“生きてる実感”が抜けてると、その意味や意図がわからなくなり、しんどい訳です。もっと言えば、“完璧”だからこそ、“終了”したい訳です。
たとえ認知症で、記憶力低下や幼児退化してても、“生き甲斐”を感じてる間は、終活するのも楽しい訳で、霊山へ行くまでにやっておきたい事を、片付けながら日々を過ごす事ができる訳ですが、その目標やときめきがなくなると、途端に無機質なモノになり、精神的にしんどくなるのです。この状態こそ“完璧”の本意であり、何もしなくても自動的に、自分がいなくてもいい状態だと感じた時点で、やる気も根気も失せるのです…こうなると、自分自身の“生きる価値”を勝手に見切ってしまう訳で、あとは“どう消えるか”しか、頭に浮かんでこなくなるのです。こうなると、もう人に話は“聞こえてない”し、目の前にいるカウンセラーや精神医の姿も“目に映ってない”ので、無駄です。
そういう人に、ある日突然、激戦地の最前線に放り出されたら、手元に転がってる武器を手にすると思います?目の前で起きる惨劇に対し、恐怖を感じられるならワンチャン、自我を取り戻せるかもしれませんが、最初っからそれを感じないなら、喜びながら散るでしょうね…心と体がバラついて矛盾抱えてたのが、あっさりと答えにたどり着けるから。
宗教の修行の中に、命懸けな荒業があるのも、ある意味では擬似的に臨終体験をさせる目的があって、その最中の事故で不幸に遭われるケースがあっても、世間からそれ故の批判があっても、現在進行形で続いてるのは、“必要な体験”とされてるからです。つまり、●生観を常に持たせるには、自分もまた、次の瞬間にはどうなるかわからないという危機感を、リアルで体感させる意図があるからです。