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2026年3月8日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「人を捕るもの」ヨハネ21:15-19
イエスは漁師のペテロを弟子として召し出した。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」このおことばを聞いたペテロは、舟も、家族もすべてを捨ててイエスに従った。人には神に捕らえられる前の状態と、神に捕えられた後の状態が存在する。前者は、「罪」に支配されている状態だ。この状態は神と自分を取り囲む人との間を不調和で支配する。愛を本質とされる神に似せて作られた人間は、神の愛を受けて満ち足りることを得る。そして周りの人と互いに愛し合うことによって幸福を得る存在に造られている。人と神の間、人と人の間に罪がもたらす不調和から抜け出さない限り、人は本当の意味で生きる力を得ることができず、幸福にもなり得ない。また、人は誰もが逃れることのできない「死」という問題にも縛り付けられている。迫りくる「死」の前に人は無力だ。一方、神に捕らえられた状態とは、神と和解させられて神の支配のもとに入れられた状態だ。イエスの救いを心に受け入れて神と和解させられた人々が罪に定められることない。神は私たちのいのちとなられ、真の父となられる。誰もが通る恐ろしい「死」をも神は希望の光で照らす。死の力を打ち破られたイエスが、死は終わりではなく永遠に続く命への始まりであることを示された。人が神の支配のもとに帰ることは、ご自分のものを愛する神の熱心によって建てられたプログラムだ。ひとり子であられるイエスが人に与えられたことがその証しだ。神のプログラムは約束された神の国の成就までを含む。(Ⅱペテロ3:8-13)神の壮大なビジョンに向かって世界は進む。
神の救いのプログラムを遂行する任務は弟子たちに委ねられている。
人の弱さを知り尽くしておられたイエスは、弟子たちがご自分を見捨てることも、否むこともご存じだった。よみがえられたイエスは、自分の犯した失敗に傷ついた弟子たちをガリラヤ湖に導かれ、彼らへの召命が変わらないことを教える。人が自分のどうしようもない弱さを知ったとき、イエスはご自分の羊をその人に託される。
神の壮大なプログラムが成し遂げられるために、イエスはイエスでなければ成し遂げられることができない使命を果たされた。そして、弟子たちにご自分が歩まれた道に従うように命じられる。弟子たちが為すべきことは、すぐ目の前にいる神が出合わせてくださった人々と向き合うことだ。その道は決して楽な道ではない。しかし、神の招きに従う者と神はともにおられる。神が導いておられない楽に見える道を歩むより、困難があっても神がともにおられる道を歩むほうが安心だ。神がその人の行く末を保証される。神の喜びに満ち足りた人生としてくださる。
2026年2月15日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「勝利」ヨハネⅠ6:29‐33
「イエスが誰なのか」というクエスチョンは、イエスを知る全ての民が心に持ち続けた問いだった。人々はイエスが行われる力ある奇跡の御業を見た。奇跡はイエスがメシアであることを証明するためのものだったが、イエスにつまずいた人々は、イエスとともに神がおられることを認めなかった。彼らはイエスに不満をもち怒りを燃やした。イエスが彼らの期待するメシア像と離れており、イエスが彼らのこころの奥に潜む罪を指摘したからだ。つまずいた人々の「あなたはだれなのですか」という問いには、イエスへの憎しみが隠れており、イエスをメシアとして認めない強い覚悟があった。そのため、イエスはご自身を明らかにされなかった。バプテスマのヨハネはイエスの前に遣わされた偉大な預言者だった。ヨハネは厳格に律法を守り、人々に神のことばを伝えた。多くの人々がヨハネのもとに来て、罪を悔い改めバプテスマを受けた。イエスもヨハネからバプテスマを受けた。イエスとヨハネはお互いに信頼する関係だった。イエスがメシアとして活動を始めると、多くの人がイエスのもとへと流れていった。しかし、ヨハネは神が自分に与えられた使命から外れることはなかった。「あの方は盛んになり、私は衰えなければならない」ヘロデ王の罪を指摘したため投獄されたヨハネは、牢の中で弟子たちからイエスの活動を聞いた。メシアは悪と罪を燃える火でさばき、神の国を打ち建てるお方と信じていたヨハネは、弟子たちに伝言を託してイエスに尋ねた。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」イエスはだれなのか。ヨハネの心に迷いが生まれた。イエスは人々の病が癒され、死人がよみがえり、貧しい人に救いが宣べ伝えられていることを弟子たちを通してヨハネに伝えた。イエスは力ある御業で人を救い、傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すことのない、人の弱さに寄り添うメシアであることをヨハネに知らせた。イエスを神の子と信じた弟子たちは、数時間後イエスを見捨てて逃げる。イエスをメシアと知らずに十字架につけた人々の罪は重い。イエスを神と知りながら見捨てる彼らの罪も重い。その重さは彼らを押しつぶすであろう。イエスは弟子たちを励ます。「あなたたちは今信じるのか。しかし注意しなさい。あなたたちがわたしを一人残し、自分の家に帰る時が来る。それでもわたしは一人ではない。父がわたしと一緒におられる。これらのことをあなたたちに話したのは、わたしにあってあなたたちが全き平安、確信をもつためです。世にあってはあなたたちには試練、挫折がある。しかし元気でいなさい。堅く信じ、臆せずにいなさい、わたしはあなたたちのために世からその害する力を奪い取ったからである。」(詳訳聖書より)
2026年1月18日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「わが愛するもの」ヨハネ16:25‐33
神は、その民イスラエルとイエスを信じ神の子とされた人々に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と語りかける。イザヤは、神に背信を重ね、滅びゆく運命を辿るイスラエルに遣わされた預言者だ。神の厳しい裁きのことばをイスラエルに語った。同時に神がイスラエルをあわれみ、その罪を拭い去り、彼らの祖先と結ばれた契約を破棄することなく、必ず守ることを告げた。神はさばきを受ける背きの民イスラエルに語られる。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」神の不屈の愛は、神に背かずにはいられない人の弱さを覆う。約束の時が満ち、救い主イエスがこの地に遣わされた。神が神の在り方を捨てて人となられるなど、誰が想像することができただろう。神と自身は一つであると告げるイエスは、神を冒涜する者として人々から激しく憎まれた。十字架を目前にしたイエスは、ご自分が神のもとから遣わされたメシアであること、神の御計画を成し遂げて、父のもとに行くことを弟子たちに明確に告げられた。時は過ぎ越しの祭りの夜。アブラハムの子孫によってすべての国民が祝福を受けるという神が結ばれた契約が成し遂げられるためには、出エジプトのとき、子羊の血によってイスラエルの民が神のさばきから救われたように、イエスの血が十字架の上で流される必要があった。神の律法によれば血を流すことなくして罪の赦しはない。人の罪の身代わりとなって屠られた子羊のように神が十字架につけられて血を流し死ぬことを誰が予想できただろうか。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」神の愛のおことばが、真実であることをイエスの犠牲が証明する。イエスは人に仕え、尽くされたご自身の足跡に従うようにと弟子たちに命じられる。神の愛を一身に受ける者とされたイエスの弟子のこころを満たすのは、神の喜び、イエスの喜び、聖霊の喜びと同じ喜びだ。神は私たちを価値あるもの、尊い者、愛する者よ、かけがえのない者よと今日も優しく語りかける。そして私たちが神の喜びに満たされる者となるように導かれる。イエスの弟子の歩みには苦難がある。しかし神の愛が私たちから離れることはない。「わたしはあなたとともにいる。」このおことばは、召されたもの達への神の約束だ。私たちを真の幸せへと導くことができるお方に人生を委ねていきたい。
2026年1月4日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「ともにおられる神」出3:5
「あなたの足のくつを脱げ」神がモーセを選び、彼の現在、また未来の権利を明け渡すように命じたのは、神がアブラハムと結ばれた契約を実現させるためだ。その契約はアブラハムの子孫イスラエル民族の祝福と、カナンの地を与える約束、そしてアブラハムの子孫によって地の全ての民族が祝福される。というイスラエルと全人類を祝福する契約だ。イスラエルをエジプトから救い出すためにモーセが選ばれた。モーセは神の召しを拒む。モーセは過去に同胞イスラエルのためにエジプト人を殺し、結果エジプトから命を狙われ、同胞から拒まれ、生きる場所を失う経験を持つ。王族の位から、異国の寄留者とされた体験はモーセの心を打ち砕いた。このモーセを神は選んだ。モーセは神の召しに応じる力や資質が自分にないことを神に訴える。神は、「わたしがあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。」と心強いおことばを伝える。しかしモーセから出た言葉は「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」だった。モーセは必ず待ち受けるであろう困難から逃げ出したかった。神の怒りがモーセに向かって燃え上がり、モーセは神に従うことを決意する。
神の召しに従ったモーセの歩みは、困難の中神に叫び求める歩みだった。しかしモーセが困難に打ち負かされることはなかった。モーセを召し出された神がともにおられたからだ。神はモーセを「わたしの全家を通じて忠実な者。」と評される。神は自分の権利を明け渡した人々を尊ぶ。モーセが神の召しに背いたなら、神との深い関係に至ることはできなかっただろう。神に明け渡した人生には、苦難にまさる神の栄光に満ちた喜びがある。人の能力や権力で神の救いの御計画が進められるのではない。神に自分の権利を明け渡した人とともにおられる神が救いの御計画が進められていく。
イエスは神としてのあり方を保とうとされず、人の姿をとられた。神であることの権利も栄光も神に明け渡し、ご自分を空しくして従うイエスと神はともにおられた。神は、救いの御計画のために召された人々とともにおられる。神はアブラハム、イサク、ヤコブと約束された。「わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたの子孫を増し加え、あなたの子孫によって、地の全ての国々は祝福を受けるようになる。」
神は、ヨセフ、モーセ、ダビデ、預言者たちとも常にともにおられた。イスラエルとともにおられ、イエスを信じ霊的にアブラハムの子孫とされた私たちとともにおられる。そして、救いの約束を実現されていく。
2025年12月21日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「喜びの知らせ」ルカ2:8‐20
羊を見守るために野宿をしていた羊飼いをまばゆい光が包み、み使いは救い主の誕生を告げた。するとおびただしいみ使いの軍勢が夜空を覆いつくし、神への讃美を天地に響かせた。その光景に羊飼いは恐れを抱き、神を崇めた。メシアの誕生を一番に知らされ、素晴らしい啓示を与えられた羊飼いに思いを寄せる。羊は旧約の時代からイスラエルの民を支える大切な財産だった。羊の世話をするのは持ち主の子供の役割とされた。ヤコブ、モーセ、ダビデも親、姑の羊を飼い世話をした経験を持っている。羊の世話は危険をともなう仕事で、羊を守るために少年ダビデは猛獣と対決している。また、ヤコブは羊の群れを守る責任と苦労をラバンに訴えている。ヤコブは姑ラバンの羊から盗まれたものがあったなら、その羊の代価をラバンに支払い、野獣に殺されたものに対しても償った。昼の暑さ、夜の寒さに悩まされ眠れない日々だったと苦労を訴えている。
新約の時代も、羊飼いが負う苦労は変わらない。しかし、新約時代の雇われ羊飼いは社会的に疎外され、人々から軽視される存在となっていた。それは次のような理由からだった。
家畜とともに生活する羊飼いは衛生的ではなく嫌われていた。当時の羊飼いたちは学ぶ機会を得られず字が読めない無学の人であった。羊の世話をする彼らの労働賃金は安く貧しかった。羊の世話のため安息日を守らなかったことで人々から軽蔑されていた。ローマ皇帝による住民登録の枠からも外される存在だった。羊飼いが人の物を持ち逃げする能力はことわざになっているほどで、不正直な者とされ法廷で証言することも許されなかった。羊飼いは社会の底辺を這って生きていた。しかし、神が誰よりも最初に、救い主イエスのお誕生を伝えたのはこの羊飼いだった。イエスはメシアとして活動を始め、安息日に会堂でイザヤ書を朗読された。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」朗読されると、イエスは聖書を巻き「今日、この聖書のことばが実現しました。」と会衆を前に話された。弱い者を理解し、御手を差し伸べられたイエスの生涯を思うとき、誰よりも先に羊飼いに救い主の誕生が知らされたことは、神の強いおこころがあったことだと教えられる。誰からの目にも留まらない小さい者、弱い者を神の御目は見つめておられる。
2025年12月14日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり「再会の約束」ヨハネ16:17‐24
イエスが、弟子たちのもとから去って行くことは、弟子たちの生きる目的、人生の土台を揺るがすような試練だった。耐えがたい試練がキリスト者を襲うときがある。
瞬きの詩人。水野源三さんは9歳のときに脳性麻痺のため首から下の動きを奪われた。自分では寝返り一つうてない現実を、どうして幼い少年が受け止めることができただろうか。家族は源三さんを支えた。特に母うめじさんは、源三さんの手足となり、昼夜寄り添い献身的に介護した。ある日、源三さんに運命的な出会いが訪れる。母うめじさんが自宅で始めたパン屋の客の中に、杖をついた一人の男性の姿があった。その人が源三さんに福音を伝えた宮尾隆邦牧師だった。宮尾牧師は進行性筋萎縮症という病を負っていた。源三さんの存在を知ると宮尾牧師は度々水野家を訪問して源三さんの心に寄り添った。源三さんは聖書を通して神さまの愛を知り、自分が生きる意味を知った。そして13歳のときに洗礼を受けた。源三さんは家族の助けを得て、瞬きでたくさんの詩を生み出した。しかし、源三さんが31歳のときに試練が訪れる。父寛さんが病のため亡くなり、源三さんを看取ってから死にたいと願い続けた母うめじさんも、源三さんが38歳の時に亡くなった。
愛なる神は、ときに私たちが耐えがたい試練に合うことを許される。ことばにならない思いを源三さんは詩にしている。「主よなぜですか」/ 主よなぜですか 父につづいて 母までも み国へ召されたのですか 涙があふれて 主よ 主よと ただ呼ぶだけで つぎの言葉が出てきません 主よ あなたも 私と一緒に 泣いてくださるのですか/
イエスの弟子たちも、イエスが去って行くという耐えがたい試練を前に心は悲しみでいっぱいになっていた。しかし、イエスは弟子たちに希望のおことばを述べる。
*(ヨハネ16:20-22)イエスは人の最期に立ちはだかる「死」を打ち砕き勝利の主として弟子たちと再び会うと宣言された。イエスがよみがえられた日の朝。「死」を完全に征服されたイエスに弟子たちは再会した。イエスが神であることを知った弟子たちの喜びを奪える者は永遠に存在しない。源三さんもともにおられる主を詩に表している。「泣かないでください」 /母をうしなった わたしのために 泣かないでください もう泣かないでください 心の中は 不思議なくらい静かなのです キリストが 私とともに おられるからでしょうか。/地上にある限りキリスト者の戦いは続く。しかし、よみがえられたイエスは今私たちとともにおられる。神はイエスを信じる者の味方だ。源三さんの詩とともに復活の主、麗しいイエスを褒めたたえる。「こんな美しい朝に」/こんな美しい朝に 空には 夜明けとともに 雲雀が鳴き出し 野辺には つゆに濡れて すみれが咲き匂う こんな美しい朝に こんな美しい朝に 主イエス様は 墓の中から 出てこられたのだろう/
2025年11月30日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「慰め主」ヨハネ16:12‐16
イエスはご自分が去って行くことは弟子たちにとって、益であると教えられた。
ヨハネ16:7は詳訳聖書では次のように補足されている。
「しかしながら、わたしはただ真実をあなたたちに告げているのである。わたしが去るのはあなたたちのために益である〈良い。得策、有利である。〉なぜならば、もしわたしが去って行かなければ、慰め主〈助言者、助け主、弁護者、とりなす者、激励者、援助者〉は決してあなたたちのところに〈あなたたちと深い交わりを持つように〉来られないからである。けれどもわたしが去るならば、わたしはそのかたをあなたたちのところに〈あなたたちと深い交わりを保つように〉つかわす」聖霊は弟子たちと深い交わりを持つおかたとして来られた。聖霊は、父なる神とイエスと一つであられる。父なる神と子なるイエス、聖霊なる神の御働きは異なっていても、世に永遠のいのちを与え、神の子の位を与えるという目的は完全に一致し、父なる神と子なるイエス、聖霊なる神の間には愛による調和がある。聖霊の力強い御働きは、使徒の働きに記されている。弟子たちを中心に始まった初代教会の全ての働きは聖霊主導のもとで行われていった。使徒たちは何よりも聖霊を崇めて聖霊に依存していた。使徒たちのように、聖霊を崇め聖霊に依存し、聖霊に従うことなくしては、信徒も教会も神の輝かしい栄光の御業をみることはできない。使徒パウロは聖霊によって新しいいのちを得、聖霊によって神のしもべとして自分を推薦する者となり、聖霊によって人生の主導権を明け渡して、父なる神と子なるイエスと聖霊と思いを一つにしていた。(使徒20:17-24)慰め主なる聖霊は時代を超えて、苦しみにあるすべてのキリスト者とともにあり、慰め、助け、励まし、とりなし、弁護してくださる。讃美歌の「善き力にわれ囲まれて」はドイツの神学者であり牧師であるディートリヒ・ボンヘッファーが獄中で書いた詩が元にされている。聖霊は片時も離れず彼の最期のときにも彼を慰めたのだろう。
「善き力にわれ囲まれ」
1.善き力にわれ囲まれ、守り慰められて、世の悩みともに分かち、新しい日を望もう。
2.過ぎた日々の悩み重く なお、のしかかるときも、さわぎ立つ心しずめ、みむねにしたがいゆく
3.たとい主から差し出される杯は苦くても、恐れず感謝をこめて、愛する主から受けよう。
4.輝かせよ、主のともしび、われらの闇の中に。望みを主の手にゆだね、来るべき朝を待とう。
善き力に守られつつ、来るべき時を待とう。
夜も朝もいつも神は われらとともにいます。
2025年11月9日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「聖霊の力」ヨハネ16:1‐11
イエスはご自分が父のもとに帰られた後に、弟子たちが「父もイエスも知らない」者達によって迫害されることを話された。迫害する者たちは律法を守り教える祭司たちであり、パリサイ人だった。イエスの時代だけでなく、イスラエルは神を知らない指導者によって導かれてきた歴史がある。神を知らず、神を敬わない王や、指導者たちは民を誤った道へと導き、預言者たちを迫害した。主は強くイザヤを戒めた。「万軍の主、主を聖なるものとせよ。」神を敬う人は自らの心の闇を神の光に照らされたとき、自分の醜悪さを嘆き「罪人の私をあわれんでください。」と胸をたたいて悔いる。神のあわれみにすがる、心の貧しいものは、幸いだとイエスは教えられた。神はそのような人を神の御前に義と認められる。(ルカ18:9-14)しかし、イスラエルの指導者たちの傲慢は、彼らをイエスにつまずかせた。神を恐れ敬い、イエスを信じて敬虔に生きるイエスの弟子たちはイエスと同じように迫害を受けるが、聖霊が弟子たちの助け主となり、イエスを力強く証してくださる。イエスの福音は世界中に広がった。罪と死に捕らわれていた世界中の人に解放が与えられ、霊的に目の見えない人が見えるようにされて神の御働きに加わった。虐げられている人には自由が与えられた。聖霊は詳訳聖書では「助言者、助け主、慰め主、弁護者、とりなす者、激励者、援助者」と補足されている。聖霊は時代も国も越えて世界中のキリスト者とともにおられ、彼らの力となられた。(へブル2:10-18)聖霊は神の御前に最大の罪とは、イエスを信じないことだと示す。イエスが払ってくださった犠牲の他に人のために用意された救いはない。(へブル10:5-14)イエスはご自分の血を携えて真の聖所である父のもとに帰り、イエスにすがり信じる者を義とする。この世を支配する悪魔はすでにさばかれ、イエスを信じる人々は、人を恐怖に陥れる死から解放されている。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」神はご自分の創造された人間が罪と死の奴隷となり、滅び、悪魔の手に陥ることを許さなかった。イエスが死の力を破りよみがえられたことにより、悪魔の力は打ち砕かれた。イエスを信じる者に悪魔は何の影響力も持たない。
聖霊はイエスの御業を力強く証しする。捕らわれ人に開放を、目の見えない人には目が開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とするイエスの福音が、今を生きる人々に永遠のいのちを授けてくださる。
2025年10月26日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「聖霊の証」ヨハネ15:18-27
イエスの弟子となった者たちは、イエスが迫害を受けたように迫害を受けると告げられる。イエスはご自分に敵対する人々の心の奥深くに潜む神に対する高ぶり、欲望を見抜かれて、躊躇することなく厳しく戒められた。罪を指摘された人々は怒り、イエスを殺そうとした。イエスのおことばの光は人々の心の隅まで照らし、罪の深さをあらわにする。人は誰もが心の奥の悪いものが照らされることを嫌う。イエスは、人々がご自分のことばを受け入れ、罪から救われ、永遠のいのちを得ることを求めておられる。*(ヨハネ12:44-50)しかし、多くの人々は光であられるイエスを受け入れることができなかった。メシアである証明の力ある奇跡は祭司長、パリサイ人の妬みを買いイエスを十字架につける引き金となった。*(ヨハネ11:47-48)神を知っているはずの祭司長たちこそメシアと神の国を待ち望むべき人々だった。しかし、彼らはイエスを崇めず、自分たちの権威と政策を崇めた。そして議会をあげて、イエスを殺すことを決めた。イザヤはイスラエルがバビロン帝国、アッシリア帝国に滅ぼされるという背景のなかでイスラエルに対する神のさばきを語り、同時にイスラエルに対する神の赦しと慰めを語った。*(イザヤ8:11-18)主はイザヤを御手に捕らえて戒める。「万軍の主、主を聖なる者とせよ。主こそ、あなたがたの恐れ、主こそ、あなたがたのおののき」祭司長やパリサイ人たちがイエスを憎み迫害し死に至らせたのは、奇跡を見ても神を恐れない傲慢でかたくななこころ。神を知らないための不信仰による。それにより、イスラエルがイエスにつまずくことが預言されている。つづく17-18節のおことばは、へブル書2:13でイエスのことばとして引用されているが、人として肉体をもって生まれ多くの苦しみを通った神の子イエスの苦しみを通して、多くの神の子が生まれる救いが預言がされている。神はイエスを迫害した人々の失敗をも覆し、イスラエルと万人の救いの道を開かれた。イエスを信じる者は迫害を受ける。しかし、イエスが約束された聖霊は、迫害する者に力強くイエスを証しする。また、イエスのおことばに仕える弟子たちの証しによって神の救いの御業は進められてゆく。互いに愛し合う教会は聖霊の力に満ちていた。
2025年10月12日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「任命」ヨハネ15:12-17
「互いに愛し合いなさい」というイエスの戒めに、自分の力で立ち向かうとき人は惨敗してしまう。自分はダメなキリスト者だという失望は、キリスト者として赦されている喜びまで奪う。聖書の中には、イエスに出会い、人生が変えられた人が登場する。ザアカイ、罪深い女、サマリヤの女。イエスはご自身から彼らの友となられた。いつくしみに満ちたまなざしと、真理のおことばは、彼らを罪から自由にし、溢れる喜びに満たした。彼らはイエスの愛に応えたくて自分ができる限りの力でイエスへの愛と敬意を表した。彼らのイエスへの愛は、彼らを取り囲む人々への愛となり流れていった。イエスの温かな愛が彼らの人生を変えた。彼らはただ陥った暗い罪の深みからいつくしみに満ちたイエスを仰ぎ見ただけだ。彼らはイエスの愛に応答し、イエスへの愛と従順を表した。私たちのイエスへの愛は、応答の愛だ。イエスを愛する喜びは、この世が与える喜びのレベルを超越していた。イエスを愛することは、真の幸せを得る道だ。「わたしの愛にとどまりなさい。」イエスは、人がイエスの愛にとどまり続けて実を結ぶことを求めておられる。実を結ぶことは、枝である私たちにとって幸いなことだ。もし、罪深い女性や、ザアカイが、ぶどうの幹であるイエスから離れて、再び罪の生活に戻ったなら、彼らは満ち足りた人生をおくり続けることはできなかった。イエスは父なる神の愛にとどまり、父のおこころだけを行った。イエスの愛にとどまる弟子たちは、自分の想いではなくイエスのおこころを行うものへと導かれる。そこには真の喜びと幸せがある。父なる神は、私たちを真の幸せの道へと熱心に導かれる。「人が一人でいるのは良くない。」神は人を男と女に創造し、孤独にさせなかった。そうであれば、「互いに愛し合いなさい」というイエスの与えられた戒めは、お互いを必要とし、共存して生きる人間にとっては最も大切で不可欠な戒めだ。私たちが家族や友と向き合い、時に葛藤に苦しみながらもイエスの戒めを守ろうとするのは、私たちがすでにイエスの愛を知ったからだ。自分の無力さにうなだれる私たちにイエスは手を差し伸べて、「生きよ」と立ち上がらせる。イエスは愛する友のためにいのちを捨ててくださった。これより大きな愛を私たちは知らない。このお方が弱さを抱えつつ、イエスに従う者たちに、いつも赦しを宣言してくださる。私たちは弟子としてイエスから任命を受けた。私たちの人生は、涙の谷を過ぎるときがある。炎の中を通るときもある。そんな時にも私たちの心がイエスの愛とイエスの戒めから離れないのは、私たちを選び任命されたイエスの御手が、私たちを捕らえて決して離さず、支えられるからだ。そして、苦しみの通り過ぎた後に、豊かに実を結ばせてくださる。イエスは私たちのそばにいて、熱心に私たちを真の幸せへと導かれる。そして、真の幸せを得た私たちの人生を通して、「わたしはある」という名の父なる神の御臨在と栄光が現わされる。父は私たちの人生を通して、悩める人々をご自身のもとに導かれる。神の愛を知らず、悩み迷う人々を神は求めておられる。弟子の私たちに神の御想いが伝わってくる。「わたしの協力者となってくれないか」「わたしとともに担ってくれないか」と。
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