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2025年9月21日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「神の協力者」ヨハネ15:1-11
神は旧約聖書で選民イスラエルを神が植えたぶどうの木として例えておられる。*(イザヤ5:1‐7)イスラエルは神の民として神を愛し、へりくだって神とともに歩むことによって良い実を豊かに実らせるように教えられ、育まれてきた。そして、神に従うイスラエルを通して現わされる神の栄光を、諸国の人々が見て世の光とされる使命を与えられている。しかし、イスラエルの心は育ててくださった神から離れ、神への裏切りを重ね、その報いを受けたことが旧約聖書には記されている。イエスは弟子たちに、実を結ぶ者となるように教える。イエスはこの教えを弟子に向けてお語りになった。イエスを信じる者は大勢あったが、イエスの弟子となることを拒み離れていった者は多かった。離れていった人々は、イエスから罪を指摘されると反抗した。イエスが語られる真理のおことばを拒み、イエスが神から遣わされたメシアであることを拒み、権威を持って語られるイエスを憎み殺そうとした。イエスはご自分の弟子たちを知っておられた。イエスの弟子たちは、時に、イエスから戒められる普通に弱さを持つ人たちだったが、イエスを信じていた。神のことばであるイエスの永遠のいのちのことばを聞き、イエスがメシアであることを知り弟子となった。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」弟子たちがこれから自分を見捨てて逃げることも、ペテロがイエスを知らないと三度否むこともご存じで、イエスは彼らをきよいと宣言された。父なる神がへりくだった心の者を退けることはない。イエスを信じる者だけが神の御前にきよい者とされる。弱さを持ったままでイエスの愛のなかにとどまり続けるようにとイエスは弟子たちに教える。弱さを受け止めてくださるイエスの愛にとどまるときに、弟子たちは初めて良い実をむすぶ。神は、私たちがそれぞれ与えられたタラントに従って実を結ぶことを求めておられる。イエスのおことばにとどまり、良い実を結ぶことを求めるなら、神は聞いてくださると、イエスは約束する。それは、弟子たちを通して神の栄光が現わされ、神の民が満ち、神の国が成就するためだ。(Ⅰコリント3:9)イエスが、神を愛して従い行かれたように、イエスを愛し従う弟子は神の協力者だ。神の愛は、失われた被造物を取り戻される。すべての者が神の御前に立ち、神からの報いを受けるとき、イエスを愛し、つまずきながらも従い続けた弟子たちは、神からのお褒めのおことばを頂き、神とともに喜びに溢れる。(マタイ25:14‐30)
2025年9月7日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「インマヌエル」ヨハネ14:25-31
「万軍の主、主を聖なる者とせよ。主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき。」イザヤ8:13神の聖は神の御本質の一つだ。
旧約聖書で明らかにされている神のお姿は、人が近づくことも、見ることも許されない神であり、もし、人が近づくならば神のきよさに打たれた
罪ある人間がそのままの状態で聖であられる神に近づくことは許されない。*(伝道者の書12:13,14)
終わりの日に私たちの神は悪魔を滅ぼし、神の御前にすべての人をさばき、新しい天と新しい地を統べ治められる。その時、神はすべての民の賛美と栄光をお受けになる。
恐れられるべきお方が人の救いのために御計画し、成し遂げられた方法は、誰も想像できなかったことだった。*(Ⅰコリント2:1,2,8、9)
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」
神であられるキリスト・イエスが人の身代わりとなってさばきを受け、世界を救う神のシナリオを誰が予想できただろうか。神の御本質である愛とあわれみは、すべての罪を覆い尽くした。それだけでなく、神を愛する者たちが、この地上にあって激しい闘いを戦わなければならないことをご存知であられる神は、イエスを通して聖霊を与えてくださった。
ヨハネの14章では、父のもとに帰ろうとされるイエスが、弟子たちに語り、決してあなたがたを孤児とはしない。わたしは必ず戻ってくるし、聖霊がいつもあなたがたとともにおられるようになるのだと、真理を語られる。ペンテコステの日に、イエスのことばが現実となり、聖霊を受けた弟子たちによって神の宣教の御業が力強く動き始めた。聖霊が、イエスが、父なる神が、神を愛する私たちのうちに住まわれ一つとされるとは、超自然的な驚くべき恵みだ。神は神を愛する者とともにおられる。しかし人は、今も昔も神がともにおられることを疑う。メリバでの民の叫びは「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」という神への不信の叫びだった。インマヌエルの神は私たちとともにおられる。
私たちのうちにおられる聖霊は、試練のときに私たちを励ます。イエスのことばを思い起こさせ、真実としてこころに刻みつける。
殉教していった使徒たちのうちには、イエスと同じ平安があったのかもしれない。自分の想いを行うのではなく、ただ神が命じられることに従う平安と、約束の御国に帰る希望は、
使徒たちが試練にひるむことなく進む力だったのではないだろうか。
2025年8月24日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「神は約束に忠実なお方」創世記21章1-7節
21:1に注目すると「サラを顧みられた」「サラのために行われた」とあります。この言葉からは、不妊であったサラに対する神の温かい眼差しを感じ取ることができます。サラは旅をはじめたものの、一向に子どもが与えられませんでした。子が産まれない苦しみには、主への信頼の揺らぎといった霊的な苦しみが伴っていたことでしょう。先の見えない旅の中で、一向に子は与えられないという状況は、主の約束への信頼を揺るがしました。サラは10年たっても子が与えられな現実に直面する中で「アブラハムの子を生むのは自分ではないのではないか」と考えるようになりました。そして当時は当然であった、自らの女奴隷を夫に妻として与え、女奴隷に子を生ませるという方法をとりました。しかし、自分がみごもったと知った女奴隷ハガルは、女主人であるサラを軽く見るようになりました。サラはハガルに対し激しく怒りました。サラには、長年待ち望んでも与えられなかった子を女奴隷が身籠っているという嫉妬が湧き上がってきます。ハガルの子イシュマエルの誕生は、サラにとって一番辛いときだったのではないでしょうか。主は、イシュマエルが生まれてから13年間沈黙されます。そして主は99歳になったアブラハムと89歳になったサラのもとに現れ、再び約束を語られました。神の約束の言葉を聞いたとき、二人は笑いました。「90歳の夫婦になってしまった私たちが子を授かるなど不可能だ」そう神の言葉をあざ笑いました。しかし主は、サラとアブラハムに与えた約束の通りに行われました。アブラハムが100歳の時にイサクは生まれたのです。サラは「神は私に笑いをくださいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう」と神を賛美しています。二人は神の言葉をあざ笑う笑いから、神の御業を喜ぶ笑いへと変えられたのです。主はサラの嘆きをすっかり拭い去り、全き喜びへと変えてくださいました。主は人の目には不可能だと思えるような状況をも覆すことのできるお方です。私たちの主は、アブラハムとサラの旅路をもって示されたように、約束を果たしてくださるお方です。神様の約束が信じられない時、疑ってしまう時があります。サラは先が見えない中においても、自分が置かれた場所に静かに留まり続けました。そこには、サラの内に光続けた小さな信仰を見ることができます。サラとともにおられた主は、私たちと共におられ、サラに尽くされた真実を、私たちにも尽くしてくださいます。この主に信頼して、今日も生かされて参りましょう。
2025年8月17日 基督聖協団目黒教会 横山さおり師
「弱さを覆う力」ヨハネ14:19-24
イエスと父の間には強く結ばれた父子愛と揺るぎない信頼関係があった。イエスは父との麗しい愛の交わりのなかに私たちを加えると語られる。これは驚くべきことだ。神であられるイエスが、そして父が、ちりで造られた罪の性質を持つ卑しい人間のうちにすまわれる。この事を通して、イエスの開いてくださった救いの力が完全であることを誉め讃えずにはいられない。「わたしの戒めを持っており、それを守る人はわたしを{ほんとうに}愛する者である。わたしを{ほんとうに}愛する者はわたしの父に愛される。わたしも{また}その人を愛して、彼に私自身を示す{啓示する、現わす}{わたし自身を彼にはっきり示す[目の当たりに示す]}」(詳訳聖書)イエスの戒めを守る者にイエスは御自身をはっきりと啓示される。啓示を受けた者はイエスを知り、また父なる神を知る。パウロは信徒たちがキリストの愛を知ることによって充ち満ちた幸いを得るように祈る。(エペソ3:16-19)
イエスの愛、真実、力を知ることは私たちの人生を不安や恐れから守る。私自身、心身ともに疲れ果て、生きる自信を失い倒れ込んでしまうときがあった。その時イエスの優しさが心に触れた。イエスがともにおられて弱い私を良しとされているのを感じた。イエスを信じる者の内にはイエスが住み、御自身を現わされる。(ヨハネ14:23)イエスの愛を知った者は、「互いに愛し合いなさい」というイエスの命令を守りたいと願うがそれは簡単ではない。イエスも父も私たちに善を行う力がないことを承知済みだ。良い行いは神の恵みによって行われる。人の力ではない。神の御前に価値あるものは砕かれたたましいだ。愛を行うことが出来ない自分の弱さを認めて神の愛顧にすがる者に神のいつくしみは留まる。「霊において貧しい者{自分をつまらない者と評価する謙遜な人}は祝福されている{幸福である、うらやましい状態にある、霊的に栄えている[すなわち、外側の状態にはかかわりなく神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている]}なぜなら、天の国はその人たちのものだからである。」(詳訳聖書)神の栄光は人の弱さを通して現わされる。(Ⅱコリント12:7-10)与えられたトゲのために、真剣に神に向き合い祈るパウロに主は語られる。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」
主のおことばを受けて、「私が弱いときにこそ私は強い」とパウロは宣言し、自分の人生を神の御手に明け渡し、神の力と神の方法で神の栄光だけが現わされることを期待した。全てを捨てたイエス。このお方を愛し、イエスにすがり従う者を神は愛される。イエスと父なる神はその人のうちに住み、私たちの弱さはイエスの御力でおおわれ神の栄光だけが輝く。
2025年8月10日 基督聖協団目黒教会 馬上真輝師
「あなたがしてあげなさい」マルコの福音書6章30-45節
イエス様は、食事をとる時間を確保できないほど忙しく宣教の働きをしてきた弟子たちに、休むように命じています。そこで弟子たちは、言われた通り自分達だけで人気のないところに行きました。ところが、それを見た群衆があちこちからやって来て、弟子たちのところに集まってきました。それを見たイエス様は、彼らを深く憐れまれて、多くのことを教えられました。弟子たちはおそらく、イエス様が人々を教えてる手助けをしていたのでしょう。ゆっくり食事をとって休むために向かった場所でも、弟子たちは忙しく働くことになってしまいました。そのうち遅い時間になってしまったので、弟子たちはイエス様に、人々がそれぞれ食事を取るために、彼らを解散させるよう求めます。しかしイエス様はこう答えられます。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」弟子たちは相当驚いたことでしょう。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」と問いかけます。デナリというのは当時の1日分の給料に値するので、200日分の給料を使って彼らに食べさせることになります。その問いかけに対してイエス様は、パンがいくつあるか確認させ、群衆を座らせます。そして神をほめたたえ、そのパンを裂き、弟子たちに配らせました。その結果群衆はそれを食べ満腹になり、しかも十二のカゴがいっぱいになる程余りました。神様は決して私たちの必要を見過ごされる方ではありません。イエス様は忙しく宣教活動をしていた弟子たちに、まず休むように命じられました。結果的にはまだ働くことになってしまいましたが、45節ではご自分で群衆を解散させ、再び弟子たちを休みに向かわせます。イエス様は、必ず最善のタイミングで私たちの必要を満たしてくださるのです。私たちはそのイエス様に信頼し、み前に正直なものでありたいと願います。私たちと神様の関係は、ただの主従関係ではありません。神様は、子どもの思いを知っていたい親のように、私たちの思いを気にかけて下さる方です。その思いがたとえ神様の思いと違うものであったとしても、神様は喜んでその思いを聞いてくださいます。そして私たちが神様の前に正直に答える時、イエス様は私たちの思いを受け止め、それでも「あなたがしてあげなさい」と語ってくださいます。それは、わたしたちを神様のわざの一員に招き入れたいと願っているからです。そこには、あなたを価値ある存在だと認めてくださる、大きな愛があります。大切なあなただからこそ、わたしが行うわざに携わってほしい。そう神様は願っておられます。私たちがどれだけのものを持っているか、どれだけのことができるかは、重要ではありません。私たちが神のわざのうちに加わることを、神様は喜んでくださいます。そして神様は私たちを用いて、はるかに想像を超えたわざを行ってくださいます。私たちはこの神様のわざに期待していきたいと願います。
2025年7月27日 基督聖協団目黒教会 横山さおり師
「愛すること」ヨハネ14:15-21
人は愛すること愛されることを通して真の喜びと幸せを得る。イエスが私たちに命じられたのは「互いに愛し合いなさい」という戒めだ。神の似姿に創造された人間が真の幸せを得る道は「互いに愛し合う」ことであるとイエスはご存知だ。父なる神と子なるイエスはこの戒めを御身をもって私たちに示された。愛は父なる神の御本質だ。愛する者のために犠牲を払うことを厭わない偽りの無い愛で私たちを愛される。イエスは御自身の羊をいのちをかけて守られる。(ヨハネ10:14-18、)(ヨハネ10:24-30)
御自身が一粒の麦として死に、多くの実を残すことが父なる神のお心であることをイエスはご存知だった。それはイエスにとって苦しみの道だった。しかし父なる神が死んだラザロを蘇らせて栄光を現わしたように、イエスの死と復活を通して再び大いなる栄光を現わされると、神に対するイエスの信頼は揺るぎない。(ヨハネ12:23-29)
イエスが背負う万人の罪の重みはイエスを押しつぶすほどだった。暗黒に覆われたゲッセマネの園で一人もだえ苦しみ祈るイエスのお苦しみは誰にも想像できない。(ヘブル5:7-10)
イエスの苦しみによって万人に永遠のいのちが与えられ、神の子としての位が授けられた。イザヤ書の苦難のメシヤ預言には「彼は自分のたましいの激しい苦しみの後を見て、満足する。」と記されている。この預言の通りイエスの犠牲によって神のお心が成し遂げられ多くの人に永遠のいのちが与えられたことはイエスの喜びだった。イエスは私たちの救いの源となり、今私たちの罪のためにとりなし祈られる。父なる神の痛みはイエスの痛みであり、父なる神の喜びはイエスの喜びだ。イエスはご自分と父なる神の豊かな愛の交わりのなかに私たちをも加えられた。神の痛みと喜びが私たちのものとなり、イエスの痛みと喜びが私たちのものとなるように導かれる。私たちの弱さを知り尽くすイエスは私たちに助け主を送ってくださった。助け主であられる御霊は私たちとともにおられ、私たちのうちにおられる。旧約における聖霊(神の霊)は世界の創造にかかわりを持ち、神に仕える人々に力と賜物を与えた。預言者たちは御霊を通して神のおことばを受け、御霊によって神のことばを民に伝えた。神への献身、従順なこころ、罪を悔いる柔らかなこころも御霊の働きによるものであることが旧約聖書では示されている。新訳においては聖霊のお働きによる信徒一人一人の愛のわざによってイエスの身体である教会は立て上げられていった。私たちも助け主である聖霊のみ力を仰ぎつつ「互いに愛し合いなさい」と命じられるイエスに従っていこう。失敗しても何度でもイエスの御手にすがり立ち上がればよい。
2025年7月13日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「キリストにとどまる」ヨハネの福音書15章1-5節
イエス様は最後の晩餐で弟子たちに「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」と語られました。弟子たちを「枝」と呼び、「わたしにとどまりなさい」と招かれます。
イエス様は「実を結ばない枝」と「実を結ぶ枝」という二種類の枝について語られました。「実を結ばない枝」は父によって取り除かれます。それはイエス様にとどまらず、十字架の赦しを信じない人の姿です。一方、「実を結ぶ枝」とは刈り込みを受け、もっと豊かに実を結びます。「刈り込み」とは良質なぶどうの果実を収穫するために必要不可欠な作業です。不要な枝を取り除くことで、日光があたりやすいようにしたり、風通しをよくすることで、湿気を好む害虫やカビから、枝や果実を守ります。そしてこの「刈り込み」という言葉は「きよめる」という意味も含まれています。イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしのことばによって、すでにきよいのです」と言われました。彼らはイエス様と生活を共にし、イエス様の教えを聞き、心で信じてきよい者とされました。ですが、彼らはさらに実を結ぶために、刈り込まれ続けるのです。それと同じように、私たちキリスト者は、ますます実を結ぶために、神様によって「手入れ」をされます。何度も繰り返してしまう罪。手放せない憎しみ。いつまでも心を蝕む過去の傷。私たちは、誰にも見られたくない、触れられたくないと思うような心の一部を神様によって触れられ「手入れ」されるのです。「刈り込み」には、痛みを伴うこともありますが、神様は私たちをキリストの似姿へと造り変え、私たちを癒し、罪からの解放と自由を与えようとされます。これは私たちに対する神様の愛の手入れです。では「実を結ぶ」とは何でしょう。それはイエス様の十字架の愛にとどまり、その愛に生きることです。イエス様は、「わたしが、あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられました。私たちは、自分が愛されたようにしか、他者を愛することができません。ですから、私たちは、キリストの愛に生きたいと願うなら、イエス様の愛の内に留まらなくてはなりません。「実を結ぶ」ために必要なことは、木にとどまることです。実は自力で実を結ぶことができません。愛に生きる歩みは絞り出すものではなく、キリストの愛を受けることで、喜びの内に他者を愛する者とさせられていくのです。私たちは今日も、神の言葉、イエス様の十字架にとどまり、豊かな実を結ぶものとさせられて参りたいと思います。
2025年7月6日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「神のわざ」ヨハネ14:10-14
イスラエルの民ほど神を知っている国民はいない。神はアブラハムと彼の子孫であるイスラエルを祝福し、神の溢れる祝福を周りに受け継ぐ民として召し出した。
神はイスラエルの歴史のなかで御自身を現わされた。しかし、イスラエルに知られていない神の深いお心がイエスによって明らかにされた。(ヨハネ1:18)
イエスと父なる神は一つであった。イエスは、律法を成就するために地に来られた。
イエスの語られるおことばは、時にとても厳しかった。「こころの貧しい者は幸いです。」ということばから始まる山上の説教は、人の心の奥から湧き出る情欲、妬み、憎しみ、高ぶり、怒り、虚栄などを戒める教え、また、隣人への許し、施しなど完全な隣人愛を行うように命じる教えだった。イエスと父なる神の教えは人に完全な愛を求めており、想いの相違はない。一方、イエスは人の弱さを理解して人々に寄り添われるお方だった。イエスから招かれた取税人ザアカイの人生はイエスとの出会いによって180度変わった。イエスは、自分の弱さを知る心の貧しい人に寄り添い、自分を正しい者として人をさばく者には厳しい態度で臨まれた。当時、権威と力を与えられていた宗教指導者たちは罪人や弱い者をさばき、自分を義人と信じる者で、神の御前に傲慢だった。宗教指導者たちは、イエスが行われた数々の力あるわざを見ていながら、イエスを罪に定め十字架につけた。しかし、イエスはご自分を十字架につけた彼らのためにも、十字架の上でとりなし祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかがわかっていないのです。」イエスは罪人に対してどこまでもあわれみ深いお方だった。
旧約に見られる父なる神も人の弱さを理解されるお方だ。神はアブラハムが素直に神のおことばに信頼したことによって、アブラハムを義と認めた。父なる神が行いによってではなく、信仰によってアブラハムを義と認めたのは人の弱さを理解し尽くしておられたからだ。また、神をおそれない頑なな心の者が滅びることをも望まなかった。神はさばきという指導をもって臨み、逆らう者たちが悔い改め神に立ち返ることを願った。(エゼキエル18:25-32)失われゆく人々への神の愛は、神が人のために犠牲になるという誰も予測できない方法で現わされた。イエスの十字架は神の愛の極みだった。イエスが神のもとに帰られた今、弟子たちを通してイエスの大きなわざが行われる。大きなわざとは、人々がイエスを信じ、神の愛を知り、人生が変えられ、真の幸せを得ることだ。イエスの福音が大きな力で拡大していくことだ。アブラハムが父なる神から周りの民族に祝福を受け継ぐ使命を与えられたように、イエスを信じる者は祝福を受け継ぐ使命をイエスから受けている。神がそのための協力を惜しむことはない。(Ⅰペテロ3:8-12)
2025年6月29日 基督聖協団目黒教会 馬上真輝師
「涙と怒り」ヨハネの福音書11章25-26,32-35節
聖司先生は、いつも説教前に「語るのは愚かな者ですが…」と祈られていました。そこには、神様への信頼と、みことばの力の確信、それを取り次ぐ者としての責務を背負った聖司先生の姿が見えてきます。特に最後の2回の説教では、肉体や声が衰えようとも、ますます力強く現れていくみことばの真実がありました。まさに命をかけて、神のことばを取り次がれた歩みでした。しかし残された私たちは「主よ、あなたがここにおられたなら…」と思わずにはいられません。病の進行する中、私は妻と祈りました。「神様、なぜ聖司先生の病を癒してくださらないのですか。」多くの人が同じように祈ったと思います。ヨハネの福音書11章では、イエス様が、愛する友ラザロの死と向き合われています。「あなたがいてくださったなら…」と訴えかけるマルタの心には、さまざまな思いが垣間見えます。悲しみ、やるせなさ、また、イエス様がいたなら間違いなく病を癒せたという確信。マルタの言葉には、イエス様の神の子としての力への確信と同時に、それを持ちながらなぜ助けてくれなかったのかというやるせなさを感じます。そんなマルタにイエス様はこう語りかけます。「わたしはよみがえりです。いのちです。―あなたは、このことを信じますか。」この中の「死んでも生きる」また「永遠に決して死ぬことがない」というのは、肉体のことではなく、霊のことを指しています。イエス様を信じる人の霊は、たとえ肉体が死んでも、永遠に、絶対に死ぬことがないのです。イエス様は、主への信頼と疑念を抱くマルタに、いのちの主権がイエス様にあるという信仰告白を問いかけました。マルタはこの問いに「はい、主よ」と答えます。聖司先生の肉体は死を迎えましたが、霊は天に召されました。イエス様を信じる者にとって死は人生の終わりではなく、永遠のいのちへのはじまりです。また、ラザロの死を悲しみ泣く人々を前にしてイエス様は「霊に憤りを覚え」られました。この「憤り」という言葉は、内側から込み上げる激しい感情を表す言葉です。イエス様は、死という現実よって心打ちのめされ、心支配され、心引き裂かれている人々の姿を前にして、怒りを燃え上がらせていました。その怒りは、人間の上に重くのしかかる「死」に対して向けられました。神様が愛をもって造られた人間が、死によって涙し、心を支配され、絶望してしまうこの現実はあってはならない。それゆえに、この憤りには大きな慰めがあります。実際、この後イエス様は墓の前で再び憤りを覚えられ、「ラザロよ、出てきなさい。」と大声で叫ばれ、死から命へと呼び戻されました。これは、ただラザロ一人を生き返らせるための奇跡ではなく、それを見た者が、聞いた者がイエス様の「あなたは、これを信じますか」という問いかけに「はい」と答えるためのしるしです。イエス様はマルタに問いかけられました。「わたしはよみがえりです。いのちです。―あなたは、このことを信じますか。」この問いに、聖司先生は人生をかけて「はい」と答えてこられました。この問いに、残された私たちもまた「はい、主よ」と応えて歩んでいきたい願います。
2025年6月22日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「慰めることができます!」Ⅱコリント人への手紙1章3-7節
このⅡコリント人への手紙は、パウロがコリントの教会書いた手紙ですが、この手紙は「神の慰め」についての話から始まります。今日はこの個所から三つのことに目を留めたいと思います。
まず一つ目は「神は、私たちを慰めてくださる」ということです。パウロが語る「神の慰め」は彼の実体験です。パウロは5節で私たちに「キリストの苦難」があふれているように、キリストによって、私たちの慰めもあふれている言います。この「キリストの苦難」とはキリストの足跡を辿る道です。キリストは迫害を受け、弟子から裏切られ、貧しさを経験し、孤独を知っています。私たちが過去に経験した痛みをイエス様は誰よりも理解してくださっています。私たちは、イエスさまの十字架の苦しみは、死への勝利、サタンへの勝利へと代えられたことを覚えたいと思います。苦しみの中には、いつも時に適ってふさわしく、神の慰めと希望があります。神は私たちに慰めを与えてくださるお方です。
二つ目に教えられたいことは「私たちは苦しみの中にある人を慰めることができる」ということです。パウロは四節で「神は…私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」と語ります。私たちが涙する日々は、決して無駄ではなく、その痛みを味わったからこそ、出会った主の慰めがあります。それは他者にとっての慰め、その人が主の希望を見据え、苦難を耐え抜く力となっていくのです。私たちは、隣人の痛みに心を合わせ、共に痛みを感じながらも「どのような苦しみの時にも、私たちを慰めて」くださる神を指さし、共に主イエスの方へと足を進めていく者となることができるのです。
最後の三つ目は「私たちは苦しみと慰めをともにするキリストの身体である」ということです。7節では「私たちがあなたがたについて抱いている望みは揺るぎません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めもともにしていることを、私たちは知っているからです。」とあります。パウロはここで共同体、キリストの身体を意識しています。パウロの苦しみは彼らの苦しみであり、パウロの慰めは彼らの慰めであるということです。パウロとコリント教会が離れたところにいたように、私たちも日常において遣わされている場所は、それぞれに異なります。けれど私たちはキリストにあって一つです。あなたの痛みは私の痛みであり、あなたが受ける慰めは私の慰めであるのです。私たちは痛みも慰めも共有し合う、キリストの身体であることを覚え、互いのためにとりなし祈り合い、手を取り合って参りたいと思います。
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