罪深い「デミウルゴス」が傲慢な造物主「ヤルダバオート」へ。その逆立した世界の構築。原始キリスト教が胎動しつつあったヘレニズム期の地中海世界で、グノーシス主義者たちを「グノーシスらせた」動機は何だったのでしょう。当夜にもあるように、まず与件としてあったのは古代ギリシアにおけるポリス的な「二元的正邪」の判断基準だったのでしょうね。「グノーシスさん」たちはそれをまるっと括弧に入れたうえで、《すべての認識(グノーシス)を全稼働させて、原初の「知」の言い換えをしなければならない、その別様の語り方を獲得しなければならない、全編集してみたい、そう考えた》。これは華厳宗第三祖の法蔵が華厳の一乗思想を確立するにあたって、それまでの「声聞・縁覚・菩薩」の三乗と接続するために、「一乗の一はその中に『一、一』があり、片方の一は三乗に同ずる一で、他方の一は三乗に別する一を形成する」と編集をかけたことにも似た、ラディカルな超絶編集です。法蔵さんは1700夜『華厳の思想』や『空海の夢』(松岡正剛/春秋社)などなどにあれこれ登場します。
ちなみに、仏教思想上の方法に関して言うと、既存の思想のいずれをも「排除(デリート)」せず、多重微妙なブラウザーによって選択(せんじゃく)していったのが藤末鎌初の法然でした。《法然が『選択本願念仏集』のなかでおこなっているのは、一方を選び、他方を捨てるという「選択」ではありません。すでにのべたように、さまざまな価値を導き出すための仏教的な方法を少しずつ多重に選び取りながら重ね合わせてこれを絞り、その絞った視点をもって他の価値観を読み替え、そこに思い切った断章取義を加えながらぐいぐいと前に進んでいくという「選択」なのです》(『法然の編集力』松岡正剛/NHK出版 より)。いやはや、この方法にこそあやかってみたいものです。