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  • 台湾島の話⑦生物学的植民地経営 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    1895年11月に台湾全島制圧を宣言した日本の台湾総督府だったが、その台湾統治の初期は相次ぐ武装抵抗の鎮圧に奔走する日々だった。武力衝突による被害者の多さから、帝国議会では1億元で台湾をフランスへ売却する案も出された。
     1898年に4代目総督に就任した児玉源太郎は、陸軍大臣や内大臣・文部大臣などを兼任し、日露戦争時には満州軍総参謀長に就いていたため、台湾に滞在した期間が短く、実質的な台湾統治は彼が民政局長に起用した後藤新平が担っていた。後藤は、武装抵抗に対しては警察力を強化しつつ徹底的な鎮圧を行う一方、投降者に対しては罪を免除して更生資金と職業を与えるという、「飴と鞭」の併用で治安の回復に臨んだ。結果、武装抵抗を取り締まる「匪徒刑罰令」によって3万2千人もが処刑されたが、1902年には漢人による武装抵抗は制圧された。    
     「生物学的植民地経営」、それが後藤の台湾統治の基本方針だった。彼は、文化・文明の立ち遅れた植民地住民の本国への同化は困難と判断し、本国法は適用せず、ドイツの科学的な植民地経営を参考に、台湾島の社会風俗を生物学的に調査・分析し、現地独自の法を布いて統治に臨んだ。まず、土地調査・戸口調査・旧慣調査を行い、土地と人間と社会関係を把握して、台湾統治の基礎とした。次に、アヘンの漸禁政策を成功させ、度量衡と貨幣制度を統一し、中央銀行としての台湾銀行を設立した。更に、港湾の増改築・鉄道敷設・道路の改修と延長・通信網の整備・公衆衛生事業などの各種インフラを整備し、公学校・小学校の制度公布や師範学校開校等の教育施策、水利灌漑施設の整備による農業振興を実施した。また、新渡戸稲造を起用して製糖技術を近代化させ、製糖業からの税収を大きく増加させた。こうして台湾は、児島と後藤の任期中に予定よりも早く財政的独立を果たし、後には本国財政と経済にとって最も価値の高い植民地と呼ばれるに至った。
     だが、「ヒラメの目をタイの目にはできん」と言う後藤の統治下、台湾の独自性は尊重されたが、本国の法では守られる諸権利がこの島では認められず、日本人に対し台湾人は明確に差別されていた。これに対する不満は、後藤が任期を終えた後に起こる、北埔事件や西来庵事件などの武装抵抗に現れた。
     1918年、日本初の本格政党内閣の総理となった原敬は、台湾を本国の一部とする同化主義へ政策転換する。国内法の台湾への施行を原則とし、総督には文官の田健次郎を任じた。その頃、世界的な民族自決の潮流は、台湾にもデモクラシーの嵐を吹かせようとしていた。
    6 min
  • 台湾島の話⑥日本の台湾進出と台湾民主国の抵抗 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    19世紀末、帝国主義列強の抗争の渦に巻き込まれるようにして、日本と清の両国は朝鮮への影響力を巡る日清戦争を始めた。その戦争を遡ること二十年ほど前、両国は現在の沖縄である琉球の帰属、そして台湾島を巡り対立していた。
     1871年、琉球の宮古島の住民数十名が台湾南部に漂着し、この島の牡丹社という部落の先住民に殺害される「牡丹社事件」が起きる。この事件を機に琉球の帰属と台湾への進出を同時に果そうとした日本政府は、事件に対する清朝の責任を追及し、清朝の「台湾島は教化の及ばない蕃地だ」という責任回避の返答を受けて台湾に出兵、その「蕃地」を占領した。清朝は日本が台湾から撤兵する代わりに、日本の軍事行動を「国民保護の義挙」と認め、「日本国の被害者遺族」に対し弔慰金十万両を支払った。この結果、間接的に琉球の日本帰属が清に認められることになる。
     二十年後の日清戦争において日本軍は、山形有朋や伊藤博文など維新の元勲たちが想定していた以上の戦果を挙げ、逆に清軍は想定外の弱さを露呈した。勝利を確信した日本は、この機会に台湾を領有しようと、清と講和条約を結ぶ前に澎湖列島を占領し、澎湖列島と台湾島の割譲を条約に盛り込ませた。
     だが、台湾島の官民の中には、日本への割譲に対して強硬に異を唱え、徹底抗戦を主張する人々がいた。「眠れる獅子」大国清に勝った日本に台湾住民が勝てる訳もないが、日本の台湾領有にフランスが反対し、派兵も辞さない態度を示したため、彼らの台湾独立も夢ではなくなった。
     1895年5月23日、「台湾民主国独立宣言」が布告された。アジア最初の共和国である。総統は唐景崧、副総統に邱逢甲、大将軍に清仏戦争の勇将・劉永福が就いた。しかし、頼みの綱であったフランスは、植民地での動乱のため派兵を中止した。ロシア、ドイツと共同で行った三国干渉により、日本の遼東半島領有阻止に成功し、それ以上を求めなかったためでもある。また、清国官僚だった指導者たちの多くは当初より逃げ腰で、総統の唐景崧は日本軍の台湾上陸後二週間で厦門へ逃亡した。その状況で、大日本帝国の台湾総督として澳底に上陸した樺山資紀大将が基隆を占領すると、混乱した台北城内では略奪暴行が始まり、ついには市民自ら日本軍の入場を要請した。
     たやすく北部は制圧されたが、その後の南進には日本も苦戦する。清国官吏が逃亡する中、台湾を父祖の地とする移住民が、先住民の協力も得、婦人も含めて玉砕覚悟の抵抗をし、一万四千人が殺戮された。だが、この戦いを通して初めて、自らを台湾人とする意識が島民たちに生まれた。
     同年10月19日、抵抗を続けていた劉永福将軍も、更なる犠牲を憚ってこの島を去り、建国後一四八日で台湾民主国は崩壊した。
    6 min
  • 台湾島の話⑤清朝統治と「台湾人」 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    台湾島の歴史上、最も長くこの島を統治した政権は、満州族の侵略王朝である清朝だった。清の中国征服に対抗し、漢民族の明朝復興を掲げてオランダ東インド会社を追い払い、台湾島を支配した鄭氏政権は、鄭成功、鄭経、鄭克塽の3代20年で清に降伏した。その年1683年から、日本統治が始まる1895年までの約2百年間、この島は清朝の支配下にあった。
     鄭氏政権を滅ぼした清朝では、当初「台湾は中国から離れた孤島であり、海賊や逃亡犯など無法者の巣窟で、領有しても益なし」という台湾放棄論が有力だった。だが、台湾攻略軍の司令官で台湾通の施琅が時の皇帝康熙帝に、経済・国防・治安の上から領有の重要性を説いたため、台湾島は清に所属することになった。  
     とは言え、その長い統治期間のほとんどは消極的な経営が続いた。鄭氏政権では農業を中心に積極的な開発が進められていたが、清朝は台湾が海賊や反抗勢力の根拠地となるのを防ぐことに重点を置き、この島にいた移住民10数万人を強制的に大陸へ引き揚げさせた。残留した移住民に対しても全面的な人口調査を行い、妻子と生業を持たない者は中国の原籍地へ送還し、妻子と生業を持つ者も、原籍地官庁への申告と、統治機関である分巡台厦兵備道による審査が義務付けられた。更に、大陸から台湾への渡航にも同様の法手続きを義務付けて厳しく制限し、渡航者には家族の同行や呼び寄せを禁じた。こうして一時は大陸からの移住民人口が大いに減った台湾島だったが、1年に3度米が獲れると言われるこの島の肥沃な土地は、福建省や広東省からの密航者を呼び寄せ、清国政府の意図に反して島の農業開発は着々と進んでいくのだった。
     ところで、密航者というのはほとんどが妻子を持たない男性である。彼らがこの島で娶ることができるのは、当然ながら原住民の女性しかいない。血はハーフだが、子供たちの籍は漢族系となる。こうして、中国人の祖父はいても、中国人の祖母がいない「漢人」たちが増え続けた。また、平地先住民で「漢人」と文化的に同化していった人々は「熟蕃」と呼ばれ、山地先住民「生蕃」と区別された。ここに、漢文化を共有する「漢人」と「熟蕃」によって、将来の「台湾人」が形成されていく。だが、「台湾人」人口が増え続け、その農地開発が進む一方で、山地先住民の人口比率は低下していき、その居住地も次第に狭められていくことになる。
     消極政策を続けていた清朝だが、やがて帝国主義の時代が到来し、列強の目が台湾に注がれるとともに、積極統治へ政策転換することにした。だが、政策転換開始の20年後、この島は別の国のものとなっていた。
    6 min
  • 台湾島の話④国姓爺合戦 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    ある民族の武力統一成功ほど、周辺国にとって厄介な出来事はない。民族内の部族間抗争は強力な軍事組織を育成する。それは戦うこと、侵略することを目的に編成された組織であり、統一が達成しても、その性格を簡単には変えられない。同じ活動を続けていないと、せっかくの組織が、国家が、解体してしまうのだ。
     東アジア最強の歴代中華帝国は、最も旨みのある土地の所有者でもある。周辺に部族統一を達成した国が生まれる度に侵略にさらされ、時によっては丸ごと土地を奪われて、非漢民族による中華帝国が誕生することもしばしばだった。16世紀半ばから17世紀前半にかけて、漢民族の明帝国は、モンゴルのボルジギン氏、日本の豊臣氏、女真の愛新覚羅氏といった民族統一を成し遂げた強力な軍事組織の侵略に相次いで直面した挙句、内乱で滅んだ。
     その衰亡期の明国復興に生涯を投じて戦い続けた英雄が、国姓爺こと鄭成功だ。彼の父は中国福建省出身で、当時最大勢力を誇った武装海商の頭目である鄭芝龍。母は日本人で、九州肥前の平戸藩士の娘、田川松。日本で生まれ、幼名は福松と言い、中国名は鄭森と言った。台湾を本拠としていた父は、オランダの台湾進出に伴い、妻子を連れて大陸に移住した。少年はそこで中華的教養を身につける。   
     彼が二十歳の時、李自成の反乱に遭って皇帝が自殺。福建省で皇族の一人を芝龍たちが擁立して隆武帝と呼び、李自成を破った愛新覚羅氏の清国に対し、明国復興の戦いを始めた。その際、謁見した鄭森を気に入った隆武帝は、彼に皇族の姓「朱」を与えたが、鄭森はこれを畏れ多いとして朱姓は名乗らず、代わりに名を鄭成功と改め、明国復興に尽力することを誓った。これ以後、周囲では「国姓を賜った大身」の意で、彼を国姓爺と呼んだ。
     だが、新生清帝国の勢いは強く、鄭親子の力戦も空しく隆武帝は殺される。この時、父芝龍は清国に対して勝算は無いと諦め、降伏してしまう。父と別れ、新たに永暦帝を主君に仰いで清国と戦い続けた鄭成功だが、南京で大敗、挽回を図るため、オランダの支配する台湾を奪い取ることにした。2万5千の大軍を率いて台湾に渡った鄭成功は、オランダ人の支配に憤懣を抱いていた中国系移住民に歓迎され、プロビンシャ城を瞬く間に奪い、ゼーランジャ城を包囲し、オランダを降伏させて台湾から撤退させた。
     ところが、鄭成功は台湾に来て一年足らず、39歳で病死した。跡は子と孫が継ぎ、清に降伏するまでの20年強、短命ながら初めて漢民族系の権力がこの島を支配する、鄭氏政権時代がこの島の歴史に刻まれたのだった。
    6 min
  • 台湾島の話③最初の支配者 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    1602年、スペイン・ハプスブルク家からの独立を目指す八十年戦争の渦中にあったオランダは、人類最初の株式会社であるオランダ東インド会社を創設した。その主な業務は、東南アジアにおける交易と侵略と植民地経営であり、この地域でのスペイン、ポルトガル、イギリスとの熾烈な貿易競争の担い手となった。当時、オランダの正式名称はネーデルラント連邦共和国、プロテスタント・カルヴァン派であるネーデルラント北部七州の連合体で、生まれたばかりの国家だった。指導者は、ヨーロッパに軍事革命をもたらした戦術の天才マウリッツ・フォン・ナッサウ。総督として最期までスペイン軍と戦い続けた。
     オランダがその艦隊を台湾島南部に上陸させた1624年はマウリッツの最晩年であり、スペインの名将スピノラと激闘を交わしていた頃である。ヨーロッパでの華々しい独立戦争に比べると、オランダ東インド会社の植民政策は陰惨を極めたものだった。バタビアと呼ばれていたインドネシアのジャカルタにおいても、台湾島においても。上陸当初、この島の先住民や中国からの移住民は、城塞構築などに協力的だったが、その城がやがて彼らを抑圧する武器となった。
     この島の支配を固めるためオランダは、牧師たちに宣教をさせた。先住民に対する布教用に、その言語をローマ字化した聖書も作られた。先住民は初めて文字を習得し、中国系移住民たちとの間の契約文書を作成するなどした。一方で、先住民の全ての生産と消費には重税が課され、中国から来た移住民たちからは人頭税も取り立てた。その移住民の多くは、この島の農業開発のために使用された。キャベツ、エンドウ豆、トマト、マンゴー、唐辛子の移植が成功し、米や特にサトウキビは重要な輸出品となった。住民たちの農場労働、その彼らに対する苛斂誅求、そして日本・中国・バタビアを結ぶ中継貿易による莫大な利益が、オランダ海上帝国の隆盛に寄与した。
     以前からこの島で出合貿易をしていた日本船や中国船にも、そのころ10%の関税が課された。不満を持った日本の朱印船船長浜田弥兵衛は納税を拒否し、逆にオランダの台湾長官を襲撃し人質とした。そして、10数名の先住民を日本へ連れて行き、徳川家光に謁見させた。住民代表のリカはオランダ支配の窮状を訴え、台湾島の日本への割譲を申し出たが、幕府はそれを受けなかった。だが、オランダが日本との貿易を重視して譲歩し、事件は解決した。
     大国スペインもオランダに対抗して台湾島北部に進出したが、貿易上の競争に勝ち、武力によってスペインを駆逐したオランダが、この島の最初の支配者となった。
    6 min
  • 台湾島の話②歴史の始まり 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    歴史学の主な研究対象は、遺された文献資料だ。文字のない時代について委ねられる考古学は、文献以外の資料から人々の生態を推測するが、歴史的事実を示すことはできない。文献資料を証拠として過去の「事実」を再現して示す事は、歴史学に与えられた社会的特権と言える。
     台湾島の歴史を始めたのは、外来の諸勢力だった。オーストロネシア語族の発祥地と言われるこの島の住民たちは、まだ文字を必要としていなかったためである。古くは中国の三国時代や隋代、元代にそれらしき記録はあったが、琉球諸島と混同していたり、台湾島の西に浮かぶ澎湖諸島の事であったり、台湾島の記録ではない。最初にこの島の事を文字に記録したのは、大航海時代にアジアへ進出してきたポルトガル人の船乗りだった。「イラ・フォルモサ」即ち「麗しき島」と、美しい島を見つけるたびにそう名付けていたポルトガル人は、アフリカ、南米、アジアに十を越す同名の島を見つけたが、今日では台湾を指す固有名詞となっている。日本の種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲を伝えた翌年、この島は「発見」された。
     「発見」された、といってもヨーロッパ人に発見される前から住民はいたし、日本人を中心とする倭寇や中国の海賊が大陸沿岸部を荒らしては、官憲の手から逃れてこの島に寄り、諸部族と交易した。だが、あいにく彼らは記録を残さなかった。
     ポルトガル人による発見から半世紀ほどして、日本を統一した豊臣政権は、日本で高山国と呼ばれるこの地の王に向け入貢を促すため、原田孫七郎を使者として派遣した。だが、会うべき王も、従えるべき高山国もなく、この交渉は不能に終わった。徳川へ政権が移って後も、有馬晴信や長崎代官村山等安による台湾出兵があったが、成功はしなかった。
     台湾島の領有に成功した歴史上最初の勢力は、オランダ東インド会社だ。1603年、先に澎湖島に上陸したが、中国の明朝の軍に敗れて撤退、1622年に再びこの地の占領を図り、今度は成功する。しかし、1624年に明朝の軍と再度戦闘状態に入った。8か月の攻防の後、明朝はオランダが澎湖諸島を明け渡す代わりとして、台湾島占領を許可し、中国との貿易も認める停戦協定を結んだ。
     こうしてオランダは台湾島南部に入植、ゼーランジャ城とプロビンシャ城を築き、日本・中国・ジャカルタを結ぶ貿易の拠点とした。また、中国福建省や広東省から農場労働者を募集、漢人移住民の人口が急増した。先住民である台南のシラヤ族は、これらの外来者を「タイアン」=客人と呼び、それをオランダ人が「Taioan」と書いた。
     「台湾」が、ここに始まる。
    6 min
  • 台湾島の話①オーストロネシア語族の分岐 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    南太平洋の西端に浮かぶ島、台湾島。海峡を隔てて西に中国大陸、南にフィリピン、北に東シナ海、東に日本の西端与那国島が位置する。全島面積は35,915平方km。南北に長いその土地の3分の2を山地、丘陵地が占め、中央にはこの島最高峰の玉山がそびえている。南西部には広大な嘉南平野が広がり、東部には山脈の狭間を花東縦谷が南北に伸びている。
     この島は、ユーラシアプレートとフィリピン海プレートが交差する境界上にあって、複雑な地質構造を持つ。地殻の上部は、地質時代にいくつかの島弧がプレート同士の衝突によって合体したものだという。このプレート同士の拮抗した状態が、現在に至るまで、この島に多くの大地震を引き起こしてきた。
     地球上で、周期的に入れ替わる氷期と間氷期。現在の間氷期が始まる前のヴェルム氷期の時代、この島は大陸と地続きだった。2万から3万年前のこの氷期に、北部には網形文化、南部や東部に長浜文化と呼ばれる旧石器文化のあったことが確認されている。紀元前7千年ごろから、中国浙江省の河姆渡文化に関連すると言われる大坌坑文化が広がり、前5千年期の牛罵頭、牛稠子文化に引き継がれる。やがて、既に島嶼化していた前2千8百年頃から、円山文化が伝来する。だが、これら新石器文化を担ったのが現在の台湾原住民だったのかは、まだ分かっていない。
     その台湾原住民の話。ヨーロッパに大航海時代が訪れ、インド・ヨーロッパ語族が世界各地に植民地を広げていく以前、地球上で最も広大な範囲に拡大した語族は、現在のフィリピン、マレーシア、インドネシアといった東南アジアの諸地域や、ポリネシア、メラネシア、ミクロネシアといった南太平洋の島々に住む、オーストロネシア語族であった。この語族に属する諸言語は非常に多様だが、マレー・ポリネシア語派と、台湾原住民の台湾諸語、二つに大きく分類できる。前者は後者の派生形だという。これは、オーストロネシア語族の最古の言語形態を維持しているのが台湾原住民の言葉であり、この一大語族の起源が台湾島だったということを意味する。この島に新石器文化が広まっていた今から5千年前、カヌーに乗ってこの島を旅立った人々が、東は太平洋東端のイースター島まで、西はインド洋西端のマダガスカル島まで、南端はニュージーランドまで、海を越えて進んでいったのだ。
     台湾島の原住民は、アミ族やタイヤル族などの山地原住民と、クバラン族やケタガラン族などの平地原住民に大別される。後者は、中国明代以降に大陸から移住してきた漢人と交わり、漢文化を共有する「台湾人」を形成していくことになる。
    5 min
  • 賢者の巻物⑫「知の考古学」ミッシェル・フーコー
    歴史は、例えば革命とか戦争とか経済発展とかについて、その因果関係の説明のために語られる物語だ。軍国主義から戦後民主主義へ至る物語、東西冷戦から自由主義の勝利へ至る物語、「ゆとり教育」から「脱ゆとり」へ至る物語等々。人々はこれらの物語を通して過去を知る。この様に、あるまなざしを基にした解釈を物語るのが歴史の仕事。対して考古学の仕事は、ピラミッドや兵馬俑や古墳など、過去の遺物を発掘すること。歴史による物語化がなければ、それらはただの遺物。でも、物語が事実そのものでないのに対し、遺物は正真正銘の遺物そのものだ。
     20世紀後半、学生と労働者の革命運動の中心だったフランスに、心理学出身の思想家として登場したのがミッシェル・フーコーだ。精神疾患の研究をしていた20代の頃、精神病院で行われる患者に対するロボトミー手術を目にした彼は、心理学・精神医学の科学性に疑問を持つ。そして、これらの学問が言うところの「狂気」とは何なのか、これらの学問の観点から離れ、歴史を遡って探求した『狂気の歴史』を著す。
     中世と、ルネサンス期と、啓蒙主義の時代と、心理学が誕生した19世紀以降で、「狂気」について語られる言説は異なる。激減したハンセン病患者の空いた収容施設を埋めるために、初めて狂人が収容されるようになった中世末。狂人を神に近づきすぎた天才と見るまなざしがあったルネサンス期。理性的でないと見なされた浮浪者や無職者や虚弱者や孤児や政治犯が、まとめて狂人として収容され、近代的理性を持たない者=狂人というまなざしが生まれた啓蒙主義時代。心理学の登場は、これらの人々と「本物の狂人」たる精神病者を仕分けするようにはなるが、非近代性を忌避するまなざしは継承され、「狂気」は排除すべき「病気」となった。だが、それも一つのまなざし。狂気の排除に科学的正当性が認められるわけではない。
     その後の著述『臨床医学の誕生』や『言葉と物』においても、フーコーは常に歴史の進歩や連続性に疑問を示し、各時代に記された文献に残る言説そのものを発掘しようとした。そして、各時代のまなざし〈エピステーメー〉が生まれる条件を分析した。
     『知の考古学』は、歴史に進歩や連続性を求める近代的思想史の人間中心主義的方法論と対峙しながら、自らの方法論を理論化した書である。現代のまなざしにおいて過去を格付け、物語ってきたのが近代的な歴史。この書は、そうした近代の進歩主義的歴史観から離脱するための、戦術書である。
    6 min
  • 賢者の巻物⑪「悲しき熱帯」クロード・レヴィ=ストロース
    世界的にはスマートフォンが携帯電話市場に広まりつつあった2010年代前半、日本では費用・サービス・操作性等で独自の進化を遂げた従来型の携帯電話がいまだにシェアの半分を占め、根強い人気を誇っていた。これをガラパゴス携帯、略してガラケーという。南米大陸の西方にあるガラパゴス諸島が、孤立しつつ独自の生態系を育んだように、外部の環境から閉ざされた特殊な市場・社会が独自の商品やシステムを育むことを、ガラパゴス化と呼ぶ。
     個々の環境が独自に紡いできた商品やシステムそして文化は、その環境に変化がない限り、独自に進化発展し続ける。だがここに、外来のグローバルな環境で勢力を持った商品・システム・文化が侵入してくると、その成長は絶たれ、淘汰され、消滅する。そして、どんなガラパゴス文化を育んできたとしても、それが蹂躙されてしまった後では、グローバル化した文化が未発達であるがために、未開社会と呼ばれる。
     フランスの民族学者レヴィ=ストロースは、南米ブラジルの先住民社会で行ったフィールドワークの成果と、第二次世界大戦中の亡命先アメリカで学んだ構造言語学の方法論を元に、論文「親族の基本構造」を執筆し、未開社会に見られる婚姻制度・交差いとこ婚が数学的に巧妙な記号体系を持ち、近親婚を回避して部族社会を維持する構造が成り立っていることを発表した。ここに、20世紀後半の思想界に君臨した構造主義の狼煙が上がる。
     「悲しき熱帯」は、レヴィ=ストロースがブラジルの少数民族を訪ねた旅の記録だが、未開社会の文化習俗に対する分析と、西洋中心主義に対する痛烈な批判、人類と文明に対する自己の思想を記した極上のエッセーと言われている。カデゥヴェオ族、ボロロ族、ナンビクワラ族、トゥピ=カワイブ族など、数も言語も習俗も宗教も異なるこれらの部族は、男女ともにほぼ全裸で生活し、その外貌は正に未開人である。しかし、後の著書で彼は、神話的・呪術的・象徴的な記号の体系によって、彼等の生活は独自の豊かさを保守していることを示した。近代科学の概念的思考と同等に合理性を持つ、「野生の思考」である。
     だが、それも辛うじて保守されていただけ。スペインによりマヤ、アステカ、インカという大文明が破壊され、ポルトガルによりブラジルが侵略され、キリスト教宣教師により伝統的信仰が解体され、疫病により暴力的に人口が激減した、悲しき熱帯。
     紡ぎあげられた文化という織物は、ひとたび断ち切られれば、再び紡ぐ者はいなくなる。
    5 min
  • 賢者の巻物⑩「相対性理論」アルベルト・アインシュタイン
    駅を通過中の列車の中でAさんが、プラットホームでBさんが、同時にボールを下に落とす。床までの距離はどちらも1m。AさんもBさんも、自分のボールは真下へ向かっているように見える。しかし、列車の速度で進むAさんのボールを静止しているホームのBさんが見ると、電車の進行方向斜め下向きに進んでいる。三平方の定理により、≪電車の進行距離≫²+≪Aさんの手から床までの距離≫²=≪Aさんのボールが移動する斜め下向きの距離≫²。Aさんのボールの移動距離は明らかにBさんのボールの移動距離より長い。でも、落ちるのは同時。なぜなら、時間=距離÷速さ。Aさんのボールは、落下速度に列車の速度を加えた速さで進むので、進行距離も長くなるが速度も大きい。ボールが床に到達するのに1秒かかるとして、電車の速さが秒速10mならAさんのボールが床につくまでの横向きの移動距離は10m。ならば、斜め下向きの移動距離は10²+1²の平方根だから√101m。この時、横向きの速さと下向きの速さの合計も、秒速10m²+秒速1m²の平方根だから、秒速√101m。床に到達するまでの時間は、距離√101m÷速さ√101m=1秒となり、Bさんのボールが落ちる時間と等しくなる。
     次に、宇宙ステーションを光速に近い速さで通過する宇宙船内でAさんが、宇宙ステーションでBさんが、同時に天井から真下の床へ同じ距離だけライトで光線を落とす。すると今度は、Bさんの光線が床に到達した時、Aさんの光線はまだ床に届いていない。なぜか。光速は秒速30万km弱。これを秒速Ckmとして、Aさんの宇宙船が秒速Vkmで進むとしたら、Aさんの光線が、Aさんの時計で、T秒後に床へ落ちた時、横向きにはVkm × T秒、移動していることになる。すると、三平方の定理から、斜め下向きには≪宇宙船の移動距離VT≫²+≪Aさんの光線が真下の床へ着いた距離CT≫²の平方根だけ移動していることになるはず。でも、その速さはどんなに速くても秒速30万kmより速くなることが宇宙では不可能だ。つまり、距離は伸びても速さは伸びないので秒速Ckmに宇宙船の速さ秒速Vkmを加えられない。よって、≪Aさんの光線が移動した距離≫÷≪光線だけの速さ≫ が、Aさんの光線が床へ到達するまでにかかる時間となり、これではBさんの光線が床へ到達する時間より長くなってしまう。
     ここで、宇宙船で移動するAさんの時間をTa、停止しているBさんの時間をTbと、分けて三平方の法則で式にしてみる。すると、≪Bさんから見た宇宙船の移動した距離≫²+≪Aさんから見た光線が真下の床へ着いた距離≫²=≪Bさんから見たAさんの光線が移動した斜め下向きの距離≫²は、(VTb)²+(CTa)²= (CTb)² となる。この式を変形すると、Ta=√(1-V²/C²)×Tb と表せるが、これは、宇宙船の速度Vが大きくなればなるほど、Aさんの時間Taが、Bさんの時間Tbより小さくなる、即ち遅くなることを示している。
     1905年、スイスの特許局に勤めていたドイツ生まれのユダヤ人アインシュタインは、博士号取得のために提出した「特殊相対性理論」についての論文により、人類の世界観に変革をもたらすことになった。
     ニュートン力学は、宇宙に絶対的な時間と空間があることを前提に構築されていたが、電磁気学におけるマクスウェル方程式の発明と、光の不思議な性質の発見で、この前提は覆る。赤道上、地球の自転速度は時速1700km。太陽からの光は、太陽へ向かう位置の方が、太陽から遠ざかる位置より、速くなるはず。しかし、その差は測定されない。この事実から導かれる「光速度不変の原理」を基に、アインシュタインは科学的事実として、つまり、数式による事象の言明として、絶対的な時空間を否定した。代わりに、光の速さが絶対的な尺度の王座へ就くことになる。
     慣性系の速度の違いにより、時間は伸びて空間は縮む。更に、光速に近づく物質の質量は、急速に増大して加速を抑え、秒速30万kmに達することがないよう、ブレーキがかかる。質量の増大はエネルギーの増大となる。E=mc²。これも、アインシュタインが導いた結論の一つ。
     1916年、重力が質量による時空間の歪みであることを示すアインシュタイン方程式の完成とともに、「一般相対性理論」が発表される。不動の時空間は存在しない。時空間は、歪み、捩れ、消え去りもするものだった。
     これが、数式の描く宇宙の実在。
    10 min

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真空ジェシカのラジオ父ちゃん by TBS RADIO

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朗読のアナ 寺島尚正 by roudoku iqunity

朗読のアナ 寺島尚正

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