基督聖協団目黒教会

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基督聖協団目黒教会 episodes

  • 恥の壁

    2025年1月19日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
    「恥の壁」マルコ5:1~20
    ペルーの首都リマに「恥の壁と呼ばれる富裕層と貧困層の居住を分かつ壁がある。ガリラヤ湖を舟で横切り、イエスは異邦の人々の住む村には入った。そこには豚を飼う民がいて、その数二千匹・・・神を持たない異邦の民は、おびただしい数の豚を所有する豊かな人々であった。だが、平和な豊かな村の中にも見捨てられた人がいた。「イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓から出て来て・・・この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。…彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。」(5:2-5)イエスが、この狂人のうちに住みついた汚れた霊に向かって「この人から出ていけ。」(5:8)と命じると「汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。」(5:13)村人たちは、この狂人の癒しのために犠牲になった、二千匹もの豚という高額な代価を惜しんだ。村人たちの計算によれば、一人の狂った男と、二千匹の豚とでは、釣り合う余地はなかった。九十九匹の良い羊を野原に残し、いなくなった悪しき一匹を探し求める羊飼いの姿は、あくまで聖画の中だけの話であって、村人たちにとっては絵空事でしかなかった。たとえ一人対一匹であったとしても、その一匹が自分の所有物である限り、それを失うことは一大事なのです。もともとこの村は、肥沃な土地であり、そこに住む村人たちは、神を持ってはいなかったが、物だけは多くを所有する豊かな人々であった。だが、その内面は、砂漠にもまして不毛の地、不毛の心であり、氷に閉ざされた人間の魂のツンドラであった。正気に返った彼は「お供をしたいとイエスに願った。」(5:18)神の恵みによって正気に返った男は、この村の平和が恐ろしかった。この男は、自分一人でこの村で生きてい行く自信がなかった。しこで「お供をしたいとイエスに願った。」(5:18)「しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。『あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか…を、知らせなさい。』」(5:19)この村で生きよ!とイエスは命じられる。イエスは彼の口に、彼がこの村で語り、家族のもとで知らせるべき福音のことばを授けられる。彼はこのゲラサの村で、本当に生きて行こうと思った。夕日に輝きわたるガリラヤ湖に立ちイエスを見送った彼は、それが初めてのように故郷の美しさを知った。イエスは村人たちが関わることのない恥の壁を破壊してゲラサの狂人と出会い人間性を回復し人間を取り戻すように導く。多くの豚を持つ壁の手前の富裕層。壁の向こう側ではゲラサの狂人が枷と鎖でつなぎとめられている。壁の手前と向こう側一体どちらが立ち入るべksからざる悲惨な領域なのか?

    21 min
  • 私たちは神の喜び

    基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生

    「私たちは神の喜び」箴言8章 馬上野々花

    箴言は知恵の書と呼ばれています。この8章では知恵が擬人化され、知恵自身が喋っています。今回特に箴言8章の中で注目したいのは、22-36節です。ここには、この世界の創造の出来事が記されています。この個所から分かることは「知恵は世界がつくられる前から神と共にあり、知恵は神の傍らで、神と共に世界を組み立てるものであった」ということです。そして知恵はこう語っています。「わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」神様と知恵は、私たちを喜びと楽しみをもって、そして非常によいものとして造られました。みなさんは、このことを聞いて何を思うでしょうか。「あなたの存在は素晴らしい」と言われて、それを受け取ることができるでしょうか。私たちは人と自分を比べずには生きていけない社会の中を生きています。私たちは「あなたはもっとこう変わらなきゃいけない」「そのままではダメだ」と言う言葉を善意であれ、悪意であれ、沢山聞いて来たと思います。ありのままの自分、弱い自分、本当の自分なんて愛されない。だから私はもっとがんばらなくてはいけない。もしくは、私はもう頑張れないから、私はダメな人間なんだと、ふさぎ込んでしまう。そんなことがあるのではないでしょうか。

    私たちは御言葉を通して神様に愛され、尊ばれている存在であるということを心に覚え続けなくてはなりません。この箴言8章の知恵は、神と共にこの世界を、そして私たちを喜びと楽しみをもって創造しました。私たちはこの知恵からキリストを見いだすことができます。ヨハネの福音書1:1-3には、「神の言葉」としての「キリスト」、「先在の御子キキリスト」の姿が記されています。キリストは神の言葉となって、生きて働き、神と共にこの世界を創造されました。私たちはこの神の言葉であるキリストを通して、神の真理を知ることができます。イエス様の十字架は、私たちに対する神様の愛のしるしです。私たちは罪の中にあって、救われるに値しない存在であったのに主は私たちを救ってくださいました。それは、主は私たちの造り主であり、私たちの存在そのものを愛し、ご自分のものとして保とうとしてくださったからです。「知恵」は「子たちよ、今、わたしに聴き従え、訓戒を聞け、知恵を得よ」と強く勧めます。それは、私たちの幸いのため、「いのち」のためです。知恵から離れ、自分自身を痛めつけ、死の道を歩むことから守られるためです。神によって尊く造られ、愛されている存在であるということを忘れないためです。自分を否む気持ちでいっぱいになっている私たちに、今日も神様は愛をこう語っています。私たちは、この世の言葉でも、自分自身から湧いてくる内なる声でもなく、神の言葉、イエスキリストに留まり続けて参りたいと思います。

    28 min
  • この先の栄光

    2025年1月5日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
    「この先の栄光」ルカ17:11~19
    エルサレムへの途上イエスは十人のらい病人の集団に出会った。人として生まれた以上成功して勝ち組の生涯を送りたいと願っていた少年がいた。人に罵られ軽蔑されて生きるなんてもう嫌だ。だが少年の過去はドロドロだ。その過去を覆い隠さなければこの先の成功はあり得ないこの少年の父親はハンセン病で顔はぐちゃぐちゃに崩れ、親子は世間を追われ最低の生活野良犬にも似た生活を余儀なくされる。折しも戦時下の空襲で役所が焼けたタイミングで自分の戸籍を改ざんすることを思いつく。過去を消し去った少年は栄光の生涯を歩み出す。十人の頼者たち…人生の一時期に思いっきり厳しいドロドロ悲惨な運命に見舞われる。イエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」(17;17~8神を礼拝するためイエスのもとへ帰って来たのは一人だけだった。残りの九人は栄光の生涯を目指したのだろうか。「忘恩負義」という言葉がある。恩を忘れて義理に背くことである。

    19 min
  • 神の国

    2024年12月29日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
    「神の国」マタイ25:31-46
    神の国、それは神の支配を意味している。
    この世界は神によって創造され、永遠に変わることのない神の統治の下にある。神の支配は地上にある目に見える国、人類、自然界、宇宙に留まらない。神の支配は人のこころの中にまで及ぶ。
    (詩篇19:1-14)この地上における神の国、神の支配は聖書が明言しているところだ。旧約の時代に神は選民イスラエルの王となられ、神の民イスラエルを導き続けた。神の真実な愛に応えることが出来なかったイスラエルは滅ぼされた。しかし、神の真実は人の不真実を覆った。やがてイスラエルの不信仰が取り除かれ、イスラエルが霊的に復活し、神が統治される御国の民とされることが預言されている。そして、そのときにはイスラエルだけでなく、万人が神の子とされ、神の国の住人とされることも預言されている。(詩篇87:1-7)
    バプテスマのヨハネも主イエスも叫んだ。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」神の国が近づいた。なんと希望に満ちたことばだろうか。それと同時になんと厳かなことばだろうか。イエスがこの世界に到来されて、最終的な神の国の実現は圧倒的に近くなった。イスラエル中の人々は神の国に入るために、バプテスマを受けにヨハネのもとへ来た。集まってきた群衆にヨハネは言った。「だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(ルカ3:7-14)ヨハネは罪の赦しに導くバプテスマを人々に授け、正しいことを行い、悪から離れるように教えた。イエスはたとえを用いて警告を与える。(マタイ24:42-51)
    人が神に義と認められるのは行いによるのではない。たとえどんなに正しく生きたとしても、イエスが十字架の上で私たちの身代わりとなって流された血によってでなければ人が神の御前に義と認められることはない。しかし、神は御自身が明らかにされた真実の愛に私たちが応答することを求めておられる。互いにへりくだり、忍耐の限りを尽くしてイエスが愛されたように愛し合うことを命じられた。十字架の赦しの恵みを放縦な生き方の理由としてはならない。人は神の御前で行ったことの報いを受ける。イエスは私たちに目を覚ましていなさい。と警告を与えられる。
    私たちは神の御こころと一つにしていただくことを求め続け、探し続け、叩き続けて生きていくべきだ。(ヘブル12:14-24)
    私たちを待っているのは、正しくさばかれる神。信仰を全うして天に帰った人々。私たちをとりなす主イエス。あわれみを語るイエスの血。私たちの真の家族が待っている。

    25 min
  • 最大のプレゼント

    基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
    「最大のプレゼント」ルカの福音書2章8-20節
     救い主がお生まれになった知らせは、はじめに羊飼いの元に届きました。神様は、福音のはじめをきくのにふさわしい者として、貧しい羊飼いを選ばれました。イエス様は、神であられるのに、家畜小屋で貧しい姿をもってお生まれになりました。完全で聖いお方が、不完全で罪に汚れた人間の姿をもって地上にうまれてくださったのです。私たちは、このイエス様のお姿を通して、二つの喜びの知らせを受け取ることができます。 まず一つ目は、「イエス様が人となって地上にこられたのは、私たち人間の犯した罪の罰を代わりに受けてくださるためだった」ということです。御子なるイエス様は私たちを罪から救い出すために、人となってこの地上にきてくださいました。人の心の内には神に背く心があり、人には神の言葉に従って生きるよりも、自分の思い通りに生きたい、神の主権の下に置かれるよりも、自分が主権者となって生きていきたいと願う想いが潜んでいます。しかし、罪によって創造主から離れ、神が与える平和の統治を拒んだ民は破滅の道を歩むのです。けれど、神様はご自分を拒む、ご自分の民をなお愛しておられるのです。エレミヤ書では、神様は自分に背く民に対して、怒りを抱きつつ、それでもなお、彼らを愛し、彼らが、裁きに喘ぐ姿を見て、心をひどく痛め、あわれまずにはいられないことが記されています。そして預言にはご自分の民を必ず回復させるということが何度も預言されています。主は私たちを罪から救いたいと願っておられます。神様は、御子なるイエス様の十字架を通して救いを完成させました。御子なるイエス様を地上に送り、全ての人の罪を背負わせたのです。神様はその一人子を私たちにお与えになるほどに、世を愛してくださいました。御子が私達人間と同じ、人の姿となって、この地上にお生まれになったのは、人間の罪を背負う道を歩むためだったのです。そしてこの地上を歩まれたイエス様から、私たちはもう一つの喜びの知らせを受けることができます。それは「貧しい者の友となってくださった」ということです。主イエスは、栄光のお姿を捨て、貧しい者となられました。イエス様は世界の貧しさ、孤独、虐げ、病、すべてをその身をもって知っておられるのです。私たちが孤独に震える時、貧しさにあえぐとき、虐げに合うとき、死に恐れを覚える時、「あなたの痛みを私はよく知っている」そうイエス様は私たちを抱きしめてくれます。 み使いは心に貧しさを覚えている羊飼いのもとに訪れました。彼らは、「羊飼いである私にこの喜びの知らせはふさわしくない、何かの間違いだ」そんな風には思わなかったのです。彼らはただ信じました。イエス様は、私たちを救うためにこの地上に生まれてくださいました。私たちも主が用意してくださった、大いなるプレゼントを感謝して受け取って参りましょう。

    29 min
  • マリア

    2024年12月15日 聖協団目黒教会 牧師横山さおり
    「マリア」ルカ1:26-38
    人々の目にとまることのない、ガリラヤのナザレという町に住む一人の乙女に神の選びの御手がのばされた。神から遣わされた御使いガブリエルはマリアに言う。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」マリアの人生を一変させる神のご計画がガブリエルによって一方的に告げられた。マリアはこたえる。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばのとおり、この身になりますように。」マリアのこたえには「断る」という選択の余地がない。自分の意思を捨て、神の意思を優先させる完全な献身を表すこたえだった。この献身は神の深いあわれみに感謝し、日々神に信頼しメシヤの到来とイスラエルの救いを待ち望むマリアの信仰が土台にあったことを想わせる。(ルカ1:46_55)
    しかし、メシヤの母マリアの歩みは、戸惑うことの連続だった。律法の慣習に従って、幼子イエスを主に献げるためにエルサレムの宮に行くと、預言者シメオンがイエスを抱き、預言することばを聞いた。(ルカ2:25-35)
    幼子イエスは人々の反対にあい、マリアの心は剣で刺し貫かれることになるとシメオンは両親に告げた。
    イエスがメシヤとしての働きを開始されると、精力的にメシヤとして奇跡を行い悪霊を追い出し人々を救った。
    宗教指導者の過ちを彼らの面前で正した。
    そのためイエスは気が触れたという噂が広がり親戚達がイエスを連れ戻そうとする事態にもなった。マリアがイエスを訪ねると、イエスはマリアを「女の方」と呼び、一線を画した態度を示す。イエスに対する権力者たちの勢いは増し、預言者シメオン のことばは成就した。イエスの十字架のそばにマリアは立っていた。我が子が苦しみもだえる姿から逃げることなくマリアはイエスのそばにいた。マリアの心は剣で刺し貫かれた。メシヤの母として召されることが、これほど激しい苦しみを伴うこととマリアは想像していただろうか。神はマリアの献身を尊く尊く御手に握りしめ、滅び行く人々に永遠のいのちを与える救いの御業を成し遂げられた。神が御自身のご計画を行われるとき、誰かの献身を必要とされる。神には成すことの大きさに関心はない。ただ小さいことに忠実であることを望まれる。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」
    イエスを信じる者たちがこころを一つにして祈る輪のなかに母マリアの姿もあった。メシヤ主イエスの再び来られることを熱心に待ち望み、主イエスの御おしえを守り歩むマリアに、もう戸惑いはない。王の王、主の主であられるイエスへの賛美で心は燃えていたにちがいない。(使徒1:9-14)(ルカ1:32-33)

    28 min
  • 星に導かれて

    基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
    「星に導かれて」マタイ2:1-12-
    メシアは世界に平和をもたらす王様であることが、旧約聖書では度々預言されている。そのため、メシアを待ち望んだのはイスラエルの民だけではなく、東方からやってきた博士も同様であった。博士たちは闇夜に輝く、星を通して、メシアの誕生を知り、メシアを礼拝するために訪れた。
    彼らはユダヤにやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が上るのを見たので、礼拝するために来ました。」と告げる。するとこれを聞いたヘロデ王と、町中の人々は動揺した。ヘロデ王は、自分の王座が奪われることを恐れ、一方で民はヘロデ王が自分の王座を守るために、自分たちに危害が及ぼそうとするのではないかと恐れた。王座を絶対に渡したくないヘロデ王はメシアを抹殺しようと企てる。「新しい王様の居場所が分かったら教えて欲しい、私も言って拝むから」と博士たちを騙し、メシアの居場所を突き止めようとしたのであった。
    イエス様のお生まれというクリスマスの喜びの陰に潜む闇。救い主を殺害しようと企てているヘロデ王の背後に、神の計画を破壊し、御国の完成を阻もうとするサタンの働きを見る。
    サタンはキリストがお生まれになったという喜びを、かき消そうと必死である。博士たちは陰謀が渦巻く闇夜を旅したが、私たちも御国が近づいている終末の時代にあってサタンが猛烈な抵抗を繰り返す闇夜を旅する者たちである。クリスマスを前に、私たちの心には、主イエスがお生まれになったという喜びがあるだろうか。それともメシアの誕生という喜びを見えなくしてしまうような闇を心に感じているだろうか。
    私たちは博士の旅路から励ましを受けたい。博士たちが救い主に会うまでの旅を導いたのは、闇夜に輝いた星であった。その星は、博士たちの先頭に立ち、救い主のところまで、彼らを導いたのである。彼らはこの星を子の上もなく喜んだ。私はこの星から、出エジプトの際、火の柱、雲の柱となって彼らの旅を先頭に立って導き続けた神を覚える。(出エジ13:21-22)神はご自分の愛する者をどこまでも守り導かれるお方なのだ。実際に、サタンはクリスマスの喜びを人々から奪い去ることはできなかった。博士たちは夢の中でヘロデの元には戻らないようにと警告を受け、別の道から自分の国へと帰って行き、また主の使いはヨセフに現れ、ヘロデが幼子を殺そうとしていることを知らせ、エジプトへ逃げるように知らせた。サタンによるメシア抹殺計画はあっけなく敗れてしまったのである。
    博士が星に導かれたように、私たちも闇の中を歩いたとしても、主が共にいてくださるという何にも代えられない希望と平安がある。クリスマスに向かっていくこの時、私たちの喜びを奪い去ろうとするサタンの様々な攻撃にあうかもしれない。しかし、私たちは御言葉の真理に留まり、クリスマスを待ち望もう。

    26 min
  • イエスからの問いかけ

    2024年12月1日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

    「イエスからの問いかけ」ヨハネ3:1~3.16

    〝ニコデモ主義〟と呼ばれる教会とのかかわり方がある。

    イエスに対して漠然とした敬意と敬愛の気持ちを持つつも、世俗と決別して、はっきりとした信仰告白をしない。どこの教会にもこうしたニコデモ型がいるに違いない。

    ニコデモは信仰的にはパリサイ派に所属し、社会的にはユダヤの議会、サンヘドリンのエリート議員であったそのニコデモが、ある夜イエスのもとを訪ね敬意と敬愛の思いを伝える。  敬意や敬愛の思いなどなんぼのもんじゃ「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」これはイエスからの問いかけである。ニコデモはイエスの弟子のように、イエスの内側にまで入り来たっていない。しかし無責任な群衆のように、イエスを棄てて離れることもなかったニコデモは地球の周囲を回る月のような存在だった。一度だけ近づきて来て二度と戻らない彗星とは異なり、月は常に地球の周りにある。そして月は一定の意距離を保ちつつ自転しなが地球から離れることも近づくこともない。そして誰もが月を見るのは常に夜である。ニコデモはヨハネの福音書では三つの場面に登場するが、最初の登場は夜であり、イエスのもとを訪れている。昼間のニコデモには輝く地位と名誉があった。彼は密かにイエスの周辺にあったが、同時に議員としての自転も決してやめなかった。敬意や敬愛の思いなどなんぼのもんじゃ「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」これはイエスからの問いかけである。

    18 min
  • 希望の神

    2024年11月24日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
    「希望の神」ローマ15:7-13
    キリストが私たちを受け入れてくださったように互いに受け入れあうようにとパウロは命じる。ローマ教会にはユダヤ人信徒と異邦人信徒がともに集い、根の深い対立が存在していた。
    世界には数限りない対立が存在する。アダムの内に入り込んだ罪の性質は全ての人に受け継がれた。神に背き、人を傷つける自己中心な罪の性質に人が心の支配をゆるすなら、世界は滅びの一途をたどる。メディヤから流れるニュースを聞き、皆がこの世界の行く末に不安を抱く時代に私たちは生きている。深い闇の力が世界を覆っている。しかし、この世界の闇のなかにも聖書は希望の光を語り続ける。パウロは対立するユダヤ人と異邦人が、互いにイエスの御前にひざまずき、聖霊の力によって一つとされることを切に祈りローマ書を記した。自分の内を縛り付ける罪を知り、高ぶらず、神のあわれみに留まり続けるようにとユダヤ人、異邦人双方を戒めた。対立の種となる人のおごりに解決を与えることが出来るのは、救い主イエスしかない。イエスは生涯を通して御自身の権利を主張されることはなかった。人から受ける称賛や名誉でご自身を喜ばせることなく、ただ神からの栄誉だけを求められた。罪のない神であられるお方が罪人として十字架刑にまで処せられた。死に至るまでご自身を与え尽くし、私たちに仕えられた。聖霊によってそそがれるイエスの愛だけが私たちを罪から解き放つ。イエスは聖書に書かれているイスラエルの父祖たちとの約束である、イスラエルの救いを確かなもととし、異邦人へのいつくしみを表され、予言を確かなものとされた。パウロが引用している申命記32章では、異邦人が救われイスラエルに妬みをおこさせること、また異邦人がイスラエルの民とともに主を誉め讃えることがモーセによって預言されている。
    聖書の預言によれば、イスラエルは終わりの時に大きな国々によって攻められるが、最後には神がイスラエル全体を救い、永遠に終わることのない神の国が実現されるとある。「国々よ、御民のために喜び歌え。」そのとき異邦人は、イスラエルの救いを喜び、イスラエルを決して見捨てることなく、人間が不真実であっても決して約束を変えない神のご真実を誉め讃える。(ローマ15:12)(イザヤ11:10)イザヤによっても終末的な預言が与えられている。王となられたイエスの御前にすべての者が一つとなってひざをかがめて礼拝するとき、対立などない。
    パウロが引用した聖書の背景には、すべての者が一つになり住まう神の国の実現への輝かしい希望がある。神の国という揺るがない希望を与えてくださる神を、「希望の神」とパウロは呼ぶ。
    この世にあって、イエスの教えに従い平和をつくり励む者には戦いがある。しかし、イエスを主として告白するところには聖霊がおられる。聖霊は対立ではなく、一致を与えられる。イエスのおこころと私たちのこころを一つにされる。この世の闇は聖霊に打ち勝つことはできない。人の内にある、したくない悪を行ってしまう。という絶望の叫びをも、聖霊は神への賛美に変える。(ダニエル4:29-37)

    21 min
  • ルシファーとミカエルの闘い

    2024年11月17日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
    「ルシファーととミカエルの闘い」ルカ10:17。
    エゼキエル書28章とイザヤ書14章はサタンの起源堕天使ルシファーについての記述である。「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に落とされたのか。あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。」ジョンミルトンの「失楽園」によれば、天使の長ルシファーには地位も名誉もあり、その姿は美の極みであり、成功するにつれ、有名になるにつれ、神に背を向ける。神の支配を受けない自分の居場所、闇の国を作るため、天の御使いの三分の一を説得して反乱軍を組織する。ルシファーの反乱は失敗に終わり天を追われ稲妻のように地上に投げ落とされる。イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、稲妻のように天から落ちました。ルカ」10:17)
    太宰の短編に〝こおろぎ〟がある。手紙文の小説である。
    「お別れいたします。あなたはうそばかりついてきました」妻から夫への衝撃的な宣言で手紙が始まる。夫は画家で先行きもおぼゆかない貧乏画家であったところにヒロインは彼の悲しい画風に感銘し周囲の反対を押し切って結婚を決意する。あれは小さい庭と日当たりのいい縁側の絵でした。縁側に誰も座っていないので白い座布団が一つ置かれていました。青と黄色と白だけの絵でした。見ているうちにこの絵は私でなければわからないものだと思いました。あなたのもとへお嫁に行かなければと思いました。という決心である。結婚しても貧乏で生活は苦しかったがヒロインは不満を抱かず、色々と工夫することに喜びさえ感じていた。ところが急に絵の評判がよくなり、立派な賞なども受けてたちまち夫は有名画家になり、絵が高値で取引されるようになる。すると今まで隠されていた俗物性があらわになり人柄が一変してしまう。ヒロインは「何かが違う」「私が求めたのはこれではなかった」と激しい嫌悪を覚える。ヒロインの切なさが読む人の胸に迫ってくる。成功するにつれ、有名になるにつれ、あらわになってしまう人間の俗物性を鮮やかにえぐりだして間然するところがなお。「わたしが見ていると、サタンが、稲妻のように天から落ちました。ルカ」(10:17)。闇の力は私の心に落ちたのかもしれない。

    23 min

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