本日のプレイリスト:https://spoti.fi/3ynRaD9
イントロクイズと「洋楽」を聴く理由の関係は多面的?
今回はSpotifyのプレイリスト[収録時時点]を眺めてみることをきっかけにして、前回( https://bit.ly/3YwvIHA )での「『シャットアウト』される海外音楽」という論点を引き継ぎつつ、日本での「洋楽」の受容のされ方について考えていきます。
【参照:去年の「洋楽との向き合い方」の回( https://spoti.fi/3GqBVvT )】
ただ多少の2021年らしさはあれども、去年例に挙げた楽曲も引き続きランクインし、「本当に変わった」のかと言えそうなラインナップ。
そのような「変わらなさ」を確認したので、ここからは昨年そして前回から引き継ぐ問題として、我々と「洋楽」の関係について見ていくことに。
まずソキウスは、この1年間で「洋楽」への見方はどうなったかをやすおに尋ねます。
それに対しては、「『洋楽』に対する『壁』」がほんの少し解消されたとのこと。ただこの「日本に渡ってきたかどうか」という「壁」は、その「壁」の内部でも「自分が(異国の言葉などを)理解できるか」という別の「壁」が存在していることも併せて言及。その上で、前者はこの一年で自身の中で「薄くなってきてる」と語りました。
それを受けてソキウスは、後者における「サウンドの好み」の影響と前者との関係について対話を進めたあと、これらの「壁」について考えていく一つの可能性として、昨年も話題にした「ウェブ的音楽生活」[土橋 2019]における態度の話へと繋げていきます。
ここでソキウスが挙げるのは、このような音楽生活の環境下では、自身を取り巻く文脈の「外側」への意識が生じづらいということ。「音のみ」であれ、「近さ」であれ、自身から見て「手近な指針」[土橋 2019:302]で音楽を選ぶ傾向が加速されるため、その外側に位置する「洋楽」が選択肢として候補に挙がる可能性が少なくなることについて言及します。
この内側/外側という意識についてより考えるために、ここでソキウスはやすおのような「近さ」を一歩引いた視点で見ようと、「洋楽至上主義」が持つ「効用」[岡田 2007]を対話の場の俎上に載せようとします。
ひとまず日本の音楽の歴史における海外音楽の影響について軽く触れたうえで、現代の「J-POP」におけるそれらの影響の見えづらさを確認。
【参照:最古「J-POP」回( https://spoti.fi/3WDG0nL )】
この見えづらさを、「アメリカ」的なものを<シンボル>として外部に想定している状態と、そのようなものが<システム>として内部に既に浸透している状態[吉見 1997]との比較という形で捉えなおして考えていきます。[岡田 2007]
この「洋楽至上主義」の考え方は、メインストリームからの「卓越化」を目指すオルタナティブなものの成立という観点では「効用」もあることを、具体的な例[cf. 南田 2001, 2019]に少しだけ触れながら提示していきました。
この「効用」を生み出す前提となっている<シンボル>という感覚への馴染みの無さが、(後に言及される「洋楽離れ」と)「洋楽至上主義」への実感の無さとして表れているのではないかとソキウスは考えているようです。
「ウェブ的音楽生活」の環境下では、「手近な指針」の選択が促進されることで外部という感覚が「フラット」化していくであろうという、ここまで紹介した議論により実感を持たせようと、ソキウスは別の例として「音楽雑誌」と「ラジオ」をここで挙げます。
音楽生活の調査回【参照:《対話編》(前編)( https://spoti.fi/3x8W07f ) 】で確認したとおり、ソキウス以外はこれらのメディアでの音楽経験は少ないこのメンバー。
その傾向の一般性[南田ほか編 2019]を確認し、その上でそれらの媒体が備えている「価値増幅装置」[南田 2008]という性質の外部性を見たことで、この対話はより実感を持った形で進められるようになりました。
ここからはこの実感とともに、「洋楽」を聴く理由とそれに繋がる内側/外側についての対話を進めていきます。
ただ「洋楽」をよく聴く人との接点が無いと語るやすおにとって、「洋楽」に触れているリスナー層はそもそも「想像ができないもの」でした。
それを受けてソキウスは、やすお自身は「『洋楽』を『聴いたほうが良い』」と考えているかを質問。
これに対して「イントロクイズをやっているから」「触れておくべき」だろうとやすおが答えたため、内側の要素が多いイントロクイズと「『手近な指針』への一元化が私たちに豊かな音楽経験をもたらすのか」[土橋 2019: 302]という問題とをソキウスは関連付けさせていきます。
【参照:「正解が全くでないイントロクイズ」回( https://spoti.fi/3PN9ooJ )】
その対話の中で、文化作品を享受する上では「個人の感覚や局所的な共感を超えたより多様な価値軸がある方が望ましいし、ウェブ的な情報環境にもその可能性が探られて良いはず」[土橋 2019: 302-303]という土橋の主張に多少の違和感を覚えたやすお。この回の終盤は、この違和感を受けて対話が進んでいきます。
「豊かな音楽経験」は聴取者の「深めたい」という「意志」のレベルの問題であるとやすおは考えるため、多様な価値軸を設けることを「有っても無くて『も』」良いと述べるやすおに、ある種「制度的」にこの望ましさを考えてみることをソキウスは提案します。
やすおもその望ましさ自体を否定しているわけではないが、望ましさについて考えることは「意志」のレベルの問題であるということをここで再度述べました。
この「意志」の問題は今後への課題として残るものの、「丸腰でウェブ上に放り出されている」[土橋 2019: 304]我々にとって、イントロクイズはどのような内部/外部であり得るのかという点は今後の回に繋がる大きな論点となりそうです。
毎回最後に1分以内で今紹介したい1曲を持ち回りで語ってもらう「本日の一曲」。
今回はソキウスが、 再結成の衝撃から連想した楽曲を紹介。
「洋楽」/「洋楽」を聴く「壁」/自身を取り巻く文脈の内側/外側/「洋楽至上主義」の効用/<シンボル>/<システム>としての「アメリカ」/オルタナティブ/「価値増幅装置」/豊かな音楽経験/外部という価値軸の設定/「意志」/ふぇのたす
土橋臣吾, 2019, 「ウェブ的音楽生活における洋楽の位置」南田勝也編『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか: 日本ポピュラー音楽の洋楽受容史』花伝社, 278-306.
南田勝也, 2001, 『ロックミュージックの社会学』青弓社.
――――, 2008, 「音楽言説空間の変容:価値増幅装置としての活字メディア」東谷護編『拡散する音楽文化をどうとらえるか』勁草書房, 133-163.
――――, 2019, 「日本のロック黎明期における『作品の空間』と『生産の空間』」南田勝也編『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか: 日本ポピュラー音楽の洋楽受容史』花伝社, 89-121.
南田勝也・木島由晶・永井純一・小川博司編著; 溝尻真也・小川豊武著, 2019, 『音楽化社会の現在: 統計データで読むポピュラー音楽』新曜社.
岡田宏介, 2007, 「音楽――『洋楽至上主義』の構造とその効用」佐藤健二・吉見俊哉編『文化の社会学』有斐閣, 112-135.
吉見俊哉, 1997, 「アメリカナイゼーションと文化の政治学」井上俊ほか編『岩波講座 現代社会学1 現代社会の社会学』岩波書店, 157-231.