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#78【ひとり回】『もものかんづめ』を手に取ったきっかけは、好きな作家のエッセイで、この本から大きな影響を受けたと紹介されていたこと。
好きな人がいると、その人が読んできた本や、見てきたものや、影響を受けた誰かまで気になってくる。その人を構成している無数の材料のうち、ひとつだけでも教えてもらえるのは、ずいぶんありがたいことである。
ただし、好きな人の好きなものが、自分にも刺さるとは限らない。そう思いながら読み始めたところ、今回は無事にポッドキャスト一本分になりました。
緻密に笑わせにくる現代的なエッセイとは少し違い、『もものかんづめ』にあるのは、もっと素朴な「生活を覗いていたら、この人とその家族がそもそも妙に面白かった」という笑い。家族の話が多く、どこか温かいのに、本人は学校の授業をまともに聞けず、事務仕事ではミスを重ね、会社員生活も長くは続かない。
そこで妙な親近感が発生します。決められた正解を正しく出し続ける場所ではうまくいかないのに、宴会の余興のような「何をやってもいい場所」では力を発揮する。気づけば『窓ぎわのトットちゃん』を読んだときにも似た、「この人も社会の決められた椅子にそんなに綺麗に座れていない」という仲間意識の話になっているようです。
▪️16歳の水虫と、お茶っ葉という民間療法
17あるエピソードの中で最初に引っかかったのが、水虫の話。
16歳で水虫になり、病院にも行き、市販薬も使い、さらにさまざまな民間療法にも手を出すさくらももこさん。足の裏の皮膚を剥がしてから薬を塗る描写には、元薬剤師として「削らないで!」と本の外側から止めに入りたくなります。
そして最終的に登場するのが、お湯に浸したお茶っ葉を足に巻くという方法。それを一週間続けると水虫が治ったという。しかも姉も試して、同じように治ったという。
さすがにこれは怪しい。
水虫の原因は細菌ではなく真菌である白癬菌。「お茶には殺菌作用があります」と言われても、それだけでは説明にならない。ほかの治療が効き始めたタイミングと重なっただけではないのか。季節的に症状がおさまっただけではないのか。
疑いながら調べてみると、まさかの茶の成分による白癬菌の増殖抑制を扱った論文に行き着きます。
現在使われる抗真菌薬は、真菌の細胞膜に必要なエルゴステロールの合成過程など、かなり明確な標的を狙って作用する。一方、お茶に含まれるポリフェノール類は、そこまで一点狙いではないものの、白癬菌の増殖や形成の複数段階に影響しているらしい。
半信半疑だった民間療法の背後から、あとになって科学的な説明が顔を出してくる。こういう瞬間は妙に面白い。
以前、咳止め不足のなかで患者から代替策を求められ、調べ続けた末に「はちみつ」に行き着いた経験も思い出します。おばあちゃんの知恵を全部信じるわけにはいかない。でも、ときどき「おばあちゃんの知恵論文」が存在する。民間療法と医療の間には、雑に切り捨てるには惜しい場所もあるようです。
▪️3万8千円の睡眠学習枕は、本当に無駄だったのか
続いて登場するのは、さくらももこさんが買ったという3万8千円の睡眠学習枕。
寝ている間に英単語を聞けば覚えられるという夢のような商品に、母と姉は当然のようにマジレスを返します。学校で居眠りしている間の授業内容を覚えていたことがあるのか。夜中ずっと流れていたラジオの内容を、翌朝覚えているのか。
それでも購入。
しかも届いた説明書には、枕を使う前に「覚えたい単語を100回ずつ紙に書いて練習してください」とある。そこを省略したいから3万8千円払ったのではなかったか。
さらに10回払い。明け方には姉の横で枕から英単語が延々と流れてくる。
客観的に見れば、かなり無駄な買い物である。
しかし、その失敗が何十年後にも読者を笑わせ、ベストセラーのエピソードとして残っているなら、3万8千円は本当に高かったのだろうか、という話にもなってきます。
お金を失わないことと、お金を有効に使うことは同じではない。貯め方ではなく、「何にお金を使うと自分の人生に何が残るのか」を一度考えてみたい。睡眠学習枕の話から、いつの間にかそんな次回候補まで生まれています。
▪️銭湯が好き、から銭湯を洗うところまで行く
そして銭湯の話。
さくらももこさんが、いつもとは違う銭湯まで歩いて出かけ、妙に深くて45度もある湯船に遭遇するくだりから、話し手自身の銭湯の記憶も引っ張り出されます。
そもそも、でっかい水が好き。飲み会の前にわざわざ銭湯へ寄り、ひと風呂浴びてから人に会ったこともある。
その話を聞いた友人は、なぜか後日、銭湯の清掃体験イベントを予約します。しかしダブルブッキングで行けなくなり、「代わりに行けない?」と前日に連絡してくる。
普通なら断ってもよさそうな依頼なのに、「ちょっと面白いか」と代打で参加。
そこに集まっていたのは、休日に自ら銭湯を洗おうとしている人々です。好きな銭湯について語る自己紹介が始まり、常連の銭湯の暖簾を描いた漫画家が現れ、洗剤会社の歴史を学び、蛇口用、タイル用、鏡用と洗剤を使い分けながら、知らない人たちと風呂場を磨いていく。
特に残ったのは、元気なおばさまたちとの時間だったようです。洗剤の使い方を教わりながら、「街のおばちゃんからしか摂れない栄養がある」と思う。
休日に銭湯を掃除する必要なんて、本来どこにもない。それでも、人生で二度とやらないかもしれない妙な体験は、数年後にこうして誰かに話す材料になっています。
▪️役に立たない時間が、あとから人生の材料になる
『もものかんづめ』は、ものすごく感動させようとしてくる本でも、全ページで爆笑を取りにくる本でもない。
水虫になった。怪しい枕を買った。銭湯へ行った。会社員が向いていなかった。
そのときには失敗や無駄にしか見えなかった出来事を、少し離れたところから眺め直してみると、人生を妙に豊かにするエピソードになっている。
そして今回の話し手も、本を読んでいたはずなのに、気づけば薬局での経験や、お金の使い方や、銭湯清掃の日のことを喋っています。
もしかすると、休みが必要なのも同じなのかもしれません。
すぐ役に立つことだけを処理している時間から少し離れて、変な本を読み、変な場所へ行き、ときには変なものにお金を払い、あとから「あれは何だったんだろう」と話せるものを増やしていく。
一見無駄な時間は、未来の自分が使う材料なのかもしれない。
そんなことを考えつつ、読みやすくて、可愛くて、ちょっと妙な『もものかんづめ』をおすすめするひとり回です。
#77【紹介回】今回紹介するのはアニメーション映画『海獣の子供』。
いつものように作品を観て、自分なりに噛み砕いて、考えたことを言葉にしてみよう。そう思って再生したはずが、観終わったところで出てきた感想は、ほとんど正反対のものだったようです。
「これは、言語化するやつじゃない。浴びるやつだ。」
作品について喋るポッドキャストで、喋らないほうがいい作品を取り上げてしまう。開始早々からかなり致命的な矛盾を抱えながら、今回も話は進んでいきます。
▪️「海の幽霊」を80億回聴いているのに、映画を知らない『海獣の子供』を観るきっかけになったのは、米津玄師の「海の幽霊」。
カラオケへ行けば歌い、人生でほぼ初めてピアノで練習する曲にも選び、「好きな曲ランキングなんて野暮だ」と言いながら、結局は一番と言っても過言ではないくらい好きらしい。
ところが、カラオケ画面に流れるアニメーションを見た友人から「これ結局どんな話なの?」と聞かれたところで、答えられないことに気づきます。
こんなに曲が好きなのに、その曲が生まれた作品を知らない。
そこで映画を観てみることにしたわけですが、視聴前にはすでに「これで一本ポッドキャストを録ろう」と決めていたとのこと。あとから考えると、この時点ですでに今回の悲劇――あるいは喜劇――は始まっていたのかもしれません。
▪️居場所のない少女・琉花と、海からやってきた少年たち主人公は、中学生の少女・琉花。
夏休み。ハンドボール部の練習中にチームメイトと衝突し、うまく事情を説明することもできないまま部活へ行けなくなってしまいます。
家に帰っても、母親との関係はぎこちない。父親とは別居中。学校にも家にも、どうにも自分の居場所がない。
そんな琉花が向かうのが、父親の働く水族館です。
そこで出会うのが、ジュゴンに育てられたという不思議な少年「海」と、その兄「空」。
海の中に長くいられ、人間とは少し違う身体を持つ二人。彼らが結局「何者なのか」という疑問は当然浮かびますが、今回そこを詳しく追究しようとすると、すぐに「そこはもう飲み込んでください」と止められます。
▪️水族館というより、美術館を見ているストーリー以上に何度も話題に上がるのが、圧倒的な映像の美しさ。
その感覚は、水族館というよりむしろ美術館に近かったとのこと。
美術館で絵の前に立ったとき、横に説明文が置いてあったとしても、描かれているものを完全に理解できるわけではない。それでも、なぜか立ち止まってしまう。何かを受け取ってしまう。
『海獣の子供』にも、そんな「意味が分からなくても、美しいものは美しい」という時間が延々と流れているようです。
▪️クジラの「ソング」と、言葉にすると失われるもの物語の中では、クジラたちが「ソング」と呼ばれる方法で互いに何かを伝えています。
ここから、話は少しずつ映画の外へ。
人間は、自分が経験したことを誰かに伝えるとき、言葉に変換します。しかし、体験そのものと言葉になった体験は、当然まったく同じではありません。
さらに、その言葉を受け取る側にもそれぞれの解釈がある。
つまり、体験した人から語る人へ、語る人から聞く人へと渡っていくたびに、少しずつ情報は変わっていく。
ところが作中のクジラのソングは、もしかすると「見たもの、感じたものを加工せず、そのまま渡せる通信」なのではないか。
▪️「祭り」が始まる。でも、何の祭りなのかは説明しないやがてクジラたちは、「祭りの本番」が始まることを告げます。
海洋生物が同じ場所へ集まり、巨大なクジラが現れ、空は自分の終わりが近いことを悟る。
そして空は琉花へ隕石を託し、光のようになって海へ消えていきます。
そこから始まる「祭り」の映像では、海、宇宙、星、細胞、胎児、生命そのものを思わせるイメージが次々と重なっていく。
一人の生命の誕生と、海と、地球と、宇宙。
それらが全部ひと続きになっているような場面なのですが、ここについては説明を試みれば試みるほど、「もう観てください」という結論へ戻ってしまいます。
何が起きたのかを理解するためのシーンというより、何か巨大なものを目撃するための時間だったのかもしれません。
▪️分からないものは、分からないまま持って帰っていい祭りを終えた琉花は、やがて日常へ戻ります。
重要なのは、琉花自身もそこで起きたすべてを理解しているわけではないということ。
考えてみれば、物語の最初から琉花は、自分の感情をうまく言葉にできない少女でした。
最後に彼女が経験する「祭り」もまた、言葉では説明しきれない出来事です。
だからこの作品は、「言葉にできるようになること」を成長として描いているわけではないのかもしれません。
分からないものを分からないまま受け取る。いつか分かる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。それでも、その体験がなくなるわけではない。
そんなことについて話しているようです。
▪️「海の幽霊」と、目に見えなくなったもの作中には「海の幽霊」という言葉そのものも登場します。
光に包まれ、魚たちが姿を消していくような現象。
そこから、「姿を失ったとしても存在まで消えてしまうわけではないのではないか」という話へ。
原作に登場するという、海岸に置かれた椅子のエピソードにも触れます。
亡くなった人が帰ってこられるように置かれた椅子。もちろん、そこに誰かが実際に座っている姿が見えるわけではありません。
それでも、見えないから存在しないとは限らない。
生命や記憶は、目に見える形を失ったあとも、海の中の何かのように残り続けているのではないか。
そんな解釈と「海の幽霊」という曲が、少しずつ重なっていきます。
▪️ここで突然、夜光虫の話をしますとはいえ、このまま「感じてください」で終われないのがこの番組。
作品を言葉で解体するのは野暮だと散々言っておきながら、作中で波打ち際が青く光る夜光虫だけはしっかり捕まえて、科学の話が始まります。
夜光虫は単細胞のプランクトン。
波や人の動きによる刺激を受けると、細胞内の環境が変化し、ルシフェリンとルシフェラーゼが関わる反応によって発光するとのこと。
以前取り上げたホタルの発光とも共通する仕組みがありつつ、夜光虫の場合は「衝撃をきっかけに光る」ところがポイント。
なぜ光るのかについては捕食者への防御などの説もあるようですが、そこはまだ研究の余地があるらしい。
宇宙と生命の循環を前に「考えるな、感じろ」と言っていた数分後に、細胞膜とpHの話をしている。この番組らしい着地です。
▪️今回の結論、「考えるな。まず浴びろ」まず米津玄師「海の幽霊」を聴く。
歌詞の意味を考える前に、一度そのまま浴びる。
そして映像に興味を持ったら、『海獣の子供』を観てみる。
分からない場面があっても、全部理解しようとしなくていい。
何を意味しているのか、正解は何なのか、という問いをいったん横へ置いて、海の光や魚の動きや音楽や、生命がぐるぐると巡っていく感覚を受け取ってみる。
それだけでいい作品なのではないか、と話しているようです。
……と言いながら、ここまでずいぶん説明してしまいました。
本人たちいわく、今回は「今までで一番やってはいけない作品で、今までで一番やぼな回」。
喋らないほうがいい作品について、一生懸命喋ってしまった一回です。
#76【ひとり回】難しすぎる『ヒトとAI』を、まだ3章までしか読んでないのに喋る回。
岩波新書、岡野原大輔『ヒトとAI』を読み始めたものの、あまりの難しさに「久しぶりにこんなに難しい日本語を読んでいる」と絶叫するところから始まる第76回。
まだ第1部の3章までしか読んでいない。それでも、普段から仕事でも私生活でもAIをかなり使っているからこそ、「そもそも、なんであの雑な入力からちゃんとした文章が返ってくるんだろう」という疑問は前からあったようです。
今回は本の紹介というより、難解な文章を読み、AIにも助けてもらいながら、ここまで自分はどう理解したのかを一度声に出して確認してみる回。機械学習から始まったはずなのに、気づけば専門家の存在意義や、人間が判断を引き受けるとはどういうことなのかまで話が伸びています。
▪️ 頭のいい人の文章、無駄がなさすぎて難しい
会社の推薦図書から手に取った『ヒトとAI』。AI研究者であり、AIを開発する会社の経営者でもある岡野原大輔による一冊です。
ところが読み始めて早々、「具体例も比喩もほとんどない」「極限まで削ぎ落とされた日本語だ」と苦戦。分かりやすく噛み砕くための余白が少なく、その一文が何を意味しているのかを自分で展開し直さなければならないらしい。
一方で、「本書では〇〇をこう定義する」と言葉の定義が出てくるたびに妙な安心感も覚えているようです。分からないから苦しいのに、分かりたいから読み続けてしまう。難しい本を読むとき特有の、始めるまでは重いのに、読み始めるとなぜか楽しい時間が始まります。
▪️ AIは「一番もっともらしいもの」をものすごい計算量で出している
まず挑むのは、そもそもAIがどうやって作られているのか。
従来のコンピューターは、人間が決めたルールに沿って計算するものだった。一方の機械学習では、大量の例を与えられた機械の側が、内部のパラメータを少しずつ調整しながらルールを獲得していきます。
たとえば大量の猫の画像を見せ、「これは猫」と学習させる。すると一度も見たことのない猫の画像にも「猫」と答えられるようになる。人間が「耳がこうで、ひげがこうで」と条件を一本ずつ書き込むのではなく、大量の経験から数字を調整していく。
文章でも同様に、「朝起きてパンを――」の次には何が来るのか。予測して、正解との差を確認して、パラメータを直して、また予測する。途方もない回数を繰り返した結果、生成AIは文脈から次に来る“もっともらしいもの”を出力するようになる。
日頃、誤字脱字だらけの入力を投げても突然ちゃんとした敬語にして返してくれるAI。その裏側を知り、「そういうことだったのか」と少しずつ答え合わせが始まります。
▪️ 「分かってから決める」が逆転する世界
300ページの英語の契約書をAIに読ませたところ、「直すべき重大なポイントは3つです」と一瞬で返ってきたとする。
しかし使う側には英語の知識も、法律の専門知識もない。AIの結論を完全に理解しようとすれば何日もかかるのに、契約の締切は今日かもしれない。
これまでは「理解する→判断する」の順番だったものが、AIによって「判断結果が先に出る→人間の理解が後から追いつく」へ逆転していく。
もちろん、人間は昔から理解できない技術を使ってきました。相対性理論を説明できなくてもGPSは使える。問題は、AIが単なる道具ではなく、契約や医療のような「判断」そのものに入り始めることです。
説明できない判断を誰が承認するのか。間違っていたら誰が責任を取るのか。ここで話は、機械学習の仕組みから急に社会の話になっていくようです。
▪️ 女2人で晩飯を探したら、なぜかイタリアンしか出なかった時代
AIの「判断過程が見えない」という話から、以前AIに飲食店探しを任せていた頃の記憶へ。
「〇〇駅、女2人、晩飯」くらいの雑な入力をすると、なぜか赤ワインが似合いそうなイタリアンばかり提示された時期があったらしい。
なぜ「女2人」からイタリアンに到達したのか。本人には分からない。ただ結果だけはもっともらしい顔をして並んでいる。
今では以前より幅広い候補が出るようになったものの、では内部で何が変わったのかはやはり見えない。便利さと、判断過程が分からない不気味さが同居している。そんな日常の小さな違和感が、本の内容と妙につながっていきます。
▪️ AIに聞いたあと、なぜ人はもう一度「人」に聞くのか
話は薬剤師としての専門性にも及びます。
最近は薬について検索すると、検索結果より先にAIによる回答が表示されることもある。内容もかなり正確になっている。それなら、薬の知識だけを取り出したとき、薬剤師という専門家は今後どうなるのか。
実際に、AIへ体調について相談した人から「今すぐ救急車ではないけれど、こうなったら救急車を呼んだ方がいいと言われた。これ合ってる?」と確認されたことがあり、事情を聞くとAIの回答はかなり妥当だったそうです。
それでも、その人はAIだけで終わらず人間にも確認した。
そこにはまだ「AIを全面的には信じきれない不確実さ」があるのではないか。不確実さがなくなる日は来るのか。そしてAIの精度が上がり続けた先で、専門家の役割は「知識を持っている人」から何へ変わっていくのか。気づけばかなり大きな問いになっています。
▪️ 人間は失敗を背負う。AIはパラメータを直す
第3章で特に引っかかったのが、人間とAIでは「失敗」の意味が違うという話。
人間が何かを選べば、選ばなかった可能性は失われる。転職をすれば、その選択は人生の履歴として残る。失敗しても完全に巻き戻すことはできず、その記憶が次の判断を慎重にする。
一方、AIの失敗は基本的にはパラメータを調整する材料になる。そこには、人間が感じるような「取り返しがつかない」という重さがない。
最初は「AIには身体がない、痛みを感じないからなのか」と考えます。しかし本が提示する差は、それよりもう少し広いものでした。
▪️ AIには「世界の厚み」がない
今回もっとも印象に残った言葉が、「世界の厚み」。
AIは、問題として切り取られた条件がA・B・Cなら、その条件の中で非常にうまく答えを出せる。
しかし現実では、実はDも関係しているかもしれない。過去のEが影響しているかもしれない。そしてこの判断をした結果、未来のFが壊れて二度と元に戻らないかもしれない。
現実世界の条件をすべて文章にしてAIへ入力することはできない。一方、人間は問題として切り取られた世界の外側も含めて、身体を持ち、時間を連続して生きている。
だから「条件の中では正しい答え」と「現実世界で正しい判断」は一致しないことがある。
AIは嘘をついているというより、与えられた断片から、その瞬間もっとも整合的なものを返しているのかもしれない。普段感じていた「大体合っているのに、時々どうしてこんな答えになるんだろう」という違和感に、少し輪郭がついたようです。
▪️ まだ3章。でも、もう哲学の入口にいる
AIの仕組みを知るつもりで読み始めた本は、早くも「理解とは何か」「判断とは何か」「専門家とは何か」「責任を引き受けるとは何か」という方向へ進み始めています。
しかも、まだ全28章のうち3章。
難しすぎる、分からない、と何度も立ち止まりながら、それでも「この本を読み始められて楽しい」と着地する今回。AIについて分かったことを披露する回というより、分からないものをどうにか分かろうとしている途中経過そのものが記録されています。
睡眠導入になるのか、逆に好奇心を刺激して眠れなくなるのかは不明です。
機械学習、AIへの判断の委譲、薬剤師の専門性、取り返しのつかない選択、そして世界の厚みまで。絶叫しながら読む『ヒトとAI』、まずは第3章までのお勉強回です。
#75【ひとり回】
今回取り上げるのは、ゆとり三部作の3冊目『そして誰もゆとらなくなった』。数ページ読んでは笑い、笑った直後に「いや、この文章を書けるのすごいな」と感心する。本人がおもしろい上に、その本人を文章に変換する技術までおもしろいという、なかなか逃げ場のない二段構えに捕まっているようです。
ところが本について話し始めたはずなのに、気づけば結婚式の余興を延々と思い出し、中学時代の部活の掛け声を掘り返し、「社会人って合法的に大声を出せる場所が少なすぎない?」という話にまで到達します。
▪️体が元気じゃないとき、朝井リョウに戻ってくる
人生5回目の椎間板ヘルニア再発中。朗読も進めたいし、いつもの行動量で動きたい。でも体がそれを許してくれない。
話し手にとっての「元気」は、どうやら気分というより行動量に近いらしく、動けないだけで少しずつ元気まで削られていくようです。
最近は難しいことを考える時間も多かった。そこで今必要だったのが、何かを理解するための本ではなく、数ページごとにちゃんと笑わせてくれる本だったらしい。
そして選ばれたのが朝井リョウ。弱っているときに欲しくなるものとして、かなり強力です。
▪️「みんなを楽しませたい」ではなく、巨大な自己愛で準備する
特に引っかかったのが、朝井リョウが自身の過剰な準備癖について書いたエピソード。
何かを任されれば、とにかく準備する。結婚式の余興ではマジックショーを猛練習しすぎて、観客が状況を理解するより先にマジックが終わってしまう。出版社の真面目な説明会に呼ばれれば、「絶対に笑いを起こしてやる」と本の紹介の合間に健康情報を差し込んだPowerPointを作り、会場を見事なまでに無風にする。
サービス精神旺盛な人の話にも見えますが、本人の分析は少し違う。
「みんなに楽しんでもらいたいから」ではなく、「準備不足の自分を見られたくない」という巨大な自己愛が根っこにある。
他人の準備不足を見ると冷ややかな目を向けてしまう。だから、自分も同じ目で見られているかもしれないと怖くなる。結果として異様なほど準備する。
善意として処理すればきれいに終わりそうなところを、そこにある自意識まで掘り返してしまう。この辺りに朝井リョウのおもしろさを感じているようです。
▪️ファンレターをデータベース化するサイン会
さらに準備はサイン会でも暴走します。
短い時間しか会えないファンに何か返したい。そこで過去にもらったファンレターをデータベース化。名前と手紙の内容を検索できる状態にし、タイピングの速い人まで隣に配置する。
サイン会で名前を聞く。検索する。「以前、転職について悩んでいましたよね」と数か月、あるいはそれ以上前の手紙の内容を返す。
完璧なファンサービスに見えるのですが、受け取った側からすると「なんでそんな昔の自分の悩みを今ここで掘り返されるんですか」という別方向の恐怖も発生する。
準備した。時間もかけた。相手を喜ばせようともした。しかし入念すぎる準備がきれいに空回る。
この「善意だけでは説明しきれないところ」まで本人が自分で書いてしまうことに、話し手はかなり惹かれているようです。
▪️そして突然始まる、人生で見てきた結婚式の余興発表会
朝井リョウの結婚式余興の話をしていたはずが、そこから話し手自身が見てきた結婚式の記憶が次々と開封されます。
まずは東京ディズニーシー・ホテルミラコスタでの結婚式。
普段のパークではゲストにサービスしてくれるキャラクターたちが、結婚式では新郎新婦だけに全力を注いでいる。その光景を少し離れた場所から眺め、「プロってすごい」と感心する。
さらに心を奪われたのは音楽。『アナと雪の女王』の楽曲が結婚式用にアレンジされ、キャンドルサービスと完璧に同期している。あまりに気になって司会者に音源の入手方法まで確認したものの、どうやらその場でしか聴けない特別仕様だったらしい。
新郎新婦を撮影しているように見えて、実はBGMもかなり録っていたのではないかという疑惑については、本人の名誉のため深追いしないことにします。
▪️大柄な男性と掛け声とタンバリンは強い
さらに、体育大学出身者の結婚式で見た、大人数の男性による掛け声系の余興。
そして別の結婚式では、会場を一度わざと冷やしてから、突然大音量の音楽とともに屈強な男性たちがタンバリンを持って大量入場。足首や膝まで使いながらタンバリンを鳴らし、全力で踊るという余興に遭遇します。
おもしろいのは、派手な本番そのものだけではなく、その直前にきちんと「何も起きなさそうな時間」を作っていること。
落差を作るから、その後の爆発がもっとおもしろくなる。
朝井リョウの話から脱線したはずなのに、なぜかここでも「笑いの前に何を準備するか」という最初のテーマとつながっています。脱線しているようで、完全には離れていないようです。
▪️社会人、あまりにも大声を出さなすぎる
体育会系の掛け声を思い出したところから、中学時代のバスケ部の記憶まで蘇ります。
学生時代には、練習中も試合中も、とにかく大きな声を出していた。ところが社会人になると、日常生活から「全力で声を出しても怒られない場所」が急激に消える。
もし社会人バスケサークルで、学生時代と同じテンションの掛け声を全員でやっているところがあるなら、かなり興味があるらしい。
大人になるとは、静かになることなのか。それとも、ただ大声を出せる場所を失っていくだけなのか。
余興の話から始まって、気づけばそんなことを考えています。
▪️準備しすぎると、今度は余白がなくなる
朝井リョウは一時期、ラジオのフリートークまで細かく準備し、自宅で一度練習してから収録に臨んでいたそうです。
しかし台本を固めすぎると、収録中に起きた予想外の反応や、その場の空気を拾えなくなる。
準備は必要。でも、準備したものを守ることに必死になると、目の前で起きていることを取り逃がす。
普段はどちらかというと準備不足側にいる話し手にも、この「余白を残す」という感覚にはかなり覚えがあるようです。
▪️「学校っていいよね」を、ここまで書けるのか
後半で強く残ったのは、朝井リョウが学校へ行ったときの描写。
朝早く、眠く、不安もある。それでも校門をくぐった瞬間、夏休みの朝の空気、白い校舎、自転車が起こす風、制服、部活が始まりそうな気配、セミの声、渡り廊下――そうしたものが一気に押し寄せてくる。
それを読んだ話し手の感想は、ものすごく乱暴に縮めると「学校、いいよね」。
でも、自分なら「学校の雰囲気っていいよね」で終わってしまう感覚を、作家はそこまで細かく分解し、読んだ人間の頭の中に景色として再構築できる。
同じものを見ても、持っている語彙と文章の技術によって、出力されるものはまったく違う。
「日本語の出力能力を上げないと、自分の表現にも上限がある」。
笑うために読んでいたはずなのに、最後には文章を書くことそのものへの憧れまで刺激されているようです。
▪️活字で本当に笑う、という少し珍しい読書体験
一章読む。笑う。「なんだこの人」と思う。そして数秒後、文章のうまさに感心する。
それを繰り返しているうちに、気づけば朝井リョウの名前で検索し、ほかの人の感想まで探したくなる。
好きな作品ほど、同じところで笑った人や、同じ文章に引っかかった人を探したくなるものです。
今回は『そして誰もゆとらなくなった』を紹介する回だったはずが、結婚式の余興を思い出し、部活の掛け声を思い出し、社会人の大声不足を憂い、最後には文章力について考えるところまで来ました。
ただ、それだけいろいろな記憶を引っ張り出してくる時点で、かなり好きな本なのだと思います。
体が本調子ではない日に、難しいことはいったん横へ置いて、活字を読んでちゃんと笑える本を読む。
今回は、そんな読書に助けられながら、いつも以上に盛大に脱線していく雑談日記です。
#74【ひとり回】そして高音は顔芸だった。
ずっと気になっていたボイストレーニングの無料体験へ行ってきた回です。
きっかけは「歌がうまくなりたい」だけではなく、ポッドキャスト、朗読、カラオケと、最近なぜか高まっている「自分の声を狙って出したい」欲。さらに話を遡ると、転職によって一日の発声量が激減したことまで関係しているようです。
ちゃんみなの「ダリア」を課題曲に、防音室で高音と格闘すること45分。腹式呼吸、ペン、電卓、アコースティックギター、そして顔芸。歌のレッスンのはずなのに、次々と妙な比喩が登場します。
初めてのボイトレで知ったのは、声は気合いで押し出すものではなく、どうやら身体の構造を使って鳴らすものらしい、ということでした。
▪️そもそも、なぜ急にボイトレなのか
好きなアーティストがボイトレに通っている話を聞いたり、友人から意外と気軽に体験できるものだと知ったりして、じわじわと身近になっていたボイトレという存在。
そこへ最近、声そのものへの興味が加わります。ただ喋る、ただ歌うのではなく、もう少し意図的に「この声を出したい」と操作できるようになりたい。
そこでAIに近所の無料体験を調べさせたところ、候補が出すぎて逆に困る事態に。全部回っていたら一年経つのでは、という数から本命候補を絞り、まずは大手の教室へ行ってみることになりました。
▪️転職したら「喋り体力」が余っていた
話はなぜか、以前働いていた薬局へ遡ります。
忙しい薬局では、患者さんへの説明だけでなく、機械音の鳴る広い調剤室でも大きな声で業務連絡をします。手を動かしながら延々と喋れるタイプだったため、一日の仕事そのものが知らないうちに「声を出したい欲」の発散場所になっていたらしい。
ところが転職後は、パソコンに向かい、考え、スプレッドシートと戦う時間が増加。経理も企画も、基本的に大声を出す必要はありません。
そこで初めて、「薬剤師時代、仕事中にものすごく発散していたのでは?」と気づきます。
一人暮らしの家で突然叫ぶわけにもいかない。そこで余った発声エネルギーの行き先になったのがひとりカラオケでした。どうやら歌は趣味であると同時に、かなり切実なエネルギー処理でもあったようです。
▪️ちゃんみなの「ダリア」で窓を割りたい
そんなカラオケ生活のなかで、史上最高に気持ちよく発散できる曲として定着したのが、ちゃんみなの「ダリア」。
低く息の混じるような声から始まり、サビでは一気に高音へ。裏声へ逃げるというより、地声の勢いを残して叫ぶように上がっていく。その「叫び声なのに歌になっている感じ」がたまらなく好きらしい。
本人いわく、ひとりで歌うと「フロアの窓ガラスが割れるんじゃないか」という音量になるため、人前では若干自粛対象。
ところが友人とのカラオケで歌っていたことをきっかけに、実際に歌を録音してもらう機会が生まれます。そして、その録音を自宅で聴いたところから話が動き始めます。
▪️自分の歌声を聴いたら、魂が爆散しかけた
自分の喋り声を録音で聴くこと自体には、学生時代からかなり慣れていました。勉強内容を自分で解説して録音したり、現在はポッドキャストまでやっています。
ところが自分の歌声は別物でした。
想像していた声と、実際にスピーカーから出てくる声の距離があまりにも大きい。低音はまだ聴ける。しかしサビの高音になると、とにかく苦しそう。
衝撃を手足へ逃がすようにバタバタしながら録音を聴き、そこで漠然とした「歌がうまくなりたい」が、「この高音をなんとかしたい」という具体的な課題に変わります。
恥ずかしい録音が、結果的にはかなり優秀な事前問診になりました。
▪️腹式呼吸と、ペンと、電卓
体験レッスンで「ダリアの高音が苦しい」と申告し、一度歌ってみたところ、先生からも「確かに高音がきつそう」との判定。
そこで始まったのが腹式呼吸の練習でした。
クリップボードをお腹に当て、胸や肩を大きく動かさず、お腹側の動きを鏡で確認しながら呼吸を繰り返します。
先生によれば、腹式呼吸を使わなくても歌うことはできる。しかしそれは、変な持ち方でもペンで文字を書けるのと同じ。書けるけれど疲れやすく、きれいに扱いにくい。歌もまず少ない負荷で声を出せるフォームを作る必要があるとのこと。
さらに、腹式呼吸を毎回必死に意識する状態から抜けることを、先生は「電卓を0にするとき、引き算ではなくクリアボタンを押す」と表現します。
比喩の癖が強い。しかし、妙にわかる。
▪️人間はアコースティックギターらしい
今回もっとも印象に残ったのが、「人間の身体はアナログな楽器」という話。
アコースティックギターは、弦だけではなくボディの空洞で振動を響かせています。人間も同じで、喉だけで音を押し出すのではなく、口の中や身体の空間を使って響かせる。
口を縦にも横にも大きく開き、奥側に空間をつくる。高音は後頭部のほうへ響かせる感覚を持つ。
実際に試してみると、それまで必死に叫んでいた高音が明らかに出しやすくなります。
声量を上げるためにさらに頑張るのではなく、頑張らなくても鳴る構造をつくる。ここで「省エネで声を出す」という考え方がかなり腑に落ちたようです。
▪️そして高音は顔芸だった
さらに先生から飛んできたのが、「顔で歌ってください」という指示。
「ダリア、結構顔芸みたいなところあります」と言われ、口だけではなく、曲の感情に合わせて顔全体を大きく動かします。
身体を使ってラクに音を出せるようになると、「高音を出す」ことだけに全力を使わなくてよくなる。その余った力で、声のザラつきや感情、表情といった「遊び」を入れられるらしい。
ここで、中高生時代に友人たちと延々変顔をして遊んでいた経験が、十数年越しに謎の伏線回収を果たします。先生が顔をくしゃっとさせれば、その場で同じ顔を返せる。
人生、どこで何が役立つかわかりません。
▪️30分の無料体験で、声の出方が変わる
練習したのは「ダリア」のほんの数フレーズ。それでも先生の発声を真似し、その場で修正してもらうことを繰り返すうちに、声の出方はかなり変わっていきます。
さらに、走りがちなリズムや、同じ母音のまま音程が変わるところでは音にしっかり角度をつけることなど、まだまだ直せる場所も発見。
予定では30分だった無料体験は、気づけば約45分になっていました。
レッスン後にさっそくカラオケで試してみると、高音は明らかにラクになっている。しかし今度は、苦しいからこそ出ていた迫力も捨てがたいという新しい悩みまで生まれます。
ただ必死に高音を出すところから、ラクに鳴らしたうえで、どういう声にするかを選ぶところへ。
歌、朗読、ポッドキャスト。声を使う遊びが増えてきたタイミングで、身体という楽器の取扱説明書を少しだけ手に入れた、そんな初回ボイトレの記録になっています。
#73【ひとり回】
同窓会の情報量の多さを全力で楽しんできた報告回になっています。
懐かしい人たちに会いに行ったはずが、気づけば他人の現在地を眺めながら、自分が今どこにいるのかを確認する時間にもなっていたようです。
とはいえ基本的には、同窓会に行っただけで1時間しゃべれる人の雑談日記です。
▪️ 30歳、人生初のぎっくり腰
本題に入る前に、まずは近況報告。30歳になったいけうち、人生で初めてぎっくり腰になったらしい。
最近は毎日が楽しく、「あれもやりたい、これもやりたい」と自分のエネルギーをほぼ上限まで使っていたところ、腰から突然「ゴキン」。本人としては骨が一本折れたのではないかと思うほどの音だったという。
遊びすぎ、冷え、季節の変わり目、整体をサボっていたこと。いろいろ思い当たる節はあるようで、人生を楽しむにも身体というハードウェアのメンテナンスは必要らしい。
▪️ 160人分の「現在地」を見に行く
そして本題は、約160人が参加した中高の同窓会。
行く前から妙に楽しみで仕方がなかったといういけうち。その理由を考えてみると、30歳という年齢になり、同じ学校にいた人たちの「現在地」が完全にバラバラになっているはずだと思ったからだった。
会社員としてキャリアを積んでいる人、結婚した人、子どもがいる人、離婚した人、自分のやりたい方向へ軌道修正した人。そして学生時代には当然ポッドキャストなどやっていなかったいけうち自身も、誰かから見れば十分「知らない現在地」にいる。
ところが会場に入ってみると、想定していた「160人分の新情報」どころではなかった。目の前にいる160人には、中高時代の性格や振る舞いや人間関係といった過去のバックグラウンド情報がすでに大量に紐づいている。
顔を見るたびに昔の記憶が一斉に立ち上がる。まだ誰ともまともにしゃべっていないのに、脳だけがものすごい速度で働き始める。気づけば「毎日こんな情報量の場所に通っていたのか」と、学校という環境そのものに驚いているようです。
▪️ 「行かない」を選んでいた頃もあった
そんなに同窓会が楽しいなら昔から皆勤だったのかというと、そうでもない。
大学生の頃には、同窓会に意図的に行かなかった時期があったという。当時は「薬学部に通っている自分を見られたくない」という感覚があったのではないか、と今になって振り返っている。
さらに20代後半には、人との交流そのものからかなり距離を置いていた「鎖国期」もあった。LINEを返さず、遊びの誘いにも乗らず、対人関係に割けるエネルギーがほとんどなかった時期。その頃に今回の同窓会が開催されていたら、おそらく行かなかった。
だから同窓会に行くかどうかは、イベントそのものの良し悪しだけではなく、その時の自分が外の世界を見たい状態なのかにもかなり左右されるらしい。
今はむしろ、自分とは興味関心の違う人に会いたい。違う場所に立っている人を見ることで、「自分はここなんだ」と確認したい。居心地の違う場所へ行くことで、普段一緒にいる人たちのありがたさも再確認したい。矢印が自分の内側だけではなく、かなり外側へ向くようになっている。
▪️ 同窓会の運営を見ていたら、企画職の目が出てくる
一方、参加者として楽しみながら、なぜか運営まで観察している。
「私服で大丈夫です」という案内なのに、参考画像として添えられていた生成AIの服装がかなりオフィスカジュアル寄りで、参加者たちが服装に困っていたこと。
しかも、マイクの横には司会用の台本がある。
それを見たいけうちは、「これ、やりたかった」となる。運営の友人に伝えると、向こうからも「お願いしたかった」と返ってくる。
頼まれていない役割を見つけて勝手にやりたくなる人と、頼まれたから大変でもちゃんとやる人。大人とはどちらなのか。そんなことまで考えながら、とにかく運営の皆さんには最大限の感謝を述べています。
▪️ 「今何してるの?」という、自由度が高すぎる質問
同窓会の定番、「今何してるの?」。
仕事のことを答えて終わることもできるし、趣味の話をしてもいいし、最近考えていることを話してもいい。実はかなり自由度の高い質問である。
そしていけうちは、そこで話が弾む人と弾まない人がかなりはっきり分かれることに気づく。
自分は聞き上手というより、「持っている情報を1から10まで全部しゃべりたい」タイプ。
そこへツッコミを入れたり、さらにボケを重ねたり、話を増幅させたり、楽しそうに振り回されてくれる人がいると会話が一気に加速する。
そこから気づけばラブタイプ診断を持ち出し、「自分に合わせてほしい」「甘えたい」という自分と、相手に合わせることが得意だったり、甘えられたい人のほうが噛み合うのではないか、と人間関係を勝手に分析し始めているようです。
▪️ 写真には、思ったより本音が出る
集合写真にも参加した。30歳の自分が記録として残り、40歳や50歳になった時に見返せるなら、それはきっと面白い。
ただ、後から写真を見返してみると少し妙なことに気づく。
「この人たちとは撮っておきたい」と自分から思って撮った写真では、明らかに顔が柔らかい。一方、楽しく話している途中でクラス写真に呼ばれ、「今いいところだったのに」と思いながら参加した写真では、笑顔が少しぎこちない。
もちろんどちらも大切な記録なのだが、自分が本当にやりたいと思っていることは、意外と顔に全部出てしまう。そんな小さな発見まで持ち帰っている。
▪️ ホタル回、生ライブ開催
そして会場では、久々に再会した友人一人を捕まえて、過去の「ホタル回」を録音なしで最初から語り直すという謎のライブイベントも開催。
ひとりでホタルを見に行った理由から、ホタルのお尻はなぜ光るのかまで。普段ポッドキャストでやっていることを、その人一人に向けて直接しゃべる。
相手が楽しそうに聞けば聞くほど、話し手もさらに楽しくなる。机と椅子まで動かして、立食パーティーの端でひたすら話し続ける。酒も入っている。会場は暑い。最終的にはしゃべりすぎて頭がクラクラしてくる。
▪️ ビンゴ大会で「受動」の大切さを知る
そんな超能動的なおしゃべりのあとに始まったのがビンゴ大会。
番号が読み上げられたら、カードを見る。穴を開ける。そして次の番号を待つ。
やることが、ない。
しかし散々しゃべり、情報を浴び、動き回ったあとでは、この受動の時間がちょうど休憩になった。
しかもトイレに行っている間に友人へカードを預けていたら、その間にビンゴまで成立している。何もしない時間にも物事は進むらしい。
最近は「やりたい」と思った瞬間に全部やってしまいがちな一方で、30歳になって少しずつ生き急がず、楽しみを未来に取っておくことも覚え始めたという話とも、妙につながっていく。
▪️ 40歳、50歳、その先でもまた会う
今回が30歳の節目の同窓会なら、次は40歳、その次は50歳かもしれない。
そう考えると、「人生はあっという間だ」という感覚と、「まだ何回もこの情報量を浴びるイベントが残っている」という感覚が同時にやってくる。
10数年でこれだけ全員の現在地が変わったのなら、次の10年でも当然また変わる。会社員をしている人もいれば、ラッパーになった人もいる。同じ学校にいたという一点からスタートした人たちが、それぞれ別方向へ伸びていく。
▪️ 最後は、学校を歩いてうさぎを見る
情報量たっぷりの同窓会を終えたあと、仲のいい友人と学校の敷地を散歩する。
そこでうさぎを見つけ、「小さな命ありがとうございます」と癒やされ、その後は気心の知れた友人ともんじゃを食べながら、その日の写真を見る。
160人分の過去と現在を浴び、しゃべりたい人を探し、ホタルについてしゃべり倒し、ビンゴで休み、最後は何も取り繕わなくていい相手と余韻を味わう。
同窓会に行くかどうかは、その時の自分次第。でも、少しでも外の世界を見てみたい時期なら、行ってみると想像以上に「今の自分」がよく見える場所なのかもしれません。
そして次回の同窓会運営のみなさま、会場アナウンス担当には、ぜひいけうちをご検討ください。
#72【ひとり回】
やなせたかし先生の『明日をひらく言葉』を読んで、人生観、仕事観、アンパンマンにつながる正義についての考え方など、特に引っかかった言葉を拾いながら話しています。
……のはずが、本題に入る前から最近始めた朗読とピアノの話で大盛り上がり。今回から自分の声をヘッドホンで直接モニターしながら収録するようになり、その声の大きさにも驚きつつ、第72回が始まります。
▪️『メロスは激怒した』の5秒だけで、一生遊べそう
最近、新しく朗読を始めたそうです。
何をどう喋ってもいいポッドキャストとは違い、朗読にはすでに完成された文章がある。その言葉を変えず、声のトーン、間、息、感情の乗せ方だけで聞こえ方を変えることが面白くて仕方がないらしい。
現在録っているのは太宰治『走れメロス』。冒頭の数秒だけでも何パターンも録り直してしまい、なかなか先へ進みません。感情を込めすぎれば芝居っぽくなり、淡々としすぎれば景色が見えない。その間を探ること自体が、新しい遊びになっています。
そして考えてみれば、朗読もピアノも歌もポッドキャストも、全部「自分から出ていくものを、どう表現するか」という同じところにつながっているのかもしれません。
▪️パン屋で見つけた『明日をひらく言葉』
よくモーニングを食べに行くパン屋の一角で見つけたのが『明日をひらく言葉』。パン屋の隅にアンパンマンの作者の人生哲学が置かれているという、妙に出来すぎた状況で読み始めたところ、展示で触れた考え方がかなり詰まっていました。
▪️「人生はよろこばせごっこ」と、ポッドキャスト
特に共鳴したのが、やなせたかし先生の「人生はよろこばせごっこ」という考え方。
人生の喜びについて考えた末に、人を喜ばせることへたどり着いたという話を読みながら、気づけば自分がポッドキャストを続けている理由へ話が移っています。
よく笑うこと、元気に喋ること。好きな映画や本を受け取って、それを自分なりの言葉でもう一度外へ出すこと。それ自体が楽しく、聴いている誰かも少し楽しんでくれるなら、このポッドキャストも小さな「よろこばせごっこ」として成立しているのかもしれません。
▪️好きなことは、いつか自分を助けてくれる
身体が小さくコンプレックスを抱えていた幼少期、やなせたかし先生にとって、絵を描くことは大切な得意分野でした。
そこから語られる、好きなことや得意なことは心のよりどころになり、いつか自分を助けてくれるという考え方にもかなり反応しています。
現在はポッドキャスト、朗読、ピアノ、歌と、やりたいことが次々増殖中。「ポッドキャストの休憩に朗読、朗読の休憩にピアノ」という、休憩の定義がだいぶ怪しい生活になっていますが、ひとつに絞るより、好きなものが複数あるほうがむしろ元気になるようです。
▪️自分は何に「思い」を込められるのか
漫画も詩も、やなせたかし先生にとっては人生を楽しくするためのもの。難しいことを必要以上に難しくせず、分かりやすく届けるという姿勢にも共感しています。
そこから、人間の持つ微妙な感情の揺れや、それを表現すること自体を楽しんでいいという話へ。
朗読や音楽にはいくらでも思いを込められる一方で、すべての仕事に同じ熱量を注げるわけではない。これまでの経験を「下積み」として受け取りながら、自分は何に思いを込められる人間なのかが少しずつ見えてきているようです。
▪️続けていれば、いつか席が空くかもしれない
50代でアンパンマンを描き始め、大きく知られるようになったのは70歳目前。そんな人生から出てくるのが、人生は椅子取りゲームのようなものという仕事観です。
また、やなせ先生は漫画だけでなく、絵本、詩、デザイン、舞台、ラジオドラマなど、さまざまな仕事を引き受けていました。そこから「運に出会いたいなら、まずやってみる」という考え方にもつながっていきます。
▪️引き受けた仕事が、次の仕事を連れてきた
ここで、自分にも思い当たる出来事がありました。
以前、急きょ会社説明会を任され、資料作りから本番まで対応したところ、想像以上に楽しく、参加者からの反応もよかった。その経験が周囲に残っていたことで、今度は「薬剤師の視点を使って、みんなが楽しくなる講座をしてほしい」という新しい仕事につながったのではないか、と振り返ります。
好きなことをインプットして、自分なりに面白くして外へ出す。その行為に対価が発生するなら、もしかすると「自分自身のコンテンツを生業にする第一歩」なのかもしれません。
▪️絶望も、いつか別の形になる
やなせたかし先生は、希望だけでなく絶望やネガティブな感情も大切にしています。
妻を亡くした時には深く絶望した。それでも悲しいまま生きているうちに時間が過ぎ、再び仕事ができる日がやってくる。
そこから「時間が解決する」という言葉について考えます。時間が過ぎる間にも、新しい出来事が起こり、人に会い、別の感情が生まれていく。無理にすぐ前向きにならなくても、悲しい時には悲しいまま時間を過ごしていいのかもしれません。
▪️「逆転しない正義」は、目の前の人にパンを渡すこと
後半は、この本の中でも特に強く刺さったという「正義」の話へ。
戦時中、中国へ渡り、飢えに苦しんだやなせたかし先生。当時は自分たちの戦いを「正しい」と信じていましたが、戦争が終わると、その正義そのものがひっくり返る経験をします。
国や立場が変われば正義は逆転する。では、絶対に逆転しない正義とは何なのか。
やなせ先生がたどり着いたのは、目の前で飢えている人がいたら食べ物を渡すことでした。そしてアンパンマンは、どこかからパンを持ってくるのではなく、自分自身の顔を差し出す。誰かを助けることには、自分も傷つく覚悟が伴う。
戦争で実際に飢えた経験から、その時の自分を救うようなヒーローが生まれている。その流れから、つらかった経験を見つめ、それを自分の哲学にまで変えていく強さについて考えています。
▪️誰に何と言われても譲れないものが欲しい
やなせたかし先生は、子ども向けだからと作品の質を下げず、自分が傷つくことなしに正義は行えないという考えもアンパンマンから外しませんでした。
戦争や飢えという原体験から、自分自身で考え抜いてたどり着いたものだからこそ、周囲に何を言われても簡単には揺らがなかったのではないか。
そこから、「自分にもここだけは絶対に譲れないというものが欲しい」という話へ。
何に傷ついたのか、何が嫌だったのか、何に救われたのか。明るい経験だけでなく、ネガティブな経験まで振り返った先に、その人なりの哲学ができていくのかもしれません。
▪️その言葉は、誰のために発せられているのか
戦争で「正しい」と信じていたものが、後からまったく違う姿に見えたという経験から、最後は今の時代にあふれている言葉について話が広がります。
強い言葉や、誰かを怒らせる言葉を見た時に、内容だけを受け取るのではなく、「これは誰が、何のために言っているのか」「この言葉によって誰が得をするのか」まで考えたい。
極限状態では、一歩引いて考える余裕すらなくなるかもしれない。だからこそ平常時に、自分は何を信じ、何だけは譲らないのかを考えておくことが大切なのではないか。
朗読が楽しすぎるという話から始まったはずなのに、気づけば「何を喜びとし、何を信じて生きるのか」というところまで来てしまった今回。
やなせたかし先生というスルメは、まだしばらく噛み終わりそうにありません。
#71【ひとり回】
今回は、世田谷文学館で開催されている「やなせたかし展 人生はよろこばせごっこ」に行ってきた報告回です。
アンパンマンの原画を見たり、やなせたかしの人生を知ったりする展示なのかな、くらいの気持ちで足を運んだようですが、思っていた以上にやなせたかし本人の人生観や、ものをつくることへの姿勢に食らってしまった様子。
戦争と家族との別れから始まり、34歳での独立、54歳でのアンパンマン、雑誌編集、69歳での大ヒット、さらには84歳でのCDデビューまで。展示を見ているうちに、「アンパンマンってかわいい」の話だけでは到底終われなくなっていきます。
▪️3人で展覧会へ行き、3人とも単独行動
友人3人で出かけたにもかかわらず、駅で待ち合わせることもなく、会場に入る時間もそれぞれ。
「展示を見るだけなのに、なぜそこまで単独行動なのか」と思われそうですが、本人たちにとってはむしろこちらが自然。
作品を見ながらリアルタイムで会話するほうが難しく、展示を見るという行為は思っている以上に能動的なインプットなのではないか、という話になっているようです。
しかも今回の展示は原画だけでも約200点、さまざまな資料まで含めると相当な情報量。全部を一字一句回収するのは早々に諦め、気になったところを重点的に見る方式へ。
ここから「展覧会は絶対に朝一で行ったほうがいい」という、かなり実務的な教訓も得ています。
▪️最初に待っていたのは、アンパンマンではなく「喪失」だった
入口のかわいらしいデザインに浮かれながら展示室へ入ると、第1章の壁は真っ黒。そこに現れるのは、アンパンマンの明るい世界ではなく、やなせたかしの人生を追う巨大な年表と、家族との別れや戦争の記憶でした。
幼い頃に父を亡くし、母とも離れ、戦争から帰還したあとには弟の戦死を知らされる。入口付近には、弟への思いを描いた『おとうとものがたり』も展示されており、シーソーを前に「一人では楽しめない」という趣旨の場面に早々に食らってしまったそうです。
▪️28歳で会社員、34歳で独立。それでもアンパンマンまでは長い
特に引っかかったのが年表に並ぶ「年齢」でした。
戦争から戻り、20代後半から会社員として働きながら漫画を描く。
夜や休日にも原稿を続け、漫画の収入が会社員としての給料を上回ったところで、34歳で独立。さらに、もし収入がなくなったら自分が養うと背中を押した妻のエピソードにも「かっこいい」と反応しています。
ところが、ここで成功物語が完成するわけではありません。
34歳ですでに「やりたいことで生計を立てる」ところまで来ているのに、そこからアンパンマンへたどり着くまで、まだ長い。漫画、詩、絵本、イラスト、デザイン、雑誌編集など、もはや「この世の仕事を全部やっているのでは」と混乱するほどさまざまな創作を続けていきます。
そして現在につながるアンパンマンが登場するのは54歳。テレビアニメで大きく知られるようになるのはさらに後の69歳。
▪️「子ども向けだから」と軽くしなかったアンパンマン
アンパンマンが自分の顔をちぎり、お腹を空かせた相手に食べさせる。この設定は、当初から大人たちに歓迎されたわけではなかったという話も登場します。
もっと子ども向けに、もっと軽く、もっとファンシーに。そんな反応がある中でも、やなせたかしは考えを変えなかった。そこに見えるのは、「子どもだからこのくらいでいい」と子どもを侮らない姿勢だったのではないか、と強く惹かれています。
大人たちの予想とは別に、実際の子どもたちはアンパンマンを何度も読み、図書館の本がボロボロになるほど支持していく。ここには「本当に届くものを決めるのは誰なのか」という話まで潜んでいるようです。
▪️54歳、アンパンマンと同時期に“新人を世に出す編集長”になる
展示の中でもかなり気に入ったというのが、雑誌『詩とメルヘン』のコーナー。
やなせたかしは54歳頃から雑誌編集にも深く関わり、無名の書き手や表現者が世に出るための場所を作ろうとしていた。その発想そのものに「かっこいい」とかなり反応しています。
しかも壁には、やなせ自身が手がけたカラフルな表紙がずらり。
新人を発掘するという思想の話をしていたはずなのに、途中から完全に「これもかわいい、あれもかわいい」と、かわいいものをただかわいいと言う時間へ移行しています。
自分が作品を作るだけではなく、まだ名前のない誰かの作品を世に送り出す。それもまた「人を喜ばせる」の一つなのかもしれません。
▪️黒い部屋から虹色の部屋へ、そしてついにアンパンマン
序盤の黒い展示空間を抜けると、壁は虹色になり、天井には雲のような照明。漫画、詩、イラスト、絵本など、アンパンマン以前の膨大な創作活動が明るい空間いっぱいに広がっていきます。
そしてその先で、ついにアンパンマンの大型作品群へ。
ここで特に心を奪われたのがドキンちゃん。黒い背景の中央に大きなドキンちゃん、その周囲には大量のカビルンルン。
あまりのかわいさに水を飲んで落ち着く必要が生じ、これまで「アンパンマンが一番好きだと思っていたが、もしかするとドキンちゃんかもしれない」という自己認識の更新まで発生しています。
▪️『アンパンマンのマーチ』から、高校時代の記憶が急に戻ってくる
大型作品の先には『アンパンマンのマーチ』の直筆原稿。言葉を何度も直しながら、現在の歌詞へ近づいていった跡を見ていたところ、突然、高校時代の記憶が蘇ります。
軽音楽をやっていた頃、仲間とバンドを組み直した際に『アンパンマンのマーチ』を演奏し、ドラムを叩いていたことを思い出したそうです。しかも「アンパンマンのマーチやりたい」と言い出したのは、おそらく本人。
長らく忘れていた記憶が、原稿を見た瞬間につながる。展示を出たあとにはそのままカラオケへ行き、まず『アンパンマンのマーチ』を歌っています。
▪️「人生はよろこばせごっこ」を、本当に生涯やっていた人
東日本大震災の際にも、自分のできることとしてアンパンマンを描いたやなせたかし。その姿から感じたのは、展示タイトルにもなっている「人生はよろこばせごっこ」が、単なる綺麗な言葉ではなかったということでした。
自分のできることで誰かが少しでも喜ぶなら、それをやる。場合によっては自分の身を削ってでも差し出す。アンパンマンの顔を分け与える行為と、やなせ本人の生き方が重なって見えたようです。
そして感動が頂点に近づいたところで、突然モニターに現れる「歌うおじいちゃん」。
最初は誰なのかわからず眺めていたところ、その人物こそやなせたかし本人。なんと84歳で「オイドル」としてCDデビューしていました。
歌えば歌うほど上手くなる気がする、それが楽しい。派手な柄シャツを着て、カラフルな靴下を履き、84歳で新しいことを始める。その姿を見て、「まだ今からなんじゃ」と思わせること自体が、すでに誰かを喜ばせているのかもしれません。
▪️展示だけでは終わらない、やなせたかし編
あまりにも展示が刺さったため、会場ではやなせたかしの言葉をまとめた本まで購入。特に「正義」についての考え方にはかなり衝撃を受けたらしく、すでに別回用の台本を書き始めています。
さらに今後は朗読にも挑戦したいとのこと。ただし『走れメロス』を試したところ、漢字にふりがなを振るだけで一日が終わるなど、開始前から想定以上の難航ぶり。
普通のおしゃべりはできるのに、「借りた言葉を読む」途端に難しくなるという、新たな課題も見つかったようです。
戦争と喪失から始まり、漫画、詩、編集、アンパンマン、震災、そして84歳のCDデビューまで。ひとつの展示を見に行ったはずが、最後には「人生は思っているより長いし、何歳からでもまだ何かできるのかもしれない」というところまで話が広がった今回。
#70【紹介回】
映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』を最初から最後まで説明したら、最終的に熱力学の話になった
今回は、スペシャルゲスト・ジョンと、オーディエンス・きぬたを迎えての紹介回。
話題になっているのは知っている。でも映画館まで観に行くかと言われると、そこまでではない。 そんな人に向けて、映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』を、ほぼ最初から最後まで説明しているようです。
なお、普通に全部ネタバレしています。 これからまっさらな状態で観たい人は、先に劇場へどうぞ。
ところが、報酬100倍につられて島へ向かったちいかわたちの話をしていたはずが、途中から「人魚の肉を食べて永遠の命を得るとは、物理的にどういう状態なのか」という問題に発展。 最終的には熱力学第二法則、エントロピー、自己修復、金属の腐食まで持ち出して検証し始めます。
▪️ 報酬100倍。怪しい島へ向かう一行
物語は、うさぎのもとに討伐報酬100倍をうたうチラシが舞い込むところからスタート。
ちいかわ、ハチワレ、うさぎ、ラッコ先生、モモンガ、古本屋たちが島へ向かいます。
船が出ると早々に劇中歌が流れ、ここからハチワレの歌唱力への絶賛もスタート。
「討伐している場合ではない」「表現者としてステージに立ったほうがいい」とまで言われています。
▪️ 「炭酸ありませんか?」という最初の伏線
島に着いたちいかわは船酔い状態。 ハチワレが島民のヒトハとフタバに「シュワッとするもの、炭酸ありませんか?」と聞くと、二人はなぜか一瞬だけ妙な反応をします。
初見では何でもない会話。 しかし後から振り返ると、この「炭酸」がかなり嫌な伏線だったことがわかります。
▪️ 楽しい島旅行から、突然のセイレーン
昼間は島を観光し、夜は焚き火を囲んでハチワレが「今日の日はさようなら」を歌う一行。 うさぎは焚き火をつけ、そのままウクレレ伴奏まで始め、「実働が強すぎる」と評価されています。
ところが立入禁止の洞窟へ入った先で、巨大なセイレーンと小さな人魚たちに遭遇。
楽しい島旅行の空気が一気に変わります。
▪️ 怪物にも事情がある。「人魚が一匹、食べられた」
セイレーンのそばには、もともと三匹の人魚がいました。 しかし、そのうち一匹が何者かに食べられてしまった。
人魚の肉を食べると「永遠の命」が手に入るらしい。 セイレーンは仲間を殺した犯人を探すため、島民を次々にさらっていました。
一方の島民から見れば、仲間を奪うセイレーンを倒してほしい。 双方の事情を知ったちいかわたちは、単純に「怪物を倒せば解決」とは思えなくなります。
▪️ 全員捕獲。ちいかわと島二郎
セイレーンはとにかく強く、最終的にはちいかわ以外がほぼ全員さらわれます。
ひとりで仲間を探すちいかわが出会うのが島二郎。 カレーと貝汁を出してくれる、見た目はほぼ裸エプロンのおじさんですが、作中屈指の頼れる存在です。
そして、島二郎の辛いカレーを食べた経験から、ちいかわはセイレーン攻略法を思いつきます。
▪️ 攻略法は、激辛カレー
セイレーンは歌によって植物を操ります。 ならば辛いものを食べさせて歌えなくすればいい。
シーサーやくりまんじゅうも参加して激辛カレーを作り、最終決戦では島二郎のキャロライナ・リーパーまで投入。
うさぎがモモンガの尻尾でセイレーンにくしゃみをさせ、開いた口へちいかわとハチワレがカレーを流し込む連携にも、強めの相棒萌えが発生しています。
▪️ しるこサンド、人魚の煮付け、単三電池
戦いの最中、フタバが吹き飛ばされ、身体から落ちたのは単三電池。 それを見たセイレーンは「わかった」と言い残して去ります。
ここで明かされるヒトハとフタバの過去。 かつて事故で瀕死になったフタバを救うため、ヒトハは眠っていた人魚をしるこサンドで一匹だけ誘い出します。
重く鈍い音の次に映るのは、赤魚の煮付け。 人魚を食べたフタバの身体は光り、お尻には単三電池を入れる場所が出現。 電池を入れると動き、抜くと止まる身体へ変わります。
さらにフタバはヒトハにも人魚を食べさせ、二人そろって「永遠の命」を手に入れます。 冒頭の「炭酸ありませんか?」への妙な反応も、ここですべて回収されます。
▪️ 真実を知ったちいかわと、終わらない復讐
ヒトハとフタバの家で見つけた赤い鱗と、フタバから落ちた単三電池。 ちいかわだけは、ほぼすべてをつなげてしまいます。
それでも二人の正体を告げることはありません。 やがてヒトハとフタバは島を脱出し、新天地へ。 しかし、その近くの海をセイレーンたちが進んでいるところで物語は終わります。
▪️ 「永遠の命、熱力学第二法則に反してない?」
ここから急に始まる空想科学タイム。
「そもそも永遠の命って成立するのか?」 「単三電池で動くなら、海底で誰が交換するのか?」 「機械っぽい身体なら海水で錆びるのでは?」
生物は身体を修復しながら維持していますが、その修復能力自体も徐々に衰えます。 そこで、人魚の肉によって得た能力とは「自己修復能力そのものが老化しなくなること」なのではないか、という仮説に到達。
さらに、活動や修復に必要なエネルギーを単三電池から受け取り、熱として外部へ排出しているなら、熱力学第二法則にも直ちには反していない。 海水による腐食も、修復能力が永久なら錆びた部分まで直せるのではないか、と考え始めます。
魔法なのは「人魚の肉で身体の仕組みが変わる」という一点だけ。 そこから先は意外と物理法則の範囲で説明できる。
まさか映画を二回観た結果、「単三電池式の不老不死、意外と理にかなっている」という結論に腹落ちするとは。 映画紹介のはずが、最後は完全に空想科学回になっている第70回です。
#69【ひとり回】 『40歳だけど大人になりたい』後半戦
前回に引き続き、作家・王谷晶さんのエッセイ『40歳だけど大人になりたい』を読みながら、「大人って結局なんなんだろう」を考える読書回・後編。
前半では「自分はまだちゃんとした大人になれていない」という話に共感していたはずが、後半になるにつれて少し様子が変わってくる。
そもそも世間が言う“ちゃんとした大人”のほうがおかしくない?
テレビ、笑い、人付き合い、協調性、家事、子ども、怒り。読み進めるほど「大人になる」の意味が、社会の平均に近づくことではなく、むしろ自分の性質を把握して、自分で選べる範囲を増やすことへと変わっていくようです。
▪️ テレビがないのは、情報が嫌いだからではないらしい
王谷さんの家にテレビがないと知り、まず大喜び。
一人暮らしを始めた頃には一度テレビのある生活も試してみたものの、結局ほとんど見ないまま巨大な置き物になったそうです。
好きな本、好きな音楽、好きな人の発信。自分の周囲を自分の興味でかなり細かく編集できる時代に慣れた結果、「興味があるかもしれない何か」が一方的に流れ続ける状況そのものが、少しうるさく感じるようになっていたようです。
▪️ 「いじり」が嫌なのか、それとも“平均に戻される感じ”が嫌なのか
テレビの話から、そのままお笑いへ。
年齢、容姿、恋人の有無、結婚、セクシャリティなど、人が平均から外れている部分を拾って笑いにする「いじり」への違和感について考えます。
ただ、単純に「いじりは全部ダメ」と言いたいわけでもないらしい。
大学時代、容姿をいじられながら「いじりって、こんなにつまらなくできるんだ」と思った記憶まで登場。
問題なのは、平均から外れていること自体が「直したほうがいいもの」「笑っていいもの」として扱われる空気なのではないか。
学校でも会社でも、全員が同じ方向へ動いてくれたほうが管理する側は楽なのはわかる。ところが不思議なのは、同じ立場にいる人同士でも「そんなに出ないほうがいい」「普通にしていたほうがいい」と、お互いを平均へ戻そうとすること。
▪️ 大人になって一番よかったことは、付き合う人を選べること
ここから出てくる解決策は、かなりシンプル。
居心地のいい人を探し続ける。合わないところからは離れる。
学生時代は、一度入った学校から簡単には抜けられない。特に6年間通う学部なら、同じ環境の中でどうにかやっていくしかない時間も長い。
でも大人になると、休日を誰と過ごすかも、どんな場所へ行くかも、場合によっては職場だって変えられる。
まだ完全に「自分と同じ種類の人がたくさんいる場所」には出会えていない。それでも、探すこと自体はやめない。
大人になるとは、苦手な場所でも耐えられるようになることではなく、自分がどこにいるかを選べると知ることなのかもしれません。
▪️ 人付き合いは、多いほど偉いわけではない
王谷さんが考える大人の人付き合いとは、無理をして顔を出し続けることではなく、今の自分にどのくらい他人を気遣うキャパが残っているのかを確認しながら付き合うこと。
そして現在の王谷さんのかなり親密な人間関係が、「数か月に一度、短いLINEを何件かやり取りする友人」だと知り、その思い切りのよさにも感心しています。
ここで話はさらに進み、「社交すること」と「孤独でいること」のどちらが正しいかではなく、どちらも選べる状態でいることが大事なのではないかというところへ着地。
▪️ 協調性とは「分かり合うこと」ではなく、違ったまま調整すること
「協調性と大人」では、さらに強い共感が発生。
他人はどこまでいっても他人であり、完全に交わることはない。だからこそ、自分が孤独な一個人であることを認識したうえで、それでも他人とすり合わせて生きていく。それが協調性なのではないか、という話です。:contentReference[oaicite:0]{index=0}
そこから最近、職場で新しい作業を教えてもらった出来事へ。
教える側は「一度やれば体で覚える」タイプ。一方、教わる側は「一度覚えても使わなければ忘れるので、手順書として残しておきたい」タイプ。
どちらかが相手のやり方に全面的に合わせるのではなく、「メモを取りながら教えてほしい」と伝え、相手もその時間を待つ。
ほんの小さな出来事だけれど、他人は自分と同じようには動かないと知ったうえで、お互いに少しずつ調整するという協調性の実例になっていたようです。:contentReference[oaicite:1]{index=1}
▪️ 赤ちゃんを見たら自動的に「かわいい!」になるのか問題
「子供と大人」では、少し扱いの難しい話題へ。
王谷さんは、赤ちゃんを見て無条件に「かわいい」という感情が最初に湧くタイプではなく、「大人になればわかる」「自分で産めばわかる」と言われても、今のところその瞬間は訪れていないという。:contentReference[oaicite:2]{index=2}
そこで思い出されるのが、職場へ赤ちゃんが遊びに来たときの光景。
高い声で「かわいい〜!」となる人たちの横で、普通に仕事を続けている少数派もいる。
ただ、子どもそのものに興味がないわけでもない。以前、蛍光色だらけのビーズアクセサリーを赤ちゃんに見せたところ猛烈に食いつかれ、「赤ちゃんはまだ視力が発達途中だから、コントラストの強い色が見えやすいのか」と俄然面白くなった経験も出てきます。
かわいいと思う入口も、興味を持つ入口も、人によって違う。
▪️ 自分のことすら分からないのに、他人のことが全部分かるわけがない
そして今回の話をかなりきれいにつなぐのが、「分かり合えないことを前提にする」という考え方。
自分自身について70回近くポッドキャストで喋り続けても、まだ自分のことがよく分からない。
だったら、他人のことを完全に理解できるわけがない。
それでも「分からない」と「分かろうとしない」は別物である。
▪️ 舐められないために、見た目まで自分で選ぶ
最後は「怒りと大人」から、若い頃に軽く扱われてきた経験と、外見による自己防衛の話へ。
王谷さんのタトゥー、ピアス、短い髪などの強い見た目にも、単なるファッションではなく「舐められないため」という自己防衛の側面があったと知ります。:contentReference[oaicite:4]{index=4}
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