ビジネス系メディアの記事なんかだと特に、文字数は削った方がよいとされる。
同じことが伝わるなそりゃ時間とられない方がいい。それはそう。
できているかは置いておいて、仕事では自分も基本的にはそれを意識している。
(「仕事では」というのはもちろん予防線で、ここの文章に突っ込まれないためのもの)
ここからは自分の認知特性に寄った主観成分が多めになるが、
一定以上の確かな文章力のある人は別として、基本短く書いた方がわかりやすい。
上では記事について言ったけれど、メールやチャットなどのテキストコミュニケーションでも基本は同じ。
で、こっちはもっと細切れにした方がいい気がする。
読点・句点でで繋いでいく文章はちゃんと書かれていないと結構文意が取りにくいことが多い。
あと情報の構造理解がしにくい。
構造理解とかいって、そんな大層なものではなく、「お願いや質問がいくつあって、ポイントはどこで、自分は何をすればいいのか」がひと目で分かるとかそういうやつ。
なるべく句点で改行するし、箇条書きにできるところは積極的にする。
文章力に自信がないから、「情報を並べる」方が伝わるだろうなって。
あと、箇条書きにするとその中では敬語から解放される。と、勝手に思っている。
村上龍も『五分後の世界』で「敬語は責任の所在を曖昧にする,伝達スピードを遅くさせる」と言っている。
や、別に敬語アンチとかではない。キレイに操れると気持ちいいし。
箇条書きはとてもいいと思うんだけどな。
それこそ自分の頭の中の整理にもなるし。
と、これがメインの話ではなくて。
短いほうが基本いいっていったって、削れば削るほど何かが落ちていくんじゃないのって気持ちはずっとある。
特に記事とかで「〜することができるようになる」は「〜できるようになる」にするけど、ちょっとだけニュアンス違うよね。とか、それは細かすぎるけど、インタビューとかでもう少し湿度入れたいなあとかは思うことはままある。
たぶんそこで考えているのは力不足だからで、うまい人は削っても適度な湿度を残せる。
で、ここまできて、「削っていく」というより「押し込める」感じで短く書くと、信じられない情報量が込められることがある。
冗長な文章など遥かに超えて、原稿用紙1枚で何年も考えられるくらいの。
もちろん、発し手と受け手でコンテクストが共有されていたり、受け手の側に特殊な解凍手段があってこそというケースもあるけれど。(解凍は誤字ではなく、言葉のコミュニケーションをエンコードとデコードで考えるとわかりやすいと自分は思っている)
詩歌はその域だと思うし、オードリー・タンと落合陽一が会話するとポエム合戦みたいになるのもそんな感じなんじゃないかと思ったりもする。知らんけど。
その対談はどうでもいいとして、しばりがあると創造性が発揮されるというのはこれまで無限に感じてきたし、実体験としてもある。だからといって自分で自分に負荷をかけようとまでは行かないのが限界点。たいへんなの嫌だし。
ともあれ、畳み込まれた情報の存在に気がつくと震える。
200文字のお便りでそんなことを思いました。