本日のプレイリスト:https://spoti.fi/37usz5E
今回のテーマは「最新の音楽や流行に乗れなくなるとき」。
時間経過に伴う個人的な変化(ex.加齢)や社会的な環境の変化が今後起こる可能性を念頭に置いたとき、そのような変化によってもたらされる音楽鑑賞への態度の変容(=「老後」)について論じる上で示唆に富む様々なデータや言葉を何度も往復することで、最終的にはイントロクイズで出題する際の態度・心持ちとも関係がある「若者の感覚を持ち続けようとすることは、100%『良い』とまで言えるのか」という問いを自分事として考えてみようとします。
【参照:「新世代のコモン・ミュージック」回( https://spoti.fi/3wiaelQ )】
何かしら生活を送っていれば、自身を取り巻く環境の変化、そしてそれに伴う趣味への態度の変化の可能性があるということを前提としたうえで、まずソキウスは、この乗れなくなるときについて現時点で考えたことを尋ねていきます。
いわゆる「J-POP」で「食らいつけて」ない部分が多少あると語ったのはナル。
【参照:ナルが各年でその年の楽曲を振り返る企画について語った「レベル別/年代別ごとの場」回( https://spoti.fi/3lGkHSo )】
この吸収できなさの感覚を音楽生活全体に拡張して想像してみたところ、ナルは未来の時点から見て当時追えていた最新とされるものを「懐古」するのではないかと想像しました。
同じ質問をやすおにも投げかけると、ナルと近く「懐古おじさん」になるだろうと想像。
最新を追うことを「あきらめた」とき、その時間を「興味はあったけど触れられなかったもの」に興味が移るだろうと回答します。
本格的な対話に入る前でのこれらの感覚を頭の片隅に置きつつ、この回の前半では「『最新のものについていこう』という感覚は、100%良いものだと言えるのか」について、各々の考えを出しあいます。
各々の考えを明確にさせるきっかけの問いとしてソキウスがあえて掲げた「若者の感覚を持ち続けるべきか」に対して、ナルは若くあり続けられるのであれば「若くあるべき」、やすおは「おんたま」での活動と自身の音楽生活とを区別したうえで「持っていた方が良いかな」と答えました。
これらの感覚についてさらに問題意識を深めていこうと引きあいに出したのは、音楽生活の調査回[≪対話編≫(前編)( https://spoti.fi/3x8W07f )、(後編)( https://spoti.fi/3nUDUQM )]で引用した調査を元に行われた分析。
そこでの「人は青年期に慣れ親しんだ音楽を中年期においても好みとして位置づけており、一生聴きつづける可能性が高い」[南田 2011: 148]という仮説、そしてその仮説を支持する2つの調査結果として、年齢層ごとでの音楽ジャンル嗜好の時期による推移と、自身が好みとしている音楽を好きになった時期に関する調査の結果[南田ほか 2019]を紹介します。
(なおここでの嗜好の「横滑り」や好きになった時期の傾向に関する結果は、社会学的な分析をしたことで見えてきた、この社会で生きる集団においての音楽鑑賞の傾向を記述したものなので、それは人間の心理的な働きとしてそのようになるということを必ずしも意味しているとは限らないということをここに付記しておきます。)
この分析結果にはナルもやすおも実感が持てるようです。
続いてソキウスが引いてきたのは、音楽ライター・レジー氏(@regista13)のtweet。
「人は誰でも年をとる」[レジー氏の2022/5/10 8:24のtweet]ことを前提とした下記のtweetを引用します。
【参照:アニメ視聴ルーティーン回( https://spoti.fi/3uZ72KD )】
少なくともカルチャー受容に限っては、感覚を若く保とうとする前に「まずちゃんと老害になる」ことの方が大事なのでは?とすら思うな…
そのうえで今の時代と自分の好みの接点を見つけるってプロセス踏まないと、結局自分は何がほんとに好きだったんだっけ?となります
ソキウスは先ほど挙げた分析結果の中で記述されていた、好きなものとして思っているものが10代後半~20代前半に出会ったものが多いという傾向をこのtweetと関連付けます。
ここでの「自分はこれが好き」という思いには既にある程度社会的な要因が働いているといえる以上、その「軸を持」つという意志はそこまで自明視できるものではない可能性があるということ、そしてそのように「好き」だと考える「軸を持」った方が良いと中心に捉えるだけで、その自明視できない可能性をなおざりにしてしまう、つまり「今の時代と自分の好みの接点を見つけるってプロセス」を踏むことを怠ると、「結局自分は何がほんとに好きだったんだっけ?」となってしまうだろうということが、2つの引用を関連付けると浮かび上がるだろうというのがソキウスの意見。
これに対してやすおは、世間的な(マイナスイメージ込みの)老害という言葉から少し意味をずらして用いている「ちゃんと老害になる」の部分に引っかかりを感じているようです。
(この点、そしてここでやすおが述べた「固執」や「妥協」については、次回配信の「延長戦」で再度補足を入れます。)
その後、やすおが述べるような好みの軸を認識することとそれへの「今の時代」との「すり合わせ」は、社会的な要因が作用する以上、そこまで簡単に「俯瞰で見る」努力は出来るのだろうかという点に話は進んでいきますが…
ナルにも同じ問いを投げかけると、(自身がリアルタイムで今追っている)最新の時期のもの以外に「この年代が好きとか、このジャンルが好き」だという感覚が「無い」と返しました。
どの年代の楽曲でも音楽ジャンルでも、自身の感覚にハマったものを「断片的」に知り始めて聴いていくというナルの音楽生活は、ここで引用した自分が好きだったものを見失う事態と表裏一体なのかもしれないと感じた様子。それを踏まえてナルは、10年代や20年代といった自身が10代後半から20代前半だったの頃の曲を「自分の好きな年代として考えていこう」と語ります。
これを聞いたソキウスは、この「考えていこう」という言葉に注目。ナルがある年代の(そしてジャンルでも同様に)「何が好き」だと感じているのかをここで尋ねます。
ナルとしても「その年代を追ってたから」という理由にはあまり納得がいかないようですが…
今後歳をとり自身を取り巻く環境も変化していく可能性があるから「ちゃんと老害にな」ろうという今回の内容に、やすおもそしてナルもこの段階では言葉に詰まるところがありました。
最終的にはやすおが≪対話編≫(前編)でも挙げていた、自身の好みに対する直感それ自体も判断できない、「言語化」できないものなのかという論点にも繋がったこの回。
今回のこの「もやもや」を大事にしつつ、この回を録ってからある程度時期が経った後に収録した次回配信の「延長戦」へと続いていきます。
毎回最後に1分以内で今紹介したい1曲を持ち回りで語ってもらう「本日の一曲」。
今回はやすおが、自身の好みのルーツから掘ってみたことで出会った楽曲を紹介。
最新の流行/懐古/若者の感覚/音楽ジャンル嗜好の推移/自身がその音楽を最も好きになった時期/「ちゃんと老害になる」/老害という言葉のマイナスイメージ/「自分の好きな年代として考えていこう」/流行を追うこと/「理屈」と「感覚」/JINTANA & EMERALDS
南田勝也, 2011, 「音楽と世代のライフコース」藤村正之編『いのちとライフコースの社会学』弘文堂, 140-152.
南田勝也・木島由晶・永井純一・小川博司編著; 溝尻真也・小川豊武著, 2019, 『音楽化社会の現在: 統計データで読むポピュラー音楽』新曜社.