長野県上田市に生まれた、文豪がいます。
久米正雄(くめ・まさお)。
大正時代から昭和にかけて、芥川龍之介、菊池寛(きくち・かん)たちと共に、文壇を支えた重鎮です。
その活動は、小説にとどまらず、劇作家、俳人としても名をなし、さらに趣味で野球、ゴルフ、社交ダンス、麻雀など、多芸多才な人物として知られています。
彼が監督・撮影したドキュメンタリーフィルムには、徳田秋声(とくだ・しゅうせい)、田山花袋、さらには木によじのぼる芥川龍之介の姿が映っていて、近代文学史の貴重な資料になっています。
若くして才能を開花した久米を、こんなふうに評するひともいます。
「器用貧乏」。
親友の芥川も、彼の文章力を評価していましたが、純文学と大衆文学の狭間で揺れ、非難や批判を受ける久米を、どこか冷ややかに見つめていました。
とかく誹謗中傷を受けがちな久米は、私生活でも、マスコミの格好の的でした。
師匠である夏目漱石の娘・筆子(ふでこ)に恋をして、結婚寸前までいきますが、何者かが久米を揶揄する怪文書を送り付けたことがきっかけで、破談。
その後、筆子は、久米の親友・松岡譲(まつおか・ゆずる)と結婚してしまいます。
このセンセーショナルな出来事を新聞や雑誌は書きたてますが、久米は平然とそれを、破れた船と書く、『破船』という私小説にしたためます。
筆子も松岡も責めない優しい語り口に、大衆は賛辞をおくりました。
久米正雄のモットーは、「微苦笑(びくしょう)」。
微笑む微笑と、苦笑いの苦笑が入り交じった、久米の造語です。
人生は、ままならない。
うまくいくどころか、カッコ悪いことばかり。
そんなときは、仕方なく微笑むしかない。
それを、彼は「微苦笑」と呼んだのです。
上田市で生まれた久米は、幼くして父を亡くし、母の郷里、福島県郡山市に移り住みます。
「こおりやま文学の森資料館」の中にある「久米正雄記念館」には、彼の波乱万丈の人生を知ることができる、貴重な資料が展示されています。
特に、晩年暮らした神奈川県鎌倉市の自宅が移築され、ひょっこり久米が顔を出しそうなたたずまいを残しています。
微笑むような、苦笑いするような彼に、逢えるかもしれません。
度重なる誹謗中傷に耐えながら、この世を生き抜いた賢人・久米正雄が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?