基督聖協団目黒教会

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基督聖協団目黒教会 episodes

  • 朽ちないものへの希望

    2026年5月24日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり

    「朽ちないものへの希望」Ⅰコリント15:50‐58

    古代エジプトでは人の死後、来世に再生するためには肉体が必要とされるという死生観から肉体の保存が行われた。ギリシャ的文化では肉体は悪であり「死」は霊魂が肉体から解放されることと捉えていた。古代から人は「死」という問題に大きな関心をよせ、何らかの答えを見出そうとした。「死」という問題は人が避けては通れない問題だ。「目に見えるものだけが信じられるすべて」という現実主義の世界のなかで生きる私たちは、我がものが損われ、失われるとき動揺せずにはいられない。まして自分のいのちが失われる「死」を動揺せずに受け止められる人は少ない。「死」に対して人は為す術を持たない。今まで築き上げた富も、権力も「死」の前には霧のようにはかない。守ってきた自尊心も破れ、運命に抗う力も消える。すべてを手放さなければならない状態が「死」だ。人からすべての力がそぎ取られるとき、目に見えないものに人が目を向けるときだ。そのとき、目には見えないけれども、確かに御臨在し、人を愛し、人が神のもとに帰ってくることを待ち続ける父なる神の福音を仰ぎ見る。神が与えたイエスによる救いは、人を恐怖に陥れる「死」に十分な解決を与える。イエスは暗い墓からよみがえられた後、弟子たちにご自身を現された。イエスは弟子たちの真ん中に立たれると、「平安があなたがたにあるように」と言われた。弟子たちはイエスがよみがえられたお姿を見て喜びに湧きあがった。しかし、その場に居合わせなかったトマスは、興奮冷めやらぬ弟子たちの言葉を受け入れることができなかった。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」と言った。トマスはイエスがよみがえられたということを信じられなかった。その八日後、再びイエスは弟子たちの真ん中に立たれた。イエスはトマスに歩み寄った。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはよみがえられた神であられるイエスを「私の主、私の神よ」と崇めた。「死」を征服されたイエスは言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」聖書が指し示す世界は目には見えないものを信じ、より頼み、希望をもって待ち望む世界だ。よみがえられた後のイエスのおからだは、以前の肉体とは違う栄光のおからだだった。イエスにすがる人たちも皆イエスと同じ栄光のからだによみがえる。そのからだは病気になったり、腐敗するような弱く不自由な体ではない。イエスにより頼む者たちはイエスとともに「死」に打ち勝つ者とされた。この地に生きる私たちは「死」を征服されたイエスの希望に満ちた福音を伝え、人々に平安を届ける使命を神から委ねられている。

    21 min
  • あなたはわたしのもの

    2026年5月17日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり

    「あなたはわたしのもの」ヨハネ17:6‐11

    父なる神は、ご自身が召し出された者をご自身のものとして変わることのない永遠の愛で愛される。父の愛は人の弱さをも静かに耐え忍び、待つ。神に選び出されたイスラエルは神のものとなり、神の教えを受けた。旧約聖書にはイスラエルを愛して守り、正しく指導する神への賛美がうたわれている。神の教えは完全で、たましいを生き返らせ、人の心を喜ばせる。純金よりも慕わしく、蜜よりも甘い。父なる神は肉体だけでなく霊的な渇望を満たすお方だ。神の霊を吹き込まれて神に似せて創造された人間は、神が与えるおことばによってはじめて満たされて生きることができる。ご自身の教えを守ることを神は望んでおられ、それが人を永久に幸せにする道であると神は告げる。(申命記5:28‐29)

    神の教えに従う歩みは苦しみが無く、喜びだけに包まれた歩みではない。モーセもダビデも同胞から命を狙われる火のような試練の中を通された。神は試練のときに彼らとともにおられ支えた。彼らは試練を通して神をより深く知る者、愛する者とされ神を誉めたたえた。神はご自分のものたちが、神のみ教えを守り、深くご自身を知り、神と一つとなることを願っておられる。イエスはご自身の弟子を神のものであると仰っている。イエスが愛する弟子たちに最後に与えた戒めは「互いに仕え合い、愛し合いなさい。」という戒めだった。この戒めは律法すべてを要約したものだとイエスは語っておられる。イエスご自身の生き方がこの戒めを現していた。弟子たちの前で腰をかがめて膝をつき、弟子たちの足を洗い、愛をもって仕えられたお姿を弟子たちは生涯忘れることはなかっただろう。イエスは父なる神を愛し、ご自分を無にし、人を愛し人に仕えられた。イエスが生涯を通して父のおこころに従順に生きることを学ばれたように、弟子たちも神のおこころに従順であることを学ぶ道が用意されていた。イエスを信じる弟子たちは同胞から憎まれ、迫害されながらイエスを宣べ伝える道を歩み続けた。彼らの心の中にはイエスの教えが常にあっただろう。葛藤もあっただろう。痛みも涙もあったはずだ。その道は約束された聖霊の偉大な御力なくしては歩むことができない道だ。しかし、聖霊がともにおられるならば歩み続けることができる道だ。預言者だったモーセもダビデも神が与えられた御霊によって神に従い通すことができた。弟子たちを地に残し天に帰られるイエスは、弟子たちがイエスから離れることのないように切に父なる神に願われる。愛するご自分のものたちのためにイエスが祈る祈りは、父の祈りだ。父はイエスを信じるご自分のものたちを守られる。

    25 min
  • 罪人の中に立たれるイエス

    2026年5月10日 聖協団目黒教会 牧師 馬上真輝

    「罪人の中に立たれるイエス」マルコ1:9-11
    イエス様は、ガリラヤのナザレという町で、一人の人間として人生を歩まれました。公生涯に入る前のイエス様の職業は大工であり、当時の技術者として、夏の日差しや冬の寒さの中で汗を流して働いておられたのです。神の御子でありながら、私たちと同じように働き、糧を得るという日常の苦労を体験されました。このことは、イエス様が私たちの人生における労苦を知識としてではなく、実体験として深く理解しておられることを意味します。人間関係で受ける傷や、働くことの大変さ、疲れ果てた時の心の痛み。イエス様はそれらすべてを「知っておられる」からこそ、私たちが困難にあるとき、その気持ちに寄り添い、深く理解してくださるのです。イエス様の公生涯の始まりにおいて、象徴的な出来事が起こります。バプテスマのヨハネが悔い改めを説き、多くの人々が自らの罪を告白してバプテスマを受けていた際、イエス様もまた、その長蛇の列に並ばれたのです。本来、罪のない神の御子であるイエス様は、さばく側に立つお方であり、バプテスマを授ける立場にあります。しかし、イエス様はあえて罪人の一人であるかのように振る舞い、人々の列に加わられました。この姿は、後にイエス様が全人類の罪を背負って向かわれる「十字架」を指し示しています。イエス様は罪人を遠くから見下ろすのではなく、罪人の中に入り、私たちの側に立つことを選ばれたのです。ヨハネからバプテスマを受け、水から上がられたとき、「天が裂け」、御霊が鳩のように降り、父なる神様の声が響きました。旧約聖書の最後から約400年もの間、沈黙を守られていた神様が、イエス様という存在を通してその沈黙を破られたのです。「天が裂ける」という描写は、後の十字架の場面で神殿の幕が裂けたことと重なります。それは、罪によって断絶されていた神と人との関係が、イエス様の介入によって再び開かれたことを象徴しています。父なる神様は、罪人の列に並び、本来受ける必要のない苦難に従われたイエス様を「わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と祝福されました。ここには、御父の計り知れない愛、罪人の中に入られた御子、そして傍らに寄り添う御霊という、三位一体の神の深い愛が示されています。イエス様は、私たちを天からさばくのではなく、この世界のただ中に、私たちのすぐ隣に立ってくださいました。罪のないお方が罪人の側に立たれたという事実にこそ、神様の愛があります。私たちは、今日も私たちの側に立ってくださるイエス様の恵みに感謝しつつ、ともに歩んで参りましょう.。

    25 min
  • 死

    2026年5月3日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり

    「死」ヨハネ11:17-27

    イエスは「死」について、どのような思いを抱いて向き合っておられたのだろうか。イエスは人の子として産まれ、生きた。私たちは生きていれば誰かの「死」と対面する機会が訪れるものだ。イエスの父ヨセフは早いうちに亡くなっていたであろうと推測されている。イエスは「死」が周りの人々に与える痛みを十分に理解することができるお方だった。そして「死」が持つ力を超越した神であられる。イエスは死人をよみがえらせる奇跡を行い神の栄光を現わした。ラザロ、マリア、マルタの姉弟はメシアであるイエスを信じ愛していた。イエスも彼らを愛しておられた。イエスが愛されたこの姉弟は、イエスが「死」をも超越し支配されるおかたであることを世に示すために選ばれた。ラザロが病であることを知らされたとき、イエスは彼のもとに駆け付けず、二日の間をおいた。イエスが姉妹のもとに到着した時には、ラザロの死後四日が経過していた。マルタもマリアもイエスの力によって姉弟ラザロが死なずにすむことを信じていた。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」姉妹は悲しみを抑えることができなかった。悲しみをこらえながらもイエスをメシアと告白するマルタに、イエスはご自身が「死」の力をも支配されるお方であることを宣言される。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は(たとえ死ぬことはあっても必ず生きる。)また、生きていてわたしを信じる者みな、(事実上)決して死ぬことはない。あなたはこれを信ずるか。」(詳訳聖書)マルタはイエスが神の子メシアであるとためらうことなく告白する。妹のマリアはイエスの足もとにひれ伏してむせび泣き崩れ落ちた。彼女とともにいたユダヤ人もともに泣き悲しんだ。その様子をご覧になったイエスは霊に憤りを覚え心を騒がせた。イエスの憤りは、人のこころを引き裂く死に対してか、それとも死をも支配される神の御力に対する不信仰への憤りか。理由はどちらとも間違いではないだろう。イエスはラザロのために涙を流された。残酷な「死」から逃れることができない人の運命に痛みを覚えられた。また、イエスのメシアとしての御力を疑う不信仰の声を聞き憤られた。イエスは、人の悲しみに深く寄り添い涙を流されるお方であり、人を悲しみのどん底に突き落とす残酷な「死」を無にするメシアだ。「ラザロよ、でてきなさい。」イエスは大声で彼を呼ばれた。ラザロは布にまかれたまま出て来た。「死」は人を深い悲しみに突き落とし、時にこころに癒え難い深い爪痕を残す。傷ついた者とともに涙し、悲しみに暮れる人に深いあわれみを寄せるイエスは、今日も語りかける。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じるものは死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

    27 min
  • 主のわざに励む

    2026年4月26日 基督聖協団目黒教会 牧師 馬上真輝師

    「主のわざに励む」コリント人への手紙 第一15章50-58節 

    パウロはまず、血肉のからだ、すなわち、私たちが今生きている状態の体では、神の国を相続することができないと語ります。なぜなら、神の国は朽ちることがないものだからです。では一体どうすれば、私たちは神の国を相続することができるようになるのでしょう。パウロはこの問題に対する解決を「奥義」として示し始めます。奥義という言葉は、隠された計画、秘密の御心という意味を持っています。その奥義とは、キリストが再びこの地上に来られる再臨の時、死者は朽ちることがない新しい体をもってよみがえり、その時生きている人々は、朽ちる体から朽ちない体へと変化するということです。この、朽ちるものから朽ちないものへの体の変化は、たちまち、一瞬で起こります。この新しい体への変化が意味することは、死への完全な勝利です。やがて来るその時には「死は勝利に吞み込まれた」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか」と預言された言葉が実現します。罪の力は、律法によって明らかにされていたものでした。しかし、罪のないイエス様が十字架で私たちの罪を背負って死に、そしてよみがえってくださったことにより、罪は力を失いました。罪の力を失った死は、毒を抜かれたサソリのようなものです。死はもはや、私たちに対して何の力も持っていません。パウロは、イエス様によって与えられた、この死への勝利を父なる神様に感謝しています。そしてこの復活に関する15章を、こう締めくくります。「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」「私たちはすでに救いを約束されているから、今を自由気ままに生きよう」とはなりません。むしろ、終わりの時には新しい体にされるという確信をもって、その信仰に立ち続け、いつも主のわざに励みなさいとパウロは激励します。「励みなさい」という言葉は「満ちあふれなさい」とも訳すことができます。主のわざは、私たちが復活の信仰、その愛と恵みに満たされていった結果です。もちろん、あふれ出るからと言って、楽に簡単に主のわざができるとは限りません。主のわざを行うときには、労苦を伴うことも多々あります。しかし、その労苦は主にあって決して無駄になることはありません。私たちの地上での行いは、天で主の前に宝のように積まれていて、その労苦に応じて必ず主が豊かに報いてくださるからです。ですから私たちはより一層、復活の信仰に堅く立ち、主のわざにあふれ、励んでまいりましょう。 

    31 min
  • あわれみ深い父

    2026年4月19日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
    「あわれみ深い父」マタイ5:43-48

    自分を憎む人を愛し、迫害する者のために祈るように教えるイエスの教えは、到底人の力で実行できる教えではない。初代教会の時代にはキリスト者に対する迫害は一層厳しくなった。ある者は家と財産を没収され、町を追い出され散らされていった。そのような中で、イエスの今日の教えは人々のこころにとどまっていたのではないだろうか。イエスが教える神の教えは、父なる神のおこころが基準となっている。人の基準ではない。神はなぜこのような高い基準の教えを人にお与えになるのか。その答えの手がかりは旧約聖書、新約聖書をとおして現わされている一貫した人に対する神の深いあわれみだ。ご自身が創造された人間に対する愛は、聖書においてイスラエルと神の関係から明らかにされている。神はイスラエルをご自身の瞳のように守り、その背に背負い運び。神を捨てて自分の道を歩むイスラエルを戒め、何度も引き寄せ、神に立ち返るように忠告を与えた。そして神のさばきによって国が滅びようとしているその時、預言者たちが告げた神の約束はイスラエルの霊的回復と土地の回復だった。神はイスラエルを必ず神の民、神の栄光を現わす民として用いられる。神の人に対する愛と忍耐は聖書ではおもにイスラエルと神との関係のなかで現されている。しかし神への背信の歴史は罪の性質をもつアダムから始まりすべての人間に共通する。神は人から数えきれない裏切りを受け、愛と善意を踏みにじられ、後ろ足で砂をかけられ続けた。しかし神はイエスを通してすべての人に救いの道を開かれた。神の人に対する忍耐とあわれみは計り知れない。神は神の子とされた人々にあわれみ深くあるように教える。

    基督聖協団の創立者森五郎師は明治20年3月7日栃木県那須郡に三男として生まれた。17歳の時に中田重治先生より洗礼を受け、翌年献身し東京聖書学院に入学、訓練の後日本各地の教会の牧師を務められた。人を非難せず、人の世話を厭わない大変温厚な先生だった。昭和17年、軍によるキリスト教会一斉検挙が行われた。森先生60歳のことだった。「スパイ嫌疑」「治安維持法違反被疑」の理由で警視庁特高課に留置された。後に巣鴨拘置場に移り合計20か月の間獄中に拘留された。辛辣な拷問を受け、取調室で着る羽織は見事に破れ、何度継いでも無駄だった。警視庁留置所から巣鴨に移る際、日本で一番厳しい看守が「君の顔は可愛い顔をしている。君がいなくなると寂しくなるよ」と一言葉をかけた。このことばは留置所にいた父の姿を現していると思う。と先生の長女である谷中さかえ先生は残している。終戦後、森先生のうちに与えられた教会復興の使命の火は燃え続けた。生涯を神に献げた先生は73歳で神のもとに凱旋された。「凡そ事忍び、凡そ事信じ、凡そ事望む方」であったと信徒の方の弔事にある。先生の温厚であわれみ深いお人柄は、たとえ独房のなかであっても神との親しい交わりを与えられ、そのこころを神と一つとされていたためではないか。

    24 min
  • みことば

    2026年4月12日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
    「みことば」ヨハネ17:6-8

    イエスは天地創造以前から父なる神とともにおられ、栄光に輝いておられた。しかし、神の御計画のために、そのすべての栄光を捨てて地上に降られた。神のご計画は、神のもとに来るすべての人に永遠のいのちを与えることだった。イエスは30年という歳月をかけて私たちと同じように親子、兄弟、親戚との信頼を築き周りの大人に仕え幼少期、青年期を生きた。日々の暮らしの中で、イエスは人としての弱さ、病、貧しさ、悩みを知り、また人々の間にある愛情や、優しさも知った。イエスにとってこの30年は、すべての人の弱さを知るために神から与えられた時間だった。備えの期間を終え、イエスはメシアとしての活動を始められた。イスラエルをめぐり歩き、神から授かったおことばを人々に伝えた。イエスは神のおこころに従って人々を癒し、悪霊を追い出し人々を自由にし、罪に縛られた生活から人々を解放した。イエスのおことばには力と権威があった。イエスを信じ、イエスのおことばにとどまる者はイエスとともに歩んだ。しかし、イエスのおことばに反対する者は多かった。イエスは、彼らにわたしのことばを信じられないなら、わたしの行うわざを信じなさい。と告げるが、彼らはイエスの行う奇跡のわざをも悪霊によるものだと拒んだ。イエスはご自身が話すことばと為す業は、イエスの内におられる父なる神からのものであると教える。神のおことばである聖書には人を生かし、人を変える大きな力がある。(へブル4:12)イエスは神のおことばと向き合うとき、その聞き方に注意するように種まきのたとえ話を用いて教えられた。撒かれた種は神のおことば。種がこぼれ落ちた土地は人のこころの状態を現わす。道端に落ちた神のことばの種は空の鳥が持ち去った。これはみことばを聞いても救われないように悪魔が来て、その心からみことばを持ち去ってしまう人のことだ。岩の上に落ちた種のたとえは、おことばを聞くと喜んで受け入れるが、根が這っていないので、試練がくると身を引いてしまう人のこと。茨の中に落ちた種は、みことばを聞いたが、時がたつにつれ、生活における思い煩い、富や、快楽でふさがれて実が熟すまでにならない。良い地に落ちた種は、良い心でみことばを聞き、それをしっかり守り、忍耐して実が豊かに実る人のことだ。イエスを信じた者たちは、迫害を受けるイエスとともに歩んだ。イエスの生涯は人々から受け入れてもらえない苦しみと反対者たちの迫害に悩まされた日々だった。しかし、イエスが蒔かれた種は人を生かし永遠のいのちを与えた。神のおことばは弟子たちに継がれ、今に至っている。イエスを信じた弟子たちの存在はイエスにとっては神からゆだねられた大切な宝物だった。今、イエスを信じる私たちもイエスにとってはかけがえのない大切な宝物だ。たった一人が永遠のいのちを受けるなら、天において歓声が湧き上がる。生きた神のおことばが今も人々に力強く働いてくださいますように。

    19 min
  • 空の鳥・野の花

    2026年4月5日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
    「空の鳥・野の花」マタイ6:25‐34

    自然界は神の英知によって組み立てられ、神の愛によって創造された。人もまた。イエスはご自分の頭上をはばたく空の鳥、足もとにしずかにたたずむ野の花を指し示し、神のいつくしみが被造物の上に注がれていることを教えられた。生きるために悩み、金銭に執着する人々に対して被造物を養い守る神に目を向けるよう教える。いつの時代の人も未来に対する不安と恐れを抱えている。人生100年時代と言われるが、不安定な時代で働けなくなってからの生活費を年金と貯蓄だけでやり過ごす危うさに不安を感じない人はいない。こんなに不安な要素に囲まれ、将来のために人生設計を行おうと勇んで取り組むとき、空の鳥や野の花に現れている神の愛も真実も見る余裕がなくなる。それどころかイエスのおことばは全く現実離れした無責任なことばとさえ感じるかもしれない。しかし、イエス自ら生きる苦労を味わい、空腹、病、孤独、迫害に悩まされる人の間に生きておられた。生きる悩みを知りつくしたイエスのおことばに注意深く向き合う必要がある。神は生きておられ、ご自身が召し出された者の人生に深くかかわるお方だ。旧約聖書において、神はイスラエルをご自身の背に背負って運び、幾度も民族絶滅の危機から救い出された。神は今もなお、イスラエルが神のおこころを携えて世界に現わされ、神の喜び、誉、冠とされるまで導かれる。しかし、すべての人は神に信頼することができない弱さを持っている。モーセに率いられて荒野を旅したイスラエルの民は、神の力ある業を見ていながら常に心が迷っていた。彼らは「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って主を試みたが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」という不安と不満の叫びは私たちの信仰人生においても全く同じように付きまとう。モーセとイスラエルの民が約束の地カナンの手前まで来たとき、神は12部族の族長をカナンの地に偵察に遣わした。偵察から帰って来た時、神の約束してくださった地を獲得できると神を見上げた族長はヨシュアとカレブの二人だけだった。10人は不安と恐れを抱いたまま未来を選択した。カナンの地を獲得することは不可能と決断し、エジプトに帰ろうとした。この不信仰に怒りを燃やした神はこの時代の人々がカナンの地に入ることを許さずイスラエルの民は40年の間荒野をさまよわなければならなかった。神の御計画に従う者の未来は神が保証される。「神の国と神の義を求め続けなさい」このおことばは神の祝福と守りを得る鍵だ。神の国というゴールから目を離さずに歩み、神のおこころを行うことを求め続け、私たちを義としてくださる神のあわれみにすがる敬虔な者。そのような人の必要のすべては神が備えてくださる。聖霊の平安が私たちの上にあるように。

    21 min
  • ゲツセマネの園で

    2026年3月29日 聖協団目黒教会 牧師 馬上真輝

    「ゲツセマネの園で」マルコの福音書14章32-42節

    十字架の苦しみを目前に控えたイエス様は、ゲツセマネの園で祈られました。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。し」イエス様は、自分が通らなければならない十字架の苦しみを前に、その杯が取り去られるよう祈りました。しかしイエス様は「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈りの言葉を続けられます。ここに父なる神様への完全な従順が示されています。そして祈り終えられたイエス様がペテロたちのところへ戻ると、彼らは眠ってしまっていました。「ここにいて、目を覚ましていなさい」と言われていた弟子たちは、眠ってしまっていたのと同時に、霊の目も閉じてしまっていました。イエス様は、ご自分が十字架にかかって死ななければならないことを、何度も弟子たちに説明していましたが、彼らは全く理解していませんでした。心のどこかで、メシヤであるイエス様が十字架にかかって死ぬなんてあるはずがない。そう思っていた弟子たちは、十字架を目前に苦しんで祈られているイエス様と共にいながら、眠ってしまったのです。この弟子たちの姿に、どこか私たちも覚えがあるのではないでしょうか。まさか神様が、こんな苦しい状況や、困難な状況に置かれるはずがない。まそう思い、眠ってしまう私たちではないでしょうか。もしかしたらこの状況には、この出来事には、何か意味があるのかもしれない。そのように、目を覚ましていることができない私たちなのではないでしょうか。そんな私たちにイエス様は「シモン。眠っていたら誘惑に陥ってしまうよ。だから、目を覚まして、祈っていなさい。それがあなたの力になるから。」と優しく語りかけてくださいます。そうして3度の祈りから戻っきたイエス様は、来たるべきその時が来たことを弟子たちに伝えられます。イエス様は、十字架への道を、自らの足で進んでいかれます。イエス様は十字架の死、父なる神様との断絶という耐え難い苦しみを目前にし「どうかこの杯をわたしから取り去ってください」と祈られました。しかしその祈りは「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と続きます。イエス様は苦しみの中、父の御心に身を委ねたのです。このイエス様の従順によって、救いの計画は成就しました。私たちは時に眠ってしまいますが、イエス様は眠ることがありません。私たちが眠っている時にも、救いの計画は確実に進んでゆきます。救いは私たちではなく、ただ神様の誠実、イエス様の従順によってなされるのです。

    0 min
  • 永遠のいのち

    2026年3月15日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり

    「永遠のいのち」ヨハネ17:1‐5

    イエスは、メシアとしてのお働きの最終段階を迎えて、天を仰いで父なる神に祈られました。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」イエスは他の個所でもご自身が十字架にかかることを、「栄光を受ける」ということばで表現されている。(ヨハネ12:20‐26)イエスに真理を求めるギリシャ人が、イエスに会いたいと弟子たちに申し出たことを聞いたイエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た。」と語られた。そして、自然の摂理を用いて、麦が多くの実を結ぶためには、畑に撒かれた麦が死ななければならないことを告げられた。イエスはご自身を畑に撒かれた麦にたとえ、黄金に輝き風に波打つ麦畑を収穫するためには、ご自身が死んで犠牲を払わなければならないことを教えられた。「栄光を受ける。」という言葉は、一般的には周りから高く評価され、名誉を受けることを意味する。父なる神、子なるイエスがお受けになる栄光の前提には、ご自身を犠牲にされるという激しい痛みと苦しみがあった。ご自身が創造された人々を取り戻すためなら、神であることの栄光を捨てることも、呪われた者となることも、愛する御子と断絶を受けることも厭われなかった。父なる神とイエスがお受けになる栄光の根底には、見返りを求めず、自己を犠牲にした完全な愛がある。人に永遠のいのちを与える。このことこそ神がお受けになる最も偉大な栄光だ。神の子とされた者たちは、神を崇め、イエスを心いっぱいほめたたえる。イエスが地上で父の命に従い語ったおことば、力ある御業は人々に永遠のいのちを与えた。永遠のいのちとはまことの神である父と、父が遣わされたイエスを知ることだ。終わりの日にイエスを信じる者がよみがえらされるという希望を私たちは持つ。この未来におけるよみがえりの希望とともに永遠のいのちは、今、現在、イエスを知り、イエスを信じた人々のうちにある。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25‐26)パウロはイエスを知る知識において満たされるように祈っている。(コロサイ1:9‐12)イエスを知ることは一度限りではない。神に近づき、神を知る恵みを求め続ける者に神はご自身を現される。イエスを深く知った人々は一層イエスを愛に捕らえられ、従順を学ぶ。父を愛し、従順を学ばれたイエスが、天地創造以前に神とともに輝いていた栄光を取り戻す時は近づいていた。愛する父のもとに帰り栄光をお受けになるその時を想い、イエスは天を見つめられた。

    25 min

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