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2025年3月30日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「ペテロ」ヨハネ13:36-38
「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」イエスの招きを受けた漁師ペテロは財産であった舟も、家も父、母、妻、家族をも捨てて即座にイエスに従った。また、イエスは取税人であったマタイに御目を留められた。取税所に座っていたマタイを「わたしについて来なさい」と招かれた。マタイもすべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。彼は仕事仲間を自宅に招きイエスを盛大にもてなした。マタイは安定した収入を得て豊かな生活をしていた。しかし、大宴会の後、マタイが再びもとの仕事や生活に帰ることはなかった。聖書では献身に対するイエスのお考えの厳しさが現わされている。*(ルカ9:57-62)59節のおことばは詳訳聖書では「主よ。まず行って、私の父が亡くなるのを待つことを許してください。」と補足されている。イエスに召された者は、ときに財産を捨て、家族から離れ、親を看取るという責任をも神にゆだねてイエスとともに前に進まなければならない。それは、弟子たちを通して神の福音が伝えられることにより、人々を死からいのちへと移す神の約束が地上で現実となり、この世界に神の御力が現わされるためだ。そして神の救いが完成されるときがくる。救いの完成とは神が永遠に統治される御国の実現だ。イエスの弟子たちが神からの使命を負って目指すゴールはこの神の国だ。弟子たちはイエスに従うことで、この世的な名誉、地位、財、名声、落ち着いた生活さえも失った。イエスは彼らの従いを高く評価し、従いに対する豊かな報いがあることを約束される。*(マタイ19:27-29)ペテロがイエスのためにいのちも捨てます。と言ったことばは、決して安易に出たことばではなかった。今までのようにイエスについて行く決心が弟子たちのこころにはあった。弟子たちはイエスを愛していた。しかし、イエスが捕まえられた夜。弟子たちはイエスを残して逃げ去り、ペテロはイエスなど知らないと三度否定した。*(マタイ26:69-75)このペテロの出来事は人には自分ではどうすることも出来ない弱さがあることを浮き彫りにしている。しかし、イエスは弟子たちに失望しておられなかった。
「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」実に、イエスが「後にはついて来ます」と語られたように、ヨハネ以外の弟子はみな殉教の死をとげたことが伝えられている。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」人にはイエスに従う力はない。しかし聖霊には力がある。キリスト教の歴史がそのことを証明している。
2025年3月23日 基督聖協団目黒教会 馬上真輝師
「私たちは一つ」コリント人への手紙第一12章12-27節
パウロは12節で「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です」と語っています。パウロはここであえて「キリストもそれと同様です」と語ることで、教会はキリストのからだであり、キリストと教会はとても密接で豊かな関係性をもっているということを表現しています。そしてキリストのからだである教会は、人の体がそうであるように、多くの部分が存在していて、その多くの部分が一つとなってからだを形作っています。私たちは皆、一人一人違う存在でありながらも、同じ御霊によってバプテスマ受けた、一つのからだの一部です。また、体の中に全く同じ役割を担う部分は存在しません。神様は、みこころにしたがって体の中にそれぞれの部分を備えてくださって、役割の大小はさまざまでありながら、すべての部分で一つの体となるように作られました。キリストのからだである教会もまた同じように、皆がそれぞれ違った役割を持ち、一つのからだ、キリストのからだを作り上げています。神様は、全体が調和するようにからだを組み合わされました。25節「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。」体の各部分が反発しあったり、あるいは離れあったりしては、体は分裂してしまいます。キリストのからだである教会は、そのような分裂がなく、むしろ各部分がお互いに配慮し合い、調和して一つのからだとなるようにと、神様によって組み合わされているのです。そのような教会は、一つのからだとして、痛みや喜びを全体で共有します。誰かが痛み苦しむなら、主であるキリストを通して、からだの各部分である一人一人が痛み苦しみを共有します。また誰かが大切にされるなら、主であるキリストを通して、一人一人が喜びを共有します。私たちはまさに「キリストのからだであって、一人ひとりはその部分」なのです。みなさんは今どのような中にあるでしょうか。イエス様は、私たちのことをよく知ってくれています。私たちのことを、自分のことのように思ってくれています。そして私たちもキリストのからだの一部としてそれらを共有しているのです。今目黒教会は、主任牧師である横山聖司先生の病のことで、皆が痛み、思いを一つに祈っています。病の中にある聖司先生の心を思い、胸を痛め、主に祈っています。ここにキリストもおられます。どうかこの教会が、キリストのからだとしてますます一つになり、主の栄光の表される教会になっていくようにと願います。
2025年3月16日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「主のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道者の書3章11節
本日の聖書箇所である伝道者の書は知恵の書と呼ばれます。この伝道者は、地上で起こっている一切の事柄を見極めようとします。そんな彼はこの世界のすべてを見てこの世界のすべては「空」「空しい」といいます。伝道者は、正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがあるといいます。そして、善人も悪人も。知恵ある者も、愚かな者も、みんないつかは同じように死を迎えるという現実があります。これは、もっとも空であると言います。正しい人によいことが、悪い人に悪いことが起こるとは限らないのです。私たちの人生は、突然嵐に見舞われることがあります。「人生にこんな悪いことが起こるなんて、自分はなにか大罪を犯したのだろうか。身に覚えはない。」「何故、私の人生にこのようなことが。どうしてあの人の人生にこのようなことが起こるのか。」そのような中で、伝道者の書が指し示す「神の時」から大切なことを教えられます。伝道者の書では、一章から「日の下」で生きること、その人生の虚しさが語られています。しかし三章では、日の下から人生を見つめるのではなく、天の下から人生を見つめています。地上から目を離し、天の眼差し、神様の視点へと移り変わります。私たちの目に望ましくないと思えるようなことも、神の御手の中にあり、神様の眼差し、永遠という視点から見た時、それは神様の「美しい」計の一部であるということです。それと同時に「神は人の心に永遠を与えられた。しかし、人は神が行うみわざの初めから終わりまでを見極めることができない」と続きます。神様はこの天地を創造されました。宇宙という私たちの手に到底、収まらない壮大なスケールを管理されているお方です。私たちは、人間は、神様の大きなご計画とその御業を知り尽くすことはできないのです。「私たちの目に見える良いときも悪いときも」すべてが神の御手の中にあるということは、嘆きの中にあって、深いところで平安を見いだすことができます。私たは、その平安の中で与えられた時をあるがままに生きることができるのではないでしょうか。悲しみを無理に喜びに変えるでもなく、悲しみをなかったことにする訳でもなく、主の御手の中にあるという深い部分にある平安の中で嘆きの時を過ごしていきたいと思うのです。伝道者は、神を抜きにしてこの世界を見るなら、この人生はヘベルだといいます。けれど私たちが神を恐れ、神とともに生きるならば、私たちの人生から希望は消え去ることがありません。私たちはヘベルと思えるこの地も、神の前に誠実に生き続けたいと思います。私たちのいのちがある限り、神によって与えられた使命がそれぞれにあるのです。「よくやった、私の忠実な僕よ」そう言って主が私たちを抱き、御国に迎えてくださる日が待っています。今日も主の約束を見上げて歩んで参りましょう。
2025年3月9日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「栄光」ヨハネ13:31-35
旧約の時代、神はイスラエルを通して御自身の栄光を現わされた。神はイスラエルを偉大な御業によってエジプトから救い出し栄光を現わされた。神の臨在が昼は雲の柱、夜は火の柱の中にあり彼らの旅路を導いた。神は不信仰につぶやくイスラエルの民のために荒れ地の岩から水を溢れさせ、ウズラの群れを与え、約束の地に着くまでマナが滞る事はなかった。イスラエルを救い守り導くという過程のなかで、神の栄光はよりはっきりと現わされた。イスラエルが王国を持つと、イスラエルは神に依り頼むことを捨て、近隣諸国と同盟を結ぶことによって国の安定を計った。同盟と同時にイスラエルに入り込んだ偶像は、イスラエルの神の御こころに浮かんだことのないような汚れをイスラエルに溢れさせた。イスラエルは神のさばきを受け、滅びの道を辿る。しかし神は力強い御手でイスラエルを神の民として霊的に回復させる約束を預言者たちに授け、イスラエルから出る救い主メシヤによって、すべての国民がメシヤを仰ぎ見て救われる神の恵みのご計画を明らかにされた。(イザヤ42:1-9)
(イザヤ49:6)イスラエルと異邦人、すべての国民を救おうとされる神の愛によって、人の失敗をも益と変える神の力、神の真実、神の栄光はより一層輝いた。「救い主イエスは神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ。」(ヘブル1:3)人を救う神の栄光は救い主イエスによって輝き、イエスが人に仕えられるお姿は神の御本質を現わす。神はひとり子イエスを人の身代わりとして十字架の犠牲とされるほどに人に仕えられた。(ヨハネ12:23-32)
真理を求めるギリシャ人がイエスに会うことを切望していることを聞いたイエスは、ご自分が万人の救いのために死に、栄光をお受けになることを弟子たちに告げた。
神に従い、呪われた者として十字架にかかることはイエスにとって、大きな苦しみだった。「今わたしのこころは騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」御むねに従い神の栄光が現わされることこそがイエスにとってすべてだった。神のひとり子イエスの従順により、父なる神の万人への愛のご計画は成就された。イエスを信じるすべての人が神の子とされ、永遠の滅びから永遠のいのちへと移る大いなる救いの道が開かれた。悪魔は神に打ち勝たなかった。
神はイエスに栄光をお与えになられた。死と黄泉の力を砕き、よみがえり、神とともに世界を創造される以前の栄光をイエスは取り戻された。イエスは弟子たちとの別れを前に、愛する弟子たちを見つめて告げる。(ヨハネ13:33-35)
父なる神と子なるイエスがすべての人々を愛し、仕えられ、栄光を現わされたように、
神の栄光を現わす者となるように、弟子である私たちにイエスは求めておられる。
聖霊がわたしたちに良いわざを備えてくださるように祈り求めて行こう。
2025年3月2日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「新しく生まれる」コロサイ2章10-14節
本日の聖書箇所はパウロがコロサイの教会に送った手紙の内容です。パウロはこの手紙を書き記したとき、牢屋に繋がれていました。パウロにはこのコロサイ教会にどうしても手紙を通して伝えなくてはならないことがありました。それは、コロサイ教会が、キリストの理解について混乱し、キリストに属さない教えが教会に入り込んでいるという情報が耳に入ったからです。コロサイ教会の異端がどのようなものであったのかは、様々な憶測があり、それを断定することは困難ですが、この手紙を読むと、「安息日」「食べ物や飲み物」の規定を守ること、さらに「割礼」を行うことを何者かがコロサイ教会の人々に求めていたことがわかります。律法の規定を守ることで救われる、神の民とされる、という教えをパウロは拒みました。
パウロは11節で、私たちは「キリストの割礼」を受けたと言います。キリストの割礼とは、まさに十字架を指しています。イエス様は肉体の一部分ではなく、肉体の全部、いのちのすべてを「切り捨て」られました。神への従順の故に、十字架上で痛み、もだえ、苦しまれたのです。そしてそのキリストの苦しみ、流された血の故に、私たちの罪は聖められたのです。十字架は私たちを聖なる者として定めます。私たちが自分の罪を認め、キリストの贖いを自分のものとして、信じ、受け取った時、古い人は滅び、新しいいのちがはじまっているのです。
コロサイ教会の中に潜む、ユダヤ主義は救いの条件として割礼を求めました。自分の包皮を自分で切り取り、それによって自らをきよくして、神に受け入れられる者となることを求めました、それはまるで、キリストの贖いだけでは、私たちの救いは完成しない、不十分であると言っていることと同じです。私たちにも同じような問題が潜んでいるかもしれません、自分は救われるために、善い行いをしないといけない。自分は救われるために、イエス様以外の何かが必要な気がする。そう感じてしまうようなことがないでしょうか。パウロが獄中から、どうしても伝えなくてはならなかったのは、この福音理解のゆがみを正すことでした。私たちを罪からきよめることができるのは、イエス様の十字架の血潮だけです。そして、イエス様の十字架による罪の贖いが、私のためであったことを受け取り、バプテスマを授かったそのときから、私たちは、新しい人としての歩みがはじまっているのです。コロサイ教会の人々が救われるにあたって割礼は必要ありませんでした。聖書に記されているように。私たちの救いに必要なのはイエス・キリスト、ただお一人です。私たちは信仰によってすでに義とされているのです。主を見上げて参りましょう。この事実を大胆に今日受け取って参りたいと思います。
2025年2月23日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「反逆」ヨハネ13:21-30
ユダの裏切りは、全ての人をあわれむイエスにとって、こころが引き裂かれる出来事だったに違いない。ユダがイエスからパンを受け取ると、サタンが彼に入った。とヨハネは記している。ユダの裏切りには狡猾なサタンの働きが背後にあった。なぜ、ユダはサタンに支配を許すに至ったのだろうか。弟子たちの足を洗うとイエスは仰った。(ヨハネ13:16-17)―詳訳聖書―
「真実を最も真実にあなたたちに告げる、しもべは主人より偉くはない。またつかわされた者はつかわした人より上位ではない。この事がわかっているならば、それを行えば、あなたたちは幸い(うらやまれる者)である。」
私たちはイエスが自分の上位におられることを本当にわかっているのだろうか。人生の主権をイエスによって握られることを恐れ、逃げ回る者ではないだろうか。
それでも、最上位者であられるイエスは私たちより低い位置に立ち、頑なな私たちを待ち続ける。私たちの反発を受け、軽んじられても耐え忍び、人の魂が永遠のいのちを得るまであきらめない。人が神の栄光を現す者と変えられ、神の喜びをともに喜び、真の幸せをかみしめる者と変えられるまであきらめない。神の愛はしぶとく、あきらめることを知らない。
人が永遠のいのちを得るとき、天ではみ使いたちの大歓声がおこり、神の栄光が現される。神の子がイエスの教えに従って歩み、悲しみ、痛みに耐えるとき、彼らを苦しめる人々に神の栄光が現される。(マタイ5:9-16)
サタンは神の子たちがイエスに従い、神の栄光が現されることを全力で阻止しなければならない。
イエスの弟子、ペテロがイエスに「サタン」と呼ばれ退けられたことがある。(マタイ16:21-23)
イエスは万人の救いのために、そして神の栄光が現されるために苦しみを通らなければならないことを覚悟されていた。御自身を完全にお捨てになり、十字架の死によって従順を学ばれることは、イエスにとって厳しい戦いだった。その時、ペテロはイエスをわきにお連れして、十字架の死などおこらないとイエスをいさめ始めた。イエスは即座に「下がれ、サタン」とペテロを退けた。ペテロの背後にあるサタンの存在を見通された。「しもべはその主人より偉くはない。またつかわされた者はつかわした人より上位ではない。」イエスの弟子として選ばれ、いつもイエスとパンを分かち合って食したユダはイエスにかかとをあげた。メシヤの真理のおことばを聞いても、メシヤの証拠としての奇跡を見てもイエスの権威を認めなかった自分中心な心は、悲惨にもサタンに用いられ、イエスを裏切る者となった。もし、神が私たちに従うことを求めておられるのなら、どうか聖霊の神が私たちに従う力を与えてくださいますように。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)
2025年2月16日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「そうなんだよなあ」エペソ人への手紙1章4-5節
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」暴君信長は、自分の意に添わず鳴こうとしないホトトギスは即座に殺してしまうだろう。一方、鳴かないホトトギスに対して、苦労の天下人、秀吉は自らで鳴かせてみせ、ゆっくりと機が熟するのを待った家康はその時を待っただろう。「そうなんだよなあ」誰かの俳句を通して三人の英雄の性格を端的に知り、歴史への理解を深める。このように、私たちにも神や救いについての理解が深まる瞬間がある。心に深い平安が訪れ、新たな目が開かれる。
「すなわち神は私たちを世界の基に置かれる前からキリストの内に選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神はただ、みこころのままに私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:4-5)
パウロのこの言葉によれば、教会との結びつきは、私たち自身の決意や選びに決め手があるのではなく、神の決意や選びに決め手があるという。「私は横山を選び教会に結び付ける」それは世界の基の置かれる前から決められていたことである。そうなんだよなあ。私たちが自分でした決意は絶えず、動揺に脅かされる不確かなものである。人間主体の信仰ほど不確かなものはない。
使徒の働きの中に見られるパウロの姿は神の決意と選びの表れだった。キリスト者を迫害していたパウロであったが、復活のイエスと出会う。そして主はパウロが伝道者としての神の選びの器であることを訴えた。パウロはこう言う。「今では神を知っているのに否、むしろ神に知られているのに…」(ガラ4:9) パウロは神が私たちを知っているという。人間が神を捉えているのではなく、神こそが私たちを知り捉えておられるのだ。この信仰は猿と猫に例えることができる。母猿は、自らの手足の四肢を使って木から木へと渡り歩くので、移動の際、母猿は子猿をその手で抱くことができない。子猿は自らの力で母猿にしがみつかなくてはならず、子猿が油断すれば転落する。しかし猫の場合は全く異なる。母猫は子猫をくわえて移動する。子猫は油断しても転落することはない。決め手を握っているのは母猫であるからだ。私の信仰は猫タイプである。私はただ「アバ、父よ!」と父であられる神によって、知られ、捉えられ、子猫のように父なる神に抱かれ、抱きあげられ、この複雑な人生を移動しているだけである。
私たちと父なる神との結びつきは、経験としては、私自身が決意し私自身が選び取って教会に行くようになったと言える。だが、そんなものは建前で合って、真実はもっと別なところにある。「神はみこころのままに私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」人間が神を捉えているのではない。神の側があなたを捉えている。救いの確かさは捉えていることの確かさではない。捉えられていることの確かさである。「そうなんだよなあ」
2025年2月9日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「謎」黙示録21:1〜3 ダニエル12:4
カナの村で決結婚式があり、イエスと母マリアは母子で出席していた。だが宴たけなわという時、葡萄酒が尽き果てようとしていた。母は、息子に「何とかならないかしら」と、訴えた。イエスは母に言った。「女の方、あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。わたしのときはまだ来ていません。」この言葉の意味する謎の何たるかは母マリヤにはわからない。だが、これまでもそうであったように母は子に、母は謎に服従する。ダニエル書はこの謎について言及している。「ダニエルよ。終わりの時までこの謎をひめておけ。(ダニエル12:4)これはこの謎の前でたたずむ信仰者に対して与えられた言葉である。「グレード4で最も厳しい悪性脳腫瘍です。余命は1年です。」私はこの謎の前にたじろいだ。「あなたは終わりの時までこの謎を伏せておけ」(ダニエル12:4)これは謎の前でたたずむ仰者に対して与えられた言葉である。主イエスを救い主として信じても、歴史や人生で起こる出来事の究極的な謎の意味も、その謎の意味の何たるかも、試練の意味も試練の意味の何たるかも、試練の意味も「終わりの時」まで隠され封じらている。「終わりの時」とは簡単に言えば歴史の謎、人生の謎に結論がだされる時である。
「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかり拭い取ってくださる。』
世界の歴史や人生は謎が満ちている。この黙示録のこの場面こそが、究極的に「人生と歴史の謎」が克服された「終わりの時」である。謎の本質は、死や苦しみである。私たちの眼に涙があふれるのもそのためでである。神の言葉も答えも、終わりの時まで人生の謎も歴史の謎も封じられ、秘められている。謎の具体的な表れが、死や苦しみである。長い間封じられ、秘密にされていたが、終わりの時についにその謎が解かれる日がやってくる。、その日まで、謎の意味も秘密にされ封じられている。だが「終わりの時」が来れば、人は、すべてを理解する。こうして人は、謎の答えにたどりつく「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3)
すべての謎が明かされる神の国、新天新地はもうそこまで来ている。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。
2025年2月2日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「イエス様の勝利」マタイ4章8~11節
本日の聖書箇所は、イエス様が公生涯をはじめられる前に、サタンの試みに合われたところです。サタンは、イエス様を誘惑しました。イエス様がその生涯で神様の御心に従って生き、十字架という受難の道に進み、神の御国の建設の計画が前進することを阻止したいからです。イエス様がの進む道は、人々から蔑まれ、裏切られ、最後は十字架上で死ぬという、はたから見ればみじめで屈辱的なものです。しかしサタンは、私にひれ伏すなら、そのような歩みとは反対に、栄華に満ちた、この世の富と権力を今ここで与えるというのです。イエス様はこの誘惑に屈し、父なる神を裏切ることはなさいませんでした。イエス様は父なる神を愛し、神の御心の道を歩むことを選ばれました。
イエス様はサタンに勝利されましたが、私たちは弱い者です。聖書は「神にのみ仕えなさい」と言いますが、私たちは原罪の故に、自分の好きなように生きたいと願うのが本当のところなのではないでしょうか。「敵を愛しなさい」と言われるとき、私たちは葛藤を覚えます。「どうしてそんなことしなくちゃいけないんですか」「嫌です」そう神様に向って叫びたくなることがあると思うのです。また私たちは、神様を信頼すること、礼拝することが難しいと感じる日があります。サタンが激しく抵抗するこの世界で私たちは様々な痛みや悲しみを経験します。自分が直面している恐れや孤独という問題に対して神様はまったく無力な存在であるかのように感じてしまうことがあるのです。私たちは神により頼むよりも、目に見える「富」「権力」「人望」を追い求めることで恐れや孤独を満たそうとすることはあいでしょうか。
私たちはそのような神様の前での自分の姿に目を留めたとき、自分に失望します。でも聖書には義人は誰一人いないとあります。もし、今自分の心の内に責めを感じ苦しさを感じておられる方がいらっしゃるなら、それは自分一人だけだと思わないでいただきたいのです。私たちは皆で今日もイエス様に目を留めたいと思います。イエス様はこの世界でただ一人、神に背くことなく真っ直ぐに神の御心を生き続けられたお方です。イエス様の神様への従順によって、私たちの背きの罪、弱さは覆われました。
また私たちは、イエス様が御言葉をもってサタンに勝利されたということを私たちの模範として覚えて参りましょう。サタンは私たちを、神のいない虚しい世界に引きずり込もうとします。けれど神様は「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」と言います。神は私たちの苦しみの中にあって無力なお方ではないのです。
神様は、サタンと共に人々が滅びることを望んでおられません。神様は皆さんを、人々の救いのために必要とされています。神の御心に生きる道は、イエス様が進まれた受難の道のように苦しい道かもしれません。けれどイエス様が私たちのために苦い杯を飲まれたように、私たち神様と共に、その道に踏み出して参りたいと思います。
2025年1月26日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「洗足」ヨハネ1-20
神の御子イエスは世界が造られる以前から神とともにおられ、神としての栄光に輝いておられた。(コロサイ1:15.16)
イエスは全ての人を救うために神としての栄光を捨て、この世界に人の子としてお生まれになられた。
ご自分の弟子を選び、寝食をともにした。彼らに神のおこころを明らかにし、神のおこころを行うように教え育てた。しかし、イエスと弟子達は神に対する反逆者として宗教指導者たちからいのちを狙われるようになった。
イエスは神より与えられた使命を成し遂げ、神のもとに帰る日が間近に迫っていることを知り、この世に残していかなければならない弟子たちとともに、過ぎ越の食事をともにすることを願った。食事の席では誰が一番偉いかという議論が起こった。
弟子の一人、ユダはこのときすでにイエスを宗教指導者たちに引き渡す取引を済ませていた。裏切りの見返りとして銀貨30枚を受けとることになっていた。彼はイエスの弟子だったがイエスとこころを一つにせず、運命をイエスとともにする思いはなかった。イエスを売り、金を得て、宗教指導者たちに認められ自分を救うことの方が賢明と判断した。弟子たちが議論をしている様子をご覧になっていたイエスは食事の席を立つと、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭き始めた。(ヨハネ13:12-17)
ひざまづき弟子の足を洗うイエスのお姿からは弟子への愛が溢れ出ていた。互いに忍耐をもって愛し仕え合うことが、これから興されていく教会のいのちだと教えた。大牧者であられるイエスは、ユダの足をも除外することなく洗われた。ゲッセマネの園でイエスを見捨て逃げた弟子たちの足も、イエスの弟子ではないと三度否んだペテロの足も洗われた。イエスはこれから起こる弟子の裏切りをご存知だった。それでもイエスの弟子への愛が薄れることはなかった。神の誠実な愛に対して不誠実で応える人の弱さを覆い包む愛でイエスは私たちを愛された。神の深いあわれみのなかに留まり続け、思い上がることなく、互いに愛し仕え合うように弟子たちに、そして私たちに命じられた。
誰もが自分本位に歩むことを望む。(マタイ16:24-26)
しかしイエスは全ての弟子に、聞くだけの者にならず、行うことでイエスの愛に応えることを求められる。自分の無力さを痛感しながらもイエスにすがり、忍耐深く従うときに神はその人を祝福される。そして、イエスの弟子を通して聖霊はこの地上に神が支配される領域を拡大していかれる。(ヨハネ16:32-33)
イエスとともに神がおられたように、弟子とともに聖霊がおられる。イエスがサタンに完全な勝利をとられたように、弟子も圧倒的な勝利者となることを聖霊は教え、励ます。イエスの弟子である私たちは遣わされた場所でイエスに従って生き、神の支配が聖霊によってこの地の上に広がり続けるように祈り求めよう。
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