あえて「善し悪し」から始めることで現れてくる意見もある。
今回のテーマは「イントロクイズ出題者と所持音源量との関係」について。
「所持音源量が多い出題者は『善い』出題者なのか?」という視点を問いの軸に置き、様々な視点から「音源量」について考えていきます。
【参考:メンバーのイントロクイズ的な音源収集行為を確認した回( https://spoti.fi/3rHSHzA )】
まずはメンバーが音源量について考えていることを言語化していくために、ソキウスは「出題者たるもの、所持音源量は多くあるべきか」という倫理的な問いをあえて投げかけます。
それに対してキョンは「時と場合による」と留保は付けつつ、「より良い」企画を行うために必要な「選曲の幅」を確保しようとするならば、所持音源量は自ずと多くなるだろうと回答。他の回【参照:出題者回(前編)( https://spoti.fi/2STzBJQ )】での態度と近く、音源量という視点からでも「より良い」出題者を目指すうえでは必要なものの一つとして考えています。
ここでソキウスは(この回答にまだ直接的には応答せず)いったん、出題者自身が抱く楽曲それぞれが持つ出題への必然性についてキョンに問います。
これにキョンは「出題者自身の納得」と、納得する前提としての「楽曲への愛着(ex.「持っている『から』出したい」)」という点から回答。
ソキウスはこの「愛着」の部分に対して「自己満足」の要素を見出したのでそれについてキョンに尋ねるとその要素は「否定はしない」とのこと。
ただし自己満足という要素以外に、回答者が出題を望んではいるが入手困難である音源を所持していることそれ自体が結果として持つ価値があることについてもここでキョンは言及します。
この回答を受けてソキウスは、出題者と回答者のどちらの立場においても、その必然性を見出した曲以外に出したい/出してほしい曲があるのならば、量にこだわる必要はそこまでないかもしれないという可能性を提示。
この可能性にキョンは、回答者の願望が完全には把握できないところがイントロクイズの面白さの一つである以上、極端に言えば「どの曲出したところで」「1曲何か違ったから」といって、そのような必然性からの出題による満足度が「大きく変わる」ことはないと答えます。
しかし大きく変わらないとはいえ、出題者自身の「気持ち」や(何か回答者にまつわる情報を知っているのであれば)回答者の並びなどから出題曲を選ぶ際に「ランダム」性を持たせるという意味で、選択肢の幅が広がることにより価値を置くというこれまでキョンが述べてきた態度と一貫してます。
やすおにもこの倫理的な問いを投げかけると、必ずしも多くあるべきとまでは言えないと回答。
やすおはキョン的な考えに加えて「出題者自身の心がけ」を挙げ、「所持している『だから』出したい」という意味ではない「愛着」を自身が重要視しているので、そこまで量にこだわる必要が無いとしています。
この意味での必然性の無さについてキョンは、出題者自身に「フォーカス」した出題の仕方を例に出し、やすおが言う「愛着」ももちろんあると答えます。
続いてソキウスは先ほどいったん脇に置いといた論点として、「(キョンが言う)『より良い』出題者になるためには、自身の経済力(経済資本)をイントロクイズのために多く注ぎ込まなければならないのか」という問いをキョンに投げかけます。
これにキョンは、出題者自身が「ランダムな出題」を行っていきたいのであれば、経済力を多く注ぎ込む必要性が生じてくるときもありうると悩みながらも回答。
併せて、出題者が目指すもの次第では「節約」できる場合もあると述べます。
なおキョン自身は、様々なサービスも用いながら「そこそこな量・比率で」経済力をイントロクイズに注ぎ込んでいるようです。
この回答を受けてソキウスは、経済力という点でも(前半で挙げたとおり)自己満足の要素があるのではないかとキョンに質問。
自己満足という要素が内包しているということが二方向から見えてきたことに対してキョンは、イントロクイズをするにあたって自身の中では自己満足の度合いが高いだろうということを語ります。
この質問で焦点化させたかったことは、イントロクイズで出題を行う際に、「自己満足がある『だから』ダメ」ということを非難することではなく、自己満足という要素が内包されているということ。
このことを認めるのであれば、イントロクイズ的な音源収集行為とそれに伴って必要になる経済力は、出題への「ハードル」の一つになりうるだろうということがこの論点でのソキウスの意見です。
キョンも、このハードルは確かに存在するだろうと同意。
【参考:ナル的な音源収集の姿勢がテーマの一つにもなった「森羅万象なサブスク」回( https://spoti.fi/3q9cIPR )】
やすおにもこの意味でのハードルを意識するかどうか尋ねると、「そこそこ」意識しているとのこと。
やすおは自身の読み上げ形式でのクイズの経験を基に既出問題への忌避感 ―キョンの「ランダムな出題」を目指す態度とも関係があると思われる― という存在を提示し、それを受けてソキウスは一つの例として「ベタ問」と呼ばれる問題群を挙げます。
【参照:「競技クイズ」回( https://spoti.fi/2SjYvSr )】
やすお自身は「今はそうでもない」が、イントロクイズにおいても既出問題を避けようと意識するのならば、まだ所持していない音源に自然と手が伸びていくだろうし、その結果として経済力もそこに多く注ぎ込むことになるだろうというのがやすおの意見。
この意見を受けて、読み上げクイズとイントロクイズとでは、同じ「クイズ」という趣味の枠の中でも経済力に対しての考え方が結構異なるのではないか、またクイズ研究会的な文化(ex.クイズの「問題集」)を通過してきたか否かでも考え方が違うのではないかという方向にも対話は進んでいきます。
このやすおとの対話を受けてキョンに「イントロクイズはお金のかかる趣味かどうか」を質問すると、そこから(偶然も重なり)一気に話題は音楽鑑賞という趣味、そしてクイズという趣味が持つ性質の話へ。
音楽鑑賞という趣味は、比較的多くの人が趣味としているなどといった点で音楽鑑賞以外の趣味と比較しても特徴は見えてこないが、その趣味内部では関わり方に傾向の差(「濃淡」)が生まれる[cf. 南田ほか編 2019]という「全体集約型趣味」[北田・解体研編 2017]の性質があること。
そしてクイズという趣味は、鍵括弧付きの「座学」行為から競技イントロクイズの「暴力性」を考えた回( https://spoti.fi/3cesvWf )でも触れたとおり、何かしらのルールによって参加者に「差をつける」という性質があること。
この2つの趣味の性質を確認し、音楽鑑賞という趣味における濃淡を前提としたとき、「イントロクイズの出題者として音源量を多くしていこうと試むことは、すなわち経済力の面で考えると必要になってくるコストが読み上げのクイズと比べたら多くなることを意味しているので、クイズという趣味全体との比較として考えたら、出題者の「音源量の多さ」を求めるということは、イントロクイズの出題者になろうとすることに対しての経済的な『ハードル』になっているのではないか」という趣旨の質問を投げかけて前編は終了します。
次回は(予告でも一部言及したとおり、)前編部分ではそこまで表立って論点としなかった、聴いている音楽の違いなどといった形で現れる文化的な面で捉えた資源のその「濃淡」へも話を広げていきます。
音源量/善し悪し/ある曲の出題への必然性/出題者自身の納得/楽曲への愛着/自己満足/入手困難な音源/「ランダムな出題」/経済力(経済資本)/出題へのハードル/読み上げクイズとイントロクイズとでの違い/既出問題(ベタ問)/「全体集約型趣味」/イントロクイズの「暴力性」
北田暁大・解体研編, 2017, 『社会にとって趣味とは何か――文化社会学の方法規準』河出書房新社.
南田勝也・木島由晶・永井純一・小川博司編, 2019, 『音楽化社会の現在――統計データで読むポピュラー音楽』新曜社.