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「自分が探していると思っていたら、実は自分が探されていた」-トルコで、行方不明者の捜索に加わっていた男性が、探されているのは自分だと気付く出来事が起きました。
のちにイスラエルの初代王となるサウルは、ある日、いなくなった家畜である雌ロバを探しに出かけます。しかし、これはすでにサウルを王として召し出すための神様のご計画の一部であったのです。神様は、預言者サムエルに、サウルを探して王として任命するようお命じになります。雌ロバを探しに行ったと思っていたサウルは、実は神様によって探されていたのです。
もしかしたら、今あなたも何かを一心に探している途中かもしれません。生きるべき道はどこにあるのか、真実はどこにあるのか、と。
しかし、実は探されているのはあなたなのです。神様は、あなたを愛する子とするため、そしてあなたにもっとも相応しい役割を与えるために探しておられるのです。
神様は不可能な召命(ミッション)はお与えになりませんが、召命遂行に必要なことが3つあります。
聖書の語る「ミッションポッシブル」(Mission Possible)はここにあり。
私たちはみな、それぞれの「人生設計」を持っています。それ自体は悪いことではありませんが、それが神様の御心に沿わない場合、どうなるのでしょうか?
神様はその道を閉ざされることもありますが、時に人間の思いを受け止め許すことがあります。旧約聖書第Ⅰサムエル記では、イスラエルの民たちが「他の国々のように王様を擁立したい」と言い出します。これは神様がもっとも望んでおられることではありませんでしたが、神様は妥協し、王の擁立を許します(「許容的御心」)。
さて、この後イスラエルの民たちは、自分たちの立てた王様に守られ、幸せに暮らしたでしょうか…?
答えは否です。
イスラエルの民たちは、多くの試練に遭い、国は分裂し、国を追われます。神さまのプランではなく、人間のプランには多くの痛みが伴うのです。
では、私たちはどうしたら「神様のプランA」を実現することが出来るのでしょうか?坂本牧師が、①折れる準備、②本物を見る目、③待つ姿勢という3つのポイントから聖書を読み解きます!
(スキットもあるよ!)
クリスチャンとして生きていく中で、もしかしたらあなたは「パートタイム・クリスチャン」に陥ってはいないでしょうか?「信仰の世界」と「現実の世界」に境界線を引いて、都合に合わせてあっちに行ったりこっちに行ったり…。
そして問題が起こると、つい「現実の世界」のやり方で対処しようとしてしまうことがあるのではないでしょうか?神様の約束を信じ、問題を神様にゆだねることが非現実的に感じてしまうのです。
このような分裂は、私たちの内で神様とサタンが心の支配権を握ろうと戦っていることに起因しているのです。ぼんやりしていては、私たちの心はいとも簡単に悪に支配されてしまいます。
私たちは霊的に覚醒していなければなりませんが、霊的覚醒とは一体どのような状態なのでしょうか?預言者サムエルがどのようにイスラエルの民を霊的覚醒に導いたのか、坂本牧師の説教に聞いてみましょう。
どんなに偉大な人物も、時の流れのなかで忘却の彼方へと葬り去られます。その人物との人格的な交流は失われ、本質を欠いた記憶は形骸化した空疎なものとして人々の中に残ります。
サムエルの時代のイスラエルの民にとっても、モーセの時代に与えられた契約の箱はいつしか都合のいい時にだけ利用される「お守り」、あるいは「禍をもたらす恐ろしいもの」という、人格的な神様との繋がりを欠いた存在となってしまいました。
あなたは、イエス様にどのように近づいているでしょうか。
イスラエルの民のように、
驚くべきことに、聖なる主は罪にまみれた私たちのただ中に住まわれていると聖書は語ります。
神様との人格的な交流を取り戻すためには、イエス様が私たちのただ中に住まわれるために成し遂げて下さった偉大な御業を思い出す必要があるのです。
あなたは「神の声」を聞きたいですか??
神様は寡黙なのでしょうか?
いえいえ、主は語っておられます!
成功や繁栄は、それ自体は決して悪いものではありません。しかし、そこには「傲慢に陥る罠」が潜んでいます。苦労していた時代に大切にしていた人やものを忘れてしまったり、クリスチャンならば純粋な信仰から離れてしまうという誘惑です。
大祭司エリの家族もまた、神様から選ばれた特別な家系にありながら道を踏み外し、神様から恵みを奪い取られてしまいます。しかし、「一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した」と聖書は記しています。
神様は、忠実な祭司を求めておられます。この「祭司」とは、現代ではアロンの家系に属する者ではなく、クリスチャンである私たち一人ひとりのことを指しています。
では、「忠実な祭司」とは、一体どのようなクリスチャンのことでしょうか?3つのポイントから坂本牧師が語ります。
1983年に放映されたドラマ「積木くずし」では、非行に走った娘に対して、親が「境界線」を厳守しなかったために、事態が泥沼化していく様子が描かれていました。
今回の聖書箇所も、「境界線」という切り口で読むと、今の時代に通じるテーマが見えてきます。
私達は、親として、子として、正しく境界線を引けているでしょうか?何より、神様が提示しておられる境界線を、正しく認識しているのでしょうか?
エリと息子たちを反面教師として、神と人を真に尊重する生き方を学びましょう。
「祈っているのに神様はなかなか聞いて下さらない」「祈った通りにはならなかった」という苦い経験をしたことがある人は多いのではないでしょうか?
しかし、「祈りが聞かれる」とは一体どのようなことなのでしょうか。
試練で圧迫された時、趣味や気分転換によって「ガス抜き」をすることは必要なことです。しかし、それで終わってはなりません。クリスチャンは、その圧迫を祈りによって神様の御前に注ぎ出すという特権が与えられているのです。
私達が真心を注ぎだして祈る時、神様は確かにその祈りを聞いて下さり、思いもよらない形で神さまの壮大なタペストリーに織り込んで下さるのです。
今日から始まる「ダビデ物語」の説教シリーズ。初回は、「ハンナの祈り」です。名もない一人の女性の切実な祈りが天の神様に聞かれ、彼女が願った以上の大いなる御業がそこから展開されたお話から、「祈り」について考えてみましょう。
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