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2024年9月1日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「言い訳を超えるもの」Ⅰヨハネ4:10
ノアの息子ハムは、南に移り住み、ヤぺテの奴隷となる、ネグロイドの始祖だ。このテーマは重い。シェイクスピアの戯曲に「オセロー」がある。オセローは勇敢な軍人だが白人が支配する社会にあって、彼の肌は黒かった。オセローにはディスデモーナという美しい白人の妻がいた。ディスデモーナは、オセローが黒いけど愛したのか、それとも黒いから愛したのか、現象的には黒いけど愛したであっただろう。しかしこの答えは月並みすぎる。ディスデモーナはオセローの肌の色など少しも気にかけていなかった。オセローその人を愛したのである。彼がそれを心の底から理解していたならオセローの悲劇は起きなかったに違いない。芥川の作品に「羅生門」がある。下人が羅生門で雨やどりをしていると、老婆が死人の髪の毛を抜いている。かつらを編んで売るためだ。「なんてむごいことを」と糾弾され、老婆が自分の行動をエクスキューズする。言い訳だ。悪いこととは知りながらもこれをしなければ生きていけないからやっていると、単純にそう言っているわけではない。老婆の言いぐさは、ここで死んでいる女も生前はそれをせねば生きていけないので仕方なく悪いことをして生きていた。そして今、私自身も同じように生きるために仕方なく悪いことをやっている。そうである以上、この女は私のしていることを許してくれるはずだ。凄い言い訳だ。下人の方はさらに上手で、俺も悪いことをせねば生きていけないと言い訳して、老婆の持ち物を身ぐるみはいで去ってゆく。老婆も女も下人も、「生きるためには仕方がない」すべての人間がこの言い訳にしがみついて生きている。アダムの子孫である。この原罪を丸ごと背負ったのが十字架刑なのだから、その重みに耐えかね幾度も倒れたのも当然である。人間はアダムの子孫ゆえに生まれながらの罪人である。罪人が生きるために罪を犯して何が悪い。ハムの子孫も哀れだが、アダムの子孫もまた哀しい立場であった。神はアダムに言われた。「人よ、顔に汗して労し、食を得よ。地には、いばらが生じ、お前の命の果てるその日まで大地を耕し食を得よ。大地にもまた原罪が入り込んだ。オセローの悲劇は、ディスデモーナの愛を疑ったことである。あのお方は私がアダムの子孫だが愛して下さった。命の果てるその日まで大地を耕し食を得るため、仕方なく悪いことをしているとの言い訳にしがみついて生きていた私であるにもかかわらず、あのお方はこの重い言い訳を背負い処刑上に向かったのだから、アダムの子孫であるにもかかわらず私を愛して下さった以外の何物でもない。だがこの答えも月並みすぎる。あのお方は私の言い訳など少しも気にかけていなかっただろう。私その人を愛しておられたに違いない。あのお方は、十字架の愛を少しも疑おうとはしない私の誠実さを愛しておられたのかもしれない
2024年8月25日 聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「御国をこの場所に」
マルコ1章において、イエス様は「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉をもって公生涯を始められます。イエス様は、多くの奇跡、力ある業を行われました。この噂は町中に広まり、癒しを必要とする多くの人がイエス様のもとに訪れました。マルコ5章25~34節には長血を患う女性が登場します。この女性もイエス様に癒しを求めた人の一人です。
この女性は長血という血の漏出が止まらない婦人病に12年もの間、悩まされ続けていました。そしてこの病の苦しみは肉体のみならず社会的な痛みも与えていました。なぜなら律法においてこの病は「汚れている」とされており、彼女は神の民の交わりに加わることが許されなかったからです。(レビ記15:25-30) それだけでなく、頼りにした医者からはぞんざいな扱いを受け、全財産を失い、挙句に病は悪くなる一方でした。彼女の苦しみは測り知れません。
この苦しみから解放されたいと彼女はイエス様に望みをかけました。「わたしの病も、あの方なら癒せるかもしれない」そう思い、彼女は町へ繰り出していきました。イエス様を取り巻いてひしめき合っている群衆の中に紛れ、後ろからそっとイエス様の衣に触れました。その手がキリストの衣に触れたとき、キリストの御力が彼女に臨みました。(29節) 彼女が伸ばしたその手を通して神の御力が彼女の内に流れ、彼女は癒され、きよめられました。
そしてこの女性にイエス様がかけた言葉は次のようなものでした。34節「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」イエス様は、皆が嫌った、汚れた手を憐れみ、受け入れてくださいました。信仰をもって精一杯伸ばした手を誇りに思ってくださったのです。彼女は真の慰めと癒しを得たことでしょう。彼女が最も渇いていた、その心にイエス様は触れてくださいました。
この女性は、病によって、全てを失いました。彼女の人生は真っ暗だったことでしょう。しかし、何もかも失った女性はキリストにすがるほかないという信仰を得たのです。その信仰こそ、神が求めるものでした。私たちは人生の暗闇の中で、ひときわ輝く、キリストにある希望、癒し、慰めと出会います
長血を患う女性と出会ったキリストは、今も生きておられます。いま、キリストに触れて頂きたいと思う、「痛み」「悲しみ」があるでしょうか。また、自分を責めずにはいられない、罪に縛られている方がおられるでしょうか。
キリストは多くの奇跡を行われました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」キリストによって御国が近づく足音が聞こえてきます。このキリストは今も生きておられます。キリストが御力をもって私たちの「病い」に触れて下さり、癒しを与え、痛みのある場所を御国に変えてくださることを信じ、祈り求めましょう。
2024年8月18日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「神の国」ローマ13:11~14
イエスを信じる者には「神の国」という不変の財産。永遠の資産を得る。
旧約の預言者たちは、メシヤであるイエスが多くの苦しみを経て万人の救いとなられ、やがて王として御国を治めることを御霊によって預言し、彼ら自身も預言の成就を待ち望んでいた。
ヘブル書の著者は、人としての弱さを抱えながらも、聖霊の助けを与えられながら神の国を待ち望みつつ地上で神に従い歩んだ信仰の勇者たちが、私たちを取り囲み励ましている。だから、私たちは彼らにならい自分の前に置かれている走るべき道を辛抱強く忍耐をもって走ろうと勧める。
パウロは、私たちに善を行う力はないこと、善を行うどころか悪に傾き、周りの人と自分自身を傷つけずにはいられない弱い者であることを明らかにする。キリスト者は、パウロに心から同意し、イエスの救いを必要とし、イエスを信じ、イエスの愛にすがった者だ。キリスト者はイエスの愛を知ったときから、戦いが始まる。
信仰の量りは一人一人異なる。隣の人と自分を比べる必要はない。遠藤周作氏の作品に、「最後の殉教者」という短編小説がある。舞台は長崎の浦上。主な登場人物は隠れキリシタンの青年三人。幼い頃から勇敢な青年、甚三郎、善之助。幼い頃から不器用で大変な臆病者の喜助。キリシタン迫害の嵐が浦上に押し寄せ、信仰を捨てない者たちに激しい拷問がくわえられた。臆病であった喜助は真っ先に信仰を捨てた。
甚三郎と善之助は激しい拷問に合っても信仰を捨てることはしなかった。
役人達は女、こどものキリシタンを連れだし、転ばないキリシタンの目の前で拷問を加えた。甚三郎の12歳の弟裕次郎は甚三郎が見ている前で、むごく執拗な拷問を加えられ命を落とした。これ以上の苦しみは耐えられないと甚三郎の信仰の灯が消えかけた時。一番最初に転んだ喜助が牢に押し込まれてきた。自分のどうにもならない弱さに思い悩む喜助は神の声を聞いた「みなと行くだけでよか。もう一ぺん責苦におうて、恐ろしかなら逃げ戻ってもいい、わたしを裏切ってもよかよ。だが、みなのあとを追って行くだけは行きんさい」信仰の量りは皆異なる。そのことを神は誰よりもご存知だ。
イエスは御自身を捨てて逃げた弟子たちを責めることはなかったのだ。
2024年8月11日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「美しい道」使徒9:3~6
ダビデの長男アムノンが異母妹のタマルを凌辱し、タマルの実兄アブシャロムがアムノンを殺す。かたき討ちである。ダビデ王にとっては息子たち同士の悲しいいがみあいであった。仇討ちはアブシャロムの脳裏にいつまでも宿っていたに違いない。個人的にはアブシャロム側に加担する。いくら許しを標榜するキリスト者であっても、アムノンを許す道は選びにくい。アブシャロムと共にかたき討ちとはどういうものなのかを考えてしまう。志賀直哉の小説に「暗夜行路」がある。夫が妻の不貞を許し二人は危機を乗り越える。だがある日妻は訴えた。「赦していると仰りながら実はどうしても赦せずにいらっしゃるんだろうと私思いますわ。毎日が針の筵に座る思いである。パリサイ人サウロはイエスの敵対者であり、イエスを十字架刑まで追いやった弾圧者である。だから二人の関係は非常に険しいものだった。ある日サウロがキリスト者弾圧のため、ダマスコへ向かっていた。突然天から光が差し彼を包んだ。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」。「あなたは誰ですか」「わたしはあなたが迫害しているイエスである」。敵対関係にある二人の接触である。アブシャロムとアムノンが接触するようなものである。この時、あのお方が語ったのは「サウロ、早くダマスコに来なさい。そこにあなたの仕事が待っている。あのお方はサウロに仕事を、使命を与えることで、敵対関係を終わらせようとしたのかもしれない。その後のパウロは激烈な宣教者としてその後半生を生き、最後はイエスの御名のためにローマで殉教した。あのお方は美しい道を選んだ。あれから二千年、日本も世界もドンドン優雅さを失った。
2024年8月4日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「心の秘密は守れない」アモス5:15
貧しい者らが納める土地代を富裕階級がどんどん高くする。払えなければ没収して追い出してしまう。こうした情況を憂慮して土地所有の上限を定めても富裕層は架空の名義で土地を手にする。抜け道を設けて格差は消えない。自分のことばかりを考え、お国のことなど何にも考えない。いつの時代もどの組織もこの事情は概ね変わらない。預言者アモスの糾弾によれば、「彼らは貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している」(2:7)。血税がこんなことに使われていた。父と子が同じ女のもとに通って、おかしいだろ。気持ち悪い。貧しい者たちからの取り立ても厳しく過酷であった。「一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。」靴の代金ほどの金の取り立てのために貧しい者を奴隷として売っちまう。過日結婚式用に一足のくつを買った。五千円から二十万円位と価格帯は広い。2015年二人の日本人がISに拘束され2億ドルの身代金が日本政府に要求された。二人はサバイバルナイフで殺害された。「一足のくつのために貧しい者を売った」さすがにこれはひどい。庶民にとって20万円は決して小さな額ではない。そして、あのお方は私の人格を試すことがあるのではないか。私が信頼のおける人間なのかどうか、金銭の前で志を失うのかどうかを確かめようとする。金なんかよりも評判の方がよほど大切なのはいうまでもない。「日本人のホームレスを拘束したお前のポケットマネー20万円で、こいつの命を贖え(買い取れ!)。今の日本には一定数素晴らしき傍観者たちが現われるに違いない。人の命より、一足のくつの代金、20万円である。こうした人格は、口裂け女やトイレの花子さんよりも気味が悪い。私は苦手だ。距離を置くだろう。世には音楽や絵画の天才が存在するように、「こんなことをしてまで金に執着することもない」として生きられる天才もいる。高潔な心の持ち主だ。「一足のくつのために貧しい者を売った」。こんなのは最大の恥であり隠して生きねばなるまい。こんな恥ずべき自分の姿に耐えて生きるのは難しい。ある音楽のコンクールでミダス王が審査に加わった。アポロンが歌うと、おおかたの判断はアポロンの優勝を認めたが、ミダス王だけが異を唱えた。アポロンの怒るまいことか。「お前の耳はできそこないだ」と、王の耳をロバの耳に変えてしまった。王はこれを隠していたが、床屋が知る。「口外したら死刑だぞ」床屋は黙っていたが次第に秘密を守ることが苦しくなり穴を掘って「王様の耳はロバの耳」と叫び穴を埋めた。胸のつかえはとれた。なんと!一本の葦が根を伸ばし、この秘密を吸い取って風に流した。たちまち秘密が漏れ伝わる。王は床屋を死刑にし、みずからも毒を飲んで死んだ。自分の恥ずかしい姿に耐えられなかったのだろう。「 悪を憎み、善を愛せ」(5:15)
2024年7月28日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「神の御計画に生きる」ローマ13:1~10
イエスが御自身の犠牲を通して買い戻されたのは人の魂だけではない。
人の罪のために呪いを受けた世界をも、新しくされることが約束されている。
神は、御自身が造られたすべてのものを新しくされ、罪と悪が支配する世界に終止符をうち、神が支配される神の国を約束されている。そこには病、争い、死、罪は存在しない。
神が最終的に人に与えようとご計画されているのは、この神の国だ。
いつ生活の土台が揺り動かされてもおかしくない、不安定な時代に生きている私たちは、揺らぐことの無い神の約束を、荒野を旅する旅人を導く星のように唯一の頼りにするべきだ。神はご計画をもって人に権威をお与えになる。神のご計画とは福音が世界の果てにまで宣べ伝えられ、罪の世界に終わりが来、神の国が実現することだ。
聖書は、権威の背後にある神のご計画を信じ、神に信頼し、こころ騒がせず、ただ善であることを行い続けるように教える。権威者たちは神のご計画のために用いられる神の道具にすぎない。神は、アッシリヤ帝国、バビロニア帝国によってイスラエルを滅ぼされた。しかし、神はバビロニアに捕囚として引いていかれたユダヤ人に、バビロニアの平安を祈り、その地で落ち着いて生活を営み、減ってはならないと命じた。神はユダヤ人を大帝国のもとで守られた。
救い主イエスはローマ支配下のもとユダヤ人としてお生まれになった。人々は、ローマ帝国からの独立を求めて、イエスをイスラエルの王として立てようとした。しかし、イエスはそのような人々から身を隠した。イエスには、神のご計画を成し遂げるという目的があった。
私たちの神は、ご計画を進められる時に、人からの助けや配慮を必要とするような無能なお方ではない。
この世界の国々がどのようにあろうとも、世界は神の国の実現に向かって進む。
パウロは上に立つ者に従うようにキリスト者に勧める
神の大いなる主権を信じ、恐れるべきお方の前にやがて立つことをおぼえて、善を行い歩むように勧める。私たちは互いに愛し合うという命令をイエスから受け、神の国に帰るまで愛の負債を負っている。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」国家に対しても、個人に対しても愛を行う者となりたい。
2024年7月21日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「迷った一匹」ルカ15:4~7
あなたが百匹の羊を持っていて一匹いなくなれば探しに行くだろう。一匹を見つけたらどんなに嬉しいことか。迷って見知らぬ世界を彷徨い、また元の羊飼いのもとにもどる一匹の羊。羊飼いに連れられ羊の囲いを出た羊と、羊飼いに見つけてもらい羊の柵の中へ帰る羊は同じ羊なのにとても違っているように見える。自分を探してくれた羊飼いの姿に羊は生まれて初めて目に見えない何かに出会う。これは私たちにとっても大事な新しい始まりではないだろうか。この場面を想像するたびに胸がドキドキする。目に見えないものとの出合いはこの世に無数にあるに違いない。迷った怯えと不安。誰が探し出してくれるのかという好奇心。なだかわからないが喜びも同時にやってくる。こんな気持ちこそが生きている証ではないだろうか。辛いことも、悲しいことも、嬉しいことも、迷った人間にはすべてありであり、だからこれから始まる運命的よしみを見つめたい。人間は迷う存在である。道を踏み外すのだイタリアの詩人ダンテも暗く深い森を彷徨った。ひどい森であるとことん荒れ果てている。太陽は沈みかけ周囲は暗く不気味である。人間が迷うとはこういうことなのか。暗く深い森に入るダンテと、森から出たダンテは同じダンテなのにとても違っている。深い森の中で、いささか異なった人々に出会い、人間、人生、社会をじっくりと見つめ始めたのかもしれない。人間はきっと迷う前と迷ったあととでは違った人間になるのかもしれない。都会暮らしの不幸な娘が不幸を食べる動物をペットショップで見つけて飼う話がある。人間には食べてもらいたい多くの不幸がある。あのお方にとっての最大の不幸は、迷った一匹をあなたを失うことである。迷いおびえる私は、森の中から飛び出して、「いた!ようやく見つけた。」羊飼いの主人が私を探し歩いて見つけてくれたのだ。あのお方は言われる。〝一匹を見つけたらどんなに嬉しいことか〟。誰の人生にも、深い森がある。一匹を求めるあのお方の声がする。深い森に光が差す。森は草花に満ち始め、心地よい風が吹く。水は透き通り、にごりはひとつもない。私はご主人の後を追って、牧場へ帰る。私は主人の背中をながめつつ、人生はひとときも自分をこのお方から切り離さなかったのだとしみじみ嬉しくなった。こんな気持ちこそが生きている証ではないのか。
2024年7月14日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「臆病者」ルカ22:61
16世紀島原半島に有馬セミナリオがあった。イエスズ会が設立した神学校だ。そこに荒木トマスが学んでいて日本初の留学生として、ローマに渡り、ラテン語や神学を学んでいる。荒木が帰国したとき、弾圧政策は強化されていて、信徒は斬首されたり、火あぶりになって死んでいた。キリシタン禁制を知りながら、宣教師たちは次々に日本に密航してくる。貧しい農民信徒たちはその巻き添えを食っていた宣教師たちは、信徒たちに殉教の夢を強いている。殉教を期待している。殉教だけが神につながる道だと説いている。だがそんな過酷な道しか信仰にはないのかこれが荒木の理屈だった。1619年奉行所の役人たちが来た時、荒木は恐ろしさに震えながら捕縛された。拷問にかけられると、すぐに信仰を棄てると誓って転んでいる。荒木には「転びキリシタンのペテロとのあだ名がつけられた。裏切り者の親方との意味である。寛永11年宣教師たちを乗せたスペイン船が、琉球の海岸に漂着した。この時。荒木が宣教師の一人、オザラザ司祭に流暢なラテン語で話しかけた。「日本にはもう信徒たちの血が十分すぎるほど流れた、あんたたちの理想をこれ以上押し付けないでくれ。司祭は荒木の語り終えるまで、黙っていた。荒木が話し終えるとただひとことこう言った。「お前のラテン語は素晴らしい。だがお前の信仰は悪い。お前の留学は無駄であった。司祭は拷問にかけられ、殉教している。この人にはただ一つの生き方、ただひとつの死に方しかなかったのかもしれない。人間には生まれつき心の強い者、勇気のある者と、臆病で心の弱い者との二種類がある。あのお方は私が弱くて臆病だけど愛したのかそれとも弱くて臆病だから愛したのか、現象的には弱くて臆病だけど愛したであっただろう。殉教だけが今は神につながる道であり、もし、それを拒む者は神を裏切ることだとされていた時代に荒木は拷問の苦しさにキリストを棄てると誓って転んだのだから、これはあのお方にとっては、弱くて臆病者だけどイエスは荒木を愛した以外のなにものでもない。しかし、こんな発想は月並み過ぎる。あのお方は荒木の弱さや悪いとされた信仰など少しも気にかけていなかったに違いない。荒木その人を愛したのである。貧しい農民信徒たちの信仰を守ろうとした彼の優しさを愛したのである。あのお方はそういう存在なんだと私は信じて疑わない。「鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)。
2024年7月7日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「輝き無く威厳無き」イザヤ53章
「俺が左大臣よ、あんたは右大臣だ」弟子らはイエスがダビデのようなイスラエルの王、ユダヤ民族の救世主となってくれることを期待しただろう。イスラエルの王メシヤによる新政権誕生に伴う閣僚名簿を想像した。政治と宗教が未分化の時代だから救世主は社会変革をもたらす指導者であり、そのシンボルがダビデとソロモン王であった。ダビデは戦って倒した軍人気質であった。一方ソロモンは西側の大国エジプトと和平を結ぶなど、政治家気質である。メシヤキリストはダビデの血筋から現れることになっていた。ダビデ王は様々な敵対者に命を狙われた。ダビデの部下は死ぬことがあっただろうが、ダビデの方は傷ついても死にやしない。窮地に陥っても深手ぐらいで済んでしまう。腕っぷしが強いのかもしれないが運も強い。それが英雄というものなんだ。いや、英雄が死なないのではない、死なないのが英雄になるのだ。日本の幕末維新だって、生き残ったのが英雄であった。生き残ればこそ桂小五郎は木戸孝允になれたのであり、池田屋あたりで斬り殺されてはいかんのである。だがあのお方は、死んでメシヤになろうとしている。昨年9月三遊亭円楽さんが亡くなった。肺がんだそうだが、脳腫瘍も発症し開頭手術をうけている。生涯最後の高座では呂律が回っていなかった。(俺と同じ症状だなと思った。過日結婚式の司式を請負い、呂律が回らず、損害賠償を請求されかねない失態であった。)だが円楽さんは偉いと思った。「みっともなくてもやる。死ぬまでやる」「みっともないからやめる。俺の変わりなんて幾らでもいるし」とは言わなかった。イエスの敵対者らが、刑場へと追い立てる。素っ裸にされ、重い十字架を担がされ、民衆の侮辱嘲笑が容赦なく浴びせられる。イエスをからかい、小突き唾を吐きかける。私たちが見とれるような姿はなく、私たちが慕うような見ばえもない。イエスはみっともない姿で死ぬことで救い主になろうとしている。「みっともなくてもやる。死ぬまでやる。」「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53章)
2024年6月30 日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「平和をつくる」ローマ12:17~21
イエスは神の民とされたユダヤ人たちに、使命を与えられた。神の子たちが地の塩となり、世の光となることによって、人びとが神の子たちの良い行いを見て、天の父があがめられることだ。世の光、地の塩となることはこの世の闇を照らし、世の腐敗を防ぐだけではなく、自分を迫害する者たちの祝福を祈り、平和をつくることだとイエスは教える。イスラエルの神、そして私たちの神こそ人間に和解の御手を差し伸べ続け、人との平和をつくる神だ。この父にならい平和をつくるようにと神の子に命じられる。また、イエスの名によって悪霊を追い出す奇跡を行う者に、ヨハネは、イエスの名によって悪霊を追い出すことをやめさせようとした。イエスは、自分たちについてこないからという理由で、イエスの御名によって神の力ある業を行うことをとめてはならない。と戒めた。私たちの心は狭く固い。自分の考えを基準にして人をさばく。しかし、神の力は人の狭い考えによって縛られることなく、神の主権のもと、異なった賜物を与えられた人びとの上に働かれる。イエスは小さい者たちをつまずかせることの罪深さを述べ、皆、塩気を保ち、互いに平和に過ごすように命じる。「塩は火によって塩づけられる。」塩が塩となるためには火によって鍛錬されるという過程が必要だ。平和は人と人の間で意識してつくり出されるものだ。しかし、私たちはしたいと思う善を行うことができず、したくない悪を行う罪の性質に縛られている。神の子たちが、神の御教えに従い行こうとするとき、痛みと悩みの中を通る。神は御自身のこどもたちに必要な過程として剪定を施される。その過程を通して自分が救いようのないあわれな存在であり、そのあわれで救いようのない者を、決してあきらめない神のあわれみの深さと、いつも差し伸べられている完全な愛を知る。
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