出題される問題が決まるまでの過程は、これを使えば言語化できる?
今回は「クイズ文化」に関する議論の蓄積を色々と取り入れてみる回。
前編ではその導入として、もしもの質問を投げかけてみることから始めていきます。
【参照:「森羅万象なサブスク」回( https://spoti.fi/3q9cIPR )】
本題へと入る前に、「全世界」に向けたイントロクイズの出題者として作成する出題リストの選曲方針という問いの導入と、その問いに対する5つの前提条件(参加者の個人情報、出題リストの作成時期、「クイ研」文化との関わり、参加者とのコミュニケーション、音源の「所有」)を設定。これらの点を踏まえた上でソキウスはやすおに問います。
まず率直な感想として、「全世界のありとあらゆる」音楽を「詰め込みたくなる」と答えたやすお。「オープン大会」での実践と比較しながら、特にイントロクイズの場合ではありとあらゆる音楽を「網羅」することで生まれる「バランス」によって、自身の「バイアス」の影響を減らしたいと考えていました。
この回答にソキウスは、この「全世界の音楽の『網羅』」とは具体的にはどのような状態のことを指すのかを質問。それには、世界的に「知られているようなもの」から、ある特定の国では「メジャー」だとされている曲までの様々な曲を揃えることだと答えました。そこでソキウスは、やすおが挙げたこの2つの方向性の間での「バランス」はどうするのかをひとまず尋ねます。するとやすおは、ここでの「全世界」は字義通りの意味での全世界ではないだろうと一言。厳密な意味での全世界が達成できない以上、全世界で知られているとされている曲の中から「自分も知ってる」ものが量として増えるだろうと吐露しました。
【参照:知ってる曲/知らない曲の回( https://spoti.fi/3OfGb5g )】
ここまでを受けてソキウスは、(「バランス」という点からではなく、)全世界で知られているという状態それ自体は何がなされていることを意味するのかについて尋ねます。やすおはこれを明確に示すのは「難しい」と断ったうえで、「売上」などの「客観的な」指標を使って測ることを提示。ただし、この「売上」がどのような範囲・基準で捉えられるものなのかという点はやすお自身も悩みの種である様子です。
ソキウスはここで挙がる国ごとでの偏りという論点を、傾向としての音楽マーケットにおける英米中心の「不均衡」な構造やリスナーの音楽の受容の態度[Negus 1992; Walis and Malm 1984=1996]と関連づけた後、続いて、ある特定の国で知られている状態についても同様に尋ねていきます。
【参照:2022年の「洋楽」回( https://spoti.fi/3JYBxau )】
これにやすおは今回の条件下では、国を単位とするよりも「地域」を単位にして「バランス」を「担保」することが現実的には選択されるだろうと答えました。
最後にソキウスが「網羅」の論点に関して尋ねたのは、選曲方針に「日本での動向」をどの程度加味するのかという点。
やすおは、日本で知られているという事実もそれ単体で見ればあくまでも一国での話なのでその点では他と変わらないことを挙げ、今回のように出題者としての「色」を出していい場ではないと考えたときは、日本でメインとされているものの出題は減るだろうと述べました。
今回の想定におけるやすおの選曲方針を確認したソキウスは、次に「クイズ文化」の議論に繋げる話として、全世界で知られている楽曲の「量」はどの程度あると思うかという質問をやすおに投げかけます。これに対するやすおの回答は「究極無い」。受容者の経済的格差、さらにそれぞれの国のメインストリームに「割って入る」ような楽曲の存在を自身がよく知らないということをその理由として挙げました。
この「究極無い」と捉える態度を読み上げ形式のクイズでの問題と比較しながら考えていくために、ここでソキウスが挙げた例が「元素記号」。おそらく全世界で通用するであろう元素記号の例を用いながら、徐々に今回の本題であるクイズ文化の議論の紹介へと移っていきます。
ソキウスは元々はイギリスで制作され日本でも独自に放映された「クイズ$ミリオネア」という番組についてここで言及し、ここからはそれぞれの国で出題される問題の違いについて考えてみることに。これに対してやすおは、出題される問題の性質は国ごとで変わるだろうと答えたので、この対話はその国ごとの差という部分により焦点を当てていきます。
そのためにソキウスは「その国に即した内容」の問題が変化するだろうと答えたやすおに乗っかる形で、さらに新たな例として「漢字」を導入。日本以外では(問うこと自体は出来るけれど)問おうとはしないであろう漢字と、そのような差が起きにくい元素記号という性質の違いを確認し、ここからはそのような性質の差は出題される問題の性質の差という形で一般化できるということを見ていこうとします。
以前配信の回で導入した、クイズという遊びが持つ「実力のゲーム」と「偶然のゲーム」の二重構造と、問い-答え形式からなる「統一ルール」とそれを基にした出題者の役割[石田 2003]についての議論も念頭に置きながら、その一般化のためにソキウスは「カルチュラル・リテラシー(cultural literacy)」という考え方をこの対話の場に導入。
【参照:イントロクイズと「正解」の関係回( https://spoti.fi/3PN9ooJ )】
石田(2003)によると、元々は「我々の子どもたちが知るべきこと」という副題が付けられた書籍の題名として使われたこの言葉は、「継承されるべき文化を理解する能力」を指すもの。かつては「家庭教育によって『自然に』身につくことを期待されていた」もので、さらに「アメリカ人なら知っておくべき文化にかかわる知識」であるとも考えられていました。また、それらの知識の80%は「百年以上に渡ってアメリカ人に共有」されてきたとされ、残り20%は時代とともに変化していくとされることも併せて述べられています。ただしこれらの知識はその前提として、ある立場・観点から見て「望ましいとされているもの」である必要があります。
先ほど挙げた中でも漢字の例についてはこのカルチュラル・リテラシーに当てはまるだろうということを確認したうえで、この回冒頭での想定に対してやすおが挙げた全世界/国別(地域別)という対比の考え方を、クイズにおける問題の面白さとカルチュラル・リテラシーとの関係に接続させていきます。そのように接続させた場合、クイズの面白さは「時代や時間に強く刻印づけられている」[石田 2003: 15]といえることが見えてきました。(なお石田(2003)では、時代や時間以上に「国民国家」にも強く境界づけされていることが併せて述べられている。)また、科学などの「世界共通」と見なされた知識は(様々な境界づけを越えて)共通設問になるということも、元素記号の例を用いながら改めて確認します。
ここまで見てきた概念をイントロクイズの場合にも適用すると、イントロクイズで扱われる(文字情報の判断ではなく、音波として知覚されるものとしての)音楽という対象は、読み上げ形式のクイズで扱われる対象と比較すると「世界共通」と見なされるものが少ないということと、先ほどの「究極無い」という態度とに関連を見いだせるだろうというのがソキウスの考え。この「世界共通」と見なされるものの量の相対的な少なさという点には、やすおも同意見のようです。
この量が少ないということは、クイズの場において「世界共通」の枠組みを参照することがあまり出来ないということ。そうであるならば、時代や時間、国民国家の違いなどの影響がクイズを成り立たせるうえで強く反映されるので、カルチュラル・リテラシーによって規定される「知っておくべき」知識も自ずと変化する。つまり、そのような能力とクイズにおける問題の面白さの関係がより色濃く表れるだろうとソキウスは考えています。
カルチュラル・リテラシーに関する議論をひととおり確認したので、次にこちらも重要な論点である「歴史」の話題へ。そのためにソキウスがやすおに投げかけた質問は、「クイズという単語はいつから日本にあったのか?」
後編ではクイズの歴史、日本におけるクイズという言葉の歴史を紐解くことから「クイズ文化」について引き続き考えていきます。
クイズ文化/出題者のバイアス/全世界の楽曲の「網羅」とバランス/世界的に知られている/その国では知られている/「客観的」な指標/英米中心の音楽マーケット/国別と地域別/出題者の「色」/全世界で知られている楽曲の量/元素記号と漢字のそれぞれの知られ方/カルチュラル・リテラシー
石田佐恵子, 2003, 「『クイズ文化の社会学』の前提」 石田佐恵子・小川博司編, 『クイズ文化の社会学』世界思想社, 1-20.
Negus, Keith, 1992, Producing Pop: Culture and Conflict in the Popular Music Industry, Arnold.
Walis, Roger and Krister Malm, 1984, Big Sounds from Small Peoples, Constable.(岩村沢也ほか訳, 1996, 『小さな人々の大きな音楽――小国の音楽文化と音楽産業』現代企画室.)