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考える塾 in TAIPEI episodes

  • 物語を読む③小3国語「モチモチの木」
    ノーベル賞作家である川端康成の代表作「伊豆の踊子」に、「うなづいたのは誰か」という問題があります。物語の終盤で学生の「私」が船に乗って踊子と別れる場面で起きる問題です。
     作品には、【踊子はやはり唇をきつと閉じたまま一方を見つめてゐた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返つた時、さようならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。】と書かれていますが、「うなづいて見せた」の主語は誰かという質問が、読者から川端の元へたびたび寄せられたそうです。川端は、これより前の箇所で踊子がうなづいているのだから、「もう一ぺん」と書いている以上、ここでうなづいたのは踊子に決まっているではないかと考えていました。ところが、一人の読者として読み返した時、後の一文が「私」で始まるため、「さようならを言おうとした」のも「うなづいて見せた」のも「私」とするのが、無理なことではないと考えを改めたのです。
     行間を読めば、主語は踊子であり、「私」ではないと言えるかもしれませんが、「さようならを言おうとした」の前に「踊子は」という主語がないため、誤読が生まれやすくなっているのです。しかし川端は、改訂版でもここに主語を補うことができませんでした。なぜなら、補ってしまうと今度は、「物語の語り手は何者」という問題が発生してしまうからです。語り手はもちろん主人公の「私」なのですが、その「私」の、踊子にしか分かるはずのない「さようならを言おうとした」という心情を語れてしまう奇妙さが、露呈してしまうのです。
     小三国語教科書にある斎藤隆介作の「モチモチの木」は、夜を怖がる少年が、病気で倒れた祖父のために、夜道をかけて医者を呼んで来るという物語です。勇気と成長のお話しですが、語りかける様なその文体の主、語り手が誰なのかという点で複数の解釈が可能になる作品でもあります。聞き手に語りかける様な文体は、主人公豆太の視点に寄り添っていますが、主語としての豆太を三人称と捉えて読む他に、自分のことを「豆太」と呼ぶ少年の一人称として読むこともできるのです。
     あらかじめ配役を決めてこの作品を音読してみるとよく分かります。三人の登場人物、豆太、じさま、医者様と、地の文の語り手を別々の人に読ませる場合と、語り手を豆太と同じ子供の声で読ませる場合とでは、作品の印象と内容理解が、変わってくるはずです。
     作品の現実は、読者の読みによって変化するということになるようです。
    5 min
  • 物語を読む②小2国語「スーホの白い馬」
    小二国語教科書に出てくる『スーホの白い馬』は、「モンゴルの草原に住む貧しい羊飼いの少年スーホが、殿様の主催する競馬大会に優勝したものの、殿様は婿にするという約束は守らず、代わりに愛する白馬を奪い、その白馬がスーホのもとへ逃亡を企てた結果殺されてしまう」という悲しい物語です。スーホは死んだ白馬の骨や皮や筋や毛を使って楽器を作り、それが現代にまで残るモンゴルの馬頭琴になったという事で、この物語は道具の誕生譚になっています。
     ロシア人V・プロップの『昔話の形態学』は、昔話に共通する構造を31の機能として分類しましたが、これを使って『スーホの白い馬』を分析してみるとどうなるでしょうか。
     物語は、スーホが夜になっても家に帰ってこない、つまり機能①誰かの不在で始まります。スーホは持ち主も母馬もいない白い子馬を助けて連れ帰り、大事に育てるわけですが、祖母以外に家族のいない彼にとって白馬は、大事な身内であり、やがては羊を狼から守る強くて立派な駿馬になるので、これは機能⑭魔法・手段・助手の取得にあたります。幾年か経ち、ある日スーホは仲間たちから殿様の競馬大会に白馬と出場するよう誘われて町へ行きます。優勝すれば殿様の姫と結婚できます。もともと貧しかったスーホは、機能⑧‐a何かの欠落した状態にあり、この提案に乗ります。機能⑨主人公への仲介⑩主人公の同意・決意 ⑪出発がここにあてはまります。スーホは町へ行き、競馬に出場し、優勝します。機能⑮移動⑯闘争⑱勝利です。ところが、殿様はスーホの貧しい身なりを見ると約束を破り、銀貨3枚で白馬を奪い、抵抗する彼を打ちのめします。機能⑧敵からの加害です。この後、スーホは一人家に戻り、白馬も殿様からの逃亡を図ります。機能⑳帰還 ㉑追跡です。しかし、矢傷を受け、死んでしまいます。最後は白馬がその身を捧げて馬頭琴をスーホに作らせ、彼はそれを弾いて白馬を思い出す、つまり機能⑲不幸または欠落の回復で終わります。
     この物語、実は舞台であるモンゴルでは知られていません。作者大塚雄三が採話した中国の民話集は、階級闘争意識を刺激する共産主義向きの昔話を集めて編集されたものです。一見すると、物語にあるべき機能㉚敵の処罰や㉛結婚や即位は無いままですが、読者の怒りが殿様に向けられるという意味では、罰は巧妙に権力者へ下されているとも言えます。作品は、読者が完結させるものなのかもしれません。
    5 min
  • 物語を読む①小1国語「たぬきの糸車」
    1928年、旧ソ連、ロシアの昔話研究家であるV・プロップという人が、『昔話の形態学』という著書で、全ての昔話には共通する構造、お決まりのパターンがあるという説を発表し、その構造を三十一の機能分類として整理しました。簡単に列挙してみると、①誰かの不在 ②禁止 ③禁止の侵犯 ④敵による探り ⑤情報の漏洩 ⑥敵の奸計 ⑦不本意な利敵行為 ⑧敵からの加害、又は何かの欠落 ⑨主人公への仲介 ⑩反撃の始まり ⑪主人公の出発 ⑫贈与者の働きかけ ⑬それに対する主人公の反応 ⑭魔法・手段・助手の取得 ⑮主人公の移動 ⑯敵対者との闘争 ⑰主人公が印を受ける ⑱勝利 ⑲不幸または欠落の回復 ⑳主人公の帰還 ㉑主人公が追跡される ㉒追跡者から救われる ㉓主人公が密かに到着 ㉔偽主人公の嘘の主張 ㉕難問 ㉖その解決 ㉘主人公が識別される ㉘偽者の発覚 ㉙主人公の変身 ㉚偽者や敵の処罰 ㉛主人公の結婚や即位 となります。
     この①~㉛の機能分類は、百話ほどのロシア民話から抽出されたものですが、全ての話が三十一の機能を揃えているのではなく、この中の幾つかでお話が出来ているということです。それは、世界中の神話・民話にも当てはまり、日本でも、まず『古事記』のヤマタノオロチ退治や、桃太郎、一寸法師などの英雄物語に当てはまりそうですし、限定的に言えば、浦島太郎やかぐや姫の物語などにも当てはまりそうです。『スターウォーズ』など、現代の小説・漫画・ドラマ・映画・ゲームにも、思い当たる部分が見つかりそうです。
     小一国語教科書に出てくる『たぬきの糸車』は、「罠にかかった狸が、木こりのおかみさんに助けられた後、その不在中におかみさんの真似をして糸を紡ぎ、おかみさんに恩返しをする」というお話です。恩返し型物語の一つであるこのお話も、「狸がいたずらをする」には②③が、「おかみさんの真似をして狸が糸紡ぎの技術を得る」には⑫⑬⑭が、「木こり夫婦が不在の冬に、狸が恩返しで糸を紡ぐ」には①や⑲が、「おかみさんに見つかって、狸が帰っていく」には⑳が、当てはまるかもしれません。
     人は、現実を物語にして理解する動物です。三十一に限られないとしても、物語に一定のパターンがあるということは、現実理解の仕方も同数のパターンに絞られるということです。より多くの物語を知らなければ、より多くの理解の型が身につかない。だから人は、物語を求めるのでしょう。
    7 min
  • 台湾島の話⑫台湾人政権 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    1971年7月、ニクソン米国大統領の特別補佐官キッシンジャーが秘密裡に中国を訪問し、周恩来首相と会談、その帰国後に大統領がテレビで世界に、中華人民共和国との関係正常化のため訪中することを宣言した。中国がソ連と対立する状況下で、「敵の敵は味方」という米中両国の戦略的利害が一致したことによる国交正常化だったが、国民にも各国にも内密に進められ、日本などは放送3分前になって初めて電話で駐米大使が知らされた。この出来事は、後にニクソンショックと呼ばれる。東西冷戦下の外交革命となる歴史的事件だった。
     朝鮮戦争以来、中華人民共和国と対立関係を維持し、台湾の国民党政権を支持してきたアメリカが、共産党政府を中国の正統な政権と認め、1979年に国民党台湾と断交した。国連から脱退し、各国との国交を失った国民党政府は、当然ながら国際社会から孤立することになったが、奇しくもこの状況が台湾に民主化をもたらすことになる。台湾は、アメリカ、そして日本の支持を失い、苦境に立たされるが、アメリカが「米華共同防衛条約」に代わり国内法の「台湾関係法」を制定し、国民党政権ではなく「台湾住民」と米国の関係を維持することにしたため、台湾島の経済的、軍事的な危機は回避された。しかも、この法律には全ての台湾住民の人権を守ることが明記され、後のレーガン大統領による、台湾の民主化促進を台湾当局に求める勧告へとつながったのだ。
     だが、アメリカのこうした動きの背後には、二二八事件以後、日本やアメリカで台湾の民主化と独立を訴え続けた在外台湾知識人による米国政府へのロビー活動と、台湾で命がけの政治運動を続けてきた国民党外人士の血の犠牲があった。アメリカの要請を無視できなくなった中華民国総統の蒋経国は、国民党以外の政党容認、戒厳令の解除、政権世襲と軍政の否定など、自ら築いた開発独裁専制体制を捨てて、民主化と自由化へ踏み出す決断をする。それは、一党支配を続ける共産党中国に対し、台湾が独自のアイデンティティを維持していくための布石でもあった。重病を患いつつこれらの決断をした後、蒋経国は世を去る。そして、純台湾人で日本統治時代の京都大学出身知識人でありながら、蒋経国の信任を得て副総統の座に就いていた李登輝が、反対派を抑えて総統と党主席の地位に就き、権力を掌握、民主化を推進していく。
     1996年、李登輝は台湾史上初の総統選挙を実施し、民衆に選出された。それは、オランダ統治以来ずっと在外勢力に支配されてきたこの島に、初めてこの島の住民による政権が誕生した瞬間だった。
    6 min
  • 台湾島の話⑪蒋氏政権 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    第二次世界大戦終結後、中国本土における共産党との内戦に敗北した蒋介石率いる国民党・中華民国政権は、1949年、60万の大軍と共に台湾島に逃れた。蒋介石を支援してきたアメリカ政府も、こうした国民党の失敗の原因はその腐敗と無能にあると断じ、台湾の中華民国は見限られようとしていた。だが、1950年に始まる朝鮮戦争が蒋介石を救った。反共産主義陣営の一角としての地位が認められ、アメリカは第七艦隊を台湾海峡に派遣し、中国共産党軍の台湾進攻を阻み、国民党政権への軍事支援を復活させた。
     こうして台湾は、共産党の「反乱」鎮定・大陸反抗を掲げる中華民国国民党政権の実質的な領土となった。その統治は、住民に対する大量殺戮を引き起こした二二八事件以後40年続く戒厳令の下、言論・結社の自由を大幅に制限した国民党の一党独裁体制であった。共産主義を毛嫌いしていた蒋介石であったが、国民党をソ連のレーニン式政党へ改編して直系の配下で中枢を固め、一元的な支配体制を実現していった。その体制作りには、彼の長男であり10年以上のソ連留学経験を持つ蒋経国の辣腕が大きく寄与した。
     蒋経国は長らく特務機関の長として、台湾社会の隅々まで秘密警察の網を張り、知識人を中心とする共産主義者や反国民党派の摘発に力を発揮した。密告が奨励され、台湾人同士が疑心暗鬼に陥り、冤罪を含む大量の「罪人」が生産された。その結果、人口1割程の大陸出身である外省人が9割の台湾内省人の上に立つ、蒋親子の独裁体制が強固なものになった。台湾内での政治活動は危険となり、知識人・運動家は日本やアメリカに渡って台湾の民主化・独立を求めるしかなく、一般住民は経済に専心するしかなかった。
     国民党独裁の中華民国台湾だったが、その政権が生き延びるためには政治の安定だけでなく、経済の再建・復興も欠かせなかった。まず、国共内戦下の危機的なインフレは、中国元との関係断絶、4万台湾元を1新台湾元とする幣制改革で切り抜けた。また、土地改革により地主の土地を小作人に払い下げ、農民の購買力を高めてその人心懐柔に成功した。地主は農業資本家から工業資本家に転化し、工業化が促進された。勤勉な住民、日本統治期に整備されたインフラ、アメリカの援助と日本の借款、ベトナム戦争「特需」、外国や在外華僑からの投資など、幾つかの要因に恵まれ、台湾の経済は発展していく。
     1973年、大陸反攻の党是を捨てて経済投資に専念した蒋経国の「十大建設」が始動し、重工業の飛躍的発展「台湾の奇跡」が実現した。こうしてこの島は、アジアNIESの旗手となるのだった。
    6 min
  • 台湾島の話⑩二・二八事件 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    1947年3月1日、中華民国国民政府主席である蒋介石から、行政長官兼警備総司令官として台湾統治を託されていた陸軍大将陳儀は、怒れる台北市民代表団の要求受け入れを強いられていた。  
     きっかけは、前々日に起きた。闇タバコを販売していた女性に対し、取締員が商品と所持金を没収した上に銃で頭部を殴打、それに憤激した周囲の群衆が取締員に攻撃を加えた。取締員は逃走しながら発砲し、運悪く無関係の市民に銃弾が命中、即死させてしまう。群衆は激昂し、翌日、行政長官公署へ押しかけて抗議した。これに対し、憲兵隊は機関銃で群集を掃射、数十人の死傷者が出る。事態は一挙に緊迫し、警備総司令部が戒厳令を布く一方、市民は放送局を占拠、全台湾に事件の発生が知らされた。軍・憲兵・警察が鎮圧を目論むも、台湾全土で国民政府とその官憲に対し反抗の火が燃え上がった。
     日本の敗戦に伴い、中華民国政府はカイロ宣言に依拠して、米軍の支援のもと台湾を占領、行政長官陳儀は日本の台湾総督府からその統治機構を継承し、公営・民営企業の莫大な財産を接収した。当初、この島の多くの者が日本からの「祖国復帰」を喜び、蒋介石政権を歓迎した。
     だが、来島した中国国民党軍兵士の士気の低さとわびしい身なり、劣悪な装備に人々は驚愕する。中国本土の共産党軍との内戦で、無残に疲弊していた兵士たちには強姦・強盗・殺人を犯す者が多く、人々の期待は急速に失望へ変わった。更に、接収した台湾の資材を官吏たちが私利によって横領し、上海市場で売却したことで物価が高騰、インフレにより企業は相次いで倒産し、失業者がこの島に溢れた。農産物も内戦中の中国へ移出され、食糧不足が深刻化した。また、台湾人を同胞と呼びながら、政府機関の管理職に台湾人を就けることはなく、日本の高等教育を受けて育った近代的知識階級が、学識と能力の劣る中国人官吏の下で働かねばならなかった。
     鬱積していた人々の不満が爆発したのが、2月28日だった。群衆の反抗を抑えきれなくなった長官陳儀は、市民代表団に行政改革を約束する。だが、3月8日、本国から重武装の増援部隊がやってくると、一気に反撃と大粛清を開始する。人々は機関銃に倒れ、拘束された者は鼻や耳を削がれた。手に針金を通された数人が一組に繋がれ、海や川へ捨てられた。事件に関与しなかった者でも、高等教育を受けた知識階級の多くが逮捕され、拷問を受け、裁判もなく処刑された。
     日本統治下の法治主義に慣れた台湾の、あらゆる前提と期待と希望が覆され、約2万8千の命が奪われた。この後40年続く戒厳令の下、国民党政権による独裁体制が布かれる。
    6 min
  • 台湾島の話⑨戦時体制と皇民化 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    1930年10月27日、台中州能高群霧社公学校の運動会を、武装した300人ほどの男たちが襲撃し、男女子供を問わず132人の日本人と和服を着ていた台湾人2名を惨殺した。暴徒は警察署や役所なども襲い、武器弾薬を奪った後、山間部に籠った。彼らは、山地原住民である霧社セデック族マヘボ社と他6社の男たちで、軍と警察による鎮圧に頑強な抵抗を続け、日本軍は制圧のために爆撃機や毒ガスを用いた。また、対立する他のセデック族に協力させ、50日ほどでようやく鎮圧することができた。日本統治時代最大の原住民による暴動、霧社事件である。
     事件の原因は、日本の統治政策に原住民への侮蔑があったことが指摘されている。原住民に対する日本語教育の普及率は漢族系よりも高く、言語の異なる各部族間の共通語になるなど、その統治が一定の成果を出していたため、事件の衝撃は一層強いものだった。この後、総督府は政策方針を修正し、原住民の生活の向上と、日本に同化する原住民の顕彰に力を入れていく。大陸で満州事変が起き、日本が戦時体制に入っていく頃の話である。
     日本が日中戦争と太平洋戦争を行っていた時代は、この島の経済発展が増進し、人々の生活と地位が大きく向上した時期だった。八田與一が完成させた烏山頭ダムなどの農業インフラに加え、軍需産業の育成による工業発展に伴い、鉄道・路線バス・港湾・空港・上下水道・ラジオ放送・郵便・電信電話など、各種インフラの整備がますます進められていった。また、台湾人の皇民化政策が採られ、日本語の使用推進、日本語名への改姓奨励、神社参拝の強制が行われた。漢文化から日本文化へ生活習慣を変えた模範家庭の子女は、日本人と同じ教育を受けられた。それは、台湾人の伝統文化を破壊する政策だったが、日本国民としての地位向上を促進するものでもあった。
     台湾人の地位をより高めたのが、兵員としての徴用だった。太平洋戦争開始後の戦線拡大と兵員不足により、台湾人の軍事協力は必須となった。若者が、初めは志願兵として、後には徴兵制により徴用されるのに合わせ、台湾人が衆議院議員として国政に参加できる法改正が行われたのだ。台湾から徴用された兵士の中には、霧社事件で日本軍を手こずらせた山地原住民の部隊「高砂義勇隊」もおり、優れたゲリラ戦術をジャングルの広がる南方の戦場で展開した。
     戦時の15年ほどで急速に日本に同化した台湾島の人たちだったが、誰一人衆議院議員となることはなかった。日本は連合国に負け、台湾人は昨日までの敵国中華民国の国民に編入されることになった。祖国への復帰だったが、そのアイデンティティは新たな挑戦を受けることになる。
    6 min
  • 台湾島の話⑧内地延長主義と台湾議会設置請願 参考文献「台湾 四百年の歴史と展望」伊藤潔 著
    1915年、漢民族系台湾人による最後の武装抵抗だった「西来庵事件」が鎮圧された頃、世界では、辛亥革命、ロシア革命、アメリカのウィルソン大統領による民族自決の提唱、朝鮮の三・一運動など、民主化と反植民地主義の風が吹いていた。
     日本でも大正デモクラシーと呼ばれる民主主義・自由主義の運動が国民的に広がり、1918年には立憲政友会の原敬が初の本格政党内閣を成立させた。原は台湾の人事においても、武官総督を文官総督に代え、田健次郎を任命する。この原首相と田総督が台湾統治に対して採った方針は内地延長主義だった。台湾では「六三法」という時限立法により、日本本土の法律と異なる台湾総督の律令によって統治されていたが、新たな法律「法三号」により総督の律令制定権は制限され、台湾にも本土の法律が施行されることになった。だがそれは、台湾を日本へ完全に同化させようとすることでもあった。
     これに先んじて台湾では1914年に明治の元勲板垣退助を引き込んで、林献堂たちが台湾同化会を結成し、台湾人の日本への同化を訴えた。だが、日本人と同等の権利獲得を目指す主張が、反統治主義的だと総督府に危険視され、結成から1ヶ月で解散に追い込まれた。
     その後、林献堂は日本に渡り、東京で留学中の蔡培火らと「六三法」の撤廃を目指す啓発会を設立し、更にこの会を発展的に解消して、林呈禄らと新民会を設立した。この間、献堂たちは「六三法」撤廃と日本人への同化を求める立場から、内地延長主義を植民地主義だと批判する立場に変化、台湾の独自性を訴えて自治権獲得を目指す台湾議会設置請願運動を開始し、機関誌である「台湾青年」で主張を展開していった。この運動は日本の学者や政治家からも多くの支援を得たが、台湾では政治活動が許されなかったため、蔣渭水らが台湾文化協会を設立し、文化振興を建前とした活動を広めていった。
     台湾内で結社を禁じられた台湾議会期成同盟会だが、東京では内務大臣の認可を得、議会設置の請願を行うことができた。その会員が台湾に戻った時、事件が起こる。東京で活動した会の会員が、先に台湾で禁止した会の会員と同一であったため、治安警察法違反容疑で18名が拘留、起訴された。裁判では貴族院議員の渡辺暢や衆議院議員の清瀬一郎が弁護人となり、一審では全員無罪となったが、二審と三審で有罪判決を受け13名が入獄した。
     やがて世界的な社会主義の伸長が台湾にも影響し、運動は左右に分裂、日中戦争の開始と共に終息した。だが、一連の政治運動は、台湾人の心に政治的近代化と台湾人アイデンティティをもたらした。その歴史的意義は、この後この島に訪れる悲劇によって顕現することになる。
    6 min

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