イエスがこの地に誕生されたことによって、世界を覆う闇は切り裂かれた。イエスは神の国を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された。イエスの弟子達を通して宣教と癒し、また悪霊を退ける数々の奇跡がおこされた。弟子たちは、イエスの御名を用いると悪霊でさえ自分たちに服従するのを体験し、驚きと喜びに満たされた。彼らはイエスに出会う以前は、飼い主のいない羊のようだった。イエスの御口から発せられるおことばは、真理を追い求め義に飢え乾く彼らのこころを潤した。イエスのいつくしみ深いまなざしは彼らにやすらぎを与えた。イエスが行われる力ある御業を見てイエスがメシアであられることを彼らは知った。幼子のようにイエスを信頼する人々が、神の支配に属する人々とされたこと。また、彼らが悪の支配を打ち破り、神の御支配される領域が拡大されて行くという偉大な御業の一部とされたことをご覧になったイエスもまた、聖霊によって喜びで満たされ神をほめたたえた。幼子のようにイエスを信じる人々の人生は神の御業をともに担うダイナミックな人生を歩む。誉と光栄に満ちた人生だ。一方「知恵ある者、賢い人」は、自分の経験や思考からの知恵を基準にして頼みにしている人のことだ。どんなに学識を深めても人の知恵によってイエスを知ることはできないとパウロは述べている。(Ⅰコリント1:18-25)イスラエルの指導者たちは律法を守ることによって神に認められる「義」に到達できると考えた。また、パウロが死者の復活について語ると、異邦人はあざ笑った。福音は、知識人や哲学を論じる人々にとっては愚かな話だった。神の御前に自分の罪を認め、へりくだることによってのみ得られる神の救いは、知恵を誇り、行いを重んじる人々にとってはつまずきとなった。しかし、パウロは、人として産まれ、人として生き、人々からさげすまれ、すべての人の罪を背負い呪われた者となり、十字架につけられた神の子イエスを宣べ伝えた。死の力を打ち破られた神の子イエスを宣べ伝えた。私たちがまだ罪人だったとき、神であられるイエスはご自分のいのちをお捨てになられた。イエスのようにこころ砕かれた、優しく柔和な神を私たちは他に知らない。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」自分の業に疲れ切った私たちをイエスは招く。イエスは私たちの隣に座り優しく見つめ弱さを担っている私たちをどんなに愛しておられるか教える。罪人のためにご自身を差し出されたイエスの柔和でへりくだった御生涯から溢れ流れる愛を学べば学ぶほど、私たちのたましいは安らぎを得る。この安らぎを得てイエスとともにこの世に出ていき、イエスの福音を人々に伝えたい。