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2026年9月27日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「柔和な方」 マタイ11:25‐30(ルカ10:17‐24)
イエスがこの地に誕生されたことによって、世界を覆う闇は切り裂かれた。イエスは神の国を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された。イエスの弟子達を通して宣教と癒し、また悪霊を退ける数々の奇跡がおこされた。弟子たちは、イエスの御名を用いると悪霊でさえ自分たちに服従するのを体験し、驚きと喜びに満たされた。彼らはイエスに出会う以前は、飼い主のいない羊のようだった。イエスの御口から発せられるおことばは、真理を追い求め義に飢え乾く彼らのこころを潤した。イエスのいつくしみ深いまなざしは彼らにやすらぎを与えた。イエスが行われる力ある御業を見てイエスがメシアであられることを彼らは知った。幼子のようにイエスを信頼する人々が、神の支配に属する人々とされたこと。また、彼らが悪の支配を打ち破り、神の御支配される領域が拡大されて行くという偉大な御業の一部とされたことをご覧になったイエスもまた、聖霊によって喜びで満たされ神をほめたたえた。幼子のようにイエスを信じる人々の人生は神の御業をともに担うダイナミックな人生を歩む。誉と光栄に満ちた人生だ。一方「知恵ある者、賢い人」は、自分の経験や思考からの知恵を基準にして頼みにしている人のことだ。どんなに学識を深めても人の知恵によってイエスを知ることはできないとパウロは述べている。(Ⅰコリント1:18-25)イスラエルの指導者たちは律法を守ることによって神に認められる「義」に到達できると考えた。また、パウロが死者の復活について語ると、異邦人はあざ笑った。福音は、知識人や哲学を論じる人々にとっては愚かな話だった。神の御前に自分の罪を認め、へりくだることによってのみ得られる神の救いは、知恵を誇り、行いを重んじる人々にとってはつまずきとなった。しかし、パウロは、人として産まれ、人として生き、人々からさげすまれ、すべての人の罪を背負い呪われた者となり、十字架につけられた神の子イエスを宣べ伝えた。死の力を打ち破られた神の子イエスを宣べ伝えた。私たちがまだ罪人だったとき、神であられるイエスはご自分のいのちをお捨てになられた。イエスのようにこころ砕かれた、優しく柔和な神を私たちは他に知らない。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」自分の業に疲れ切った私たちをイエスは招く。イエスは私たちの隣に座り優しく見つめ弱さを担っている私たちをどんなに愛しておられるか教える。罪人のためにご自身を差し出されたイエスの柔和でへりくだった御生涯から溢れ流れる愛を学べば学ぶほど、私たちのたましいは安らぎを得る。この安らぎを得てイエスとともにこの世に出ていき、イエスの福音を人々に伝えたい。
2026年9月6日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「福音の力」 使徒3:12
神は最初の人アダムとエバが神の命に背いて罪を犯し、その生涯を通して罪と死に縛られ、滅びに至るという運命を担ったときから、人を救い出すご計画をお持ちになられた。神はご自身がお創りになったものが誰一人として滅びることをのぞまない。人間でさえ家族を顧みる。私たちの創造者。つまり私たちが存在する原因であり理由であられる神が私たちにそそぐまなざしは、人の想像を超えて強い責任と愛に満ちたものだ。神は、救いの約束をアブラハムを祖とするイスラエルを通してすすめられた。イスラエルに遣わされた預言者、王たちは、一人の油注がれた人が起こされ、イスラエルを救い出し神の民として回復させる、そしてすべての国々に神の救いと回復が及ぶという希望に満ちた神の約束を預言した。神の民として選ばれたイスラエルは素晴らしい光栄を得た。しかしすべての人間が抱える弱さをイスラエルも抱えていた。その弱さのゆえに神に背き、イスラエルは国を失った。その間も王や預言者たちを通して語られた神のおことばは、イスラエルにとって決して消えることのない希望の光だった。イスラエルは神が約束された救いをもたらすメシアを待ち望んだ。神の時がついに訪れ、イエスはこの地にお生まれになった。ヨセフとマリアが律法に従い生まれて間もないイエスをエルサレムに連れて行ったとき、神殿にはメシアの誕生を待ち望んでいた老人シメオンがいた。シメオンは産まれて間もないイエスをその腕に抱き神を崇めた。シメオンはイエスによって神の救いが万人に及ぶこと、また、そのためにイエスが苦難を受けることを両親に告げた。罪のない神であられるイエスが私たちの罪を背負い、苦しみ、私たちの身代わりとなって十字架にかけられ神のさばきをお受けになられた。神はイエスをよみがえらせ、死の毒牙を抜き取り無力とされた。神は御子イエスによって永遠のいのちを私たちに与えられた。イエスによって成し遂げられた救いは、人が考え付かない栄光に満ちたものだ。全天全地をおさめる神が、私たちの父となられ、私たちを子と呼んでくださる。父は私たちを御旨に抱かれる。イエスとともに歩む人生は、ときに激しい嵐に見舞われるが父なる神は私たちを真の幸せへと導く。*(Ⅱコリント4:5-15)父なる神のおこころは、この福音が人々に伝えられていくことだ。福音は、私たちに新しいいのちを与え、人生を変えた。私たちが受けた同じ恵みを多くの人が受けることを神は願う。*(ヨハネ3:7-8)人が新しいいのちを得ることも、イエスの福音を語ることも聖霊の力でなされることが聖書に記されている。人が永遠のいのちを得ることは、父なる神の最も重要なビジョンだ。十字架にかかる前にイエスが神に懇願された祈りによって、父なる神とイエスと聖霊と私たちが一つにされますように。そして、私たちの周りに聖霊の力ある御業が行われていきますように。「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」(Ⅱ歴代16:9)
2026年9月13日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」箴言3章5-6節
箴言3章5〜6節は、「心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる」と語ります。「依り頼む」とは、自分の力で自分を支え続けるのではなく、神様が支えてくださることを信じて、自分自身を委ねていくことです。また「主を知れ」とは、単に知識として神を知るのではなく、自分の人生の中に主がおられることを認め、主を心に留めて歩むことだと受け取ることができます。
私たちは、問題に直面した時や将来を思い巡らす時、不安や恐れの中で、自分の知恵や力によって何とかしようとします。しかし聖書は、自分の悟りではなく、心を尽くして主に依り頼むよう招いています。それは職場、家庭、学校、教会、喜びや悲しみ、過去の痛みやこれからの不安を含む、人生のすべての場面においてです。
私自身、昨年、心身の調子を崩し、「主よ、なぜですか」と問いながら過ごしてきました。その中で、この御言葉が与えられました。苦しみの意味は分からなくても、その只中に主がおられることを認め、今すぐ答えが分からなくても、与えられた毎日を主とともに生きていこうと思わされました。そして休息と回復の中で、これまで「神様に信頼します」と言いながら、自分の力や努力に信頼して歩んできた自分にも気づかされました。自分に頼る歩みから、主に身を委ね、主に依り頼む歩みへと招かれているのだと思います。
私たちが主に身を委ねることができるのは、主が信頼に値するお方だからです。神様は御子イエス・キリストの十字架の犠牲を通して私たちへの愛を示してくださいました。キリストは人の経験するこの世界での苦しみをすべて知っておられます。死をも知っておられるのです。しかし主は、死をも打ち破り、復活され、今も生きてこの世界に、私たちの上に働いておられます。この主は私たちを守り、助け、導き、キリストの似姿へと造り変えてくださるお方です。人生の意味が分からず、先が見えない時にも、その只中に主を認め、愛と力に満ちた主に信頼し、安心して身を委ねて歩んでいきたいのです。
2026年9月6日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「細き声」へブル3:7‐8
神はご自分の子が真の喜びを得るように導かれる。そして、私たちの人生に介入されて、福音を運ぶ器としてご自身のためにお用いになられる。器である私たちは、ひび入り、欠けありの器だが、神の御手は欠損した器で力ある働きをなさる。神はどのようにして私たちの人生に介入されるのだろうか。福音の完成のために神はイスラエルを用いられた。
イスラエル国家の歩みに神が介入されておられることは、聖書におけるイスラエルの歴史と預言をみれば明らかだ。イスラエルへの神の介入は、まず一人の人の人生に対する神の語りかけから始まった。アブラハムは神のおことばを聞き、人生を通して神に従い、神とともに歩んだ。神はアブラハムを祝福し、アブラハムの子孫が敵の門を勝ち取り、彼の子孫によって地の全ての国々は祝福を受けると誓われた。エリヤは神の語りかけに従いバアルの預言者たち800人と対決した。バアルの預言者たちは習わしに従って自分たちの身体を傷つけ血を流してバアルに祈り求めたが応えはなかった。エリヤが主なる神に祈ると、神はご自身の栄光を現わされた。しかし、アハブ王と妻イゼベルは、神に立ち返るどころかエリヤのいのちを奪う誓いをたてた。イスラエルを神に立ち返らせることができなかったことにエリヤは苦しんだ。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」エリヤは神の語りかけに従い、神の御業を拝した。だが、いまエリヤは自身が思い描いていたとは異なる結果を受け入れられず、自分を責めている。神の御計画とエリヤの想いにはズレが生じていた。創り主である神の御計画よりも、創られた器である自分の熱い思いが優先されていた。つまずいたエリヤを神は慰め、いたわった。ホレブの山に着くとエリヤは細い声を聞いた。神はエリヤに語りかけ、バアルを恋い慕う者には懲らしめがあること。また、バアルを礼拝せず、主に従うイスラエルの民が7千人残されていることを告げる。神を捨てたイスラエルの状態は、国の存続が危ぶまれる状況にあった。しかし神はイスラエルを見捨てず、イスラエルを通してすべての民族を祝福するとアブラハムと交わされた契約の成就に向けて進まれていた。つまづき、神への信頼が薄れてしまったエリヤの目には、未来に成就される壮大な神の御計画が見えなくなっていたが、エリヤは神のおことばを受け、再び預言者として立ち上がった。神に従い通したエリヤの最期は「死」を見ずに神によって直接天に引き上げられるという光栄に満ちた最後だった。神は、ご自分の子に語りかける。その御声は大きな声ではない。細い声で静かに私たちに語りかけられる。私たちはそのお声を聞かなかったことにすることもできる。気が付かないふりをすることもできる。神の細い声を注意深く聞き、従い、自分の人生に神が介入されることを受け入れる者を神は恵み、神の救いの御計画のためにお用いになられる。神と想いを一つにされて歩む人生は、何にも勝って豊な人生だ。
2026年8月30日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「聖書の神さま」イザヤ42:4
亀岡亜希子著 絵本「どんぐりの木」から=どんぐりの木は本当は美味しいどんぐりを実らせる木だったのですが、最初に登場したリスに誤解されて、「まずくてかたい実をみのらせるどんぐりの木」と呼ばれるようになってしまいました。「にがくて かたい どんぐりやい にても やいても たべられん」と皆に冷やかされ、どんぐりの木はどんなに悲しかったことでしょう。「僕のどんぐりはまずいんだ…」と信じ込み、すっかり自信をなくしてしまいました。でも、ある日ほかのリスがやって来て、このどんぐりの木を自分のおうちにしました。一人ぼっちだったどんぐりの木は、リスが一緒にいてくれることが嬉しくて、それは、それはリスに親切にしてあげました。でも、もし、どんぐりの木が実をつけないということをリスが知ったら、リスは自分から離れてしまうかもしれない…とどんぐりの木は悲しくなりました。落ち込んでいるどんぐりの木にリスは言いました。「どんぐりを つけようが つけまいが わたしはあんたが すきなのよ」どんぐりの木が実をつけなくても、リスがどんぐりの木を好きな気持ちは変わりませんでした。どんぐりの木はどんなに嬉しかったことでしょう。実は聖書の神さまも、私たちが何か良いことをできるから愛してくださるのではありません。他の人よりもお勉強ができるとか、スポーツができるから、立派だからといって愛してくださるわけではありません。お金持ちだから、かっこいいから、可愛いからということで愛してくださるわけではありません。聖書には、こんなおことばがあります。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)イエスさまは私たちのうちにある悪い心、罪のために十字架にかかってくださいました。イエスさまが私たちの代わりに罰を受けてくださったのは、私たちが立派な人だからではなく、悪いことをしてしまう罪びとだったからです。神さまは、ありのままの私たちをもう既に愛していてくださっているのです。とてもうれしいですね。私たちは、どんぐりの木のように他のだれかと自分を比べて自分はだめだなぁと自信をなくすことがあるかもしれません。学校のテストで良い点数をとれなかったり、お友達とけんかしてしまったり、みんなと同じようにできないときがあるかもしれません。そんなとき、私たちは悲しい気持ちになったり悔しい気持ちになったりします。でも、神さまは私たちに「何ができても、できなくても、そんなことに関係なく、わたしはあなたを愛している。わたしはあなたとともにいて、あなたを捨てない」と約束してくださるお方なのです。そして、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と今日も語り続けてくださいます。
2026年8月23日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「イエスのおられるところに」ヨハネ17:24‐26
イエスと父なる神は父子の深い信頼関係で結ばれている。人も動物も親子の関係性は親密だ。誰から教えられたわけでもないが親は子を命がけで危険から守ろうとするし、子が傷つけられれば親も深く傷つく。御父と御子の間にある深い絆は人間の親子が持つ絆とは比較し得ない完全な愛の一致がある。イエスは、群衆やパリサイ人に対してご自分と父が一つであることを繰り返しお話しておられる。イエスは安息日に人々の病を癒し、罪を赦した。パリサイ人はイエスを憎み憤った。イエスは「子は父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」と、父なる神が人を上辺でさばかず、人の弱さに寄り添われるあわれみに満ちたお方であることを明らかにされた。また、ご自身を信じる者たちを羊にたとえると、父なる神から委ねられた羊たちがイエスにとっても何にも勝って大切であり、良い牧者であるイエスは羊のために自らいのちを捨てると語られた。そして、「わたしと父は一つです。」と御父とイエスの羊への想いが全く一致していることを告げた。この御子と御父の一致から、世界の基が据えられる前からともにおられた御子と御父のお互いへの深い愛と信頼がみえる。「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)「父のふところにおられる」という表現からは、御胸に抱かれたイエスが、御父の胸の鼓動を感じるように御父のおこころ深くを知り得たことを思わせる。イエスの祈りは、イエスと御父が一つであるように弟子たちもイエスの愛を知り、イエスと一つとなることを願う祈りであり、イエスを信じる者たちが御父と御子のように互いに一つになることを願う祈りだ。「父よ、わたしにくださったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。」イエスがおられるところとは、天の国でもこの世のことでもない。それは御父を愛するイエスが御父のおこころに従い、人のためにご自身を捨てて進まれた道のことだ。(ヨハネ12:23-32)イエスと御父の関係は主と奴隷のような冷たい関係ではない。いのちを通わせたこころの交流のある温かい父と子の関係だ。「愛」を御本質とされる御父は、ご自身が創造された人間が滅びゆくことを許さず人間を救われる御計画を立てられた。御子イエスは誰よりも御父の近くにおられ、御父の愛を深く知っておられた。そして、全被造物救済の御計画をともに担い、すべてを捨てて御旨に従い十字架に至るまで御父と一つだった。イエスを信じた人々は、御父が遣わされたイエスの十字架による犠牲によって、父なる神、御子の愛を知った。イエスはこれからも私たちに御父の愛を知らせる。御父と、イエスと、イエスを信じた者たちが一つとなるために。
2026年8月16日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「信仰のない者」詩篇33:16-19
神の人に対する愛とあわれみは聖書66巻を通して貫かれている。神は、人に捧げるご自身の愛が、ただ神からの一方通行であることを良しとされない。神は人がご自身に対する知識を深め、神さまの愛の広さ、高さ、深さを知り、神さまの愛に捕らえられて、神とともに手をつないで歩むことを求めておられる。聖書に記されているイスラエルの歴史は、背信の罪による堕落と、罪の結果からくる懲らしめと神に立ち返る民への救いが繰り返されている。このイスラエルの歴史は、ご自身に対するイスラエルの愛を神が求め続ける歴史と言い換えることができる。この神の永遠の愛は、イエスを信じて霊的にアブラハムの子孫とされた私たちにも同じく注がれている。イスラエルの罪の歴史は、私たちキリスト者の歩みと重ね合わせることができる。なぜなら、私たちの歩みも自分の欲望のままに、神以外のものに力を求め、自分の未来を神以外のものに委ねようとする誘惑に陥りやすい信仰の弱い者だからだ。士師記では、士師「さばきつかさ」が神から召し出され、神のおことばを伝えてイスラエルを導いた。しかし、士師たちも、民と同じように弱さをもつ者だった。士師として選ばれたギデオンは、勇敢とは言えない人物だった。しかし神は、ギデオンを選ばれた。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」主の使いがギデオンに現れて開口一番に言われたことばだ。ギデオンは大変臆病で、敵の攻撃に怯える日々に、神に対する信仰よりも現状の不満と不安を口走っている。そして、自分がさばきつかさに選ばれたことを知らされると、そんな資質は自分にはないとおびえた。それでも主は、ギデオンとともにいてギデオンを通してイスラエルを救うと告げた。すると、ギデオンはしるしを求めた。主の使いのために食事を用意し御前に供えるまで待っていて欲しいと申し出た。調理するだけのお肉がいつも保存されているわけではない。子ヤギをさばくところから始め、火をおこし煮炊きするのは時間がかかる。しかし主はギデオンの要望通り待たれた。主の使いを見たことで死ぬのではないかと怯えるギデオンに「安心せよ。恐れるな。あなたは死なない。」と御声をかけられた。ギデオンは周囲の国々と戦うとき。イスラエルを救い出せるか確認するために、神に二度しるしを求めた。神はギデオンの願いにこたえてしるしを与えられた。兵士が集まると、神は兵士の数を三万から三百に減らすように命じた。その理由は、イスラエルが自分の力で勝ったと誇らせないためだった。敵の軍勢は他民族の連合軍。その数はいなごの大群のように大勢だった。ギデオンたちはたったの300人で立ち向かわなければならなかった。しかし、神はこの時も、ギデオンに勝利の確証を与えた。(士師記7:9-15)神の愛に背いて不信仰を重ねたイスラエルも、イスラエルを神に立ち返らせるために召されたさばきつかさも、信仰は弱かった。しかし、神は強いものをご自身の御計画を成し遂げるために選ばなかった。それは人の弱さを通してだけ神の栄光が現わされるためだ。
2026年8月9日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「神を知る」ホセア6:3
イエスの願いは、父、御子、人が「一つになる」ことだ。それは、人と人が一つになるためである。罪の性質を持つ私たちは、人を真に愛することや、想い計ることができない。そのため「一つになる」ことは難しい。しかし、父なる神と御子イエスは「一つになる」という戒めを人に与えられた。旧約での戒めで、最も大切な戒めは何かと律法学者から尋ねられたとき、イエスは「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」また「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」この二つの戒めであると答えられた。隣人を愛する以前に、まず心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして神を愛することが最も重要とされている。私たちは相手の人格を知ったうえで初めて相手を深く愛することができるようになる。あるときイエスはパリサイ人の家で食卓についておられた。そこに一人の罪深い女性がやってきた。女性は律法を厳格に守るパリサイ人の目を恐れることもなく、パリサイ人の家に入り、ひざまづくと泣きながら最上のささげものでイエスへの愛を現した。イエスは女性をご覧になり、「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。」そして、「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言された。この女性は罪の泥沼にはまった自分と向き合い、神のおこころを語られる慈愛に満ちたイエスに出会った。この女性はイエスを知り、心からイエスを愛した。イエスを、父なる神を知ることは弱い私たちを無条件で愛する神を知ることだ。聖書は、神を知るということが人にとってこれ以上にない恵みであることを伝えている。また、人が神を知り、神を愛し、神と想いを一つにされることを望んでおられることも伝えている。(ホセア6:4-6)ホセアが預言者として活動したとき、イスラエルはアッシリア帝国によって滅ぼされる寸前だった。それは、神に背き続けたイスラエルへの神の懲らしめだった。ご自身を裏切るイスラエルへの思いを神は預言者ホセアを通して語られた。(ホセア11:1-8)「イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか…わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」神はご自身に背き続けるイスラエルにさばきを宣告するとともに、背き続けるイスラエルをどんなに愛しておられるか、ホセアを通してお伝えになられた。神はイスラエルが悔い改めてご自身に立ち返ることを促し、イスラエルを赦し、喜びをもって彼らを愛すること、また彼らが神の民として回復することを伝えられた。「主を知ることを切に追い求めよう」神を知ることは、他では得られない幸せで私たちを満たす。神を知ることと、自分の罪を知ることは表裏一体なのかもしれない。神のおこころを求め続ける者は与えられ、探し続ける者は見出し、たたき続ける者には開かれる。このイエスのおことばの通りに、父なる神はこどもたちに良いものを与えようと待っておられ、熱心に父を探すこどもたちに見いだされるのを待っておられる。
2026年8月2日 聖協団目黒教会 牧師 馬上真輝
「わたしについて来なさい」マルコの福音書1章16~20節
イエス様が宣教を始めて最初になさったことは、ご自分に従う弟子を呼び出すことでした。神の国の働きは、イエス様が人をご自分のもとへ招き、その働きに加えられることから始まります。イエス様はガリラヤ湖のほとりで、漁をしていたシモンとアンデレをご覧になりました。二人がいたのは礼拝の場ではなく、いつもの仕事をしている日常の場所でした。イエス様は私たちのことも、教会にいるときだけでなく、職場や学校、家庭など、毎日の生活の中でご覧になっています。イエス様は二人に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言われました。「わたしについて来なさい」とは、イエス様を人生の中心とし、主としてその後ろを歩くことです。また、「してあげよう」という言葉の主語はイエス様です。弟子が自分の力で立派になり、神様の働きにふさわしい者になるのではありません。イエス様について行く中で、イエス様ご自身が私たちを造り変え、救いへと人々を導く働きに加えてくださるのです。シモンとアンデレは、すぐに網を残してイエス様に従いました。それは仕事を永久に捨てたというより、人生の中心が変わったということです。それまで漁を中心に回っていた人生が、イエス様を主人として歩む人生へと変えられました。ヤコブとヨハネもまた、網を繕う日常の中でイエス様に呼ばれ、すぐに従いました。弟子となることは、人間の熱意や志願から始まるのではなく、イエス様が先に私たちを見つけ、呼んでくださることから始まります。「わたしについて来なさい」という言葉は、二千年前の弟子たちだけに向けられたものではありません。今日もイエス様は、私たちをそれぞれの置かれた場所で弟子として生きるよう招いておられます。会社、家庭、学校、地域、教会など、仕える場所や働き方は一人ひとり違います。しかし大切なのは、どこにいるかではなく、誰について歩くかです。自分の思いや世の価値観ではなく、イエス様の後ろを歩くことが弟子の姿です。私たちは、自分には信仰も力も知識も足りないと思うかもしれません。しかしイエス様は、立派になってから来なさいとは言われません。「ついて来なさい。わたしがあなたを造る」と約束してくださいます。イエス様が私たちを少しずつ造り変え、それぞれの場所でキリストを証しする者として用いてくださるのです。このイエス様の招きに信頼して、イエス様の後ろを歩んでいきましょう。
2026年7月26日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「一つになる」ヨハネ17:20‐23
聖書に表わされている神の御本質には、一点の罪、汚れをも赦さず、さばきを与えずにはおられない「聖」きよさや、悪や不正を憎まれる「義」である。旧約聖書では、人々が神のきよさと義に畏れおののく姿が記されている。神のきよさ、権威、威光の前に罪をもった人間が近寄ることは許されない。しかし、それと同時に誰も解決を与えることが出来ない人の罪、汚れ、悪を覆う完全な神の「愛」が旧約聖書、新約聖書を通じて表わされている。神の御本質のなかで、最も中心となる御本質は「愛」である。神は一人子イエスをこの世に遣わされた。イエスと父なる神は一つだった。イエスのおことばと行いは慈愛と真理に満ちておられた。誰もまだ見たことのない神を御子イエスが現わされた。御子イエスは、父なる神を愛し、十字架の死に至るまで父に従順だった。十字架による身代わりの犠牲は、すべての被造物を永遠の滅びから贖った。この救いは「愛」を御本質とされる父なる神と御子イエスがおこころを一つとされて成し遂げられた。イエスは、悪が支配するこの世を生きる、愛する弟子たちと、弟子たちの宣教によってイエスを信じるまだ見ぬ弟子たちのために父に祈られた。イエスが弟子たちのためにおこころを注ぎだして神に懇願して祈る祈りは、イエスを愛するキリスト者が歩むべき道を指し示す。イエスはご自身と父が信頼と愛で固く一つとされているように、私たちキリスト者同士が互いに兄弟愛でしっかりと結び合わされ一つとなるように祈られた。イエスは私たちのうちに住まわれる。この私たちのうちに住まわれるお方との交わりが私たちキリスト者を一つとする。キリスト者の一致が私たちの心を満ちたらせるだけでなく、私たちがともにイエスをほめたたえ、互いの痛みを分かち合い祈り合う姿、また、互いに神の御前にへりくだり仕え合う姿は、自分だけのために生きる殺伐としたこの世に光を放ち、私たちの集いの中に神がともにおられることを知らせることになる。世の人々は、神の愛のぬくもりや力ある御手の業を真理を求めているはずだ。「キリスト教は口先だけの宗教」と、ある人から言われたことばが30年以上たっても私の記憶から消えない。その当時の私も、口先では神の愛を語る一方、他の人を見下すパリサイ人のようなおごり高ぶったキリスト者だった。自分自身も、聖書に書いてある素晴らしい道徳的な戒めが「絵にかいた餅」であることにもどかしさを覚えていた。しかし、今は、聖書に書かれていることが「絵にかいた餅」ではなく、私たちに真の豊かさと喜びを与えてくれるものであると知った。それは決して自分の力によって克服して得るものではなく、ただただ神の愛、イエスの愛を知ることによってもたらされる神の力、神の恵みだ。「すべての人を一つに」というイエスの祈りがどうぞ私たちの中に成就されますように。
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