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2024年6月23日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「火の柱」出エジプト18:21~22
日本における壮年層の非正規雇用が年々増加している。五六十代を迎えて引っ越しのバイトをしたり、炎天下の工事現場で旗を振る。中高年の失踪件数も増加している。「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んだ成れの果てである。人は誰でも終着駅に近づいた時、自分だけの自由を取り戻したくなるのではあるまいか。レールの上を走ってきた人生に対して(もう勘弁してもらいたい)、あの感覚である。フランスの画家、ポールゴーギャンは結婚当初は11年間株式仲買人として、妻子を養った。ゴーギャン43歳の時、彼は第二の人生を求めて、単身タヒチに移住。そこで後世に残る数々の名画を残している。そのゴーギャンの言葉である「人間というものは子供の犠牲になるものだ。その子供もまた、自分の子供の犠牲になるものだ。この馬鹿げたことが永遠に続くらしい。もし、すべての人間が子供の犠牲になるとしたら、一体誰が芸術を創作し、美しい人生を創造するのか。ゴーギャンにはタヒチがあり、モーセにはカナンがあり、私には何があるのか。もーセはチッポラと結婚し、二人の子を得た。エジプトを出て三か月、一行はシナイの麓に着く。かつてモーセが神の声を聴き、第二の人生を決断したあの聖なる山である。神はモーセを認め、厳かに十の掟を示し、これを石板に刻んで十戒とした。聖日を守らず、父・母を敬わず、姦淫に身を委ね。人の所有物に手を出し、都合が悪くなればすぐ嘘をつく。こんな体たらくで、第二の人生や自分だけの自由を取り戻すなどと笑わせてはいけない。守るべき掟はきっちり守って、その上で第二の人生を歩むのだ。旧約聖書最大の偉人でありながら、モーセがどこに葬られたか「誰も知らない」と聖書は記している。モーセの第二の人生は波乱万丈だった。せめて遺体だけは誰にも知られず、そっとしておいて欲しいと願ったのかもしれない。シェイクスピアの墓碑銘は「ここに埋められし亡骸を暴くことなかれ」であり、これからは第二の人生とかそんなことには関わりなく、天の故郷の土の中にそっとしておいて欲しいとの心境だろう。命日は4月23日。誕生日と同じである。老いたるシェイクスピアが「今日は俺の誕生日か」「じゃあ死ぬか」。ゴーギャンもシェイクスピも妻子を残して第二の人生に旅立った。決断はあれでよかったのか。しかしモーセはそれを選ばなかった。つかの間の人生を一番心を許し合ったチッポラと寄り添いながらカナンを目指した。モーセが確信して選んだ道である。チッポラがモーセの背後に回って、夫の洋服についた埃をはらっていた。モーセのあの杖は女の右手に握られていた。もう片方の手は、モーセの腕に巻き付き、もつれるようにして、カナンを目指して歩き出した。二人を照らす目の前の火の柱が約束の地まで二人を導いた。
2024年6月16日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「ヨルダン川」マルコ1:4~5
戦国時代、細川ガラシャ呼ばれるキリシタンがいた。彼女は明智光秀の三女で名前は玉。光秀は本能寺の変を起こすほどの大きな天下取りの野望を秘めてていた人物だが、だがそれは男の世界の話であって、玉は何よりも心の安定と平安を求めていた。大きな野望のため転々と主君を変える父。父は何を求めているのか。父が求めるものは私に幸せを与えてくれるのか。彼女は16歳の時、細川家に嫁ぎ、忠興の妻になる。幸せな結婚生活もつかの間、突如父・光秀は、兵を信長宿泊中の本能寺向け反乱を起こした。玉は主君殺しの逆賊の娘として幽閉される。話し相手は、小侍従と呼ぶ、女召使の侍女だけだ。夫忠興は、玉の不在中側女を迎えていた。この頃、玉の夫・忠興は、茶道の千利休を介してひとりのキリシタン大名と親密になっていた。高山右近である。右近はキリシタンであることに誇りを持っていたお横であり、会津藩主・賀茂氏郷などは右近の勧めでキリシタンに改宗している。玉もまた心を開き、関心を持った。衝撃的な事件起きた。関白秀吉が突如キリシタン禁制を布告したのだ。玉は洗礼を希望したが・断られている。この時、秀吉に反抗の意を示したのは、キリシタン大名高山右近だけだった。そのため彼は領地を没収されている。洗礼を受けたいとの熱望が再び燃え上がったのはこの時である。玉は右近の妻が羨ましいと周囲に漏らしていた。宣教師の計らいで玉の侍女・小侍従にラテン語の洗礼の仕方を教え、玉に洗礼を授けるように計らった。こうして小侍従は教えられた通り自分の主人に洗礼を施した。秀吉の死後、男たちの世界では次の権力闘争が直ちに始まった。玉の夫忠興は家康に細川家の攻防を賭けた。男たちの世界に生きている限り、すべては不安定である。男たちの世界のあさましさ、醜さ、頼りなさを悲しい眼で玉は見つめた。その男の世界の中で、敢然と右近だけが領地を捨て、剤を没収さ眼に見えない精神の誇りと信仰を守ろうとした。玉が右近の妻を羨ましがっていたのはすでにのべたが、右近の勇気と決意は、玉が知っていた男の世界とはあまりに隔たっていた。私も右近のようにいきなければ、洗礼を受ようとする者など現れないだろう。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。(マルコ1:4)これらの住民の中に玉もまじって、バプテスマのヨハネのもとに急ぐ姿が私の眼に浮かぶ。
2024年6月9日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「御思いと一つに」ローマ12:14~16
「思い上がってはならない。」思い上がりは相手をさばき、一致をこわす。神のいつくしみ、情けの深さにとどまり続けることは、キリスト者にとって重要なことだ。イエスは、王がしもべの借金を赦したたとえ話を用いて、人は、神から決して返すことのできない罪という負債を負っていることを伝えた。そして、神のあわれみのゆえにその負債をすべて免除していただいたのだから、自分に負債のある者を赦し、さばいてはならないと教えた。
すべてのキリスト者は、神のいつくしみのもとにひざまづかなければならない。神のいつくしみにとどまり、へりくだった心の状態は、思い上がりとは真逆の状態だ。人は常に排他的で、この排他的な思いによって教会は一致できない状態に悩まされる。イエスはタラントのたとえ話で、神が人に預けられる賜物はそれぞれ異なり、人は預けられたものを用いて神に忠実に仕える使命をもつと教えている。
キリスト者は信仰が強い人もあれば弱い人もある。人が神から多くの賜物を預けられ、人より多くの働きをするとしたら、それは神の栄光を表わすために神がその人に与えた一方的な恵みであって、人をさばくためのものではない。神の御ゆるしがなければ、目に見える祝福も、目に見えない霊的祝福も人は手に入れることはできない。神の御こころが許される範囲で私たちは生き、活動する。人が手にするもので、神から与えられなかったものは何もない。
ローマ12:14~16
これらの戒めは、神のいつくしみにとどまる、へりくだった心を持つ人だけが、理解する。
イエスは十字架の上でご自分を十字架にかけて、ののしるユダヤ人のためにとりなした。イエスは彼らがやがてイエスを証しする国々の光となるという神の希望の約束を知っていた。
パウロの人生は復活のイエスに出会い、迫害する者から迫害される者へと変えられた。神のいつくしみにとどまるパウロは、迫害する者の救いを祈り続けた。
福音は迫害を受けて世界に拡大していったが、神のいつくしみの中に留まり続ける者たちの涙の祈りがあったであろう。人が救われる以上の奇跡があるだろうか。
愛し合うことを命じるイエスは天にあげられる前に、弟子たちにお命じになられた。「父の約束を待ちなさい。聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」人の弱さなど神が誰よりもご存知だ。神は、聖霊の力によって神のみこころをうつし、み教えを行う者へと導かれる。
2024年6月2日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「さあ来て食事をしなさい―創立60周年記念礼拝―」ヨハネ21:12~17
身の上相談に秀でた女性がいて、彼女は涙ながらに訪ねて来る相談者にまずご飯を振る舞う。「ものも食べずに悩んでいたからたいがいお腹が減ってんのよ。食べてるうちに気が落ち着いてくるのよ」。冷静な提言である。舟を岸に戻そうとすると、湖畔に誰かが立っている。岸辺でイエスは炭火を起こし木の枝に魚を刺し火にあぶっていた。パンまで用意してある。「俺を三度も裏切りものも食べずに苦しんでいたからあいつ腹が減ってんだよ」。食べて落ち着いたところで、イエスはペテロに尋ねた。「あなたはこの人たち以上に私を愛しているかな」「主よもちろんです」「では私の羊の世話をしなさい」しばらくすると再びイエスは、「私を愛しているかな」「もちろんです」「では私の羊を飼いなさい」、イエスは三度、「私を愛しているかな」と尋ねる。「三度否定したのだから、三度忠誠を誓えばあいつの心も落ち着くだろう」目黒教会は創立60周年を迎えた。言い方は悪いが、私たちの教会の歩みはごく小さな出来事だ。近所の多くの世帯が私たちの60年間の歩みを気に留めていないかもしれない。今後、行政の都市計画によって、この土地・建物が、強制的に接収されるかもしれない。私たちはこの60年間で後世に残る何かを作ったわけではない。でももしもこの先、生きる目的を見失うことがあったら、単調な毎日に心が麻痺してしまったら、私はずっとそうだった。そんな時この教会で捧げた礼拝を思い出して欲しい。礼拝で得た小さな満足感を、礼拝で聞いた神の言葉を生きる糧とした日々があったことを思いだして欲しい。私たちの60年間の歩みはただそれだけである。
2024年5月26日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
詩篇121篇「主は私を守る方、主はあなたを守る方」
詩篇121篇には「都上りのうた」と表題がつけられています。イスラエルではエジプトの奴隷状態から解放されたことを記念し喜ぶお祭りがあり、このお祭りのときにイスラエルの男性はエルサレムに上って神を礼拝することが求められていました。これを「都上り」といいます。詩篇121篇のテーマは「都に上っていく巡礼者を主が全く守ってくださる」ということです。そしてこの詩は二人の歌い手から成っています。まず1-2節では「私の助けは主から来る」と巡礼者が自らの信仰を言い表しています。そして続く3節以降は「主はあなたを守る方である」とエルサレムへ向かう巡礼者に対して誰かが励ましのうたをうたっています。詩篇121篇には以上のような特徴があります。巡礼者は旅の途中。山に向かって目を上げ、「主の助け」を告白しました。この「主の助け」を心に想う巡礼者の姿から、目の前に立ちはだかる山々は巡礼者にとって越えていかなくてはならない困難なものであったことを想像します。実際、エルサレムの山はゴツゴツした岩山であり決して平たんな道ではありません。むしろ歩きづらい、険しい道だったでしょう。私たちの神の国を目指す道とも似ているのではないでしょうか。私たちも、天上のエルサレムである神の国を目指して旅をしています。イスラエルの民がエルサレムという目的地へと向かうにあたって、山々という試練が目の前に立ちはだかっていたように、私たちも主が歩むようにとお命じになったその道の途中、度々試練に合います。しかし、神様はこの苦難の道のりを必ず助けてくださるということが121篇において繰り返し語られています。巡礼者自身もそのことをよく覚えていました。「私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」と告白しました。さらに、この信仰の告白を、強め励ましてくれる、仲間がこの巡礼者にはいました。励まし手は、神がどのようなお方で、どのように神がこの都上りを守ってくださるのかを語り、巡礼者を励ましました。この励まし手の口からは圧倒的な神の守りが語られました。この巡礼者はこのような励まし手の口を通して、神がどこまでも真実さをもってこの旅路を力強く守り導かれるお方であられることを想い越させられ、大きな慰めと励ましを受けたことでしょう。私たちもこのように兄弟姉妹の口から励ましとして語られる言葉を通して、人生の困難の中で神と出会うことがあるのではないでしょうか。私たちは、兄弟姉妹として互いの信仰を励まし合いたいと思います。「主は私を守る方、主はあなたを守る方」です。詩篇121篇を共同体として共に告白しつつ前進して参りましょう。
2024年5月19日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「偽りのない愛」ローマ12:9~13
人間の体の器官のなかで、かしら(頭)は体を動かす指令塔の役割を果たす。キリストのからだとされる教会は、かしらであるキリストの思いがからだの器官の隅々に伝達され、キリストの思いのとおりに働く。キリストが体の各器官に伝達される思いとは何か。
イエスは、ご自分が十字架に架かられる前夜、イエス自ら膝をつき弟子たちの足を洗われた。模範を示したのだ。神としての位も、栄光も捨ててこの地にお生まれになったイエスの生涯は、人のために御自身を与え尽くして歩まれた生涯だった。そして罪の赦しを与える新しい契約は、万人に対する神の偽りのない愛のあらわれだった。(ヨハネ3:16)教会のかしらであるイエスの思いは、神が深いあわれみをもって弱さを抱えて生きる万人を愛しておられるように、信徒達が互いに愛し合うことだ。そしてイエスが万人のためにいのちを捨てられたように信徒達が互いに犠牲をはらい、仕え合うことだ。そして、愛や正義が失われるこの世界で教会が光となり、神の御名が誉め讃えられることが教会に与えられている使命なのだ。偽りのない愛で、神は私たちを愛す。獣のように他人をなぎ倒し傷つけることしかできない私たちに対して、神は偽りのない愛で御手を差し伸べ続ける。偽りのない愛は神のものだ。すべての信徒が、何の功績もない人間に注がれる神の深いあわれみの元にへりくだり、思い上がることなく、相手のうちにおられ、働かれるイエスを信じ、尊敬をもってともに歩むようにパウロはすすめる。
その道は険しく涙の谷を歩むような痛みをともなう苦難の道だ。人の力ではとても立ち上がれない。しかし、神を愛するものに起こるすべてのことを益に変えてくださる神は、苦難のなかにともにおられる。人は恵みだけでなく、苦難をも神から受け耐え忍ぶとき、苦難を通らなければ決して得られない神御自身を知る知識を得る。金銭的に困窮するキリスト者に対して、あわれみの心を閉ざすこと無く必要をともに満たし、もてなすようにパウロはすすめる。金銭においては誰もが強く執着を持つ。しかし、金銭に縛られる生活に聖書は警告を与えている。(Ⅰテモテ6:10)(マタイ6:24)イエスは、神に従うものの必要は天の父が知っておられるのだから、まず、神の国と神の義を求め続けるように教えた。
神の子どもたちの内に住む聖霊こそ子どもたちをとりなし、慰め、励まし支えて良い行いをする力となられる。
2024年5月12日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「天の故郷を求めて」ヘブル人への手紙11:8-16
今日はアブラハムから「信仰者として御国をもとめて生きる」ということについて教えられて参りましょう。アブラハムは神に対して従順な人であり、地上生活を信仰によって生きました。「信仰」とは「神(神の言葉)に対する信頼」を意味しています。神様はアブラハムに約束を与えられました。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福するものを祝福し、あなたを呪うものをのろう。地の全ての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:1-3) アブラハムは信仰によってこの約束を信じ、この地上を神と共に生きました。それは8-12節に大胆に証されています。アブラハムやその子供たちは、与えられた約束の全貌を見届けることはなく死んでいきましたが、マタイによる福音書に記されているキリストの誕生の系図はアブラハムからはじまります。アブラハムの子孫からキリストは誕生しました。そしてこのキリストにあって私たちは神の民とされ、御国の相続人とされたのです。アブラハムはこの地において神に与えられた召しに従い、神と共に生き、神と共に働きました。そしてそれはキリストへと通ずる神の御国の建設の働きだったのです。そしてアブラハムは13節に記されるように自らを「地において旅人であり、寄留者である」と告白していました。旅人としての歩みはいつどのようなハプニングに見舞われるかわからない心の休まらない生き方だったでしょう。寄留者という自分の祖国を離れ異国の地に住まう生き方はどこか心に寂しさや人に理解されない虚しさを覚えるものだったでしょうか。そのように生きたアブラハムの心が慕い求めたのは「天の故郷」つまり「神の都」だったのです。天のお父さんである神と共に住む安らぎの場所です。黙示録21:1-4に記されているように、そこには死も悲しみも叫び声も苦しみもありません。神はこの世の罪で傷ついた私たちの悲しみの涙をぬぐい取り、平和に満ちた神の都へと迎え入れてくださいます。神は御国を求めるものを喜び、そして与えてくださいます。イエスキリストの十字架による罪の赦しを信じるならば、この「天の故郷」への道は開かれるのです。私たちは罪が蔓延るこの世を生きるものです。ですが、私たちはこの世の現実に失望しません。神の御国の到来を信仰の目でこの地に見ているからです。その日を信じて喜びをもって待ち望みましょう。そして私たちもこの地上にあって、神の御国を建設する働きに召されています。目黒の地で十字架を掲げ、キリストがもたらした良い知らせを証するのです。私たちも神のみことばに忠実に聴き従い、神が与え示す計画を行い、神の民の歴史を刻み前進して参りましょう。
2024年5月5日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「悔い改めよ。神の国は近づいた」マタイ3:1~2
その女に会ってはいけない。不思議な警鐘が鳴っていた。空井戸の底に半裸の男がうずくまっている。ヨハネであり、地の底から断罪の叫びを発している。アンティパス王が兄の妻を奪った。大変な罪悪だ。ヘロデアの方も、「弟さんの方が素敵」と進んで夫を裏切った。ヨハネには許しがたい。「この恋愛は罪悪だ」と叫ぶものだから、「あの男気に入らない。殺してちょうだい」ヨハネは死ぬが、人が死ねば悲劇は深くなる。ヘロデアの連れ子サロメが王の前で踊りを披露し、「褒美をやろう」。母は娘の耳に囁く」「いいのよ。そうしなさい」「では、ヨハネの首をこの場で下さいませ」。凄惨な光景だが、ヨハネへの憎しみは十分に激しいものがあった。この後、遺体がヨハネの弟子たちの手に渡りその知らせがイエスのもとへ届きこのエピソードは終わっている。「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた(マタイ14;13)。あのお方がヨハネの死を悼んでいる。弟子たちの悩みが深まる。これだけの苦しみに遭遇した以上、理由があるに違いない。弟子たちは神の気まぐれを疑い必死に自分の信仰を守ろうとした。死に行く者は訴える。自分が死んだ後、一人でも二人でも私を思い出してくれればいいなあ。それで命の儚さに抵抗できるかもしれない。誰かがわたし、ヨハネを思い続けてくれるなら、私は死んではいないと苦しまぎれではあるが、そう言えなくもない。だから、ヨハネの訴えを思い続けよう。ヨハネを生かしその無念を晴らす道はこれしかない。私は寂しい所でヨハネを思う。恐らくヨハネは厄介ごとをばらまくならず者らに悔い改めを迫らなければ自分の存在に価値はないと考えたのではなかったか。そしてその荒野の叫びには確固たるモチーフがあったのではないか。社会の厄介者らの悲しみを描き、ならず者らを神の国に招こう。サロメも王もヘロデアも、神の国から最も遠い者たちだ。そこで、悔い改めを訴える。「悔い改めよ。神の国は近づいた」罪を悔い、生き方を改め、一緒に神の国へ行こう。彼らにも深い悲しみがある。本人たちだって辛い。苦しい。彼らを神の国に導くのだ。あの女に会ってはいけない。不思議な警鐘が鳴っていた。覚悟のうえで、会ったのだ。ヨハネが披露したのは神の言葉を預かる者の覚悟だ。あの女の前でも、この覚悟だけはと願う心境である。それさえあれば殺されても私は生きている。私の生き方を誰かが思い出してくれれば誰にも負けない幸福を感じられる。イエスは自分だけで寂しい所に行かれた
2024年4月28日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「ナタナエル」ヨハネ1:47
これはイエスと出会った12人の純粋で一途で向こう見ずの旅なのだ。死をもいとわない覚悟がみなぎっている。彼らがどういういきさつでイエスの弟子になったかはつまびらかではないが、多分〝わたしについて来なさい〟だっただろう。心がほんの少しでも扉を開けばイエスは〝従え〟と訴えてさらに扉を押し開く。ダビデソロモン時代を絶頂として民族の運命は下降線をたどり続ける。ローマ帝国による統治などはみじめな状況を伝える典型的な史実だ。いつかメシアが現われ、イスラエルを救ってくれる。民衆の間にはそんな気配がただよっていた。とりわけナタナエルにはそれを感じる。問題は彼が見た同じ風景に私たちがどのようにたどりつくかだ。ナタナエルは祖国に託した夢を見て憂えている。この夢を亡くしたら私たちはどうなるのだろうかと苦しい胸中を親友のピリポに告白する。イエスはガリラヤ湖畔で一人の男を見かけ「私について来なさい」と語りかける。ピリポもいきなり〝ついて来い〟と言われても困ってしまう。ピリポは幼ななじみのナタナエルのもとへ急ぎ〝イエスって人に会った。弟子になれと招くんだ〟と相談した。その時ナタナエルは無花果の木の下に立っていた。すでにイエスの弟子となることを決意したピリポは、親友ナタナエルもこの道に従うようにと説得する。二人の友情は、あのメシア待望とイスラエル回復の祈りの中で培われ深められてきた。「ナタナエルよ。幼い時から俺たち二人が求めてやまなかったあの真実なる者に俺は出会ったんだ」ピリポの意中はこうなるだろう。イエスもナタナエルの魂を求める。「ナタナエルよ。お前は祖国の回復を求める真のイスラエル人だ」「どうして私のことがわかるのですか?」「わかるさ。お前はいつも無花果の木の下にいただろう。私はそれも知っているのだから」。無花果の木の下でもの思いにふける姿は神への語りかけを意味していた。ナタナエルはローマに占領されたイスラエルの回復を祈っていたのだろうか。いつかメシアが来臨してイスラエルを救ってくれる。木陰で怠けていたのではない。イスラエルの救いを求めていたのだ。それをイエスに見抜かれ、「この人なら日ごろの俺の悩みに応えてくれるかもしれない。こうして二人そろってイエスの弟子となった。私はナタナエルに関心を持っていたから、私が幼い頃から最も大切にしてきた思念をナタナエルに託すことにした。
2024年4月21日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「カイザルのものはカイザルに」エペソ6:14~17
ファラオは、エジプト王だが、カイザルはローマ皇帝の総称であり、固有名詞で表せばガイウス・ユリアス・カエサルであり、イングリッシュネームのジュリアスシーザーである。古代ローマは早くから共和制を布いて国王の世襲を禁じ、元首は選挙で選ばれていた。シーザーの大事業はガリア地方を平定したことだ。古代の戦争は儲かるものだった。シーザーはよく戦い、よく勝ってよく儲けてよく配った。シーザーが人望を集め、権勢を誇ると元老院は大いに警戒を強めた。シーザーが王位を狙っているのではあるまいか。共和制の危機である。「お前もかブルータス!」この台詞を聞かないとシーザーの暗殺劇を見た気がしない。ブルータスは共和制を信奉し、動義を重んじ人間として誠実であったことが知られている。シーザーの暗殺は彼が本当に共和制を排除して自ら王となろうとしたかどうかそこに焦点が絞られる。シーザーに野心があれば共和制を必死に守ろうとした人たちにとってシーザーを殺すことは正義である。シーザーの胸中はわからない。(シーザーを殺そう)ブルータスは理を重んじる人間だ。共和制を守るためにのみシーザーを除くのだ。その情念はあなどれなかった。その後ブルータスは戦場で瀬戸際に立たされ潔い自害。すでにブルータスの妻も自害していてそれを知った時のブルータスは泰然としている。私的な不幸でオロオロしないのがブルータスの誇りなのだ。「カイザルのものはカイザルに」。英雄カイザルは死んだ。平家物語同様、盛者必衰の理。カイザルの生涯にはそういう宿命が隠されていた。お前もかブルータス!ここでカイザルの命運は尽きたのだ。どんなつわものでも命運が尽きれば死ぬ。瀕死の状態でも命運が残っていれば生き延びる。これがキリスト者の哲学だ。命運が尽きるまで歩みを進めよう。命運が尽きたら意気揚々と引き上げよう。あのお方は私たちの武勇を称えて下さるだろう。生きてる限り人は戦い傷つく。「何だって?そんなこと構わんよ。そんなことを避けて生きているわけじゃない。俺は運命の悪意にも人の悪意にも関心がない。ただ神に何をかえすのか。私の関心はそれだけだ。「神のものは神に返しなさい」「それ行け負けるな!」と叫び、時には涙を流して敵対者の声に聞き入り、人間の命運を考えながら「私は勇敢に戦い、信仰を守り通しました」(Ⅱテモテ4:7)。
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