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基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「忍耐と励ましの神が与える希望」ローマ15:1-6
(Ⅰコリント12:21-26)
神はからだのなかで他より弱いとみられる部分を、各器官が覆うようにからだを組み合わされた。
それは、からだの各部分が互いのために配慮し合い一つとなるためだ。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
イエスを頭としたからだ(教会)のあるべき姿は、世の中の流れと同じように利益を追い求めて、安易に人を切り捨て、強い者だけを重んじて教会を大きくしようと試みることではない。
教会は一致を祈り求めていく必要がある。
力があると思う人たちは、隣人を喜ばせるべきだとパウロは言う。これは隣人が神に喜ばれる幸いを知り、真の幸せを得るように助力することを指す。イエスはご自身を喜ばせることなく、反対者の攻撃を受けても神のみこころを教えて働き続けられた。
旧約聖書にはイエスのように神を愛し、自分を喜ばせることなくイスラエルの益のために命をかけて働いた預言者や王がいる。エリヤはイスラエルが神に立ち返るために大きな奇跡を行った。しかし、アハブ王のこころは神に立ち返らず、妻イゼベルは偶像の神々に誓ってエリヤの命を狙った。エリヤは死を願うほどに落胆した。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」孤独、絶望、痛みがエリヤのこころを覆った。神はエリヤにご自身を現して励まし、御自身に仕える民を7千人残してあると希望の光を示された。
旧約聖書で活躍した預言者たちは、常に迫害を受けた。しかし彼らは神からの励ましと希望与えられ、忍耐の限りを尽くしてイスラエルの救いを祈り、神の約束の成就を待ち続けた。
新約の時代を生きるイエスに従う人々に、イエスは励ましと慰めのことばを語る。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わてしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」もし、人が誰かのために忍耐して祈り戦っているなら、その人の歩みは間違ってはいない。イエスの苦しみをともに背負っているのだから。万人を救うために、全てを捨てて忍耐の限りを尽くして十字架を忍ばれたイエスは、ともに苦しみを負ってくれる友を求めておられる。そして隣人のために耐えて祈る祈りに神は答えられる。迫害する者だったパウロが、信徒達とともにこころを一つにして神を誉め讃える者とされたように、神は御業を表される。
2024年11月3日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「私は待っているのです」ヨハネ5:3~8
「人間は考える葦である」よく知られたパスカルの言葉である。パスカルは〝考える〟の部分に神への思いを強く託している。人間は風にそよぐか弱い葦にしかすぎないけれど (幸いなるかな神を思い信仰を抱き、神学を考えることが出来るから人間は偉大で強いということだ。逆に言えば神を失えばどうしようもないほど弱い存在なんだと言っているのだ
ベテスダと呼ばれる池があって、そこに大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せって(5:3)水の動くのを待っていた。(5:4)御使いが時々この池に降りてきて水をかき回すことがあって、水が動いた時、最初に池の中に飛び込む者はどんな病気でも癒されるとの〝虚しい希望〟にしがみついていた。この池は間欠泉で、地下水が地熱で温められ水蒸気として気化し、水が動くことがあった。彼らは待っていた。いつの時代も人間は(いつか何とかなるだろう)(そううちなんとかなるさ)とうそぶいて池のほろりで水が動くのをまっている。太宰治の短編に〝待つ〟がある。
小さな駅に私は毎日人を迎えに行きます私は誰かを待っているのです。私は毎日誰を待っているのでしょう。どんな人を…いいえ。私が待っているのは人間ではないかもしれない。こうして何かを待ちながら胸の中では不埒な計画がチロチロ燃えているような気もする私は誰を待っているのだろうか、はっきりしたかたちのものは何もない。誰かが笑って私に声をかけてきた。私が待っているのはあなたではない。それでは誰を待っているのだろうか恋人…違います。お金…まさか!駅の前をぞろぞろ人が通って行く。あれでもない。これでもない。私は一心に待っている。どうか私を忘れないで下さい。あなたはいつか私を見つけるでしょう私は胸を躍らせて、べテスダの池のほとりで待っているのです。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。「人間は風にそよぐか弱い葦にしかすぎないけれど (幸いなるかな神を思い信仰を抱けるから人間は偉大で強いということだ。逆に言えば神を失えばどうしようもないほど弱い存在だ。
2024年10月27日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「どっちに行く、じゃあ右の方へ」ローマ11:29
昔兄弟二人が志を立て故郷を棄てて都に向かった。途中行く道が二つに分かれ、「ここで別れよう」兄は左の道を歩んだ。その夜、弟は検非違使に拾われ、その手下となり、ひとかどの検非違使になった。「都の検非違使とは、今の京都府警本部長である。時移り星流れ都を襲う盗賊の親分を捕らえてみれば、「兄さん!」「それが左を歩んだ兄の運命だった兄は考えた。「あの瞬間が分岐点だったのだろう。ほかの道を選んでいたらどうだったのだろうか。素晴らしい人生。はるかに辛い人生。アブラハムと甥のロトはカナンに向かったていたが途中道が二つに分かれ「ここで別れよう」「おじさんはどっち?」「お前が選べ」東にはヨルダン川流域の緑の低地が広がっていた。西は赤茶けた岩ばかりの荒野だった。「じゃあ東の方を」「よかろう」東側は土地こそ豊潤だったが、その周辺には住む人たちは行いの正しい者たちではなかった。ソドムとゴモラの町…この名を聞けばきっと思い出すことがあるだろう。七つの大罪をことごとく犯し決して悔い改めることがなかった。アブラハムはキリストの血筋を背負っている。アブラハムがソドムとゴモラの住民と一緒に滅ぼされたならキリストはどのようにして来臨するのかアブラハムはある使命を担って、赤茶けた荒野に進んだのだ「どっちに行く、じゃあ右の方へ」選んだ道はただの偶然に見えるけれどその実…偶然ではなく大いなる必然であるケースが多い。私はそう信じる者である。シェイクスピアは「「どっちに行く?科学者になる偉大なチャンスに出会ってもそれとは知らずに見送ったに違いない。坂本竜馬も同時代に生きた三菱財閥の創始者岩崎弥太郎のよう実業家となるチャンスをそれとは知らずに見送ったに違いない。同じ土佐藩出身で深い結びつきもあったのだから。どっちに行く、じゃあ右の方へ」それぞれ歩んだ道は偶然の産物ではなく必然だったのかもしれない。自分の居場所にピタリと収まっただけなのかもしれない。シェイクスピアは劇作家として、坂本竜馬は薩長同盟の立役者としての使命を担って歴史上に現れたに違いない。神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:29)
「どっちに行く?」あなたにだってもっと違った居場所に収まるチャンスに出会ってもそれとは知らずに見送って目黒教会員として収まったのだ。私だって、政治家になるチャンスに出会ってもそれとは知らずに見送ったかもしれない。私には伝道者として生きる使命があったのだろう。絶対にそうあらねばならないことはそうなるのである。奇妙な理屈だと思われるだろうがそれが絶対であればあるほど関係書(神・イエス・聖霊)はどういう手段を講じてでもそうあらしめようとする。栽培学の本に書いてあった定義だが、「雑草とは単に場違いの植物だそうだ。タチアオイはトウモロコシ畑じゃ雑草だが庭に咲いてりゃ花だ」
2024年10月20日 野々花神学生「マリアの愛と献身」マルコ14章1-9節
本日の聖書箇所はイエス様の十字架が目前に迫ってきているという緊迫した状況が背景にあります。1-2節では宗教指導者たちがイエス様を殺そうと企んでいる様子が描写されています。そしてさらに10節では弟子のユダによる裏切りの場面へと展開していきます。「憎しみ、妬み、殺意、裏切り」がイエス様を取り巻いています。イエス様はこのように十字架の道を進んでいかれるのでした。
この2つの出来事の間に挟まれているのが、マリアによるナルドの香油注ぎです。ナルドの香油は300万円以上にもなる高価なものでしたが、マリアは惜しみなくイエス様に注ぎかけました。このマリアの大胆な行動を弟子たちは香油の無駄使いであるとし、批判しました。しかしイエス様はマリアの行いを喜び、彼女を庇うようにこう言われるのです。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。」弟子の目に無駄とみえたことは、イエス様にとって喜びとされました。なぜならイエス様はマリアの行動の意味とその心を知っておられたからです。
マリアは愛するイエス様がこれからたどって行かれる苦難の道に目を留めていました。愛する人の死を受け入れることは簡単にできることではありません。ですがマリアはイエス様の死から目をそらさず、受け入れ、前もって埋葬の備えをしたのです。マリアが注いだナルドの香油の香りが部屋中を、そしてイエス様を包みました。その強い香りはゴルゴダの丘に着くまで香りつづけたと考えられています。憎悪、殺意、裏切りに晒される中、一人の女性がイエス様に注いだ愛のかたちであるナルドの香油は、ゴルゴダの丘まで香りつづけました。マリアの真摯な愛と献身はイエス様にとって喜びとされました。
私たちはマリアから二つのことを教えられて参りましょう。まず一つ目は「心の向き」です。マリアの心はイエス様に向いていました。私たちの心は主に向いているでしょうか。もしそうでないなら、私たちが背負うべきであった十字架を、私たちに代わって担ってくださったイエス様の姿を見つめましょう。私たちはこのイエス様の十字架によって罪赦され、救われました。この主の愛で私たちの冷えた心を温めていただき、神との温かい交わりの回復を通して、心を主の方へと向き直されて参りましょう。
そして二つ目は「自分にできることをする」ということです。マリアは主に対して「自分にできること」をしました。私たちは何をお献げすることができるでしょうか。私たちは与えられている賜物や、立場、置かれている状況が異なります。その中で今自分にできることはなにかということを考え、主にお仕えして参りましょう。一人の女性がイエス様に注いだ愛のかたちであるナルドの香油の香りが、ゴルゴダの丘までイエス様を包み続けたように、皆さんの献げものが主のために豊かに用いられますように。
2024年10月13日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「イエスの涙」ヨハネ11:35
ギリシャ神話の中で一番美しい少年はアドニスである。この少年の美しさに目を留めたのは美の女神アフロディアであった。狩猟の最中アドニスは猪の牙でザクリと刺され宙を舞う。「誰かお願いこの人の命を返して」アフロディアは冥界の王のもとへと急いだ「どうかこの子の命を返して」「それはならん」どんなに頼んでもいったん奪われた命は戻らない。悄然と立ち去る彼女に死の国の王は告げた「せめて花の姿に託して一年のうちに数か月はよみがえらせてやろう。少年の血がにじんだ大地の中から芽が萌え立ち真っ赤な花を咲かせた花は少年のように可憐であったが、風(アネモス)の息に吹かれてたちまち散ってしまうその儚い散りざまににちなんで風の花アネモネと名付けられた。アフロディアは少年の短い命をはかなみ涙を流した。その涙もまた花と化した。あのお方も野の花を指差し「栄華を極めたソロモンでさえこの花のひとつほどの装いにはかなわず、劣ったではないか。今日萌え立ち、明日には風に吹かれて散る野の花さえ神はこのように可憐に装って下さる。ましてあなたがたを神が見捨てるはずがないではないかイエスのこの言葉の背後には、明らかに人間を愛している神が実在している。この判断がある。それがなければこの言葉は何の意味もなさない。神は儚く散る野の花よりもあなたの方をずっーと愛しているのだからソロモンの栄華など及びもしないほどの恵みと祝福を与えて下さるとの理屈である。あのお方は親しい友ラザロの死を悼んでイエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35)。三回目の再発が判明した時主治医に「治療を中止して緩和ケアにと訴えた。主治医も言葉を失い「頑張れ頑張れ」と私を鼓舞した。「イエスは涙を流された。」あのお方は私のそばにいるだけで何も言わない黙って私の手の上に手をのせて私の顔を見つめて涙を流す「もう頑張れない」「もういい」と決意を固めている時「頑張れ」と言われて、私は辛かった。激励は人間が立ち上がる気力が残っているのに、きっかけがつかめなくてしゃがみ込んでいる場合とても大きな力を持つものとなる。だが人間には生きていくうえで「もういいや」という時がある。これ以上頑張れないし、もう生きなくてもいい…そういう決意を固める時がある。「頑張れ頑張れ」と鼓舞していただくのもありがたいが、イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35)。そういう時には黙ってぽろっと涙をこぼして、頭を下げて立ち去ればよいのではないか。そんな救いが私には必要なのかもしれない。「イエスは涙を流された。」
2024年10月6日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「それぞれの信仰を神の御前に」ローマ14:14-23
神は、大きな痛みと犠牲を払われることを厭わないほどに、罪と悪に支配されたこの世を愛された。
人々を永遠の滅びから永遠のいのちへと、世を悪の支配から神の支配へと移すために御子イエスは十字架にすすんで行かれた。
神のおこころも、御子の御からだも、人の罪を負い引き裂かれた。
神によって贖われた教会に集う人々は、イエスが歩まれたように互いに愛し合い、仕え合う道を辿る使命を与えられている。(ヨハネ13:14-15)
イエスが何の功績もない私たちを愛してくださったように、私たちの隣人を愛し、私たちの頑ななこころが砕かれるのをイエスが何年も忍耐して信じて待ち続けてくださったように、隣人のうちに神の御業があらわされることを信じて待ち望む。
イエスとともに歩む信仰の道はそのような道だ。教会に集うイエスの僕たちが、さばき合い、傷つけ合う姿をパウロは戒める。イエスが血を流して買い戻し、忠実な僕になるようにと期待して育てている者を、他人がさばいてはならないと教える。神が信徒一人一人に授けた信仰のはかりは異なる。信徒の相違は争いに発展し、教会は分裂を繰り返してきた。教会には信徒同士や教職が一つになれない悲しい現実がある。初代教会と同じ問題が今の教会にも存在し、パウロの戒めが私たちに光をあてる。
パウロは野菜だけを食べること、肉を食べることなどの行為そのものを重視してはいない。
信仰の強い者が、信仰の弱い者を軽んじ、見下すことで信仰の弱い者をつまずかせることを戒めている。また、用いられている者を、そうでない者が妬みに燃えてさばいてはならないとパウロは教える。
さばき合う問題は、どこの教団でもどこの教会でもある問題だ。
天の御国に帰るまで人をさばく傲慢なこころとの戦いは続く。
「ユダヤ人の場合には彼らの悔い改めのない心、その偽善の態度によって主の御名が汚されたが、キリスト者の場合には、彼らが互いにさばき合い、苦しめ合うことによって、キリストの福音が汚される。」ワルケン·ホースト
教会がパウロの戒めに真剣に向き合わなければ、教職も信徒も聖霊による成長はない。
一人一人が与えられている信仰のはかりに応じて慎み深い考えを持つことができるように。私たちの主イエスが命じられる御教えは、互いに愛し、仕え合うことであることを聖霊が常に教えてくださるように。(ガラテヤ5:6)「キリスト·イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。」
2024年9月29日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「ペテロの涙」マルコ14:71~72
するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、イエスのおことばを思い出し泣き出した。マルコ14:71~72)。愛の形は様々である。惜しみなく奪う愛もあれば、惜しみなく与える愛もある。「ペテロよ私を愛してるかな?」「もちろんです」あのお方はどのような愛を求め、ペテロはどのように愛そうととしたのだろうか。チェイホフの短編に「学生」がある。まだ冬の寒さが残る頃、神学生イワンが村に続く道を歩いていた。焚火の火が見えた。農家の老婆ワシリーサとその娘とが、火を囲んでいた。学生は話しかけた。「こんなふうに寒い晩ペテロも火に当たってたんだろうね。あの日も寒かったわけだワシリーサはいきなりしゃくりあげ大粒のとめどもない涙がその頬を伝わって流れた。娘の方は、学生の顔をじっと見つめながら重苦しい緊張したものになった。学生は思った。あのワシリーサがあんなふうに泣き出し娘があのようにどぎまぎしたところをみると、たった今、自分が話した二千年前の昔の出来事が現代のこの二人の親子に、そして多分この荒涼とした村に、私自身にすべての人に何らかの関りがあるのは明らかだった。過去は次から次へと流れだす事件のまぎれもない連鎖によって現在と結ばれている。私はたった今、その鎖の両端を見たのだ。一方の端に触れたらもう一方の端が揺らいだのだ。確かに歴史は事件の連鎖で、繋がっている。そういう絵柄を頭の中で描くことは出来るとしても、一端の事件に触れたらもう一端が揺らぐなんて実感できるものかどうか。以前交通事故で亡くなった青年の葬儀をしたことがある。息子を失った母は終始泣き崩れた。ミケランジェロは4つのピエタを彫刻に残している。「ピエタ」とは母マリヤがイエスの亡骸を抱いて悲しむ構図のことである。ようやく息子が帰って来た。でも遺体となって。彫像の真ん中にイエスが横たわっているが、感動の源は、息子を包むように抱いている母の悲しみである。葬儀の間、終始大粒の涙を流す目の前の光景が、二千年前のあの日の涙、ピエタとかかわりがあるのは明らかだった。あのお方は、いつの時代も私の人生に関わりを持ち続けようとするのだ。あなたはひとりぼっちではない。静かなくらい園、そのシーンとした中でようやく聞き取れるほどのペテロのすすり泣き。ワシリーサはいきなりしゃくりあげ大粒のとめどもない涙がその頬を伝わって流れた人間が流す涙はあの日の出来事とつながっているのだ。自分の弱さに涙したペテロの悲しさはどれほどのものだったろうか。私の歩みはキリストとともにあり、永遠につながっているのだ。
2024年9月22日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「その時は死ぬのだ」イザヤ53:5,8
トルストイのアンナカレーニナの冒頭に聖書の言葉が引用されている。「復讐はわたしのすることである」この作品は姦通文学である。アンナは夫の部下若き将校と恋に落ちて夫を裏切る。こういう設定に神が登場し、裏切られた夫に代わって神が復讐する。アンナは自殺する。イザヤ書63章に返り血を浴びた神が登場する。アンナのような者を踏みつぶし鮮血が飛び散るそれが神の着ている白い衣に返り血となって神の衣が真っ赤に染まっている。ところがトルストイの回心が起こり、以後、著作からは怒りと裁きの神は姿を消し、ひたすら、赦しと愛の神だけが登場する。これをトルストイは、上手いたとえで説明する。「要するに、回心が起こったのは、ある用事のために家から出た人が途中で忘れ物に気づいて家に向かって引き返すようなものだ。」と言っている。道を引き返すと何が起こるか今まで右側にあった者が全部左側になる。正反対になる。それが自分の心の中で起きたと言っている。トルストイは貴族で豪農で資産家だ。貧しい農民をこき使って富を貯えるキリストのもとへ帰るまではそのような生活が魅力的だった。回心が起きたら、魅力的と思っていたものが呪われた虚しいものとなった。忘れ物を取り戻すとはそういうことなのだろう。トルストイには「戦争と平和」もある。敗戦後少年たちは学校の先生から「もう日本は戦争をしない。軍隊も持たない。大事なことは憲法で決めると教えられた。「でも先生!悪い奴に攻められたらどうするの。丸腰じゃ心細いよ」と心配した子供たちは大勢いたに違いない。「その時は死ぬのだ。ひどい侵略にあえばこの国は無力だ。「そのときは死ぬのだ」今の日本でそれ以外の選択肢があるとは思えない。回心した者として「人を殺すくらいなら自分が死ぬ。私には人を殺せないと思う。究極の理想論かもしれないが、理想のために死んで何が悪い。今の日本で想定可能な、あの国この国に侵略され、何のために死ぬのかもはっきりせず犬死するより、「人を殺すくらいなら自分が死ぬ。」そんな理想のために死ぬのならそれはそれで仕方がない。自分が死ぬのは嫌だが、人を殺すのはもっと嫌だ。おそらく私にもあのお方にも人は殺せない。おまえを殺すくらいなら自分が死ぬ。私を踏みつぶしおびただしい鮮血が噴き出し神の衣が真っ赤に染まる。だが、お前の血は一滴たりとも流させない。お前を殺すくらいなら自分が死んで血を流す。理想のために死んで何が悪い。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた」(イザヤ53:5,8)。
2024年9月15日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「さばきの座」ローマ14:1~12
神は最初の人アダムを神に似せて造られた。
アダムとエバがサタンの惑わしに遭い、神に背き、罪ある者とされてからも人間アダムに対する神の愛が失われることはなかった。エバをそそのかしたヘビ(サタン)は、女の子孫によって頭を砕かれると定められ、神はエデンの園を追放される二人に獣の衣を着せた。
地上に人が増え始めると、人の悪も増大した。
神は悪に対するさばきを行われた。ノアとその家族、そして神によってつがいで集められた生き物は、箱船に入り神のさばきから守られた。
神は、御自身が創造したアダムの子孫に対する愛と、悪をさばかずにはいられない御自身の聖と義の御本質の間で御こころを痛められた。
神はアブラハムを選び、アブラハムの子孫を通して全ての国々が祝福を受けると契約をたてた。旧約聖書ではこのイスラエルを中心に神のご計画は進む。神の愛はイスラエルだけに注がれていたわけではない。旧約聖書には異邦人に対する神の愛とあわれみがあらわされている。
ヨナは神の命令を受けてニネベに行き、神のさばきが降りかかることを叫んだ。ニネベの都は現在でいうとイラクがある場所に位置する。ニネベの王と人々は神を信じ、皆断食をして粗布をまとい灰の上に座って悔い改めた。
アダムが罪ある者とされて以降、あわれみ深い神は人々が滅びに至ることなく再び神のものとして帰り来ることを求め続けておられる。
「冥府のキリスト」という聖画がある。十字架にかかり死んで葬られたイエスが黄泉にいる死者達に福音を宣べ伝えたという聖書のことばを絵画にしたものだ。(Ⅰペテロ3:18~20)
全てのアダムの子孫を救おうと、黄泉にまで力強い御手を差し伸べるイエスのお姿に、一人も滅ぼすまい。永遠のいのちを受けよ。という神の諦めない愛を見る。
教会はこの神の愛と熱心によって救われた人々の集まりだ。イエスの犠牲によって買い戻された神の子たちの集まりだ。パウロが心配したことは信徒同士が互いにさばきあい、神の教会が分裂してしまうことだ(ローマ14:4)。
教会に集う私たちの主は、命を捨ててまで私たちを買い戻してくださったイエス御自身だ。
パウロは信仰の弱いしもべを立たせて導くイエスの御力を信じている。人の人生に奇跡をもたらす神の御力を信じている。
私たちは神のさばきの座で、神にのみ正義と力があることを誉め讃える。神に申し開きをするときに、神の右の座には、私たちの主イエスがおられる。私たちが避けたくても避けることのできなかった心の傷も、逃れたくても逃れることができなかった境遇に耐え忍んだことも。イエスは全てを知っておられる。
2024年5月5日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「窓を開けよう」創世記8:6~8
四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き鳩を彼のもとから放った。(創世記8:6~8)カインとアベルが死にセツの系図からノアが生まれる。どいつもこいつも自分のコントロールに失敗して罪悪が目に余る状況だった。ノアの箱舟とそれに伴う大洪水である。神は吐き捨てるように言った。「わたしは今、いのちの息あるすべてのものを天の下から滅ぼすために地上に大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない」(7:4)。嫌な言葉だ。「私にとって最も嫌な言葉の一つだ。〝地上にある者は死に絶える〟。私はこの言葉を聞くと苦しくなる。無言で悲しみに耐えなければならない。死刑の執行を目前にした男が弁護士に呟いた。「私は裁判官に憧れてたんです。だって、人の命を自由にできるじゃないですか」。私は祈った「主よ。あなたは私の命を自由にできるじゃないですか」「地上にある者は死に絶える」だから私はこの言葉が嫌いだ。だが神はノアに箱舟を造らせた。水が退き大地が現われるまでにはほぼ一年を要したノアは箱舟の脇に作られた窓の扉を初めて開いた。窓から新鮮な冷たい空気が入ってきた。ノアが何度か鳩を飛ばして地上の様子を確かめたのはこの時である。「死に絶えなければならない」嫌な言葉だな。悲しみに絶えながら思わず窓を開けたことがある。三回目の再発が判明して気が滅入っていた時である。しばらく開けたままにした。窓を開ければあの嫌な言葉は出ていくだろう。開けた窓から神の約束が入ってくると信じたかった。「さあ、あなたは生き伸びたのだ。舟から出なさい」「生めよふえよ地に満ちよもはや大洪水は地を滅ぼすようなことはない」(9:1)。
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