げらやく(よく笑う元薬剤師の雑談日記ポッドキャスト)

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げらやく(よく笑う元薬剤師の雑談日記ポッドキャスト) episodes

  • ボイトレ4件回って、社会人音楽サークルも行ってきた

    #86【ひとり回】

    今回は、「社会人サークル」の話から始まります。少し前までなら、「趣味が同じだから何なんだ」と思っていたはずなのに、気づけば自分から音楽サークルへ足を運んでいる。

    読書が好き、音楽が好き、と言われても「で、そこから何を話すんだ」と思っていた人が、いつの間にか“同じものを好きな人たちと一緒に何かをやること”に面白さを感じ始めているようです。

    ただし、音楽サークルの話がすぐ始まるわけではありません。

    なぜそこへ行こうと思ったのか。その前提を全部説明しないと本題に入れないという、本人も最後に反省するほどの長い助走があります。そしてその助走こそ、妙に今回のテーマをよく表しているようでもあります。



    ▪️「残念さ」の正体は、等身大じゃないことなのかもしれない


    最初に登場するのは、最近よく聴いているという芸人のラジオ「うなげろりん」。本人たちの性格や人間関係をひたすら掘り続け、二人だけの世界をそのままコンテンツにしているところがお気に入りなのだそうです。


    その中で引っかかったのが、「自分を大きく見せようとして、ずっと上っ面の発言をしてしまうこと」が、人をどこか“残念”に見せるのではないか、という話。

    格好をつけたり、弱さやだらしなさを隠したりするのは、ある意味では自分のプライドを守るための防御でもあります。だから単純に悪いとは言えない。けれど、それを続けていると、発言と本人の実像が少しずつ離れていく。


    そこから「自分の身の丈に合うことを喋りたい」「身の丈に合うことをしていたい」という最近の感覚について話しているようです。社会人サークルに行くなんて以前なら少し恥ずかしいと思っていたのに、今は「楽しそうなら、とりあえずやってみればいい」に変わっている。人生の途中で、いつの間にか“格好よく見えるか”より“本当に面白いか”のほうが重要になってきたのかもしれません。



    ▪️自分は一人で考えていても、案外わからない


    その変化の背景にあるのが、「いろんな人と接することで、自分がわかる」という感覚です。家で一人、本を読みながら自分について考えることもできる。

    けれど、人と会えば、自分との違いが勝手に目に入ってくる。「この人のこういうところは自分にはない」「昔の自分はこんな感じだった」「こういう人といると居心地がいい」。そうやって他人を見ているうちに、自分の輪郭まで浮き上がってくる。

    どうやら社会人サークルへの興味も、単純に友達が欲しいとか、歌いたいだけではなく、まだまだ「自分のことを知りたい」という欲求とつながっているようです。



    ▪️ボイトレ4か所を回ったら、「先生との相性」がよく見えた


    音楽サークルに行く前には、ボイストレーニング教室も4か所体験。課題曲はすべてちゃんみなの「ダリア」に固定し、同じ曲を題材にすることで教え方を比較するという、なかなか真面目な検証が行われています。

    基礎練習を積み上げて、いつか突然うまくなるタイプのレッスン。華やかでエネルギッシュな先生。腹式呼吸の感覚をいくつもの方法で教えてくれる、距離感がかなり近めのロック風の先生。それぞれ面白さはありつつ、最終的に選んだのは最初の先生でした。

    理由は、決められたカリキュラムを渡すのではなく、本人の様子を見ながら「今ここに足りないもの」だけを見つけて差し込んでくれるから。比較したからこそ、最初に感じた「この人いいな」が何だったのかまで言葉にできたようです。恋愛の話ではありません。たぶん。


    ここでは、人間を勝手に「出役」と「裏方」に二分する説まで登場します。自分は明らかに“出役”であり、だからこそ、自分が前に出ている間に相手を観察し、足りない部分をそっと補ってくれる“裏方”的な人との相性がいいのではないか。かなり乱暴な分類ではありますが、ボイトレの先生選びから人間関係の相性まで一本につながっていくあたりに、今回の思考の癖がよく出ています。



    ▪️カラオケで歌っていた人が、突然バンドの真ん中に立つ


    そしてようやく本題、社会人音楽サークルへ。事前に共有された曲一覧から、担当したい曲と楽器を選ぶ方式で、今回は「丸ノ内サディスティック」のボーカルとして参加します。

    スタジオに入ると、ドラム、ベース、ギター、キーボードに加えて、サックスやフルートまでいる。ほとんどカラオケでしか歌ってこなかった人間が、その日いきなり生演奏の中心で歌うことになります。ところがこれが、とにかく気持ちいい。

    特に印象的だったのがサックスの音。

    大きな音に引っ張られるように自然と声が出て、自分まで急に歌が上手くなったような感覚になる。静かなところからキーボードが入り、ベースが入り、ドラムが入り、ギターが入って、一気に音が膨らむ。

    「息を合わせる」という言葉が、本当に身体でわかる瞬間だったようです。

    三時間ほどのスタジオで、自分が歌ったのはほんの数回。それ以外の時間はほとんど観客のように他の人の演奏を楽しんでいたのに、それでもずっといい時間だった。何かに打ち込んでいる人たちの中に混ざること自体が楽しい、という発見もあったようです。



    ▪️ベース10本のおじさまと、1か月で7kg落としたお父さん


    音楽そのものと同じくらい面白かったのが、そこにいた人たち。家にベースが10本あり、同じ型番でも一本ずつ試奏して個体差を確かめてから買うという人。

    社会人サークルで友達を作るために「垢抜けたい」とChatGPTに相談し、そこから本当に1か月で7kg落とし、髪や眉毛まで整えてきた子育て中のお父さん。全部の出来事に全力で反応する、感受性の豊かな人。

    他人を見ながら、「昔、自分にもこういう時期があったな」と勝手に過去を思い出したり、「ここまで一つのことを極めている人ってすごいな」と眺めたりする。

    年下の人には過去の自分が見えて、経験者には未来の可能性が見える。社会人サークルは音楽をする場所であると同時に、いろんな人生を少しずつ覗く場所にもなっていたようです。



    ▪️「ボーカルっぽい人」なんて、本当はいない


    もうひとつ意外だったのが、ボーカルを希望していた人たち。本人は自分を「目立ちたがり」「完全に出役」と分析しているため、ボーカルをやりたがる人も当然、似たようなタイプだと思っていた。ところが実際には、控えめで静かそうな人もたくさん歌っていました。

    話を聞けば、ただ歌うことが好きで、一人でずっと練習してきて、今度は誰かと音を合わせてみたかったのだという。性格と役割は、別にきれいにつながっていなくていい。見た目や普段の振る舞いから「この人はこういう人」と勝手に接続していたものが、少し外れる瞬間でもあります。



    ▪️失敗しても、ポッドキャスト一本分になる


    今回、新しい場所へ飛び込めた理由について、最後にはこんな話も出てきます。もし音楽サークルが死ぬほどつまらなくても、「どれだけつまらなかったか」をポッドキャストで喋ればいい。そう思えば、時間は完全な無駄にはならない。

    実際には予想以上に楽しく、ミスをしても責める人はいない。経験者が土台を支えているから初心者が転んでも曲は終わらないし、「間違えました」「全然大丈夫です」で済む。

    本人があまり使いたくないと言いつつ、結局「心理的安全性が高い」と表現したくなるような場所だったそうです。


    何かを始める前に、その体験が正解かどうかまで決めなくてもいい。面白かったらそのまま楽しめばいいし、面白くなかったら面白くなかった話をすればいい。そんな逃げ道があるだけで、人は案外いろんなところへ行けるのかもしれません。

    社会人音楽サークルの話をするはずが、芸人ラジオ、等身大の自分、ボイトレ講師との相性、人間を出役と裏方に分ける話まで盛大に寄り道した第86回。

    気づけば「何かに熱中すること」と「他人の中で自分を知ること」について話しているようです。

    そして最後に残る感想は、意外とシンプルです。たくさんの楽器の音の中で歌うのは、めちゃくちゃ楽しい。どうやらまたひとつ、夢中になれるものが増えたようです。

    58 min
  • 苦しい過去と向き合い続ける|「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」を観て

    #85【ひとり回】

    ※本編は戦争に関する具体的な描写が含まれます。しんどくならない範囲でご視聴をお願いします。



    ▪️映画館に行く理由、だいたい音響とポップコーン


    映画はわりと観るものの、サブスクよりも圧倒的に映画館派。

    今回の作品を知ったきっかけは、最近参加している文芸系の読書会。そこで以前紹介した、軍用犬とPTSDを扱う映画『ハート・オブ・ビースト』の話から、「戦争ものが好きなら」と勧められたのが『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』でした。

    そして少し脱線しながら、読書会で感じている「成長実感」についても話しています。文章を書き、人に読まれ、「ここが良かった」「こう受け取った」と直接フィードバックされる。書くたび、話すたびに少しずつ上手くなっている感じがする。その感覚が、今かなり楽しいようです。


    さらに、言葉の扱い方が似ている人から勧められた作品は、自分にもヒットしやすいのではないか、という仮説まで。趣味が同じというより、「同じ日本語を、似た手触りで使っている人」とは、作品の受け渡しもうまくいくのかもしれません。



    ▪️「面白かった」と言っていいのか問題


    実際に観終わって最初に出てきたのは、「面白かった」という言葉。

    ただ、戦争映画に対してそれを言っていいのか。少し考えて、ここでの「面白い」は楽しいではなく、interestingのほうの面白さなのだと訂正しています。

    映画の主人公は、実在したアレン・ネルソン。貧困と差別の中で育ち、軍人を英雄として描く映画に憧れ、海兵隊へ入り、ベトナム戦争へ向かった人物です。作品は、戦争から帰還した彼がカウンセリングを受ける現在と、戦場での記憶を行き来しながら進んでいきます。



    ▪️人が「殺せる人」に変わっていく過程


    特に強く残ったのが、軍隊での教育と戦場の描写。

    人間の身体のどこを狙えば効率的なのかを教える授業。「殺せ」と繰り返す訓練。さらに、相手を自分たちと同じ人間として見ないための教育。

    やがてその感覚は戦場の外にも染み出し、沖縄では現地の人々への暴力として現れていきます。

    そしてベトナムの最前線へ。

    仲間が突然撃たれる。どこから敵が来るのかわからない。身体が壊れる様子が、そのまま目の前に映される。村へ入り、人を殺し、さらに「どうすれば効率よく殺せるか」を考えるようになっていく。

    身体的な残酷さももちろん強烈ですが、それ以上に怖かったのは、最初は異常に見えることが、繰り返されるうちに本人たちの中で「普通」になっていくことだったようです。

    このあたりを説明している途中、話し手自身が映画の映像を思い出してしまい、一度本気で休憩しています。映画を観終わったあとに感想を話しているだけなのに、汗をかきながらもう一度食らっている。どうやら、それくらい映像と音が身体に残る作品だったようです。



    ▪️「戦争だったから」から、「自分が殺したかったから」へ


    帰還後のネルソンはPTSDに苦しみます。

    突然怒鳴る。物を投げる。暴力的になる。家族と一緒に暮らすことも難しくなり、一時はホームレス状態にまでなる。

    そんな彼に、カウンセラーは繰り返し問いかけます。

    「なぜ、人を殺したのか?」

    最初の答えは、「戦争だったから」「軍人だったから」。戦場ではそれが仕事だった、仕方なかった、という答えです。

    けれど最後には、「自分が殺したかったから殺した」という言葉へたどり着く。

    もちろん、貧困や差別、軍隊による教育、戦争という環境が彼をそこへ連れていったことは消えません。それでも、最後に引き金を引いたのは自分だった。その事実を「戦争のせい」だけにせず、自分の行為として認識する。

    その厳しさが、この映画にはずっと流れているようです。



    ▪️小さな女の子の「あなたは人を殺しましたか?」


    やがてネルソンは、子どもたちの前で戦争体験を話す機会を得ます。

    最初は虫やジャングルの話など、なるべく安全なところだけを話そうとしていた彼に、小さな女の子が聞きます。

    「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」

    その質問をきっかけに、自分が戦争で何をしたのかを真正面から語り始めるネルソン。

    そしてその後、自分の経験を何度も、何度も、人に伝えていくことになります。


    ここで話は、戦争そのものから少し離れて、「こんなにきつい記憶を、なかったことにしない人間のすごさ」へ向かっていきます。



    ▪️きつい記憶は、できれば忘れたい


    人には、思い出したくない記憶があります。

    「あの時なんであんなことしたんだろう」という程度の恥ずかしい記憶ですら、突然よみがえると十分つらい。もっと大きな痛みなら、細部まで思い出さずに「まあ、あの時期はきつかった」で蓋をしておきたくなる。


    だからこそ、自分が受けたことだけでなく、自分が加害したことまで詳細に思い出し、人前で話し続けたネルソンに強く惹かれたようです。

    過去を美化するでもない。忘れたことにするでもない。自分の中にある一番きつい記憶を、そのまま存在させ続ける。

    戦争という大きなテーマ以上に、「この人、これをなかったことにしなかったんだ」という一点に、かなり心を持っていかれています。



    ▪️理解することと、許すことは別


    終盤にはリリー・フランキーが登場。過去回ではエッセイ『美女と野球』の、酒と煙草とその他いろいろな話をする人として紹介していたため、「めちゃくちゃかっこいいリリー・フランキー」に若干の混乱もあったようです。

    彼が演じる人物は、戦争から帰った父親の暴力をずっと理解できず、父を嫌っていた。しかしネルソンの話を聞いたことで、「父も戦争によって傷ついていたのかもしれない」と初めて背景を捉え直します。


    ここで残ったのが、「理解することと、許すことは別」という感覚。

    なぜそんなことをするのかわからない人間は、ただただ恐ろしい。でも、その人がどういう経験をして、どういう背景を持ち、どうしてそうなったのかが見えると、行為を許せなくても、少なくとも「正体不明の恐怖」ではなくなる。

    人を理解するために、背景を見る。


    それは相手を無罪にする作業ではなく、自分の中で相手を理解可能な存在に戻す作業なのかもしれません。



    ▪️戦争が終わっても、話は終わらない


    最後にネルソンは、かつて自分が人を殺したベトナムへ戻り、現地の人々を前に自分の経験を語ります。

    この映画を通して見えてくるのは、「戦争は悪い」という一文だけでは収まりきらないものです。

    貧困や差別があり、余裕がなくなり、戦争という選択肢が魅力的に見える。その先で、一人の人間が人を殺す側になり、帰ってきても戦場を身体の中から追い出せず、その影響が家族にまで続いていく。


    最前線の「加害する側」から見た戦争を、ここまで身体感覚を伴って見たのは初めてだったようです。

    そして観終わってからも、話しながらまた食らい直してしまうくらいには、ずっと残る作品だったようです。


    今回はそんな、戦争と加害、PTSD、記憶、そして「背景を知る」ということについて。


    最後にはすっかり汗をかいてしまい、「ちょっと休みたい」「お風呂に入ってこようと思います」という、戦争映画の感想回とは思えないほど生活感のある着地をしています。

    重たい回なので、聴き終わったあとは皆さんものんびりしてください。

    43 min
  • 初めてフィクションを書いて、100%の嘘なんかないと体感した
    #84【ひとり回】書くタイプの読書会に参加した記録の続きです。

    最近、仕事でいわゆる「営業屋さんムーブ」をしている話からスタート。外を歩き回り、約束の10〜15分前には現地に着き、建物の前で何をするでもなく待つ。スマホをいじるのも、本を読むのも、なぜか少し違う気がする。結果、太陽の下でトークスクリプトを反芻しているような、していないような時間が発生しています。

    営業というより、もはや「体力」という肩書きなのではないか。そんなことを考えながら、デスクワーク中心だった頃より体がずっとぽかぽかしていることに気づいたようです。人生で何度もヘルニアを経験した人から、デスクワーカーへ「せめて1時間に1回は立とう」という妙に説得力のある忠告も添えられています。

    ▪️ 短歌が昼休みの遊び道具になった

    前回の読書会で短歌を作った話を同僚にしたところ、昼休みにその場で短歌らしきものを作って遊ぶ流れに。生まれたのが「キーボード叩く池内もちもち」という一節です。

    本人のイメージでは「もちもち」は、資料作りに詰まりながらキーボードを叩く、少し頼りない打鍵音。しかし同僚には、音ではなく本人を含めた空間全体が「もちもちしている」と受け取られていたらしい。言葉は出した瞬間、勝手に他人の頭の中で別の生き物になる。そのズレまで含めて面白くなり、短歌はすでに鑑賞物ではなく人と遊ぶための道具になりつつあります。

    ▪️ 「風」から始めたのに、なぜか「凪」にたどり着く

    読書会後半は、テーマをひとつ与えられ、黙って文章を書く時間。今回のお題は「風」でした。

    秋の風から金木犀を思い浮かべる人もいる中、まず「風とは何か」を調べ、「水平方向の空気の流れ」という情緒の消え失せた定義を確認。そこから最初に出てきたのは、まさかの藤井風。さらに藤井風の佇まいから「凪」を連想し、今度は凪の定義まで調べ始めます。

    吹いていた風や波がやみ、海面が穏やかになる状態。そこから、良いことにも悪いことにも過剰に反応せず、受け流していく感覚へ。気づけば「風」というお題から「凪になりたい人」の話を書こうとしているようです。ひとつの単語から枝を伸ばし続ける、いつもの脱線癖が、今回はそのまま創作のエンジンになっています。

    ▪️ 人生初のフィクションで「切なさ」を作ってみる

    今回は、実体験をそのまま日記にするのではなく、架空の人物を動かす文章に初挑戦。登場人物は二人、会話を中心に進めることにします。

    そして書きたい感情として選ばれたのが「切なさ」。好きな曲や作品を振り返ると、どうやら胸がきゅっとなるものに惹かれている。では、切なさはどう作ればいいのか。冒頭で読者に「この人、ちょっと自分にもあるかもしれない」と思わせておいて、最後に少しだけ突き放す。その高低差で胸を苦しくできないか、と考え始めます。

    そこで生まれた短編のタイトルが『凪』。仕事帰りの男が、友人の働くバーで「俺、凪になりたい」とこぼすところから始まります。転職、新しい人間関係、恋愛、刺激。若い頃から目の前の面白そうなものを次々つかんできた主人公は、そろそろ刺激中毒を卒業し、何事にも反応しすぎない人になりたいらしい。

    ところが友人は「あんたにはしばらく無理だと思う」と一刀両断。勝手にいろんな経験をして、それを持ち帰って報告してくる方がよほどその人らしい、と返します。そして最後、主人公は誰からも連絡の来ないスマホを眺める。たくさん動いてきたはずなのに、何が積み上がったのかはよく分からない。狙っていた「急に一人になる切なさ」が、静かに置かれています。

    ▪️ 架空の人物に言わせたら、初めて言い返せた

    この創作で最も本人が興奮したのは、主人公の過去のナンパ話に対して、友人役にきっぱり否定させた場面でした。普段の自分が直接言うのではなく、架空の人物同士の会話として言葉を置く。その瞬間、これまでとはまったく違う爽快感があったようです。

    感想会で、それを「カタルシス」と表現した参加者がいました。調べてみると、抑圧されていた感情やモヤモヤが外に出ることで、心が浄化されるような状態のこと。過去、街中で突然声をかけられたり、怖い思いをしても、その場でうまく抵抗できずに終わっていた。その蓄積を、創作の中の誰かが代わりに言葉にしてくれた。

    「この感情、ちゃんと名前があったんだ」と驚きつつ、創作がただの嘘ではなく、現実では返せなかった言葉を別の形で返す場所にもなることを知った回でもあります。

    ▪️ 嘘の話を書いたはずなのに、自分がにじむ

    もちろん主人公は本人そのものではありません。目先の刺激や快楽に流され、「自分が選び取っている」と思いながら進んできた人物として、意図的に歪ませて作っています。それでも書いてみると、自分の考えていることや、最近感じている変化がどうしても混ざる。

    以前は、感情をジェットコースターのように上下させ続けることこそ人生の面白さだと思っていた。でも最近は、必ずしも反応し続けなくてもいいのではないかと思い始めている。仏教をもとにした『反応しない練習』の考え方にも触れながら、「反応する自分」と「凪になりたい自分」の間を行ったり来たりしています。

    しかも、読んだ人から「刺激を追い続けた結果、深い関係を作れないままここまで来た人にも見える」と、狙っていた以上の読みを返される。文章より書き手のほうが大騒ぎしながら、「伝わった!」を喜んでいるのもこの回の見どころです。

    ▪️ 人間を分類してきた癖が、キャラクター作りに化ける

    もともと、周囲の人を観察し、「この人はこういう場面でこう動く」「この側面では常識人だけど、別角度から見るとかなり変」と分類する遊びを延々としていた時期があったそうです。分類できると安心するし、分類できるまでは「あなた何者?」と情報を集めたくなる。

    その癖が、今回初めて創作に接続しました。特定の誰かをモデルにするのではなく、頭の中に蓄積された「こういう人間、いる」という分類棚から人物を取り出す。今まで少し怪しかった人間観察が、急に創作資源として合法化されたような瞬間です。

    ▪️ お賽銭の額で「風」を出す人がいる。創作、自由すぎる

    他の参加者の作品にもかなり刺激を受けています。中でも印象に残ったのは、神社でアルバイトを始めた大学生が、裏手の秘密の場所で「お賽銭の金額に応じて風の強さを調整するボタン」を押す仕事を任される話。

    本人はまだ、自分に近い人物や感情を材料にしていました。そこへ、現実には存在しない設定を当然のように立ち上げ、しかも読みやすい文章にしている人が現れる。「そんなバイトないじゃん」という当たり前の驚きから、ショートショートの作り方に興味が移り、おすすめされた創作指南本まで即購入。次の作業会で試してみる気満々です。

    大量の人と大量のアウトプットに触れると、その中に必ず「これ好きだな」が発生する。そして好きなものに反応すると、次の遊び道具が増える。読書会について話していたはずが、だんだん好奇心の増殖記録のようになっているようです。

    ▪️ 最後は寿司一貫サイズのカメラを買っている

    参加者がnoteに書いていた、一人ディズニーの日記。その中に載っていた小さなデジタルカメラの写真があまりに可愛く、画質の粗さ、ピンぼけ、フィルムっぽい質感、小ささ、キーホルダーとして鞄につけられる気軽さに惹かれ、最終的に購入しています。

    価格は約6,400円、しかも何種類かあるうち何が出るか分からないガチャ形式。結果は一番オーソドックスな黄色のレトロデザイン。それでもかなり気に入り、すでに写真を撮りまくっている様子です。

    スマホほど綺麗に撮れない。撮った写真もその場ではほとんど見返せない。動画の音もガビガビ。それなのに、その不便さがむしろ可愛い。写真を撮る行為に少し照れがある人でも、おもちゃのようなカメラなら自然に持ち歩けるらしい。

    短歌、小説、人間観察、他人の日記、そしてトイカメラ。今回は、何かひとつを極めるというより、「面白い」を見つけた瞬間に次の遊びが増えていく回になっています。凪になりたいと言いながら、好奇心だけは今日もまったく凪いでいません。

    58 min
  • 高尚なものだと思ってた短歌、かなり自由な遊び道具だということが判明した

    #83【ひとり回】

    今回は、2回目となる「書くタイプの読書会」の報告回です。


    自己紹介でおすすめ映画の話をしたら、なぜか次の人まで戦争を扱った映画を紹介してくる。そんな妙な偶然から始まった今回の読書会。ところが、この日のいちばん大きな出来事は映画でも文章でもなく、開始からわずか十数分ほどの短歌ワークショップだったようです。


    短歌といえば、『サラダ記念日』を読んだことがあるくらい。なんとなく古典っぽくて、繊細で、少し高尚なものだと思っていたはずが、「嘘をついてでも面白く」と言われた瞬間、急に様子が変わります。

    気づけば短歌が、鑑賞するものから自分の手元で遊べるものになっていたようです。



    ▪️突然始まった15分間の短歌ワークショップ


    そして前半のワークショップで告げられたのが、「今日は短歌を作ります」。

    そこで提示されたルールは、「5・7・5・7・7の定型を守る」「いつもの言葉遣いで書く」「嘘をついてでも面白くする」というもの。さらに今回は、好きなオノマトペをどこかに入れるという条件も加わります。

    短歌についてほとんど知らない状態からすると、何より引っかかったのが「嘘をついてでも面白く」の部分。

    日常を繊細に切り取って、きれいな言葉にして、静かに差し出すもの。どこかそんなイメージだった短歌に、いきなり「嘘ついていいですよ」が入ってくる。


    そこで生まれたのが、「え、そんなのおもちゃじゃん」という感覚だったようです。

    触るのに少し緊張していたものが、突然こちらの手のひらまで降りてくる。しかも31音という小さな箱の中なら、ふざけてもいいし、盛ってもいいし、実際には存在しなかった景色を置いてもいい。

    高尚だと思っていたものが遊び道具になる瞬間というのは、案外かなり気持ちいいものなのかもしれません。



    ▪️「ポロポロ」から生まれた初めての短歌


    今回選んだオノマトペは、ピアノの音をイメージした「ポロポロ」。

    前日に音楽サークルへ行った記憶も混ざりながら、夜、ひとり、ピアノ、『海の幽霊』といったものを31音へ詰め込んでいきます。

    そして完成した短歌を参加者同士で読み合い、「どこがよかったか」を言葉にして伝え合う時間へ。否定するのではなく、それぞれの作品の中にあるものを拾っていく。


    完成した一首を人前で読む段階になって急に恥ずかしくなるあたりまで含めて、きちんと初めての創作体験だったようです。

    ただ、それ以上に残ったのは、短い時間の中で「なんでこんなに面白いことがあるんだ」と思うほど夢中になれたこと。



    ▪️「もちもち資料を作る人」とオノマトペの相性

    そもそも話し手は、普段からオノマトペをかなり自由に使うタイプ。

    資料作成がなかなか進まず、キーボードを叩きながらもだもだしていた状態を、以前職場で「もちもち作っていた」と表現し、同僚からしっかり突っ込まれたこともあるそうです。

    そんな我流のオノマトペが日常的に発生している人間に、「好きなオノマトペを入れて短歌を作ってください」という課題が渡される。考えてみれば、かなり相性のいい遊びだったのかもしれません。


    さらに『あなたとわたしの短歌教室』を読むと、オノマトペは単にかわいい音を追加するためだけのものでもないらしい。

    31音すべてへ情報を詰め込むと、読み手には受け取る暇がなくなる。そこに「ポロポロ」「きらきら」のような音が入ることで、意味を猛烈に処理しなくてもいい小さな空白ができる。

    短歌の中にも、読み手が咀嚼するための余白が必要らしい。情報量は、多ければ多いほど親切というわけでもないようです。



    ▪️飲み会で捕まえた人から『あなたとわたしの短歌教室』へ


    ワークショップがあまりに面白かったため、終了後のご飯では企画した参加者のもとへ向かい、「本当に面白かった」「今日来てよかった」と感想を伝えることに。

    そこでおすすめされたのが、歌人・服部真里子さんの『あなたとわたしの短歌教室』でした。

    読んでまず驚いたのは、短歌以前に説明文そのものがものすごく読みやすいこと。短歌の作り方や考え方を説明しているのに、難しい文章を読んでいる感じがしない。必要な言葉だけが置かれていて、すっと頭に入ってくる。


    そして内容を読み進めるほど、ワークショップで出てきた「嘘をついてでも面白く」の意味が少しずつ見えてきます。



    ▪️作者と短歌の主人公は、同じ人じゃなくていい


    特に印象に残ったのが、短歌の主人公である「作中主体」と作者本人を切り分ける考え方。

    短歌に「私」が出てくると、なんとなく作者本人の日記のように読んでしまう。しかし、そこで起きたことが実話である必要はないし、作者本人が主人公である必要もない。

    むしろ最初から「これは作中の人物です」「嘘をついていいです」としておくことで、本当に自分が経験したことを書いたとしても、それがそのまま深い自己開示として扱われずに済む。

    さらに、人間はそもそも100%の嘘を書くこともできないのではないか、という話にも惹かれているようです。


    架空の出来事を書いていても、選ぶ言葉や発想には、その人がこれまで見てきたものや考えてきたことがどうしても混ざる。

    つまり創作は嘘でいい。でも、その嘘の中にも勝手にその人が漏れ出してしまう。

    このあたりから、話題は短歌の作り方というより、少しずつ「表現って何なんだろう」という話になっています。



    ▪️なぜ、そんなに5・7・5・7・7を守らされるのか

    一方、この本は優しいだけでもないようです。

    初心者はまず、字余りや字足らずにせず、きっちり5・7・5・7・7を守る。助詞も、入れたい言葉を詰め込むためだけに省略しない。

    「でも、この言葉をどうしても使いたいんです」と思ったところで、その“どうしても言いたいこと”こそ、実はどこかから借りてきた言葉かもしれない。

    ならば定型に入らない「りんご」を捨て、突然「リス」を入れてみる。その制約の中で試行錯誤した結果、予定していなかった言葉が出てくる。そこに、その人自身の面白さが現れるのではないか。 


    自由に書くことが、必ずしもその人らしさにつながるわけではない。むしろ不自由なルールの中でどう逃げるかに、その人が出る。

    短歌の話をしていたはずなのに、気づけばだいぶ面白い創作論の話になっているようです。



    ▪️「人生の楽しみをひとつ増やす」という目的


    そして、この短歌教室の目的として出てくるのが、「人生の楽しみをひとつ増やすこと」。

    賞を取ることでも、誰かより上手になることでも、短歌の世界で勝ち上がることでもない。ただ、人生に楽しいものをひとつ増やす。

    この「ひとつ」という小ささが、かなり気に入ったようです。

    世の中には、まだ知らない遊びが大量にある。その中から自分が本当に面白いと思えるものに出会うには、とりあえずいろいろ触ってみるしかない。

    今回も、短歌をやるために読書会へ行ったわけではありません。たまたま参加した場所で、たまたまその日の企画が短歌だった。それだけで、30歳になった今、突然ひとつ遊び道具が増えました。 


    新しい趣味との出会いは、探しに行った先にあるとは限らない。別のものを見に行った場所で、横から急に渡されることもあるようです。

    高尚そうだった短歌が、急に手元のおもちゃになった日。

    人生の楽しみは、大げさに探さなくても、たまたま座った読書会の席から増えることがあるようです。

    48 min
  • 考えないを考える夜【ゲスト:人事お姉さん】
    #82【飲酒回】

    今回は、人事お姉さんを迎えての飲酒回。
    薄暗い照明、しだれる桜のような装飾、ふかふかのソファー、グラデーションのかかったお酒、白ワインとケーキ。どう考えてもムードのある空間なのに、始まる話は「この暗さ、睡眠にはよさそう」。せっかくの色気を睡眠衛生に変換してしまうところから、第82回は始まります。

    デート向きの店に来ても、光量が気になり、バナナケーキを分け合い、気づけば映画と涙、人間関係、初対面の判断基準まで話が広がっていくようです。お酒の力も借りながら、いつも以上に話題が行ったり来たりする回です。

    ▪️ 『ハート・オブ・ビースト』と、「分解」するほどの感情移入

    最初の大きな話題は、映画『ハート・オブ・ビースト』。戦地から帰ってきた軍人と、同じく戦争を経験した軍用犬の物語について話しています。

    PTSDを抱えた犬の余生を少しでも幸せなものにしようとする人間と、それに信頼で応える犬。多少「泣かせにきている」と感じる演出や、現実なら本当にそんな判断をするだろうか、とツッコミたくなる部分もありつつ、結局はふたりの信頼関係にしっかり心を持っていかれたとのこと。

    しかし問題は、聞いている側が動物ものに異常なほど弱いこと。「軍用犬」という単語が出ただけで顔が曇り、あらすじの途中ですでに限界を迎えます。そしてここで誕生するのが、感情移入しすぎて自分自身が崩壊することを指す「分解する」という新語。

    映画を観て泣くのではなく、映画館で「分解する」。意味はよくわからないのに、二人の間では妙に意味が通じてしまっています。こうしてまた一つ、この二人にしか通用しない言葉が増えました。

    そもそも映画を観て泣かないことが「ほぼない」という話から、『鬼滅の刃』や『プラダを着た悪魔』の話にも寄り道。泣くことを目的に映画を観るというより、日常的に感情移入して勝手に涙が出るため、定期的に感情が自動排出されているのではないか、という妙な自己分析まで進んでいきます。

    ▪️ 流行っているものより、「自分が良さそうと思ったもの」

    『ハート・オブ・ビースト』を観た映画館がかなり空いていたことから、話は作品の知名度へ。人気シリーズや有名作品に人が集まるのは当然。でも、「みんなが観ているから」ではなく、自分が面白そうだと思った映画を観に行くのもいいのではないか、という話になります。

    大げさな映画論というより、「自分がいいと思ったのに、なんでこんなに誰も観てないんだろう」という素朴な違和感から出てくる話なのが、この回らしいところです。

    ▪️ 一度会った人と、もう一度会う面白さ

    そこから話題は、最近参加した「書くタイプの読書会」へ。初参加のあと、一人で反省会をして、ポッドキャストで喋って、友人たちから反応をもらう。それだけでも一度目とはかなり違う自分になっているはずで、二度目に参加すれば当然、出てくる言葉も変わる。

    だから面白いのは、毎回知らない人に会うことだけではない。同じ人にもう一度会って、その人や自分がどう変わっているかを見ること自体がコンテンツなのではないか、という話になっています。

    人は環境や一緒にいる相手によって、良くも悪くも変わっていく。数年後まで何も変わらない人のほうが、むしろ珍しいのかもしれません。人間そのものより、人間の「途中経過」を見ているのが好きなのでは、と気づけばそんな話になっているようです。

    ▪️ バーでおばあちゃんにナンパされる

    人間の変化について真面目に話していたと思ったら、突然始まるのが「バーでおばあちゃんにナンパされた話」。

    友人を待って一人で座っていたところ、隣のおばあちゃんから声をかけられ、余ったピザを勧められ、そのままかなり積極的に話しかけられます。途中で友人が来ても会話は続行。店員がさりげなく助けに来るほどの勢いだったそうです。

    一方では「もうおばあちゃんからモテなくていい」と言いつつ、別の日には道に迷った人を目的地まで連れていってしまう。口では面倒そうにしているのに、実際には案内してしまう。その言葉と行動の微妙な不一致を相手に発見され、本人はかなり不服そうです。

    ▪️ 東京カレンダーみたいな店で、写真を撮り合う

    今回収録している店は、とにかく写真映えする空間。そこで自然と始まったのが、二人で写真を撮り合う時間でした。

    人事お姉さんは「東京カレンダーの表紙」のような表情を自然に作れる一方、普段はかなり堂々としているもう一人は、カメラを向けられた瞬間だけ急に照れる。撮られること自体が嫌なわけではない。むしろ嬉しい。でも、レンズを見るのは恥ずかしい。

    中高生の頃に写真で変顔ばかりしていたのも、もしかすると照れ隠しだったのではないか。そんな昔の行動まで、カフェで写真を撮っているだけなのに掘り返されていきます。

    「みんなにも見てほしい」と「でもこれは心のカメラロールにしまっておきたい」が同時に存在する。その距離感も含めて、写真を撮るという行為にも人間同士の相性が出るらしい、と気づきます。

    ▪️ 人間の相性を、もう言語化しすぎない

    そして今回の後半、大きなテーマになるのが「最近、相性を言語化するのをやめようとしている」という話。

    「なぜこの人といると居心地がいいのか」「なぜこの人とは合わないのか」。理由を説明できると安心するし、考えることそのものは楽しい。でも人間には、その日の気分、仕事で起きたこと、場所、一緒にいるメンバーなど、あまりにも多くの要素が混ざっています。

    だから全部に理由をつけなくても、「ここは居心地がいい」「なんとなく今日は違う」くらいでいいのではないか。人間は複雑すぎるので、分析してわかった気になることを一度やめてみる。考えることが好きな人ほど、意外と難しい実験なのかもしれません。

    ▪️ 二人だけの言葉が生まれるまで、何度か会ってみる

    その話とつながって出てくるのが、「初対面で相手を判断するのが早すぎたかもしれない」という気づきです。

    今までは、最初の会話で「面白い」「合わない」をかなり早く判断し、合わないと思えばそのまま興味を切ってしまうことがあったそうです。しかし読書会で、文章では大量に考えを書けるのに、リアルタイムの会話になると極端に言葉が遅くなる人と出会います。

    そこで初めて、その場で喋れることと、その人が頭の中で考えていることは、必ずしも一致しないのだと実感したとのこと。

    そもそも今回生まれた「分解」という言葉だって、一度会っただけでは生まれません。何度も話して、過去の会話が積み重なって、二人にしかわからない文脈ができていく。人間関係には、そういう「何回目まして」から始まる面白さもあります。

    グループでは見えなかった魅力が一対一では見えるかもしれないし、初対面では自己開示がゼロだった人も別の場面では違うかもしれない。……と、かなり寛容な方向へ話が進みますが、「そこまで待つのめんどくさくない?」と途中で自ら撤回しかけるのも、この番組らしいところです。

    とはいえ、すべてを改善する必要もないのかもしれません。居心地のいい服だけがクローゼットに残るように、人間関係も結局、居心地のいいものが残っていく。
    分析をやめたいと言いながら最後までしっかり分析している二人の、「考えない」を考え続ける飲酒回です。

    1 hr
  • 講座第1回目、元薬剤師として睡眠について話してきた

    #81【ひとり回】

    今回は、初めて担当した大人向け講座を終えた直後の振り返り回。子ども向けのPC講座から始まったはずが、いつの間にか「薬剤師として何か話してほしい」という依頼につながり、選ばれたテーマは薬との付き合い方と睡眠でした。

    講座の内容そのものを振り返りながら、「人前で知識を話すとき、信頼ってどうやって作るんだろう」「参加者が発言しやすい空気って何なんだろう」と考え始め、気づけば講師業と人間関係と締切の話まで広がっているようです。

    ▪️「薬剤師です」を、どうやって信じてもらうのか

    講座の前半は、薬の基本を扱う時間。ただし、その裏にはひとつの狙いがありました。それが「まず話し手として信頼してもらう」こと。

    肩書きとして「薬剤師です」と言うだけなら一瞬ですが、本当にこの人の話を聞いて大丈夫なのかは別問題。薬剤師免許証を掲げるわけにもいかず、白衣姿の写真を出すべきだったのか、薬局の写真があれば信頼感は増したのか……講義を終えたあとになって、なぜか「信頼の作り方」が気になり始めています。

    ▪️○×クイズなのに「答えは△です」でブーイング

    講座は一方的な講義ではなく、かなり参加型。「○だと思う人?」と手を挙げてもらい、そこから話を広げていくスタイルです。

    とはいえ、人前で最初に発言するのは難しいもの。話し手は、よく目が合う人、話したそうな人、今はそっとしておいた方がよさそうな人を見ながら、「誰なら最初の一言を出せそうか」を探していた様子。10人前後でも全員のリアクションを拾うのは思った以上に難しく、講義なのにかなり対人センサーを使う仕事だったようです。

    そんな空気がほぐれ始めた頃に登場するのが、「食後の薬は、食事を抜いたら飲まない方がいい。○か×か?」という問題。

    答えはまさかの「△。薬によります」。○×クイズだと言っておきながら△を出したことで、参加者からブーイングが発生します。さらに「コーヒーやエナジードリンクで薬を飲んでもいい?」でも再び△。

    ところが、このブーイングがかなり嬉しかったらしい。最初は受け身だった参加者が、後半には発言し、質問し、ついには話し手の仕掛けにツッコミを入れるようになっている。「こっちが投げたものを、ちゃんと投げ返してくれる」ことへの喜びが、じわじわ語られています。

    そして気づけば、「友達になりやすいのも、こういう仕掛けを拾ってくれる人なのでは」という話にまで到達。講座の話だったはずが、掛け合いそのものが生活の豊かさの一部なのでは、というところまで考えているようです。

    ▪️薬を完璧に管理するより、困った時の扱い方を知る

    薬パートで繰り返し出てくるのは、「できなかったことを責める話ではない」という考え方。

    薬が余る。飲み忘れる。飲むタイミングが分からなくなる。そういうことは普通に起きるので、「ちゃんとしてください」で終わらせるのではなく、ピルケースやお薬カレンダー、スマホのアラームなど、忘れにくい仕組みを一緒に作ればいい。

    薬局勤務時代には、毎日薬を飲む若い患者さんと、その場でスマホのアラーム設定まで一緒に考えることもあったそうです。思い返せば今回やっていることも、薬局で患者さんと繰り返してきた会話の延長線上にあるようです。

    「全部医療者に決めてもらう」でも、「全部自分だけで判断する」でもなく、自分の状態を観察して、必要なところで相談する。この辺りが、講座全体の土台になっていたようです。

    ▪️本題は睡眠。「質」の前に、そもそも寝ているのか

    そして後半、ようやく本題の睡眠へ。一番伝えたかったのは、かなりシンプルな話でした。睡眠は、まず「質」より「量」。

    「短時間でも質のいい睡眠なら大丈夫」という便利そうな言葉より先に、そもそも必要な睡眠時間を確保できているのかを見る。眠れない場合も、寝つけないのか、途中で何度も目が覚めるのか、朝早く起きてしまうのかによって困り方は違います。

    睡眠薬にも短く作用するものから長く作用するものまであり、一度で完璧に自分に合う薬が見つかるとは限らない。飲んでみる、様子を見る、記録する、次の診察で伝える。そのサイクルを回していく話へつながります。

    さらに、眠っている間には記憶の整理や学習、技能の定着も行われているという話をしたところ、学生の参加者から「一夜漬けをよくするんですけど、意味ないってことですか?」という質問が。

    申し上げにくそうに「この理論でいくと……」と返す講師と、「やっぱり」と受け止める学生。講義資料の中の知識が、一瞬で誰かの生活に接続される。こういう瞬間が、かなり楽しかったようです。

    ▪️寝だめ、スマホ、真っ白な照明。睡眠は生活の中にある

    休日にたくさん寝て、来週分の睡眠を貯金できるのか。答えはできない。休日に長く寝ているなら、それは未来への貯金ではなく、平日の睡眠不足を返済しているのかもしれません。

    休みの日は昼過ぎまで寝る、という参加者とのやり取りもあり、ここでも急に講義が生活の話になっていきます。

    特に盛り上がったのが「寝る前のスマホは絶対禁止なのか」という話。スマホそのものを悪者にするのではなく、ショート動画、SNS、ゲーム、チャットなど、次々と刺激が入ってきてやめにくい使い方に注意する。一方で、リラックスする音楽を流すなど、使い方によっては一律に禁止する必要もない。

    すると「スマホがあるとショート動画を見てしまうから、寝る時は別の部屋に置いています」という参加者まで登場。すかさず「もうそれが一番いいです」と返すなど、睡眠講座というより生活改善作戦会議のようになっています。

    さらに話は照明へ。朝は朝らしく明るく、夜は夜らしく暗くする。「寝る前のスマホ」には敏感なのに、夜中まで真っ白な天井照明を最大出力で浴び続けている人は意外と多いらしく、「この世は明るすぎる」という謎の熱量が発生します。

    ▪️寝酒とエナジードリンクと、「全部禁止」にはしない話

    寝つくためのお酒は睡眠にいいのか。これは×。カフェインはコーヒーだけでなく、紅茶や緑茶、エナジードリンクにも含まれているので、量だけでなく摂る時間も考える。

    エナジードリンクの話では学生から「めっちゃ飲みます」という申告が飛び出し、話し手自身も学生時代、テスト前に頼った記憶がよみがえります。

    とはいえ、スマホもカフェインもお酒も、「全部ゼロにすれば健康です」と単純化したいわけではないらしい。好きなものを完全に禁止したストレスの方が大きくなれば、それもまた生活としてはうまくいかない。

    一般的な情報を知ったうえで、自分の身体で様子を見て、自分なりのちょうどいいところを調整する。分からなければ医療者を頼る。結局、薬の話から始まった講座と睡眠の話は、同じ場所に着地していったようです。

    ▪️締切だけが人を動かし、ライブだけが異様に楽しい

    なお、この大量のスライドは開始直前まで修正されていた模様。一夜漬けについて講義している本人も、締切が迫ることで突然すさまじい力を発揮するタイプです。

    そこから「計画的にやれる人」と「締切が自分を動かしてくれる人」の話になり、さらに「約束が先、実働が後」という人生観らしきものまで出現。ポッドキャストが火曜・木曜に続いているのも、先に配信日という約束を作ったからなのではないか、と自分の行動原理を観察しています。

    それでも、資料を調べるのも、スライドを作るのも苦ではなかった。なぜなら、その先に参加者とのライブの掛け合いがあるから。

    講義が終わったあとに残ったのは、「疲れた」よりもかなり強い「楽しかった」だった様子。今後はアンケートで次に聞きたいテーマも集める予定で、しかもこの大人向け講座は毎月開催されるらしい。

    薬剤師として積み上げてきた知識、相手の反応を拾うことが好きな性格、締切直前の謎の馬力。その辺りが思いがけず一か所に集まった初回講座。本人もまだ少し興奮したまま、次に何を話そうか考え始めているようです。

    53 min
  • 大人40人が集まって、「花」をテーマに文章を書く読書会に行ってきた
    #80【ひとり回】

    文章を書く練習がしたい。でも、日記は基本的に自分しか読まないし、ポッドキャストなら喋れてしまう。では、「人に見せる文章を書く場所」はどこにあるのか。

    そんなことを考えていたところ、たどり着いたのが「書く読書会」でした。文学部出身者、文章を仕事にしている人、同人誌を作っている人、絵を描く人、大学生から50代・60代らしき人まで。年齢も国籍も職業もばらばらな大人たちが集まり、ひたすら文章を書く。

    その中に、文章を書いた経験がほぼ「読書感想文」くらいしか思い浮かばない人が一人、かなり緊張しながら混ざっています。

    ▪️「ポッドキャストを聞いてる場合じゃない」映画『我々は宇宙人』

    本題に入る前から、最近観たアニメーション映画『我々は宇宙人』への熱量が止まりません。「2000円で観ていい完成度じゃない」「何を言ってもネタバレになるから、とにかく観て」と、もはや概要を説明することすら諦めて推薦しています。

    さらに新宿で行われていた制作工程の展示にも足を運び、絵コンテや制作現場の資料をじっくり鑑賞。感想を付箋に書いて壁に貼るスペースまで含めて、作品を作った人と観た人の熱量が静かに残っている空間だったようです。

    そして映画を観て残ったのが、「複雑なものと、分かりやすさは両立するんだ」という感覚。この気づきが、なぜかその日の読書会で自分の文章を眺めるときにも戻ってくることになります。

    ▪️普通の読書会にはハマらなかった。でも「書く」なら話が違う

    これまでにも、本を持ち寄って紹介したり、その場で読んで感想を話したりする一般的な読書会には参加したことがありました。ただ、本人にとってはどうもしっくりこない。

    紹介したい本ならすでにポッドキャストで好き勝手に紹介できるうえ、他人に興味はあっても「興味があること」と「上手に質問できること」は別問題らしい。むしろ「こちらから誘導しなくても、勝手にいっぱい喋ってほしい」と思ってしまう。

    そんな中で見つけたのが、読書よりもむしろ文章を書くことそのものに重心を置いた集まりでした。日記のような「自分だけが読めればいい文章」ではなく、誰かに読まれることを前提に文章を書いてみたい。本人いわく、求めていたのはどうやら「文章で殴り合う場所」だったようです。

    ▪️文芸部に迷い込んだ初心者と、「本の処方箋」

    会場には、文章を仕事にしている人もいれば、文学部や文芸部出身者、趣味で小説を書いている人もいる。自己紹介を聞いているだけで、「本当に文芸部みたいなところに来てしまった」と少し怯えます。しかも、読書以外の趣味を聞かれても特に答えず、「本が好きなので」と言えてしまう人までいる。一つのものをそこまで好きでいられること自体が、すでに才能に見えてきます。

    最初のお題は、持参した一冊について「本の処方箋」を書くこと。15分で「どんな人におすすめか」を文章にして、同じ班の人たちと読み合います。

    選んだのは、やなせたかしの詩集。「自分の中の叙情性に身を委ねて、自分の表現で人を喜ばせたい人」へ向けた本として紹介しました。アンパンマンを生んだ人が、表現によって誰かを喜ばせることを自分自身の喜びとしていたこと。そして「アンパンマンの歌詞に一度でもぐっと来たことがある人にもおすすめ」と締める。

    その文章を手書きし、パソコンへ移し、最後にLINEのノートへ投稿する。面白いことに、文章は場所を移動するたびに少しずつ変わっていきます。書き写しているだけなのに勝手に推敲が入り、「人に読ませる文章」へ変形していくのでした。

    ▪️40人の大人が無言で「花」を書く

    続いてのお題は「花」。小説でもエッセイでも詩でもいい。とにかく一時間、花について何かを書く。

    40人ほどの大人が一斉に黙り、文章に向かう時間が始まります。全員が集中している場所では、自分まで「オセロ方式」で集中してしまうらしい。途中でトイレに立って戻ってくると、部屋には人の熱気がこもっている。誰も喋っていないのに、大人数の大人が本気で考えているだけで空間には妙な密度が生まれるようです。

    ▪️「花」からちゃんみなの『ダリア』へ

    「花」と聞いて選んだのは、最近ボイストレーニングで練習しているちゃんみなの『ダリア』でした。

    ちゃんみなの歌声には、頭を殴られるような強さもあれば、今にも消えてしまいそうな切なさもある。最近ボイトレで「どんなふうに歌いたいのか、曲をよく聴いて考えてみて」と言われたことをきっかけに、ダリアという花や歌詞について調べながら文章を書いていきます。

    ところが、ダリアの歌詞について考え始めたところで一時間終了。文章はまさかの未完。それでも最後に「一時間で書き終わりませんでした。最後まで読んでくださってありがとうございました」と締めています。

    ▪️他人の文章と並べた瞬間、自分が「事実マン」だと分かった

    ここからが今回いちばん大きな発見だったようです。

    参加者の文章を読むと、景色がそのまま目に浮かぶような文章を書く人がいる。子どもの頃の記憶と、現在子育てをしている自分を重ねて書く人がいる。会話だけで進むフィクションを書く人もいれば、たった一時間でスマートフォンを何スクロールもするほど文章を書く人もいる。

    それらと自分の文章を並べて初めて、「自分は思った以上に事実と分かりやすさを優先する人間なんだ」と気づきます。

    人に見せると思った瞬間、「読みやすいか」「誤解されないか」「正確に伝わるか」を考え、余計なものをどんどん削ってしまう。結果、一文あたりの情報量は多いのに、文章全体はやたら短い。参加者からも「読む負荷が低い」「事実が正確に伝わってくる」と評されます。

    一方で、他の参加者たちは、必ずしも全員に伝わることだけを目的に文章を書いていない。「この言葉を使いたい」「この表現が好き」という気持ちを、そのまま文章の中に残している。

    分かりやすくするために削ることと、伝わらない可能性があっても自分の表現を残すこと。その間には、思っていたより広い場所があるらしい。『我々は宇宙人』を観て感じた「複雑なのに分かりやすい」という感覚が、ここでもう一度顔を出します。

    ▪️文章を読んでいたはずが、結局「人間」を読んでいた

    そして、いろいろな文章を読み比べているうちに、この読書会が楽しかった理由にも気づきます。

    絵を描く人の文章には風景があり、子どもを育てる人の文章にはその人の時間があり、フィクションにはその人の興味や視点が滲む。喋るのはゆっくりなのに、一時間与えられると驚くほど長い文章を書く人もいる。初参加なのに、班全体を自然に回せる人もいる。

    つまり面白かったのは文章だけではなく、「この文章を書いた人は、どんな人なんだろう」と考えることでした。

    普段エッセイを読むのが好きなのも、結局は同じ理由なのかもしれません。文章を読んで、その向こう側にいる人間を想像する。どうやら本人は、一周回ってかなり人間が好きなようです。

    ▪️人に見せる文章は大変。でも、ちょっと小説も書いてみたい

    AIに文章を見せれば、文法や構成についてのフィードバックは返ってくる。けれど今回面白かったのは、「ここが正しい・間違っている」という採点ではなく、文章を書く人同士が、それぞれ何を意識しているのかを共有できたことでした。

    誰かの文章を否定せず、特徴や良かったところを拾って返す。そんな場所だったからこそ、これまで一度も考えたことすらなかった「小説を書いてみる」という選択肢まで、少し現実味を帯びてきます。

    書くことを練習しに行ったはずが、自分の思考の癖を知り、他人の頭の中を覗き、最後には新しい遊びまで一つ増えて帰ってきた。そんな「書く読書会」初参加の記録です。

    1 hr 5 min
  • 後輩力が高いのか、人を舐めてるだけなのか【ゲスト:人事お姉さん】

    #79【飲酒回】お久しぶりの「人事お姉さん」と、「後輩力」について考えることになった外ロケ回。

    年上のお姉さんには妙に懐ける。けれど、いわゆる「かわいい後輩」として振る舞っているわけでもない。相手を立て続けるでもなく、遠慮するでもなく、かなり雑に接しているのに関係は成立している。

    話しているうちに、その正体はどうやら「人を適度に舐めている」ことなのではないか、というところに着地していくようです。

    そしてこの性質、最近始めた飛び込み営業でも妙な強さを発揮しているらしい。後輩力の話だったはずが、気づけば仕事の適性まで発掘されています。

    ▪️「シンプル後輩」ではない、謎の需要と供給

    人事お姉さんの周囲には、年上として頼り、悩みを相談し、「お姉さん!」という目線で接してくるシンプル後輩がいるそうです。

    一方、今回の二人は少し違います。

    人事お姉さん側からすると、年下ではあるものの、最初から「後輩」というより一人の人間として扱える相手なのだとか。

    必要な時にはお姉さんをやるし、必要な時には後輩をやる。でも、それが常時発動しているわけではない。本人たちの言葉を借りれば、「スポットお姉さん」と「スポット後輩」のような関係です。

    その土台にあるらしいのが、基本的に相手を怖がっていないこと。

    「このくらい言っても大丈夫」「これくらい雑でも関係は壊れない」と、少しだけ相手を舐めている。その絶妙な雑さが、二人にとってはむしろ居心地のよさにつながっているようです。

    ▪️ウェルカムされていない場所へ普通に入っていく

    そんな話から、最近経験している新規の飛び込み営業へ。

    まだ関係のない相手のところへ突然入り、「お世話になっております」と声をかける。もちろん相手はこちらを待っていませんし、歓迎されているとも限りません。

    多くの人にとっては精神を削られそうな仕事ですが、本人いわく意外にも「苦手じゃなさすぎる」そうです。

    同行している人は、決められた説明をきれいに話すタイプ。一方、本人は話しながら相手の反応を見ています。

    「ここはもう少し話したそう」「今の部分を気にしてそう」と感じたら、そこで説明を止める。そして相手が口を開けば、「そこ、そうですよね」と返す。

    本人はこれを「技術としての共感」と表現しています。

    台本通りに最後まで話すのではなく、相手の表情や間を拾いながら会話を変えていく。本人としては「おしゃべりしているだけ」に近いようですが、人事お姉さんから見ると、どうやら普通に特殊能力らしい。

    ▪️断られたら帰る。でも「迷い」を見せたら帰らない

    さらに特徴的なのが、相手の断り方に対する解釈です。

    「それは違うでしょう」ときっぱり断られれば、「そうですよね、ありがとうございました」と普通に帰れる。

    ところが、相手の反応が少し曖昧だった場合、本人の中では「何を言ってもいい時間」が始まります。

    なぜ嫌なのか。何が気になっているのか。逆に、少しでもいいと思ったところはどこなのか。

    本音を隠しながらでも会話を続けてくれているなら、その隙に質問を重ねていく。

    普通なら「ウェルカムされていないな」と感じた瞬間、傷つく前に撤退したくなるところです。しかし本人は、相手が一瞬でも迷うと「100%ダメではないんだな」と解釈する。

    拒絶される可能性より、まだ残っている余白の方を見ているようです。

    ▪️「あいつ、ちょっと迷ってたぞ」で10分後に再訪

    それを象徴するのが、とある訪問先でのエピソード。

    相手が忙しそうだったため、一度は早めに話を切り上げます。

    ところが店を出たあと、「でも、あの人は100%嫌そうではなかった」「まだ取り付く島がある」と判断。

    そこで同行者に、「もう一回行く」と宣言します。

    当然、同行者からは「え、また行くんですか?」という反応。それでも10分後に再訪し、最終的にはアポイントを取ったそうです。

    「さっき行ったばかりだから」「嫌がられるかもしれないから」というブレーキが、どうやらかなり弱い。

    以前から「どんな仕事が向いているんだろう」という話はしていたものの、ここに来て思いがけず新規営業への適性が浮かび上がってきます。

    ただし営業そのものが大好きなのかというと、そこはまた別の話。

    初対面の人と喋ることより、駅から20分歩く方がしんどい。能力と好き嫌いは、案外きれいには重ならないようです。

    ▪️久しぶりに会った先輩へ、手を振りながら大あくび

    ここまで「人を舐めている」という説について話したところで、人事お姉さんから決定的な証拠が提出されます。

    数週間ぶりに会った日の待ち合わせ。

    人事お姉さんは先に到着し、スマホもイヤホンもしまい、相手が来るのを待っていました。

    そして姿が見えたので手を振る。

    すると向こうから歩いてくる後輩は、こちらに手を振り返しながら、盛大にあくびをしていたそうです。

    あまりの自然さに、「目が悪くなったのかと思った」という人事お姉さん。

    本人は「人事お姉さんだから安心して気が緩んだ」と説明します。

    シンプル後輩なら、久しぶりに会う先輩を見つけたら小走りで近づき、「お待たせしてすみません」と言うのかもしれません。

    しかしこちらは、大あくびをしながら「おお、行こうや」くらいのテンションで合流する。

    信頼とも言えるし、舐めているとも言える。その境目がだいぶ曖昧です。

    ▪️人を怖がらないことは、意外と武器になる

    年上のお姉さんとの付き合い方から、飛び込み営業、待ち合わせでの大あくびまで。

    一見バラバラな話の中心には、ずっと「相手を必要以上に怖がらない」という性質があるようです。

    年上だからと必要以上にかしこまらない。営業先の曖昧な反応を、すぐ拒絶だとは判断しない。そして安心した相手の前では、普通に気が抜ける。

    もちろん、人を舐めすぎればただの失礼です。

    一方で、人を怖がりすぎると、本当はまだ開いていた扉まで自分から閉じてしまうこともある。

    後輩力について話していただけのはずが、気づけば仕事の適性と、人との距離の取り方について考える回になりました。

    そんなことを話しながらも、久々に会った二人の金曜日の夜はまだこれから。

    収録は軽めに終わりましたが、お楽しみはこのあとも続いていくようです。

    18 min
  • 水虫にお茶っ葉?3万8千円の睡眠学習用枕|さくらももこ『もものかんづめ』

    #78【ひとり回】『もものかんづめ』を手に取ったきっかけは、好きな作家のエッセイで、この本から大きな影響を受けたと紹介されていたこと。

    好きな人がいると、その人が読んできた本や、見てきたものや、影響を受けた誰かまで気になってくる。その人を構成している無数の材料のうち、ひとつだけでも教えてもらえるのは、ずいぶんありがたいことである。

    ただし、好きな人の好きなものが、自分にも刺さるとは限らない。そう思いながら読み始めたところ、今回は無事にポッドキャスト一本分になりました。


    緻密に笑わせにくる現代的なエッセイとは少し違い、『もものかんづめ』にあるのは、もっと素朴な「生活を覗いていたら、この人とその家族がそもそも妙に面白かった」という笑い。家族の話が多く、どこか温かいのに、本人は学校の授業をまともに聞けず、事務仕事ではミスを重ね、会社員生活も長くは続かない。

    そこで妙な親近感が発生します。決められた正解を正しく出し続ける場所ではうまくいかないのに、宴会の余興のような「何をやってもいい場所」では力を発揮する。気づけば『窓ぎわのトットちゃん』を読んだときにも似た、「この人も社会の決められた椅子にそんなに綺麗に座れていない」という仲間意識の話になっているようです。



    ▪️16歳の水虫と、お茶っ葉という民間療法


    17あるエピソードの中で最初に引っかかったのが、水虫の話。

    16歳で水虫になり、病院にも行き、市販薬も使い、さらにさまざまな民間療法にも手を出すさくらももこさん。足の裏の皮膚を剥がしてから薬を塗る描写には、元薬剤師として「削らないで!」と本の外側から止めに入りたくなります。


    そして最終的に登場するのが、お湯に浸したお茶っ葉を足に巻くという方法。それを一週間続けると水虫が治ったという。しかも姉も試して、同じように治ったという。

    さすがにこれは怪しい。

    水虫の原因は細菌ではなく真菌である白癬菌。「お茶には殺菌作用があります」と言われても、それだけでは説明にならない。ほかの治療が効き始めたタイミングと重なっただけではないのか。季節的に症状がおさまっただけではないのか。


    疑いながら調べてみると、まさかの茶の成分による白癬菌の増殖抑制を扱った論文に行き着きます。

    現在使われる抗真菌薬は、真菌の細胞膜に必要なエルゴステロールの合成過程など、かなり明確な標的を狙って作用する。一方、お茶に含まれるポリフェノール類は、そこまで一点狙いではないものの、白癬菌の増殖や形成の複数段階に影響しているらしい。

    半信半疑だった民間療法の背後から、あとになって科学的な説明が顔を出してくる。こういう瞬間は妙に面白い。

    以前、咳止め不足のなかで患者から代替策を求められ、調べ続けた末に「はちみつ」に行き着いた経験も思い出します。おばあちゃんの知恵を全部信じるわけにはいかない。でも、ときどき「おばあちゃんの知恵論文」が存在する。民間療法と医療の間には、雑に切り捨てるには惜しい場所もあるようです。



    ▪️3万8千円の睡眠学習枕は、本当に無駄だったのか


    続いて登場するのは、さくらももこさんが買ったという3万8千円の睡眠学習枕。

    寝ている間に英単語を聞けば覚えられるという夢のような商品に、母と姉は当然のようにマジレスを返します。学校で居眠りしている間の授業内容を覚えていたことがあるのか。夜中ずっと流れていたラジオの内容を、翌朝覚えているのか。

    それでも購入。

    しかも届いた説明書には、枕を使う前に「覚えたい単語を100回ずつ紙に書いて練習してください」とある。そこを省略したいから3万8千円払ったのではなかったか。

    さらに10回払い。明け方には姉の横で枕から英単語が延々と流れてくる。


    客観的に見れば、かなり無駄な買い物である。

    しかし、その失敗が何十年後にも読者を笑わせ、ベストセラーのエピソードとして残っているなら、3万8千円は本当に高かったのだろうか、という話にもなってきます。

    お金を失わないことと、お金を有効に使うことは同じではない。貯め方ではなく、「何にお金を使うと自分の人生に何が残るのか」を一度考えてみたい。睡眠学習枕の話から、いつの間にかそんな次回候補まで生まれています。



    ▪️銭湯が好き、から銭湯を洗うところまで行く

    そして銭湯の話。


    さくらももこさんが、いつもとは違う銭湯まで歩いて出かけ、妙に深くて45度もある湯船に遭遇するくだりから、話し手自身の銭湯の記憶も引っ張り出されます。

    そもそも、でっかい水が好き。飲み会の前にわざわざ銭湯へ寄り、ひと風呂浴びてから人に会ったこともある。


    その話を聞いた友人は、なぜか後日、銭湯の清掃体験イベントを予約します。しかしダブルブッキングで行けなくなり、「代わりに行けない?」と前日に連絡してくる。

    普通なら断ってもよさそうな依頼なのに、「ちょっと面白いか」と代打で参加。


    そこに集まっていたのは、休日に自ら銭湯を洗おうとしている人々です。好きな銭湯について語る自己紹介が始まり、常連の銭湯の暖簾を描いた漫画家が現れ、洗剤会社の歴史を学び、蛇口用、タイル用、鏡用と洗剤を使い分けながら、知らない人たちと風呂場を磨いていく。

    特に残ったのは、元気なおばさまたちとの時間だったようです。洗剤の使い方を教わりながら、「街のおばちゃんからしか摂れない栄養がある」と思う。


    休日に銭湯を掃除する必要なんて、本来どこにもない。それでも、人生で二度とやらないかもしれない妙な体験は、数年後にこうして誰かに話す材料になっています。



    ▪️役に立たない時間が、あとから人生の材料になる


    『もものかんづめ』は、ものすごく感動させようとしてくる本でも、全ページで爆笑を取りにくる本でもない。

    水虫になった。怪しい枕を買った。銭湯へ行った。会社員が向いていなかった。

    そのときには失敗や無駄にしか見えなかった出来事を、少し離れたところから眺め直してみると、人生を妙に豊かにするエピソードになっている。

    そして今回の話し手も、本を読んでいたはずなのに、気づけば薬局での経験や、お金の使い方や、銭湯清掃の日のことを喋っています。

    もしかすると、休みが必要なのも同じなのかもしれません。


    すぐ役に立つことだけを処理している時間から少し離れて、変な本を読み、変な場所へ行き、ときには変なものにお金を払い、あとから「あれは何だったんだろう」と話せるものを増やしていく。

    一見無駄な時間は、未来の自分が使う材料なのかもしれない。

    そんなことを考えつつ、読みやすくて、可愛くて、ちょっと妙な『もものかんづめ』をおすすめするひとり回です。

    51 min
  • 言語化したら野暮な映画を言語化して紹介してみた【ゲスト:ジョン】

    #77【紹介回】今回紹介するのはアニメーション映画『海獣の子供』。

    いつものように作品を観て、自分なりに噛み砕いて、考えたことを言葉にしてみよう。そう思って再生したはずが、観終わったところで出てきた感想は、ほとんど正反対のものだったようです。

    「これは、言語化するやつじゃない。浴びるやつだ。」

    作品について喋るポッドキャストで、喋らないほうがいい作品を取り上げてしまう。開始早々からかなり致命的な矛盾を抱えながら、今回も話は進んでいきます。

    ▪️「海の幽霊」を80億回聴いているのに、映画を知らない

    『海獣の子供』を観るきっかけになったのは、米津玄師の「海の幽霊」。

    カラオケへ行けば歌い、人生でほぼ初めてピアノで練習する曲にも選び、「好きな曲ランキングなんて野暮だ」と言いながら、結局は一番と言っても過言ではないくらい好きらしい。

    ところが、カラオケ画面に流れるアニメーションを見た友人から「これ結局どんな話なの?」と聞かれたところで、答えられないことに気づきます。

    こんなに曲が好きなのに、その曲が生まれた作品を知らない。

    そこで映画を観てみることにしたわけですが、視聴前にはすでに「これで一本ポッドキャストを録ろう」と決めていたとのこと。あとから考えると、この時点ですでに今回の悲劇――あるいは喜劇――は始まっていたのかもしれません。

    ▪️居場所のない少女・琉花と、海からやってきた少年たち

    主人公は、中学生の少女・琉花。

    夏休み。ハンドボール部の練習中にチームメイトと衝突し、うまく事情を説明することもできないまま部活へ行けなくなってしまいます。

    家に帰っても、母親との関係はぎこちない。父親とは別居中。学校にも家にも、どうにも自分の居場所がない。

    そんな琉花が向かうのが、父親の働く水族館です。

    そこで出会うのが、ジュゴンに育てられたという不思議な少年「海」と、その兄「空」。

    海の中に長くいられ、人間とは少し違う身体を持つ二人。彼らが結局「何者なのか」という疑問は当然浮かびますが、今回そこを詳しく追究しようとすると、すぐに「そこはもう飲み込んでください」と止められます。

    ▪️水族館というより、美術館を見ている

    ストーリー以上に何度も話題に上がるのが、圧倒的な映像の美しさ。

    その感覚は、水族館というよりむしろ美術館に近かったとのこと。

    美術館で絵の前に立ったとき、横に説明文が置いてあったとしても、描かれているものを完全に理解できるわけではない。それでも、なぜか立ち止まってしまう。何かを受け取ってしまう。

    『海獣の子供』にも、そんな「意味が分からなくても、美しいものは美しい」という時間が延々と流れているようです。

    ▪️クジラの「ソング」と、言葉にすると失われるもの

    物語の中では、クジラたちが「ソング」と呼ばれる方法で互いに何かを伝えています。

    ここから、話は少しずつ映画の外へ。

    人間は、自分が経験したことを誰かに伝えるとき、言葉に変換します。しかし、体験そのものと言葉になった体験は、当然まったく同じではありません。

    さらに、その言葉を受け取る側にもそれぞれの解釈がある。

    つまり、体験した人から語る人へ、語る人から聞く人へと渡っていくたびに、少しずつ情報は変わっていく。

    ところが作中のクジラのソングは、もしかすると「見たもの、感じたものを加工せず、そのまま渡せる通信」なのではないか。

    ▪️「祭り」が始まる。でも、何の祭りなのかは説明しない

    やがてクジラたちは、「祭りの本番」が始まることを告げます。

    海洋生物が同じ場所へ集まり、巨大なクジラが現れ、空は自分の終わりが近いことを悟る。

    そして空は琉花へ隕石を託し、光のようになって海へ消えていきます。

    そこから始まる「祭り」の映像では、海、宇宙、星、細胞、胎児、生命そのものを思わせるイメージが次々と重なっていく。

    一人の生命の誕生と、海と、地球と、宇宙。

    それらが全部ひと続きになっているような場面なのですが、ここについては説明を試みれば試みるほど、「もう観てください」という結論へ戻ってしまいます。

    何が起きたのかを理解するためのシーンというより、何か巨大なものを目撃するための時間だったのかもしれません。

    ▪️分からないものは、分からないまま持って帰っていい

    祭りを終えた琉花は、やがて日常へ戻ります。

    重要なのは、琉花自身もそこで起きたすべてを理解しているわけではないということ。

    考えてみれば、物語の最初から琉花は、自分の感情をうまく言葉にできない少女でした。

    最後に彼女が経験する「祭り」もまた、言葉では説明しきれない出来事です。

    だからこの作品は、「言葉にできるようになること」を成長として描いているわけではないのかもしれません。

    分からないものを分からないまま受け取る。いつか分かる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。それでも、その体験がなくなるわけではない。

    そんなことについて話しているようです。

    ▪️「海の幽霊」と、目に見えなくなったもの

    作中には「海の幽霊」という言葉そのものも登場します。

    光に包まれ、魚たちが姿を消していくような現象。

    そこから、「姿を失ったとしても存在まで消えてしまうわけではないのではないか」という話へ。

    原作に登場するという、海岸に置かれた椅子のエピソードにも触れます。

    亡くなった人が帰ってこられるように置かれた椅子。もちろん、そこに誰かが実際に座っている姿が見えるわけではありません。

    それでも、見えないから存在しないとは限らない。

    生命や記憶は、目に見える形を失ったあとも、海の中の何かのように残り続けているのではないか。

    そんな解釈と「海の幽霊」という曲が、少しずつ重なっていきます。

    ▪️ここで突然、夜光虫の話をします

    とはいえ、このまま「感じてください」で終われないのがこの番組。

    作品を言葉で解体するのは野暮だと散々言っておきながら、作中で波打ち際が青く光る夜光虫だけはしっかり捕まえて、科学の話が始まります。

    夜光虫は単細胞のプランクトン。

    波や人の動きによる刺激を受けると、細胞内の環境が変化し、ルシフェリンとルシフェラーゼが関わる反応によって発光するとのこと。

    以前取り上げたホタルの発光とも共通する仕組みがありつつ、夜光虫の場合は「衝撃をきっかけに光る」ところがポイント。

    なぜ光るのかについては捕食者への防御などの説もあるようですが、そこはまだ研究の余地があるらしい。

    宇宙と生命の循環を前に「考えるな、感じろ」と言っていた数分後に、細胞膜とpHの話をしている。この番組らしい着地です。

    ▪️今回の結論、「考えるな。まず浴びろ」

    まず米津玄師「海の幽霊」を聴く。

    歌詞の意味を考える前に、一度そのまま浴びる。

    そして映像に興味を持ったら、『海獣の子供』を観てみる。

    分からない場面があっても、全部理解しようとしなくていい。

    何を意味しているのか、正解は何なのか、という問いをいったん横へ置いて、海の光や魚の動きや音楽や、生命がぐるぐると巡っていく感覚を受け取ってみる。

    それだけでいい作品なのではないか、と話しているようです。

    ……と言いながら、ここまでずいぶん説明してしまいました。

    本人たちいわく、今回は「今までで一番やってはいけない作品で、今までで一番やぼな回」。

    喋らないほうがいい作品について、一生懸命喋ってしまった一回です。

    42 min

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