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2026年8月2日 聖協団目黒教会 牧師 馬上真輝
「わたしについて来なさい」マルコの福音書1章16~20節
イエス様が宣教を始めて最初になさったことは、ご自分に従う弟子を呼び出すことでした。神の国の働きは、イエス様が人をご自分のもとへ招き、その働きに加えられることから始まります。イエス様はガリラヤ湖のほとりで、漁をしていたシモンとアンデレをご覧になりました。二人がいたのは礼拝の場ではなく、いつもの仕事をしている日常の場所でした。イエス様は私たちのことも、教会にいるときだけでなく、職場や学校、家庭など、毎日の生活の中でご覧になっています。イエス様は二人に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言われました。「わたしについて来なさい」とは、イエス様を人生の中心とし、主としてその後ろを歩くことです。また、「してあげよう」という言葉の主語はイエス様です。弟子が自分の力で立派になり、神様の働きにふさわしい者になるのではありません。イエス様について行く中で、イエス様ご自身が私たちを造り変え、救いへと人々を導く働きに加えてくださるのです。シモンとアンデレは、すぐに網を残してイエス様に従いました。それは仕事を永久に捨てたというより、人生の中心が変わったということです。それまで漁を中心に回っていた人生が、イエス様を主人として歩む人生へと変えられました。ヤコブとヨハネもまた、網を繕う日常の中でイエス様に呼ばれ、すぐに従いました。弟子となることは、人間の熱意や志願から始まるのではなく、イエス様が先に私たちを見つけ、呼んでくださることから始まります。「わたしについて来なさい」という言葉は、二千年前の弟子たちだけに向けられたものではありません。今日もイエス様は、私たちをそれぞれの置かれた場所で弟子として生きるよう招いておられます。会社、家庭、学校、地域、教会など、仕える場所や働き方は一人ひとり違います。しかし大切なのは、どこにいるかではなく、誰について歩くかです。自分の思いや世の価値観ではなく、イエス様の後ろを歩くことが弟子の姿です。私たちは、自分には信仰も力も知識も足りないと思うかもしれません。しかしイエス様は、立派になってから来なさいとは言われません。「ついて来なさい。わたしがあなたを造る」と約束してくださいます。イエス様が私たちを少しずつ造り変え、それぞれの場所でキリストを証しする者として用いてくださるのです。このイエス様の招きに信頼して、イエス様の後ろを歩んでいきましょう。
2026年7月26日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「一つになる」ヨハネ17:20‐23
聖書に表わされている神の御本質には、一点の罪、汚れをも赦さず、さばきを与えずにはおられない「聖」きよさや、悪や不正を憎まれる「義」である。旧約聖書では、人々が神のきよさと義に畏れおののく姿が記されている。神のきよさ、権威、威光の前に罪をもった人間が近寄ることは許されない。しかし、それと同時に誰も解決を与えることが出来ない人の罪、汚れ、悪を覆う完全な神の「愛」が旧約聖書、新約聖書を通じて表わされている。神の御本質のなかで、最も中心となる御本質は「愛」である。神は一人子イエスをこの世に遣わされた。イエスと父なる神は一つだった。イエスのおことばと行いは慈愛と真理に満ちておられた。誰もまだ見たことのない神を御子イエスが現わされた。御子イエスは、父なる神を愛し、十字架の死に至るまで父に従順だった。十字架による身代わりの犠牲は、すべての被造物を永遠の滅びから贖った。この救いは「愛」を御本質とされる父なる神と御子イエスがおこころを一つとされて成し遂げられた。イエスは、悪が支配するこの世を生きる、愛する弟子たちと、弟子たちの宣教によってイエスを信じるまだ見ぬ弟子たちのために父に祈られた。イエスが弟子たちのためにおこころを注ぎだして神に懇願して祈る祈りは、イエスを愛するキリスト者が歩むべき道を指し示す。イエスはご自身と父が信頼と愛で固く一つとされているように、私たちキリスト者同士が互いに兄弟愛でしっかりと結び合わされ一つとなるように祈られた。イエスは私たちのうちに住まわれる。この私たちのうちに住まわれるお方との交わりが私たちキリスト者を一つとする。キリスト者の一致が私たちの心を満ちたらせるだけでなく、私たちがともにイエスをほめたたえ、互いの痛みを分かち合い祈り合う姿、また、互いに神の御前にへりくだり仕え合う姿は、自分だけのために生きる殺伐としたこの世に光を放ち、私たちの集いの中に神がともにおられることを知らせることになる。世の人々は、神の愛のぬくもりや力ある御手の業を真理を求めているはずだ。「キリスト教は口先だけの宗教」と、ある人から言われたことばが30年以上たっても私の記憶から消えない。その当時の私も、口先では神の愛を語る一方、他の人を見下すパリサイ人のようなおごり高ぶったキリスト者だった。自分自身も、聖書に書いてある素晴らしい道徳的な戒めが「絵にかいた餅」であることにもどかしさを覚えていた。しかし、今は、聖書に書かれていることが「絵にかいた餅」ではなく、私たちに真の豊かさと喜びを与えてくれるものであると知った。それは決して自分の力によって克服して得るものではなく、ただただ神の愛、イエスの愛を知ることによってもたらされる神の力、神の恵みだ。「すべての人を一つに」というイエスの祈りがどうぞ私たちの中に成就されますように。
2026年7月19日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「主がご入用なのです」ルカ19:28‐40
ロバは、イスラエルの人々の大切な労働力だった。ロバは、中東全域に広がる乾燥した過酷な環境のなかでも生き抜く力がある。栄養の少ない草木から、効率的に栄養を吸収する消化器官を持っていて、数日間水を飲まなくても活動できる。硬くて丈夫な蹄をもち、足場が悪い場所を安全に歩く。体は丈夫で体重の20%の荷物を負って運ぶことができる力持ち。性格は穏やかで忍耐強く、人に慣れ、危険を感じると安全が確認できるまでは動かないという慎重で利口な面を持つ。まるで荒れ地で労働するために創られたような動物だ。ネヘミヤ記には、エルサレムに帰還した民の数とともにロバの数も記されている。ラクダ400頭に対し、ロバは6千頭とあるから、イスラエルの民にとってロバが有用な家畜であったことが分かる。ロバは馬のように人を乗せて勇ましく戦地を走り抜けることはできない。羊や牛のように聖なるものとして神に捧げられることもない。労働力として黙々と人のために働き生涯を終える。エレミヤ書にはユダ王国の悪王エホヤキムに対して神のさばきによる最期が預言された。「彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ロバが埋められるように埋められる。」(エレミヤ22:19)悪王の亡骸に対する無情な扱いに並べて死んだロバが埋められる状況が記されている。そのようなロバをイエスはエルサレムに入場される大事な場面で用いられた。イエスは、エルサレムでご自分が民の身代わりとなり、十字架にかかることをすでに覚悟しておられた。イエスはご自分のいのちを人々に与え尽くすためにエルサレムに上って行こうとされていた。神でありながら、ご自身を何ものよりも低くされ、人に仕え、人との平和を実現された柔和なイエスは見栄えの良い馬ではなく、地味で無骨で黙々と荷物を運び労働力として使われたロバを選ばれた。しかも、まだ人を乗せたことのないロバの子を召し出された。「主がお入り用なのです」というおことばの通りに、主の用のために召された者は、その人の性質がどのようなものであろうとも、主が責任をもってご自身の用を成し遂げられる。イエスが召し出されたロバの子は、人を背中に乗せるのは初めてだった。イエスをお乗せした歩みはたどたどしい歩みだったことだろう。イエスは御顔を真っすぐに向けてエルサレムに入場された。ご自身にとって最重要課題である十字架に取り組むために。イエスは、歩みのたどたどしいロバの子を御指名で召し出された。イエスは、ロバに乗って入場されることを恥とされない。イエスを背中に乗せて一心に歩むロバには「世の救いの計画の一端をわたしとともに担ってくれないか」というイエスの御声が聞こえていたのかもしれない。
2026年7月12日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「聖別」ヨハネ17:13-19
「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」イエスは父なる神への祈りの中でイエスを信じた弟子達が、この世と一線を隔した人達であることを明らかにしている。彼らはこの世と同じものさしで幸せを計る者ではない。目に見えない神の国を目指して生きる者とされ、罪と死に縛られた人々を解放する偉大な神の力ある業、神の支配を地上で目の当たりに体験する。弟子たちはこの神の支配を拡大させるために召された。「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」イエスの召命から逃避するのではなく、弟子達が神の御手に守られつつ神の御計画のために用いられるように願っておられる。イエスを信じた人々は、イエスが地に遣わされたのと同じようにこの世に遣わされる使命を帯びている。神の御計画に用いられるために、弟子たちが真理によって聖別されることをイエスは祈られる。真理によってとイエスが言われるからには、聖別は人の側の修行によって得られるものではない。神のおことばは真理である。聖書における真理の源泉は神にある。聖書における真理は神の御本質である愛に基づいている。聖書66巻に現わされているのは、アブラハム、イサク、ヤコブと交わされた全ての民を祝福する御契約を、契約を守ることができない人の不真実によって無効とすることはなかった神の諦めない愛だ。神の国の約束が成就するまで神の御契約は有効だ。神の愛に基づく真理は、人をこの世から聖別する。神の愛は究極的に御子イエスの十字架による犠牲として現わされた。イエスはご自身を神の聖なる用にあてるために捧げられた。イエスはゲッセマネの園で悲しみのあまりもだえ苦しみながらこの杯を去らせてくださいと、父なる神に三度も祈られた。ご自分を神の聖なる用にあてるために激しい苦しみを受けられるイエスのこころのうちには父なる神への信頼と深い愛と一致があった。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのためにいのちを捨てます。~わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:14‐18)父なる神への愛と信頼。そして、ご自身により頼む者への愛が、イエスを聖別へと至らせた。イエスを信じる者達も真理である神の愛を知り、イエスの愛を知るときに自身を神の聖なる用のために捧げる。私たちを愛する父のために、私たちを愛して身代わりとなられたイエスのために、神が永遠のいのちを与えようと御手を差し伸べる私たちの隣人のために。
2026年7月5日 基督聖協団目黒教会 牧師補佐 馬上真輝
「神の国が近づいた」マルコの福音書1章14~15節
イエス様が公生涯を始められたのは、バプテスマのヨハネが捕らえられた頃でした。人間の目には決して順風満帆とは言えない状況です。しかし、そのような中でイエス様はガリラヤへ行き、「神の福音」を宣べ伝え始められました。ガリラヤは宗教の中心地ではなく、異邦人も多く住む地方でした。それでもイエス様はそこで宣教を開始されます。「宣べ伝える」とは、王の使者が王の言葉を権威をもって告げ知らせることです。イエス様はご自身の考えではなく、父なる神から託された救いの知らせを宣言されたのです。その第一声が、「時が満ち、神の国が近づいた。」でした。「時が満ち」とは、神様が救いのために定めておられた決定的な時が到来したということです。人が罪に陥った時から神様は救い主を約束し、長い歴史を通してその約束を備えてこられました。その救いの時が、イエス様によって始まったのです。そして、その時に起こった出来事が「神の国が近づいた」ということでした。神の国とは天国という場所ではなく、神様が王として支配されることです。私たちは神の国を、争いや悲しみのない完成された世界として思い描きます。しかしイエス様は、その完成を待って初めて神の国が来るとは言われませんでした。ヨハネは捕らえられ、ローマの支配も続き、現実は何も変わらないように見える中で、それでも「神の国が近づいた」と宣言されたのです。それは、神様の支配がイエス様ご自身を通して、この世界に入り始めたからでした。だからこそイエス様は、「悔い改めて福音を信じなさい」と招かれます。悔い改めとは、単なる反省ではなく、自分中心の歩みから神様へと方向転換することです。また、福音を信じるとは、頭で理解するだけではなく、自分自身を福音に委ねることです。私たちは神の国を十分理解しているわけではありません。当時の人々も、自分たちの期待を超える神様のご計画を知りませんでした。しかし、それでもイエス様は「福音を信じなさい」と言われます。理解してから信じるのではなく、イエス様の宣言に信頼して歩み始めることが信仰なのです。神の国はまだ完成していません。しかし、イエス様によってすでに近づいています。だから私たちは遠い未来だけを待つのではなく、今ここで働いておられる神様に信頼して歩むことができます。神の国が遠く感じる日があっても、イエス様は「神の国が近づいた」と宣言されました。その御言葉に信頼し、神様に心を向け、福音に身を委ねて歩んでいきましょう。
2026年6月28日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「終わりまでともに」創世記28:15
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」神がリベカに告げたことばの通り、長子ではなく、弟が神に用いられる運命を辿る。兄エサウは神の祝福を得る長子の権利に無頓着だった。空腹だったエサウは食事と引き換えに弟ヤコブに長子の権利を売った。父イサクは老いのため目が見えなくなっていた。母リベカとヤコブは目が見えないイサクを騙し、エサウから長子の祝福を奪った。エサウはヤコブを殺そうと企てた。ヤコブがエサウから逃げる道のりで神は彼に現れ仰せられた。ヤコブの子孫は増え広がり、地の全ての民はヤコブの子孫によって祝福を受けること、また、ヤコブがどこに行っても守り、約束したことが成し遂げられるまで決してヤコブを捨てないと。神に選ばれたヤコブの人生は神のみこころのままに導かれて行く。たどり着いた叔父ラバンの家で、ヤコブは叔父に仕えた。ラバンは、ヤコブに対して誠実ではなく、ヤコブの労働に対する報酬を幾度も変えてヤコブを悩ませた。しかし神がともにおられたのでヤコブは財を成した。神はヤコブに故郷に帰るよう命じられた。兄エサウと対峙することにヤコブは恐れもがき祈った。神は自らヤコブに近づき格闘し、ヤコブに語り祝福した。ヤコブの恐れは消え、「わたしはあなたとともにいる」という神の約束がヤコブを捕らえていた。ヤコブは自ら家族の先頭に立ち兄に近づくまでに7回地にひれ伏した。エサウは走って来て彼を抱きしめ、二人は泣き、兄弟の和解がなされた。ヤコブの人生には、悲しみや苦しみが続いた。どの妻よりも愛していた妻ラケルを末の子ベニヤミンの出産のときに亡くした。最愛の子ヨセフを野獣に殺されたと知らされ、最愛の子を失った痛みを抱え続けて生きた。しかし、時が流れヨセフがエジプトで生きていて、エジプト全土を治めていることを知らされた。エジプトに下ることになったヤコブに神は幻の中で「ヤコブ、ヤコブ」と彼の名を呼び仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」ヤコブはエジプトの地で17年生きた。エサウから逃げて、一人石を枕に野宿したときに神がヤコブに与えてくださった約束が破られることはなかった。ラバンのもとに身を寄せたときも、エサウと和解するときも、ラケルを、ヨセフを失った時も神はヤコブとともにおられた。そして、天のゴールに帰るまで神は彼を見捨てることはなかった。神に選ばれたヤコブの人生は、神の御旨のままに指導を受け、神おひとりにより頼む確かさを知り、神の御計画のために大きく用いられた人生だった。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫からイスラエル民族が増え広がり、神の全被造物を贖う御計画を成し遂げられるメシアがイスラエルから誕生した。
2026年6月21日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「イエスのよろこび」ヨハネ17:13‐16
真理を示すイエスのおことばが人に与える喜びは、この世がもたらすレベルの喜びではない。真理であるイエスのおことばはイエスのうちにある喜びと同じ喜びを人の内に満ち溢れさせる。イエスの喜び、神に属する喜びを思うとき、宮沢賢治が記した「雨ニモマケズ」の詩が思い起こされた。ある寺院のホームページに「雨ニモマケズ」」について記事が掲載されていた。『この詩にはモデルとなる人物があったとされる。内村鑑三の無教会主義キリスト教の信者で、斎藤宗次郎が、その人だ。宗次郎は花巻の人である。地元の小学校の教師をしていたが、キリスト教徒であることを理由に、学校を追われた。学校を辞めた宗次郎は、新聞販売を兼ねる書店を経営し、内村流のキリスト教の伝道を志した。自ら新聞の配達に精を出す。朝三時に起き、雨の日も風の日も、大風呂敷を背負って走った。配達をしながら、10歩走っては神に感謝し、また10歩走っては神を賛美した。配達や集金の際には病人を見舞い、子どもたちには菓子を分け、貧困の者には小銭を与えた。出会った人々の悩みに耳を傾け、土地の人たちに慕われた。その後、繁盛する新聞販売店を畳んで東京に出、百姓をしながら内村の伝道に従った。』(三井寺ホームページより抜粋)斎藤宗次郎師が歩んだ信仰者としての道は時代的に大変険しいものだった。宗次郎師の8歳になる娘の愛子さんはヤソの娘と腹部を打たれ、それが原因で腹膜炎をおこし天に召された。愛子さんは幼いながら信仰をもち、天国を夢にみつつ旅立った。子を失った宗次郎師の苦しみをはかり知ることはできない。この試練のなかで宗次郎師と神の間で交わされた格闘のような祈りと、祈りの中で聞いた神の細い御声が宗次郎師を目には見えない神だけにより頼み、天の御国に帰るという揺るがない希望をもつ信仰の人にしたであろう。自分を無にするこの詩の人物像はイエスのお姿に重なる。欲に縛られず、妬み、怒り、憎しみに支配されないこころ、人の弱さに寄り添い、人をゆるすことができるこころ。何にもしばられないこのようなこころの状態こそ真の自由としあわせを得た状態だ。イエスの喜び、それは、罪に縛られた人の弱さに寄り添い、深くあわれみ、ご自分を十字架につける者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と祈られた何にも縛られない人を愛する喜びではないだろうか。「雨ニモマケズ」の詩からイエスを信じた宗次郎師のうちにはイエスと同じ喜びが満ち溢れていたことが見える。イエスを信じたものたちが、イエスの喜びに満ち溢れ、真の満ち足りた幸せを得、その人々を通して父なる神が栄光をお受けになることを神は願い、定めておられる。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」私たちの弱さに関わらず、聖霊は私たちを用いて神の栄光を現わしてくださる。
2026年6月14日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「人生のゴール」へブル11:8‐16
スポーツの世界において競技者たちはゴールに到達するための鍛錬を重ね、業を磨いてゴールに向かって進む。到達するべき場所をしっかり把握できていることはゴールにたどり着くまでの歩みを無駄のない確かなものにする。私たちがこの世に生み出されてから死を迎えるまで歩み続ける人生という長い旅路。この道のりを確かなものとするためにゴールを把握している必要がある。私たちの創造者である神は聖書を通して人が目指すべきゴールを示しておられる。アブラハムは神の約束された土地に行き、他国人のように住んだ。アブラハムもその妻サラも高齢で子供をもうける望みはなかったが、神はアブラハムに子を与えることを約束された。アブラハムは神を信じた。神は何ものよりも神ご自身に依り頼むアブラハムの信仰を喜ばれ、アブラハムを義と認められた。神は約束の通り死んだも同然のアブラハムにイサクを与え、アブラハムの信仰から海辺の砂のように数多くのイスラエルの子孫が生まれ現在に至っている。神はご自身を信頼して歩む人々を用いて、ご自身の御計画をおすすめになる。信仰者の地上での歩みには、神のおことばを信じ抜く戦いが付きまとった。生活の不安、健康の不安、災害、迫害、戦争など深刻な不安と恐れがあった。そして、神ではなく富や自分の策により頼む誘惑があった。彼らは決して完全な者ではなかった。人間の弱さを持ち、失敗も犯した。しかし、神の約束は彼らの弱さに妨げられることはなかった。アブラハムに約束した通り彼の子孫であるイスラエルを通してすべての民族が祝福を受けるという神の御計画が成就された。この地での戦いに苦戦し失敗を犯しながらも彼らは神の御前にへりくだり、愛する父なる神のもとに帰ること、天の故郷を慕い求めた。彼らの望みはこの地上の事ではなく、父なる神のもとに帰ることだった。厳しい信仰の戦いを生きる私たちもしっかりとゴールを把握していなければならない。(へブル12:1-3)へブル書の著者は信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。と教える。悪魔の試みのとき、イエスはご自分に死んで父なる神の御こころに従うか、自分が生きる策をとるか激しい戦いの中にあった。その戦いは神の子として究極的な戦いであった。孤独な戦いのさなか、御使いがイエスに仕えた。イエスの悩みを理解し、孤独に寄り添える者はこの世には存在しなかっただろう。ゲッセマネの園ではイエスが激しく悩み苦しまれる様子がさらにはっきりと記されている。へブル書の著者はイエスがこの激しい御苦しみを乗り越えられた理由を示す。イエスは父なる神の御計画を成し遂げて天に帰り、愛する父なる神の右の座に座ることを大変な喜び、望みとしておられた。この望みがイエスを十字架に進ませ苦しみを乗り越えさせた。イエスこそ私たちの前におかれた信仰の戦いの厳しさ、孤独を知りあわれんでくださるお方だ。イエスとともに神の国を目指して歩んで行こう。
2026年6月7日 基督聖教団目黒教会 牧師 馬上真輝
「荒野にも及ぶ神の御手」マルコの福音書1章12~13節
イエス様はバプテスマを受けられた直後、「すぐに」御霊によって荒野へ追いやられました。天が裂け、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という父なる神様の愛の宣言を受けたその直後に、イエス様は人気もなく、食料や水も乏しい過酷な荒野へ送り出されたのです。ここには、救い主であると同時に苦難のしもべでもあるイエス様の姿が表されています。マルコは、マタイやルカが「導かれた」と記すところを、「追いやられた」と記します。御霊はイエス様を力強く試練の場へ押し出されました。荒野は、人が生きるのに厳しい場所であるだけでなく、試練の場であり、頼るもののない場所であり、神と出会う場所でもあります。イエス様はそこで40日間、サタンの試みを受けられました。この40日という期間は、荒野で40年間を過ごしたイスラエルの民を思い起こさせます。神の民として選ばれながらも神を信頼しきれなかったイスラエルに対し、イエス様は完全な信頼と従順を示されました。イエス様は真のイスラエルとして、神への忠実さを示されたのです。マルコは誘惑の内容を書きません。その代わりに、「イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた」と記します。荒野には危険な野獣がいました。しかし同時に御使いもいました。この異質な光景は、どれほど厳しい場所であっても、神の御手が届かない場所はないことを示しています。
私たちも人生で荒野を経験します。苦しみや不安、孤独の中で、神様が遠く感じられることがあります。しかし、神様は私たちが神様を感じられないときにも、そこにおられます。神様は私たちの存在に先立っておられるお方だからです。荒野においても神様は私たちを忘れてはおられません。
この箇所は、荒野にも神の支配が及んでいることを教えています。イエス様が通られた荒野は神の支配の外ではありませんでした。同じように、私たちの人生の荒野も神の支配の外ではありません。神様は荒野においても私たちを守り、そして荒野にも目的を持っておられます。荒野は神様の御手が届かない場所ではなく、むしろ神様と出会い直す場所なのです。そして何より、イエス様ご自身が私たちに先立って荒野を通られました。だから私たちは、自分の人生の荒野の中にあっても、神様の御手を信頼することができるのです。神様の御手は、荒野にさえ及びます。
2026年5月31日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「御名によって」ヨハネ17:9‐13
イエスは、「わたしにくださったあなたの御名によって彼らをお守りください。」と弟子たちの守りを祈られた。イエスが言われる神の御名。という表現は単に他との区別を与えるための名としてイエスさまは使われた訳ではない。私たちは名前があることによって、他の誰でもない個人であることが明確にされる。そして、自分と相手の関係が、友人、親族、家族など特別な間柄になると、名前はその人の性格や相手との関係性なども含めて思い起こさせ、名前はその人の性質を現わすものとなる。イエスにとっての父の御名は父なる神の御性質を指し示している。旧約聖書では、父なる神がご自分の「御名」についてイスラエルに明らかにされた。わたしは「わたしはある」という御名には神が永遠に存在されるお方であり、昔も今も決して変わることのない圧倒的で絶対的な権威と力を持って支配されるお方であることを現す。(出3:12-15)神はイスラエル(ご自身が選ばれた者)と契約を結び、契約を堅く守り、必ず成就させるかたであるとことを「主」という名で明らかにされた。(出6:2-8)イエスはご自分がいなくなって後も、絶対的な権威をもち、選ばれた者に真実を尽くし約束を必ず成就される父なる神の御名によって、弟子たちを守ってください。と懇願された。弟子たちは家を捨て、財産を捨て、家族を神にゆだねた。嵐のなか船が沈みかけ命の危険を感じたときもあった。空腹を覚え麦の穂を摘んで食べるときもあった。迫害を受けた。そのような中でも彼らがイエスを主と仰ぎ、おそばから離れなかったのは、イエスが父なる神の御名、神の御本質によって弟子たちを守られたからだ。しかし、イエスのうちに現わされた神の御本質である権威もご真実も愛も振り払った弟子がいた。イスカリオテのユダは金袋を預かる大切な役割を任せられていた。しかし、ユダはサタンにこころを明け渡した。金袋から盗み、イエスを裏切る報酬を祭司たちに求めた。彼は人生をイエスに明け渡すことを拒み、イエスを自分の利益のために利用した。ユダは神のみ旨に従って人のために自分に死ぬ道ではなく、神のみこころに背き自分を保つ道を選びとった。神のみ旨に従わず自分の道を生きるサタンの誘惑はすべての選ばれた人に待ち受けている。イエスもこの誘惑を退けられた。(マタイ16:21-28)イエスは、弟子たちがサタンの策略にはまり傷つけあって滅びてしまわないように。イエスの教えにとどまり、互いに仕え合い愛し合い一つとなるように。「お願いします。」と繰り返し父なる神に懇願しておられる。私たちは罪の性質をもつ人間だ。自分がしたくない悪を行う。しかし、今は私たちのうちに聖霊がおられる。聖霊は神に選ばれた者を光で照らし、正しい道に導き、イエスの愛を教え、良いことを行わせてくださる。そして、神の御名によって守られるようにとりなしてくださる。旧約聖書で明らかにされた神の御名は、今も変わることはない。
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