考える塾 in TAIPEI

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考える塾 in TAIPEI episodes

  • 物語を読む⑦ 中1国語「少年の日の思い出」
    文芸批評は、「不透明な批評」と「透明な批評」に分類されます。「不透明な批評」というのは、対象とする作品を言語的な構築物として捉え、その形式上の仕組みを作品の外側から分析する方法です。対して「透明な批評」は、作品世界と読者の世界との間の仕切りを取って、作品の中に入り込んで論じるような方法です。前者は、作品に描かれた客観的事実だけが批評の対象ですが、後者では作品に描かれていないこと、例えば「桃太郎の黍団子が不味かったら、犬と猿と雉は鬼退治を手伝ってくれたか?」といった問題設定を立てたりします。
     「透明な批評」は作品からの逸脱として嫌われる面もありますが、自由な想像は物語を読む楽しみの一つでもあります。また、「もしも私が主人公なら」という仮定は、道徳の時間や読書感想文には欠かせない常套句です。
     中一国語教科書には、ノーベル賞作家ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」という小説が、60年以上もの間、掲載され続けています。日本では有名なのに、本国ドイツではほとんど知られていないという少し変わった作品です。
    物語は、「私」の家に訪れた客の「僕」が、「私」の蝶の標本を見て、蝶の採集に夢中だった少年の日に犯した出来事を語るというものです。少年の日の「僕」は、エーミールという子が持つ珍しい蛾の標本を盗んだ上に傷つけてしまいます。エーミールに謝りに行くのですが、軽蔑の目で冷たくあしらわれた「僕」は、「一度起きたことは、もう償いのできないものだ」と悟り、自分の集めた蝶を全て押しつぶすのでした。
     この作品について、もし自分が「僕」だったらという感想を述べ合い、「僕」の心情やエーミールの言動について、互いに共感したり、反発したりしながら、道徳的な議論をすることには、もちろん意義があります。「透明な批評」。
     しかし、今一度「不透明な批評」に戻り、作品の客観的な構成に目を向けてみます。この物語は一見、「僕」が「私」に語った話という構造に見えます。でも、実際にこの物語を読者に語っているのは「私」です。そして、その読者の中には「僕」も含まれ得るのです。苦い少年の日の思い出を第三者である「私」に語り直されることで、その暗い思い出は客観化・相対化され、僕の中の怒りや屈辱や罪悪感が、ようやく氷解していくのです。「僕」と一体となった読者が「僕」の立場に立ってその気持ちを理解しようとする主観的な「透明な批評」の存在が、「僕」の立場を公平に批評できる客観的な構成の中で、それを保証しています。
    5 min
  • 物語を読む⑥小6国語「やまなし」
    「クラムボンはわらったよ。」
    「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
     かつて書物は声に出して読むものであり、物語とは文字通り「物」を「語る」ことでした。それが近代になり短時間で学習・情報収集するための読書が一般化したことで、読書はふつう黙読で行うものになりました。ところで、声に出して読むことを音読、または朗読と言います。音読は文字を音声に変換することだとして、朗読とは何でしょう。
     『花もて語れ』という漫画があります。片山ユキオ・作、東百道・原案、テーマは朗読です。社会人一年目の女性が、ひょんなことから朗読の才能を見出され、その魅力に目覚めていくという異色ストーリーの第一巻で、主人公はある引きこもりの女性のために朗読することになります。その際に読まれた作品が、小六国語教科書にも掲載されている宮沢賢治の「やまなし」です。
     『やまなし』は、谷川の底の蟹の兄弟が目にした生き物たちの世界を描いた作品です。宮沢賢治には、一読した後に読者が、「で、だから何・・・」と言いたくなる作品がよくあります。起承転結のはっきりした他の作家の児童文学に比べ、主題のよく分からない、不思議な物語が多いのです。「やまなし」も、作者の意図した主題が捉えにくい作品で、「かぷかぷ」わらう「クラムボン」なる正体不明の存在が登場し、わらったり、殺されたりします。
     この捉えどころのない作品が、「花もて語れ」の主人公によって朗読される時、物語とは朗読されなければならないものであることが、痛切に理解されます。主人公は、『やまなし』冒頭の「クラムボンはわらったよ。」というセリフを蟹兄弟の兄、「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」を弟の声音で読みます。更に、1cm大の彼らの視点で地の文を読み、水深30cmの川底を、人間なら30mに見える深い水中世界として再現します。そして、その「読み」の根拠を問われると適格に回答し、「クラムボン」とは何かにも答えを出します。 
     「一行たりとも意味が分からなければ朗読はできない。」この漫画はそう伝えます。それは、正しい朗読ができるようになった時には、既に本文の読解は達成されているということを意味します。もちろん、解釈は一つではありません。ですから正しい読解とは、作品を譜面としてその物語世界を再現する、無限の数の優れた朗読のことだと言えるのかもしれません。
    5 min
  • 物語を読む⑤小5国語「大造じいさんとガン」
    人間の発言には、叙述的な発言と、行為遂行的な発言があります。「教室に机がある」というのは、一つの事実の叙述ですが、「教室の机、整理しといて!」というのは、誰かに命じたり頼んだりする一つの行為です。叙述はその内容について真偽を確定できますが、行為には真も偽もありません。私たちが日常的に行う発言の大部分は後者です。そして後者には必ず、その発言を行為として成立させる存在である他者がいます。
     動物の出る物語には、おとぎ話やファンタジーなど人間と同様に考えたり話したりするキャラクターが登場する話と、人間の目で観察した動物の姿を描く現実的な話がありますが、「ごんぎつね」など前者は、叙述文としては完全に「偽」だと言えるでしょう。一方、「シートン動物記」など後者は、「真」であることが前提になっています。
     椋鳩十の書いた「大造じいさんとガン」は後者のタイプの物語ですが、真偽を問うと「偽」であろうと思われる部分が幾つかあります。一人の狩人と、渡り鳥のガンの頭領との知恵比べを描くこの物語は、その設定において誤りが指摘されています。まず、舞台となる鹿児島県の栗野岳にはガン亜科の群れが渡ってきた記録はなく、渡ってきていたのはカモ亜科でした。大造じいさんの相手はガンではなくカモだったようです。また、大造じいさんが捕まえたガンが彼になつき、その肩先にとまるようになったという描写がありますが、ガンもカモも人の肩を掴めるような脚は持っていません。
    文体の面でもおかしな所があります。物語は筆者に語った大造じいさんの視点で進行していますが、じいさんの仕掛けた囮のガンがハヤブサに襲われた時は、「残雪の目には、人間もハヤブサもありませんでした。ただ、救わねばならないなかまのすがたがあるだけでした。」と述べられ、分かるはずのないガンのリーダー残雪の心情描写になっています。これは「偽」でしょうか。
     「おーい。ガンの英雄よ。おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやりかたでやっつけたかあないぞ。」ハヤブサとの戦闘で傷ついた体の回復を待って、春の朝、大造じいさんは残雪を空に放してやります。戦いを通して既に残雪は大造じいさんの他者となっていましたが、この語りかけによってその他者性は確固としたものになります。それを踏まえて、筆者、読者という他者に語られる物語の全体も、一つの行為遂行文と解釈すれば、真も偽もありません。
    5 min
  • 物語を読む④小4国語「ごんぎつね」
    「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。」ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。兵十は、火縄銃をばたりと、とり落としました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
     小4国語教科書に掲載されている「ごんぎつね」は、宮沢賢治と並び称される童話作家の新見南吉が18歳の時に書いた、日本を代表する国民的童話です。物語は南吉が幼少の頃に聞かされた口伝をもとに創作したものですが、児童雑誌「赤い鳥」に掲載される際に発行人の鈴木三重吉の添削を受けており、前述の現在教科書で読まれている結末もこの添削バージョンです。
     この物語の教科書への採用率は、1970年代以前は3割程度でしたが、70年代に7割、80年代以降は全ての教科書に掲載される国民教材となりました。70年代までの読解指導は、研究者の主題解釈をかみ砕いて生徒に伝達する古典読解型のものでしたが、パターン化した読解指導が子どもの国語嫌いを招いたという反省により、80年代以降は、読者の「読み」の多様性を尊重する受容理論型の指導が行われるようになっていきます。「ごんぎつね」の解釈も、光村図書の教師用指導書は、ゴンと兵十がゴンの「死をもって通じ合えたこと」を強調しているのに対し、東京書籍のそれは、「死を通してしか理解しあうことができなかった悲しさ」を強調するというように、教科書会社によって違いを見せています。
     果たして「ごんぎつね」は、最後には理解しあうことができたハッピーエンドの物語なのでしょうか。それとも死によってしか気持ちを理解されることのなかった悲劇なのでしょうか。それはまさに読み手の自由な「読み」に帰することなのでしょう。この物語を読んだ生徒の中には、ゴンよりも、ゴンにウナギを奪われて母を死なせてしまった上、ゴンの余計な贖罪行為でいわし屋から盗人扱いされひどい目に遭った兵十に同情し、「ゴンは撃たれて当然だった」という感じ方を持つ子もいます。それもまた真実の一つかもしれません。何が真実と信じるか、何を真実として選び取るかは、読者の自由なわけです。
     ところで、18歳の新見南吉が書いた原稿の結末は、鈴木三重吉の添削バージョンと一部異なり、兵十の視点からゴンの視点に語りが移っていました。
    「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。」ごんは、ぐったりなったまま、うれしくなりました。
    5 min

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