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2025年6月8日 基督聖協団目黒教会 横山さおり師
「ひとつの想い」ヨハネ14:8-11
イエスはわたしを見る者は神を見たのであり、わたしを知る者は神を知るのです。と父なる神とご自分が一つであると告げる。
(ヨハネ1:18)旧約聖書に見られるイスラエルに対する神のさばきは、聖書を読む人を震え上がらせる。悪をさばく厳しい神だ。しかし、神の深い愛とあわれみの御本質は旧約聖書から新訳聖書まで現されている。神は背信を繰り返すイスラエルに激しいさばきを宣告するとともに、深い愛とあわれみのおことばを預言者たちに授け、神の力強い御手で彼らを神の民として霊的に回復させると約束された。「わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするため。」罪によってご自分から遠く離れたイスラエルの民と、万人を、必ずご自分のそばに引き寄せるという、神の燃えるような愛は、イエスのおこころの内にも燃えていた。父なる神のふところにおられたイエスは、血と肉で造られた体を持ち、人とともに生活し、温もりのある御手で人に触れた。イエスはご自分と神が一つであることを語り続けられた。神と一つであることを証明するための奇跡を数多く行った。
イエスは罪人に寄り添い、人の弱さをあわれみ、罪人が神に立ち返ることを喜ばれた。弟子たちは人を救うために自らへりくだり、愛と忍耐の限りを尽くされるイエスのお姿を見た。飢え乾く人のこころを潤す真理のおことばを聞いた。弟子たちはイエスの内におられる父を見て知ったのだった。
(ヨハネ6:35-40)神の願い、イエスの願いはご自分により頼むものたちに永遠のいのちを与えること。終わりの日によみがえらせることだとイエスは強調して語る。この一つの想いは、子を与える父の苦しみとイエスの従順という二つの苦しみによって成し遂げられた。イエスは神としての位を捨て、神としての栄光も捨てられた。
私たちの罪のためにむちで打たれ肉を裂かれた。私たちの不義のために家畜のように打ちたたかれ、そしりと屈辱を受けた。十字架の上で血を流し、罪人として呪われた者となった。イエスは真にすべてを捨てて私たちの義となり癒やしとなり、父なる神のもとに行くための道となられた。(ヨハネ15:12,13)
ひとり子を与えた父なる神の愛と、すべてを捨てたイエスの愛は、愛する者のためにご自分を犠牲にするという、偽りの無い真の愛だった。私たちは愛を知った。真の愛は、口先だけのものではないことをイエスは教えた。真の愛は、痛みと犠牲を伴うものなのだと。
(Ⅰヨハネ3:16-18)私たちは偽りのない愛をこの身に受けた。この神の愛にどのように応えれば良いのか。私たちは、それぞれが与えられている信仰のはかりに応じて、一番近い隣人に対して、恐れずに良いわざを行い続ける者とさせて頂きたい。
2025年6月1日 基督聖協団目黒教会 馬上真輝師
「いつまでも残るもの」コリント人への手紙Ⅰ 13章13節
形あるものはいつかは崩れ去ります。さらには形あるものだけではなく、地位や名誉も、時と共に忘れ去られていき、終わりの時には無意味なものになります。しかしパウロは、いつまでも残るものがあると語ります。それが、信仰と希望と愛です。パウロは、さまざまな賜物は廃れていく中で、この三つだけはいつまでも残ると語っています。なぜ信仰と希望と愛はいつまでも残るのでしょうか。私たちの信仰は、自分で一生懸命神様を信じるのではなく、私たちを守り導かれる神様に信頼する、というものです。この信仰は、人となって地上に来られ、信仰を全うされたイエス様に基づいています。イエス様が私たちを捉えてくださるから、信仰は残り続けるのです。また、今の時代において、希望を見出すことはとても難しいことだと思います。この時代において語られるのは、確かさに欠けた束の間の希望です。しかし、聖書の語る希望は違います。聖書は人生における成功や安定などについて希望は語りません。それは不確かで、移ろいゆくものであり、いずれは消え去るものだからです。聖書の語る希望は、私たちの将来の希望であり、それはいずれ訪れる神の国における希望です。キリストは再び来られ、世界を治められ、私たちの涙を拭い、死も悲しみもない新しい世界がやってきます。神様がこのことを保証しておられるのです。ですから、私たちの希望は、なくなることはありません。最後に愛です。人は誰しも愛を求めています。親からの愛、恋人の愛、子どもからの愛。いろんな愛があります。人は愛を探し求め、誰かに求めたり、理想の愛を芸術に描いたりします。しかし完全な愛はどこを探しても見つからないでしょう。同じⅠコリント13章の4から7節では、愛の性質を記しています。こんな愛を求めては得られず、失望した経験が誰しもあることだと思います。この愛は、イエス様にしかありません。イエス様はこの愛を十字架上で示されました。そしてイエス様は今も生きておられます。それゆえ愛は残るのです。そしてパウロはこれら3つの中で最もすぐれたものは愛だと語ります。愛は神様の本質です。神様は愛ゆえにこの世界を、人を創造されました。愛ゆえに罪に陥った人を諦めませんでした。愛ゆえにひとり子を十字架にかけました。私たちと神様の関係は愛で結ばれています。それゆえに愛が最もすぐれているのです。信仰、希望、愛はすべてイエス様に基づいています。この方がおられる限り、私たちの信仰、希望、愛は絶えることがありません。このイエス様に私たちはつながり続けていきましょう。
2025年5月25日 基督聖協団目黒教会 横山さおり師
「わたしがいるところに」ヨハネ14:1-7
イエスはご自分に依り頼む者たちを深く愛しておられた。しかし、父なる神のみもとに行く時が近づいていた。イエスが離れ去っていくことは、弟子たちからすれば、大黒柱を失うようなことだった。動揺する弟子たちにイエスは語る。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」イエスは神とご自分を同列に置かれ、神とご自分が一つ想いであることをお示しになった。
(ヨハネ14:3)「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」イエスとともにあることは、弟子たちにとって無くてはならない支えだった。今を生きる私たちも同じだ。孤独や苦しみのなか、必死に神にすがり、試練を乗り越えた体験を持つ人は、イエスが自分の生きる土台となっていることを知る。イエスとともにあることこそ人の幸せなのだ。しかし、私たちの想いをはるかに超えて神御自身が、イエス御自身が私たちを御もとに引き寄せたいと強く、深く望んでおられる。御側にいるように神から求められることほど幸せなことはない。
罪を犯す以前、人は神とともにあった。神の愛を受け、神を愛する特別な存在として人は創造された。罪が人を支配したときに、人は、神から遠く離される存在になった。しかし、神は罪の力に縛られた人間を諦めなかった。「わたしがいるところに、あなたがたもいるように。」この強い想いを実現させるために、神はこの地にイエスを遣わされた。
神とイエスの御想いは一つだった。イエスは十字架に向かって進んで行かれた。
「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。その道も知り得ません。」おびえる弟子にイエスは答える。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとにいくことはできません。」
イエスの犠牲を通して人は神の子とされ、臆すること無く喜び踊りながら神のみもとに行くことができる。真理であられるイエスは、永遠に変わることも、揺らぐこともない正しさで私たちに真の光を指し示す。いのちであるイエスを、メリル・テニイ氏は次のように説明している。「いのちは人々を罪の中から神ご自身のもとに引き上げる、神に起源をもつ霊的な活力を表わしている。」「キリスト教は哲学体系でも、儀式でも、法典でも無い。それは神の生命力の分与である。」信じる者の内に生きて働かれるイエスは、私たちの弱さを通して神の栄光を表わし、人生を変え、私たちを父のもとへと引き上げる。「わたしがいるところに、あなたがたもいるようにする」私たちが行き着く人生のゴールは、私たちを愛してやまない、父なる神の御むねの中なのだ。
2025年5月18日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「平安があなたがたにあるように」ヨハネの福音書20章19-23節
今日の聖書箇所は、週のはじめである日曜日の夕方の出来事です。イエス様の弟子たちは、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて閉じこもっています。なぜなら先週、師であるイエス様が十字架刑に処せられ、殺されたため、その弟子であった自分たちも同じように殺されてしまうのではないかと、恐れたからです。さらには、イエス様を裏切って、逃げてしまった自分への責めや、イエス様が死んでしまったという失望感や敗北感、無力感を感じている者もあったかもしれません。彼らは自らの弱さ、恥、恐れに直面する中、心を堅く閉ざし、下を向き、うずくまって身動きがとれなくなってしまいました。戸に鍵をかけた部屋の中には力を失った弟子たちの弟子たちの姿は、私たちと重なる部分があります。自分が犯した失敗。過去のトラウマや傷、いまぶつかっている壁、そういった出来事が自分の前に大きく立ちはだかり、恐れや恥、無力感でいっぱいになり、身動きがとれないように感じることがあるかもしれません。ですが、そんな、弟子たちの閉ざされた部屋の真ん中にイエス様は、復活の身体をもって現れ、「私は今も生きて、あなたたちと共にいる、あなた方は一人ではない」ということを示してくださいます。さらにイエス様は、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と語られます。イエス様が私たちに与える平安とは、神との和解です。イエス様を捨てて逃げた弟子たちは自分を責めていたことと思います。そんな彼らの「平安」を祈りました。このイエス様の祈り、「平安があるように」という言葉は単なる願望ではありません。神が言葉で天地を創造されたように、主イエスの語られる言葉は権威ある言葉であり、イエス様の口から出る言葉は私たちの現実となるのです。「平安があるように」というイエス様の言葉は、私たちへの罪の赦しの宣言なのです。
私たちは人生の中で起こる様々な出来事の中で恐れや失望を経験します。ですが、私たちが忘れてはいけないのは、主は今も生きておられるということ、そして閉ざしてしまった心の中にも主はいつも共にいてくださるということです。神様はご自分のひとり子をお与えになるほど、この世界をそして私たちを愛しておられるということです。私たちは、恐れや失望のなかにあっても決して一人ではないのです。さらにイエス様は、彼らに聖霊を与え、彼らをこの世に遣わすことを宣言されました。彼らは赦された者から、赦しを宣言するものとさせられるのです。暗い部屋に鍵をかけ閉じこもっていた彼らは、聖霊によって立ち上がりました。私たちはこの同じ御霊を受けているのです。私たちは無力な存在ではなく、力ある者です。私たちこの聖霊によって日々生きる力を与えられて参りたいと思います。私たちの日々の困難の中にも「平安があるように」と語ってくださる主の臨在を覚え、聖霊の御力を仰ぎ求めて参りたいと思います。
2025年5月11日 基督聖協団目黒教会 馬上真輝師
「泉」ヨハネの福音書4章13-14節
「この水を飲む人はみな、また渇きます。」イエス様は水や渇きについて、肉体的以上のことを語ろうとしています。それは、私たちの霊についてです。みなさんは霊の渇き、と言われて何か思い浮かぶことはあるでしょうか。もしかしたら、それは言葉にするには抽象的でふわふわしたものかもしれません。たとえば「なんか満たされない」とか。他にもいろんな形がありますが、どれも明確に原因と答えがないようなものだと思います。このようなことの背後には、もしかしたら霊の渇きがあるかもしれません。イエス様はこの霊について「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇きません」と言われました。イエス様が与える水とは、イエス様を信じる人に注がれる聖霊のことです。イエス様を信じると心に決めた時に注がれる御霊のことです。さらに、ここで使われている「飲む」という言葉には、一度きりという意味合いが含まれています。つまり、その水を何度も新しく飲む必要はないということです。そして、「決して」という日本語では少し弱く感じるのですが、決して渇かないという言葉には、ギリシャ語の最も強い否定の形が使われています。これらのことを踏まえてイエス様の言葉を言い換えると、次のようになります。「わたしが与える水を一度でも飲むなら、いつまでも絶対に渇くことがない」そしてイエス様は続けてこう言われます。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」この水が湧き出るということばは「跳ね上げる、湧き上がる」という意味があり、結構勢いがあります。イエス様が与えてくださる水を一度でも飲むと、いつまでも絶対に渇くことがなくて、その人のうちで泉が噴き上げてくるわけです。けれど、私たちの実際はどうでしょうか。そうは言うけれど、ああ自分今神様に渇いてるなあ、と思うことがあるのではないでしょうか。そんなときに私たちは何を求めているでしょうか。一時的に満たしてくれる何かを求めていますか。あるいは、あのとき確かにあった神様の満たしはどこに行ったのかと探しているでしょうか。私たちが渇きを感じる時、私たちに注がれている聖霊に目を向けるなら、湧き上がる泉を見つけるでしょう。一とき静まり、自分を見つめ、注がれた聖霊に目を向けるなら、そこには、イエスさまが与えてくださった水から生まれた、永遠のいのちへの水が湧き出る泉を見つけることになるでしょう。イエス様が語られたことばは真実です。私たちはこの方に信頼し、みことばの真実を確信しつつ歩んでまいりましょう。
2025年5月4日 基督聖協団目黒教会 横山さおり師
「わたしの霊によって」ゼカリヤ書4章:6、7
バビロニア帝国に滅ぼされ、捕囚となって連れて行かれたユダヤ人たちは、次に興ったペルシャ帝国のクロス王によって、帰還し、神の宮を再建するように命じられた。帰還するユダヤ人の数は4万2千。彼らの総督として立てられたのはゼルバベル。また、宗教指導者としてヨシュアが立てられた。ユダヤ人たちはエルサレムに着くと、ささげ物を携えてエルサレムに集まり、喜んで祭壇の上で主にささげ物を献げた。主の宮の礎が据えられたとき、主への賛美と大きな喜びの叫びが民の中におこった。しかし、エルサレムを取り囲む国々は、様々な手を使い神殿再建を妨害し、主の宮の工事は16年もの間中止された。神殿再建挫折の責任が、ゼルバベルと大祭司ヨシュアに重くのしかかった。イスラエルの民は自分の生活を守ることに専念し、エルサレムに帰ってきたときの神を喜ぶ心、神を誉め讃える賛美は薄れていった。
神は預言者ハガイを遣わされた。
(ハガイ1:2-4)神の宮をなおざりにすることは、祝福を失うことである。神のおことばを聞いた民たちは主の前で恐れ、主のみことばに従った。神はハガイを通してイスラエルの民を励まされた。「強くあれ、恐れるな仕事に取りかかれ、わたしがあなたとともにいる。」
また神は、預言者ゼカリヤに大祭司ヨシュアについての幻を示された。
(ゼカリヤ1-8)ヨシュアは大祭司でありながら、汚れた服を着て主の遣いの前に立っていた。サタンがヨシュアを訴えるために立っていた。しかし、神は深いあわれみをヨシュアに向け、訴えるサタンをとがめた。「火から取り出した燃えさし」とは、神のさばきを受け、国を滅ぼされ捕囚となり、苦しみを通った状態を表わす。主はヨシュアの咎を除いた。そして神の道を忠実に歩み、戒めを守り祭司職を果たすように諭した。主はヨシュアと、同僚の祭司たちの咎を赦し、やがて来られる若枝、「主は私たちの義」と呼ばれるお方。罪を洗いきよめるキリスト・イエスを指し示すしるしとされた。
イエスを仰ぎ見る者だけが義と認められ、それぞれが神から与えられた使命を果たすことができる。
また、預言者ゼカリヤを通して神は総督ゼルバベルに語られた。
(ゼカリヤ4:6,7)
16年間にわたり神殿再建を中断させられたことで、総督としての力不足という評価を民から突きつけられたであろうゼルバベルに対して、神は、わたしの霊によって神殿再建を成し遂げる。と語られた。事実、神は、神殿再建に携わる人々の心に働きかけ、奮い立たせて神殿を完成させられた。すべては神の主権のもとにある。神は、何もない者を遣わし、御自身の栄光のために用いられる。神の栄光が現わされる人生とは、神の栄光が現わされる教会とはどのようなものなのか。神の霊が働かれる御業を拝したい。
2025年4月27日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「神の御心に生きる」ヨハネの福音書6章35-40節
4月26日は私たちの愛する横山聖司牧師の葬儀が執り行われました。御国の希望を胸に抱く時となりました。ですが、地上での別れはやはり悲しいものです。あの身体をもって共に過ごした日々を想うとき、切ない気持ちになります。教会で「私たちはひとつ」を共に賛美しながら、神の家族であることを喜び合いながら握手した手、おいしい食事をともに味わったこと、御言葉を語る力強い声。あの体をもって、共に過ごした日々を想い出すとき、やはり寂しいと感じるのです。
先日、夫と夜のドライブをしました。夜道をドライブする中で、幼いころの父との思い出がよみがえってきました。新しい水色の車を買った時、それがうれしくて、家族皆で夜にドライブに出かけたこと。私は父の運転に安心して後部座席で眠っていたこと。そんな些細な光景を思い出して涙が出てきました。
私たちは、このように故人の死を前に、涙を流すことがあります。イエス様は、私たちは涙を流すとき、その傍らで共に涙してくださいます。私たちは御国の希望を抱きつつ、一時の別れを悲しみ、安心して涙を流してよいのです。けれど私たちは失望しません。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。…わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。…わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(聖書)
イエス様は、いのちのパンです。いのちのパンに与る人は決して渇くことがありません。イエス様は、十字架上で人の罪のために死なれ、私たちに救いの道を開いてくださいました。私たちは、いのちのパンに与っているので、永遠のいのち、終わりの日に復活のからだをいただくことが約束されています。私たちは、御国がこの地に到来するとき、復活のからだをもって、「私たちはひとつ」を共に賛美し、再び、喜びの握手を交わしたいと思うのです。私たちは、いのちのパンに与っているので決して飢えることがありません。死を前にしても、よみがえり、復活の希望を受け取ることができるからです。
神の願いは、人々がイエス様を信じ、よみがえりのいのちに与ることです。イエス様は神様の御心に従順であり、十字架の死に向われました。そして横山牧師も、神の御心に生き、この教会で福音を宣べ伝え、キリストの愛で隣人を愛し、主を証しする召しに生き続けたことを思います。私たちもこの地を生かされたものとして、いのちのパンであられる主キリスト・イエスを証しする共同体として、主に用いていただきたいと願います。主のみこころの内を生かされて参りましょう。
2025年4月20日 基督聖協団目黒教会 横山さおり師
「天の住まい」ヨハネの福音書 14:-1-4
ユダが暗い夜の外に出て行き、イエスを亡き者にしようとする悪魔の手はイエスに近づいていた。イエスが捕らえられ、処刑されるのであればイエスの弟子である彼らにも同じ運命が待っているに違いなかった。弟子たちの目はおののきに色を失い、腰からは力が抜け恐怖が彼らを支配した。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
死の恐怖が迫り来るなかで「心を騒がすな」とは無理な話だ。
しかし、イエスは心の目を神に向けて神に信頼せよと語られる。
私たちは目に見えないお方、また目に見えない世界を信じて歩む信仰者だ。二千年前にイエスが私たちの罪の身代わりとなり、十字架で死んでくださったことを私たちは信じている。また、ひとり子イエスをお与えになるほどに神が罪人を愛しておられることを信じている。聖書を通して語られている、罪人を諦めることのない神の愛は、私たちの心と魂を捕らえて離さない。
私たちはイエスを信じ神の子とされてから、この目に見えない方を父として信頼し、寄りすがり、人生を歩む。
しかし、私たちが歩む道は平坦ではない。「神よ、あなたはどこにおられるのですか。」とつぶやかずにはおられないときがある。目に見えない神から心の目を離し不安と恐れに溺れるときがある。私たちが体験する様々な試練のなかで、最も険しい試みは「死」ではないだろうか。すべての人が人生の最後に渡らなければならない難関の大川だ。
今、弟子たちは大きな試練のときにあった。心のよりどころである、愛するイエスがこの世を去り、弟子たちの目から見えない場所に行ってしまわれる。そして、イエスを襲った苦難が自分の目の前に迫っている。まさに絶望のときだった。
*(ヨハネ14:1-4)
イエスは恐れる弟子たちを励ます。イエスの御目は、御自身がこれから帰り行く輝く天の御国だけを見つめていた。その輝かしい御国に、イエスを信じるすべての人を引き上げるためにイエスは十字架の道を進まれる。
*(ヨハネ3:16)「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
世界が創造されたその日から、神が人に与えたいと願ってやまないのは永遠のいのちであり、永遠に神とともにいる世界だ。
映画レ・ミゼラブルのラストシーンでは自由と平等を求めて闘い、命を落とした民衆や、貧困に悩み、病に倒れ地上で報われることのなかった人々が、天で力強く歌う。「地上で苦しみは絶えないが、どんな暗い夜も明け、必ず日が昇る。剣を捨て、鋤をとり歩み行けば、皆に恵みがもたらされる。味方となって隊列に加われ。憧れの世界、主の国で自由に生きる新たな未来が来る。」
私たちも神の助けにすがり、今ある苦しみに耐え、イエスが備えてくださった御国を求めて生きて行きたい。
2025年4月13日 基督聖協団目黒教会 馬上真輝師
「神はどこにいるのか」マタイの福音書27章45-50節
時は正午12時。昼間にもかかわらず、空は暗闇に包まれていました。イエス様は6時間もの間、十字架刑の痛み、苦しみを受けておられました。そんな苦しみの中、イエス様は大声で叫ばれます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」イエス様は想像を絶する肉体の苦しみを経験する中、同時に神との断絶という霊的な苦しみをも経験しておられました。人として地上に来られる遥か前から、父なる神、聖霊なる神と親しい愛の交わりの中にあった子なるイエス様が、十字架上という愛とは最もかけ離れたところで究極の孤独を感じます。そんな中にあってもイエス様は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と問いかけます、、、しかし、問いかけても返事はありません。神様は、何の罪もない息子が十字架で苦しんでいるのに、なぜ放っておくのでしょうか。イエス様の叫びを聞いた群衆は考えました。「この人はエリヤを呼んでいる」「エリヤが救いに来るか見てみよう」彼らは「エリ、エリ」と叫ぶイエス様の声をエリヤを呼んでいると聞き間違え、皮肉にも、救い主であるイエス様を前に、十字架から救い出す別の救い手を待っていました。イエス様の苦しみの意味、その訳は、誰も理解することができなかったのです。そしてイエス様はついに死を迎えます。イエス様の死は、人の目には十字架に架けられて死んだと映ります。しかし実際には、イエス様はご自分の命に主権を持っておられました。イエス様は自ら十字架にかけられることを選び、そして最後には自らの霊を父なる神に明け渡したのです。この事実は、イエス様の神としての力を示しいています。またイエス様の十字架上での死は、預言の成就でもあります。人が罪に陥った最初の時から、神様が人を救うために建てていた計画が完了したという宣言でした。息子であるイエス様が十字架の上で苦しんでいる時、父なる神様は、同じく十字架の上にいました。父なる神様はイエス様の問いかけに対し沈黙を貫きましたが、その場にいなかったわけでも、見捨てたわけでもありません。ともに痛み、苦しんでいたのです。愛するすべての人々が、罪のゆえに滅びに向かっていくなら、わたしが代わりに行く。その決断は、父なる神ご自身のものでもありました。神様は、痛みの中に、苦しみの中に、共におられたのです。もし私たちのうちに叫びがあるならば、それを心のうちに秘めておく必要はありません。神様の前にありのまま注ぎ出しましょう。私たちが痛み苦しみ、神様に叫ぶとき、神様はここにいて、私たちと共にいてくださいます。
2025年4月6日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「一つとなって主の栄光を慕い求めて」Ⅱ歴代誌5:11-14
本日の聖書箇所の背景は主がソロモンに約束してくださっていた神殿が完成し、神殿奉献の中で主を賛美する場面です。神殿建築という大きな働きを完成まで導いた神に高らかに賛美を献げます。レビ人と祭司はまるで一人の人であるかのように「主はまことにいつくしみ深い 主の恵みはとこしえまで」という告白において一致し、心からあふれ出る賛美をささげました。このような賛美の中に主はご自分の臨在を現し、宮を栄光で満たされました。主は今も生きておられます。私たちが主の僕として神の前に自らの身を低くし、私たちが、主は愛とあわれみに満ちた真実なお方であるという真心からの告白と賛美においてひとつとなるとき、主はそれを喜び、圧倒的な臨在をもってご自分を私たちに示してくださいます。しかし私たち信仰者の人生の旅路は山あり谷ありです。主を賛美できないと感じるときもあるでしょう。私たちはどうしたらよいのでしょうか。Ⅱ歴代誌20:20-23でユダにモアブ人とアンモン人が攻めて来たとき、ユダは戦いの際に武装した者たちよりも神を賛美する者たちを前に立たせたことが記されています。賛美する者たちが「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と喜びと賛美の声をあげるとユダは、神の導きによって大軍に勝利しました。目の前に見える状況がよくないと思われるようなときもイスラエルは神に対する信頼の故に神に賛美を捧げました。そして彼らは確かに勝利を見ました。賛美とは主の真実さという、神のご人格とご性質への信頼であるともいえるのです。ですが、いま苦しみの中で主を信頼し賛美しましょうと言われても、なお苦しみを覚える方がおられるかもしれません。Ⅰ歴29:13-14でダビデは私たちが神にささげるものすら神が与えてくださったものであると言います。これは賛美においても同様です。苦しみの中で神に賛美を献げることも、神からの賜物です。賛美の言葉も、神への信頼の想いも主が御霊を通して私たちにさずけてくださいます。私たちは共同体として神様によってこの地上を生かされています。主は私たちが一人一人違う存在でありながら、まるで一人であるかのように一致して神を賛美することを望んでおられます。ですから私たちは、今心から神様を賛美できないという試練の中に置かれている兄弟姉妹のうめきにも共同体として心を合わせ、神が勝利を与えてくださるという信頼の故に「主はまことに慈しみ深い その恵みはとこしえまで」と祈り心をもって共に賛美を献げたいと願います。主は今日も生きておられます。神は愛です。私たちは神の前に一つとされて、愛のお方である主を賛美し、神の栄光の現われを慕い求めて参りましょう。
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