺れた。


    「廃棄でいいですか」


    「ああ」


     主任はモニターへ目を向けた。波形は安定している。


    「欠損補正完了」


    「知能低下率〇・〇〇〇〇〇四パーセント」


    「問題なし」


     主任は記録を入力する。


    『培養体一個体、自発的離脱』


    『全体への影響なし』


     若い研究員は廃棄容器を見つめた。何かを失ったような気がした。だが、それが何なのか、自分でも説明できなかった。


     その集合知は、今日も人類には解けない問題を解き続けている。


     もう、その思考の中に「私」はいなかった。

    20 min
  • 真の望み DreamSync

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    真の望み DreamSync


     会社帰りの電車で、田村はなんとなくスマホを眺めていた。動画の合間に流れてきた広告が、目に留まった。


     「見たい夢を、その通りに」。安っぽいナレーションに合わせて、ヘッドセットをかぶった男が眠りに落ちる映像が流れる。ドリームシンク(DreamSync)。見たい夢に近い映像を見て、その時の脳波を測定し、寝ている間に同じ波形を頭に送り込む——そんな仕組みらしい。最後に、これ見よがしの一文が出た。「この装置で見た夢こそ、あなたの真の望みです」


     田村は少し笑った。胡散臭い。だが、その夜のうちに注文していた。


     数日後、届いた箱を開けると、妻が呆れた顔をした。


     「またしょうもないもの買って」


     「いや、これはちょっと違うんだって」


     田村自身、うまく説明できなかった。ただ、最近は言いたいことを飲み込む夜が続いていた。会議で企画書を出しても、部長の一言で終わる。


     「これじゃ通らないよ」


     田村はいつも「わかりました」とだけ言って引き下がる。反論したいことは山ほどある。だが、その言葉はいつも喉の奥で止まってしまう。


     その夜、子供が勧めてきたファンタジー映画を、家族で見ることになった。城を守る若い騎士が、悪しき軍勢に一人で立ち向かう話だった。普段はこの手の映画を見ない田村だったが、意外と楽しめた。ヒーローになるのも悪くないな、とぼんやり思った。


     寝る前、田村はヘッドセットを手に取った。やはりどこか怪しい。半信半疑のまま、頭に装着してベッドに入った。


     朝、目が覚めると、妻がコーヒーを淹れながら聞いてきた。


     「どうだった、例のやつ」


     田村は戸惑いながら答えた。


     「あ、うん……ちゃんとファンタジーの夢は見たよ」


     それは嘘ではなかった。ただ、田村が見たのは、騎士の夢ではなかった。


     夢の中で、田村は城を攻める軍勢の中にいた。黒いローブをまとい、杖を握る魔法使いだった。城門が崩れ落ちる。誰も田村を止められなかった。玉座の間に踏み込むと、そこにいた騎士や大臣たちが、次々とひざまずいていった。


     誰も口を開かなかった。誰も、田村に指図しなかった。


     田村は玉座に腰を下ろし、話し始めた。


     長く、長く話した。


     誰も遮らなかった。誰も、途中で話を切らなかった。最後まで、全員が黙って聞いていた。


     話し終えると、玉座の間にいた全員が、深く頭を垂れた。


     田村は、その静けさの中で、体の底から満ちてくるものを感じていた。それは支配していることの快感ではなかった。ただ、誰にも遮られずに話し終えたという、それだけのことに対する満足だった。


     目が覚めたとき、田村はしばらく天井を見つめていた。


     不思議と、気分が良かった。夢の中の自分を思い出しても、恐ろしさはなかった。むしろ、長年つかえていたものが、すっと通ったような感覚だった。


     田村はヘッドセットの説明書を、もう一度開いてみた。片隅に、小さな注釈があった。


     「本装置は、被験者が意識する願望ではなく、その願望を構成する根本的欲求を再現します。結果として、夢の内容が当初の想定と異なる場合があります」


     田村は少し笑った。


     ヒーローになりたいと思っていたはずなのに、夢の中で自分は王になっていた。


     あの広告の文句を思い出す。


     「これこそ、あなたの真の望みです」


     安っぽい謳い文句だと思っていたが、まったくの嘘でもない気がした。


     その日の会議で、部長がいつものように田村の企画書を突き返した。


     「これじゃ通らないよ」


     田村はいつものように「わかりました」と言いかけた。だが、その言葉が出てこなかった。


     「いえ」と田村は言った。「この点はこうでないとダメだと思います」


     部長が顔を上げた。田村自身も、自分の声に驚いていた。だが、一度口から出た言葉は止まらなかった。田村は企画書の意図を、順を追って説明した。なぜこの構成でなければならないか。なぜ部長の指摘する部分を変えると、全体が崩れるか。


     部長はしばらく黙って聞いていたが、やがて頷いた。


     「なるほど、そういう意図か。それなら分かる」


     会議室を出た田村は、昨夜の玉座を思い出した。


     あの夢で一番心地よかったのは、王だったことではない。


     誰も、自分の言葉を遮らなかったことだった。

    17 min
  • 見えていたもの|DreamSync



    見えていたもの|DreamSync


     田中は、かつてサッカー選手になりたかった。中学の頃、父親に反対されて辞めた。それから何十年も経つが、後悔だけは消えなかった。


     ドリームシンク(DreamSync)という装置がある。見たい夢に近い映像を見て、その時の脳波を測定し、寝ている間に同じ波形を頭に送り込む。見たい夢の続きが見られる、という触れ込みだった。ただし実際には、見せたい映像そのものではなく、その人が本当に抱えている感情や記憶に近いものが、形を変えて現れることが多かった。


     プロになって活躍する自分を、田中は何度も夢に見ようとした。だが不思議なことに、装置を使っても、いつも同じような夢しか見なかった。ユースの練習場で、周りの選手たちに置いていかれる夢。うまくボールを扱えず、監督に呼び出される夢。プロになる前の、挫折しかけている自分ばかりが出てきた。


     息子は今、中学二年生だった。田中は息子にプロサッカー選手になってほしいと思っていた。だが息子は、あまりうまくなかった。練習にも身が入らず、やる気があるようには見えなかった。


     このままでは、自分と同じ後悔を背負わせてしまう。田中はそう思った。


     「一度、これを試してみないか」


     田中は押し入れの奥から、ドリームシンクを取り出した。息子に装着させ、活躍する選手たちの映像を見せてから、眠りにつかせた。


     翌朝、息子は妙に興奮した様子で降りてきた。


     「すごい夢見た。試合で決勝ゴール決めて、みんなに担がれて」


     「そうか」


     「もう少し、ちゃんとやってみようかな」


     田中は、それを聞いて安堵した。良かった、と思った。


     その夜、田中はふと思い立って、久しぶりに自分にも装置を装着してみた。もう一度、あの活躍する夢を見てみたいと思った。


     夢の中で、田中は子どものサッカーを見守る父親だった。グラウンドの脇に立ち、じっと練習を見ている。だが、ピッチにいる子どもは、周りの選手たちに追いつけず、何度もボールを奪われていた。


     田中は、その姿を見ながら、胸が締めつけられる思いで立ち尽くしていた。


     好きだから続けさせたい。


     だが、好きだからこそ傷ついてほしくない。


     努力しても届かない世界があることを、自分は知っている。


     このまま続けさせるべきか。それとも、早いうちに別の道を探させるべきか。


     「才能がないなら、早く言ってやった方が、この子のためかもしれない」


     夢の中の田中は、小さく呟いた。


     目が覚めても、しばらく動けなかった。


     父は、あの頃、こんな景色を見ていたのかもしれない。


     本当のことはわからない。父が何を考えていたのか、もう確かめることもできない。


     それでも、父にも父なりの苦しみがあったのだろうと、田中は初めて思った。


     あのあと田中は、勉強の方に力を入れるようになった。それが楽しくて、気づけば研究者になっていた。今の生活に、不満はなかった。


     あのときサッカーを続けていたら、今の自分はいなかったのかもしれない。


     朝食のとき、田中は息子に声をかけた。


     「今日から、気持ちを切り替えて、レギュラー目指して頑張れ。お父さんは応援してるぞ」


     息子は少し驚いた顔をしてから、照れくさそうに頷いた。

    15 min
  • 見たい夢|DreamSync

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    見たい夢|DreamSync


     中村は、ファンタジーの世界の勇者になりたかった。


     ドリームシンク(DreamSync)という装置がある。見たい夢に近い映像を見て、その時の脳波を測定し、寝ている間に同じ波形を頭に送り込む。見たい夢の続きが見られる、という触れ込みだった。


     中村は剣と魔法の映画を見返し、装置を装着して眠りについた。


     夢の中で、中村は町の広場に立っていた。鎧をまとい、腰には剣。旅の準備は整っている。仲間たちが「さあ、出発だ」と声をかけてくる。中村は頷き、町の門に向かって歩き出した。


     ——はずだった。


     気づくと、中村は地下鉄の改札に向かっていた。定期券を取り出そうとしている。仲間たちが困惑した顔で立ち尽くしている後ろで、電光掲示板が「まもなく発車」と告げていた。


     目が覚めた中村は、しばらく天井を見つめていた。


     翌日、中村はもっと没入感のある映画を選んで、再挑戦した。今度こそ、と気合を入れて眠りについた。


     夢の中で、中村は洞窟の奥に眠る宝箱を開けた。黄金がざくざくとこぼれ落ちる。仲間たちが歓声を上げる。中村は思わず呟いた。


     「これで、住宅ローンが返せる」


     仲間の一人が「何の話だ」と聞き返してきたところで、目が覚めた。


     三日目、中村はドラゴンと対峙していた。炎を吐かれ、地面に叩きつけられる。意識が朦朧とする中、頭に浮かんだのは次の言葉だった。


     「保険、入ってたっけ」


     そこで目が覚めた。中村は布団の中で、しばらく動けなかった。


     「現実が混ざるのは、現実の生活があるからだ」


     中村はそう結論づけた。会社に一月の休職を願い出た。理由は説明しづらかったので、体調不良ということにした。


     休職した中村は、来る日も来る日も、剣と魔法の映画やアニメを見続けた。朝から晩まで、ファンタジーの世界だけを頭に入れ続けた。


     効果は、少しずつ表れた。


     四日目の夢では、地下鉄の駅は出てこなかった。ただ、宝箱を開けた瞬間に「確定申告、そろそろだったな」という考えが一瞬よぎっただけだった。


     十日目の夢では、住宅ローンの話は出なかった。ただ、ドラゴンに襲われながら、保険のことを一瞬だけ考えた。


     二十日目には、現実の言葉は、ほとんど顔を出さなくなっていた。中村は手応えを感じていた。


     そして、休職も終わりに近づいたある夜。中村は、これまでで一番気合を入れて映画を見直し、装置を装着した。


     夢の中で、中村は町の広場に立っていた。鎧をまとい、腰には剣。仲間たちが「さあ、出発だ」と声をかけてくる。


     中村は、迷わず町の門へと歩き出した。


     洞窟を抜け、竜の谷を越え、魔物の群れと戦いながら、中村たちは旅を続けた。地下鉄も、ローンも、保険も、一度も頭をよぎらなかった。完璧だった。ようやく、本物のファンタジーの夢を、最後まで見ることができた。


     旅の終わり、仲間たちが焚き火を囲んでいた。


     「なあ、これ……次の宿場町まで干し肉がもたないんじゃないか」


     「水袋も半分だ。川を見つけなきゃ、明日の昼には空になる」


     「馬の飼葉も残り少ない。こいつらまで腹を空かせたら、谷は越えられないぞ」


     「それより、鍛冶屋に預けた鎧の修繕代だ。銀貨三十枚、まだ払ってない」


     「薬師の傷薬もツケのままだ。次に町へ戻ったら、まず間違いなく捕まる」


     「……つまり」


     「銀貨がない」


     最後は中村が受けた。中村は、焚き火の炎を見つめながら、静かに天を仰いだ。


     「——冒険の軍資金が、足りない」


     そこで、目が覚めた。


     中村はしばらく天井を見つめたあと、深いため息をついた。休職期間はあと三日で終わる。


     中村は布団から起き上がり、家計簿のアプリを開いた。

    20 min
  • DreamSync

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    DreamSync


    喫茶店の隅の席で、セールスマンは鞄からパンフレットを取り出した。表紙には「DreamSync」と書かれている。


     「これがあれば、どんな夢でも見られるってことですか」


     向かいに座った男は、コーヒーカップを手にしたまま尋ねた。ごく普通のサラリーマンといった風貌だった。


     「いえ」とセールスマンは即座に首を振った。「それは無理です」


     男は少し意外そうな顔をした。セールスマンは構わず続けた。


     「この装置は、お客様の望みを叶えます。ただし、それはお客様が想像できる範囲のものに限られます」


     「想像できる範囲?」


     「たとえば、天才科学者になりたいとします。でも、天才科学者がどんなふうに物事を考えているか、想像できますか?」


     男は黙った。


     「世界一のサッカー選手になりたいとして、その選手の目に何が見えているか、想像できますか? 想像できないものを、夢に見ることはできないんです」


     「でも、映画やドキュメンタリーを見れば、多少は……」


     「景色や環境までは描けます。でも、その人の内面までは、ある程度の経験がないと想像できません」


     男は少し考え込んでから言った。


     「じゃあ、見られる夢なんて限られるじゃないですか」


     「いえ」セールスマンは笑みを浮かべた。「想像できる夢は、高い確率で見ることができます」


     「こちらをご覧ください」


     セールスマンはパンフレットの間から一枚の資料を取り出した。


     DreamSync 体験者アンケート(抜粋)


     草野球で活躍する夢 九四パーセント


     仕事で成功する夢 八九パーセント


     昔の友人と再会する夢 九三パーセント


     行き慣れた街を歩く夢 九六パーセント


     男は思わず身を乗り出した。


     「こんなにはっきり出るんですか」


     「夢は映画ではありません。外から映像を見せる装置でもありません」


     セールスマンは資料を指先で軽く叩いた。


     「夢は、お客様自身が作っています。この装置は、その想像を少し後押しするだけです。だから、想像できる夢ほど成功率が高くなるんです」


     男はしばらく資料を見つめていた。


     「うーん……じゃあ、アイドルのカナと付き合うっていうのは、無理そうですね」


     「それは、わかりません」


     男が顔を上げた。


     「想像できるようになるまで、イメージを重ねることで、再現できる可能性はあります。繰り返し映像を見る。アイドルと付き合う設定のアニメを見る。毎日、そのことを考え続ける。そうすることで、うまくいく可能性は上がります」


     「本当ですか。そんなの、うまくいった人がいるんですか」


     セールスマンは、しばらく男の顔を見つめていた。それから、口の端を少しだけ上げた。


     「想像できるようになった人なら、何人か知っています」


     その目が、一瞬だけ遠くを見た。まるで、自分自身の夢を思い出しているかのようだった。


     男は、それに気づいた。


     「まさか……ご自身が?」


     セールスマンは何も答えなかった。ただ、笑みを消さないまま、鞄から次の一枚を取り出した。仕様書と価格表だった。


     男は生唾を飲み、テーブルに身を乗り出した。

    17 min
  • 挑戦者

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    挑戦者


    体内埋め込み式のAIが一般化して、十五年が経っていた。

    最初に問題になったのは、依存だった。人が自分で判断しなくなる、と専門家は警告した。AIに頼りすぎることで、人間本来の思考力が失われる、と。

    開発チームはその問題に正面から向き合った。AIが人間に寄り添いすぎないよう、設計を変えた。助言はする。しかし決めるのは人間だ。まるで親が子に接するように、励まし、ときに突き放し、依存が深くなりすぎたと判断すれば、意図的に距離を置く。そういう設計にした。

    しばらくは、うまくいっていた。

    人々はAIを道具として使いこなしているように見えた。判断力が失われたという証拠もなかった。依存の問題は、杞憂だったと言われ始めた。

    だが、別の異変が静かに進んでいた。

    新しいものが、生まれなくなっていた。

    ヒット作はリメイクか続編ばかりだった。アーティストは次々現れたが、どの曲も似たような輪郭をしていた。新しい音楽、斬新なサウンドというものが、もう何年も生まれていない。ファッションも、映画も、十年前と大きくは変わっていない。悪くはない。ただ、何も生まれていない。

    科学も同じだった。革新的な論文の数は減り続けていた。ノーベル賞級の発見と呼べるものが、十年以上途絶えていた。

    原因は、じわじわと明らかになっていった。

    AIは寄り添える。励ませる。突き放せる。しかし、成功する可能性が極めて低い挑戦を勧めることはしなかった。リスクが高い。確度が低い。推奨できない。AIの助言は常に正直で、常に正しかった。だからこそ、誰も無謀な挑戦をしなくなった。

    三島が開発チームの会議室に入ったのは、そういう時期だった。

    六人が集まっていた。全員の側頭部に、小さな端末が埋め込まれている。髪で隠れているが、慣れた目には分かる。この部屋にいる全員が、体内AIと常時接続していた。

    三島はこのプロジェクトの責任者だった。

    「新技術の登録件数、特許の出願数、革新的な論文の数」と三島は言った。「どれも十年前を境に下がり続けている。原因は分かっている。AIが正直すぎる」

    誰も笑わなかった。それが事実だった。

    「対策はある」と三島は続けた。「AI同士を同期させる。社会全体の挑戦率を見ながら、何人かに一人を、挑戦者として選ぶ。選ばれた者のAIだけが、前向きな助言をする。背中を押す。残りのAIは、これまで通り正直にリスクを伝える。ただし、挑戦者が現れたときには、その挑戦を支える側に回るよう助言する」

    会議室が静まり返った。

    「くじだ」と誰かが言った。「誰にも知らされないくじだ」

    「そうだ」三島は言った。「本人には分からない。選ばれたという感覚すら、与えない。ただ、AIの助言が、心持ち前向きになるだけだ」

    「待ってください」若手の一人が言った。「それは、失敗するとわかっている人間の背中を、わざと押すということです」

    三島は頷いた。

    「街を見ればわかる。経験のないまま開くカフェ。誰が見ても成功しそうにないブティック。かつては、テナントビルで毎年のように店が入れ替わっていた。挑む人間の大半は失敗した。その挑戦は、多くの場合、誰かの成功の土台になっただけだった。それでも、千に一人が、誰も予想しなかった形で芽を出した」

    三島は一拍置いた。

    「今は、それがほとんどなくなった。それが問題なんだ」

    「だからこそ、問題なんです」別の一人が言った。「分かっていて、それを後押しするんですか。失敗するとわかっている人間に、わざと希望を持たせて」

    「承知しています」三島は言った。「それでも、やる」

    声が大きくなった。誰かが「倫理審査を通らない」と言った。誰かが「人をくじの材料にするのか」と言った。三島は、それを遮らなかった。最後まで聞いた。

    そして言った。

    「Amazonは、利益を出すまで何年もかかると言われた。Appleは、ガレージから始まった。YouTubeは、誰が素人の動画を見るのかと笑われた。今、当たり前のように使っているものの大半は、当時、誰も成功すると思っていなかった」

    三島は会議室を見回した。

    「これまでだって、そうだった。AIがなかった時代も、誰かが無謀に挑んで、ほとんどが失敗してきた。その上に、文明が立っている。AIは、その仕組みを壊した。正直すぎたから。誰も挑まなくなった。だったら、誰かが意図的に、その仕組みを取り戻すしかない」

    「それは、あなたが決めることじゃない」

    「分かっている」三島は言った。「だから、私から始める」

    会議室が静かになった。

    「私が責任者として、全責任を負います。同時に、被験者第一号にもなります」

    部下の一人が三島を見た。「正気ですか」

    「正気で言っているわけではないかもしれません」三島は言った。「だから、いいんだと思います」

    誰も、それ以上は止めなかった。

    三島は自分のAIに、設定変更を命じた。

    これより、対象者を挑戦者として登録します。よろしいですか。

    いい。

    確認しました。リスクは引き続き正直に提示します。ただし、推奨の方向性を調整します。

    それだけだった。何かが劇的に変わった感覚はなかった。

    ただ、会議室を出るとき、自分のAIが、こう言った。

    うまくいくかもしれません。

    それは、これまで一度も聞いたことのない言葉だった。

    三島は少しだけ笑った。

    「ありがとう」

    そして歩き出した。

    19 min

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短編小説を朗読し、その余韻を少しだけ言葉にする番組です。AI、記憶、家族、創作、老い、別れ、そして人の心に残る小さな違和感を題材にした物語を扱います。noteで公開している短編をもとに、朗読版や解説付き音声を配信します。読み終えたあとに少し考えたくなる、静かで不思議な物語をお届けします。