ノーベル賞作家である川端康成の代表作「伊豆の踊子」に、「うなづいたのは誰か」という問題があります。物語の終盤で学生の「私」が船に乗って踊子と別れる場面で起きる問題です。
作品には、【踊子はやはり唇をきつと閉じたまま一方を見つめてゐた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返つた時、さようならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。】と書かれていますが、「うなづいて見せた」の主語は誰かという質問が、読者から川端の元へたびたび寄せられたそうです。川端は、これより前の箇所で踊子がうなづいているのだから、「もう一ぺん」と書いている以上、ここでうなづいたのは踊子に決まっているではないかと考えていました。ところが、一人の読者として読み返した時、後の一文が「私」で始まるため、「さようならを言おうとした」のも「うなづいて見せた」のも「私」とするのが、無理なことではないと考えを改めたのです。
行間を読めば、主語は踊子であり、「私」ではないと言えるかもしれませんが、「さようならを言おうとした」の前に「踊子は」という主語がないため、誤読が生まれやすくなっているのです。しかし川端は、改訂版でもここに主語を補うことができませんでした。なぜなら、補ってしまうと今度は、「物語の語り手は何者」という問題が発生してしまうからです。語り手はもちろん主人公の「私」なのですが、その「私」の、踊子にしか分かるはずのない「さようならを言おうとした」という心情を語れてしまう奇妙さが、露呈してしまうのです。
小三国語教科書にある斎藤隆介作の「モチモチの木」は、夜を怖がる少年が、病気で倒れた祖父のために、夜道をかけて医者を呼んで来るという物語です。勇気と成長のお話しですが、語りかける様なその文体の主、語り手が誰なのかという点で複数の解釈が可能になる作品でもあります。聞き手に語りかける様な文体は、主人公豆太の視点に寄り添っていますが、主語としての豆太を三人称と捉えて読む他に、自分のことを「豆太」と呼ぶ少年の一人称として読むこともできるのです。
あらかじめ配役を決めてこの作品を音読してみるとよく分かります。三人の登場人物、豆太、じさま、医者様と、地の文の語り手を別々の人に読ませる場合と、語り手を豆太と同じ子供の声で読ませる場合とでは、作品の印象と内容理解が、変わってくるはずです。
作品の現実は、読者の読みによって変化するということになるようです。