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2000年から書き続けているプログ記事(一部は2009年から始めたFacebookの記事)、あるいは、拙著『書物の時間』(1989年)、『『努力する人間になってはいけない』(2013年)、『シラバス論』(2019年)の一部をGoogleの「音声概要」による解説会話で再編したもの。会話音声上、一部、漢字などが正しく読めていない場合がありますが、お許しください。元記事の再現力は90%くらい。漢... more
FAQs about 『芦田の毎日』:How many episodes does 『芦田の毎日』 have?The podcast currently has 280 episodes available.
June 11, 2025私立中学受験に反対する著者の「私立中学受験に私は反対する」からの抜粋は、私立中学校への進学に対する著者の強い反対意見を提示しています。著者は、多様な人間関係や社会経験を公立中学校で積むことの重要性を強調し、私立学校での教育は子どもを隔離し、大人になってからの社会性を阻害すると主張しています。また、学歴社会における試験制度、特に○×試験が民主的な選抜方法であったことを論じ、親の社会的地位や家庭環境を問う私立学校の選抜方法を批判しています。最終的に、真の「品格(Nobility)」は学歴や階級とは無関係であり、親が世間や社会的な「評判」に囚われずに子どもを信じ、愛することこそが重要であると結んでいます。...more8minPlay
June 11, 2025私立中学受験と家族のnobilityこの文章は、筆者の妻が電車で耳にした会話について綴られています。ある母親が、第一志望に落ちた息子が第二志望の私立高校に合格し、入学金を払ってきたことについて知人に話していました。母親は、都立高校への進学は避けられたことに安堵する一方、息子の第一志望不合格を悔やみ、周囲に同意を求めている様子でした。その会話を聞いていたらしい一人の男子生徒が、母親の息子への無理解を激しく非難し、怒りをぶつけました。筆者は、この出来事を通して、東京の私立受験家庭において、親子の間に深い距離があり、子どもたちが苦しんでいる現状を描写し、母親たちの無関心を批判しています。...more6minPlay
June 11, 2025フンボルト理念における〈教育〉と〈研究〉この学術的な文章は、大学における教育と研究の関係について論じています。特に、セネカの「教えることによって学ぶ」という言葉と、フンボルトの大学理念を中心に考察を展開しています。著者は、安易な啓蒙主義や学生のレベルに合わせた教育を批判し、専門性の探求と研究が教育の根幹であると主張しています。また、フンボルト理念が研究と教育の分離を意図したものではないことを強調しつつ、その理念の歴史的な変遷や解釈についても疑問を投げかけています。最終的に、フンボルトの大学構想は自己修養(陶冶)の機関としての側面も持ち合わせており、これは当時の文化主義的な思潮とも関連付けられています。...more7minPlay
June 11, 2025阿久悠「ざんげの値打ちもない」の世界追悼記事は、作詞家である阿久悠氏の死を悼み、彼の代表作である**「ざんげの値打ちもない」について語っています。著者は、この曲が高度経済成長期において無反省に幼児化していた社会に対する強烈なカウンターパンチであったと考えています。歌詞の圧倒的で斬新な表現や、北原ミレイによる歌唱、そして「あれは」や「そこのところ」といった日常的な言葉を歌詞に取り入れた阿久悠氏の革新性**を高く評価しています。...more7minPlay
June 10, 2025〈人生〉を語ってはいけない筆者は、闘病中の妻、成長した息子、そして自身の変化した生活について語っています。彼は、妻の病状の変動や、家事、特に料理への自身の適応を詳細に記述しており、これらを日常の**「変化」として捉えています。筆者はまた、父の死に対する記憶の曖昧さや、家族の関係性が単なる思い出や変化に左右されない本質的なつながりに基づいているという自身の哲学を展開しています。そして、人生を一定の終着点へ向かう線形なものと見なし、「そろそろ」といった言葉で他人の生き方を判断する人々への批判を述べ、人間の終わりや「人生」**は、表面的な変化や年齢とは無関係なところで常に生じていると主張しています。...more7minPlay
June 10, 2025学歴・超高層・ポストモダンこの文章は、学歴社会と超高層建築を近代社会の二つの柱として捉え、それらがどのように伝統的な身分や階級、そして生活から人々を解放し、自由と主体性を生み出してきたかを論じています。学歴社会は試験によって個人の能力を評価することで出身を相対化し、超高層建築は一つの建物内に多様な機能を集約することで生活による階級の露呈を防ぎます。筆者は、これらが近代の特性であり、その終焉、つまりポストモダンの到来を考察しています。...more7minPlay
June 10, 2025デリダのフッサール理解について — 表現と意味(1982年)芦田宏直氏の論文(「デリダのフッサール理解について」1986年))の抜粋は、ジャック・デリダによるエドムント・フッサールの現象学の解釈に焦点を当てています。特に、デリダが問題視する**「意味の還元」や、フッサールが「指標」と「表現」を区別する動機を詳細に論じています。デリダは、フッサールが独話や内面的言語の事例を通して「自己への現前」という概念を特権化しようとしたと見なしており、その際に現れる「意味」と「時間」の関係や「意義作用の自立性」について深く掘り下げています。最終的に、デリダはフッサールの中に「現前性の形而上学」**を見出し、その脱構築を試みている様子が描かれています。...more8minPlay
June 10, 2025〈序文〉とは何か — 『書物の時間』(1982年)この哲学的な序文は、「哲学とは何か?」という問い自体が抱える困難を探求します。著者は、この問いに対する答えが特定の哲学や個人の主観に還元されてしまう可能性や、「誰もが知っている」参照が無意味であることを指摘します。また、哲学の**「入門」書が、実際には入門以前の哲学を求めるという逆説を論じ、本文と序文の関係を通して、書物の形式と内容の分離の難しさを考察します。最終的に、この問いは凡庸さを受け入れつつも、形式化の困難**に直面することを論じ、序文が本文全体を語りながらも空虚であるという独自の役割を提示します。...more7minPlay
June 10, 2025学生は〈顧客〉ではないこの文書は、学校教育における生徒を顧客とみなす考え方を否定し、その目的について論じています。筆者は、学校教育の役割はまだ学ぶ主体が完成していない子どもたちの「学ぶ主体」を形成することであり、これは経済的な豊かさによるものではないと主張しています。さらに、**学歴社会(メリトクラシー)**が、家庭環境によらず個人の能力によって新たな階層を形成するリセット装置としての役割を持っていたことを説明しています。また、**中曽根臨教審における「学校派と生涯派の論争」**に触れ、生涯学習論が学校教育の否定や、学ぶ主体の前提となる家族・地域・社会的ニーズ論(キャリア教育)であると分析しています。最後に、学校教育の対象は、まだ自律的に目的を持てない若者であり、学校教育を通じて目標を見出すため、学びの主体はまだ存在しないと結論付けています。...more6minPlay
June 10, 2025病院は面白いこの記事は、病院を「人間の博物館」と捉えるユニークな視点を示しています。病院は老若男女、貧富の差などあらゆる人が集まる場所であり、そこでは生死という必然性の前で人間は平等になるため、世俗的な差異を超えた多様な人間模様が見られると述べています。著者は、死という強制力が病院に多様な人々を引き寄せる最大の理由であるとし、人間の多様性を知るには病院を訪れるのが最も良い方法だと主張しています。また、個人的な経験を通して、**病院での待ち時間を通じてパートナーに寄り添う自身の姿もまた一種の「博物館」**であるとユーモラスに語っています。...more6minPlay
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