放射能の研究とラジウムの発見で、2度のノーベル賞を受賞した女性がいます。
マリー・スクウォドフスカ・キュリー。
通称・キュリー夫人。
なぜ、後世のひとが、彼女を「キュリー夫人」と呼ぶようになったのか。それには、二つの理由が考えられます。
ひとつは、マリー自身、昔の同級生への結婚報告の手紙で、「次に会う時は、キュリー夫人になっています」と書いたことから。
もうひとつは、マリー亡きあと、娘のエーヴが書いた、マリーの伝記のタイトルが『キュリー夫人』だったから。
ともすれば夫に隷属し、献身的に夫を支える妻、というイメージを与えかねない名前ですが、彼女ほど、対等な夫婦関係を構築し、女性の人権を主張し、闘った科学者はいません。
彼女の功績には、多くの「初」「初めての」という言葉がついてまわります。
裏を返せば、それまで、いかに女性の活躍する場が奪われてきたか、という証でもあるのです。
最初のノーベル物理学賞は、同じく科学者だった夫・ピエールと二人に贈られたものでしたが、二度目のノーベル化学賞は、夫亡きあと、マリーだけに贈られた賞でした。
当時彼女が所属していたフランス科学アカデミーは、古い体質が幅を利かせ、何かにつけ、女性蔑視的な風潮が色濃くありました。
マリーが有名になればなるほど、彼女への誹謗中傷が連日、マスコミで報じられたのです。
年下の研究員との不倫報道、彼女がユダヤ人であるというデマ、マリーの夫は不倫を知って自ら命を絶ったというフェイクニュース。
それでも彼女は毅然と立ち向かい、パリ大学の教授として、後進の指導にあたりました。
さらに彼女の強さは第一次世界大戦勃発で証明されました。
ドイツ軍の空襲を受けた、パリ。
放射線を扱える彼女は、X線が照射できる車に乗り込み、危険な戦地に向かったのです。
体のどこに銃弾があるかを認識できれば助かる命は多い。
ひとりでも多くのひとの命を救うために研究を続けて来た彼女の行動は、いっさいブレることはありませんでした。
なぜ、ここまで彼女は強くなったのか。
そこには、幼い頃受けた、屈辱と温情の二つがあったのです。
世界中の子どもたちに、科学への夢を与えたレジェンド、マリー・キュリーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?